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香桑の近況

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**残酷さについて**

2020.03.11

つけびの村:噂が5人を殺したのか?

高橋ユキ 2019 晶文社

この事件のことは記憶にあった。
2013年7月、山口県の山村で起きた殺人事件。
職場の昼休みに、1938年の津山事件と比較したことを憶えている。
だから、noteに書かれたルポルタージュを読んだとき、あの事件のことか!とすぐに思い出すことができた。
と同時に、部分的に読んだ文章に胸が痛くなる思いがしたのだ。
被害妄想や幻聴ではなく、噂は実際にあった、という事実に。

Twitterで知り、noteで部分的に読んだ記事から興味を持った本を、ようやく読み上げることができた。
ぐいぐいと引き寄せられる前半。犯行をおこした加害者の成育歴とその村に戻ってからの不幸な境遇、その加害者を取り巻く村のある種の不気味さ。
私がかすかに記憶していた事件の真相を追う思いで、するすると読み進めた。
この方の文章は、とても読みやすく、頭に入りやすい。

だが、実際に著者が加害者に面会した様子や加害者の文章や字そのものを見ると、自分自身の持つ精神科医療の知識から類推が働き、気が重くなってしまった。
私自身が会ったことがない人のあれこれを判じるわけにはいかないし、診断は医師の仕事であって私の仕事ではないが、想像はする。推測はする。
加害者の持つ病理の部分が適切に理解されている感じがしない点で、司法に対する不信感と絶望感がちくちくと刺激された。
この本は小説ではないから、著者は加害者の救世主になるわけではないから、最後に爽快などんでん返しが待っているわけではないことがつらい。

加害者を追いつめたものは、事実としてそこにあった噂話であり、地域のコミュニティそのものであった。
一つの殺人事件のルポであると同時に、日本の山村の昭和史である。
山奥の村が、いかに栄え、そして、限界集落と転じていったか。
それは、山村ばかりでなく、地方都市の衰退も示す。
これは地方の物語である。
日本のどこにでもある、シャッターが増えた、子どもが減った、地方の物語。
どこにでもありうる、どこででも起きうる、普遍性をはらんだ悲劇である。

だが、本当に地方だけに残る古臭い人々の話だろうか?
都市部に住んでいる人間として、彼らの噂話に眉をひそめる振る舞いは、いささか反省に欠ける気がした。
なぜなら、私は、こんな風に噂話にふけり、悪口を楽しむ人たちをよく知っている。
それは、毎日のようにTwitterや、LINEや、Facebookといったデジタルな世界で繰り広げられていることではないか。
まことしやかに語られる噂話と現実の区別がつかずに、他者を誹謗中傷したり、脅迫したりして、事件と化した話を聞かないだろうか?
なにかことが起きたとき、この人物には私刑を与えてよいとばかりに人々が群がって個人情報をさらし、自宅や職場とおぼしき場所に悪意ある手紙を送り、電話をし、嫌がらせをすることがある。
そういった「炎上」に与する人は、その人物が本人であるのか、電話や住所は正しいのか、実際に社会的制裁に値するようなことをしたのか、社会的制裁を与える権限が自分にあるのか、冷静で現実的な思考は働いていないように見受ける。
彼らは、匿名の正義者という安全地帯から、抵抗のできない他者を一方的に迫害する行為を、娯楽として楽しむ。ストレス発散だという人すらいる。
平然と悪口を言う。今でもこの国に根強く栄えている風習ではないだろうか。
その結果がどうなるか。どれほど、人を傷つけて追いつめるか。傷つけられた人が窮鼠となり猫を噛むこともある。
この結果を教訓にするぐらいの知性を持っていてほしいと思う。

