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香桑の近況

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2020.06.02

ダイエット幻想:やせること、愛されること

磯野真穂 2019 ちくまプリマー文庫

ダイエットは幻想であると断罪する本ではない。
ダイエットという幻想に、いかに人が振り回されているか。
あるいは、人が幻想に我が身と生活を支配されるあまりに、世界と具体的に関わる方法を失う。
そんな事態を、ダイエットを例にして、解き明かす。

やせることと愛されることがいびつに絡み合ってしまったものが、摂食障害である。
著者が摂食障害について研究してきた集大成に位置づけられる本であり、深い理解を示す。
摂食障害で悩んでいる方や、摂食障害の治療にあたる方が読んで資することは間違いない。
摂食障害という疾患が、どういった文化背景に根差して症状として立ち現れてくるのか、治療者には必ず読んでほしい。
しかし、ダイエットというものは、日本人では当たり前に誰でもが口にする言葉であり、そこを切り口にして語られる文化についての本であるから、誰もが読んでみる甲斐があると思う。

著者は、この本は3つのパートから成っていると、終章で流れを要約している。私自身の言葉でまとめるよりも、これ以上にわかりやすい要約はないように思われるので、少し長くなるが引用したい。

ここまで私たちは、やせたいと思う気持ちは自分の外側からやってきて私たちの中に住み着いたものであり、その気持ちは承認欲求と分かちがたく結びついていること、ところが承認欲求に対し現代社会はあまりいい顔をせず、他人のことは気にせず、自分らしく生きている(ように見える)人を称賛すること、その結果、私たちは、承認欲求などなさそうな顔をしながら、一方でそれを満たすといった、矛盾したふるまいをせざるを得ないこと、この三つを第一章と第二章で共有しました。続く第三章から第五章では、女の子であることとやせたい気持ちの密接な関わりを示し、女の子でいようとすることが、女性同士の無益な争いと、終わることのない「やせ合戦」を生んでしまう危険性、そして、「選ばれる」女の子として生きようとするのではなく、大人の女性になる生き方を多くの人が選ぶことが「やせ合戦」を回避する処方薬になるだろうことを指摘しました。そして第六章から第八章においては、食べ物や身体を数字や栄養素といった概念に変換し、その知識に基づいて頭で食べようとすることで、刻々と変わりゆく世界に身体を織り込ませながら食べて生きるという、いのちを持つ生き物にとって必須の力が失われかねないことを警告しました。(pp.185-186)

私は、この1つめと2つめのパートからは「かわいいの呪い」を、3つめのパートからは「ふつうの呪い」を感じた。
かわいいの呪いとふつうの呪いの二つは、私自身の価値観や生き方にも影を落としているところはある。
自分なりに見つけたこの二つのキーワードの視点から、もう少し書いておきたいと思う。

1.かわいいの呪い

前半の第一章から五章は、可愛くあらねばならぬという呪いが、どれほど日本に行き渡り、強力に人を縛っているかを描く。
磯野さんは「『かわいいの呪い』の本質は、この言葉に女性が大人になることを妨げる力が潜むこと」(p.63)と指摘する。
「カワイイは正義」「カワイイは作れる」といった言葉で、可愛くあらねばならないと求められることはあまりにも日常的である。
少しでも愛される、好印象を持ってもらえるように、自分をプレゼンテーションすると思えば、それはそれで悪いものではないように感じていた。
ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるなら、やらない手はないと語る人も、身の回りにいた。
だから、この本を読むまで、それがよくあれかしのまじないであるばかりでなく、のろいの作用を有していることに気づいていなかった。

より小さく、より幼く、より弱々しく、より頼りなく、よりおばかな。
幼子のような無垢で無力で無邪気な存在であることで「愛される」存在であろうとする。
その戦略は、中年になっても「美魔女」などという表現で奨励されて、いつまで続けるべきなのか、不明である。
年齢相応であることが否定されて、年齢不相応が奨励されると、達成に多大なコストを必要とする。
そんな不自然を強行してしまうのは、「『かわいい』を捨てたら『愛されない』のではないかと不安になってしまう」(p.112)からだ。

その戦略はどこかでギブアップしないといけない。
もろもろのノイズが想像できるが、幼女からいきなり老女になるのではなく、その間に「おとな」になるイメージを持つ。
その年齢ごとの年齢相応である女性のイメージを育てること。かわいい以外の女性像のモデルを持つこと。(ここまで書いて、ぱっと思い浮かんだのは、『風の谷のナウシカ』のドーラで、私の理想像のひとつである)
自分がいつまでも若作りをしている痛々しい中年女、選ばれないことに不満たらたらの中年女にならないために。なにもできないままで、もはや誰にも助けてもらえない、老女にならないために。
他人の視線から「選ばれる」ことをめぐる争いから離脱することが、かわいいの呪いからの解放になる。

自分自身の「女性」というジェンダーが呪いのように感じている人、感じたことがある人には、ぜひとも読んでもらいたい文章である。
と同時に、女性に可愛さを求めることがなにを意味するのか、男性にも一緒に考えてもらいたい部分である。
女性は男性に選ばれるために存在しているわけではなく、女性もまた選ぶ権利と能力を持っている。
男性が選ばれる立場に立たされるときの、どうせ自分は選ばれないに違いないという痛みや憎しみは、かわいいの呪いの変奏曲のように思えてならない。

この本では、かわいいの呪いが他者から「選ばれる」ための呪いであることを説明するために、予防医学や差異化の欲望についても触れている。
このあたりの論の展開は、磯野真穂さん・宮野真生子さん『急に具合が悪くなる』とも通底しており、磯野さんらしさを感じて、非常に興味深く読んだ。

歴史的にふくよかであることよりも痩せていることのほうに価値を付与されるようになった背景に、20世紀後半以降の予防医学の台頭がある。
医学が、「目の前で苦しんでいる人を治療するという『いまここ』に着目する」ものから、苦しみの真っ最中ではない人々の身体にまで助言したり、生き方や生活の仕方に干渉するようになっていく。
病気を事前に予防できることは素晴らしいことであるかもしれないが、病気と健康の境目があいまいになり、病気になることは予防や管理のミスとして位置づけられかねないことになる。
「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)ことは、本書のなかではだからこそダイエットというものに日本全体がよいものという認識を持って、ダイエットに役立つとなれば無頓着に全肯定の振る舞いを示すことを説明する。
しかし、読み手である私は、Covid-19流行の外出自粛期間中に読んだからこそ、違う意味を見出した。そのことは、後でもう一回、触れたいと思う。

