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香桑の近況

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エッセイ/ルポ

2017.07.22

桶川ストーカー殺人事件:遺言

清水 潔 2004 新潮文庫

ストーカー。

その言葉が人口に膾炙し、その被害の深刻さが知られるようになったのは、この事件が契機だったと思う。
この本を読むことで、面白おかしく描かれがちだったつきまとい被害が、どれだけ被害者と被害者の家族を苦しめるものであったか、わかる。
警察が怠慢をしたときにどんなことになってしまうかがわかる。マスコミが不誠実な報道をすると、被害者は二重三重の被害をさらに受けることになるかがわかる。
加害者には加害者の背景や理由があったのかもしれないが、主たる加害者は罰せられることも、捕まることもなく、自死していた。
記者がたどり着いたストーカーの張本人に警察はたどり着かなかったことは、警察が当初、この一件にとても誠実な対応をしたとはいえないことを示していた。
巻末には、被害者の父親の言葉も収められているから、本書に誇張がないことがわかる。裁判に至るまで、被害者が被害者として見なしてもらえないことには憤りやもどかしさを感じる。
強い強い怒りを感じて、読むことがつらくなったこともあった。

それでも、この本は読まなければならないと思った。
ずっと後回しにしていた。けれど、読まなくてはならない。
読まなければならない使命が、私にはある。
なぜならば、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったようなものだからだ。

どういう意味かというと、私個人の経験で申し訳ないが、ストーカー被害で警察に相談したことが、これまで2回ある。
2つの相談の間には年単位で時間が流れており、ストーカーは別の人物であるが、警察の対応はまったく違っていた。
最初は桶川以前であり、二回目は桶川以降、ストーカー防止法が成立以降であった。
さらに言えば、二回目は三鷹ストーカー殺人事件の直後であり、警察の対応はとてもとても手厚くてびっくりした。
最初の時は、説明するうちに、話を聞いてくださっていた警察の方が失笑する場面もあったのに。
2回目の問題がすみやかに解決したのは、ストーカー防止法に基づく警察の対応があったからであり、その法律が成立したのは先行する被害があったからだと思う。
だから、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったのだと思っている。

読み終えて、被害者の方に、助けてくださってありがとうございましたとつぶやいた。

2017.03.30

夫のちんぽが入らない

こだま 2017 扶桑社
書店で平積みされた本の書名が、一瞬わからなかった。
注意深く文字を探してみると、SNSで書名をよく見かけるようになった本だとわかった。
立ち読みする度胸はなかったので、そのまま買ってみることにした。これもなにかの御縁。
読み始めると、一気だった。
解決はない。対策はない。
こうすることしかできなかった苦闘の歴史があるだけだ。
こうせざるをえなかった血のにじむ格闘の記録だ。
ほかにやりようがあったのならば、ここまで悩むこともなかっただろう。
性交渉に苦痛が伴う場合や、結婚しても妊娠や出産しない場合、女性によってはこれほど苦しむこともあるのだと、率直に書かれている。
無責任な第三者だからこそ、ああすればこうすればと言うことは簡単であるが、当事者として行うことは、とても苦しくて難しいことを忘れずにおきたい。
読み手は、これが物語ではないことを、思い出すとよいのではないか。
書き手がどうやら器用な立ち回りができる方だとは思えず、まだまだ言葉になりきらない思いや体験もあったことだろう。
読み進めるにしたがって、徐々に夫婦のありようが歪になっていく様な気がして、夫の前に、自分自身が専門家に相談するという選択肢がなかったのだろうかと、残念な感じがした。
頑なに、頑なに、ますます解決から遠ざかっていくのを見守るしかないような残念な感じがした。
私にとって、決して読後感の気持ちよいものではなかった。
しかし、不器用に、頑なに、その人なりに取り組もうとしてきた格闘の歴史であると受け止めておきたい。
読み手が読後にどろどろした気分になったとしたら、この本の成功であると思うし、そのどろどろじくじくした感覚がこの書き手の普段の気分であるかもしれないなぁ。
これから読む方は、どうぞ御留意を。
それにしても、この書名は度胸があるなぁ……。

