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専門書

2016.06.30

ヘンな日本美術史

山口 晃 2012 祥伝社

途中で違う本を読み始めてしまったために、一ヶ月以上かかってしまった。
小説と違って、どうもこういう解説や論文は、時間がかかってしょうがない。

著者の絵を初めて意識して観たのは、長野でのこと。
現代の武者絵展と銘打った特別展で、四天王の絵にほれ込んだ。
端正な美形ぞろいで、とてもファンタジックで、一目ぼれだった。
ぐるりと会場を見ては、また元の位置に戻るぐらいに。

そして気づくと、本の表紙や街中のポスターに、著者の作品があった。
そのうち、著者をNHKが取り上げていて、人となりが少し垣間見えた。
なんというか、私の中では、京極夏彦氏と同じ分類に入れたくなった。
語弊を恐れずにざっくりと言ってしまえば、一筋縄でいかない感じ。
クレバーで、こだわりが強くて、気難しそうな、韜晦するような感じがあって。
作品は好きだけど、この人とお友達になるのは難しそうな。
そういう複雑な印象を持っているので、この人というよりも、この人の絵のファンである。

この本を手に取ったのは、そんな印象を持っている人が、あえて「ヘン」と謳っているんだから。
そりゃあもう、きっとヘンに違いないと、にやにやしながら買い求めた。
それなりに美術館や博物館に行くこともあり、若冲ブームに前後して、日本の絵を見る機会はある。
鑑賞の勘所のようなものはよくわかっていない自覚はあるので、せっかくなら勉強になればよいなと思ったのだ。

感想としては、至極、まっとうな内容だった。
鳥獣戯画や洛中洛外図など、なるほど、そういうところに注目するのかと参考になる。
気持ち悪い絵や訳のわからない絵だったものが、ちゃんと見てみたい絵に転じていく。
ところどころ、著者が解説を絵で描いているのも、非常にわかりやすくて面白かった。

次はどこの美術館に行こうかな。

2015.04.07

独裁者のためのハンドブック

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス
四元健二・朝野宜之(訳) 2013 亜紀書房

間違いなく、お勧めだ。
きわめて興味深く、面白かった。
読む人は選ぶかもしれないし、興味を持つ人は更に少ないかもしれないが。
それがもったいないと思えるし、政治がこんなに面白くてわかりやすいことに驚いた。

歴史から現在までの政治や企業における独裁者達が登場するため、イメージしやすい。
時に皮肉交じりで、軽妙な口調で語られるし、タイトルがタイトルだけれども、これはとても真面目な政治な本だ。
民主政治と独裁政治は地続きであること。
この二つを分けずに、同一のモデルで読み解くことで、見えてくるものがある。
民主国家はたやすく独裁国家にスライドできる。
それが、怖い。
ヴィジョンとして見えてくるから怖い。

理解しておくべきことは、まず、政治は、名目的な有権者集団(取り替えのきく者)、実質的な有権者集団(影響力のある者)、盟友集団(かけがえのない者)の三層の土台があることだ。
私自身は疑いようもなく、名目的な有権者集団であり、政治の支配者にとって取り替えのきく者であるな。
この取り替えのきく者たちを支配する、主に盟友集団のサイズが、独裁政治か民主政治かを区別する。

そして、支配者たるもの、よい政治(もしくは経営)を行うことが目的ではなく、その権力を握り続けることが目的であると、著者らはぶっちゃけてしまう。
そのあたりが、これは理想的な政治を啓蒙する本ではなく、現実的な政治を分析する本である。
よい政治をしようとした政治家の政治家生命は短く、むしろ独裁者のほうが長く君臨するのは、独裁者としてやっていくためのコツがあるからだ。
独裁者としてやっていき続けるためには、これらを守らなければならない。

支配者を支配するルールは、次の5つだ。

1)盟友集団は、できるだけ小さくせよ。
2)名目上の集団は、できるだけ大きくせよ。
3)歳入をコントロールせよ。
4)盟友には、忠誠を保つに足る分だけ見返りを与えよ。
5)庶民の暮らしを良くするために、盟友の分け前をピンハネするな。

