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香桑の近況

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エッセイ/ルポ

2020.10.20

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野千鶴子・田房永子 2019 大和書房

経験を表現する言葉のメニューはできるだけ多いほうがいい。(中略)あらかじめ言葉を知らないことは表現できない。(中略)感情って言語化されないと経験にならないのよ。(p.147)

教育や読書がもたらすものであり、カウンセリングでしていることをすぱーんと気持ちよく表現してもらった。そういう一文に出会った本だ。

フェミニズムという言葉に対して、世代によって、反応が異なる。
その世代によって体験していることが違うことを明示するところから、この本はスタートする。
時代によって教育(社会+学校+家庭のすべての教育)が異なり、教育に反映されている社会の価値観が世代によって異なる。
そこが、対人援助職をしている私が社会学と近現代史を学ぶ必要を感じるポイントだ。
臨床心理学が個人の体験、個人の内側に問題の端緒を掘り下げようとするのに対して、社会学は個人を成り立たせている社会と時代の文脈を整理して理解しようとするものだ。その世代ごとの変化を、冒頭から簡潔に表で示している本だからこそ、同業者の人に手に取ってほしいと思いながら読んだ。
そこをわかっていないと、なぜ、団塊世代の女性が母親になった時に毒親という名称を与えられた存在になりがちなのか、ロスジェネ世代との桎梏が生じているのか、ロスジェネ世代が結婚率・出生率が低下しているのか、過剰に個人の体験、個人の責任に落とし込んでしまいかねない。

私は対談や対話形式で書かれているものはあまり得意ではないのだけれども、この本は上野千鶴子さんと田房永子さんという「親子ほどに」年齢の隔たる二人の対談を文字に起こしたものだ。
会話だからこその活き活きとして、活発な論の展開が軽快で読みやすく、横でおしゃべりを眺めているような気分になる。
素晴らしいのは、上野さんの問いかけ方だ。田房さんに立ち止まり、振り返り、新たな視点や考えを引き出すような、そういう問いかけを何度もなさっている。それに、褒めることも忘れない。
更に、上野さんは必ず論拠や引用もとを示す。上野さんは「学恩」という言葉でその流儀を表現していたが、誰がそのことを論じていたか、誰がその言葉を発明したか、上野さんの知識の深さや広さと誠実さに感銘を受けた。
さすが、長年、研究されてきた方であり、教育されてきた方だけあると思った。そういう上野さんと話すことがあるとしたらこんな感じなのかしら?という疑似体験をさせてもらった気分。

その上野さんが、田房さんとの対話で、断絶を何度か確認する場面も印象的だった。ほんとに知らないの?と確認しながら、ウーマンリブやフェミニズムの功績について語り、下の世代に語り継がれていないことに驚きを示す様子が、ひどく印象的だった。
私自身は田房さんより少し年上で、大学で学び機会もあったものだから、一緒になって、え?知らないの?と思う部分と、私も知らなかったという部分の両方があった。

Jene Roland Martinが『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』において、女性が受けてきた教育の変遷と、その変遷がもたらす世代ごとの分断を明らかにしている。
男女の平等化という名目のもとに、女性の教育の男性化がなされた1960年代、そこで優秀な成績をおさめたはずの女性たちがどういう人生を送ったかを示したBarbara A. Karrの『才女考』のインパクトも大きかった。
どちらも、私が90年代に読んだ本である。大学の授業で、フェミズムを学ぶ機会があり、上野千鶴子さんの著書にも触れた頃である。
フェミニズムといっても色々な考え方があり、Andrea Rita Dworkinの『インターコース:性的行為の政治学』はラジカルでスリリングで面白かったのだけど、この本を教科書にした講義での男性の友人たちの反発と不満の大きさに驚いたことも忘れられない。
その反発と不満は、田嶋陽子さんを嘲笑することでしか優位性を示せなかった人たちの反応に通底していたと、今も思う。

そういう90年代の空気を思い出させてくれる点で懐かしさもあったし、それ以前の学生運動の頃のリブ運動についてを教えてくれる本でもあったし、今になって語られるようになったミソジニーとホモソーシャルな社会という視点と、これからのことを考えさせてくれる本でもある。
男性にも女性にも、支援者にも当事者にも、読んでもらいたい本である。