また、「差異化の欲望」というのは、「隣にいる人より、あるいは過去の自分よりもちょっとだけ優れていたいという、私たちの心の奥底にある欲望」(p.86)である。
自分自身の達成の欲求を満たすことができるが、承認や親和の欲求と結びついて、選ばれるためにより魅力的に、つまりここでは、よりかわいく、より痩せていることに、人を駆り立てるものの一つとして登場する。
この差異化の欲望を、私がよく見かけるのは、摂食障害の方にとどまらない。それはSNSのなかでもよくあることであるし、なんといっても、オンラインゲームの世界では、まさにそれ。そればっかり。
ほんの少しでも早い記録や、ほんの少しでも新しい装備や、ほんの少しでも強い武器、あるいは、ほんの少しでも魅力的な”相方”…といった様々なところで、人は競い合う。自慢しあう。時には、罵倒しあう。お金をかけたり、時間をかけたりして、現実がおろそかになる人も出てきてしまうほどに。
この数年、オンラインゲームの中で見てきた様々な問題を一言で説明してしまうような、すごいキーワードと出会ってしまったと思った。

2.ふつうの呪い

人は「ふつう」であることに捉われやすい。
ふつうであれ。これが呪いとして働くことは、同調圧力を考えてもらえば、その息苦しさが呪いであることが伝わるのではないか。
ふつうであれ、ということは、ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるまじないのように用いられることも多い。かわいいの呪いとまったく同じである。
だが、ふつうとは何であろうか?

摂食障害では、「ふつうに食べる」ことが難しくなる。
糖質制限ダイエットの根拠が薄いことを解説した上で、磯野さんは、ダイエット方法を選ぶときの「強烈なタブー、変身の物語、カリスマのいるダイエット」の3つの注意点を列挙する。
強烈なタブーは見るなの禁止令が示す通り、禁じられたものにこそ人の意識は向けられるので、そのタブーを破りやすくなる。「食べるな」というタブーは、食べることを考え続けることにほかならない。
変身は差異化の強烈なものであるし、たった一つの取り組みで人生がすべてうまくいくような魔法はありはしない。すがりつきたい、だまされたい気持ちはわかるとはいえ。
そして、カリスマの指示を仰がなければ何もできない状態になることは、無責任で思考放棄して楽な面もあるかもしれないが、「いい食べ物と悪い食べ物の境界を引いているのは人間であって現実の世界にそのような境界が引かれているわけでは」(p.160)ない。

ダイエットをするにしても、現実的な世界との関わりを失わずに行っていかなければならない。
なぜならば、「『ふつう』は『ふつう』の構造を意識させ、それを感覚的に行うことを禁ずることで意外と簡単に崩すことができる」(p.166)からだ。
これはとても怖い指摘であるが、本当にその通りだとしか言いようがない。
磯野さんはスポーツ選手を例に挙げるが、摂食障害の方たちにとっても、「ふつうに食べる」のふつうがわからなくて苦労することが極めて多い。
どれぐらいの量がふつうなのか、なにを食べることがふつうなのか、どういう食べ方がふつうなのか。
ふつうを意識した時から、ふつうは難しくなる。
あなたに「今からピンクの象を思い浮かべないでくださいね。絶対、思い浮かべたらだめですよ。ピンクの象は思い浮かべたらいけないんです!」とタブーを設けた瞬間から、頭にピンクの象が浮かんでしまうようなものだ。
ふつうを意識した時から、ぎこちなくなる。不鮮明になってしまうのだ。

磯野さんは、かわいいの呪いに対しても処方箋を提示したように、ふつうの呪いに対しても処方箋を示そうとする。
それは、「ふつうに食べられることは、無限定空間で生きられること」(p.172)という題に集約されるであろう。
現実の世界というものは、なにが起こるかわからない。こうなればこうなる、ああすればああなると規則性があるよう、その変数と規則は無限である。だから、こうだけすればよいというたった一つの規則や、あれさえあればいいというたった一つの変数だけで、コントロールすることはできない。
「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではない」(pp.172-173)のだ。
もっと平たく言えば、「そこに『おいしさ』はあるか」(p.132)ということ。世界の彩を感じながら食を楽しむことができたら、それはきっとふつうに食べられている。

ふつうに食べられる力の回復は、世界と具体的にかかわり合って生きているという感覚の回復とも言い換えることができる(p.182)

3.感染症流行と数字に束ねられる存在

ここまで、かわいいの呪いとふつうの呪いの二つを、この本を読み解くキーワードとして述べてきた。
だが、この本を私が読んだのは、Covid-19の流行に伴い、外出の自粛を促される「ふつうではない」状況下であった。抗がん剤治療中というハイリスクな体調であったから、この自粛を私は強く内面化していたと思う。
このCovid-19流行下の体験(以下、「コロナの体験」)を、この本から眺めてみたい。

コロナの体験は、「ふつう」を失う体験だったと思う。
それまでの「ふつう」は無限定空間で生きることだった。それが、家の中という「限定空間」に押し込められる体験となった。
家のなかでの生活も、厳密にいえば、日々刻々と変化する無限定なものであるが、活動範囲は禁止令によって限定されていたことが、ふつうではない体験となっていたように思う。
世界と身体の関わりの喪失であり、主観的な体験の喪失であり、社会という集団の中で具体的に生きる力を発揮する機会の喪失であった。
世界と身体の関わりは、物理的に外出を自粛するという意味でも断たれたが、世界のどこに病原菌があるかわからないという意味ですべてが有害でありうるという不信感においても断たれた。
目の前の物質の影響に注意を注ぐために、自分の感情や感覚を封印していくような対処方法も見られた。

