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香桑の近況

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>>私の仕事

2017.02.28

脳が壊れた

鈴木大介 2016 新潮新書

深刻な話なのに。
深刻な話なんだけど。
くすくす笑ってしまうぐらい、率直な文章が素敵だった。
イラストもユーモラスで、ほのぼのとしている。
笑ってしまってごめんなさいと思うけど、笑えるのは著者の人柄と、なにより生きていらっしゃるから。

41歳で脳梗塞になり、軽度の高次脳機能障害の後遺症を持つことになった体験記。
この人の『最貧困女子』を読み、ほかにはどんな本を書いていらっしゃるのか検索して、これを見つけた。
その瞬間、目が丸くなったと思う。
41歳で脳梗塞って大丈夫なのか!?
ていうか、脳梗塞って、大丈夫じゃないやん!?
と、びっくりしながら、概要を読み、これは読まねばなるまいてと、すぐに購入を決めた。

これは、読む価値がある。
高次脳機能障害という言葉に聞き慣れない人もいるかもしれない。
初めて聞いたとき、高次って、脳にひっかかるのか、脳機能にひっかかるのか、障害にひっかかるのか、これだけではよくわからないと思ったことを憶えている。
どんな症状が出るのか。どの治療やリハビリテーションをするのか。
頭部外傷や脳梗塞などの後遺症のひとつであるが、そこで起きる現象が、時に発達障害の妻の体験との共通項に気づくこと、著者がインタビューしてきた相手を想起させること、そこもひっくるめての体験談である。

病を得ることで、自分の生き方の見直しや御夫婦の関係の見直し、そして社会への提言と膨らんでいく。
全体を通じてテンションが高めであるのは、感情が大きくなりやすい障害であることと、助かったという安堵感と、気づいたことを伝えたいという願いだろう。
これは読んでよかったし、読めてよかった。

ある箇所で、デギン公をネットで調べてみた。
以来、思い出しては笑ってしまう。
どうしてもこのことは書き足しておきたくなった。

2017.01.14

大津中2いじめ自殺:学校はなぜ目を背けたのか 

共同通信大阪社会部 2013 PHP新書

読めば読むほど、腹が立って仕方なかった。
はらわたが煮えくり返るというか。
怒髪天を突くというか。
自分の中で、怒りがぐわぁっとこみ上げてくる。
読書でここまで腹が立つことって滅多にない。

いじめを苦にして自殺する子どものニュースは毎年のように報道される。
その中で、この件が特に記憶に残っているのは、ネットでの過激な反応と攻撃性の発露による。
匿名性を隠れ蓑にした個人がいじめ加害者と目される人物とその家族や学校関係者の個人情報の暴露が行い、それが無関係の別人にも及んだ。
鵜呑みにしたのか便乗したのか、教育長まで傷害事件の被害にあう。
単なる傍観者に過ぎないはずの第三者が、積極的に迫害者へと転じていった現象は、私は忘れられない。

その顛末もであるが、そもそも学校で何が起き、どうしてこうなったのか。
もう一度、全体を整理して見直したいと思い、購入したわけであるが、どこをどうとっても腹立たしく、やりきれない思いになる。
本書は直接的ないじめ加害者の分析ではなく、被害者が自殺にいたるまでに起きた学校での出来事や様子と、その後の学校の対応についての取材である。
これは意味が大きい。いじめは、数多くの傍観者によってエスカレートするが、この件では教職員が最大の傍観者となってしまった。
ひとつひとつが後手に回っていくもどかしさ。ここで誰かが気づいていれば。ここで誰かが声をかけていれば。ここで誰かが他の生徒に指導していれば。
ここで誰かが、この子を学校から避難させてあげることができれば。
誰も止めることがないまま心理的・身体的な暴力がエスカレートしていく過程は、結果が自殺と他殺の違いはあれど、川崎の中学生が殺害された事件と重なって見える。

大人は問題にしたくない時、平気で問題ないことにしてしまう。問題はなかったのが対策はないし、責任もない。そういう思考行動パターンをお役所仕事と呼ぶのではなかろうか。
担任の対応が不十分だったとしても、その人は異動したてであったという。新しい職場にすみやかに馴染めるかどうかは、人にもよるし、環境にもよる。その人が馴染むまで、十分なフォローを受けられなかったであろうことは、労働者として気の毒であったとは思う。
しかし、一番気の毒であったのは、亡くなった子である。そこを見失ってはならない。
そこを見失うから、その後の管理職らの対応がお粗末なものに「なれる」のだと思う。
保身や否認という態度は、自分のほうが可哀想という気持に裏打ちされていると考えるからである。