この目線に立つと、海外援助は投資であることが理解できるし、災害救助がいかに独裁者の懐を暖めてきたかも見えてくる。
ただ寄付するだけの善意が問題に加担してきたことを受け入れるのは、心理的に抵抗感はあったが、こういうことは知っておきたい事実である。現状である。
そして、現状は刻々と変わり続け、ここに書いてあるような現状打破へのヒントが追いつかなくなってはいないだろうか。
原著が上梓された後に台頭してきた、数々のある種の暴力的な集団においては、その集団が継続していくために、リーダー達がどのように上記のルールを守っているのだろうか。
そういう視点で見ることで、今は敵にしか見えない集団を理解し、その弱点を把握し、攻略(交渉にしろ、対立にしろ)の契機を発見できないかなぁ。
国家のような大きな集団だけではなく、サークル活動や企業など、多種多様な集団にも適応できる考え方であり、日常生活に応用可能という実用面も持っている。
考えさせられることが多かった。とにかく、多かった。

この御時世に読んで、ひしひしと感じることがある。
今の日本は大丈夫だろうか。

2012.04.06

心に性別はあるのか?:性同一性障害のよりよい理解とケアのために

中村美亜 2005 医療文化社

もともとは英文の論文として発表され、そこに著者が「エッセイ」と評する主張を付け加えた構成になっている。
自分の性別に悩む人、自分は性同一性障害ではないかと悩む人に、手に取ってもらいたい一冊だ。
この中でインタビューを答える人たちにはいろいろな人がいる。
性の多様性を、セックス、セクシュアリティ、ジェンダーのどの次元においても再確認した上で、自分の性について向き合ってもらいたい。自分と向き合うことを、自分自身を受けいれる過程で何度も必要になる。
単純に男女の二元論に再陥落していくことは決して治療的ではないことを、ケアに関わる側も知っておくべきだが、この落とし穴に当事者がまず落ち込まないようにしてほしいと願うからだ。
ほかの人がどのように自分自身の性と折り合いをつけてきたか、きっと参考になることだと思う。

続きは個人的な心情を露悪的に書いてみようと思うから、読む人は気を付けて。

私の身も心も、偏りがある。
女としてもできそこなっているし、人としても欠けている。
それがどーした?と個人の内部では落ち着いているが、他者に理解されるとは限らない。
パートナーとも結局はうまくいかなかった。
私にとって女性であるということは、苦々しさを含む。
「外から押し付けられる」ものだという感覚がつきまとうからだ。

自分はどういう人間であるのか、ほかならぬ自分が決めていくものである。それはその通りだと思う。
そこにその通りに他者から理解されたと願って、プレゼンテーションの適切さが問われ、他者からのパーミッションが得られるかどうかで生きやすさはある程度左右されてくる。
アイデンティティとはそういうものだと思う。

髪が伸びた。いっそ剃髪したいぞ。と、思う私のジェンダーはいつも中途半端なところにアイデンティファイされる。
私の中に「自分は反対の性別である、という強く継続的な自己認識」はないが、「自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感」は豊富にある。ついでに、性行為および性的な対象に見なされることへの不快感や拒否感もある。
積極的に男性性を獲得したいとは思わないが、女性であることがやりきれない。
もうちょっと直截に言ってしまえば、男性器は二重の意味でほしくない。
乳房もいらないと思うことがしばしばある。あと7kgぐらい痩せるか、筋肉を鍛え上げて体脂肪を落とすか、切除するか、どれが一番現実的だろうと考えるのは楽しいが、どれも実行はしないだろう。

ニュートラルな性があればいいのに。
自分の中のことは自分で抱えるし、自分でけりをつければよいが、我は独りであるわけではない。
私は親密な他者関係である色恋沙汰からリタイアしたいのであり、巻き込まないでくれとアピールするための手段を欲する。
自分が女性であるというそのことよりも、女性として扱われる、女性として性的に欲されることが、一番嫌なことである。
そういう意味では、剃髪というのは一目でわかる象徴であり、すぐれた文化装置、生活の知恵だった。と、源氏物語を読んでいて思った。

