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香桑の近況

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専門書

2019.08.20

イナンナの冥界下り

安田 登 2015 ミシマ社

漢字発生時の「心」の作用、すなわち「時間を知ること」と、そしてそれによって「未来を変える力のこと」(p.5)

イナンナの冥界下りに興味を持ったのは、M.マードック『ヒロインの旅:女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』がきっかけだ。
イナンナがエレシュキガルに会い、Black Motherの顔を得ることが、女性の回復であり成長に不可欠であることを描く下りで、イナンナが登場するのだ。
女性の深い傷つきを語る上で、一度きちんと触れておきたいと思うようになった。

そのうち、この神話が能として演じられたことを知り、ますます興味が惹かれるようになった。
そして、手に取ったのこの本だ。

シュメールの神話は、ギリシャ神話のように物語(登場人物の感情や行動に因果がある)になっておらず、10代の頃にはよくわからないままだった。
それを、こころ=言葉以前の時代の名残として位置付ける解釈に納得した。作者は「あわいの時代」と表現する。
現代とはものの見方や価値観があったことを汲み取るように、最も古い時代の神話を読み解く過程は興味深い。

「死」こそが「心の時代」の最大の産物のひとつなのです。(p.85)

こころを表す言葉を発明してこころを獲得してから、人は過去と未来を認知し、後悔と不安を抱くようになった。
それは極めて男性的な(男性性的な、のほうがよいかな)時代である。
こころと言葉を扱う仕事に就く者としてスリリングで刺激的で、どう受け止めてよいのか。
私の冥界下りを思い出さねば。

これは本屋さんで買うべき本。
手触りの良い、素敵な本だ。

2019.08.10

死者の民主主義

畑中章宏 2019 トランスビュー

四方八方に論が展開していき、刺激的な読書となる。そんな本だ。
あとがきを読むと、どうやら、あちこちで書かれたものを集めたもののようである。
#NetGalleyで拝読したゲラは、第一章「死者の民主主義」と第二章「人はなぜ『怪』を見るのか」だけであるから、余計にこの論がどこに流れゆくのか、見えなかったというのもある。

登場する素材はさまざまで、ハロウィンもあれば、『この世界の片隅で』も出てくる。
『レディプライヤー1』もあれば『遠野物語』もある。
「現生に怨恨をのこす迷える怨霊」が集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが日本の妖怪であると、筆者は定義する。(p.40)

妖怪が存立する理由のなかには、腑に落ちない感情や、割り切れない想いを合理化する機能があった。(p.69)

SNSにおける炎上という現象が、新しい時代の民俗現象として位置付けらるところが、とても興味深かった。
筆者はAIが「やがて人間生活を脅かす妖怪になっていくかもしれない」(p.69)と指摘する。筆者はその兆候はまだ捉えられていないというが、SFのような創作の世界では、常にAIは妖怪になりうるものだった。たとえば、映画「ターミネーター」が教えてくれることである。「ブレードランナー」が教えてくれることである。当時はAIという呼び方ではなかったけれども。

著者は怪を映し鏡にして、微妙で絶妙な角度から現代を映し出そうとしているように見える。
それはSNSが発達して、新たな妖怪が発見されてにくくなった社会である。
それでいて、「東日本大震災以降の、気持ちの落ち着かなさやおさまりの悪さ、もやもやした感情」(p.103)が今も続いており、震災は終息も収束していないことを映していく。
もやもやを処理する機構としてかつて妖怪は優秀だった。妖怪がいなくなったら、そのもやもやはどうしたらよいのだろうか。

前後して読んだ本が、瀬川貴次『ばけもの好む中将8:恋する舞台』であったり、阿部智里『弥栄の烏』だったりして、私の中では死した者とのおつきあいが続いている感じだ。
おりしも8月であり、さまざまな残酷な事件が続いている年であるからなおさら、私自身も、このもやもやを感じている。

幸福なときも不幸なときも、「夢かもしれない」「悪夢のようだ」とつぶやきながら、日本人はずっと残酷な現実を生きてきたのだ。(p.118)