コロナの体験下において、人々が食に注目したのは、生存のためだけではない。食品の買いだめが最初に起きた、そのことは生存のためであったかもしれないが、その後にこんな時でないと作ってみることはなかったというような様々な調理が流行した。蘇は最たるものである。
室内でデジタルな視聴覚情報だけが充満する中で、食は、味覚や嗅覚、触覚といった様々な感覚への刺激となる。
食材の多くは家の外部からもたらされるものであり、新奇さや変化を体験することができ、作った食べたという話題は外部とつながる話題となる。
集団や世界との交流を取り戻す糸口となっていたのだと思う。

引きこもり生活が長くなるにつれて、フードロスや在庫ロスの解消のための掲示板が登場した。そこでも私自身が食品を買い物した。
「購買意欲を誘うのは商品に付与された物語」(p.88)と看破されている通りで、そこに添えられた人々の苦労話に私は弱く、あっちにふらふら、こっちにふらふらと引かれてしまった。
そういった苦難にあっている人にささやかな支援を届けることで、自分が救世主に変貌するかのような変身の物語を期待したわけではないが、そこに生じるわずかな会話に、私はとても引き付けられたのだと思う。
そんな風に、私自身、世界と関わる機会に飢えていたのだと、今は思う。

「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)という個所を、先に引用した。
このことは、健康管理の一環としてダイエットが推進されてきたことに関連して言及されているが、『急に具合が悪くなる』ではがんとの関係で語られていた。
この病気の自己責任論は、今回の感染症の流行でも、しばしば、噴き出しているように思う。
「そんなところに行くからだ」とか「ちゃんとマスクをしないからだ」といった言説がそのものだ。
うかつな行動はなるべく控えたほうがいいとはいえ、病気に感染することは個人の努力だけでは避けえない事態である。道徳的な善悪で断じられることではない。
しかし、自己責任論は、病気の感染に道徳的な判断を導入するところが、先験的に間違いである。そう、間違いだ。

病気は職業も人種も知名度も関係なく襲うが、日本でコロナで死ぬということが我が身にも起こりうる身近なものとして認識される契機となったのは、芸能人の死だったように思う。
しかし、それより前から、世界のあちらこちらから1日に何人の人が感染し、何人の人が亡くなったというニュースが届いていた。
なぜだか、私にはイタリアのニュースが特に胸にこたえた。
ある日の1日の死者が500人を超えていたり、800人を超えていたり。それより多くの死者が出た日があり、国があろうとは思う。
その一人一人に人生があり、人間関係がある。その一人一人と芸能人は、どちらも私には等しく他人であり、見知らぬ誰かがすでにもう亡くなっていることに、無関心でいられる人の多さが、これまた胸が痛かった。

この時にTwitterでフォロワーさんとした会話は、その後に、この本で読んだでピダハンと呼ばれる人たちのことと結びついた。
アマゾンに住み、数字の概念も、色の概念も持たない人々。
彼らは抽象的な概念で多様性をそぎ落とすことをせずに、一つずつをとことん具象として具体として認識しているのだという。
彼らを例にして、磯野さんは数には管理という役割があり、世界の彩を消す脱文脈化の機能があることを指摘する。
となれば、私のしている心理援助職という職業は、個を数に置き換えずに個として向き合う仕事である。個別性や具体性、多様性や曖昧性、抽象性や複雑性を、分類したり消去したりせずに、文脈を取り戻し、個と世界との関わりを修復するような、そんな営みであると言えるのではないだろうか。
ピダハンのように世界のなかで生きることは、とんでもない記憶力を要求されるのであるが、そんな風に、なにもそぎ落とすことなく、その人をその人としてしか分類することも意味付けすることもなく、出会っていけたらよいなぁと思った。

人との出会い、関係性について、磯野さんは最後にラインという考えを提示する。
点ではなく、ライン。
この考え方は『急に具合が悪くなる』にも出てくるが、本書のほうがよりわかりやすく解説してあったように思う。
ほぼ同時期に出版されたこの2冊は、相補的な読み方ができるため、あわせて読むことが望ましいと聞いた通りだった。
『急に具合が悪くなる』ががんという死に至ることもある病を通じて生きることを照射した本であったのに対して、『ダイエット幻想』は愛されるという受動的な評価のためやせなければならないと能動的に献身して破綻する摂食障害を例にしながら生きることを照射する。
どちらも、生きる実感と希望を紡ぐ本である。

2019.11.25

急に具合が悪くなる

宮野真生子・磯野真穂 2019 晶文社

村山早紀さんに教えていただいて、手に取った。
その後、読み始める前に、私がまさに『急に具合が悪くなる』とは、誰も予想がつかなかったはずだ。
私自身にはかすかな予感がありつつも、まさかこんな時に思ったのだから。
そういう臨場感と御縁のある読書となった。
三度目のがん治療……手術のために入院した先で読み始めた。

二人の知性が、とにかく素晴らしい。
宮野真生子さんは哲学者。磯野真穂さんは医療人類学者。
二人の真剣な言葉の投げ合いに、舌をまく。そんな表現があるのかと、胸を衝かれる。
そう!それ!!それなんですよ、と、どのページにも一人で唸り、頷く。
少し読んでは噛みしめ、また少し読んでは立ち止まって胸に響かせる。
たとえば、「不運は点、不幸は線」(p.124)であるとか、詩的ですらある。

この本のなかで取り扱われてるテーマは「生と死」に集約されていくのであるが、もう少し細かく分けていくと、①死とコントロール、②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野、③大病についてのポリティカルコレクトネスといったあたりが大変興味深かった。そして、④点と線と厚みが全体に流れている。

まず、①死とコントロールについて。ハイデガーの語る死についてで思い出した私自身の死生観があるが、それは別の記事に書くことにしたいと思う。
がんになることを、自己責任論として語る人が世の中にいる。私とてなりたくてなったわけではないし、ならなくてすむならなったわけがないのであるが、そこを宮野さんは「合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、コントロールの欲求と言える」(p.86)と指摘する。
それを磯野さんは「何かには必ず原因があり、合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念」(p.105)と受け止める。
このような欲求と信念が、自己責任論であるのではないか。だからこそ、がんになったことも自己責任論ということにしてしまわれる。
人間がどうしても、なんで?と原因を知りたがる習性があるからこそ、このようなことが起きる。
磯野さんは「科学は<HOW>を説明し、妖術は<WHY>を説明する」(p.104)と目からうろこがぽろぽろ落ちるような文化人類学の理解を紹介している。
科学的な理解というのは、ひとつずつ知見を積み重ねた蓋然的な理解であるが、それが迂遠で面倒なプロセスであったり、人のワーキングメモリーを超えるような情報量だったりするとき、人は直観的な理解を好む。直観的な理解は検証を拒むため、しばしば直感や直勘に堕する。
いくら、グレタ・トゥーンベリさんが「科学の声を聴いてほしい」と訴えても、人間が知りたがるのはWHY。そこに大きなずれが生じてしまうのだ。