ここからは、読後、何週間経っても忘れられないことを書こうと思う。
この本が問題だったのではなく、この本に書かれていた社会のこと、女性が受けてきた待遇を知ることで、たまらない気持ちになったのだ。

それは「上野さんがフェミニストになったワケ」という見出しのついた大学闘争についての話で、男性が女性を用途別使い分けをしてきたと指摘する部分だ。
米津知子さんの「(大学闘争で)自分はバリケードの中でメイクもせずラフな格好で男と一緒に闘っていたのに、その男たちの彼女になるのはお化粧して身ぎれいした女の子だった」という言葉から始まる。
これを読んだ時にぱっと思い出したのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』だ。第二次世界大戦に従軍したロシアの女性たちのインタビューであるが、まったく同じようなことが語られていたことを思い出した。まったく同じことを繰り返している。
一緒に闘う女性は「ゲバルト・ローザ」。恋人には都合のいい耐える女、待つ女である「救対(救援対策)の天使」。そして、もう一つの類型が、「慰安婦」もしくは「公衆便所」。

当時、性的にアクティブな女の子たちを、男たちは「公衆便所」って読んでいたのね。凄まじい侮蔑の言葉でしょ。同志の女につけこみながら、陰で笑い者にしてたの。(p.67)

この侮蔑的な表現に触れたことは初めてではないが、この文脈が私にはひどくこたえて、ひどく引きずることとなった。
旧来の伝統的な価値観に対する抵抗の運動をしていたはずの男性たちの振る舞いが、そのまま「家父長的なオヤジと同じふるまい」(p.66)であった。
「運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった」(p.67)という上野さんの言葉が、私の骨身に染みているものに響いたのだと思う。
打ちのめされるような重たい気分が、ずっと尾を引いている。私の気力を根こそぎ奪うような、恨みと諦めが入り混じった重たいものだ。かつては怒りであったが、いまはもうその力を持ち続けることも難しい。
一度は期待し、信じた分だけ、つらかっただろうと、思い描いてしまうのだ。

性的なアクティブさを獲得することは、女性にとって主体性の獲得のはずだった。その女性たちは、自分たちがより幸せに充足して生きられるようにあがいていたように思うのだ。けっして、背後で侮蔑されるために生きていたわけではないのに。
今なお、この侮蔑的な表現はネットの中で見かけることがあるものだし、表現は違っていたとしてもこのような類型化=使い分けをされているように感じることがある。いや、ゲバルト・ローザなんて、ほとんど望まれてもいなんじゃないかとすら感じることもある。
今現在を生きている若い女性たちのなかには、ただ幸せになりたい思いから、異性と知り合い、性交渉をすることで、結局は同じ道をたどっている人たちがいる。
彼女たちの顔が思い浮かんで、私はますます悲しくなったのだと思う。ただ幸せになりたいだけなのに。なんでこんな目にあわねばならないのか。

私の中にもミソジニーはある。それは間違いない。
上野さんは「自分の中にあるミソジニーと闘い続けてきた人をフェミニストと呼ぶ」(p.183)、「フェミニズムは女にとって、自分と和解するための闘いだ」(p.184)と定義する。
そして、「フェミニストは自己申告概念だから、そう名乗った人がフェミなのよ」(p.185)とも。
だとしたら、もう一度、腹が立つことには腹を立て、それは違うと言い続ける力を取り戻していきたい。

2020.04.24

心にいつも猫をかかえて

村山早紀 2020 エクスナレッジ

エッセイと小説と写真、3度美味しい贅沢な本。
著者初のエッセイは、見送った猫、すれ違った猫の数だけ、思い出が切ない。
猫に限らず、小さないきものと一緒に生活したことがある人は、その命を見送った経験もあるかと思う。
小さないきものと一緒に生活したことがなくとも、知っている人や知らない人の死に触れることはあるだろう。
そういう過ぎ行く命への深い愛情と、見送ったからこその後悔が語られる。