#死者の民主主義 #NetGalleyJP

2019.07.30

ひとはなぜ戦争をするのか

A.アインシュタイン S.フロイト 2016 講談社学術文庫

ひとはなぜ戦争をするのか。

この問いを発したのはアインシュタイン。
その問いに応えるのはフロイト。

往復書簡は、国際連盟のプロジェクトであり、アインシュタインへの依頼だった。
誰でも好きな人を選び、「いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換」(p.9)するというプロジェクトだ。
時は、1932年。
アインシュタインの手紙はポツダムで、フロイトの手紙はウィーンで書かれた。
なんとも豪華な組み合わせの往復書簡だ。2人とも、世紀を代表する知性である。

アインシュタインの問いかけが結構、意地悪なのだ。
彼はきちんと私見を述べながら、問いかけを発しているため、ほとんど解答を自分で述べているようにも見える。
フロイトに残された問いは、したがって、一つだけに絞られる。
人間が憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか。

フロイトの返事の書き出しは、だからとても、書きにくそうに書いているように見える。
謙遜という自己弁護を駆使した文章の書き方は、デカルトにも見えるような西欧的なマナーではあるが、微笑ましい気がした。
アインシュタイン自身が答えているじゃないかと支持的かつ肯定的な反応を示した後、フロイトは徐々に生の欲動と死の欲動を援用した論を展開していく。
なぜ平和主義者は戦争に強い憤りを覚えるのか?と問いを設定していくところは、さすがである。
すべての人間が平和主義になるためにはどれだけの時間がかかるかわからないが、フロイトは希望をもって手紙をしめくくる。

この往復書簡の前段階にあるものがカントの「永遠平和のために」、この後にくるものがヤスパースの「われわれの戦争責任について」ではなかろうか。
1932年。フロイトが共同体への一体感を述べるとき、それがナチスの掲げていた価値観と重なっていることを教えてくれるものが、シェファー「アスペルガー医師とナチス」である。
こう位置づけて読んでいくと、この短い往復書簡がずっしりと、うんざりと、のしかかってくる。
フロイトが持っている時代性を、「アスペルガー医師とナチス」を読んだ後だからこそ、強く感じさせられた。

と同時に、二人の知性の素晴らしく先見的な言説にも舌を巻いた。
たとえば、アインシュタインは「『教養のない人』よりも『知識人』と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。」(p.16)と指摘する。
このくだりは、オウム真理教を筆頭に、高学歴の人がたやすくカルトに与する事例が連想された。
学生運動のような政治的、社会的な運動も例外ではない。現在のSNSを見ていても、知識人だからといって、カルトやオカルトとは無縁でない例の枚挙にいとまがない。
また、この続きの「彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」(pp.16-17)のという理解は、SNSこそが世界を理解する窓口であると勘違いしてしまったが故の誹謗中傷を繰り広げる人たちや、フェイクニュースの確信や拡散する人たちの説明にそのまま用いることができると思う。

フロイトのほうは文化の発展が人間の心の在り方に変化を引き起こし、体にも変化を起こすと理論展開していく。
その結果「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まって」(p.53)、「攻撃本能を内に向かっていく」(p.54)ことが起きると指摘する。
現代から見て的確な予言であったように思う。現代の日本の出生率の低さと自殺率の高さを、経済的な問題は別にして、フロイトの言葉を用いながら説明しようと思えばできるのだと思った。

本文は短いものである。翻訳は浅見昇吾。
手紙ということで専門用語をふりまくような難解な文章ではなかったのだろうと推察するが、とても読みやすくて違和感のない日本語でよかった。
そこしっかりとした2つの解説が加わっている。
1つは養老孟司が、もう一つは斎藤環。解剖学者と精神科医という二つの立場から、それぞれに現代の立場からフロイトの回答を補強しているところが面白い。

戦争はいつか飼い慣らし、飼い殺すことができるかもしれない、希望。
フロイトの答えは、啓蒙であり文明化。これが、理性が腐食することが事例として提示される前のキリスト教文化圏の最高の回答だったことは、間違いないかと思う。
それは最大の希望だった。
文化はまだ希望だと思いたい。