そのような生き方の行き着く先として、宮野さんは「生き方の最終地点で求められるものが、最近流行の『終活』ではないかと思います。予期できない『死』というものに対し、事前に準備しておくことで、できる限り自分の人生の責任を自らとり、身ぎれいにしてこの世から離脱する」(p.158)ことを挙げる。
このくだりは、先に読んだ小島美羽さんの『時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』の自死した人の部屋の章を想起した。荷物を処分し、ブルーシートを敷いて、「なにか未簡潔なものを残して周りに迷惑をかけることなく、自分の人生を自分の手で一個の完成したものにして去ってゆく」(pp.158-159)。そのようなコントロールを達成しようとして行きつく先に、終活としての自死があるように思われた。
宮野さんは続けて、「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるから。生きている者は、そうした痕跡をめぐって語り合い、考え、引き継いだり引き継がなかったりしつつ、亡くなった人を思い、その死を受け入れてゆけるのかもしれません」(p.159)と語る。
言い換えれば、他者に迷惑を残してよいことや、人生は未完成でよいことが、生きる隙間にならないだろうか。完全でなくてよいのだ。コントロールできなくてよいのだ。自己責任で背負わなくてもよいのだ。
死は不完全で偶然である。けして、「なぜ」では説明できない。その不確実さの中に放り込まれる体験であるから、逆に妖術にはまりこみやすい人も出てしまうのだろう。

②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野について。これは、実感をもって頷くことばかりである。
私自身ががんの治療について、この手術をしたらどうとか、この抗がん剤を使うとどうとか、%で数字を示されながら選択することが続いていた。正直なところ、私は専門家ではないので、なにがよいか、選べと言われても困るので、医師のおすすめを追認することしかできない。もっと積極的に、おすすめの治療法を示してほしいし、それを選ぶのが専門性じゃないのか?とつっかかりたくなる。
宮野さんは、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」(p.48)に対して、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(p.49)と、率直に私の心中を代弁してくださるかのように述べる。
エビデンスという数字を示すことで、「現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多い」(p.38)という磯野さんの指摘も、じわじわと染みてきた。

患者は、「待ち受ける未来はこうだからこちらの道をゆく」という運命論的な選択しかできないということになります。運命論的に見据えられた未来は、患者の意思だけで作られたわけではなく、医療者の意図、さらにいえばかれらが拠り所にするエビデンスの作成者の意図との融合物です。医療者が「患者の意思を尊重」というとき、その患者の意思の中に、医療者の意思が相当に組み込まれている。<正しい情報>という言葉には、その現実を見えなくさせる力があるため、そのことはあまり真剣に考えられていないような気がします。(p.40)

このくだりは、自分もまた医療領域で働いている以上、肝に銘じておきたいと思った。
インフォームドコンセントそのものを否定はしないが、そこに欺瞞を持たせないようにしたい。
なぜなら、選ぶのも、決めるのも、本当に大仕事で疲れるからだ。

そのような数字でこうなるかもしれない、ああなるかもしれないと示されて、どこが確かな正解の道かわからないまま、そろそろと慎重に生きるしかない。
そのような<かもしれない>で溢れているのが、保険適用の標準的な治療をやりつくした後、緩和病棟に入るほどは悪化していない状態の人が、自由診療に向かった先にあるという。
合理的に判断しようと思っても、エビデンスまでたどり着かないような<かもしれない>の荒野。
そりゃあ、妖術に頼りたくなる人を責めるわけにはいかない。
合理的な判断そのものが立ち行かなくなる境地を示すことは、合理的で自己責任をもって生きるという生き方そのものの限界を示している。
「どれを選んでもうまくいくかどうかはわからない」(p.228)のだ。

付け加えれば、偶然性を恐れる人たちの息苦しさも、偶然しかない世界であることを社会が否認して、完璧を目指させられることと不可分であると感じた。
不可能な自己責任論に追いつめられる。首を絞めあう。
その中で、まじめに限りなくNGを避けようとして、身動きが取れなくなってしまったり、できない自分を責め続けるような事態になっているのだろう。
そんな風に考えることもできると思った。

③大病についてのポリティカルコレクトネスについて。
がんになった人にはこれを言ってはいけないとか、こういう風に受け答えしましょうとか、マニュアル化しようとしてしまう人たちがいる。それは、相手を傷つけてはいけないという配慮に満ちているようで、実は日常を失わせ、患者の人間性を疎外する。
専門家としてなにがしかの患者の家族に会うときに、安易に日常性をセラピューティックなもので侵襲させてしまうような助言をしないよう、自戒したい。

「ガンが治ったら」という仮定は、「ガンが治らなかったら」というもう一つの可能性を浮かび上がらせます。さらに、「治ったら一番に何がしたいか」という問いかけは、治らねば一番したいことができないというメッセージを暗に発しています。(p.44)

この宮野さんが書いた個所を読んだとき、私は自分の手術が終わり、腫瘍は取り除けたと思っている時に読んだ。自分の中に腫瘍が残っており、つまりは「治る」という状態に永遠に至ることがないことを知らないうちに、読んだ。
治るというのはなにか。そのことも、深い問いだ。
うつ病の治療を受けている方に、「寛解」という概念を示して、なかなか納得してもらえないこともあるが、当たり前だ。
完治を目指してきたのに、完治はしない。寛解だから治療終了と言われて、納得できる人はなかなかいないだろう。
それと一緒だ。どうやらがんは私から消えないらしい。前回の手術から今回の再発の間、一応は腫瘍がない状態でがん患者を名乗ってもいいものか?と考えていたが、今度はどうやらがん患者であることが私の一部として背負い続けないと仕方がないようだ。
もう元通りになることはないことに私自身も、多少のショックを受けているが、これを人に話すことが大仕事であることを今回思い知った。