そういう猫たちと暮らしてきた日々の思い出とともに、子どもの頃の思い出や、作家としての経験、未来へと思い描くことなどが語られる。
どんな人があんなに心揺さぶられる物語を紡いでいるのか。
どれだけ、本と本屋さんという文化を大事に思っているか。
どれほど、「ふかふかの毛並みの、翼や鱗を持つ命たちの、その魂」(p.25)を愛しているか。
このエッセイと、この期間に書かれた小説は、愛して愛してやまなかった命を見送った後の喪失と鎮魂の過程であるようにも感じた。
自分自身にも、愛する命にも、命には限りがあることを見据えているから、ぶれずに優しく、謙虚で、凛として強いのだと思う。

長崎を舞台にした春夏秋冬の4つの物語。
ところどころ、長崎の言葉に訳された台詞が出てくる。九州に縁が薄い人には聞きなれない言葉遣いであるかもしれないが、私にはなじみのある言語。
方言には独特のイントネーションやリズムがある。音色がある。
その長崎弁が最大限に効果を発揮していると感じたのが、夏の物語、「八月の黒い子猫」だ。
前もってnoteで公開されたときには、全編が標準語で書かれたものと、一部が長崎弁で書かれたものの2パターンがあった。
その時も、これは長崎弁のほうがいいと強く感じたのを憶えている。
断然、こっちがいい。
私には秋の物語もほんのりと切ないし、冬の物語も胸が痛いものがあるが、春の物語は号泣ものだった。
どの猫の物語も、猫って人間を愛してるくれるんだと教えてくれる。
村山さんと猫。この組み合わせは、絶対、泣く。そういうものなのだから、箱ティッシュやタオルは用意してから読むのがよいと思う。

エッセイと小説の両方が楽しめるだけでも贅沢だが、この本にはたくさんの猫たちの写真がちりばめられている。
村山さんの家族である歴代の猫さんたちも、町の景色のなかの猫さんたちも、どちらも表情豊かだ。
Twitterで見たことのある写真があると、思わず頬がゆるんだ。
しかも、街猫さんたちの撮影をしたマルモトイヅミさんが描いた、イラストの猫さんたちもとても可愛い。
奥付の猫さんは何度も何度も見ては、にっこりとしたくなる。イラストも入れて、この本は4度美味しい。
表紙や帯の手触りもよく、細かなところまで気配りされた、丁寧に作られている本だ。
手触りも入れたら5度も美味しい。

著者とはTwitterでお話しすることがあり、実際にお会いしたことがある。
エッセイを読んでいると、村山さんにお会いしてお話ししている気持ちになった。
私の頭のなかでは、読んでいる文字が村山さんの声や話し方で再生されるのだ。
これは、小説を読んでいるときにはおきないことで、エッセイだからこそ、御本人とお話ししているような体験になるのだと思う。
地方のなまりのない、鈴を転がすような澄んだ声と柔らかな声音で、表情豊かに話される御様子まで、目に浮かぶようだった。
世界が平穏を取り戻したら、再びお会いしにうかがいたいなぁ。
そして、記憶のなかの長崎の景色をアップデートするのだ。

この本、読んでいて面白かったのは内容だけではなく、エッセイと小説の両方があるという読み心地の部分もだ。
私の感覚だが、エッセイを読む速度と物語を読む速度、違うことを感じた。
物語はすっと没入する感じ、エッセイはゆったりと語り合う感じがする。
前者は映画館で見る映画のようなものだし、後者は面と向かったの対話やラジオを聞くのにも似ている。
似ているようで、まったく違う「読書」なのだ。それが交互にくるので、読んでいる自分のペースに変化が生じ、一冊を読むなかでの起伏となるのが興味深い体験だった。

今、我が家にいる猫たちの中でも、ひたむきに信頼と愛情をささげてくれる猫がいる。
彼らの信頼を裏切らず、彼らを最期まで見届けたい。
せっかく我が家を選んで、来てくれた猫たちなのだから

2020.03.11

つけびの村:噂が5人を殺したのか?