2019.07.08

ほんとうの道徳

子ども達への信頼に裏打ちされている。そこが素敵な本だ。
公教育で道徳を教科として行うことが決まってしまったのであれば、それをどう活かしていくのか。
すればするほど価値の対立をもたらしたり、上っ面だけの茶番にならないように、実践的な方法論と哲学が積み重ねてきた知見が盛り込まれている。
世界がよりよいものになるように。そんな希望を思い出させてくれる点で、とてもよい本だった。

公教育で行われる道徳が、ムラの習俗のような一部の共同体にだけ通用するような道徳原理の教え込みになるのではなく、より普遍的なルールを目指す精神の陶冶になるような願いを込めて書かれている。
多様化に逆らうのではなく、多様化に対応していくために不可欠で当たり前のはずの考え方、ヘーゲルの掲げた「自由の相互承認」という原則である。

「わたしたちは、他者の『自由』を侵害しないかぎり、何をしてもいいし、どんな価値観やモラルを持ってもいい」(p.50)。

まず、お互いを認め合う。そこから、お互いに一緒に生活していくためのルールを作り、常に手直ししながら、お互いの自由をお互いに守っていく。
とてもシンプルな提案で、平和な提案である。

何が望ましい生活習慣であるか、それぞれの家庭の文化や宗教的な背景によって異なる。
この日本の国内において、海外から流入してきた人が増えるにつれ、子どもたちの背景は多様化が進んでいる。
その中で、ここは日本だから日本的なものをと声高に言いたくなる人の気持ちもわかるが、その日本的なものでさえ、時代や地域によって揺らぎがあるのであり、なにか真なる日本的な道徳のようなものがあるわけではない。

その前提の上に、これまで数千年にわたって哲学者が倫理学の問題として思索を重ねてきた知見を取り入ればよいのだ。せっかく、積み重ねられた知の財産があるのだもの。
著者は、カントやヘーゲルに触れながら、「どんな道徳の持ち主も、できるだけ自由に、そして平和に共存できる」(p.47)市民社会を目指すことを提唱している。
目指すなら、やっぱり、そこではないだろうか。

著者と似たような場所で倫理学や教育学を学んできた私にとっては、とても馴染みがある。
あのゼミの、あの先生か、と懐かしい思いで胸がいっぱいになった。
自分は研究者にはなりえなかったけれども、学べたことは私の一部として息づいている。
学生の頃に触れていたような言葉たちが、希望を紡ぐ言葉となってきらきらとしていた。

2019.06.20

アスペルガー医師とナチス:発達障害の一つの起源

エディス・シェファ― 山田美明(訳) 2019年6月20日刊行 光文社

「アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物であり、彼が暮らしていた世界が生み出したものだった」。(p.10)

アスペルガー障害に名を残す人物について、私はまったく無知だった。
この本は「社会的・政治的力が医学的診断にどれほどの影響を与えるのか、それに気づき、それと闘うのがいかに難しいかを明らかにし、神経多様性を推進していくための教訓とすること」(pp.10-11)に目的を置いている。
「アスペルガーの暮らす社会では、民族共同体に参加するためには、適切な人種であり、適切な生理を持っている必要があった。だがそれ以外に、共同体意識も必要だった。その共同体と、考え方や行動が一致しなければならない。ドイツ民族の発展は、一人ひとりがそう思えるかどうかにかかっている。こうした社会的一体感を目指したからこそ、ナチスのイデオロギーにおいてはファシズムが重要だった」(pp.14-15)。民族共同体に適さないと診断されれば、「生きるに値しない命」として殺害される。
そしてだからこそ、自閉症の診断基準に社会性が挙げられるのだ。第三帝国の児童の殺害はプログラムの規模が小さく、5000人から1万程度だったとされるのだそうだ。