2017.01.14

大津中2いじめ自殺:学校はなぜ目を背けたのか 

共同通信大阪社会部 2013 PHP新書

読めば読むほど、腹が立って仕方なかった。
はらわたが煮えくり返るというか。
怒髪天を突くというか。
自分の中で、怒りがぐわぁっとこみ上げてくる。
読書でここまで腹が立つことって滅多にない。

いじめを苦にして自殺する子どものニュースは毎年のように報道される。
その中で、この件が特に記憶に残っているのは、ネットでの過激な反応と攻撃性の発露による。
匿名性を隠れ蓑にした個人がいじめ加害者と目される人物とその家族や学校関係者の個人情報の暴露が行い、それが無関係の別人にも及んだ。
鵜呑みにしたのか便乗したのか、教育長まで傷害事件の被害にあう。
単なる傍観者に過ぎないはずの第三者が、積極的に迫害者へと転じていった現象は、私は忘れられない。

その顛末もであるが、そもそも学校で何が起き、どうしてこうなったのか。
もう一度、全体を整理して見直したいと思い、購入したわけであるが、どこをどうとっても腹立たしく、やりきれない思いになる。
本書は直接的ないじめ加害者の分析ではなく、被害者が自殺にいたるまでに起きた学校での出来事や様子と、その後の学校の対応についての取材である。
これは意味が大きい。いじめは、数多くの傍観者によってエスカレートするが、この件では教職員が最大の傍観者となってしまった。
ひとつひとつが後手に回っていくもどかしさ。ここで誰かが気づいていれば。ここで誰かが声をかけていれば。ここで誰かが他の生徒に指導していれば。
ここで誰かが、この子を学校から避難させてあげることができれば。
誰も止めることがないまま心理的・身体的な暴力がエスカレートしていく過程は、結果が自殺と他殺の違いはあれど、川崎の中学生が殺害された事件と重なって見える。

大人は問題にしたくない時、平気で問題ないことにしてしまう。問題はなかったのが対策はないし、責任もない。そういう思考行動パターンをお役所仕事と呼ぶのではなかろうか。
担任の対応が不十分だったとしても、その人は異動したてであったという。新しい職場にすみやかに馴染めるかどうかは、人にもよるし、環境にもよる。その人が馴染むまで、十分なフォローを受けられなかったであろうことは、労働者として気の毒であったとは思う。
しかし、一番気の毒であったのは、亡くなった子である。そこを見失ってはならない。
そこを見失うから、その後の管理職らの対応がお粗末なものに「なれる」のだと思う。
保身や否認という態度は、自分のほうが可哀想という気持に裏打ちされていると考えるからである。

管理職を始めとする教員達が保身優先になったのは、ありがちであるとは思うし、その時の社会的な反響の大きさに対してますます防衛的になってしまったのかもしれない。
かといって肯定も受容も承認もできないが、ことに残念であったのはスクールカウンセラーの果たしてしまった役割である。

スクールカウンセラーは一般的にどのように考えられているかは横に置き、多くは週に1-2回、4-8時間程度の勤務であり、生徒や保護者との個別の面接や心理査定よりは、コンサルテーションを主として働かざるをえない職である。
相談室として個室をわりあてられているが、この時のスクールカウンセラーが職員室に机もあるというのが、よくあるパターンだと思う。
非常勤であるスクールカウンセラーは、まず教職員と日常的に交流をとることで教職員との信頼関係を築かなければならない。
教職員との交流を密にしないことには情報をもらいそこねることもあるし、まるで日常会話の一部のような肩肘をはらない形でのささやかな助言としてのコンサルテーションの積み重ねが、よく機能するスクールカウンセラーに必要なのだと思うのだが。
思うのだが、しかし。
確かに学校での滞在時間も短く、アクセス可能な情報には限りがあるとしても、もう少し生徒と関わることができていれば、自殺の原因は家庭であると、学校に保身の口実を与えずにすんだのではないかと残念に思う。
と同時に、これがスクールカウンセラーとして学校に入っていく心理士達にとって、大きな警句になると思うのだ。
誰のために、どんな仕事をするのか、自分なりに職務を見直してもらいたいと心から思った。

