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>>私の仕事

2021.08.06

金閣を焼かなければならぬ:林養賢と三島由紀夫

内海 健 2020 河出書房新社

狂気とはいったい何であろうか。
自分が体験していない(と思う)ものを理解するために、私は文学の力を借りてきた。
精神科で働き始めた頃の私は、それぞれの症状を理解しなければならないという要請に迫られていた。
小説に描かれている狂気は、しかし、疾患としての症状と同じものであるのだろうか。

『金閣を焼かなければならぬ』は、前半では林養賢、後半では三島由紀夫という二人の人物について語る。
この二人を結びつけるのは、金閣寺の放火。
林は、実際に金閣寺に放火した人物である。その事件に取材して、傑作を世に出したのが三島である。

著者はあえて「分裂病」という病名を用いながら、了解不能な狂気というものを抽出しようとしている。
人というものは原因や動機を理解したがるもので、それを理解することで話を終わりにするという特性があると思う。
理解することが解決ではなくても、「わかる」までその問題から離れなくなる。そのくせ、「わかった」ら問題から離れて放置してしまったりもする。
だから、「金閣寺を焼く」という行為についても、ああだこうだと動機を後付けで創作してでも理解しようとする。

養賢の行為は了解不可能である。心因をいくら積み上げても、そこにはたどり着かない。(p.42)

著者は不可能な時点にとどまり続けることで、養賢の人生から病理をすくいあげ、分裂病という病はどのようなものであるかをありありと描き出していく。
デカルトやサルトルやカントを引用しながら、実存が脅かされた病者は、自由にこそ狂気のポテンシャルがはらまれているからこそ、定言命法にすがりついていくプロセスの説明はスリリングですらある。

「分裂病はすでに復路である」という言葉がとてもしんどい。
了解不可能で純粋な狂気の体験があり、そこから現実世界へと回帰していくときに、医学的疾患になる。
「かつて分裂病と呼ばれたものは、近代的な主体に内包された危機であった」、そういう体験であったということをありありと教えられた読書体験となった。

対して、三島由紀夫の病理は「離隔」であった。
生き生きとした現実感、生存している実感を感じることができない。
自分自身が世界の一部として存在していると感じられないからこそ、狂気に対してもよく勉強しているうえに「微温的な共感などに流されないがゆえに、公平」(p.210)であり、養賢本人には言語化できない了解不能な体験を再体験するかのように言語化することができたのではないか。
同時に、『金閣寺』の主人公を描くことは、三島が自分の分身ではない他者を、主体として描くことによって「みずからの離隔を突破し、ナルシシズムを粉砕する」(p.211)ものであったのだと看破する。
そうやってナルシシズムを一旦は超克しえたように見えた三島が、結局は世界から拒絶されてしまい、自死せざるを得なかったことが改めて切ない。

歯ごたえのある本で、ずいぶんと読むのに時間がかかってしまった。
読み終えてみて思うのは、狂気とはなにか、と問う時に、読んでほしい一冊であるということだ。
最近、藤本タツキ「ルックバック」というマンガが話題になった。私はその作品を読んで、素直にすごいと思った一人である。
そこには、殺人者が出てくる。その表現について問題になり、修正が加えられたという作品だ。修正後については読んでいない。

私は精神科医療で働く人間として、文学的表現の記号としての狂気は、実際の疾患としての統合失調症とはまったく別物であると受け止めている。
春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』『私たちはなぜ狂わずにいるのか』の二冊が、私の考え方には大きく影響しているだろう。
狂気を示すいくつかの単語は、アクチュアルな現実から既に遊離した記号であって、具体的な誰かを指し示すものではない。
とはいえ、言葉の成立の歴史から記号と具体が混乱して扱われることもあれば、被害的な認知が働きやすいという症状から自分に引き寄せて受け止めてしまって傷つくような事態も起きる。
その点、統合失調症を代表とする精神疾患について、日本の社会は理解は不十分であり、態度が幼稚であることは否めない。

けれども、文学的な記号であり表現であり仕掛けとして、狂気というものは必要とされることがある。
文学ではなくても、日常会話のなかで、なにか話が伝わりにくくて自分とは相いれない対象を示すときに、怒りや様々な感情をこめてののしるときなどに、なにか記号が必要とされることがある。
そういう意味では、私は読み手の9割以上の人が「これは記号である」と理解できるようになるリテラシーや価値観の共有の方が必要とされているのではないかと思ったりする。
そのためには、統合失調症とはどのような病であるのか、より現実的により具体的に認知されていくことが必要である。

そのようなことをつらつらと考えていると、記号的な狂気の表現とは区別されて精神疾患として扱われるべき統合失調症という病名ではなく、ロマンティックな狂気の烙印と無縁ではなかったかつての分裂病という表現を用いた著者の感覚は、このようなルックバックという作品をめぐる事態への私の問題意識が、呼応するものであるかのように感じている。

2020.06.02

ダイエット幻想:やせること、愛されること

磯野真穂 2019 ちくまプリマー文庫

ダイエットは幻想であると断罪する本ではない。
ダイエットという幻想に、いかに人が振り回されているか。
あるいは、人が幻想に我が身と生活を支配されるあまりに、世界と具体的に関わる方法を失う。
そんな事態を、ダイエットを例にして、解き明かす。

やせることと愛されることがいびつに絡み合ってしまったものが、摂食障害である。
著者が摂食障害について研究してきた集大成に位置づけられる本であり、深い理解を示す。
摂食障害で悩んでいる方や、摂食障害の治療にあたる方が読んで資することは間違いない。
摂食障害という疾患が、どういった文化背景に根差して症状として立ち現れてくるのか、治療者には必ず読んでほしい。
しかし、ダイエットというものは、日本人では当たり前に誰でもが口にする言葉であり、そこを切り口にして語られる文化についての本であるから、誰もが読んでみる甲斐があると思う。