管理職を始めとする教員達が保身優先になったのは、ありがちであるとは思うし、その時の社会的な反響の大きさに対してますます防衛的になってしまったのかもしれない。
かといって肯定も受容も承認もできないが、ことに残念であったのはスクールカウンセラーの果たしてしまった役割である。

スクールカウンセラーは一般的にどのように考えられているかは横に置き、多くは週に1-2回、4-8時間程度の勤務であり、生徒や保護者との個別の面接や心理査定よりは、コンサルテーションを主として働かざるをえない職である。
相談室として個室をわりあてられているが、この時のスクールカウンセラーが職員室に机もあるというのが、よくあるパターンだと思う。
非常勤であるスクールカウンセラーは、まず教職員と日常的に交流をとることで教職員との信頼関係を築かなければならない。
教職員との交流を密にしないことには情報をもらいそこねることもあるし、まるで日常会話の一部のような肩肘をはらない形でのささやかな助言としてのコンサルテーションの積み重ねが、よく機能するスクールカウンセラーに必要なのだと思うのだが。
思うのだが、しかし。
確かに学校での滞在時間も短く、アクセス可能な情報には限りがあるとしても、もう少し生徒と関わることができていれば、自殺の原因は家庭であると、学校に保身の口実を与えずにすんだのではないかと残念に思う。
と同時に、これがスクールカウンセラーとして学校に入っていく心理士達にとって、大きな警句になると思うのだ。
誰のために、どんな仕事をするのか、自分なりに職務を見直してもらいたいと心から思った。

いじめはなくならないかもしれない。なくすことはありえないことかもしれない。
だとしたら尚更、いじめが発生した時の対応や工夫を磨くことが必要である。
なかったことにするのではなく。
その人の死から最大限に学びを得て、その死を無駄にしないことだけが、生きているものにできることなのだから、本書を読めてよかったと思う。

2016.11.14

赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア:自分を愛する力を取り戻す「心理教育」の本

白川美也子 2016 アスクヒューマンケア

トラウマ体験を赤ずきんちゃんの物語にとたえながら説明されている点で、イメージしやすい。
これをこのまま読んでいくことでセラピューティックに機能するような、よい心理教育のテキストである。
支援者にとっても、このたとえ方は安全だし、説明の仕方はわかりやすいし、漏れがないので、参考になることは間違いない。

トラウマと言えるほどの大きな傷つきの体験を、自分の中で蓋をすることでなんとか毎日をしのいでいる人もいるだろう。
それを抱え続けることで、どれほど、その人の気力を損ねたり、体力を削ったり、能力を奪ったり、生活を狭めたり、さまざまな影響が出てしまうことか。
トラウマという言葉は一時期、安易に使われている感じがしてならなかったが、数年置きに大災害がり、毎年のように大事故があり、日々、虐待や事件は起きている。
そういった大きな傷つきの体験は、一朝一夕に癒えるものではないとしても、乗り越えうるものだという希望はなくさないでもらいたいものだ。
だからこそ、そのままにしないで、「自分を愛する力」を取り戻してもらいたい。

とはいえ、だ。
読んでいると、私自身はm悪夢が増えて、出来事を想起する回数が増えて、少々、つらい思いをした。それで熟読は避けた部分もある。
知識は役立つ。しかし、どうしても記憶を賦活する刺激になる。
だから、当事者の方が読む場合は、P.24に紹介されている安全な場所のエクササイズを必ず練習してから、続きを読むようにしてほしい。

2016.11.11

f植物園の巣穴

梨木香歩 2012 朝日文庫

主人公は園丁で、植物園に勤務している。
いくつも出てくる草木を、それとわからぬ時には、一つ一つ調べながら読み進めた。
戦前の文学を読んでいるかのような文体に、一度目は途中で投げ出した本だった。
久しぶりに取り出して読み始めた時、丁寧に草木を調べながら、景色を思い浮かべるようにしてみた。
梨木さんの文章に無駄がないように思う。
だから、わからないところを飛ばすのではなく、一つ一つ立ち止まりながら、主人公が迷いこんだ町を歩いてみようと思ったのだ。