いじめはなくならないかもしれない。なくすことはありえないことかもしれない。
だとしたら尚更、いじめが発生した時の対応や工夫を磨くことが必要である。
なかったことにするのではなく。
その人の死から最大限に学びを得て、その死を無駄にしないことだけが、生きているものにできることなのだから、本書を読めてよかったと思う。

2017.01.10

最貧困女子

鈴木大介 2014 幻冬舎新書

女性の貧困を言われるようになったのは数年前。
くしくも、著者がとりあげたNHKの特集を私も見ていた。
その後、貧困女子という言葉でメディアやネットで取り上げられる人たちが貧困ではないと言わないが、どこか軽い。
そんなもんじゃないよ、という最貧困を見えるようにしようとしたのが、この本である。

相対的貧困層ではなく、絶対的な貧困層。
貧乏ではなく貧困。その区別に、なるほどと思った。
著者は伝え方の難しさを自覚している人で、貧困女子高生の報道に対して、著者は未成年をありのままに報道しすぎることへの批判を行っている(http://diamond.jp/articles/-/104452)。
そんな著者の文章は、取材対象者に対して、真剣に胸を痛めていることが伝わってくる
見下すわけではない。哀れみは、見下しの変形だ。面白がるのでもない。
誰か一人でなんとかできるわけではないけれども、まずはこんな人たちがいるのだと見えるようにしようと言葉を尽くす。
そんな姿勢で綴られている文章に感じた。

実際に、経済的な困難を抱えている女性達、それもかなり若い女性達にお会いすることが私は多い。
虐待や育児放棄、親の不在、前の世代からの貧困といった背景があってもなくても、教育の配慮を受けられずに来て、医療にも福祉にもなかなかつながりにくい人たち。出会っても途切れてしまう人たち。
セックスワークとの親和性が本書でもしばしば取り上げられているけれども、それしかできない、かろうじてそれならできる、で、生き延びている人たちがいるのだ。
私が知っている彼女達をどんな風に紹介されているのだろうと思って、手に取った。
こんな風に紹介してくださっていて、周知しようとしてくれている人がいるんだと知ることができてよかった。

努力がたりないとか、本人の選んだことだとか、そんな言葉で思考停止せずに、彼女達の苦境を考えてほしい。
彼女達を見捨てていませんか。買う側に回っていませんか。より傷つけてはいませんか。
違法なことをしているとか、だからだめだとか、そんな建前論はなんの役にも立たない。
この国は少子化対策が必要だと言いながら、子どもを産む女性しか政策の対象にしていないけども、制度からこぼれ落ちている存在がある。
ないのと、なかったことにするのは、意味が違うのだ。

著者は取材を通じて得られた知見からケースの類型化を図っている。
「3つの無縁」と「3つの障害」に関わる社会学や福祉の専門家にはこれを活かしてもらいたい。
この国では、売春は法律で禁じられているから、ないことになっている。
売春はないことになっているので、売春婦もいないことになっている。
ないこと、いないことには、対策もしなくていいことになっている。
だから、こんな生き方しかできない存在があるのだと、周知するところから始めないといけない。
専門家ではないと何度も著者は断りを入れることで、専門家への喚起を促しているように見えた。

明日はわが身なのだ。
あなたの母親や妻や娘や姉妹や姪の学生時代のアルバイトや卒業後の生計を立てる手段として、風俗や売春は適切なのか。万全を尽くして子育てをしているつもりが、その子どもが家出をして、その後の人生がこの状態だったとしたら。
あなたの父親や夫や息子や兄弟や甥が買う側に回ることを想定して生活しているだろうか。あるいは、男性もまた売る側に回されることがある。
平気だって人もいるだろうけど、それでも、考えてほしい。どこでどう転じるか、わからないではないか。
どれだけリスクが高いのか。それでも、そうとしか食べる方法がないってこと。これを普通のことだとしてしまいたくない。
私のできることもまたささやかだけども、彼女達を知ってほしいと思って、記事を書いておく。