相手ががんであると知った時から、あれがいい、これもいいと、勧めてくる人たちがいる。その現象について、幡野広志@hatanohiroshi さんもツイートされていたし、宮野さんも触れている。
私はそこまでの目にあっていないが、だが、この病状を伝えると相手のほうが動揺して大騒ぎする場面ならあった。大騒ぎをしないようにしてくれているが、両親やパートナーがショックを受けているのは感じている。
そうなってくるとかける言葉に困る。私は相手を過剰に動揺させたくないために言葉に困り、相手は私に対して何を言ったらよいか、言ってもよいかがわからなくて困る。
そのようにコミュニケーションが硬直し、患者ー健康な人との役割が固定していくことについて、宮野さんと磯野さんは丁寧に対話で取り上げる。

たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている、それがガン患者であることを一〇〇パーセント受け入れていないということの意味です。そして、こうした生き方をとることで、私はそれなりに充実した人生をおくることができています。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません。(p.116)

この言葉に、今、支えられている。見習いたいと思う。大いに、参考にしていきたい。
私は私。私のすべてががん患者であることに覆いつくされないように。がん患者である私ではなく、私の一部にがんがある、ただそれだけ。
そんな風に思えたのは、まったく同じ病気や病状ではないが、宮野さんが先輩として言葉を紡いでくれたからだ。
この本に、今、出会えてよかった。

④点と線と厚みは、全体を通してちりばめられたキーワードのようなものだ。それは少しずつ表現を変えながら、何度も何度も立ち現れる。
二人の間に自由な連想が働いていることを教えてくれると同時に、まるでミルトン・エリクソンの催眠を読んでいるように私をトランスをいざなった。
それが明確になるのが第6便の「不運は点、不幸は線」(p.124)という表現体。そこからSNSのLINEやインゴルドという文化人類学者の「歴史の中で、ラインを生み出した運動が次第にラインから奪われていく経緯を示すこと」(p.182)という議論など、いくつもの線が引かれていく。そして、それは織物に編み込まれていく糸となるのだ。

人との出会いは、糸を結ぶようなものだと私は思う。
人生を織物にたとえることはよくあるが、編み物でもいい。
途中で加えた色糸を、そこから先の自分の織物に織り込み、編み込んでいく。
そうやって、自分だけのタペストリーもしくはwebsを作り上げていく。
その加えた糸の結び目より前にも糸はあり、その糸の端を垂れたまままにしておかないようにするために、さかのぼって編み込んでいくこともするだろう。きっと出会うはずだったんだと考えたり、これまでの出会う前の時間にも意味があったと考えたり、磯野さんが宮野さんを魂の分かち合いとして位置付けたように。
そうして、念入りに両端を編み込んで、その人がいつか世界から消えてしまっても、自分の世界にはしっかりと在り続けるように位置付ける。自分の人生に意味づける。

いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向的に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。(p.224)

私は宮野さんに教えてもらった「世界への信と偶然に生まれてくる『いま』に身を委ねる勇気」(p.96)を持ちつつ、明日からの入院と抗がん剤治療にトライしたいと思う。
忘れそうになったら、また、この本を手にとりたいと思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていた人たちと、この本を教えてくれた人に感謝をこめて、筆を置くこととする。

2019.08.20

イナンナの冥界下り

安田 登 2015 ミシマ社

漢字発生時の「心」の作用、すなわち「時間を知ること」と、そしてそれによって「未来を変える力のこと」(p.5)

イナンナの冥界下りに興味を持ったのは、M.マードック『ヒロインの旅:女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』がきっかけだ。
イナンナがエレシュキガルに会い、Black Motherの顔を得ることが、女性の回復であり成長に不可欠であることを描く下りで、イナンナが登場するのだ。
女性の深い傷つきを語る上で、一度きちんと触れておきたいと思うようになった。

そのうち、この神話が能として演じられたことを知り、ますます興味が惹かれるようになった。
そして、手に取ったのこの本だ。

シュメールの神話は、ギリシャ神話のように物語(登場人物の感情や行動に因果がある)になっておらず、10代の頃にはよくわからないままだった。
それを、こころ=言葉以前の時代の名残として位置付ける解釈に納得した。作者は「あわいの時代」と表現する。
現代とはものの見方や価値観があったことを汲み取るように、最も古い時代の神話を読み解く過程は興味深い。

「死」こそが「心の時代」の最大の産物のひとつなのです。(p.85)

こころを表す言葉を発明してこころを獲得してから、人は過去と未来を認知し、後悔と不安を抱くようになった。
それは極めて男性的な(男性性的な、のほうがよいかな)時代である。
こころと言葉を扱う仕事に就く者としてスリリングで刺激的で、どう受け止めてよいのか。
私の冥界下りを思い出さねば。

これは本屋さんで買うべき本。
手触りの良い、素敵な本だ。

2019.08.10

死者の民主主義

畑中章宏 2019 トランスビュー

四方八方に論が展開していき、刺激的な読書となる。そんな本だ。
あとがきを読むと、どうやら、あちこちで書かれたものを集めたもののようである。
#NetGalleyで拝読したゲラは、第一章「死者の民主主義」と第二章「人はなぜ『怪』を見るのか」だけであるから、余計にこの論がどこに流れゆくのか、見えなかったというのもある。

登場する素材はさまざまで、ハロウィンもあれば、『この世界の片隅で』も出てくる。
『レディプライヤー1』もあれば『遠野物語』もある。
「現生に怨恨をのこす迷える怨霊」が集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが日本の妖怪であると、筆者は定義する。(p.40)

妖怪が存立する理由のなかには、腑に落ちない感情や、割り切れない想いを合理化する機能があった。(p.69)

SNSにおける炎上という現象が、新しい時代の民俗現象として位置付けらるところが、とても興味深かった。
筆者はAIが「やがて人間生活を脅かす妖怪になっていくかもしれない」(p.69)と指摘する。筆者はその兆候はまだ捉えられていないというが、SFのような創作の世界では、常にAIは妖怪になりうるものだった。たとえば、映画「ターミネーター」が教えてくれることである。「ブレードランナー」が教えてくれることである。当時はAIという呼び方ではなかったけれども。