萩原朔太郎『猫町』や、宮沢賢治が描くような、現実から地続きの異世界を思い出す。
もしくは、ジブリの『千と千尋の神隠し』。
先ほどまでは普通の現実の世界だったのに、自分でも気づかぬうちに幻想の世界をさまよっているのだ。
気づいていないから、いつも通りの行動をとろうとする自分。
しかし、いつも通りにはありえないことが次に次に起きる。
人の頭が雌鳥に見えたり、歯科医の家内の前世が犬だったり、お稲荷様が世話を焼いてくださったり。

これは夢の世界。
夢の中では、不思議なことがよく起こる。
情報が圧縮されて、自分の中で似ているものが重なり合ったり、違う姿で現されたりする。
人は自分の心を守るためにさまざまな防衛をしている。
自分に都合が悪いことは、別のものに置き換えて記憶されていたりする。
意識は、だから自分の無意識にしまったものをすっかり忘れていることもある。
夢の中で、人は記憶を整理する。
意識では処理しきれないも痛手を、無意識が解決しようと、何度も何度もトライする。
ほったらかしにしたら心が立ち行かなくなるような失敗も、夢の中なら安全に扱える。
そうやって処理していく過程だと気づいた時から、物語の不思議がすうっと私自身になじんだ気がする。
夢/無意識の中で起きる現象を、上手に取り入れて、かつ、表現された物語だった。

解説の通り、読み終えてから再び冒頭に戻って読み始めると、さまざまな小さな単語やエピソードが、実は全体を暗示する象徴であったことがわかる。
理性と知性が幾重にも防衛した奥底に流れる川は時間であり、無意識である。
時間を正しくさかのぼり、正しい流れにすることを、心が求めていたのだろう。
もう記憶を迂回をしなくても、正しい流れになる日が来たと知っていたのだろう。
静かな感動がひたひたと胸に溢れてくるような物語だった。

大きな悲しみを味わったことのある人の、心の過程をこれほど美しく描いてあるとは。
ずっとほったらかしにしたことを、もったいないことをしたと思ったが、これも今だから味わえたことと思うことにしたい。

2014.09.13

セラピスト

最相葉月 2014 新潮社

この本の感想を述べるのは難しい。
人の心をのぞき見る部分があるため、へたな論評を加えたくない気持ちになる。

心理臨床というものは、茫洋として表現しづらいものである。
言葉で表しきれないもの、言葉で表すときに置いてきぼりになるものをすくいあげるような営みであるためか、その営みそれ自体が言葉になりづらさを有している。
また、治療者によって千差万別、相談者によっても千差万別。そこは、相談者にあわせてのオーダーメイドになるものだからこそ、プロセスそのものも千差万別。
それを簡単に言葉で表すことは難しい。
カウンセリングなるものへの不信感や限界を感じた時、それを取材するにあたって、著者自身がまず院で勉強しなければ語ることが難しいと感じたのもむべなるかな。
そして、著者自身が言葉に限界を感じるとに限界を感じたこともあり、大きく取り上げられているのは、箱庭療法や描画法である。

本当に、カウンセリングというものは、かなり曖昧な世界である。どうやって国家資格化するのだろうと趨勢を眺めつつも、心という曖昧なものと取り組むには、取り組む側にも有象無象である必要があるのではないか。
私はこの有象無象な状況に居心地のよさを感じたりもするのであるが。
曖昧さや複雑さ、抽象的でとらえどころのない、言葉になりきれないというのは、まさに、心の特性だと思われる。
単純明快に割り切るのではなく、そういった割り切れないもの抱えられるようになることも、心の成長の一つの目標である。これを専門用語で不安耐性と言ったりする。

セラピストにとって、その業界の外からはどのように見られているのか。どのような誤解があり、理解があるのか。
どういったことがわかりづらかったり、どのようなことが受け入れられやすいのか。
著者の目線は臨床心理を学びながら取材したとはいえ、クライアントよりの目線だ。数々の素朴な疑問が、逆によい味を出している。
そこから紡がれる言葉は、セラピストがセラピストである自分とセラピストへの期待を客観的に見直す手がかりになる書である。
しかし、なんと言っても、著者がインタビューした臨床家たちが中井久夫を筆頭にビッグネーム揃いということ。その臨床を垣間見ることができる資料としても貴重ではないか。

