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新書

2020.01.19

痴漢外来:性犯罪と闘う科学

原田隆之 2019 ちくま新書

痴漢や覗きといった性犯罪加害や、その他の性的な問題行動を「やめたいけど、やめられない」依存症の中に位置づけて、著者は治療を提供する。
依存症そのものが、まだまだ一般的に的確に理解されているとはいいがたい。偏見や誤解が根強い疾患のひとつである。
あらゆる嗜癖行動の中で性的依存症だけは被害者が存在する。この著者の指摘は、なるほどであるが、どきりとした。
だからこそ、加害者に治療をと訴えると、治療か刑罰かと二者択一的な態度で迫られることがあるのだろう。

依存症患者であっても、加害者としてやったことについて刑罰は受けることは当たり前である。
そこに、治療を加えることで、再犯率を引き下げようというのが著者の考えである。明確で、とても賛同できる。
この考えになじまな。い人にこそ、まず本書を読んでいただきたい。治療か刑罰か、ではない。治療も刑罰も、なのだ。
やったことに対しては刑罰を。繰り返さないように治療を。

どのような人が、どのようなことに苦しみ、どのような治療を受けるのか。そのことによって、どのように変われる可能性を持っているのか。
まず知ってほしい。

この本は、痴漢外来の現状を紹介するところから書き始め、病期として性的問題を位置付けていく。
性的依存症の原因と診断、治療についても、多くのページを費やしており、心理臨床業務に就く者として非常に参考になった。
流れとしては、リスクファクターをチェックリストでアセスメントし、その中で変えられる要因を標的にして、CBTと集団療法に導入する。
このくだりで、投影法に対して、ずいぶんと辛辣な批判があり、苦笑いを禁じえなかった。「科学の進歩を妨げる頑迷さ」には、自分も気をつけておかねばならない。

後半はハイリスクな性犯罪者や多様な問題行動、性暴力被害について、順に触れられていく。
個人的には、女性の性依存や性的虐待、性暴力被害の問題、また、同性愛の人たちならではの問題のほうに出会うことが多いので、こうして取り上げられていることがありがたく思った。

私が働く臨床の場でおそらく出会わないのは、ハイリスクな人々である。
そうではあるが、p.204では、思わず、涙が出た。
この感情を揺さぶられる文章を、ぜひ読んでいただきたい。
こんな一瞬のために、たぶん、自分は臨床を続けているのだと思う。

全体を通じて、著者の怒りやもどかしさ、悔しさを感じた熱い一冊。

2018.12.29

家族の秘密

セルジュ・ティスロン 阿部又一郎 2018 文庫クセジュ

あらゆる真実が治療的になるわけではないが、それでも<秘密>はしばしば病原となりうる。(p.158)

途中、何度か挫折しかかった本である。
未解決の問題を秘密として抱えていた人の子の世代、孫の世代になって、秘密が漏洩することがある。
目の前の人の症状は、そうした親や祖父母の世代の秘密が反跳したり漏出しているのではないかと読み解いていく。

秘密を暴き出せばよい、というものではない。
この本の前半は秘密がどういうものであり、どのように現れてくるものであるのかを、解説する。
個人のレベルの秘密もあれば、社会のレベルの秘密もある。

著者はフランス人であるから、彼の出会うケースの中に落としているのはヨーロッパ戦線の体験であり、ナチスである。その体験への理解を通じて、日本での戦争を体験した人たちの記憶と秘密について、考えずにはいられない。
その体験が、どのように親の世代、私の世代、より若い世代に反跳するのか。
なかでも、「モニュメント建立されるたびに、何かが覆い隠されてしまう危険性がある」「集団との絆を強化することに重きをおくために、各々の経験のなかで最も個人的なものを放棄することを促す」。(p.134-)
この指摘は、たとえば、靖国のような存在の役割への理解の一助となるものだ。

