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香桑の近況

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>>私の仕事

2018.01.22

サイコパス解剖学

春日武彦・平山夢明 2017 洋泉社

精神科医として、サイコパスのはっきりとした定義がないことを、春日氏は語る。
定義がないものを、平山氏が、こういうのはどうか、こういうことはどう考えたらいいかと、これでもかーこれでもかーと俎上の上に出してくる。
それってサイコパスかな?違うと思うなぁ。あ、でも、それはありか。と、サイコパスっぽいものを思い浮かべながら、この二人の言うサイコパスというものを捉えるのが第一章だ。

対談で語り合う二人の感覚と、自分の感覚の摺り寄せに、ひどくもやもやした。
わかりやすいなと思った特徴は、「他人を便利な道具、あるいは使えない道具として見ている」(p.42)だ。
反省や後悔しないこと。他者をコントロールしたがること。なにかずれている感じ。
論理はあるのに倫理ではない、ずれ具合が気持ち悪さの源泉になるようだ。

そのずれている感じや突き抜けている感じへに、人は憧れを持ってしまうのではないかと、平山氏は指摘する。
「サイコパスは文学的フィクション、『普通の人たち』による妄想の産物という気がするけどね」(p.48)という春日氏の指摘は、かなり大事な気がする。
これは、レクター博士のような典型的と言われる純粋なサイコパスとしか言えないようなキャラクター(もしくはパーソナリティ)のことであるのだろうけども。
そういう誰かに、むしろコントロールされて安心するという人というのも、それはそれで、どっかおかしい。

現実に起きたいくつかの大量の、あるいは、残虐な殺人の加害者を例にあげながら対談が進むあたりは興味深かった。
が、長谷川博一氏『殺人者はいかに誕生したか』を読んだ私は、その中の幾人かについては、サイコパスだからというだけでは割り切れないじくじくした思いがした。
そうせざるをえないなにがしかがある人と、なにがしかがない人の違いがあるように思う。
そして、そのなにがしかがない人は、想像上の産物なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
少なくとも、だれにでもサイコパスの芽があるのではないかという考え方は、フロイト以来の伝統的な考え方ではないかと思った。
誰しも、心の中に病理を抱えている。

それでも、「普通の人たち」はサイコパスという言葉を必要とする。
その言葉でしか言い表せないものがあるという、利便性や有用性に基づく必要性もあると思う。
自分にとって不可解だったり不愉快だったりする相手をののしるための言葉を、差別だなんだと自粛した結果として、日本語では非難されるから非難されにくい表現を転用しているという意味で。
やつらと自分は違うんだ、と、彼我を分けて、安心するために。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2017.08.16

いじめのある世界に生きる君たちへ:いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉

中井久夫 2016 中央公論新社

いじめには「立場の入れ替え」がない。
いじめの進行過程は、「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階がある。

わかりやすい説明は精神科医の中井久夫さん、絵はいわさきちひろさん。
絵本のような外見で、心理や教育の専門家でなくとも読みやすく、わかりやすい一冊となっている。
小学校高学年でも読めるようにと配慮されているとのこと。

解説というと、上から目線のようだが、著者自身のいじめの体験をベースにしたフラットな目線、語り掛けるような言葉遣いは、そっと寄り添うようだ。
自分の心のなかに何が起きているのか、体験を整理することに役立つと思う。
また、誰にも言えずにきたこと、誰にもわかってもらえずにきたことを、ちゃんとわかってもらえると感じられるのではないかと思う。
いじめ被害者が自殺を選ぶ理由のみならず、加害者の過剰に残酷になるメカニズムもわかる。

裏返せば、いじめであり、権力掌握のためのHow Toになってしまうことを、著者は恐れながら書いている。
いじめる子どもが、そのいじめの仕方を大人から学んでいることも、鋭い指摘だ。
大人にとっても、家庭内や会社、地域、国家で同様の現象に遭遇している可能性は高い。
だから、二重の意味で、大人には読んでおいてほしい。
予防としても、対処としても、対応しならければならないのは大人のほうである。