著者は、この本は3つのパートから成っていると、終章で流れを要約している。私自身の言葉でまとめるよりも、これ以上にわかりやすい要約はないように思われるので、少し長くなるが引用したい。

ここまで私たちは、やせたいと思う気持ちは自分の外側からやってきて私たちの中に住み着いたものであり、その気持ちは承認欲求と分かちがたく結びついていること、ところが承認欲求に対し現代社会はあまりいい顔をせず、他人のことは気にせず、自分らしく生きている(ように見える)人を称賛すること、その結果、私たちは、承認欲求などなさそうな顔をしながら、一方でそれを満たすといった、矛盾したふるまいをせざるを得ないこと、この三つを第一章と第二章で共有しました。続く第三章から第五章では、女の子であることとやせたい気持ちの密接な関わりを示し、女の子でいようとすることが、女性同士の無益な争いと、終わることのない「やせ合戦」を生んでしまう危険性、そして、「選ばれる」女の子として生きようとするのではなく、大人の女性になる生き方を多くの人が選ぶことが「やせ合戦」を回避する処方薬になるだろうことを指摘しました。そして第六章から第八章においては、食べ物や身体を数字や栄養素といった概念に変換し、その知識に基づいて頭で食べようとすることで、刻々と変わりゆく世界に身体を織り込ませながら食べて生きるという、いのちを持つ生き物にとって必須の力が失われかねないことを警告しました。(pp.185-186)

私は、この1つめと2つめのパートからは「かわいいの呪い」を、3つめのパートからは「ふつうの呪い」を感じた。
かわいいの呪いとふつうの呪いの二つは、私自身の価値観や生き方にも影を落としているところはある。
自分なりに見つけたこの二つのキーワードの視点から、もう少し書いておきたいと思う。

1.かわいいの呪い

前半の第一章から五章は、可愛くあらねばならぬという呪いが、どれほど日本に行き渡り、強力に人を縛っているかを描く。
磯野さんは「『かわいいの呪い』の本質は、この言葉に女性が大人になることを妨げる力が潜むこと」(p.63)と指摘する。
「カワイイは正義」「カワイイは作れる」といった言葉で、可愛くあらねばならないと求められることはあまりにも日常的である。
少しでも愛される、好印象を持ってもらえるように、自分をプレゼンテーションすると思えば、それはそれで悪いものではないように感じていた。
ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるなら、やらない手はないと語る人も、身の回りにいた。
だから、この本を読むまで、それがよくあれかしのまじないであるばかりでなく、のろいの作用を有していることに気づいていなかった。

より小さく、より幼く、より弱々しく、より頼りなく、よりおばかな。
幼子のような無垢で無力で無邪気な存在であることで「愛される」存在であろうとする。
その戦略は、中年になっても「美魔女」などという表現で奨励されて、いつまで続けるべきなのか、不明である。
年齢相応であることが否定されて、年齢不相応が奨励されると、達成に多大なコストを必要とする。
そんな不自然を強行してしまうのは、「『かわいい』を捨てたら『愛されない』のではないかと不安になってしまう」(p.112)からだ。

その戦略はどこかでギブアップしないといけない。
もろもろのノイズが想像できるが、幼女からいきなり老女になるのではなく、その間に「おとな」になるイメージを持つ。
その年齢ごとの年齢相応である女性のイメージを育てること。かわいい以外の女性像のモデルを持つこと。(ここまで書いて、ぱっと思い浮かんだのは、『風の谷のナウシカ』のドーラで、私の理想像のひとつである)
自分がいつまでも若作りをしている痛々しい中年女、選ばれないことに不満たらたらの中年女にならないために。なにもできないままで、もはや誰にも助けてもらえない、老女にならないために。
他人の視線から「選ばれる」ことをめぐる争いから離脱することが、かわいいの呪いからの解放になる。

自分自身の「女性」というジェンダーが呪いのように感じている人、感じたことがある人には、ぜひとも読んでもらいたい文章である。
と同時に、女性に可愛さを求めることがなにを意味するのか、男性にも一緒に考えてもらいたい部分である。
女性は男性に選ばれるために存在しているわけではなく、女性もまた選ぶ権利と能力を持っている。
男性が選ばれる立場に立たされるときの、どうせ自分は選ばれないに違いないという痛みや憎しみは、かわいいの呪いの変奏曲のように思えてならない。

この本では、かわいいの呪いが他者から「選ばれる」ための呪いであることを説明するために、予防医学や差異化の欲望についても触れている。
このあたりの論の展開は、磯野真穂さん・宮野真生子さん『急に具合が悪くなる』とも通底しており、磯野さんらしさを感じて、非常に興味深く読んだ。

歴史的にふくよかであることよりも痩せていることのほうに価値を付与されるようになった背景に、20世紀後半以降の予防医学の台頭がある。
医学が、「目の前で苦しんでいる人を治療するという『いまここ』に着目する」ものから、苦しみの真っ最中ではない人々の身体にまで助言したり、生き方や生活の仕方に干渉するようになっていく。
病気を事前に予防できることは素晴らしいことであるかもしれないが、病気と健康の境目があいまいになり、病気になることは予防や管理のミスとして位置づけられかねないことになる。
「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)ことは、本書のなかではだからこそダイエットというものに日本全体がよいものという認識を持って、ダイエットに役立つとなれば無頓着に全肯定の振る舞いを示すことを説明する。
しかし、読み手である私は、Covid-19流行の外出自粛期間中に読んだからこそ、違う意味を見出した。そのことは、後でもう一回、触れたいと思う。