この程度の生きづらさを積極的に疾患扱いする必要はまったくないが、しかし、同時に、ジェンダーを検討するときにはこのような曖昧さや揺らぎを含みおきつつ理解していかなくてはならない。
ジェンダー・アイデンティティを再確認するプロセスにおいて、安易な男女の二元論に陥ることがあってはお粗末だ。
だからこそ、こういった「心に性別はあるのか?」という素朴な疑問はとても大切に思い、著者の姿勢に好感を持って読んだ。

2012.02.29

性同一性障害と戸籍:性別変更と特例法を考える

針間克己・大島俊之・野宮亜紀・虎井まさ衛・上川あや 2007 緑風出版

付け焼刃的に勉強中。必要に差し迫らないと読まない本ってあるわけで。
人がよりよく生きるためのお手伝いとして、この領域の勉強を再びするのもありかなぁ、と思った。よりよく……というと語弊があるから、より生きやすく? よりハッピーに、というほうが、しっくりくるかな。
手元には日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第3版)」もある。こちらはネットでダウンロード可能だ。

社会学的、心理学的な領域でのジェンダーの勉強ならしてきたが、法律や制度が絡んでくると知らないことも多い。
実際、改名の手続きは、戸籍の性別変更の手続きとは別で、よりハードルが低いことも、初めて知ったよ……。
Q&A形式なので、当座、必要なところだけを拾い読みしがちなのであるが、当事者も援助者も、通読が望ましいだろう。
知らないことがあるかもしれないし、知らないことで損をしてほしくないもの。

ホルモン療法も、手術も、どちらも身体的、心理的な負担は大きい。
望んですることとはいえ、身体はよくも悪しくも心に影響を与える。
更に、各種手続きはわずらわしいこともあるだろう。というか、この本を見ていると大変だろうと、理不尽さを感じた。
手術をしたから、戸籍を変えたからといって、人生のすべてがすぐさま思いとおりになるわけではない。
現時点では踏み出す人は、やはり相当の覚悟が求められる。気軽に取り組むことでもないとは思うが。
楽なことではないのだから、遠慮せず、適切で必要な援助を受けてほしい。

それでもなお、と、踏み出す人のお手伝いができればいいなぁ。

2012.01.05

心の傷を癒すということ:大災害精神医療の臨床報告

【増補改訂版】 安 克昌 2011 作品社

阪神・淡路大震災の直後から書かれた、神戸で被災しつつ医療に携わった精神科医の臨床報告である。
東日本大地震の時に勧められたが絶版になっていた。その後、増補改定版が出版され、私も入手できた。
この本は著者が生前に書いた、たった一冊の本であり、遺稿が増補されてこの版になった。増補分の量、全体の5分の2程度。

被災地の内部から、当事者が発信した記録として、生々しさがあった。
95年1月末から約一年間新聞に連載したものをもとに、加筆したものが本稿の前半部分になっている。
文章はとてもわかりやすく、説明は丁寧で、精神科の臨床に携わる専門家でない人にとっても読みやすく、参考になる本だと思う。
事例も多い。思わず、泣いた文章もあった。私が他の方から聞いた体験談も想起する。被災していなくても、東日本の記憶は真新しい。
これは事例のほんの一部だとわかっていても、やはり、重たい。この重たさはまぎらわすものではない。

PTSDが人口に膾炙したのは、阪神・淡路大震災からだった。
その当時の事情を私は後から学んだわけであるが、およそ17年の時の流れを感じないほど、ここには既にいろんなことが語られていると驚いた。変な言い方しかできないけど、驚いた。
語られているトピックが、災害直後の躁的な防衛状態、看護師や消防士ら支援者の支援、死別体験と家族関係の問題、コミュニティの再生の意味に至るまで、幅広いのだ。
社会全体を見渡すような視野の広さって、この人のバランス感覚ならではなんだろうな、と思う。自分がつらいときって視野が狭くなりがちな気がするけれど、こんな風に広く保てるってすごい。
本論のしめくくりに、著者は「世界は心的外傷に満ちている」(p.259)と書くが、本当にその通りだと思うので、この本はプライマリに読まれる教科書のように、常に書架や書棚に並んでいてほしいなと思った。