なかなかこちらのブログを更新する余裕がないのだが、素晴らしくよい本だったので慌てて書いた。
夏休みも終盤に入り、そろそろ、二学期が近づいてくると感じ始めるころではないか。
宿題なんかできていなくてもいい。友達がいなくてもいい。ちゃんとしなくちゃと、自分を追い詰める子が少ないといいな。
どうしても学校に行きたくない子が、生きたくないに転じてしまうことを心配している。
生きていることから逃げ出してしまうぐらいなら、学校から逃げ出してしまっていいんだよ。
今は見えない気持ちでいっぱいかもしれないけれど、生き延びる道はいくらでもあるからね。

すべての子どもと、かつて子どもだった人が、安心で安全で過ごせるように、今日も祈りたい。

2017.02.28

脳が壊れた

鈴木大介 2016 新潮新書

深刻な話なのに。
深刻な話なんだけど。
くすくす笑ってしまうぐらい、率直な文章が素敵だった。
イラストもユーモラスで、ほのぼのとしている。
笑ってしまってごめんなさいと思うけど、笑えるのは著者の人柄と、なにより生きていらっしゃるから。

41歳で脳梗塞になり、軽度の高次脳機能障害の後遺症を持つことになった体験記。
この人の『最貧困女子』を読み、ほかにはどんな本を書いていらっしゃるのか検索して、これを見つけた。
その瞬間、目が丸くなったと思う。
41歳で脳梗塞って大丈夫なのか!?
ていうか、脳梗塞って、大丈夫じゃないやん!?
と、びっくりしながら、概要を読み、これは読まねばなるまいてと、すぐに購入を決めた。

これは、読む価値がある。
高次脳機能障害という言葉に聞き慣れない人もいるかもしれない。
初めて聞いたとき、高次って、脳にひっかかるのか、脳機能にひっかかるのか、障害にひっかかるのか、これだけではよくわからないと思ったことを憶えている。
どんな症状が出るのか。どの治療やリハビリテーションをするのか。
頭部外傷や脳梗塞などの後遺症のひとつであるが、そこで起きる現象が、時に発達障害の妻の体験との共通項に気づくこと、著者がインタビューしてきた相手を想起させること、そこもひっくるめての体験談である。

病を得ることで、自分の生き方の見直しや御夫婦の関係の見直し、そして社会への提言と膨らんでいく。
全体を通じてテンションが高めであるのは、感情が大きくなりやすい障害であることと、助かったという安堵感と、気づいたことを伝えたいという願いだろう。
これは読んでよかったし、読めてよかった。

ある箇所で、デギン公をネットで調べてみた。
以来、思い出しては笑ってしまう。
どうしてもこのことは書き足しておきたくなった。

2017.01.14

大津中2いじめ自殺:学校はなぜ目を背けたのか 

共同通信大阪社会部 2013 PHP新書

読めば読むほど、腹が立って仕方なかった。
はらわたが煮えくり返るというか。
怒髪天を突くというか。
自分の中で、怒りがぐわぁっとこみ上げてくる。
読書でここまで腹が立つことって滅多にない。

いじめを苦にして自殺する子どものニュースは毎年のように報道される。
その中で、この件が特に記憶に残っているのは、ネットでの過激な反応と攻撃性の発露による。
匿名性を隠れ蓑にした個人がいじめ加害者と目される人物とその家族や学校関係者の個人情報の暴露が行い、それが無関係の別人にも及んだ。
鵜呑みにしたのか便乗したのか、教育長まで傷害事件の被害にあう。
単なる傍観者に過ぎないはずの第三者が、積極的に迫害者へと転じていった現象は、私は忘れられない。