この本の中で被害者の遺族である年配の男性が出てくる。
つっけんどんで気難しくて意固地な感じの男性で、憎まれ口が多そうというか、あまり仲良くなりたくないというか、最初の印象がいいものではないのだが、著者が何度も尋ねるうちに、その人の寂しさがしんみりと伝わってくる気がした。
コミュニティのなかにいるはずの人が、でもその人がいないところでは悪口や噂話が立てられる。身体を悪くしても誰の世話にもならず、自分のことは自分で世話をしているものの、加齢に伴い、おぼつかなくなっていくあれこれ。
孤立した孤独な生活のなかで、著者に対して、わずかばかりの親しみのようなもの、不器用な好意や厚意のようなものを感じた。
田舎の、今はもう亡き親戚の、悪い人ではないけれども憎まれ口ばかりで優しさが伝わりにくいおじさんと重なった。
その方の死が、なんとも切なかった。

2019.06.20

アスペルガー医師とナチス:発達障害の一つの起源

エディス・シェファ― 山田美明(訳) 2019年6月20日刊行 光文社

「アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物であり、彼が暮らしていた世界が生み出したものだった」。(p.10)

アスペルガー障害に名を残す人物について、私はまったく無知だった。
この本は「社会的・政治的力が医学的診断にどれほどの影響を与えるのか、それに気づき、それと闘うのがいかに難しいかを明らかにし、神経多様性を推進していくための教訓とすること」(pp.10-11)に目的を置いている。
「アスペルガーの暮らす社会では、民族共同体に参加するためには、適切な人種であり、適切な生理を持っている必要があった。だがそれ以外に、共同体意識も必要だった。その共同体と、考え方や行動が一致しなければならない。ドイツ民族の発展は、一人ひとりがそう思えるかどうかにかかっている。こうした社会的一体感を目指したからこそ、ナチスのイデオロギーにおいてはファシズムが重要だった」(pp.14-15)。民族共同体に適さないと診断されれば、「生きるに値しない命」として殺害される。
そしてだからこそ、自閉症の診断基準に社会性が挙げられるのだ。第三帝国の児童の殺害はプログラムの規模が小さく、5000人から1万程度だったとされるのだそうだ。

私はぞっとした。

発達障害の概念は新しく、だからこそ、研究がとても盛んなトピックのひとつである。身体的なマーカーの探索や、薬物療法についてなど、多方面からの研究が進むと同時に、実際に困っている人の相談も増加している。
それは、注目されるトピックだから発達障害に目が向きやすく、相談が増えているだけではないのではないか。
集団に同調させる圧力が強まっていること、同時に、十分に適応できないと感じる人が増えていることに、起因するのではないか。
集団に適さない者は切り捨てる風潮が強まれば、論調は自ずと100年前をくりかえす。
20世紀初頭のウィーンの状況が、現代日本に重なって見えてくるところが恐ろしい。

本書には、この時期のウィーンの精神医学、児童精神医学の様子が紹介され、名だたる治療者たちが次々に登場する。
すべてはここから始まった。そういう時代を知る一助にもなる。
カナーとアスペルガー、アメリカとウィーンのそれぞれで、社会的な引きこもりを示す子どもたちの状態を「自閉的」であると表現するようになり、それが子どもたちへの支援に必要な理解のためではなく、診断として疾患として成立していく経過についてもよくわかった。
単なる状態象であり、特徴の一つであったものを、社会にとって有害なものとして意味づけしたのは、ナチスの価値観に他ならなかったことも。
その時代の医学が依拠していた消極的優生学と積極的優生学についても、だ。それがどれほどのジェノサイドをもたらしたのか。

ナチスの心理療法は、「個人の精神衛生を体制の価値観に順応させることを目的に、これまでの精神分析のように過去を探求するのではなく、現在の問題に目を向けるよう患者を指導した」(p.96)が特徴だという。
教育も、医療も、子どもを、人を、国家に適した存在にすることを目的としていた。
「自分は病気なのではなく、そういう性格なのだという自信」(p.109)をつけさせるアプローチから、「人格を強制するための環境を提供」(p.109)し「子どもを変革する」ことに方向転換していた。
心理職に従事する者として、ここにもまた、自戒の念を感じずにいられない。