私はぞっとした。

発達障害の概念は新しく、だからこそ、研究がとても盛んなトピックのひとつである。身体的なマーカーの探索や、薬物療法についてなど、多方面からの研究が進むと同時に、実際に困っている人の相談も増加している。
それは、注目されるトピックだから発達障害に目が向きやすく、相談が増えているだけではないのではないか。
集団に同調させる圧力が強まっていること、同時に、十分に適応できないと感じる人が増えていることに、起因するのではないか。
集団に適さない者は切り捨てる風潮が強まれば、論調は自ずと100年前をくりかえす。
20世紀初頭のウィーンの状況が、現代日本に重なって見えてくるところが恐ろしい。

本書には、この時期のウィーンの精神医学、児童精神医学の様子が紹介され、名だたる治療者たちが次々に登場する。
すべてはここから始まった。そういう時代を知る一助にもなる。
カナーとアスペルガー、アメリカとウィーンのそれぞれで、社会的な引きこもりを示す子どもたちの状態を「自閉的」であると表現するようになり、それが子どもたちへの支援に必要な理解のためではなく、診断として疾患として成立していく経過についてもよくわかった。
単なる状態象であり、特徴の一つであったものを、社会にとって有害なものとして意味づけしたのは、ナチスの価値観に他ならなかったことも。
その時代の医学が依拠していた消極的優生学と積極的優生学についても、だ。それがどれほどのジェノサイドをもたらしたのか。

ナチスの心理療法は、「個人の精神衛生を体制の価値観に順応させることを目的に、これまでの精神分析のように過去を探求するのではなく、現在の問題に目を向けるよう患者を指導した」(p.96)が特徴だという。
教育も、医療も、子どもを、人を、国家に適した存在にすることを目的としていた。
「自分は病気なのではなく、そういう性格なのだという自信」(p.109)をつけさせるアプローチから、「人格を強制するための環境を提供」(p.109)し「子どもを変革する」ことに方向転換していた。
心理職に従事する者として、ここにもまた、自戒の念を感じずにいられない。

国家に管理を任せてはならない。
その大きな理由がここにある。

個別な人々の問題を政府が管理するようになる。
たとえば、第三帝国になる前のウィーン政府は、「子どもや家庭のあるべき姿を決める権限を徐々に高めていった。不適切な部分があると見なされれば、子どもは家族から引き離され、里親のもとへ預けられた利、児童養護施設に入れられたり、収監されたした」(p.32)という。
1939年のナチス支配下においては、3歳未満の幼児を殺すごとに、医師や看護師に手当てやボーナスが支払われていた。
幼児だけではなく、成人もまた、殺害されるようになっていく。

幼児の殺害プログラムを行っていた施設の「スタッフは、子どものいる世話から解放されたいという両親の思いに合わせ、死んでよかったのだとはっきり口にしている」(p.130)ことは、最近あった事件のあれこれを思い出さされる。
「だが児童安楽死プログラムの真の目的は、両親の生活を楽にすることではなく、望ましくない市民を第三帝国から排除することにあった」(p.130)。
殺すだけではなく、致命的な人体実験も多く行われていた。
どんな子どもたちがどんな目にあったのか。複数の事例が紹介されている第7章や第8章は胸が痛くてたまらなくなった。生き延びた人々のエピソードが紹介されているのは、第10章になる。

現代の神経発達障害についての様々な言説は、ともすれば「社会に同化できそうな子どもと同化できそうにない子どもを区別したアスペルガーの考え方と変わらない」(p.330)。

私は、このたまらなくぞっとした感覚を忘れずにいたいと思う。
私も人、人も人、同じ人であることを忘れずにいたい。性別や年齢が違えど、どんな疾病や障害があろうと、国籍や言語、宗教や思想が多様であれど、そこにいるのは人であることを忘れずにいたい。私は私、人は人、自他は別人である。同時に、私も人も人である。
そして、私の心は、魂は自由であることを、大事にしたいと思う。

#アスペルガー博士とナチス #NetGalleyJP

 

 

2019.04.05

居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書

東畑開人 2019 医学書院

同業者の間で話題になっていた本だった。
自分より若い人が次々に専門書を書いていく。
そこに、少々の危機感や焦燥感を持ちながら、読み始めた。

私にデイケアの経験はないけれど、ここには、日常の臨床場面での風景がありありと描き出されていた。
臨床を知らない人に臨床がどのような営みであるかを伝えようとするとき、筆者が書いている通り、「論文の硬い言葉たちでは掬い取ることができなかった」(p.344)ことがある。
公立や合理性では割り切れないところにある、こういうもろくてあわくてやわからかくて曖昧なものを、壊れないように守る保護膜として、私は機能している。