著者は怪を映し鏡にして、微妙で絶妙な角度から現代を映し出そうとしているように見える。
それはSNSが発達して、新たな妖怪が発見されてにくくなった社会である。
それでいて、「東日本大震災以降の、気持ちの落ち着かなさやおさまりの悪さ、もやもやした感情」(p.103)が今も続いており、震災は終息も収束していないことを映していく。
もやもやを処理する機構としてかつて妖怪は優秀だった。妖怪がいなくなったら、そのもやもやはどうしたらよいのだろうか。

前後して読んだ本が、瀬川貴次『ばけもの好む中将8:恋する舞台』であったり、阿部智里『弥栄の烏』だったりして、私の中では死した者とのおつきあいが続いている感じだ。
おりしも8月であり、さまざまな残酷な事件が続いている年であるからなおさら、私自身も、このもやもやを感じている。

幸福なときも不幸なときも、「夢かもしれない」「悪夢のようだ」とつぶやきながら、日本人はずっと残酷な現実を生きてきたのだ。(p.118)

#死者の民主主義 #NetGalleyJP

2019.07.30

ひとはなぜ戦争をするのか

A.アインシュタイン S.フロイト 2016 講談社学術文庫

ひとはなぜ戦争をするのか。

この問いを発したのはアインシュタイン。
その問いに応えるのはフロイト。

往復書簡は、国際連盟のプロジェクトであり、アインシュタインへの依頼だった。
誰でも好きな人を選び、「いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換」(p.9)するというプロジェクトだ。
時は、1932年。
アインシュタインの手紙はポツダムで、フロイトの手紙はウィーンで書かれた。
なんとも豪華な組み合わせの往復書簡だ。2人とも、世紀を代表する知性である。

アインシュタインの問いかけが結構、意地悪なのだ。
彼はきちんと私見を述べながら、問いかけを発しているため、ほとんど解答を自分で述べているようにも見える。
フロイトに残された問いは、したがって、一つだけに絞られる。
人間が憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか。

フロイトの返事の書き出しは、だからとても、書きにくそうに書いているように見える。
謙遜という自己弁護を駆使した文章の書き方は、デカルトにも見えるような西欧的なマナーではあるが、微笑ましい気がした。
アインシュタイン自身が答えているじゃないかと支持的かつ肯定的な反応を示した後、フロイトは徐々に生の欲動と死の欲動を援用した論を展開していく。
なぜ平和主義者は戦争に強い憤りを覚えるのか?と問いを設定していくところは、さすがである。
すべての人間が平和主義になるためにはどれだけの時間がかかるかわからないが、フロイトは希望をもって手紙をしめくくる。

この往復書簡の前段階にあるものがカントの「永遠平和のために」、この後にくるものがヤスパースの「われわれの戦争責任について」ではなかろうか。
1932年。フロイトが共同体への一体感を述べるとき、それがナチスの掲げていた価値観と重なっていることを教えてくれるものが、シェファー「アスペルガー医師とナチス」である。
こう位置づけて読んでいくと、この短い往復書簡がずっしりと、うんざりと、のしかかってくる。
フロイトが持っている時代性を、「アスペルガー医師とナチス」を読んだ後だからこそ、強く感じさせられた。

と同時に、二人の知性の素晴らしく先見的な言説にも舌を巻いた。
たとえば、アインシュタインは「『教養のない人』よりも『知識人』と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。」(p.16)と指摘する。
このくだりは、オウム真理教を筆頭に、高学歴の人がたやすくカルトに与する事例が連想された。
学生運動のような政治的、社会的な運動も例外ではない。現在のSNSを見ていても、知識人だからといって、カルトやオカルトとは無縁でない例の枚挙にいとまがない。
また、この続きの「彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」(pp.16-17)のという理解は、SNSこそが世界を理解する窓口であると勘違いしてしまったが故の誹謗中傷を繰り広げる人たちや、フェイクニュースの確信や拡散する人たちの説明にそのまま用いることができると思う。

フロイトのほうは文化の発展が人間の心の在り方に変化を引き起こし、体にも変化を起こすと理論展開していく。
その結果「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まって」(p.53)、「攻撃本能を内に向かっていく」(p.54)ことが起きると指摘する。
現代から見て的確な予言であったように思う。現代の日本の出生率の低さと自殺率の高さを、経済的な問題は別にして、フロイトの言葉を用いながら説明しようと思えばできるのだと思った。

本文は短いものである。翻訳は浅見昇吾。
手紙ということで専門用語をふりまくような難解な文章ではなかったのだろうと推察するが、とても読みやすくて違和感のない日本語でよかった。
そこしっかりとした2つの解説が加わっている。
1つは養老孟司が、もう一つは斎藤環。解剖学者と精神科医という二つの立場から、それぞれに現代の立場からフロイトの回答を補強しているところが面白い。

戦争はいつか飼い慣らし、飼い殺すことができるかもしれない、希望。
フロイトの答えは、啓蒙であり文明化。これが、理性が腐食することが事例として提示される前のキリスト教文化圏の最高の回答だったことは、間違いないかと思う。
それは最大の希望だった。
文化はまだ希望だと思いたい。

2019.07.08

ほんとうの道徳

子ども達への信頼に裏打ちされている。そこが素敵な本だ。
公教育で道徳を教科として行うことが決まってしまったのであれば、それをどう活かしていくのか。
すればするほど価値の対立をもたらしたり、上っ面だけの茶番にならないように、実践的な方法論と哲学が積み重ねてきた知見が盛り込まれている。
世界がよりよいものになるように。そんな希望を思い出させてくれる点で、とてもよい本だった。

公教育で行われる道徳が、ムラの習俗のような一部の共同体にだけ通用するような道徳原理の教え込みになるのではなく、より普遍的なルールを目指す精神の陶冶になるような願いを込めて書かれている。
多様化に逆らうのではなく、多様化に対応していくために不可欠で当たり前のはずの考え方、ヘーゲルの掲げた「自由の相互承認」という原則である。

「わたしたちは、他者の『自由』を侵害しないかぎり、何をしてもいいし、どんな価値観やモラルを持ってもいい」(p.50)。

まず、お互いを認め合う。そこから、お互いに一緒に生活していくためのルールを作り、常に手直ししながら、お互いの自由をお互いに守っていく。
とてもシンプルな提案で、平和な提案である。