暴き出すための読み解き方を教えてくれるのではなく、どのように秘密を病原とならないようにしていくのか。
この点は非常に臨床的であり、極めて現実的である。
自死などの死者について、あるいは、複雑な関係性、戦争や事故といった災害にまつわる罪悪感など、秘密になりやすいものを抱えている人に接する時の参考になった。
家族の自死や複雑な関係といった秘密にしがちな出来事を、子どもたちに「あなたのせいじゃないの」と伝えることに尽きる。
それも、伝えることに早すぎることはない、ということ。事実を知ることと意味をわかることは違う次元であるので、意味がわからないだろうと考えて情報を伏せるのではなく、事実は知らせておいて後から年齢相応に意味を理解することができればいいのではないか。
とはいえ、伝える側が感情的にならずに、自分の心が傷つかずに話せる形、話せる範囲から伝えていくことが肝要である。

何度か挫折しかかったのは、我が身と我が家の家族の秘密とはなんだろう?と引き寄せるようにして読んだからだ。
そう考えると秘密はある。きっとこのような秘密があって、このように私に反映しているのだろうと理解はできる。
理解していくことで、じゃあ、どうしたらいいかと考えると、だんだんとつらくなった。
しかし、著者の目的は秘密が暴かれることではなく、新たな病因とならないよう、秘密を次の世代に持ち越さないための努力を提言することであるように思う。

あなたのせいじゃない。
それは、あなたのせいじゃないのだ。

2017.12.01

日本の近代とは何であったか:問題史的考察

三谷太一郎 2017 岩波新書

選挙前に読み終えたかったが、時間がかかってしまった。

政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制の四つの観点から描かれており、明治以降の日本の歩んできた道が有機的に絡み合っている。
それぞれの観点ごとに、順を追って語られるため、慣れない分野であっても理解しやすく、また、わかりやすい説明となっていた。

著者が50年の研究生活の成果として、日本の近代についての総論となるように企図して書かれたものだ。
ヨーロッパの近代化について研究していたバジョットの研究に基づき、ヨーロッパ的な近代を目指しつつもヨーロッパにはない日本の問題を俯瞰する。
著者の長い研究のキャリアの成果を惜しみなく分け与えてもらった感じがする。
手に取りやすい新書であることもありがたい。

日本の近代の全体像を追いかけていくことで、現代の状況をはたと考えさせられる。
なかでも、天皇制の位置づけの章で教育勅語の成立過程が出てくる。
明治国憲法は天皇の超立憲君主的性格を明確になしえていなかったのに対し、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示するものだった。
この流れを切り離して、教育勅語の中身はいいからと現在の教育の教材に安易に持ち込んでくることは、前近代からの揺り返しであることがはっきりとわかる。
少なくとも、現政権の人々が天皇の意志を尊重しないことから、その存在を尊重していないことがうかがえる以上、そこで成立せしめようとする神聖不可侵なものの得体は知られず、いかがわしいこともわかる。

近代化は、それに伴って固定された「慣習の支配」によって抑えられてきた前近代の深層に伏在する情動を噴出させます。それは議論を許さず、ひたすら迅速な行動へと駆り立てる原始社会への突然の回帰です。バジョットはこれを「先祖帰り」(atavism)と呼びました。(pp25-26)

今、日本は先祖帰りを起こそうとしているのではないか。
その危険性は常に社会は有している。
警句に満ちた、とても現実的な一冊だった。
現代の日本がどうやって成立してきたかを学ぶときに、真っ先に選ぶことを勧めたい。

これぐらいのことは常識として学んでおくべきであると貸してくれた父を、改めて尊敬した。

2017.06.05

私の方丈記

三木 卓 2014 河出書房新社新書

国語の教科書で触れた時から、方丈記は私にとって特別なものである。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
この世界観は私に馴染み、今も私の根底の一角を成している。

だからと言って、全文を読んだ記憶が希薄で、本屋さんでこの本を見かけた時には自然に手が伸びた。
三木さんの現代語訳は、あとがきで著者が企図したと書いてある通りに、読みやすい。
ただただ内容を味わいたい身としては、対訳で表記されているよりも、現代語訳は現代語訳だけで表記されていることも読みやすかった。

鴨長明は、人生でうまくいかないことが続き、50歳を過ぎて僧になった。
60歳を過ぎて、京の街中から外れたところに庵を結び、静かでのんびりとした生活を過ごす。
独居老人生活の見本というか、手本のような人であるが、言うほど楽ではないんだろうなぁと思ったりする。
彼が書き付けたつむじ風や遷都、飢饉、地震といった世の中の恐ろしいことは、当たり前であるが現在とまったく違いはない。
仏僧の生活を送っているはずが、世俗の苦しみと山暮らしの楽しみに心が囚われていることに囚われているのではないか。
そういう極めて個人的な文章だった。