2016.11.25

殺人犯はそこにいる:隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件

清水 潔 2016 新潮文庫

ドキュメンタリーは調査された事実の積み重ねを、三人称で書くイメージがある。
そこにはちょっとした印象操作が含まれるんだと思う。
三人称で描き出された事態は、それが客観的に真実であるかのような錯覚を与える。

この本は、筆者がこの事件を取材することになった契機や背景、取材をしていく上での体験や感情をも書き込んである。
一人称で書かれており、あくまでも、筆者が見て、考えて、調べた結果であることを誤魔化さない。
丁寧で根気強い調査、取材の積み重ねの様子がありありとわかることから、導き出されていく推論の説得力が格段に増す。
しかも、そこはやっぱり雑誌の記者さんだからか、読みやすくて引き込まれる文章なのだ。手に汗を握るというか、続きへと引っ張られるように、厚い本をあっという間に読めた。

これは、捜査ではない。取材だ。
たった一人の記者が、いろんな人の力を得ながらであるが、時間をかけて事件を追いかけていく。
その事件は、栃木と群馬にまたがる幼女を対象とした連続の事件だ。
いくつかの事件が、一連の連続した事件であると証明するために、足利事件は冤罪であることを証明しなければいけなくなる。
冤罪の証明が目的だったわけではないが、一過程というには大仕事だと思う。

それでも始まらない、捜査。
国会にまで取り上げられて、なんとか動き出すかと思われた時の大災害。
犯人は捕まっていない。市井にまぎれて、普段通りの日常生活を送っている。
筆者は犯人であろうと目される人物を特定しているが、それでも、犯人は捕まっていない。
いろんな意味ですごい本だった。
筆者の熱が伝わってくる気がした。

考えさせられることは多い。
たとえば、死刑について。
凶悪な犯罪が増えるにつれて、死刑もやむなしの世論が形成されつつあるように感じたり、私自身も傾いてきたが、イノセンス・プロジェクトのほうが先決だ。
自分の傾きを修正する機会となった。
ほんの少し、ジャーナリズムも捨てたものじゃないと思えてほっとした。
礼賛者になるつもりはないが、大本営発表みたいなメディアにうんざりしていたから。

警察や検察や裁判に関わる人たち、面子よりも大事なものがあるでしょうに。自己保身がお仕事ではないでしょうに。役割期待に答えてよ。
もちろん、日々、努力されている方もいらっしゃるし、私も助けてもらったことがあるから、悪く思いたくないんだ。
技術だって進歩するんだから。絶対の自信があるなら、何度だって検証すればいいじゃない。
お願いだから、被害を受けた人の、一番小さな声を聞いてほしいよ。

2016.06.30

ヘンな日本美術史

山口 晃 2012 祥伝社

途中で違う本を読み始めてしまったために、一ヶ月以上かかってしまった。
小説と違って、どうもこういう解説や論文は、時間がかかってしょうがない。

著者の絵を初めて意識して観たのは、長野でのこと。
現代の武者絵展と銘打った特別展で、四天王の絵にほれ込んだ。
端正な美形ぞろいで、とてもファンタジックで、一目ぼれだった。
ぐるりと会場を見ては、また元の位置に戻るぐらいに。

そして気づくと、本の表紙や街中のポスターに、著者の作品があった。
そのうち、著者をNHKが取り上げていて、人となりが少し垣間見えた。
なんというか、私の中では、京極夏彦氏と同じ分類に入れたくなった。
語弊を恐れずにざっくりと言ってしまえば、一筋縄でいかない感じ。
クレバーで、こだわりが強くて、気難しそうな、韜晦するような感じがあって。
作品は好きだけど、この人とお友達になるのは難しそうな。
そういう複雑な印象を持っているので、この人というよりも、この人の絵のファンである。

この本を手に取ったのは、そんな印象を持っている人が、あえて「ヘン」と謳っているんだから。
そりゃあもう、きっとヘンに違いないと、にやにやしながら買い求めた。
それなりに美術館や博物館に行くこともあり、若冲ブームに前後して、日本の絵を見る機会はある。
鑑賞の勘所のようなものはよくわかっていない自覚はあるので、せっかくなら勉強になればよいなと思ったのだ。