高橋ユキ 2019 晶文社

この事件のことは記憶にあった。
2013年7月、山口県の山村で起きた殺人事件。
職場の昼休みに、1938年の津山事件と比較したことを憶えている。
だから、noteに書かれたルポルタージュを読んだとき、あの事件のことか!とすぐに思い出すことができた。
と同時に、部分的に読んだ文章に胸が痛くなる思いがしたのだ。
被害妄想や幻聴ではなく、噂は実際にあった、という事実に。

Twitterで知り、noteで部分的に読んだ記事から興味を持った本を、ようやく読み上げることができた。
ぐいぐいと引き寄せられる前半。犯行をおこした加害者の成育歴とその村に戻ってからの不幸な境遇、その加害者を取り巻く村のある種の不気味さ。
私がかすかに記憶していた事件の真相を追う思いで、するすると読み進めた。
この方の文章は、とても読みやすく、頭に入りやすい。

だが、実際に著者が加害者に面会した様子や加害者の文章や字そのものを見ると、自分自身の持つ精神科医療の知識から類推が働き、気が重くなってしまった。
私自身が会ったことがない人のあれこれを判じるわけにはいかないし、診断は医師の仕事であって私の仕事ではないが、想像はする。推測はする。
加害者の持つ病理の部分が適切に理解されている感じがしない点で、司法に対する不信感と絶望感がちくちくと刺激された。
この本は小説ではないから、著者は加害者の救世主になるわけではないから、最後に爽快などんでん返しが待っているわけではないことがつらい。

加害者を追いつめたものは、事実としてそこにあった噂話であり、地域のコミュニティそのものであった。
一つの殺人事件のルポであると同時に、日本の山村の昭和史である。
山奥の村が、いかに栄え、そして、限界集落と転じていったか。
それは、山村ばかりでなく、地方都市の衰退も示す。
これは地方の物語である。
日本のどこにでもある、シャッターが増えた、子どもが減った、地方の物語。
どこにでもありうる、どこででも起きうる、普遍性をはらんだ悲劇である。

だが、本当に地方だけに残る古臭い人々の話だろうか?
都市部に住んでいる人間として、彼らの噂話に眉をひそめる振る舞いは、いささか反省に欠ける気がした。
なぜなら、私は、こんな風に噂話にふけり、悪口を楽しむ人たちをよく知っている。
それは、毎日のようにTwitterや、LINEや、Facebookといったデジタルな世界で繰り広げられていることではないか。
まことしやかに語られる噂話と現実の区別がつかずに、他者を誹謗中傷したり、脅迫したりして、事件と化した話を聞かないだろうか?
なにかことが起きたとき、この人物には私刑を与えてよいとばかりに人々が群がって個人情報をさらし、自宅や職場とおぼしき場所に悪意ある手紙を送り、電話をし、嫌がらせをすることがある。
そういった「炎上」に与する人は、その人物が本人であるのか、電話や住所は正しいのか、実際に社会的制裁に値するようなことをしたのか、社会的制裁を与える権限が自分にあるのか、冷静で現実的な思考は働いていないように見受ける。
彼らは、匿名の正義者という安全地帯から、抵抗のできない他者を一方的に迫害する行為を、娯楽として楽しむ。ストレス発散だという人すらいる。
平然と悪口を言う。今でもこの国に根強く栄えている風習ではないだろうか。
その結果がどうなるか。どれほど、人を傷つけて追いつめるか。傷つけられた人が窮鼠となり猫を噛むこともある。
この結果を教訓にするぐらいの知性を持っていてほしいと思う。

この本の中で被害者の遺族である年配の男性が出てくる。
つっけんどんで気難しくて意固地な感じの男性で、憎まれ口が多そうというか、あまり仲良くなりたくないというか、最初の印象がいいものではないのだが、著者が何度も尋ねるうちに、その人の寂しさがしんみりと伝わってくる気がした。
コミュニティのなかにいるはずの人が、でもその人がいないところでは悪口や噂話が立てられる。身体を悪くしても誰の世話にもならず、自分のことは自分で世話をしているものの、加齢に伴い、おぼつかなくなっていくあれこれ。
孤立した孤独な生活のなかで、著者に対して、わずかばかりの親しみのようなもの、不器用な好意や厚意のようなものを感じた。
田舎の、今はもう亡き親戚の、悪い人ではないけれども憎まれ口ばかりで優しさが伝わりにくいおじさんと重なった。
その方の死が、なんとも切なかった。

2019.10.31

時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし

小島美羽 2019 原書房

孤独死のリアル。
自分はいつか孤独死をするだろう。
その未来を、怖いけども確かめるような気持ちで手に取った。

予想以上のリアルさに、手に取ったことを後悔する。
ここまでリアルに再現してあるとは予想外で、ミニチュアではなく現場そのものであるかのような写真の一つ一つに、ぞっとした。
生々しさに、ぞっとした。