国家に管理を任せてはならない。
その大きな理由がここにある。

個別な人々の問題を政府が管理するようになる。
たとえば、第三帝国になる前のウィーン政府は、「子どもや家庭のあるべき姿を決める権限を徐々に高めていった。不適切な部分があると見なされれば、子どもは家族から引き離され、里親のもとへ預けられた利、児童養護施設に入れられたり、収監されたした」(p.32)という。
1939年のナチス支配下においては、3歳未満の幼児を殺すごとに、医師や看護師に手当てやボーナスが支払われていた。
幼児だけではなく、成人もまた、殺害されるようになっていく。

幼児の殺害プログラムを行っていた施設の「スタッフは、子どものいる世話から解放されたいという両親の思いに合わせ、死んでよかったのだとはっきり口にしている」(p.130)ことは、最近あった事件のあれこれを思い出さされる。
「だが児童安楽死プログラムの真の目的は、両親の生活を楽にすることではなく、望ましくない市民を第三帝国から排除することにあった」(p.130)。
殺すだけではなく、致命的な人体実験も多く行われていた。
どんな子どもたちがどんな目にあったのか。複数の事例が紹介されている第7章や第8章は胸が痛くてたまらなくなった。生き延びた人々のエピソードが紹介されているのは、第10章になる。

現代の神経発達障害についての様々な言説は、ともすれば「社会に同化できそうな子どもと同化できそうにない子どもを区別したアスペルガーの考え方と変わらない」(p.330)。

私は、このたまらなくぞっとした感覚を忘れずにいたいと思う。
私も人、人も人、同じ人であることを忘れずにいたい。性別や年齢が違えど、どんな疾病や障害があろうと、国籍や言語、宗教や思想が多様であれど、そこにいるのは人であることを忘れずにいたい。私は私、人は人、自他は別人である。同時に、私も人も人である。
そして、私の心は、魂は自由であることを、大事にしたいと思う。

#アスペルガー博士とナチス #NetGalleyJP

 

 

2018.01.22

サイコパス解剖学

春日武彦・平山夢明 2017 洋泉社

精神科医として、サイコパスのはっきりとした定義がないことを、春日氏は語る。
定義がないものを、平山氏が、こういうのはどうか、こういうことはどう考えたらいいかと、これでもかーこれでもかーと俎上の上に出してくる。
それってサイコパスかな?違うと思うなぁ。あ、でも、それはありか。と、サイコパスっぽいものを思い浮かべながら、この二人の言うサイコパスというものを捉えるのが第一章だ。

対談で語り合う二人の感覚と、自分の感覚の摺り寄せに、ひどくもやもやした。
わかりやすいなと思った特徴は、「他人を便利な道具、あるいは使えない道具として見ている」(p.42)だ。
反省や後悔しないこと。他者をコントロールしたがること。なにかずれている感じ。
論理はあるのに倫理ではない、ずれ具合が気持ち悪さの源泉になるようだ。

そのずれている感じや突き抜けている感じへに、人は憧れを持ってしまうのではないかと、平山氏は指摘する。
「サイコパスは文学的フィクション、『普通の人たち』による妄想の産物という気がするけどね」(p.48)という春日氏の指摘は、かなり大事な気がする。
これは、レクター博士のような典型的と言われる純粋なサイコパスとしか言えないようなキャラクター(もしくはパーソナリティ)のことであるのだろうけども。
そういう誰かに、むしろコントロールされて安心するという人というのも、それはそれで、どっかおかしい。

現実に起きたいくつかの大量の、あるいは、残虐な殺人の加害者を例にあげながら対談が進むあたりは興味深かった。
が、長谷川博一氏『殺人者はいかに誕生したか』を読んだ私は、その中の幾人かについては、サイコパスだからというだけでは割り切れないじくじくした思いがした。
そうせざるをえないなにがしかがある人と、なにがしかがない人の違いがあるように思う。
そして、そのなにがしかがない人は、想像上の産物なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
少なくとも、だれにでもサイコパスの芽があるのではないかという考え方は、フロイト以来の伝統的な考え方ではないかと思った。
誰しも、心の中に病理を抱えている。