感想としては、至極、まっとうな内容だった。
鳥獣戯画や洛中洛外図など、なるほど、そういうところに注目するのかと参考になる。
気持ち悪い絵や訳のわからない絵だったものが、ちゃんと見てみたい絵に転じていく。
ところどころ、著者が解説を絵で描いているのも、非常にわかりやすくて面白かった。

次はどこの美術館に行こうかな。

2015.12.07

新しい道徳:「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか

北野 武 2015 幻冬舎

人からお借りして読んだ。話題になっていると聞いたけれども、書かれていることは至極まっとうに感じた。
筆者らしく、時には皮肉に、極めて皮肉に笑い飛ばしたり、突き放したりしながら、とても当たり前の目線から、「今の普通と言われていることっておかしくないか?」と投げかけてくる。
違和感を感じたのは、そこに芸人であるからとか、完全に同意する必要はないからと、但し書きをしながらでしか、個人の意見を述べることができなくなっているという現状である。

なんと、ものを言いづらい世の中であることか。

そう嘆きながら、私も匿名であるからこそ、ここに文字を綴ることができる。
匿名であったとしても、言葉を選ぶ。
受け取る人によって、読み手の意図せぬ読まれ方をすることを踏まえつつ。
書き手である私にも知らぬこと、目に入っておらぬこと、考えが及んでいないこともあるのだから。

 *****

夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。(p.58)

自分の人生は自分で楽しくしなきゃいけない。(p.141)

道徳を他人まかせにしちゃいけない。
それがいいたくて、この本を書いた。
あとは自分で考えてほしい。(p.191)

2015.11.16

本能寺の変:431年目の真実

明智憲三郎 2015 文芸社文庫

これは面白かった。
小説ではない。学術論文でもない。
明智光秀の血を引く著者は、本能寺の変の前後の資料を、その信頼性を吟味しながら再調査することで、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉らの人柄と行動を検証する。
現在の研究は、織田信長なら豊臣秀吉という直後の施政者が、自分に都合よく情報操作している点を考慮せずに資料を用いているところから、全体がゆがんでしまっている点の指摘が、非常に痛快である。
それは、たとえば、司馬遼太郎史観のような、司馬遼太郎が書いているからそれが真実か事実であるかのような誤謬など、ほかにも同種類のゆがみを指摘は可能であろう。
古くは、中国エリアの代々の国が、王朝が交代するたびに、前王朝の歴史を編んできたわけであるが、それは現王朝の正当化に資するバイアスがかかったものであることは、よく知られていると思われる。
だとすれば、国内でも同様のことが行われていないと、まったく考慮に入れていないほうが能天気だと思うのだ。

歴史小説で積み重ねられた織田信長や明智光秀らのイメージがあると思うのだけれども、それが一挙に覆された感がある。
豊臣秀吉はもともとあまり好きではなかったからいいのだが、徳川家康がうっかりいいやつに見えてしまったことが不本意だった。
なるべく信頼性の高い資料をもとに、蓋然性が高い合理的な推論を重ねていったとき。
今とはもう少し違う人物像や事件像が、ますます明確になっていくのかもしれない。

2015.08.27

消された一家:北九州・連続監禁殺人事件

豊田正義 2009 新潮文庫

なぜ彼女は逃げなかったのか。

この問いが冒頭に置かれているが、逆に言えば、なんで知らない人が多いのだろうと、ほぞをかむような思いをしたことは枚挙に暇がない。
私の関心事にDV被害があり、その被害者が加害者から逃げられなくなることは、自明の理の思いがする。
答えは簡単。怖いから、だ。
恐怖心によってどのように支配されるか。冷静な判断能力を失い、その人らしい温かな情緒や人間らしい倫理が損なわれていくか。
意外と知られていない。
今も、知られていないのかなぁ、と思う。
だからこそ、そのような逃げられない心理状態を念頭に置きつつ、事件を再構成した本書は、説得力があった。
どうして、こんなひどい事件を引き起こしてしまったのか。
どれだけ、人は残酷になりうるのか。そこに、応えうる一冊だと思う。