増補の前半部分には、学校関係者に配った資料や災害後のためのメンタルチェックリストに始まり、その後に発表された原稿が集められている。どの文章もわかりやすいのは、説明の順番にもよるのかも。
後半部分には、中井久夫による告別式での追悼の辞や、鷲田清一の書評、関わりがあった人たちの寄せる文章から成る。著者の人となりがうかがえると同時も、そこをも含めて、最初から最後までなにかを喪失する体験を追いかけるような本になっている。

一般に、心の傷になることはすぐには語らない。誰しも自分の心の傷を、無神経な人にいじくられたくはない。心の傷にまつわる話題は、安全な環境で安全な相手にだけ、少しずつ語られるのである。(p.74)

私にはどうにも消化できない記憶がある。なにか起きるたびに、過去になりきっていないことを思い知らされる記憶がある。
だから、トラウマケアの領域に惹かれるのだと思う。私自身が抱えているものと、どうやったらつきあっていけるのか、私自身が探している。
まだ、誰にも話したことがないこと、話す言葉がないことを、問われても答えられないし、話したからといって終わりにならない。
まだ、終わりになる気がしない。そのことを含めて私になってしまっているから、丸ごと抱えてほしいと願わずにいられなかったんだろう。

2011.12.23

災害とトラウマ

「こころのケアセンター」編 1999 みすず書房

1997年に神戸開かれた国際シンポジウムをもとに編まれた論文集。
阪神・淡路大震災のみならず、地下鉄サリン事件も踏まえた内容になっている。

岩井圭司「被災地のその後:阪神・淡路大震災の33ヶ月」
阪神・淡路大震災後、兵庫県精神保健協会によって設立された、こころのケアセンターの活動を紹介する。
相談ケースは女性のほうが多く、年代別には60歳がピーク。男性ではアルコール関連問題が女性より目立ち、女性では不安・対人関係・睡眠障害が男性より高率。また、家屋喪失例では睡眠障害、人的喪失例では抑うつ感を訴える者が有意に多い。

ロバート・パイヌース「子どもと災害:長期的帰結と介入についての発達論的観点」
これは読む価値がある。限られた時間のために、非常にコンパクトに、要点のみにまとめられている。
子どもがPTSDが、親のストレスと正の相関があることや、持続性の睡眠障害が注意欠陥をもたらしたり学習を障害しやすいことや、外傷体験のリマインダーがあることなど。年齢に応じての違いも含めて説明されている。
データのもとになっているのは、アルメニア地震、ノースリッジ地震、ボスニア=ヘルツェゴビナなど。
ちなみに、最初に書かれたポンペイのエピソードは、本村凌二『古代ポンペイの日常生活』により詳しく紹介されている。

中野幹三「地下鉄サリン事件:被害者の孤独と外傷後ストレス障害」
地下鉄サリン事件の被害者でPTSDの45例のうち、症例を紹介しつつ、当初は身体症状が精神症状をマスクしていること、サリンの毒性よりもサリンを吸ったという意味によって傷ついていることなどを指摘。
また、被害者の孤独感、孤立無援感は、改めて胸が痛い。気持ちの決着をつけることの難しさを考えさせられる。

アレキサンダー・マクファーレン「自然災害の長期的転帰」
多くのPTSD患者が、災害から2年間は受診しないという。
「多くの人は、実際起こったことの恐ろしさは無視し、そして忘れようとしてしまう」(pp.88-89)が、実際にPTSDになっている人もまた回避の症状があるがゆえに思い出さされることを回避しようとして、治療もまた回避することを指摘している。
うん。その通りだ。
長期的なフォローアップが必要であること。それから、これだけで治るような単純明快な治療方法はないということ。