興味深かったのは、カウンセリングがGHQ主導で日本に普及していった経緯である。この時代を語らずして、日本では心理療法と言えばロジャリアンのカウンセリングとイコールであるかのように認知されているかが説明できない。
こういった歴史的な過程は、これまであまり整理されてこなかったように思う。
思えば、私が師事した臨床心理学の教授が大甕に全国から集まってとか、河合隼男
や小此木圭吾らと学んだとか、あーだこーだと話し合ったとか、そんな話をしていたことがあった。
いくつかの集会や勉強会の話が重複していたのかもしれない。もっとしっかり聞いておけばよかったなぁ。
彼は間違いなく、日本におけるカウンセラーの第一世代だった。自分達は本を読んでそれを実践していた、何でも試してみていたのに、今になってこの療法には資格がいるとか、セミナーを受けなければいけないと金を取るのはおかしいと気炎を吐いていたことを思い出す。
その教授も鬼籍に入った。彼ら第一世代がこの世を去りつつあり、それ以降の人間が事情を文章に残すことで、出来事が歴史の一こまにおさまる。
私の体験と、活字にされた情報が結びつく。なんだかとても感慨深かった。

2014.09.10

明日の子供たち

有川 浩 2014 幻冬舎

舞台は児童養護施設。
そこで生活しているからといって、可哀想だと思わないでほしい。
そう胸をはる高校生女子の言葉に、戸惑いながらへこみながら成長していく新人スタッフが主人公。

よく取材してあるのだと思う。
現場でありがちな心のすれ違い、言葉の行き違い。
スタッフを志しそうな動機、心折れてしまいがちな人のタイプ、やっていける人との違い。生ぬるく甘ったるいボランタリー精神ではなくて、職業としてのプロ意識がほしい。
支援の限界、そもそもの施設の目標、現実の壁。義務教育が終わった時点で、高校に進学できなければ、施設を出て就労することが求められる。まったはない。
不自由はあろう。でも、子ども達だってばかではない。子ども達なりに現実を見て、学んで、考えている。

だってさ。
これだけ虐待死のニュースがあるんだよ?
それなのに、どうして、実の両親と生活することだけ幸せだなんて言えるのかな。
どうして、そんなに無邪気で、無責任に、見当違いの同情や正義を振りかざせるのだろう。
相手を可哀想だと決め付けることは、時には上から目線だ。対岸の火事だ。遠見の見物だ。相手を可哀想だと思う自分の優しさに陶酔する響きと、自分の優位を確認する作業が潜むことがある。そうじゃないこともある。
誰も、その人の親ならばできた以上に愛情を注ぐことはかなわなくても、暴力や苦痛の中に子どもを無理に押し込むことはないんじゃないのかな。
残念だけど、離れて初めて平和でいられる関係もあると思うのだ。

こういうシビアな社会問題を扱うとき、過度に感傷的にならない有川さんの語り口に好感を持つ。
決してお涙頂戴にせず、現実の厳しさを織り交ぜながら、叱咤激励と問題提起を同時に行う。
児童臨床や児童福祉に関わる人が読んでも、違和感は少ないと思われる。
お涙頂戴ではないのだけれども、最後は泣いてしまったけどね。

可哀想の言葉が、単なる上から目線の同情ではなく、がんばっている子がいるんだなぁという驚きや励ましとして響けばいいのだけど。
悪いことばかりじゃなかった、嫌なことばかりじゃなかった、自分を思ってくれた大人もいたんだという体験が、その子の明日を支える糧になるといいな。
施設=可哀想と決めてかかっている人の目に、手にとまればいいな。

2014.05.01

「ストーカー」は何を考えているか

小早川明子 2014 新潮新書

非常に勉強になった。
読み進めていくうちに気づいたが、この著者をテレビで見かけたことがある。
加害者のアセスメント、案件の緊急度のアセスメントのトリアージに見覚えがあった。

私自身、つきまとい行為について、2度ほど、警察に相談に行ったことがある。
間にはずいぶんの時間が空いており、相手は別の人であったのだが、きちんとうまく別れることの難しさを痛感している。
自分自身もまた、別れを切り出されたときに、うまく受け止めきれずにあがいた記憶があり、被害者も加害者も同根であるとの思いも持っている。
それを認めるのはいささか恥ずかしいことであるが、本書を読んで、何度もあるあるあるとうなずいたし、相手がどうしてそうせざるを得なかったのか、改めて考える機会になった。

この著者も「私は、恋愛をした責任は双方にあると考えます」(p.194)と言い切っており、本当にその通りだと思う。
責任というのは、私は結果を引き受けること、現実を受け止めること、うまくいかなかったならいかなかったことのぐしっとした気持を味わうことだと思う。
著者は、「人じゃ、自分が理解されて初めて責任能力が回復します。ここでいう責任とは、自分を取り巻く現実に対する、自発的な応答力のことです」(p.169)と定義する。
だからこそ、この言葉が生きる。