著者が最初に一言触れている長崎の保険金殺人について、女性がDV被害者であることから恐怖心に支配されていたであろうことに、メディアは理解がないと嘆いたことを憶えている。
私は嘆くだけであったが、著者はその視点を保ちつつ、北九州で発覚した連続監禁殺人事件の加害者である女性に関わり、本書を著している。
ハーマン『心的外傷と回復』や学習性無力感の概念が紹介されているところがさすがであり、加害女性もまた暴力の被害を受けていた点、違和感なく読み進めることができた。

私が思い出したのは、アッシュの同調実験(1955)、ミルグラムの服従実験(1963)、ジンバルドの監獄実験(1971)という一連の大規模な実験である。
中でも、ミルグラムの服従実験は別名アイヒマン実験と呼ばれるが、監視役がある中で、被実験者の2/3が役割に忠実に死に至るほどの強さの電流を他者に流したという結果がある。
ジンバルドの実験に至っては、被実験者が囚人と看守という与えられた役割に忠実に同一化しすぎることで、安全性が保てないという判断から途中で中断するに至っている。
これらの実験は、第二次世界大戦後、特にナチスの事例に対して、人はどうして合理的に残酷なことができるのか?という問いに迫るものである。
合理的であることが倫理的あることではなくなってしまった戦後の世界での切実な問いであり、古い実験ではあるが、現在においてなお、学ぶ価値がある。

北九州の連続監禁殺人事件は、それを現実にやってしまった。
通電による無力感の学習の実験で、セリグマンは最初に犬を用いたが、それを実際に人に行う。実験ではなく、虐待として用いる。
これまで心理学が実験という安全な枠のなかで行われてきたことが、枠を取り払って行われ、やはり、実験で得られた知見が現実に苛烈に再現されたことがわかる。

実際にひどい事件である。
遺体の解体など、その作業が気持ち悪いとか怖いものと思わずに、どうしてこんなに淡々とできてしまうのか。
想像すれば不気味で仕方ない作業は、その事件の量に圧倒されて、読んでいる自分まで麻痺した。
この前に読んだ元少年A『絶歌』が本人が書いているということもあり相当なまなましかったため、本書をなんとか投げ出さずに読めたのかもしれない。
それでも、その場面を映像として想像したり、臭いや感触を想像したときには、吐き気がするほど気持ち悪くなった。
ちょうど、羊肉のカレーをいただく機会があり、骨つき肉の様子や皮の感触を感じたとき、どうしようもなく胃のむかつきが止められなくなった。

helplessness、救いも助けもないことを、学ぶ。
それは、ふと、アラブから北部アフリカ諸国に根強い暴力の連鎖でも、起きていることなのではないかと思った。

2015.07.15

クズころがし

鈴木 拓 2015 主婦と生活社

章題がすごい。

認める勇気。
嫌われる覚悟。
生き残る技術。

善意で塗り固めた建前論からは語られないことであるが、できないことがない人はいない。どんなにがんばってもできないことはある。それはできないと認めないと先に進めない。
嫌われない人はいない。話せばわかるも、誰から愛されるも、どちらもファンタジーである。誰かに嫌われたからと言って、世界の終りになるわけではない。逆に、この人には好かれたくないって思うことだってある。
そういう極めて現実的な考え方や振る舞い方、生き方を身につけておかないと、世界はとても行き苦しい。
生きているのはリアルなのに、頭の中はファンタジーのままじゃ、かなり苦しい。
ファンタジーの通りにならないからといって、現実に絶望するのは早いのだ。
だって、別物だもの。

ネットでのコミュニケーションや職場での気づかい、とりあげられる事例は様々だが、とても卑近なものばかりだ。
日常生活で、こんな風に考えている、こんな風にやっていると、筆者流の考え方がじっくりと、しかし、文体はあっさりと語られている。
それが説教臭くならないのは、短いエッセイのひとつひとつに、必ずオチがついているからだろう。

建前論や理想論に押しつぶされそうになっている人。
ちょっと、笑ってみない?
呼吸がずっと楽になると思うよ。
現実って、実はもう少し、楽なもんだと思うよ。

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