その顛末もであるが、そもそも学校で何が起き、どうしてこうなったのか。
もう一度、全体を整理して見直したいと思い、購入したわけであるが、どこをどうとっても腹立たしく、やりきれない思いになる。
本書は直接的ないじめ加害者の分析ではなく、被害者が自殺にいたるまでに起きた学校での出来事や様子と、その後の学校の対応についての取材である。
これは意味が大きい。いじめは、数多くの傍観者によってエスカレートするが、この件では教職員が最大の傍観者となってしまった。
ひとつひとつが後手に回っていくもどかしさ。ここで誰かが気づいていれば。ここで誰かが声をかけていれば。ここで誰かが他の生徒に指導していれば。
ここで誰かが、この子を学校から避難させてあげることができれば。
誰も止めることがないまま心理的・身体的な暴力がエスカレートしていく過程は、結果が自殺と他殺の違いはあれど、川崎の中学生が殺害された事件と重なって見える。

大人は問題にしたくない時、平気で問題ないことにしてしまう。問題はなかったのが対策はないし、責任もない。そういう思考行動パターンをお役所仕事と呼ぶのではなかろうか。
担任の対応が不十分だったとしても、その人は異動したてであったという。新しい職場にすみやかに馴染めるかどうかは、人にもよるし、環境にもよる。その人が馴染むまで、十分なフォローを受けられなかったであろうことは、労働者として気の毒であったとは思う。
しかし、一番気の毒であったのは、亡くなった子である。そこを見失ってはならない。
そこを見失うから、その後の管理職らの対応がお粗末なものに「なれる」のだと思う。
保身や否認という態度は、自分のほうが可哀想という気持に裏打ちされていると考えるからである。

管理職を始めとする教員達が保身優先になったのは、ありがちであるとは思うし、その時の社会的な反響の大きさに対してますます防衛的になってしまったのかもしれない。
かといって肯定も受容も承認もできないが、ことに残念であったのはスクールカウンセラーの果たしてしまった役割である。

スクールカウンセラーは一般的にどのように考えられているかは横に置き、多くは週に1-2回、4-8時間程度の勤務であり、生徒や保護者との個別の面接や心理査定よりは、コンサルテーションを主として働かざるをえない職である。
相談室として個室をわりあてられているが、この時のスクールカウンセラーが職員室に机もあるというのが、よくあるパターンだと思う。
非常勤であるスクールカウンセラーは、まず教職員と日常的に交流をとることで教職員との信頼関係を築かなければならない。
教職員との交流を密にしないことには情報をもらいそこねることもあるし、まるで日常会話の一部のような肩肘をはらない形でのささやかな助言としてのコンサルテーションの積み重ねが、よく機能するスクールカウンセラーに必要なのだと思うのだが。
思うのだが、しかし。
確かに学校での滞在時間も短く、アクセス可能な情報には限りがあるとしても、もう少し生徒と関わることができていれば、自殺の原因は家庭であると、学校に保身の口実を与えずにすんだのではないかと残念に思う。
と同時に、これがスクールカウンセラーとして学校に入っていく心理士達にとって、大きな警句になると思うのだ。
誰のために、どんな仕事をするのか、自分なりに職務を見直してもらいたいと心から思った。

いじめはなくならないかもしれない。なくすことはありえないことかもしれない。
だとしたら尚更、いじめが発生した時の対応や工夫を磨くことが必要である。
なかったことにするのではなく。
その人の死から最大限に学びを得て、その死を無駄にしないことだけが、生きているものにできることなのだから、本書を読めてよかったと思う。

2016.11.14

赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア:自分を愛する力を取り戻す「心理教育」の本

白川美也子 2016 アスクヒューマンケア

トラウマ体験を赤ずきんちゃんの物語にとたえながら説明されている点で、イメージしやすい。
これをこのまま読んでいくことでセラピューティックに機能するような、よい心理教育のテキストである。
支援者にとっても、このたとえ方は安全だし、説明の仕方はわかりやすいし、漏れがないので、参考になることは間違いない。