それでも、「普通の人たち」はサイコパスという言葉を必要とする。
その言葉でしか言い表せないものがあるという、利便性や有用性に基づく必要性もあると思う。
自分にとって不可解だったり不愉快だったりする相手をののしるための言葉を、差別だなんだと自粛した結果として、日本語では非難されるから非難されにくい表現を転用しているという意味で。
やつらと自分は違うんだ、と、彼我を分けて、安心するために。

2017.08.16

いじめのある世界に生きる君たちへ:いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉

中井久夫 2016 中央公論新社

いじめには「立場の入れ替え」がない。
いじめの進行過程は、「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階がある。

わかりやすい説明は精神科医の中井久夫さん、絵はいわさきちひろさん。
絵本のような外見で、心理や教育の専門家でなくとも読みやすく、わかりやすい一冊となっている。
小学校高学年でも読めるようにと配慮されているとのこと。

解説というと、上から目線のようだが、著者自身のいじめの体験をベースにしたフラットな目線、語り掛けるような言葉遣いは、そっと寄り添うようだ。
自分の心のなかに何が起きているのか、体験を整理することに役立つと思う。
また、誰にも言えずにきたこと、誰にもわかってもらえずにきたことを、ちゃんとわかってもらえると感じられるのではないかと思う。
いじめ被害者が自殺を選ぶ理由のみならず、加害者の過剰に残酷になるメカニズムもわかる。

裏返せば、いじめであり、権力掌握のためのHow Toになってしまうことを、著者は恐れながら書いている。
いじめる子どもが、そのいじめの仕方を大人から学んでいることも、鋭い指摘だ。
大人にとっても、家庭内や会社、地域、国家で同様の現象に遭遇している可能性は高い。
だから、二重の意味で、大人には読んでおいてほしい。
予防としても、対処としても、対応しならければならないのは大人のほうである。

なかなかこちらのブログを更新する余裕がないのだが、素晴らしくよい本だったので慌てて書いた。
夏休みも終盤に入り、そろそろ、二学期が近づいてくると感じ始めるころではないか。
宿題なんかできていなくてもいい。友達がいなくてもいい。ちゃんとしなくちゃと、自分を追い詰める子が少ないといいな。
どうしても学校に行きたくない子が、生きたくないに転じてしまうことを心配している。
生きていることから逃げ出してしまうぐらいなら、学校から逃げ出してしまっていいんだよ。
今は見えない気持ちでいっぱいかもしれないけれど、生き延びる道はいくらでもあるからね。

すべての子どもと、かつて子どもだった人が、安心で安全で過ごせるように、今日も祈りたい。

2017.07.22

桶川ストーカー殺人事件:遺言

清水 潔 2004 新潮文庫

ストーカー。

その言葉が人口に膾炙し、その被害の深刻さが知られるようになったのは、この事件が契機だったと思う。
この本を読むことで、面白おかしく描かれがちだったつきまとい被害が、どれだけ被害者と被害者の家族を苦しめるものであったか、わかる。
警察が怠慢をしたときにどんなことになってしまうかがわかる。マスコミが不誠実な報道をすると、被害者は二重三重の被害をさらに受けることになるかがわかる。
加害者には加害者の背景や理由があったのかもしれないが、主たる加害者は罰せられることも、捕まることもなく、自死していた。
記者がたどり着いたストーカーの張本人に警察はたどり着かなかったことは、警察が当初、この一件にとても誠実な対応をしたとはいえないことを示していた。
巻末には、被害者の父親の言葉も収められているから、本書に誇張がないことがわかる。裁判に至るまで、被害者が被害者として見なしてもらえないことには憤りやもどかしさを感じる。
強い強い怒りを感じて、読むことがつらくなったこともあった。

それでも、この本は読まなければならないと思った。
ずっと後回しにしていた。けれど、読まなくてはならない。
読まなければならない使命が、私にはある。
なぜならば、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったようなものだからだ。