また、「差異化の欲望」というのは、「隣にいる人より、あるいは過去の自分よりもちょっとだけ優れていたいという、私たちの心の奥底にある欲望」(p.86)である。
自分自身の達成の欲求を満たすことができるが、承認や親和の欲求と結びついて、選ばれるためにより魅力的に、つまりここでは、よりかわいく、より痩せていることに、人を駆り立てるものの一つとして登場する。
この差異化の欲望を、私がよく見かけるのは、摂食障害の方にとどまらない。それはSNSのなかでもよくあることであるし、なんといっても、オンラインゲームの世界では、まさにそれ。そればっかり。
ほんの少しでも早い記録や、ほんの少しでも新しい装備や、ほんの少しでも強い武器、あるいは、ほんの少しでも魅力的な”相方”…といった様々なところで、人は競い合う。自慢しあう。時には、罵倒しあう。お金をかけたり、時間をかけたりして、現実がおろそかになる人も出てきてしまうほどに。
この数年、オンラインゲームの中で見てきた様々な問題を一言で説明してしまうような、すごいキーワードと出会ってしまったと思った。

2.ふつうの呪い

人は「ふつう」であることに捉われやすい。
ふつうであれ。これが呪いとして働くことは、同調圧力を考えてもらえば、その息苦しさが呪いであることが伝わるのではないか。
ふつうであれ、ということは、ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるまじないのように用いられることも多い。かわいいの呪いとまったく同じである。
だが、ふつうとは何であろうか?

摂食障害では、「ふつうに食べる」ことが難しくなる。
糖質制限ダイエットの根拠が薄いことを解説した上で、磯野さんは、ダイエット方法を選ぶときの「強烈なタブー、変身の物語、カリスマのいるダイエット」の3つの注意点を列挙する。
強烈なタブーは見るなの禁止令が示す通り、禁じられたものにこそ人の意識は向けられるので、そのタブーを破りやすくなる。「食べるな」というタブーは、食べることを考え続けることにほかならない。
変身は差異化の強烈なものであるし、たった一つの取り組みで人生がすべてうまくいくような魔法はありはしない。すがりつきたい、だまされたい気持ちはわかるとはいえ。
そして、カリスマの指示を仰がなければ何もできない状態になることは、無責任で思考放棄して楽な面もあるかもしれないが、「いい食べ物と悪い食べ物の境界を引いているのは人間であって現実の世界にそのような境界が引かれているわけでは」(p.160)ない。

ダイエットをするにしても、現実的な世界との関わりを失わずに行っていかなければならない。
なぜならば、「『ふつう』は『ふつう』の構造を意識させ、それを感覚的に行うことを禁ずることで意外と簡単に崩すことができる」(p.166)からだ。
これはとても怖い指摘であるが、本当にその通りだとしか言いようがない。
磯野さんはスポーツ選手を例に挙げるが、摂食障害の方たちにとっても、「ふつうに食べる」のふつうがわからなくて苦労することが極めて多い。
どれぐらいの量がふつうなのか、なにを食べることがふつうなのか、どういう食べ方がふつうなのか。
ふつうを意識した時から、ふつうは難しくなる。
あなたに「今からピンクの象を思い浮かべないでくださいね。絶対、思い浮かべたらだめですよ。ピンクの象は思い浮かべたらいけないんです!」とタブーを設けた瞬間から、頭にピンクの象が浮かんでしまうようなものだ。
ふつうを意識した時から、ぎこちなくなる。不鮮明になってしまうのだ。

磯野さんは、かわいいの呪いに対しても処方箋を提示したように、ふつうの呪いに対しても処方箋を示そうとする。
それは、「ふつうに食べられることは、無限定空間で生きられること」(p.172)という題に集約されるであろう。
現実の世界というものは、なにが起こるかわからない。こうなればこうなる、ああすればああなると規則性があるよう、その変数と規則は無限である。だから、こうだけすればよいというたった一つの規則や、あれさえあればいいというたった一つの変数だけで、コントロールすることはできない。
「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではない」(pp.172-173)のだ。
もっと平たく言えば、「そこに『おいしさ』はあるか」(p.132)ということ。世界の彩を感じながら食を楽しむことができたら、それはきっとふつうに食べられている。

ふつうに食べられる力の回復は、世界と具体的にかかわり合って生きているという感覚の回復とも言い換えることができる(p.182)

3.感染症流行と数字に束ねられる存在

ここまで、かわいいの呪いとふつうの呪いの二つを、この本を読み解くキーワードとして述べてきた。
だが、この本を私が読んだのは、Covid-19の流行に伴い、外出の自粛を促される「ふつうではない」状況下であった。抗がん剤治療中というハイリスクな体調であったから、この自粛を私は強く内面化していたと思う。
このCovid-19流行下の体験(以下、「コロナの体験」)を、この本から眺めてみたい。

コロナの体験は、「ふつう」を失う体験だったと思う。
それまでの「ふつう」は無限定空間で生きることだった。それが、家の中という「限定空間」に押し込められる体験となった。
家のなかでの生活も、厳密にいえば、日々刻々と変化する無限定なものであるが、活動範囲は禁止令によって限定されていたことが、ふつうではない体験となっていたように思う。
世界と身体の関わりの喪失であり、主観的な体験の喪失であり、社会という集団の中で具体的に生きる力を発揮する機会の喪失であった。
世界と身体の関わりは、物理的に外出を自粛するという意味でも断たれたが、世界のどこに病原菌があるかわからないという意味ですべてが有害でありうるという不信感においても断たれた。
目の前の物質の影響に注意を注ぐために、自分の感情や感覚を封印していくような対処方法も見られた。

コロナの体験下において、人々が食に注目したのは、生存のためだけではない。食品の買いだめが最初に起きた、そのことは生存のためであったかもしれないが、その後にこんな時でないと作ってみることはなかったというような様々な調理が流行した。蘇は最たるものである。
室内でデジタルな視聴覚情報だけが充満する中で、食は、味覚や嗅覚、触覚といった様々な感覚への刺激となる。
食材の多くは家の外部からもたらされるものであり、新奇さや変化を体験することができ、作った食べたという話題は外部とつながる話題となる。
集団や世界との交流を取り戻す糸口となっていたのだと思う。