自分の感情は、誰かにぶつけるのではなく、自分が責任を持って処理するものです。(p.157)

人間関係において、加害-被害関係は、客観的に見て、事実として、その責任が100-0のことは少ないと思う。
コミュニケーションは双方向であり、お互いに傷つけあったり、愛し合ったりしてきたのだから。
しかし、自称「被害者」となったとき、100%被害者であると自分が感じたときに、相手が100%が悪いと考えて、迫害者に転じる現象が起きることがある。
そのような転換が、ストーカーの中に起きているのではないかと考えている。
つまり、被害の意識が、被害者にも、加害者にもある。
つきまとわれている方にも失敗や問題や下手糞さが、いくばくはあったこともあったかもしれない。なかったかもしれない。それはケースバイケース。
ただ、加害者の被害の意識というところに、介入の糸口があることを、本書で再確認したように思う。

そういう意味では、課題は、予期せぬ別れや望まぬ別れをどう受け止めるか、なのだろう。
「女性の場合、「過去を美化する」ことが別れる力を底上げします」(p.55)というのは、非常に納得がいく。
同時に、余計に傷つけるような言葉や暴力をぶつけないように、うまく別れるという技法だって必要なのだ。

人の心は移ろうものである。

その現実を受け止めていきたいものだ。
これからさきも、人生は、まだまだ続くのだもの。

2014.02.14

統合失調症がやってきた

ハウス加賀谷・松本キック 2013 イースト・プレス

雑誌で見て、すぐに購入した本。
私は芸能界にうとく、テレビを見ることも少ない。
だから、ハウス加賀谷さんの記憶もぼんやりしている。

子ども時代から発症するまでのあたりを読むと、胸が痛かった。
この本を書くのは、大仕事であっただろうに。
自分の状態が悪かったときを思い出すだけで調子を崩しそうと思ったら、あとがきで吐き気が止まらなかったと書いてあった。
これは数あるエピソードのうちのほんの一部をつづったものだと思うのだが、患者さんが体験する世界がありありと描いてあった。

同様の疾患を体験している人が読むと、だからこそ、苦しくなるかもしれない。
しかし、治療について大事なことが書いてある。それは、元通りかもしれないけれども、再び、芸人として生活を始めた人もいるという希望である。
家族など、身近に患者さんがいる人たちにも、どんな病気、どんな体験なのか、理解する手がかりになると思う。
一番は、統合失調症という病気を、まったく身近には感じていない人にも読んでもらいたい。

相方のキックさんの関わり方もなんだかいいのだ。
病気だからとわけへだてしない感じ。
加賀谷さんが受けた偏見や差別も、やっぱりそういうことはあるだろうと想像がつくからこそ、キックさんの関わり方がなんだかいいなぁってなるのだ。

にしても。
加賀谷さんとまったく同じ理由で『罪と罰』に挫折した。
それも、やっぱりあるよね!と力いっぱい思った。

2013.12.01

ラカンの精神分析

新宮一成 1995 講談社現代新書

なんで買っちゃったんだろう。の一冊。
読むとわけわかんねーと頭の中がぐるぐるしてくる。
一瞬はふむふむと納得しても、頭の中に残らないのだ…。
きっと自分の読解力の限界に挑戦したくなったときに買ったんだろう。
当然、読まずに積んで数年。しかし、何も刺激のない環境だと意外に読めるもんだ。

筆者の語り口は真面目のようで、時々しれっとユーモアが混じる。
多分、これは精一杯わかりやすいラカンの解説な気がする。
しかして、なぜに、ドラコンボールまで出てくるよ…。しかも、神話って。

鍵概念の対象αであるが、人がSNSに傾倒する理由をよく表すことができるように思われた。
人は自ら自分がなにものであるかを語る言葉を不十分にしか持っていない。
そこで、プロフィール画面の自己紹介では足りず、フレンドからの紹介文を希求する。
他者のつぶやきや日誌で自分が語られることを希求し、その語りのなかに自分がなにものであるかを見直す。
しかし、それは受け身的な体験であり、好ましからざる語りも黙して引き受けねばならない。
その他者によって語られている自分が対象αであり、その語りには他者の欲望が含まれている。

なんか、色々分かりやすくなったぞ。なったのか?
…まぁ、いいや。

平行して起きたバーチャルな世界のあれこれと重ね合わせながら読んだ。
この理論を他者に説明できるほど精通してなくとも、私はすでに臨床にある程度は活かしている。
他者を関係性の中で理解するときのテクニックとして、それは活かされてくる。
学者ではなく臨床家の立場として、使えるからこれ以上はパス!と区切ることにする。