小西聖子「犯罪被害者のトラウマへの対応」
国内での犯罪被害医者相談の第一人者。調査報告、対応の指針、事例を紹介。調査では、女子大生よりも、より高い年齢層のほうが、レイプの被害が高い率を示す。
トラウマワークに拘泥することなく、被害者とその家族ら関係者に対する心理教育の重要性を訴え、「全体としてセルフ・コントロールの感覚の獲得、あるいはセルフ・エスティームの再建」(p.122)を精神的援助の目的とする。また、被害者自身の社会的な行動のための援助をするところが、犯罪被害支援ならではの要素である。
セルフ・コントロールとセルフ・エスティーム。どちらも、私がほしい。

ジュディス・ハーマン「トラウマ、家族、コミュニティー」
この人の本を読んでおきたいのだが、高い……。
レイプからの回復について、ポジティブな要因は、行動的な対処の戦略、連携的な対処の仕方、成熟した防衛(利他主義とユーモア)、ネガティブな要因は、社会からの孤立、経済的なストレス、過去のメンタルヘルス上の問題があると整理。

加藤 寛「『こころのケア』の4年間:残されている問題」
阪神・淡路大震災から4年後の時点での知見は、今後数年間の東日本の支援の目安になるのだろう。
たとえば、仮設住宅に住む人がPTSDハイリスク群であり、「彼らは被災状況の大きさもさることながら、過酷な生活環境に長期に置かれ、さらに生活再建の最も遅れた人たちであり、その重積した影響がPTSD症状の遷延に結びついていた」(p.159)とある。
また、震災直後に活動していた消防隊員の体験を語る言葉は、重い。救援者が味わう非常事態ストレスについて紹介している。自らも被災者となった消防隊員は、IESでも高得点を示しやすかったそうだ。支援者支援は重要な課題である。

中井久夫「災害と日本人」
「身体の傷は八ヶ月すれば瘢痕形成がいちおう完成するが、心の傷は四〇年経っても血を流す」(p.177)
今年はこの人の文章を中心に読んだので、内容には重複することもあるのだけれども、何度読んでも歴史から学ぶことのリアリティを思い知らされる感がある。

2011.12.10

インスー・キム・バーグのブリーフ・コーチング入門

インスー・キム・バーグ ピーター・ザボ 長谷川啓三(監訳) 2007 創元社

人の心は、パンドラの箱のようなもの。
無意識の中には、醜い=見難いものが詰め込まれている。
その奥底にある希望をすくいあげる質問が、ミラクル・クエスチョンだ。
自分の心の向かう方向を確かめたい時、私自身にも尋ねるようにしている。
この奇跡は、人から押し付けられるものではない。自分の心が願うもの。
もしも奇跡が起きるとしたら。

このテクニックをインスー・キム・バーグが生み出した瞬間が、本書のp.48に描かれている。
邦題にはソリューションもしくは解決という言葉は遣われていないが、解決志向アプローチを、幅広い場面で活用するためのテキストである。
よく整理されているのでソリューションの初学者にもオススメだ。福祉や産業、教育、様々な場面で使い勝手がいいと思う。

事例をまじえながら、数多くのスキルやテクニックが紹介されている。一つ一つは、当り前に見えるぐらいささやかで、簡単そうに見えるかもしれない。
それを、あくまでも、解決に向けて、具体的で予測可能で実現可能なゴールに向けて、クライアントを信頼し続けて遣い続けるところが大事で、時々結構難しい。
本で読む通りにいくかどうかは別にして、久しぶりにブリーフの本を手にとって、馴染んだものと再会するような嬉しさを感じた。

100%いいこともなければ、100%悪いこともない。
100%いい人もいなければ、100%悪い人もいないように。
どんなに行き詰っているように感じても、丹念に探せば例外があり、そこが解決の糸口になるはず。
危険性よりも可能性を。人生は絶えず変化していて、もとのままに留まることはないのだから。
謙虚さと好奇心を、左右の手に握り締めるのを忘れないようにしておきたい。