どういう意味かというと、私個人の経験で申し訳ないが、ストーカー被害で警察に相談したことが、これまで2回ある。
2つの相談の間には年単位で時間が流れており、ストーカーは別の人物であるが、警察の対応はまったく違っていた。
最初は桶川以前であり、二回目は桶川以降、ストーカー防止法が成立以降であった。
さらに言えば、二回目は三鷹ストーカー殺人事件の直後であり、警察の対応はとてもとても手厚くてびっくりした。
最初の時は、説明するうちに、話を聞いてくださっていた警察の方が失笑する場面もあったのに。
2回目の問題がすみやかに解決したのは、ストーカー防止法に基づく警察の対応があったからであり、その法律が成立したのは先行する被害があったからだと思う。
だから、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったのだと思っている。

読み終えて、被害者の方に、助けてくださってありがとうございましたとつぶやいた。

2017.05.12

恋歌

朝井まかて 2013 恋歌 講談社

苛烈で凄惨。
歌は、その歌だけで味わうのもよいが、背景が加わることで更に輝きを増す。
それが命がけで詠まれたものであるなら尚更、背景を知ることが意味を知ることになる。
幕末の時代から明治を生きた歌人、中島歌子の生よりも、その時代の描写に圧倒された。

明治維新は江戸城の無血開城で成ったとはいうが、施政者がただ単に交代しただけではなかった。
なにも江戸城や京の都だけで起きた大事件ではなく、その時代に住む人の生活をあちらこちらで大きく変えるものだった。
たとえば、髙田郁『あい:永遠にあり』も江戸城の外で展開される幕末であったが、主人公のあいは中島歌子に比べればまだ穏やかな人生であった。
二人を決定的に分けるのは、あいが農民、歌子が商人の娘であったことよりも、夫が医師であるか武士であるか、それも水戸の武士であったかどうか、であるように思う。

登世という娘は、江戸の富裕な商人の娘として何不自由なく生まれ育った。
彼女が結婚した相手は水戸藩士。
当時、水戸の藩士は天狗党と諸生党に二分して政権争いをしていた。
その争いは、積年の恨みとなり、血で血を洗い、骨を相食むことになる。
戦闘の表舞台に登世があがることはないが、武士の妻女として投獄されて悲惨を味わう。
食べものを十分に与えられず、寒いなかに捨て置かれ、傷病の手当ては受けさせてもらえない。
身分の高い家の子どもともなれば、趨勢が決まった時に目の前で斬首されていく。
そんな悲惨を味わう。

これのどこが、アウシュビッツと異なるだろうか。
明治維新は、ほんのたった150年ほどの昔のことだ。。
当時は当時の教育があり、知性があり、理性はあっただろう。
しかし、人は残酷になれる。どこまでも冷酷になれる。野蛮にはきりがない。
日本人は礼儀正しいとか、武士は高潔だったとか、思いたがる人たちもいるけれど、例に漏れず、こんな野蛮な歴史をちゃんと抱えている。
この野蛮さは過去もあり、現在もある。現在だって、残念ながらしっかりとある。
尊皇攘夷を謳った人たちが維新後に先を競って欧米に倣おうとした皮肉と矛盾も、今も大差がない気がする。

この物語、導入と結びの仕掛けも素晴らしい。
一人の歌人の手記を通して、歌しか抱きしめることができなかった恋と、歌しか残すことができなかった人々が語られる。
そして、歌を命がけで詠むような時代ではなくなってしまった世界に、歌ではないものを残していく。
いとしい人は、どうして先に死んでしまったのか。
厳格に追求すれば騒乱が起きる元。相手が滅ぶまで追求しあう男達の対立を、人を愛すること、人を知ることで、ささやかに解決を図ったのは女達だった。
忘れられない愛しさだけが憎しみを超えて、復讐を恐れて手加減できなくなる愚かしさを、終わらせることができたのだ。
心のままに生きることの難しさ、共に死ぬことの難しさが切なかった。

2017.01.14

大津中2いじめ自殺:学校はなぜ目を背けたのか 

共同通信大阪社会部 2013 PHP新書

読めば読むほど、腹が立って仕方なかった。
はらわたが煮えくり返るというか。
怒髪天を突くというか。
自分の中で、怒りがぐわぁっとこみ上げてくる。
読書でここまで腹が立つことって滅多にない。