トラウマと言えるほどの大きな傷つきの体験を、自分の中で蓋をすることでなんとか毎日をしのいでいる人もいるだろう。
それを抱え続けることで、どれほど、その人の気力を損ねたり、体力を削ったり、能力を奪ったり、生活を狭めたり、さまざまな影響が出てしまうことか。
トラウマという言葉は一時期、安易に使われている感じがしてならなかったが、数年置きに大災害がり、毎年のように大事故があり、日々、虐待や事件は起きている。
そういった大きな傷つきの体験は、一朝一夕に癒えるものではないとしても、乗り越えうるものだという希望はなくさないでもらいたいものだ。
だからこそ、そのままにしないで、「自分を愛する力」を取り戻してもらいたい。

とはいえ、だ。
読んでいると、私自身はm悪夢が増えて、出来事を想起する回数が増えて、少々、つらい思いをした。それで熟読は避けた部分もある。
知識は役立つ。しかし、どうしても記憶を賦活する刺激になる。
だから、当事者の方が読む場合は、P.24に紹介されている安全な場所のエクササイズを必ず練習してから、続きを読むようにしてほしい。

2016.11.11

f植物園の巣穴

梨木香歩 2012 朝日文庫

主人公は園丁で、植物園に勤務している。
いくつも出てくる草木を、それとわからぬ時には、一つ一つ調べながら読み進めた。
戦前の文学を読んでいるかのような文体に、一度目は途中で投げ出した本だった。
久しぶりに取り出して読み始めた時、丁寧に草木を調べながら、景色を思い浮かべるようにしてみた。
梨木さんの文章に無駄がないように思う。
だから、わからないところを飛ばすのではなく、一つ一つ立ち止まりながら、主人公が迷いこんだ町を歩いてみようと思ったのだ。

萩原朔太郎『猫町』や、宮沢賢治が描くような、現実から地続きの異世界を思い出す。
もしくは、ジブリの『千と千尋の神隠し』。
先ほどまでは普通の現実の世界だったのに、自分でも気づかぬうちに幻想の世界をさまよっているのだ。
気づいていないから、いつも通りの行動をとろうとする自分。
しかし、いつも通りにはありえないことが次に次に起きる。
人の頭が雌鳥に見えたり、歯科医の家内の前世が犬だったり、お稲荷様が世話を焼いてくださったり。

これは夢の世界。
夢の中では、不思議なことがよく起こる。
情報が圧縮されて、自分の中で似ているものが重なり合ったり、違う姿で現されたりする。
人は自分の心を守るためにさまざまな防衛をしている。
自分に都合が悪いことは、別のものに置き換えて記憶されていたりする。
意識は、だから自分の無意識にしまったものをすっかり忘れていることもある。
夢の中で、人は記憶を整理する。
意識では処理しきれないも痛手を、無意識が解決しようと、何度も何度もトライする。
ほったらかしにしたら心が立ち行かなくなるような失敗も、夢の中なら安全に扱える。
そうやって処理していく過程だと気づいた時から、物語の不思議がすうっと私自身になじんだ気がする。
夢/無意識の中で起きる現象を、上手に取り入れて、かつ、表現された物語だった。

解説の通り、読み終えてから再び冒頭に戻って読み始めると、さまざまな小さな単語やエピソードが、実は全体を暗示する象徴であったことがわかる。
理性と知性が幾重にも防衛した奥底に流れる川は時間であり、無意識である。
時間を正しくさかのぼり、正しい流れにすることを、心が求めていたのだろう。
もう記憶を迂回をしなくても、正しい流れになる日が来たと知っていたのだろう。
静かな感動がひたひたと胸に溢れてくるような物語だった。

大きな悲しみを味わったことのある人の、心の過程をこれほど美しく描いてあるとは。
ずっとほったらかしにしたことを、もったいないことをしたと思ったが、これも今だから味わえたことと思うことにしたい。