2011.12.06

「彼女たち」の連合赤軍:サブカルチャーと戦後民主主義

大塚英志 2001 角川文庫

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。こういった、王子様による内面の全肯定で主人公の少女が自己実現してしまうのは、(中略)少女まんがの基本構造だ(p.54)

確かに、私は少女まんがで育った。そうすると、こうなるか。
自分の願望やら、ルーツやら、を言い当てられる気恥ずかしさ。
と言っても、この本は少女まんがの分析がメインではなくて、その心性を連合赤軍の女性に見るというもの。
同列に、あるいは、対比に、上野千鶴子らフェミニズムや、かつてのオウムの女性達が取り上げられる。

おばさんだが、連合赤軍をリアルタイムで知る世代ではない。
そのあたり、ウィキペディアを片手で調べながら読んだ。
読んでいるうちに、だんだん腹が立ってきた。むかむかした。
この革命を掲げる男性たち、自分がやったことを、女の所為にするなーっ。
女だから、ということで、片付けられることに腹が立つ。

女性性や母性をどのように受け入れるか、折り合いをつけるか、長年の課題だった。
私は、フェミニズムが運動ではなくアカデミズムの俎上に乗るようになった時代に学生を過ごした。
性など振り捨ててしまいたい時期もあった。自らとの付き合いは、ゆっくりゆっくり手探りするしかなかった。
特に女性性については、恋人の存在が大きい。彼がずいぶん助けてくれたと思う。心から感謝しているところだ。
その点、やっぱり、冒頭の引用に戻るのだ。

この本を出版されていた当時、単行本の出た96年に読んでいたらどうだったか。
自分自身の意識の流れと結びつけて受け止められるほど、私は内省できなかったかもしれない。
どうだろうか。「『内面』を自動化していくことで、『内省』を困難とする」(p.232)という表現が出てくるが、今の私のほうが「思われる」「思わせられる」といった無責任な表現を身に着けた。
法的な責任を免れる言語用法があまりにも浸透しすぎて、私的な会話ができなくなるほどに。そんな私が内省などできるのか。

だが、少なくとも、現在、読んだからこそ、この本が斎藤環『母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか』に繋がることがわかる。
両者を繋ぐ萩尾望都『イグアナの娘』は、あんまり印象に残ってないが、石女の私が残した、手の届かない領域だからしょうがない。

2011.12.01

「なんでわかってくれないの!」と思ったときに読む本

トーマ・ダンサンブール 高野 優・野沢真理子(訳) 2004 紀伊国屋書店

本棚を片付けていたら、未読の本を見つけた。
こんな本、もっと早く思い出せばいいのに。
かつてない必要性を感じて読み始めた。
こんな本、もっと早く読んでいたらよかった。
こんな風にできたらいいな。こんな風になったらいいな。

いい人になろうとして、素直になれない人に、真っ先に勧める本だ。
「自分のことを考えたら、人のために何かをすることはできない」か、「人の気持ちを思いやるためには、自分のことは忘れなくてはいけない」という二元論に、人は陥りがちだと、著者は指摘する。
自分もまたそういう二元論にはまりこみ、満足に発信も受信もできなくなっている状態であり、すがるように読み進めた。
何度も指摘されてきたことがそのまま書かれていると恥ずかしくもなったし、10年前にあれだけアサーションを勉強したのにすっかり実践できなくなっていたことも情けなくなった。

英米で発達したアサーションがどちらかと言えばコミュニケーションの発信の部分に重点を置きがちであるのに対し、フランスで書かれたこの本は、カップルの事例も多く、発信と受信の双方向に目配りの聞いた内容になっている。

骨子としては、観察、感情、欲求、要求の4つの要素から、コミュニケーションを暴力的ではない方法でやっていけるように組み立てていく。
事実を解釈したり評価を加えたりせずにありのままを観察し、自分の感情を解釈を加えたり相手を支配しないように言葉にし、その背後にある欲求(奥底にある願望)を理解し、その欲求を満たすために具体的で現実的で建設的で実現可能性があって話し合う可能性がある要求を相手に投げかける。