心とはそもそも有象無象が跋扈するような混沌に居心地よさを感じるような、そういうものなんだと思う。
整理整頓された清潔な環境でしか生きられないようになると、強迫症状のような生きることの難しさを呈してしまうものだもの。
数式のように割り切った因果関係に落とし込めないような、変数が数多くある複雑な世界で生きるようにできているものなのだもの。
直線的な言葉では言い表しづらいことを描きだすために、この本はいくつものしかけを用意してある。
その思い切ったデザインや作りの結果、とても愛らしい外見に仕上がっており、学術書らしくないところがいい。

サブタイトルにあるケアとセラピーは、「いる」と「する」に呼応している。

ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。(p.176)

ケアとセラピーの配合は、それぞれの心理士によっても、場面によっても、ケースによっても変わってくるものだ。
私なら支持と介入を対峙させて自分自身の臨床を省みるし、ケアとセラピーに含まれるものや語の位置づけは少し違和感があったけれども、大きくわけてふたつの要素があること、それらの混在によって心理的な援助が成り立つことはまったくその通りだと思う。

なにより、心理援助職が優しいとは限らないことをさらりと書いているところに、にやにやとした。

「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。それが貴重なものであることに異論はないけれども、時々平和が失われて、つらい思いをすることや葛藤することもまた、心にとっては重要であると考えている。(p.176)

この本は、デイケアを題材としているけれども、「する」に駆逐される「いる」の価値という意味では、とても普遍的な読み方ができる。

全部自分でやろうとしないで、人にやってもらう。お互いにそういうふうにしていると、「いる」が可能になる。「いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ。(p.209)

たとえば、パートナーシップの問題を抱えやすい人の中に、じっとしていることに耐えられない人たちがいる。
付き合う前から付き合い初めの頃のワクワクドキドキで盛り上がった時から、穏やかに落ち着いた関係にシフトすることが苦手な人たちだ。
イベントごとなど、何かをしていないと安心できない。一緒にすることがなければ、一緒にいる意味がないと飛躍しやすい。
あるいは、相手のためになにかすることがないと、一緒にいてもらえないだとか、一緒にいる意味がないとか考えてしまう。
もしくは、相手が何かをしてくれることで、一緒にいていいと安心したり、一緒にいたいと相手も思ってくれていると確認したりするのだ。
相手の役に立たなければならない、必要とされなくてはならないという考え方は、「いる」ことが苦手な人の特徴だろう。
ところが、毎日まいにち、なにかイベントごとがあるわけではないので、何もすることがない日常に、焦ったり、落ち込んだり、不安になったり、じたばたとしてしまう。
そういう人たちの理解にも、この本は役立つだろう。

ケアすることでケアされる。ケアされることでケアする。それらは複雑に絡まり合った投影によって可能になるというのが「傷ついた治療者」という考え方なのだ。(p.214)

専門家が有償で差し出すサービスでさえ、このような双方向性を有しているのであるから、対等なパートナーシップあれば尚更、双方向性は意識したほうがよいと思われる。
相手をいたわりあうこと。
いたわりや気遣いを搾取するのではなく。

何もしなくていい。
ただ、いる、だけ。
ただそこに、共にいる、だけ。
相手の「いる」を守ること。自分の「いる」を守ること。
そこに価値があることを思い出す必要がある。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2016.06.30

ヘンな日本美術史

山口 晃 2012 祥伝社

途中で違う本を読み始めてしまったために、一ヶ月以上かかってしまった。
小説と違って、どうもこういう解説や論文は、時間がかかってしょうがない。

著者の絵を初めて意識して観たのは、長野でのこと。
現代の武者絵展と銘打った特別展で、四天王の絵にほれ込んだ。
端正な美形ぞろいで、とてもファンタジックで、一目ぼれだった。
ぐるりと会場を見ては、また元の位置に戻るぐらいに。