引きこもり生活が長くなるにつれて、フードロスや在庫ロスの解消のための掲示板が登場した。そこでも私自身が食品を買い物した。
「購買意欲を誘うのは商品に付与された物語」(p.88)と看破されている通りで、そこに添えられた人々の苦労話に私は弱く、あっちにふらふら、こっちにふらふらと引かれてしまった。
そういった苦難にあっている人にささやかな支援を届けることで、自分が救世主に変貌するかのような変身の物語を期待したわけではないが、そこに生じるわずかな会話に、私はとても引き付けられたのだと思う。
そんな風に、私自身、世界と関わる機会に飢えていたのだと、今は思う。

「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)という個所を、先に引用した。
このことは、健康管理の一環としてダイエットが推進されてきたことに関連して言及されているが、『急に具合が悪くなる』ではがんとの関係で語られていた。
この病気の自己責任論は、今回の感染症の流行でも、しばしば、噴き出しているように思う。
「そんなところに行くからだ」とか「ちゃんとマスクをしないからだ」といった言説がそのものだ。
うかつな行動はなるべく控えたほうがいいとはいえ、病気に感染することは個人の努力だけでは避けえない事態である。道徳的な善悪で断じられることではない。
しかし、自己責任論は、病気の感染に道徳的な判断を導入するところが、先験的に間違いである。そう、間違いだ。

病気は職業も人種も知名度も関係なく襲うが、日本でコロナで死ぬということが我が身にも起こりうる身近なものとして認識される契機となったのは、芸能人の死だったように思う。
しかし、それより前から、世界のあちらこちらから1日に何人の人が感染し、何人の人が亡くなったというニュースが届いていた。
なぜだか、私にはイタリアのニュースが特に胸にこたえた。
ある日の1日の死者が500人を超えていたり、800人を超えていたり。それより多くの死者が出た日があり、国があろうとは思う。
その一人一人に人生があり、人間関係がある。その一人一人と芸能人は、どちらも私には等しく他人であり、見知らぬ誰かがすでにもう亡くなっていることに、無関心でいられる人の多さが、これまた胸が痛かった。

この時にTwitterでフォロワーさんとした会話は、その後に、この本で読んだでピダハンと呼ばれる人たちのことと結びついた。
アマゾンに住み、数字の概念も、色の概念も持たない人々。
彼らは抽象的な概念で多様性をそぎ落とすことをせずに、一つずつをとことん具象として具体として認識しているのだという。
彼らを例にして、磯野さんは数には管理という役割があり、世界の彩を消す脱文脈化の機能があることを指摘する。
となれば、私のしている心理援助職という職業は、個を数に置き換えずに個として向き合う仕事である。個別性や具体性、多様性や曖昧性、抽象性や複雑性を、分類したり消去したりせずに、文脈を取り戻し、個と世界との関わりを修復するような、そんな営みであると言えるのではないだろうか。
ピダハンのように世界のなかで生きることは、とんでもない記憶力を要求されるのであるが、そんな風に、なにもそぎ落とすことなく、その人をその人としてしか分類することも意味付けすることもなく、出会っていけたらよいなぁと思った。

人との出会い、関係性について、磯野さんは最後にラインという考えを提示する。
点ではなく、ライン。
この考え方は『急に具合が悪くなる』にも出てくるが、本書のほうがよりわかりやすく解説してあったように思う。
ほぼ同時期に出版されたこの2冊は、相補的な読み方ができるため、あわせて読むことが望ましいと聞いた通りだった。
『急に具合が悪くなる』ががんという死に至ることもある病を通じて生きることを照射した本であったのに対して、『ダイエット幻想』は愛されるという受動的な評価のためやせなければならないと能動的に献身して破綻する摂食障害を例にしながら生きることを照射する。
どちらも、生きる実感と希望を紡ぐ本である。

2019.11.25

急に具合が悪くなる

宮野真生子・磯野真穂 2019 晶文社

村山早紀さんに教えていただいて、手に取った。
その後、読み始める前に、私がまさに『急に具合が悪くなる』とは、誰も予想がつかなかったはずだ。
私自身にはかすかな予感がありつつも、まさかこんな時に思ったのだから。
そういう臨場感と御縁のある読書となった。
三度目のがん治療……手術のために入院した先で読み始めた。

二人の知性が、とにかく素晴らしい。
宮野真生子さんは哲学者。磯野真穂さんは医療人類学者。
二人の真剣な言葉の投げ合いに、舌をまく。そんな表現があるのかと、胸を衝かれる。
そう!それ!!それなんですよ、と、どのページにも一人で唸り、頷く。
少し読んでは噛みしめ、また少し読んでは立ち止まって胸に響かせる。
たとえば、「不運は点、不幸は線」(p.124)であるとか、詩的ですらある。

この本のなかで取り扱われてるテーマは「生と死」に集約されていくのであるが、もう少し細かく分けていくと、①死とコントロール、②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野、③大病についてのポリティカルコレクトネスといったあたりが大変興味深かった。そして、④点と線と厚みが全体に流れている。

まず、①死とコントロールについて。ハイデガーの語る死についてで思い出した私自身の死生観があるが、それは別の記事に書くことにしたいと思う。
がんになることを、自己責任論として語る人が世の中にいる。私とてなりたくてなったわけではないし、ならなくてすむならなったわけがないのであるが、そこを宮野さんは「合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、コントロールの欲求と言える」(p.86)と指摘する。
それを磯野さんは「何かには必ず原因があり、合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念」(p.105)と受け止める。
このような欲求と信念が、自己責任論であるのではないか。だからこそ、がんになったことも自己責任論ということにしてしまわれる。
人間がどうしても、なんで?と原因を知りたがる習性があるからこそ、このようなことが起きる。
磯野さんは「科学は<HOW>を説明し、妖術は<WHY>を説明する」(p.104)と目からうろこがぽろぽろ落ちるような文化人類学の理解を紹介している。
科学的な理解というのは、ひとつずつ知見を積み重ねた蓋然的な理解であるが、それが迂遠で面倒なプロセスであったり、人のワーキングメモリーを超えるような情報量だったりするとき、人は直観的な理解を好む。直観的な理解は検証を拒むため、しばしば直感や直勘に堕する。
いくら、グレタ・トゥーンベリさんが「科学の声を聴いてほしい」と訴えても、人間が知りたがるのはWHY。そこに大きなずれが生じてしまうのだ。