いじめを苦にして自殺する子どものニュースは毎年のように報道される。
その中で、この件が特に記憶に残っているのは、ネットでの過激な反応と攻撃性の発露による。
匿名性を隠れ蓑にした個人がいじめ加害者と目される人物とその家族や学校関係者の個人情報の暴露が行い、それが無関係の別人にも及んだ。
鵜呑みにしたのか便乗したのか、教育長まで傷害事件の被害にあう。
単なる傍観者に過ぎないはずの第三者が、積極的に迫害者へと転じていった現象は、私は忘れられない。

その顛末もであるが、そもそも学校で何が起き、どうしてこうなったのか。
もう一度、全体を整理して見直したいと思い、購入したわけであるが、どこをどうとっても腹立たしく、やりきれない思いになる。
本書は直接的ないじめ加害者の分析ではなく、被害者が自殺にいたるまでに起きた学校での出来事や様子と、その後の学校の対応についての取材である。
これは意味が大きい。いじめは、数多くの傍観者によってエスカレートするが、この件では教職員が最大の傍観者となってしまった。
ひとつひとつが後手に回っていくもどかしさ。ここで誰かが気づいていれば。ここで誰かが声をかけていれば。ここで誰かが他の生徒に指導していれば。
ここで誰かが、この子を学校から避難させてあげることができれば。
誰も止めることがないまま心理的・身体的な暴力がエスカレートしていく過程は、結果が自殺と他殺の違いはあれど、川崎の中学生が殺害された事件と重なって見える。

大人は問題にしたくない時、平気で問題ないことにしてしまう。問題はなかったのが対策はないし、責任もない。そういう思考行動パターンをお役所仕事と呼ぶのではなかろうか。
担任の対応が不十分だったとしても、その人は異動したてであったという。新しい職場にすみやかに馴染めるかどうかは、人にもよるし、環境にもよる。その人が馴染むまで、十分なフォローを受けられなかったであろうことは、労働者として気の毒であったとは思う。
しかし、一番気の毒であったのは、亡くなった子である。そこを見失ってはならない。
そこを見失うから、その後の管理職らの対応がお粗末なものに「なれる」のだと思う。
保身や否認という態度は、自分のほうが可哀想という気持に裏打ちされていると考えるからである。

管理職を始めとする教員達が保身優先になったのは、ありがちであるとは思うし、その時の社会的な反響の大きさに対してますます防衛的になってしまったのかもしれない。
かといって肯定も受容も承認もできないが、ことに残念であったのはスクールカウンセラーの果たしてしまった役割である。

スクールカウンセラーは一般的にどのように考えられているかは横に置き、多くは週に1-2回、4-8時間程度の勤務であり、生徒や保護者との個別の面接や心理査定よりは、コンサルテーションを主として働かざるをえない職である。
相談室として個室をわりあてられているが、この時のスクールカウンセラーが職員室に机もあるというのが、よくあるパターンだと思う。
非常勤であるスクールカウンセラーは、まず教職員と日常的に交流をとることで教職員との信頼関係を築かなければならない。
教職員との交流を密にしないことには情報をもらいそこねることもあるし、まるで日常会話の一部のような肩肘をはらない形でのささやかな助言としてのコンサルテーションの積み重ねが、よく機能するスクールカウンセラーに必要なのだと思うのだが。
思うのだが、しかし。
確かに学校での滞在時間も短く、アクセス可能な情報には限りがあるとしても、もう少し生徒と関わることができていれば、自殺の原因は家庭であると、学校に保身の口実を与えずにすんだのではないかと残念に思う。
と同時に、これがスクールカウンセラーとして学校に入っていく心理士達にとって、大きな警句になると思うのだ。
誰のために、どんな仕事をするのか、自分なりに職務を見直してもらいたいと心から思った。

いじめはなくならないかもしれない。なくすことはありえないことかもしれない。
だとしたら尚更、いじめが発生した時の対応や工夫を磨くことが必要である。
なかったことにするのではなく。
その人の死から最大限に学びを得て、その死を無駄にしないことだけが、生きているものにできることなのだから、本書を読めてよかったと思う。