分量として意外に短い。

その方丈記の現代語訳の後に、それぞれの段にインスパイアされた三木さんの「私の方丈記」が収められている。
大陸で過ごした戦前から戦直後に引き揚げてきてからの生活がつづられており、今、この本にひきよせられた理由はここかと思った。
戦争の体験、戦争の記憶である。兵士ではない人が体験した、無政府状態の混乱や恐怖、その後の飢餓や喪失が、どこか軽妙で気負いのない口調で語られる。
この方は私の父よりも少し年上であるが、三木さんの描いた東京の景色に、父の子ども時代を透かし見ることができた。
きっと、たくさんの人がつらかったり、苦しんだ。そのことを、この国はもう忘れようとしている。
隔世の念があり、とても同じ場所で起きたことであるとは思えないような一瞬を、体験した本人だって感じているけども。
でも、繰り返しちゃいけないよね。

世の中には、集団をあつかうのがうまく、いつも状況の中でもっとも適切なことを全体にとって望ましい結果にむかって導いてくれる、すばらしい人物がいる。(中略)
でもぼくは、そういう人間が、密室の部屋にもどって一人になったとき、どういうことになっているのかが、少し気になる。(中略)
ぼくは、かれがふだん見るかれとは似ても似つかないものになっていることを願うし、また事実そうなっているだろう、と思う。自分一人の空間で自分勝手にふるまう、ということは、つまり自分を意識しない自分になっていること、である。そういう時間はだれにとってもなければならないものである。(pp.143-145)

この著者の言葉、人間観が素敵だなぁと思った。
現実的で良識的な感覚に裏打ちされた、あたたかなまなざしを感じる。
私自身がこれから年を重ねていくときに、こんな風なまなざしを持っていられますように。

巻末には方丈記の原文を収められている。

2017.04.24

憲法という希望

木村草太 2016 新潮社新書

国家の三大失敗は、「無謀な戦争」、「人権侵害」、「権力の独裁」である。
このように、著者の説明は、非常に簡潔でわかりやすい。
憲法は、「ごく簡単に言えば、過去に国家がしでかしてきた失敗のリスト」(P.25)である。
その失敗を繰り返さないために、憲法は軍事統制(第2章)、人権保障(第3章)、権力分立(第4-6章)を三つの柱にしている。
指摘されるまでもなく、世界を見渡せば、これらが保障されている生活は意外と当たり前ではない。
当たり前のように生活しているけれども、日本だって、この憲法が制定されて、まだ100年と経っていないのである。

著者は政府を批判する時には、憲法が示す国家がやりがちな失敗を参照しながら、具体的に根拠と対案を述べることを勧めている。
そのような考え方をする例として挙げられているのが、夫婦別姓と沖縄の基地問題である。
前者は人権条項を使いこなすことであり、後者は地方自治は有名無実化されかねないことの議論となる。
どちらの議論も、著者の言葉には説得力がある。直感や情緒に頼らず、同情票を集めるのではなく、差別感情を煽るのでもない。
理詰めの論の展開には納得がいく上に、私のような法についてのど素人にもわかりやすい平易な文章だった。
沖縄と基地の問題を、自分なりに咀嚼する大きな一助となった。

私は、恥ずかしいことではあるが、漫然と、日本という全体のためには、地方が我慢するのも仕方ないのではないかと思ってしまっていた。
一部の沖縄バッシングに眉をひそめたり、過剰すぎるがゆえに違和感を感じたとしても、何がどう問題であるのか、よくわからないままでいた。
本書には、日本政府がいかに手抜きをしてことを進めようとしているか、その過程についての反論が「木村理論」として三段階で示されている。
第一に国政の重要事項は国会が法律で定めなければならない(憲法41条「立法」)、第二に自治体の自治権をどのような範囲で制限するのかを法律で定めなければならない(憲法92条「地方自治の本旨」)、第三に特定の地方公共団体だけに適用される法律はその住民の同意がなければ制定できない(憲法95条「住民の投票」)ことの三段階である。