そのような生き方の行き着く先として、宮野さんは「生き方の最終地点で求められるものが、最近流行の『終活』ではないかと思います。予期できない『死』というものに対し、事前に準備しておくことで、できる限り自分の人生の責任を自らとり、身ぎれいにしてこの世から離脱する」(p.158)ことを挙げる。
このくだりは、先に読んだ小島美羽さんの『時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』の自死した人の部屋の章を想起した。荷物を処分し、ブルーシートを敷いて、「なにか未簡潔なものを残して周りに迷惑をかけることなく、自分の人生を自分の手で一個の完成したものにして去ってゆく」(pp.158-159)。そのようなコントロールを達成しようとして行きつく先に、終活としての自死があるように思われた。
宮野さんは続けて、「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるから。生きている者は、そうした痕跡をめぐって語り合い、考え、引き継いだり引き継がなかったりしつつ、亡くなった人を思い、その死を受け入れてゆけるのかもしれません」(p.159)と語る。
言い換えれば、他者に迷惑を残してよいことや、人生は未完成でよいことが、生きる隙間にならないだろうか。完全でなくてよいのだ。コントロールできなくてよいのだ。自己責任で背負わなくてもよいのだ。
死は不完全で偶然である。けして、「なぜ」では説明できない。その不確実さの中に放り込まれる体験であるから、逆に妖術にはまりこみやすい人も出てしまうのだろう。

②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野について。これは、実感をもって頷くことばかりである。
私自身ががんの治療について、この手術をしたらどうとか、この抗がん剤を使うとどうとか、%で数字を示されながら選択することが続いていた。正直なところ、私は専門家ではないので、なにがよいか、選べと言われても困るので、医師のおすすめを追認することしかできない。もっと積極的に、おすすめの治療法を示してほしいし、それを選ぶのが専門性じゃないのか?とつっかかりたくなる。
宮野さんは、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」(p.48)に対して、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(p.49)と、率直に私の心中を代弁してくださるかのように述べる。
エビデンスという数字を示すことで、「現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多い」(p.38)という磯野さんの指摘も、じわじわと染みてきた。

患者は、「待ち受ける未来はこうだからこちらの道をゆく」という運命論的な選択しかできないということになります。運命論的に見据えられた未来は、患者の意思だけで作られたわけではなく、医療者の意図、さらにいえばかれらが拠り所にするエビデンスの作成者の意図との融合物です。医療者が「患者の意思を尊重」というとき、その患者の意思の中に、医療者の意思が相当に組み込まれている。<正しい情報>という言葉には、その現実を見えなくさせる力があるため、そのことはあまり真剣に考えられていないような気がします。(p.40)

このくだりは、自分もまた医療領域で働いている以上、肝に銘じておきたいと思った。
インフォームドコンセントそのものを否定はしないが、そこに欺瞞を持たせないようにしたい。
なぜなら、選ぶのも、決めるのも、本当に大仕事で疲れるからだ。

そのような数字でこうなるかもしれない、ああなるかもしれないと示されて、どこが確かな正解の道かわからないまま、そろそろと慎重に生きるしかない。
そのような<かもしれない>で溢れているのが、保険適用の標準的な治療をやりつくした後、緩和病棟に入るほどは悪化していない状態の人が、自由診療に向かった先にあるという。
合理的に判断しようと思っても、エビデンスまでたどり着かないような<かもしれない>の荒野。
そりゃあ、妖術に頼りたくなる人を責めるわけにはいかない。
合理的な判断そのものが立ち行かなくなる境地を示すことは、合理的で自己責任をもって生きるという生き方そのものの限界を示している。
「どれを選んでもうまくいくかどうかはわからない」(p.228)のだ。

付け加えれば、偶然性を恐れる人たちの息苦しさも、偶然しかない世界であることを社会が否認して、完璧を目指させられることと不可分であると感じた。
不可能な自己責任論に追いつめられる。首を絞めあう。
その中で、まじめに限りなくNGを避けようとして、身動きが取れなくなってしまったり、できない自分を責め続けるような事態になっているのだろう。
そんな風に考えることもできると思った。

③大病についてのポリティカルコレクトネスについて。
がんになった人にはこれを言ってはいけないとか、こういう風に受け答えしましょうとか、マニュアル化しようとしてしまう人たちがいる。それは、相手を傷つけてはいけないという配慮に満ちているようで、実は日常を失わせ、患者の人間性を疎外する。
専門家としてなにがしかの患者の家族に会うときに、安易に日常性をセラピューティックなもので侵襲させてしまうような助言をしないよう、自戒したい。

「ガンが治ったら」という仮定は、「ガンが治らなかったら」というもう一つの可能性を浮かび上がらせます。さらに、「治ったら一番に何がしたいか」という問いかけは、治らねば一番したいことができないというメッセージを暗に発しています。(p.44)

この宮野さんが書いた個所を読んだとき、私は自分の手術が終わり、腫瘍は取り除けたと思っている時に読んだ。自分の中に腫瘍が残っており、つまりは「治る」という状態に永遠に至ることがないことを知らないうちに、読んだ。
治るというのはなにか。そのことも、深い問いだ。
うつ病の治療を受けている方に、「寛解」という概念を示して、なかなか納得してもらえないこともあるが、当たり前だ。
完治を目指してきたのに、完治はしない。寛解だから治療終了と言われて、納得できる人はなかなかいないだろう。
それと一緒だ。どうやらがんは私から消えないらしい。前回の手術から今回の再発の間、一応は腫瘍がない状態でがん患者を名乗ってもいいものか?と考えていたが、今度はどうやらがん患者であることが私の一部として背負い続けないと仕方がないようだ。
もう元通りになることはないことに私自身も、多少のショックを受けているが、これを人に話すことが大仕事であることを今回思い知った。