とはいえ、人が死んだ跡のことを、ここまで率直に描いたものを初めて見た。
死の痕跡を通じて、その人の生を汲み取るような、著者の目線と感性が素晴らしい。
著者は「個人のことを家族のように思いながらいつも作業している」(p.138)という。
だからこそ、ミニチュアで再現された部屋の様子は生々しいが、けして興味本位ではないことが伝わってくる。
最後は孤独死だったとしても、「故人の人生はけっして、不幸でも孤独でもなかった、と思うのだ」(p.85)という言葉に希望を感じた。

ごみ屋敷のことや自殺のことは、職業柄の関心もある。ごみ屋敷という結果をもたらすようなためこみ症(Hoarding Disorder)は、DSM-5から疾患として見なされるようになった。所用物を捨てたり手放すことが難しくて、ためこんでしまうのだ。だが、ここでは実例を知る人のいくつかのごみ屋敷になるルートのようなものが示されていて、興味深かった。
また、自殺者の部屋が驚くほど片付けられていることから、死んでもなお他者になるべく迷惑をかけないように配慮したであろうことが察せられて、たまらなく切ない。自殺の現場の依頼は、年に60-70件あるというから、多い。
が、一番、胸が締め付けられたのは、第6章。
残されたペットたち、と題されたこの章は、猫を飼っている自分自身、明日は我が身として考えなければならない。

伴侶がいたとしても、死ぬ時は一緒であるとは限らず、どちらかは残されて一人で死ぬだろう。
子どもがいたとしても、その死の間際にかたわらにいるかどうかは、別の話だ。
施設や病院にいたとしても、死ぬ瞬間は一人で味わうものである。
孤独死は誰にでも起こりうる。今は自殺が占める割合が高いそうだが、これからの時代はますます増えていくものではないかと、勝手に考えていたりする。
だから、これは、誰にとっても無関係ではない本だと思う。

2018.11.05

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

小川たまか 2018 タバブックス

2016年から2018年にかけて。
私が意識してTwitterから見える社会を見ようとしてきた時期と、ちょうど重なる。
もしかしたら、著者の人と同じツイートを読んだりしてきたのかもしれないし、知らず知らずのうちに著者の記事を読んでいたこともあった。

この2年。たった2年であるが、目次に時系列に並べられたトピックを見ると、もっとはるかに時間が経ってしまっているような気がする話題もある。
どれだけの情報に、自分は押し流され、押しつぶされているのだろう。

性暴力はある。とても身近なところにある。
性差別もある。毎日のように押し付けたり、押しけられたりしている。
感じている人は気づいているけど、気づいていない人は感じもしない。
そんな風に「ほとんどない」ことにされているのが、性と関わるいくつもの問題なのだ。

私にとっては問題であるけれど、そんなことで…と問題にされないことが多い様々な日々の話題を、信頼できる友人と話すような気分で読んだ。
そこに引っかかる自分の感性をおかしいと思わずに済む。ここにも、ひとり、感じている人がいることがいることに、ほっとする。
考えや体験がまるきり同じなわけがないけれど、ほとんどないことにされやすいけど、やっぱりあるんだよね。
あるけど、ほとんどないことにされたりするんだよね。
その失望感や絶望感が、やっぱりねという再確認と共に、読後、ずっしりと襲ってきた。

女だというだけで、どれだけ、なかったことにされないといけないのだろう。
このこころは。

その溝を確めるために、是非とも読んでもらいたい本だ。

2018.04.25

となりのイスラム

内藤公典 2016 ミシマ社

世界の三大宗教のひとつ、イスラム教。
普通のイスラム教徒、敬虔なイスラム教徒である人たちとは、どんな人たちであるのか。
どんな風に考えていたり、どんな風に生活しているのか。
彼らの気になることはどんなことで、どんな風に接することが心遣いになるのか。
おどろおどろしいイスラム国の話ではなく、小難しいイスラム教の解説でもない。
わかりやすく、易しい言葉で書かれているので、読みやすい。
1500年の間、世界で16億人もの人々が信仰するイスラム教の豊かさを教えてくれる本だ。