2014.09.13

セラピスト

最相葉月 2014 新潮社

この本の感想を述べるのは難しい。
人の心をのぞき見る部分があるため、へたな論評を加えたくない気持ちになる。

心理臨床というものは、茫洋として表現しづらいものである。
言葉で表しきれないもの、言葉で表すときに置いてきぼりになるものをすくいあげるような営みであるためか、その営みそれ自体が言葉になりづらさを有している。
また、治療者によって千差万別、相談者によっても千差万別。そこは、相談者にあわせてのオーダーメイドになるものだからこそ、プロセスそのものも千差万別。
それを簡単に言葉で表すことは難しい。
カウンセリングなるものへの不信感や限界を感じた時、それを取材するにあたって、著者自身がまず院で勉強しなければ語ることが難しいと感じたのもむべなるかな。
そして、著者自身が言葉に限界を感じるとに限界を感じたこともあり、大きく取り上げられているのは、箱庭療法や描画法である。

本当に、カウンセリングというものは、かなり曖昧な世界である。どうやって国家資格化するのだろうと趨勢を眺めつつも、心という曖昧なものと取り組むには、取り組む側にも有象無象である必要があるのではないか。
私はこの有象無象な状況に居心地のよさを感じたりもするのであるが。
曖昧さや複雑さ、抽象的でとらえどころのない、言葉になりきれないというのは、まさに、心の特性だと思われる。
単純明快に割り切るのではなく、そういった割り切れないもの抱えられるようになることも、心の成長の一つの目標である。これを専門用語で不安耐性と言ったりする。

セラピストにとって、その業界の外からはどのように見られているのか。どのような誤解があり、理解があるのか。
どういったことがわかりづらかったり、どのようなことが受け入れられやすいのか。
著者の目線は臨床心理を学びながら取材したとはいえ、クライアントよりの目線だ。数々の素朴な疑問が、逆によい味を出している。
そこから紡がれる言葉は、セラピストがセラピストである自分とセラピストへの期待を客観的に見直す手がかりになる書である。
しかし、なんと言っても、著者がインタビューした臨床家たちが中井久夫を筆頭にビッグネーム揃いということ。その臨床を垣間見ることができる資料としても貴重ではないか。

興味深かったのは、カウンセリングがGHQ主導で日本に普及していった経緯である。この時代を語らずして、日本では心理療法と言えばロジャリアンのカウンセリングとイコールであるかのように認知されているかが説明できない。
こういった歴史的な過程は、これまであまり整理されてこなかったように思う。
思えば、私が師事した臨床心理学の教授が大甕に全国から集まってとか、河合隼男
や小此木圭吾らと学んだとか、あーだこーだと話し合ったとか、そんな話をしていたことがあった。
いくつかの集会や勉強会の話が重複していたのかもしれない。もっとしっかり聞いておけばよかったなぁ。
彼は間違いなく、日本におけるカウンセラーの第一世代だった。自分達は本を読んでそれを実践していた、何でも試してみていたのに、今になってこの療法には資格がいるとか、セミナーを受けなければいけないと金を取るのはおかしいと気炎を吐いていたことを思い出す。
その教授も鬼籍に入った。彼ら第一世代がこの世を去りつつあり、それ以降の人間が事情を文章に残すことで、出来事が歴史の一こまにおさまる。
私の体験と、活字にされた情報が結びつく。なんだかとても感慨深かった。

2014.09.10

明日の子供たち

有川 浩 2014 幻冬舎

舞台は児童養護施設。
そこで生活しているからといって、可哀想だと思わないでほしい。
そう胸をはる高校生女子の言葉に、戸惑いながらへこみながら成長していく新人スタッフが主人公。

よく取材してあるのだと思う。
現場でありがちな心のすれ違い、言葉の行き違い。
スタッフを志しそうな動機、心折れてしまいがちな人のタイプ、やっていける人との違い。生ぬるく甘ったるいボランタリー精神ではなくて、職業としてのプロ意識がほしい。
支援の限界、そもそもの施設の目標、現実の壁。義務教育が終わった時点で、高校に進学できなければ、施設を出て就労することが求められる。まったはない。
不自由はあろう。でも、子ども達だってばかではない。子ども達なりに現実を見て、学んで、考えている。