そうなのだ。難しいという評判ばかり聞いて、ラカンの本は読まなかった。
でも、私は既に学んでいた。大学の現代哲学の講義で、記号論を中心に。精神分析のセミナーでフロイトやクラインを。趣味の読書で、レヴィ=ストロースやウィトゲンシュタインを。
ラカンがレヴィ=ストロースにちかしく考察しているのはありありとわかるのに、一回だけラカンのセミナーに出席したレヴィ=ストロースが「全然わからなかった」とラカンをシャーマンに見立てたというエピソードがいい。
ラカン、報われない男だなぁ。色々と。

日々、言葉につまる、そのままの事象をみいだす。
私はなにものであるか。
その言葉を私は持たない。
他者による説明を欲する。
他者による説明を私が再現しようとすると、その表現は嘘臭くなる。
その繰り返し。
真理は他者を要求する。

ああ。だから、君は君って言ってもらったことが、とても大きな体験だったんだ。
そこだけ納得。

2012.02.14

絶望名人カフカの人生論

フランツ・カフカ 頭木弘樹(訳) 2011 飛鳥新社

私は愚痴っぽい。弱音も吐くし、言い訳がましい。
が。
カフカには負けるなぁ。ここまで突き抜けたら、いっそすごいと思うんだ。
この本が、最近の一番のお気に入りで、一押しだったりする。

誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。
しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。(p.148)

こんな日(2月14日)にこんなこと言われちゃったら、しばらく浮上できなくなりそうだ。既に似たようなことを私は言われているような気はするが……。
カフカの場合、これは日記の中の言葉であるから、相手というのは自分であって、自分に言い聞かせていると読むことができるだろう。
3度も婚約して、3度とも結婚に至らなかったカフカの、恋愛の空回り具合が身に染みる。他人事には思えなくて、遠い目をしてみた。
普通に憧れるのだ。それが手が届かないぐらい、高みにあるように感じる。ほかの人にとっての普通が、どうにも難しく感じてしまう。
比べるならば、ダンテの愛は持続的に空回って他者に大盤で振る舞われたが、カフカの愛は急速に自己の内側へと奥底へと空回る。

この本は、カフカの手紙や日記からの引用に、訳者が解説を加えている形式だ。
私はカフカの小説も読んでいないし、人となりを知っていたわけではないけれども、愛すべき人物像が解説によって思い浮かぶ。
働くのが嫌いと言いながら仕事は有能だし、ひきこもりたいと言いながら遅刻はするけど出勤しているわけで、死にたいと言いながらも自殺企図は一度もない。
なんとなく、こう、最強のヘタレ男子的な魅力が湧き上がってきて、カフカという人が可愛くなってしまった。
カフカの『変身』も何度となく借りては返して読みおおせていないが、もっとこの人の残した言葉に触れてみたいと思う。

なにしろ、カフカの悩みは非常に現代的なのだ。びっくりした。
あまりにも的を得た比喩や表現が多くて、さすが小説家は上手なのだ。
特に父子葛藤のところは、同じ19世紀後半に同じくオーストリアのユダヤ系の家庭に生まれているところで、フロイトをすぐに想起した。
ダブルバインド理論なんか出てくるのはもっと後の話だが、フロイト以上に父子の間でなにが起きているかを明瞭に表現している気がした。
父への手紙は全文を読んでみたいなぁ。でも、これは、お母さんがお父さんに渡すはずがないよねぇ。
こんなことを言いながらひきこもっている人、実際にいっぱいいそう……。

読んでいて何度も思わず笑ってしまった。緊張がふっと緩んだ時の、そういう笑いだ。
力んでいたものや張り詰めていたものがすうっと抜ける感じがいい。
自分が思いつめていたことも、カフカに比べたらまだまだだなぁとか、同じようなことで悩んでいるやつがいるなぁとか、思えてくる。
そうやって、もの思いから少し距離を置くことができたときに、緊張は緩み、少し楽になることができるだろう。
その点、通して1度読んだら終わりにするのではなく、思い出したときに手にとって、いくつか読み返してみるような本だと思う。

ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、ひとりでいれば何事も起こらない。(p.42)

それでも、普通に、結婚に、恋愛に、友人に、人生に、憧れずにはいられない。誰かを愛さずにはいられないんだよね。何度だって。

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