法律がなくとも何事も閣議決定という形で、すべて内閣で決めればよいという、現在の内閣の問題点がくっきりと浮かびあがる。
基地の有無の問題ではなく、地方自治が守られるかどうかの観点で見ると、政府が決めたから文句を言わせないという前例を作らせることが、恐ろしいことがわかる。
著者は「辺野古に米軍基地を設置する根拠法が本当にないのだ、ということにぞっとした」(p.105)というが、私はこのことに対する国の答弁や反論のかみ合わなさに寒気がした。
かみ合わなくてもごり押しする。相手が納得しようがしまいがかまわない。やりたいと思ったことをやる。そんな姿勢が透けて見えるようで、寒気がした。

私は改憲には反対である。
原則を変えてよいのは、ほかにあらゆる手段を講じてもなお、問題解決が図れなかった時だけであると考えるからだ。
原則を安易に変えてはならない。少なくとも、原則を変えなければならないほどの要請があると、私は感じていないからである。
ましてや、失敗の歴史をなかったことにするかのような、懐古主義的な復興主義のに追従するつもりはまったくない。
そう考えてはきたが、この数年、改憲へ向けて流れが向かっているような危機感を感じてならない。
その流れに、感覚的や情緒的ではなく、理論的に、かつ現実的に、自分が反対表明を示す論拠がほしいと思うようになった。
それが、私が改めて、憲法というものについて学びたいと思ったきっかけである。
「憲法は『よりよい社会にしたい』という国民一人ひとりの希望から形作られるもの」(p.114)であり、権力者に憲法を守らせるように見張るのは国民一人ひとりだ。
「憲法は日々を生きる私たちの味方」(p.114)であるのと同時に、私もまた憲法の味方でいたいと思った。

どうか、一人でも多くの方に、憲法という希望を守ってもらいたい。自由を守ってもらいたい。自分と自分の大切な人、その未来のために。

2017.02.28

脳が壊れた

鈴木大介 2016 新潮新書

深刻な話なのに。
深刻な話なんだけど。
くすくす笑ってしまうぐらい、率直な文章が素敵だった。
イラストもユーモラスで、ほのぼのとしている。
笑ってしまってごめんなさいと思うけど、笑えるのは著者の人柄と、なにより生きていらっしゃるから。

41歳で脳梗塞になり、軽度の高次脳機能障害の後遺症を持つことになった体験記。
この人の『最貧困女子』を読み、ほかにはどんな本を書いていらっしゃるのか検索して、これを見つけた。
その瞬間、目が丸くなったと思う。
41歳で脳梗塞って大丈夫なのか!?
ていうか、脳梗塞って、大丈夫じゃないやん!?
と、びっくりしながら、概要を読み、これは読まねばなるまいてと、すぐに購入を決めた。

これは、読む価値がある。
高次脳機能障害という言葉に聞き慣れない人もいるかもしれない。
初めて聞いたとき、高次って、脳にひっかかるのか、脳機能にひっかかるのか、障害にひっかかるのか、これだけではよくわからないと思ったことを憶えている。
どんな症状が出るのか。どの治療やリハビリテーションをするのか。
頭部外傷や脳梗塞などの後遺症のひとつであるが、そこで起きる現象が、時に発達障害の妻の体験との共通項に気づくこと、著者がインタビューしてきた相手を想起させること、そこもひっくるめての体験談である。

病を得ることで、自分の生き方の見直しや御夫婦の関係の見直し、そして社会への提言と膨らんでいく。
全体を通じてテンションが高めであるのは、感情が大きくなりやすい障害であることと、助かったという安堵感と、気づいたことを伝えたいという願いだろう。
これは読んでよかったし、読めてよかった。

ある箇所で、デギン公をネットで調べてみた。
以来、思い出しては笑ってしまう。
どうしてもこのことは書き足しておきたくなった。

2017.02.02

日本会議の研究

菅野 完 2016 扶桑社新書

読み終えて、溜息ひとつ。
読んでよかったがなんとも気が重い。
気が重いが、これが現状なのだろう。
これを現状だと思うと、腑に落ちる。
この気の重たい内容は、実際に読んでいただきたい。