そして気づくと、本の表紙や街中のポスターに、著者の作品があった。
そのうち、著者をNHKが取り上げていて、人となりが少し垣間見えた。
なんというか、私の中では、京極夏彦氏と同じ分類に入れたくなった。
語弊を恐れずにざっくりと言ってしまえば、一筋縄でいかない感じ。
クレバーで、こだわりが強くて、気難しそうな、韜晦するような感じがあって。
作品は好きだけど、この人とお友達になるのは難しそうな。
そういう複雑な印象を持っているので、この人というよりも、この人の絵のファンである。

この本を手に取ったのは、そんな印象を持っている人が、あえて「ヘン」と謳っているんだから。
そりゃあもう、きっとヘンに違いないと、にやにやしながら買い求めた。
それなりに美術館や博物館に行くこともあり、若冲ブームに前後して、日本の絵を見る機会はある。
鑑賞の勘所のようなものはよくわかっていない自覚はあるので、せっかくなら勉強になればよいなと思ったのだ。

感想としては、至極、まっとうな内容だった。
鳥獣戯画や洛中洛外図など、なるほど、そういうところに注目するのかと参考になる。
気持ち悪い絵や訳のわからない絵だったものが、ちゃんと見てみたい絵に転じていく。
ところどころ、著者が解説を絵で描いているのも、非常にわかりやすくて面白かった。

次はどこの美術館に行こうかな。

2015.04.07

独裁者のためのハンドブック

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス
四元健二・朝野宜之(訳) 2013 亜紀書房

間違いなく、お勧めだ。
きわめて興味深く、面白かった。
読む人は選ぶかもしれないし、興味を持つ人は更に少ないかもしれないが。
それがもったいないと思えるし、政治がこんなに面白くてわかりやすいことに驚いた。

歴史から現在までの政治や企業における独裁者達が登場するため、イメージしやすい。
時に皮肉交じりで、軽妙な口調で語られるし、タイトルがタイトルだけれども、これはとても真面目な政治な本だ。
民主政治と独裁政治は地続きであること。
この二つを分けずに、同一のモデルで読み解くことで、見えてくるものがある。
民主国家はたやすく独裁国家にスライドできる。
それが、怖い。
ヴィジョンとして見えてくるから怖い。

理解しておくべきことは、まず、政治は、名目的な有権者集団(取り替えのきく者)、実質的な有権者集団(影響力のある者)、盟友集団(かけがえのない者)の三層の土台があることだ。
私自身は疑いようもなく、名目的な有権者集団であり、政治の支配者にとって取り替えのきく者であるな。
この取り替えのきく者たちを支配する、主に盟友集団のサイズが、独裁政治か民主政治かを区別する。

そして、支配者たるもの、よい政治(もしくは経営)を行うことが目的ではなく、その権力を握り続けることが目的であると、著者らはぶっちゃけてしまう。
そのあたりが、これは理想的な政治を啓蒙する本ではなく、現実的な政治を分析する本である。
よい政治をしようとした政治家の政治家生命は短く、むしろ独裁者のほうが長く君臨するのは、独裁者としてやっていくためのコツがあるからだ。
独裁者としてやっていき続けるためには、これらを守らなければならない。

支配者を支配するルールは、次の5つだ。

1)盟友集団は、できるだけ小さくせよ。
2)名目上の集団は、できるだけ大きくせよ。
3)歳入をコントロールせよ。
4)盟友には、忠誠を保つに足る分だけ見返りを与えよ。
5)庶民の暮らしを良くするために、盟友の分け前をピンハネするな。