著者がシリアやトルコへの留学を経て体験してきたイスラム世界を、イスラム教徒ではない目線で紹介している。
80年代のダマスカスなど、緑の溢れていたであろうオアシスの景色に泣きそうになった。
今は瓦礫になってしまったことを思うと、胸がつぶれそうに痛む。
遠来の人をもてなしていた人々が、多くは死に、その場を逃げ出した。
普通の人々が普通に暮らすことができないし、気楽な外国人が旅行することは難しい。
いつか訪ねたいと思っていた憧れの場所だったのに。

ヨーロッパ諸国で、どのようにして、普通のイスラム教徒が居場所を失っていったのか。
それを各国の事情ごとに解説してあり、非常に興味深かった。
否定されたことの反動形成として、アイデンティティの根拠として、より原理的なイスラム教に回帰していく。
その過程は、日本国内に住むコリアン系の人たちの世代ごとの違いを想起した。

彼らの思考や世界観の特徴には、見習うべき、参考になるところがいっぱいある。親近感もあった。
もちろん、自分のものとも、西洋のものとも違うところも随分ある。
それでも、知らないまま偏見と差別で憎悪を助長させるよりも、知ることでお互いを尊重できたら素敵だ。

私はイスラムご飯が好きで、以前、スーダンの人がしているケバブ屋をひいきにしていた。
とても知的に高い方たちで、感じがよくて、心から素敵な人たちだった。
彼らとの出会いが、私のなかのイスラムの人たちへのイメージを形作っている。
彼らのお店はお酒を置いていなかったので、以降、私は、お酒の置いていないお店は「敬虔なイスラムの人のお店」と表現するようになった。
その理由も、本書のハラールについての記述を読んでいただけば、了解してもらえると思う。

本屋さんで見かけて、気になり続けていた本である。この本を置いていた本屋さんのセンスがいい。
本屋は、こういう自分の興味関心に+αの部分の本と出合うことがあるから好きだ。
実を言うと、タイトルをうろ覚えで『となりのイスラムさん』だと勘違いしていた。
でも、イスラムさんとさん付けにしたくなるぐらい、フレンドリーな本だ。
イスラムの人たちに対してフレンドリーな文章であり、読み手にとってイスラムの人たちがフレンドリーになる。
高校生ぐらいの方たちでも十分に読みこなせる日本語であるから、手に取ってもらいたい。

2017.12.04

奇跡のリンゴ:「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録

石川拓治 2013 幻冬舎

あー。このリンゴ、食べてみたいなぁ。
そんな気持ちでいっぱいになった。

もともとはNHKが「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組のために取材したことをベースにして書かれた本だ。
頭の中で、あの音楽やあのナレーション、テロップを追加しながら、読んでみたくなる。
なんとなく、番組として報道されているところが思い浮かぶような、景色や物事の描写が丁寧な記録だった。

リンゴは大量の農薬を必要とする農作物である。
たまたま木村秋則さんの奥さんが農薬を使うと気分が悪くなる人で、その奥さんが気分が悪くなるようなやり方はやめられないかという思い付きから始まったような試みだったという。
しかし、それだけ農薬が必要とされるのも理由があったわけで、そこから年単位で、極貧生活になりながらもあきらめきれない無農薬栽培との格闘が始まる。
格闘した相手が、農薬から病害虫被害になり、自然になり、人になり、やがては格闘そのものから解脱していく過程が圧巻だった。

それは解脱と言っていいのだと思う。
宗教的な悟りの域で、木村さんは人間と自然の対立を解消し、大きな自然の営みの中でリンゴを世話する自分という位置づけを見出していく。
彼の言葉、彼を取材しての筆者の言葉が力強いのは、苦しんで苦しんでおかしくなりそうな木村さんの人生に裏付けられているからだと思う。
Kindle版は、文中に何人の人がハイライトしたと傍線が引かれることがある。それがちょっとだけ、興ざめだった。
素敵な言葉がいっぱい詰まっているが、気に入った表現は自分で選びたいものである。