2016.11.25

殺人犯はそこにいる:隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件

清水 潔 2016 新潮文庫

ドキュメンタリーは調査された事実の積み重ねを、三人称で書くイメージがある。
そこにはちょっとした印象操作が含まれるんだと思う。
三人称で描き出された事態は、それが客観的に真実であるかのような錯覚を与える。

この本は、筆者がこの事件を取材することになった契機や背景、取材をしていく上での体験や感情をも書き込んである。
一人称で書かれており、あくまでも、筆者が見て、考えて、調べた結果であることを誤魔化さない。
丁寧で根気強い調査、取材の積み重ねの様子がありありとわかることから、導き出されていく推論の説得力が格段に増す。
しかも、そこはやっぱり雑誌の記者さんだからか、読みやすくて引き込まれる文章なのだ。手に汗を握るというか、続きへと引っ張られるように、厚い本をあっという間に読めた。

これは、捜査ではない。取材だ。
たった一人の記者が、いろんな人の力を得ながらであるが、時間をかけて事件を追いかけていく。
その事件は、栃木と群馬にまたがる幼女を対象とした連続の事件だ。
いくつかの事件が、一連の連続した事件であると証明するために、足利事件は冤罪であることを証明しなければいけなくなる。
冤罪の証明が目的だったわけではないが、一過程というには大仕事だと思う。

それでも始まらない、捜査。
国会にまで取り上げられて、なんとか動き出すかと思われた時の大災害。
犯人は捕まっていない。市井にまぎれて、普段通りの日常生活を送っている。
筆者は犯人であろうと目される人物を特定しているが、それでも、犯人は捕まっていない。
いろんな意味ですごい本だった。
筆者の熱が伝わってくる気がした。

考えさせられることは多い。
たとえば、死刑について。
凶悪な犯罪が増えるにつれて、死刑もやむなしの世論が形成されつつあるように感じたり、私自身も傾いてきたが、イノセンス・プロジェクトのほうが先決だ。
自分の傾きを修正する機会となった。
ほんの少し、ジャーナリズムも捨てたものじゃないと思えてほっとした。
礼賛者になるつもりはないが、大本営発表みたいなメディアにうんざりしていたから。

警察や検察や裁判に関わる人たち、面子よりも大事なものがあるでしょうに。自己保身がお仕事ではないでしょうに。役割期待に答えてよ。
もちろん、日々、努力されている方もいらっしゃるし、私も助けてもらったことがあるから、悪く思いたくないんだ。
技術だって進歩するんだから。絶対の自信があるなら、何度だって検証すればいいじゃない。
お願いだから、被害を受けた人の、一番小さな声を聞いてほしいよ。

2016.07.21

悲しみのイレーヌ

ピエール・ルメートル 2015 文春文庫

イライラして攻撃的な気分だった時に、幸せではない物語を読むのもよかろうと思って選んだ。
久しぶりに読んだ海外ミステリは、凄惨な殺人から始まる物語だった。
いくつかの殺人事件。どれもこれも、凄惨で、奇抜で、不合理。
かつて個別に考えられていたものが一連のシリーズであることが徐々にわかってくる。
一向にわかってこないのは、殺人犯の正体。

途中で、表紙を見直した。
イレーヌ。
この名前の登場人物は1人だけ。
主人公であるヴェルーヴェン警部の妻だ。
……嫌な予感しかしない。

ミステリらしいミステリだ。
最初から最後まで読んでみると、20世紀初頭の推理小説を想起させる主人公の思考の描写であるとか、えらくバランスの悪い二部構成であるとか、この小説の特徴は、だからか!と納得することができる。
読み終えてから、果たして、どこまでがしかけでどこまでが真実だったのだろうと、境界線があやふやになるような感じがした。
読み応えのある、面白い、王道なミステリだったと思う。
殺人の情景は過剰に残酷であるが、人によっては、だからこそ、これを作り物の世界として読むことができるんだろうな。
こんなこと、あるわけないよって、ファンタジーとして。