相手ががんであると知った時から、あれがいい、これもいいと、勧めてくる人たちがいる。その現象について、幡野広志@hatanohiroshi さんもツイートされていたし、宮野さんも触れている。
私はそこまでの目にあっていないが、だが、この病状を伝えると相手のほうが動揺して大騒ぎする場面ならあった。大騒ぎをしないようにしてくれているが、両親やパートナーがショックを受けているのは感じている。
そうなってくるとかける言葉に困る。私は相手を過剰に動揺させたくないために言葉に困り、相手は私に対して何を言ったらよいか、言ってもよいかがわからなくて困る。
そのようにコミュニケーションが硬直し、患者ー健康な人との役割が固定していくことについて、宮野さんと磯野さんは丁寧に対話で取り上げる。

たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている、それがガン患者であることを一〇〇パーセント受け入れていないということの意味です。そして、こうした生き方をとることで、私はそれなりに充実した人生をおくることができています。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません。(p.116)

この言葉に、今、支えられている。見習いたいと思う。大いに、参考にしていきたい。
私は私。私のすべてががん患者であることに覆いつくされないように。がん患者である私ではなく、私の一部にがんがある、ただそれだけ。
そんな風に思えたのは、まったく同じ病気や病状ではないが、宮野さんが先輩として言葉を紡いでくれたからだ。
この本に、今、出会えてよかった。

④点と線と厚みは、全体を通してちりばめられたキーワードのようなものだ。それは少しずつ表現を変えながら、何度も何度も立ち現れる。
二人の間に自由な連想が働いていることを教えてくれると同時に、まるでミルトン・エリクソンの催眠を読んでいるように私をトランスをいざなった。
それが明確になるのが第6便の「不運は点、不幸は線」(p.124)という表現体。そこからSNSのLINEやインゴルドという文化人類学者の「歴史の中で、ラインを生み出した運動が次第にラインから奪われていく経緯を示すこと」(p.182)という議論など、いくつもの線が引かれていく。そして、それは織物に編み込まれていく糸となるのだ。

人との出会いは、糸を結ぶようなものだと私は思う。
人生を織物にたとえることはよくあるが、編み物でもいい。
途中で加えた色糸を、そこから先の自分の織物に織り込み、編み込んでいく。
そうやって、自分だけのタペストリーもしくはwebsを作り上げていく。
その加えた糸の結び目より前にも糸はあり、その糸の端を垂れたまままにしておかないようにするために、さかのぼって編み込んでいくこともするだろう。きっと出会うはずだったんだと考えたり、これまでの出会う前の時間にも意味があったと考えたり、磯野さんが宮野さんを魂の分かち合いとして位置付けたように。
そうして、念入りに両端を編み込んで、その人がいつか世界から消えてしまっても、自分の世界にはしっかりと在り続けるように位置付ける。自分の人生に意味づける。

いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向的に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。(p.224)

私は宮野さんに教えてもらった「世界への信と偶然に生まれてくる『いま』に身を委ねる勇気」(p.96)を持ちつつ、明日からの入院と抗がん剤治療にトライしたいと思う。
忘れそうになったら、また、この本を手にとりたいと思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていた人たちと、この本を教えてくれた人に感謝をこめて、筆を置くこととする。

2019.05.17

アスピーガールの心と体を守る性のルール

デビ・ブラウン 2017 東洋館出版社

対人関係に苦慮しやすい発達障害傾向のある少女たちのために書かれた本だ。
アスペルガーの少女という意味の、アスピーガールという可愛らしい呼び方にこだわらず、お付き合いがうまくいかない、お付き合いというものがまだよくわからない、という人たちに読んでもらいたい。
これは性のハウツー本ではなく、人付き合いのためのハウツー本だから。
きっと、必要としている人は多いと思う。

文字を読むと疲れてくるという人なら、目次を見て、気になったところだけでも読んでほしい。
できれば、男の子たちにも知っていてもらいたい。
大人の人たちも、彼らがどんなことで困りやすいか、どんなアドバイスが役立つのか、知ってもらいたい。
望まないセックスから身を守る。当たり前のことをわかりやすく、優しくて気さくな言葉で書いた、とっても素敵で、素晴らしい本だ。

表紙も可愛らしくていいなぁ、と思った。
性という一文字に過剰に反応してしまう人もいるとは思うけれども、もし見かけたら、恥ずかしがらずに手に取ってもらいたい。
ちっとも、恥ずかしいものじゃないのだから。
あったかくてまっすぐな、応援の言葉に触れてほしいなぁ。

2019.04.05

居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書

東畑開人 2019 医学書院

同業者の間で話題になっていた本だった。
自分より若い人が次々に専門書を書いていく。
そこに、少々の危機感や焦燥感を持ちながら、読み始めた。

私にデイケアの経験はないけれど、ここには、日常の臨床場面での風景がありありと描き出されていた。
臨床を知らない人に臨床がどのような営みであるかを伝えようとするとき、筆者が書いている通り、「論文の硬い言葉たちでは掬い取ることができなかった」(p.344)ことがある。
公立や合理性では割り切れないところにある、こういうもろくてあわくてやわからかくて曖昧なものを、壊れないように守る保護膜として、私は機能している。

心とはそもそも有象無象が跋扈するような混沌に居心地よさを感じるような、そういうものなんだと思う。
整理整頓された清潔な環境でしか生きられないようになると、強迫症状のような生きることの難しさを呈してしまうものだもの。
数式のように割り切った因果関係に落とし込めないような、変数が数多くある複雑な世界で生きるようにできているものなのだもの。
直線的な言葉では言い表しづらいことを描きだすために、この本はいくつものしかけを用意してある。
その思い切ったデザインや作りの結果、とても愛らしい外見に仕上がっており、学術書らしくないところがいい。