この目線に立つと、海外援助は投資であることが理解できるし、災害救助がいかに独裁者の懐を暖めてきたかも見えてくる。
ただ寄付するだけの善意が問題に加担してきたことを受け入れるのは、心理的に抵抗感はあったが、こういうことは知っておきたい事実である。現状である。
そして、現状は刻々と変わり続け、ここに書いてあるような現状打破へのヒントが追いつかなくなってはいないだろうか。
原著が上梓された後に台頭してきた、数々のある種の暴力的な集団においては、その集団が継続していくために、リーダー達がどのように上記のルールを守っているのだろうか。
そういう視点で見ることで、今は敵にしか見えない集団を理解し、その弱点を把握し、攻略(交渉にしろ、対立にしろ)の契機を発見できないかなぁ。
国家のような大きな集団だけではなく、サークル活動や企業など、多種多様な集団にも適応できる考え方であり、日常生活に応用可能という実用面も持っている。
考えさせられることが多かった。とにかく、多かった。

この御時世に読んで、ひしひしと感じることがある。
今の日本は大丈夫だろうか。

2012.04.06

心に性別はあるのか?:性同一性障害のよりよい理解とケアのために

中村美亜 2005 医療文化社

もともとは英文の論文として発表され、そこに著者が「エッセイ」と評する主張を付け加えた構成になっている。
自分の性別に悩む人、自分は性同一性障害ではないかと悩む人に、手に取ってもらいたい一冊だ。
この中でインタビューを答える人たちにはいろいろな人がいる。
性の多様性を、セックス、セクシュアリティ、ジェンダーのどの次元においても再確認した上で、自分の性について向き合ってもらいたい。自分と向き合うことを、自分自身を受けいれる過程で何度も必要になる。
単純に男女の二元論に再陥落していくことは決して治療的ではないことを、ケアに関わる側も知っておくべきだが、この落とし穴に当事者がまず落ち込まないようにしてほしいと願うからだ。
ほかの人がどのように自分自身の性と折り合いをつけてきたか、きっと参考になることだと思う。

続きは個人的な心情を露悪的に書いてみようと思うから、読む人は気を付けて。

私の身も心も、偏りがある。
女としてもできそこなっているし、人としても欠けている。
それがどーした?と個人の内部では落ち着いているが、他者に理解されるとは限らない。
パートナーとも結局はうまくいかなかった。
私にとって女性であるということは、苦々しさを含む。
「外から押し付けられる」ものだという感覚がつきまとうからだ。

自分はどういう人間であるのか、ほかならぬ自分が決めていくものである。それはその通りだと思う。
そこにその通りに他者から理解されたと願って、プレゼンテーションの適切さが問われ、他者からのパーミッションが得られるかどうかで生きやすさはある程度左右されてくる。
アイデンティティとはそういうものだと思う。

髪が伸びた。いっそ剃髪したいぞ。と、思う私のジェンダーはいつも中途半端なところにアイデンティファイされる。
私の中に「自分は反対の性別である、という強く継続的な自己認識」はないが、「自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感」は豊富にある。ついでに、性行為および性的な対象に見なされることへの不快感や拒否感もある。
積極的に男性性を獲得したいとは思わないが、女性であることがやりきれない。
もうちょっと直截に言ってしまえば、男性器は二重の意味でほしくない。
乳房もいらないと思うことがしばしばある。あと7kgぐらい痩せるか、筋肉を鍛え上げて体脂肪を落とすか、切除するか、どれが一番現実的だろうと考えるのは楽しいが、どれも実行はしないだろう。

ニュートラルな性があればいいのに。
自分の中のことは自分で抱えるし、自分でけりをつければよいが、我は独りであるわけではない。
私は親密な他者関係である色恋沙汰からリタイアしたいのであり、巻き込まないでくれとアピールするための手段を欲する。
自分が女性であるというそのことよりも、女性として扱われる、女性として性的に欲されることが、一番嫌なことである。
そういう意味では、剃髪というのは一目でわかる象徴であり、すぐれた文化装置、生活の知恵だった。と、源氏物語を読んでいて思った。

この程度の生きづらさを積極的に疾患扱いする必要はまったくないが、しかし、同時に、ジェンダーを検討するときにはこのような曖昧さや揺らぎを含みおきつつ理解していかなくてはならない。
ジェンダー・アイデンティティを再確認するプロセスにおいて、安易な男女の二元論に陥ることがあってはお粗末だ。
だからこそ、こういった「心に性別はあるのか?」という素朴な疑問はとても大切に思い、著者の姿勢に好感を持って読んだ。

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