私も、若いときはそうだった。
今回は、こういう殺人があったあった、こういうことをする奴がいるんだよなぁと、思った。
その凄惨さが奇抜に思えなかった。非現実的なものに思えなかった。
現実として、世界に悲惨が多すぎる。

せめて、物語には救いがあるほうがいい。私の好みとしてね。

2015.08.27

消された一家:北九州・連続監禁殺人事件

豊田正義 2009 新潮文庫

なぜ彼女は逃げなかったのか。

この問いが冒頭に置かれているが、逆に言えば、なんで知らない人が多いのだろうと、ほぞをかむような思いをしたことは枚挙に暇がない。
私の関心事にDV被害があり、その被害者が加害者から逃げられなくなることは、自明の理の思いがする。
答えは簡単。怖いから、だ。
恐怖心によってどのように支配されるか。冷静な判断能力を失い、その人らしい温かな情緒や人間らしい倫理が損なわれていくか。
意外と知られていない。
今も、知られていないのかなぁ、と思う。
だからこそ、そのような逃げられない心理状態を念頭に置きつつ、事件を再構成した本書は、説得力があった。
どうして、こんなひどい事件を引き起こしてしまったのか。
どれだけ、人は残酷になりうるのか。そこに、応えうる一冊だと思う。

著者が最初に一言触れている長崎の保険金殺人について、女性がDV被害者であることから恐怖心に支配されていたであろうことに、メディアは理解がないと嘆いたことを憶えている。
私は嘆くだけであったが、著者はその視点を保ちつつ、北九州で発覚した連続監禁殺人事件の加害者である女性に関わり、本書を著している。
ハーマン『心的外傷と回復』や学習性無力感の概念が紹介されているところがさすがであり、加害女性もまた暴力の被害を受けていた点、違和感なく読み進めることができた。

私が思い出したのは、アッシュの同調実験(1955)、ミルグラムの服従実験(1963)、ジンバルドの監獄実験(1971)という一連の大規模な実験である。
中でも、ミルグラムの服従実験は別名アイヒマン実験と呼ばれるが、監視役がある中で、被実験者の2/3が役割に忠実に死に至るほどの強さの電流を他者に流したという結果がある。
ジンバルドの実験に至っては、被実験者が囚人と看守という与えられた役割に忠実に同一化しすぎることで、安全性が保てないという判断から途中で中断するに至っている。
これらの実験は、第二次世界大戦後、特にナチスの事例に対して、人はどうして合理的に残酷なことができるのか?という問いに迫るものである。
合理的であることが倫理的あることではなくなってしまった戦後の世界での切実な問いであり、古い実験ではあるが、現在においてなお、学ぶ価値がある。

北九州の連続監禁殺人事件は、それを現実にやってしまった。
通電による無力感の学習の実験で、セリグマンは最初に犬を用いたが、それを実際に人に行う。実験ではなく、虐待として用いる。
これまで心理学が実験という安全な枠のなかで行われてきたことが、枠を取り払って行われ、やはり、実験で得られた知見が現実に苛烈に再現されたことがわかる。

実際にひどい事件である。
遺体の解体など、その作業が気持ち悪いとか怖いものと思わずに、どうしてこんなに淡々とできてしまうのか。
想像すれば不気味で仕方ない作業は、その事件の量に圧倒されて、読んでいる自分まで麻痺した。
この前に読んだ元少年A『絶歌』が本人が書いているということもあり相当なまなましかったため、本書をなんとか投げ出さずに読めたのかもしれない。
それでも、その場面を映像として想像したり、臭いや感触を想像したときには、吐き気がするほど気持ち悪くなった。
ちょうど、羊肉のカレーをいただく機会があり、骨つき肉の様子や皮の感触を感じたとき、どうしようもなく胃のむかつきが止められなくなった。

helplessness、救いも助けもないことを、学ぶ。
それは、ふと、アラブから北部アフリカ諸国に根強い暴力の連鎖でも、起きていることなのではないかと思った。

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