何が望ましい生活習慣であるか、それぞれの家庭の文化や宗教的な背景によって異なる。
この日本の国内において、海外から流入してきた人が増えるにつれ、子どもたちの背景は多様化が進んでいる。
その中で、ここは日本だから日本的なものをと声高に言いたくなる人の気持ちもわかるが、その日本的なものでさえ、時代や地域によって揺らぎがあるのであり、なにか真なる日本的な道徳のようなものがあるわけではない。

その前提の上に、これまで数千年にわたって哲学者が倫理学の問題として思索を重ねてきた知見を取り入ればよいのだ。せっかく、積み重ねられた知の財産があるのだもの。
著者は、カントやヘーゲルに触れながら、「どんな道徳の持ち主も、できるだけ自由に、そして平和に共存できる」(p.47)市民社会を目指すことを提唱している。
目指すなら、やっぱり、そこではないだろうか。

著者と似たような場所で倫理学や教育学を学んできた私にとっては、とても馴染みがある。
あのゼミの、あの先生か、と懐かしい思いで胸がいっぱいになった。
自分は研究者にはなりえなかったけれども、学べたことは私の一部として息づいている。
学生の頃に触れていたような言葉たちが、希望を紡ぐ言葉となってきらきらとしていた。

2019.06.20

アスペルガー医師とナチス:発達障害の一つの起源

エディス・シェファ― 山田美明(訳) 2019年6月20日刊行 光文社

「アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物であり、彼が暮らしていた世界が生み出したものだった」。(p.10)

アスペルガー障害に名を残す人物について、私はまったく無知だった。
この本は「社会的・政治的力が医学的診断にどれほどの影響を与えるのか、それに気づき、それと闘うのがいかに難しいかを明らかにし、神経多様性を推進していくための教訓とすること」(pp.10-11)に目的を置いている。
「アスペルガーの暮らす社会では、民族共同体に参加するためには、適切な人種であり、適切な生理を持っている必要があった。だがそれ以外に、共同体意識も必要だった。その共同体と、考え方や行動が一致しなければならない。ドイツ民族の発展は、一人ひとりがそう思えるかどうかにかかっている。こうした社会的一体感を目指したからこそ、ナチスのイデオロギーにおいてはファシズムが重要だった」(pp.14-15)。民族共同体に適さないと診断されれば、「生きるに値しない命」として殺害される。
そしてだからこそ、自閉症の診断基準に社会性が挙げられるのだ。第三帝国の児童の殺害はプログラムの規模が小さく、5000人から1万程度だったとされるのだそうだ。

私はぞっとした。

発達障害の概念は新しく、だからこそ、研究がとても盛んなトピックのひとつである。身体的なマーカーの探索や、薬物療法についてなど、多方面からの研究が進むと同時に、実際に困っている人の相談も増加している。
それは、注目されるトピックだから発達障害に目が向きやすく、相談が増えているだけではないのではないか。
集団に同調させる圧力が強まっていること、同時に、十分に適応できないと感じる人が増えていることに、起因するのではないか。
集団に適さない者は切り捨てる風潮が強まれば、論調は自ずと100年前をくりかえす。
20世紀初頭のウィーンの状況が、現代日本に重なって見えてくるところが恐ろしい。

本書には、この時期のウィーンの精神医学、児童精神医学の様子が紹介され、名だたる治療者たちが次々に登場する。
すべてはここから始まった。そういう時代を知る一助にもなる。
カナーとアスペルガー、アメリカとウィーンのそれぞれで、社会的な引きこもりを示す子どもたちの状態を「自閉的」であると表現するようになり、それが子どもたちへの支援に必要な理解のためではなく、診断として疾患として成立していく経過についてもよくわかった。
単なる状態象であり、特徴の一つであったものを、社会にとって有害なものとして意味づけしたのは、ナチスの価値観に他ならなかったことも。
その時代の医学が依拠していた消極的優生学と積極的優生学についても、だ。それがどれほどのジェノサイドをもたらしたのか。

ナチスの心理療法は、「個人の精神衛生を体制の価値観に順応させることを目的に、これまでの精神分析のように過去を探求するのではなく、現在の問題に目を向けるよう患者を指導した」(p.96)が特徴だという。
教育も、医療も、子どもを、人を、国家に適した存在にすることを目的としていた。
「自分は病気なのではなく、そういう性格なのだという自信」(p.109)をつけさせるアプローチから、「人格を強制するための環境を提供」(p.109)し「子どもを変革する」ことに方向転換していた。
心理職に従事する者として、ここにもまた、自戒の念を感じずにいられない。

国家に管理を任せてはならない。
その大きな理由がここにある。

個別な人々の問題を政府が管理するようになる。
たとえば、第三帝国になる前のウィーン政府は、「子どもや家庭のあるべき姿を決める権限を徐々に高めていった。不適切な部分があると見なされれば、子どもは家族から引き離され、里親のもとへ預けられた利、児童養護施設に入れられたり、収監されたした」(p.32)という。
1939年のナチス支配下においては、3歳未満の幼児を殺すごとに、医師や看護師に手当てやボーナスが支払われていた。
幼児だけではなく、成人もまた、殺害されるようになっていく。

幼児の殺害プログラムを行っていた施設の「スタッフは、子どものいる世話から解放されたいという両親の思いに合わせ、死んでよかったのだとはっきり口にしている」(p.130)ことは、最近あった事件のあれこれを思い出さされる。
「だが児童安楽死プログラムの真の目的は、両親の生活を楽にすることではなく、望ましくない市民を第三帝国から排除することにあった」(p.130)。
殺すだけではなく、致命的な人体実験も多く行われていた。
どんな子どもたちがどんな目にあったのか。複数の事例が紹介されている第7章や第8章は胸が痛くてたまらなくなった。生き延びた人々のエピソードが紹介されているのは、第10章になる。

現代の神経発達障害についての様々な言説は、ともすれば「社会に同化できそうな子どもと同化できそうにない子どもを区別したアスペルガーの考え方と変わらない」(p.330)。