だってさ。
これだけ虐待死のニュースがあるんだよ?
それなのに、どうして、実の両親と生活することだけ幸せだなんて言えるのかな。
どうして、そんなに無邪気で、無責任に、見当違いの同情や正義を振りかざせるのだろう。
相手を可哀想だと決め付けることは、時には上から目線だ。対岸の火事だ。遠見の見物だ。相手を可哀想だと思う自分の優しさに陶酔する響きと、自分の優位を確認する作業が潜むことがある。そうじゃないこともある。
誰も、その人の親ならばできた以上に愛情を注ぐことはかなわなくても、暴力や苦痛の中に子どもを無理に押し込むことはないんじゃないのかな。
残念だけど、離れて初めて平和でいられる関係もあると思うのだ。

こういうシビアな社会問題を扱うとき、過度に感傷的にならない有川さんの語り口に好感を持つ。
決してお涙頂戴にせず、現実の厳しさを織り交ぜながら、叱咤激励と問題提起を同時に行う。
児童臨床や児童福祉に関わる人が読んでも、違和感は少ないと思われる。
お涙頂戴ではないのだけれども、最後は泣いてしまったけどね。

可哀想の言葉が、単なる上から目線の同情ではなく、がんばっている子がいるんだなぁという驚きや励ましとして響けばいいのだけど。
悪いことばかりじゃなかった、嫌なことばかりじゃなかった、自分を思ってくれた大人もいたんだという体験が、その子の明日を支える糧になるといいな。
施設=可哀想と決めてかかっている人の目に、手にとまればいいな。

2014.05.01

「ストーカー」は何を考えているか

小早川明子 2014 新潮新書

非常に勉強になった。
読み進めていくうちに気づいたが、この著者をテレビで見かけたことがある。
加害者のアセスメント、案件の緊急度のアセスメントのトリアージに見覚えがあった。

私自身、つきまとい行為について、2度ほど、警察に相談に行ったことがある。
間にはずいぶんの時間が空いており、相手は別の人であったのだが、きちんとうまく別れることの難しさを痛感している。
自分自身もまた、別れを切り出されたときに、うまく受け止めきれずにあがいた記憶があり、被害者も加害者も同根であるとの思いも持っている。
それを認めるのはいささか恥ずかしいことであるが、本書を読んで、何度もあるあるあるとうなずいたし、相手がどうしてそうせざるを得なかったのか、改めて考える機会になった。

この著者も「私は、恋愛をした責任は双方にあると考えます」(p.194)と言い切っており、本当にその通りだと思う。
責任というのは、私は結果を引き受けること、現実を受け止めること、うまくいかなかったならいかなかったことのぐしっとした気持を味わうことだと思う。
著者は、「人じゃ、自分が理解されて初めて責任能力が回復します。ここでいう責任とは、自分を取り巻く現実に対する、自発的な応答力のことです」(p.169)と定義する。
だからこそ、この言葉が生きる。

自分の感情は、誰かにぶつけるのではなく、自分が責任を持って処理するものです。(p.157)

人間関係において、加害-被害関係は、客観的に見て、事実として、その責任が100-0のことは少ないと思う。
コミュニケーションは双方向であり、お互いに傷つけあったり、愛し合ったりしてきたのだから。
しかし、自称「被害者」となったとき、100%被害者であると自分が感じたときに、相手が100%が悪いと考えて、迫害者に転じる現象が起きることがある。
そのような転換が、ストーカーの中に起きているのではないかと考えている。
つまり、被害の意識が、被害者にも、加害者にもある。
つきまとわれている方にも失敗や問題や下手糞さが、いくばくはあったこともあったかもしれない。なかったかもしれない。それはケースバイケース。
ただ、加害者の被害の意識というところに、介入の糸口があることを、本書で再確認したように思う。

そういう意味では、課題は、予期せぬ別れや望まぬ別れをどう受け止めるか、なのだろう。
「女性の場合、「過去を美化する」ことが別れる力を底上げします」(p.55)というのは、非常に納得がいく。
同時に、余計に傷つけるような言葉や暴力をぶつけないように、うまく別れるという技法だって必要なのだ。

人の心は移ろうものである。

その現実を受け止めていきたいものだ。
これからさきも、人生は、まだまだ続くのだもの。

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