現在のようなリンゴに改良されてから、原種のリンゴがクラブアップルと呼ばれるようになったこと。
ヨーロッパでは加工品として食されることが好まれ、園芸改良品種が開発されたアメリカでは生食されることが好まれること。
アメリカでは丸かじりするが、日本では切り分けて食べるので、より大きく改良されたこと。
こういった、リンゴの歴史に触れられていることも、とても興味深かった。
ということは、日本でもお菓子に加工するなら紅玉が好まれるが、タルトタタンやアップルパイなども、作られた頃はクラブアップルが使われていたのだろうか、などと、想像が膨らむ。

おりしも、この本を読み終わった日に、長野の友人からリンゴがひと箱届いた。
農薬の使用を訪ねるような野暮はしない。ワックスがついておらず、樹上で熟して蜜がいっぱい詰まった、私には上等のリンゴである。
丁寧に育てられたリンゴである。育てた人の苦労に感謝しながら、いただこうと思った。

2017.10.27

Black Box

伊藤詩織 2017 文藝春秋

記者会見の場での彼女を見て、私は凛々しいと思った。
その勇気を称賛したいと思った。

「そこに血を残しなさい」

筆者がアメリカ留学中にホストマザーから受けた教えに、ぞっとした。
私が四半世紀前に読んだスーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』(JICC出版局 1990)には、不正確な記憶であるかもしれないが、被害者が抵抗した証拠がなければ性交渉は合意と見なされることがしたためてあった。
銃で脅されていたとしても被害者が怪我をしておらず出血していなければ合意と見なされる理不尽さを訴える本だった。
あの時のうちのめされるような憤りと慄きが蘇った。
ぴたりと重なったと思った。

本書の内容には、大きく3つの要素がある。
ひとつめは、被害者がどのようにして被害に遭遇するか。
ふたつめは、被害状況直後からどのような症状や状態が出現するか。
みっつめは、被害者が必要なサポートにいかにつながりにくいか。
この三点を、被害者自身のまだ真新しい記憶に基づいて、体験を記述しているところで、広く読まれてほしい本である。
被害者の受けた傷がどれほど深刻で、後々までいかにダメージを与え続けるものであるか、これが一般常識になるように参考してもらいたい。
被害者が必要なサポートにつながりにくいところは、医療や司法の方はもちろん、自衛のために、知っておいてもらいたい部分である。

筆者のレイプの状況は、残念だがこういうことは女性に起こりうるものとして読んだ。
状況をこうして文章として再現することも、苦痛を伴う作業だったと思う。
何度、言葉にしたからといって、自分の中のその記憶を刺激するたびに、フラッシュバックも起きやすくなったことだろう。
勘違いしてならないのは、フラッシュバックというのは、ただ単に想起することではない。
あたかもその場その時に戻ったかのように、五感や感情のすべてで過去の体験を再体験することだ。
その時の恐怖心や不快感も丸のまま、ありありと蘇ってくる。直後で、おそらく未治療で、未回復であるなら、その苦痛はどれほどであるだろう。
その苦痛を耐えながら書かれた本だ。

被害者が恥ずかしいと思わなければならないことが間違っている。
性暴力被害にまつわる間違った言説は世の中にあふれている。
被害者が誘ったのではないか。被害者にはめられたのではないか。被害者が魅力的なことが悪い。
被害者も快感を感じたのではないか。女性は暴力的に扱われることを待ち望んでいるのではないか。してやったのだからありがたいと思え。
と、加害者に同情的で、被害者をかえって責めるような言葉はよく聞かれる。
そのうえで、「傷物になった」という言い方で、被害者の尊厳が永久に傷つけられたことを社会として承認し、被害者は傷つけられた者として恥じながら生きることを求められる。

正しい被害者像を演じなければ、同情すらしてもらえない。そんなおかしいことはない。
なぜなら、まじめでおとなしい、清楚で内気、そんな女性像こそ、「狙われやすい」対象だからである。
意地悪な言い方をすれば、性的に誘惑的ではない印象を与える被害者像を演じることによって、もっとも性被害にあいやすい女性として性的に誘惑させられることになる。
その点、同情しろというメッセージを発するのではなく、おかしいことはおかしいと声を上げる筆者の姿に、感銘を受け、称賛したいと思った。

筆者を含めた被害者が、二次的、三次的に、それ以上、傷つけられることのないように祈りたい。
筆者を含めた被害者の傷が、その傷跡は心の中で消えなくとも、生々しさが薄れて抱えやすいものとなるように祈りたい。
なによりも、このような被害を受ける人が減ることを、強く強く願いたい。