私は、このたまらなくぞっとした感覚を忘れずにいたいと思う。
私も人、人も人、同じ人であることを忘れずにいたい。性別や年齢が違えど、どんな疾病や障害があろうと、国籍や言語、宗教や思想が多様であれど、そこにいるのは人であることを忘れずにいたい。私は私、人は人、自他は別人である。同時に、私も人も人である。
そして、私の心は、魂は自由であることを、大事にしたいと思う。

#アスペルガー博士とナチス #NetGalleyJP

 

 

2019.04.05

居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書

東畑開人 2019 医学書院

同業者の間で話題になっていた本だった。
自分より若い人が次々に専門書を書いていく。
そこに、少々の危機感や焦燥感を持ちながら、読み始めた。

私にデイケアの経験はないけれど、ここには、日常の臨床場面での風景がありありと描き出されていた。
臨床を知らない人に臨床がどのような営みであるかを伝えようとするとき、筆者が書いている通り、「論文の硬い言葉たちでは掬い取ることができなかった」(p.344)ことがある。
公立や合理性では割り切れないところにある、こういうもろくてあわくてやわからかくて曖昧なものを、壊れないように守る保護膜として、私は機能している。

心とはそもそも有象無象が跋扈するような混沌に居心地よさを感じるような、そういうものなんだと思う。
整理整頓された清潔な環境でしか生きられないようになると、強迫症状のような生きることの難しさを呈してしまうものだもの。
数式のように割り切った因果関係に落とし込めないような、変数が数多くある複雑な世界で生きるようにできているものなのだもの。
直線的な言葉では言い表しづらいことを描きだすために、この本はいくつものしかけを用意してある。
その思い切ったデザインや作りの結果、とても愛らしい外見に仕上がっており、学術書らしくないところがいい。

サブタイトルにあるケアとセラピーは、「いる」と「する」に呼応している。

ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。(p.176)

ケアとセラピーの配合は、それぞれの心理士によっても、場面によっても、ケースによっても変わってくるものだ。
私なら支持と介入を対峙させて自分自身の臨床を省みるし、ケアとセラピーに含まれるものや語の位置づけは少し違和感があったけれども、大きくわけてふたつの要素があること、それらの混在によって心理的な援助が成り立つことはまったくその通りだと思う。

なにより、心理援助職が優しいとは限らないことをさらりと書いているところに、にやにやとした。

「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。それが貴重なものであることに異論はないけれども、時々平和が失われて、つらい思いをすることや葛藤することもまた、心にとっては重要であると考えている。(p.176)

この本は、デイケアを題材としているけれども、「する」に駆逐される「いる」の価値という意味では、とても普遍的な読み方ができる。

全部自分でやろうとしないで、人にやってもらう。お互いにそういうふうにしていると、「いる」が可能になる。「いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ。(p.209)

たとえば、パートナーシップの問題を抱えやすい人の中に、じっとしていることに耐えられない人たちがいる。
付き合う前から付き合い初めの頃のワクワクドキドキで盛り上がった時から、穏やかに落ち着いた関係にシフトすることが苦手な人たちだ。
イベントごとなど、何かをしていないと安心できない。一緒にすることがなければ、一緒にいる意味がないと飛躍しやすい。
あるいは、相手のためになにかすることがないと、一緒にいてもらえないだとか、一緒にいる意味がないとか考えてしまう。
もしくは、相手が何かをしてくれることで、一緒にいていいと安心したり、一緒にいたいと相手も思ってくれていると確認したりするのだ。
相手の役に立たなければならない、必要とされなくてはならないという考え方は、「いる」ことが苦手な人の特徴だろう。
ところが、毎日まいにち、なにかイベントごとがあるわけではないので、何もすることがない日常に、焦ったり、落ち込んだり、不安になったり、じたばたとしてしまう。
そういう人たちの理解にも、この本は役立つだろう。

ケアすることでケアされる。ケアされることでケアする。それらは複雑に絡まり合った投影によって可能になるというのが「傷ついた治療者」という考え方なのだ。(p.214)

専門家が有償で差し出すサービスでさえ、このような双方向性を有しているのであるから、対等なパートナーシップあれば尚更、双方向性は意識したほうがよいと思われる。
相手をいたわりあうこと。
いたわりや気遣いを搾取するのではなく。

何もしなくていい。
ただ、いる、だけ。
ただそこに、共にいる、だけ。
相手の「いる」を守ること。自分の「いる」を守ること。
そこに価値があることを思い出す必要がある。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2016.06.30

ヘンな日本美術史

山口 晃 2012 祥伝社

途中で違う本を読み始めてしまったために、一ヶ月以上かかってしまった。
小説と違って、どうもこういう解説や論文は、時間がかかってしょうがない。

著者の絵を初めて意識して観たのは、長野でのこと。
現代の武者絵展と銘打った特別展で、四天王の絵にほれ込んだ。
端正な美形ぞろいで、とてもファンタジックで、一目ぼれだった。
ぐるりと会場を見ては、また元の位置に戻るぐらいに。

そして気づくと、本の表紙や街中のポスターに、著者の作品があった。
そのうち、著者をNHKが取り上げていて、人となりが少し垣間見えた。
なんというか、私の中では、京極夏彦氏と同じ分類に入れたくなった。
語弊を恐れずにざっくりと言ってしまえば、一筋縄でいかない感じ。
クレバーで、こだわりが強くて、気難しそうな、韜晦するような感じがあって。
作品は好きだけど、この人とお友達になるのは難しそうな。
そういう複雑な印象を持っているので、この人というよりも、この人の絵のファンである。

この本を手に取ったのは、そんな印象を持っている人が、あえて「ヘン」と謳っているんだから。
そりゃあもう、きっとヘンに違いないと、にやにやしながら買い求めた。
それなりに美術館や博物館に行くこともあり、若冲ブームに前後して、日本の絵を見る機会はある。
鑑賞の勘所のようなものはよくわかっていない自覚はあるので、せっかくなら勉強になればよいなと思ったのだ。

感想としては、至極、まっとうな内容だった。
鳥獣戯画や洛中洛外図など、なるほど、そういうところに注目するのかと参考になる。
気持ち悪い絵や訳のわからない絵だったものが、ちゃんと見てみたい絵に転じていく。
ところどころ、著者が解説を絵で描いているのも、非常にわかりやすくて面白かった。

次はどこの美術館に行こうかな。

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