2017年1月6日。ベストセラーが出版差し止めというニュースに驚いた。
この判決はなかなか出るものではないと思っていた。
現に、ニュースの見出しには、過去の判例無視という表現さえ踊った。
ただし、事実ではないと裁判所が削除修正を求めているのは、訴えられた6箇所のうちの1箇所のみ。
著者と出版社を応援するつもりで、慌てて購入を試みた本だ。
その場でKindle版をダウンロードし、後日、書店で現物を購入した。
その後、扶桑社と著者は、該当箇所を黒塗りにして出版を続けている。
裁判を起こした方には起こした方の事情があるのだろうが、私はこの本を読んでよかったと思う。

私は、美しいという価値観を振りかざすスローガンが気持ち悪い。
美とは直観的に理解するものであり、理性で議論する範疇を超えている。
美は、なんとなくの共感であり、説明がつかない次元に立脚することである。
美による統治は、知性的な分析や反省、理性的な対話や理解を封じてしまう。
言い訳のつかぬことを押し通し、言い返すことを許さない価値観が美である。
だから、美しいを連呼し、押し付けられることが、とても気持ち悪い。
この気持ち悪さの理由が、この本で明らかになったと思う。

日本会議という寄り合い所帯をまとめる紐帯となるのは、君が代であるとか、日の丸であるとか、ぼんやりとしたなにか保守的なもの、伝統的(と思われやすい)もの、であるようだ。
ウンベルト・エーコが、『永遠のファシズム』で「ファジーなファシズム」という言い方をしていたことを思い出す。
その日本会議という形で政治を動かす得票を集める人たちは、特定の宗教と密接に関係している。
そして、話は私の生まれる前にまでさかのぼる。

60年と70年の安保。その学生運動の時、大学生だった人たちも70代だ。
それから時は流れた。それだけの時が流れた。
にもかかわらず、いまだに、左翼に対する攻撃という運動を続けていたい人たちがいる。
その年頃の人たちなら、今更、言動が変わることはないだろう。
彼らの最終目標は、私はとても受け入れがたい。
どういうものであるかは実際に読んでもらいたい。

2006年。教育基本法が改正された。
私はひどく憤ったことを憶えている。
基本法だ。基本となる法律を変えるということは、その上に乗っかるその他の法律等々まで影響をこうむるのだ。すべてのありとあらゆる努力と工夫を講じて尚どうしようもなかった時にしか変えてはいけないものではないのか。そこまでの努力をしたのか。
しかも、教育だ。教育を変えようとする政権には注意を払うべきである。私はそう習った。
なぜならば、ナチスが最初に着手したのが教育だったからだ。

改めて、調べてみた。
2006年の政権は、誰が持っていたのか。
ちょうど、第一次安倍政権の時だったのか。
政権をとって最初に成立した主な法案だったのか。
そうか。そういうことか。そういうことなのか。
私の中で腑に落ちた。私なりに、本書の内容を検証できたと思う。
この本を否定したり、非難したりする人がいるほど、ここに書かれていることは的はずれじゃないのだろう。
政教分離すらできない政権を、私は支持しない。

2017.01.14

大津中2いじめ自殺:学校はなぜ目を背けたのか 

共同通信大阪社会部 2013 PHP新書

読めば読むほど、腹が立って仕方なかった。
はらわたが煮えくり返るというか。
怒髪天を突くというか。
自分の中で、怒りがぐわぁっとこみ上げてくる。
読書でここまで腹が立つことって滅多にない。

いじめを苦にして自殺する子どものニュースは毎年のように報道される。
その中で、この件が特に記憶に残っているのは、ネットでの過激な反応と攻撃性の発露による。
匿名性を隠れ蓑にした個人がいじめ加害者と目される人物とその家族や学校関係者の個人情報の暴露が行い、それが無関係の別人にも及んだ。
鵜呑みにしたのか便乗したのか、教育長まで傷害事件の被害にあう。
単なる傍観者に過ぎないはずの第三者が、積極的に迫害者へと転じていった現象は、私は忘れられない。