相手のコミュニケーションを受信するためには、相手と自分を信頼し、共感していくが、そのときにも相手を観察し、その感情と共感を見極め、要求を聞く、という同じステップを踏む。
そして、相手の要求を自分の感情や欲求とつき合わせて、自分自身を切り捨てないようにしながら、新たな要求をしたり、自分達の意見が一致するようにステップを踏む。
そのプロセスを、著者はダンスにたとえる。美しいダンスに。

自分は自分の心の井戸に降りれているだろうか。
最初は自分の感情や欲求が希薄にしか感じられず、焦った。
ありのままでいたつもりが、自分がありのままでいられていないこともわかってきた。
なんでこんなに自由が怖いんだろう。自由になりたいくせに。
間違ったやり方を押し通してきて、自分が磨り減っているのはわかる。
このままでやり続けようとしてもうまくいかないのもわかる。
ああ言えば、こう伝えればよかったというのがわかってきて、そうできていないことが悔やまれたり、今からでも間に合うならば伝えたくなる。
今からでも間に合うならば、聞かせて欲しい。本当の意味で出会いたい。時間をかけて。

共感が難しい人を相手にするときや、怒りの対処については、心から参考になった。反省もしている。
事例も多く、練習問題もあり、ゆっくり何度も具体的に、自分自身の問題と向き合ったり、自分にとっての問題場面をどうやって表現すればよかったか、考えることもできる。
いつかいつでも引越せるようにと思って始めた片付けだけど、この本は手元に置いておこう。
自分に馴染ませたいから、もう一度最初から読み直す。
パートナーと一緒に読むことができたら、かなり素敵だと思う。

2011.11.24

幻滅論

幻滅論 北山 修 2001 みすず書房

お話にならない。そのことを、どう扱っていけばいいのだろう。
言語は第三者に「わかること」を当然とするが、第二者に「通じること」を私は希求している。
私はお話にならないことを大事に抱えて欲しいのだ、と、この本を読みながら振り返った。
思いがけず、最近の私のつまずきを違う視点から見ることになる。そこが、言葉にすることを通じてお話にならないことを俎上にあげようとする精神分析ならでは、という、気がする。

北山は、本書の中で二者間内交流と二者間外交流が、「ともに眺めること」を通じて同時に行われていることを、浮世絵の中の母子像を例に引きつつ、述べていく。
このような交流が言語の獲得以前の交流としてあることから始まり、愛は上から下へ与えるものであり、甘えは下から上へ求めるものであることと定義されがちであることなど、論は縦横に展開していく。

母子関係の比較的無条件な一体化は、つながっていない、通じていないという幻滅を経る。その幻滅には、エディプス的な父親の登場による幻滅、理想化された母親とは矛盾する母親に出会う幻滅、母親の不在という幻滅が挙げられる。自分をなす土台としての環境が崩れるという幻滅に、死という幻滅が加わる。

幻滅があって初めて、自分を愛してくれているものを同時に自分が傷つけていたことを人は知り、ゆっくりと自分の矛盾や「すまなさ」を噛み締めることができれば、ただ立ち去ろうとする自虐的世話役に対する恩や感謝や償いへと発展する経路が生まれる。

何度も「夕鶴」が例にして語られる。
私は長いこと自分が夕鶴の立場でいるつもりで、その場に踏みとどまるという選択肢に惹きつけられたが、今はむしろ、与ひょうの立場にいるのだと思う。
与ひょうはどうすればつうを引き止められるのか。どうすれば、安心して傷の手当てをさせてもらえるのだろう。織物など織らずともいいのに。そばにいるだけでいい。いや、織りたいときに織ってもいいのだ。この恩を。どうすれば。

治療関係でいちばん大事なのは、ただ現象を解釈し説明することではない。たとえ反復とはいえ、幻滅の相手役としてその受け皿になるという過程で、治療者は原則として「幻滅させる者」という苦痛な役割を果たさねばならない。(p.121)

たよりをまちながら。

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