サブタイトルにあるケアとセラピーは、「いる」と「する」に呼応している。

ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。(p.176)

ケアとセラピーの配合は、それぞれの心理士によっても、場面によっても、ケースによっても変わってくるものだ。
私なら支持と介入を対峙させて自分自身の臨床を省みるし、ケアとセラピーに含まれるものや語の位置づけは少し違和感があったけれども、大きくわけてふたつの要素があること、それらの混在によって心理的な援助が成り立つことはまったくその通りだと思う。

なにより、心理援助職が優しいとは限らないことをさらりと書いているところに、にやにやとした。

「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。それが貴重なものであることに異論はないけれども、時々平和が失われて、つらい思いをすることや葛藤することもまた、心にとっては重要であると考えている。(p.176)

この本は、デイケアを題材としているけれども、「する」に駆逐される「いる」の価値という意味では、とても普遍的な読み方ができる。

全部自分でやろうとしないで、人にやってもらう。お互いにそういうふうにしていると、「いる」が可能になる。「いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ。(p.209)

たとえば、パートナーシップの問題を抱えやすい人の中に、じっとしていることに耐えられない人たちがいる。
付き合う前から付き合い初めの頃のワクワクドキドキで盛り上がった時から、穏やかに落ち着いた関係にシフトすることが苦手な人たちだ。
イベントごとなど、何かをしていないと安心できない。一緒にすることがなければ、一緒にいる意味がないと飛躍しやすい。
あるいは、相手のためになにかすることがないと、一緒にいてもらえないだとか、一緒にいる意味がないとか考えてしまう。
もしくは、相手が何かをしてくれることで、一緒にいていいと安心したり、一緒にいたいと相手も思ってくれていると確認したりするのだ。
相手の役に立たなければならない、必要とされなくてはならないという考え方は、「いる」ことが苦手な人の特徴だろう。
ところが、毎日まいにち、なにかイベントごとがあるわけではないので、何もすることがない日常に、焦ったり、落ち込んだり、不安になったり、じたばたとしてしまう。
そういう人たちの理解にも、この本は役立つだろう。

ケアすることでケアされる。ケアされることでケアする。それらは複雑に絡まり合った投影によって可能になるというのが「傷ついた治療者」という考え方なのだ。(p.214)

専門家が有償で差し出すサービスでさえ、このような双方向性を有しているのであるから、対等なパートナーシップあれば尚更、双方向性は意識したほうがよいと思われる。
相手をいたわりあうこと。
いたわりや気遣いを搾取するのではなく。

何もしなくていい。
ただ、いる、だけ。
ただそこに、共にいる、だけ。
相手の「いる」を守ること。自分の「いる」を守ること。
そこに価値があることを思い出す必要がある。

2018.12.29

家族の秘密

セルジュ・ティスロン 阿部又一郎 2018 文庫クセジュ

あらゆる真実が治療的になるわけではないが、それでも<秘密>はしばしば病原となりうる。(p.158)

途中、何度か挫折しかかった本である。
未解決の問題を秘密として抱えていた人の子の世代、孫の世代になって、秘密が漏洩することがある。
目の前の人の症状は、そうした親や祖父母の世代の秘密が反跳したり漏出しているのではないかと読み解いていく。

秘密を暴き出せばよい、というものではない。
この本の前半は秘密がどういうものであり、どのように現れてくるものであるのかを、解説する。
個人のレベルの秘密もあれば、社会のレベルの秘密もある。

著者はフランス人であるから、彼の出会うケースの中に落としているのはヨーロッパ戦線の体験であり、ナチスである。その体験への理解を通じて、日本での戦争を体験した人たちの記憶と秘密について、考えずにはいられない。
その体験が、どのように親の世代、私の世代、より若い世代に反跳するのか。
なかでも、「モニュメント建立されるたびに、何かが覆い隠されてしまう危険性がある」「集団との絆を強化することに重きをおくために、各々の経験のなかで最も個人的なものを放棄することを促す」。(p.134-)
この指摘は、たとえば、靖国のような存在の役割への理解の一助となるものだ。

暴き出すための読み解き方を教えてくれるのではなく、どのように秘密を病原とならないようにしていくのか。
この点は非常に臨床的であり、極めて現実的である。
自死などの死者について、あるいは、複雑な関係性、戦争や事故といった災害にまつわる罪悪感など、秘密になりやすいものを抱えている人に接する時の参考になった。
家族の自死や複雑な関係といった秘密にしがちな出来事を、子どもたちに「あなたのせいじゃないの」と伝えることに尽きる。
それも、伝えることに早すぎることはない、ということ。事実を知ることと意味をわかることは違う次元であるので、意味がわからないだろうと考えて情報を伏せるのではなく、事実は知らせておいて後から年齢相応に意味を理解することができればいいのではないか。
とはいえ、伝える側が感情的にならずに、自分の心が傷つかずに話せる形、話せる範囲から伝えていくことが肝要である。

何度か挫折しかかったのは、我が身と我が家の家族の秘密とはなんだろう?と引き寄せるようにして読んだからだ。
そう考えると秘密はある。きっとこのような秘密があって、このように私に反映しているのだろうと理解はできる。
理解していくことで、じゃあ、どうしたらいいかと考えると、だんだんとつらくなった。
しかし、著者の目的は秘密が暴かれることではなく、新たな病因とならないよう、秘密を次の世代に持ち越さないための努力を提言することであるように思う。

あなたのせいじゃない。
それは、あなたのせいじゃないのだ。

2018.10.13

性の多様性ってなんだろう? 