その顛末もであるが、そもそも学校で何が起き、どうしてこうなったのか。
もう一度、全体を整理して見直したいと思い、購入したわけであるが、どこをどうとっても腹立たしく、やりきれない思いになる。
本書は直接的ないじめ加害者の分析ではなく、被害者が自殺にいたるまでに起きた学校での出来事や様子と、その後の学校の対応についての取材である。
これは意味が大きい。いじめは、数多くの傍観者によってエスカレートするが、この件では教職員が最大の傍観者となってしまった。
ひとつひとつが後手に回っていくもどかしさ。ここで誰かが気づいていれば。ここで誰かが声をかけていれば。ここで誰かが他の生徒に指導していれば。
ここで誰かが、この子を学校から避難させてあげることができれば。
誰も止めることがないまま心理的・身体的な暴力がエスカレートしていく過程は、結果が自殺と他殺の違いはあれど、川崎の中学生が殺害された事件と重なって見える。

大人は問題にしたくない時、平気で問題ないことにしてしまう。問題はなかったのが対策はないし、責任もない。そういう思考行動パターンをお役所仕事と呼ぶのではなかろうか。
担任の対応が不十分だったとしても、その人は異動したてであったという。新しい職場にすみやかに馴染めるかどうかは、人にもよるし、環境にもよる。その人が馴染むまで、十分なフォローを受けられなかったであろうことは、労働者として気の毒であったとは思う。
しかし、一番気の毒であったのは、亡くなった子である。そこを見失ってはならない。
そこを見失うから、その後の管理職らの対応がお粗末なものに「なれる」のだと思う。
保身や否認という態度は、自分のほうが可哀想という気持に裏打ちされていると考えるからである。

管理職を始めとする教員達が保身優先になったのは、ありがちであるとは思うし、その時の社会的な反響の大きさに対してますます防衛的になってしまったのかもしれない。
かといって肯定も受容も承認もできないが、ことに残念であったのはスクールカウンセラーの果たしてしまった役割である。

スクールカウンセラーは一般的にどのように考えられているかは横に置き、多くは週に1-2回、4-8時間程度の勤務であり、生徒や保護者との個別の面接や心理査定よりは、コンサルテーションを主として働かざるをえない職である。
相談室として個室をわりあてられているが、この時のスクールカウンセラーが職員室に机もあるというのが、よくあるパターンだと思う。
非常勤であるスクールカウンセラーは、まず教職員と日常的に交流をとることで教職員との信頼関係を築かなければならない。
教職員との交流を密にしないことには情報をもらいそこねることもあるし、まるで日常会話の一部のような肩肘をはらない形でのささやかな助言としてのコンサルテーションの積み重ねが、よく機能するスクールカウンセラーに必要なのだと思うのだが。
思うのだが、しかし。
確かに学校での滞在時間も短く、アクセス可能な情報には限りがあるとしても、もう少し生徒と関わることができていれば、自殺の原因は家庭であると、学校に保身の口実を与えずにすんだのではないかと残念に思う。
と同時に、これがスクールカウンセラーとして学校に入っていく心理士達にとって、大きな警句になると思うのだ。
誰のために、どんな仕事をするのか、自分なりに職務を見直してもらいたいと心から思った。

いじめはなくならないかもしれない。なくすことはありえないことかもしれない。
だとしたら尚更、いじめが発生した時の対応や工夫を磨くことが必要である。
なかったことにするのではなく。
その人の死から最大限に学びを得て、その死を無駄にしないことだけが、生きているものにできることなのだから、本書を読めてよかったと思う。

2015.02.02

犯韓論

黄 文雄 2014 幻冬舎ルネッサンス新書

一冊の新書の中に、韓国、日本、台湾を頂点とする三角関係が描かれている。
政治的に、ではない。文化的に、それぞれは関係しあい、影響しあい、無関係ではありえないが、同一の同質のものとはくくり得ないそれぞれの文化や文明を持っている。

著者は台湾出身の方である。中国ではない。台湾ならではの歴史、背景を持っている方である。
すなわち、日韓関係の当事者というしがらみの外からの目線で語ることができる。
韓国の人が記した近代史を何冊かは読んできたつもりであったが、語調も目線も違ってくる。
そこには、この著者の持つバイアス、背景も投影されているとは思う。
一台湾人から見た日本、韓国、日韓関係というところが、非常に興味深かった。