2017.07.22

桶川ストーカー殺人事件:遺言

清水 潔 2004 新潮文庫

ストーカー。

その言葉が人口に膾炙し、その被害の深刻さが知られるようになったのは、この事件が契機だったと思う。
この本を読むことで、面白おかしく描かれがちだったつきまとい被害が、どれだけ被害者と被害者の家族を苦しめるものであったか、わかる。
警察が怠慢をしたときにどんなことになってしまうかがわかる。マスコミが不誠実な報道をすると、被害者は二重三重の被害をさらに受けることになるかがわかる。
加害者には加害者の背景や理由があったのかもしれないが、主たる加害者は罰せられることも、捕まることもなく、自死していた。
記者がたどり着いたストーカーの張本人に警察はたどり着かなかったことは、警察が当初、この一件にとても誠実な対応をしたとはいえないことを示していた。
巻末には、被害者の父親の言葉も収められているから、本書に誇張がないことがわかる。裁判に至るまで、被害者が被害者として見なしてもらえないことには憤りやもどかしさを感じる。
強い強い怒りを感じて、読むことがつらくなったこともあった。

それでも、この本は読まなければならないと思った。
ずっと後回しにしていた。けれど、読まなくてはならない。
読まなければならない使命が、私にはある。
なぜならば、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったようなものだからだ。

どういう意味かというと、私個人の経験で申し訳ないが、ストーカー被害で警察に相談したことが、これまで2回ある。
2つの相談の間には年単位で時間が流れており、ストーカーは別の人物であるが、警察の対応はまったく違っていた。
最初は桶川以前であり、二回目は桶川以降、ストーカー防止法が成立以降であった。
さらに言えば、二回目は三鷹ストーカー殺人事件の直後であり、警察の対応はとてもとても手厚くてびっくりした。
最初の時は、説明するうちに、話を聞いてくださっていた警察の方が失笑する場面もあったのに。
2回目の問題がすみやかに解決したのは、ストーカー防止法に基づく警察の対応があったからであり、その法律が成立したのは先行する被害があったからだと思う。
だから、私はこの桶川ストーカー殺人事件の被害者の方に助けてもらったのだと思っている。

読み終えて、被害者の方に、助けてくださってありがとうございましたとつぶやいた。

2017.03.30

夫のちんぽが入らない

こだま 2017 扶桑社
書店で平積みされた本の書名が、一瞬わからなかった。
注意深く文字を探してみると、SNSで書名をよく見かけるようになった本だとわかった。
立ち読みする度胸はなかったので、そのまま買ってみることにした。これもなにかの御縁。
読み始めると、一気だった。
解決はない。対策はない。
こうすることしかできなかった苦闘の歴史があるだけだ。
こうせざるをえなかった血のにじむ格闘の記録だ。
ほかにやりようがあったのならば、ここまで悩むこともなかっただろう。
性交渉に苦痛が伴う場合や、結婚しても妊娠や出産しない場合、女性によってはこれほど苦しむこともあるのだと、率直に書かれている。
無責任な第三者だからこそ、ああすればこうすればと言うことは簡単であるが、当事者として行うことは、とても苦しくて難しいことを忘れずにおきたい。
読み手は、これが物語ではないことを、思い出すとよいのではないか。
書き手がどうやら器用な立ち回りができる方だとは思えず、まだまだ言葉になりきらない思いや体験もあったことだろう。
読み進めるにしたがって、徐々に夫婦のありようが歪になっていく様な気がして、夫の前に、自分自身が専門家に相談するという選択肢がなかったのだろうかと、残念な感じがした。
頑なに、頑なに、ますます解決から遠ざかっていくのを見守るしかないような残念な感じがした。
私にとって、決して読後感の気持ちよいものではなかった。
しかし、不器用に、頑なに、その人なりに取り組もうとしてきた格闘の歴史であると受け止めておきたい。
読み手が読後にどろどろした気分になったとしたら、この本の成功であると思うし、そのどろどろじくじくした感覚がこの書き手の普段の気分であるかもしれないなぁ。
これから読む方は、どうぞ御留意を。
それにしても、この書名は度胸があるなぁ……。

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