渡辺大補 2018 平凡社

中学生ぐらいの人に向けて書かれた本だ。
筆者が若い人と語り合うような構成になっている。
とても読みやすく、若い人が性について戸惑い、悩むときに、支えになるような一冊である。

性は、身体の性別やDNAのタイプ、性自認、性役割、性志向など、多次元の概念から構成されている。
丁寧に考えていくと、人というものは人それぞれであることにたどりつく。
多様性であることを肯定していく語り手の言葉は読み進めるほど、安心感を持った。
誰かが性のことを悩むとき、問題は悩ませている社会であり、システムであり、その社会を作っている大人たちの責任であると、きちんと指摘しているところがいい。

この本に無関係な人はいない。性に関心がない人も、性を有している。
性的な視線にさらされているかもしているし、無意識のうちに性役割や文化を受け取っている。
だから、性を語ることは、すべての人について語ることになる。
この本を、LGBTの理解するための本と紹介するのはもったいないと思った。
すべての人が、自分は自分、これでいいんだと思えたら、少しだけ楽になれる。

男性と女性が結婚して、二人ぐらい子どもを持つことが当たり前だと思っている人たちがいある。
それが「普通だから」と思考停止している人に、それって本当?と確めたい。
これは、大人に読んでほしい本だなぁ。

2018.09.05

永善堂病院:もの忘れ外来

佐野香織 2018年9月5日刊行 ポプラ社

誰しも忘れたくないことがある。
忘れられないことではない。忘れたくないことだ。

主人公の佐倉奈美は、キャリアを断念して実家を離れ、祖父母の住む地方都市の物忘れ外来で働き始める。
様々な老いや死の物語が、若い女性の成長と回復の物語に転じていく。

ぴんぴんころりも、ねんねんころりも、どちらも、悲しいものである。
逝かねばならないものの押しつぶされそうな不安。
がんや認知症の病気そのもののダメージも人を不安にするが、それは死のとば口であるという認識が不安を大きくする。
自分はこれから死に向かって残り時間を過ごしていくのだと、改めて気づいてしまう瞬間から、情緒は波打ち、悲しみや怒り、様々な感情を引き起こす。

世界から人を隔絶する膜がある。見えない膜だ。
その膜は、病気だったり、傷つきだったり、孤独そのものだったりする。
祈りが膜を乗り越える時があることを信じるのが、支援職の仕事でもある。
見送らねばならないもののいつまでも尾を引く後悔を解きほどくこともだ。

すべての人が苦しみが少なく、心満ち足りて、静かに眠るように逝くことができるといいのに。
その人生の再晩年期を、その生きて働いてきた苦労が報われるようなものであってほしい。
老いや死を扱いながらも、可哀想な物語に仕立てあげることなく、爽やかで穏やかな気持ちになる稀有な物語だった。
なかでも、老医師夫婦の和解の物語が、とても素敵でたまらなかった。

レビー小体型認知症に前頭側頭型認知症、脳血管性認知症。
そう。認知症の種類は、アルツハイマー型だけではない。
サルコペニアやフレイルなど、馴染みがないとわかりづらい言葉もあるだろう。
老いや死は誰しも避けて通れないものであるが、自分や肉親がそうなってみないとわからない人もまだまだ多いと思う。
こういう物語の題材になることを通じて、これが当たり前に起きることだと、もっともっと身近なものになってほしいものだ。

死は、その人が最後にできる教育だと、私は思う。
主人公がそのプレゼントを受け取りながら成長していく。
誰かにそうやって受け継がれていくから、無駄な死は、無駄な生は、ひとつもない。
そうやって世界は、今日も回っていくだろう。

#永善堂病院 #NetGalleyJP

2018.01.22

サイコパス解剖学

春日武彦・平山夢明 2017 洋泉社

精神科医として、サイコパスのはっきりとした定義がないことを、春日氏は語る。
定義がないものを、平山氏が、こういうのはどうか、こういうことはどう考えたらいいかと、これでもかーこれでもかーと俎上の上に出してくる。
それってサイコパスかな?違うと思うなぁ。あ、でも、それはありか。と、サイコパスっぽいものを思い浮かべながら、この二人の言うサイコパスというものを捉えるのが第一章だ。

対談で語り合う二人の感覚と、自分の感覚の摺り寄せに、ひどくもやもやした。
わかりやすいなと思った特徴は、「他人を便利な道具、あるいは使えない道具として見ている」(p.42)だ。
反省や後悔しないこと。他者をコントロールしたがること。なにかずれている感じ。
論理はあるのに倫理ではない、ずれ具合が気持ち悪さの源泉になるようだ。

そのずれている感じや突き抜けている感じへに、人は憧れを持ってしまうのではないかと、平山氏は指摘する。
「サイコパスは文学的フィクション、『普通の人たち』による妄想の産物という気がするけどね」(p.48)という春日氏の指摘は、かなり大事な気がする。
これは、レクター博士のような典型的と言われる純粋なサイコパスとしか言えないようなキャラクター(もしくはパーソナリティ)のことであるのだろうけども。
そういう誰かに、むしろコントロールされて安心するという人というのも、それはそれで、どっかおかしい。

現実に起きたいくつかの大量の、あるいは、残虐な殺人の加害者を例にあげながら対談が進むあたりは興味深かった。
が、長谷川博一氏『殺人者はいかに誕生したか』を読んだ私は、その中の幾人かについては、サイコパスだからというだけでは割り切れないじくじくした思いがした。
そうせざるをえないなにがしかがある人と、なにがしかがない人の違いがあるように思う。
そして、そのなにがしかがない人は、想像上の産物なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
少なくとも、だれにでもサイコパスの芽があるのではないかという考え方は、フロイト以来の伝統的な考え方ではないかと思った。
誰しも、心の中に病理を抱えている。

それでも、「普通の人たち」はサイコパスという言葉を必要とする。
その言葉でしか言い表せないものがあるという、利便性や有用性に基づく必要性もあると思う。
自分にとって不可解だったり不愉快だったりする相手をののしるための言葉を、差別だなんだと自粛した結果として、日本語では非難されるから非難されにくい表現を転用しているという意味で。
やつらと自分は違うんだ、と、彼我を分けて、安心するために。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

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