ありていに言って、正しい歴史認識ってなんだ!?と思う。
「正しい」は「歴史」にかかるのか、「認識」にかかるのか。
しかも、いずれにせよ、それは誰にとって「正しい」のだろうか。
本書は、韓国は自国の歴史の蓄積がされてこなかったという歴史があること、そこからファンタジーが容易に歴史的事実と混同されやすいことを、解説してくれている。
歴史の蓄積がされにくかった要因として、属国であったために自国史の編纂がなされておらず、中世の貴族達の教養は自国史ではなく中国史に立脚していたこと、また、王朝交代ごとに書類や資料を焼失させており、交代王朝の正当化のために粉飾してきた。
もちろん、政権の正当化のために都合よく歴史を書き換えることは日本でも行われてきたことであるが、そういうものだと信じ込むかどうかの読み手のリテラシーの程度も含めて、一概には言えないものの、やっぱり差はあるのかもしれない。
と、ここまで書いて、韓国王宮ファンタジーを歴史ドキュメントと勘違いしていそうな自分の家族を思い浮かべて、自分の言葉の着地点を見失った。

ともかくとしてだ。
対韓国、対中国への理解と対処を進めるための一助となるように書かれた一冊であるが、昨今のグローバル化したテロリズムへの理解と対処にも通底して、日本は、日本人はどうしたらいいだろう、と考えることに役立つと思われる。
「思いやりは日本人古来の民族的特質である。それが悪いわけではないが、他人本位の思いやりは避けなくてはならない」(p.228)との苦言は、意味深いなぁ。
日本が理想でもなければ完璧でもないことをわかった上で言うけれども、このボケていられるぐらいの平和が、これからも続くように祈る。
平和であることの恩恵が失われつつあるような痛みと悲しみを感じながら、平和を祈る。

2014.10.28

阿修羅のジュエリー

鶴岡真弓 2011 イースト・プレス

この「よりみちパン!セ」のシリーズは、筆者のラインナップも興味深いし、大人であっても興味を惹かれるようなテーマ、タイトルが並ぶ。
「学校でも家でも教えてもらえなかったリアルな知恵満載」と帯にあり、子どものための本ではあるが、生きづらさを生きる、無縁なものはひとつもない、青春の大いなるなやみや未知なるみじかな世界など、分類も気が利いている。
この本だって、美学・美術史・文化人類学にあたるような領域だろう。
難しくならいくらだって述べられていそうなことを、改めて、子ども目線で興味を持ってもらえるように、かみくだいた表現、すべての漢字にルビを振った状態で語られている。

興福寺の阿修羅像。
東京の国立博物館と、福岡の九州国立博物館で開かれた阿修羅展は、空前絶後の入場者数を記録した。
みうらじゅん作詞の高見沢俊彦「愛の偶像」がメインテーマとして流れ、みうらじゅんが会長となって阿修羅ファンクラブまでできた。
その二年後に出版された本書は、阿修羅王立像の身に着けている服飾品のデザインに注目しているところが目新しい。

複製された阿修羅の色鮮やかな姿に見て取れる胸飾や臂釧、宝相華文様の裙は、なにを意味し、どこからもたされたのか。
その答えとなるのが、花と星。
地上の花と天上の星が、それぞれが希望の光として照らしあい、古今東西の人々を照らしてきた。
その光をとどめるものとして宝石が用いられており、衣装にも数々の花柄が描かれた。
エジプト、ペルシャ、ローマ帝国といった西側の文化と、インド、中国、そして日本に至る東側の文化の交流が背景にある。
阿修羅から眺める世界は、共通のたった一つの祈りに満ち溢れてくるのを感じた。

仏教美術の観点もであるが、個人的には中世ヨーロッパ絵画についての考察が面白かった。
人物像など、人物の顔かたちに目が行きがちになってしまうのだが、宝飾品や衣装のデザインに目を留めるのも、とても興味深く楽しい。
どんな素材で作られているのだろうと思うこともしばしばあるし(石が好きなので、石の種類は何か、など)、どういう形で止まっているのか?動いても落ちないのか?と気になるものもあったり。
著者じゃないけど、レプリカでいいから身に着けてみたいと思うものだ。
やっぱり、キラキラするものって、好きだなぁ。自分もね。

もう少し大人向けのバージョンで読んでみるのもいいかな。
平易な言葉遣いは門戸を広く読者を受け入れるものであると思うが、逆に少しだけものたりない気持ちにもなりました。
それぐらい、面白かったということで。

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