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香桑の近況

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小説(日本)

2023.05.01

不思議カフェ NEKOMIMI

村山早紀 2023 小学館

どうしよう。どうしよう。どうなってしまうんだろう。
本を読みながら手に汗を握る。
心配で、どきどきして、一旦、本を閉じて、ふーっと息を吐く。

最初のたったの30ページ。
主人公と一緒になってどきどきするな、主人公が心配になってどきどきするような読書を、久しぶりに味わった。
こんなに真剣にどきどきするのは、もしかしたら、子どもの時以来ではないかと思うほど。
心配になりすぎて、先が読めなくなった。デジタルで拝読できるゲラでは。

改めて、紙の本になってから、「これはまだ物語の序盤」と自分に言い聞かせながら、先に進んだ。
そして、びっくりした。この先、どうなるの!?
魔法の始まりは、そんな風に先の読めない始まり方をしている。

律子さんとメロディ。
リズムとメロディは一体となって音楽を紡ぐ。
時折、流れてくるのは、ショパンさんのピアノの音。
子ども達の明るい笑い声。軽やかな足音。小さな悲鳴。
聞こえない声で語りかけ続ける、人ではない者たち。

村山さんの小説には、お雛様が登場することがある。
村山さんが描くお雛様は、女の子の友達である。
女の子を愛し、女の子を喜ばせようとして一生懸命に旅をする、そういうひたむきな味方である。
彼らは小さな脆い体で、美しいはずの衣装をぼろぼろにしても、約束を守ろうと旅をする。
その様は愛しくて愛しくてたまらなくなる。

この本を読んでいた前後、母が、ふと、「なんで我が家はお雛様を飾らなくなったのだろうか」と問いかけてきた。
なにかきっかけがあったわけではないのだが、私の中にぱっと浮かんだことをそのまま答えた。
「私があまり喜ばなかったからじゃない?」

我が家には、お雛様とお内裏様の二人だけの雛飾りがある。
大きくてしっかりとした、古典的な顔立ちの二人だったように淡く憶えている。
ところが、私は幼い時から、人形というものが苦手であった。
お菊人形であるとか、人形といえば怖がらせる話を早くから聞かされていたようにも思うし、リアルになればなるほど、怖くて苦手だった。
人間と似ているほうが怖い。動物のぬいぐるみは好きだった。
キャラクターものは、まだ少ない時代であるし、裕福ではない我が家とは疎遠だった。
動物であるか、デフォルメされているといいのだが、人間に近いほど、怖い。電気を消したら動き出しそうで怖い。見られている感じがして怖い。目線が怖くて、苦手だった。
だから、お雛様も、あんまり好きになれなかったのだと思う。せっかく親が買ってくれた雛飾りだったのに。

それはまだ3月3日の前だったので、母が「飾ってみようか?」と言った。
何十年ぶりのことだろう。そもそも、仕舞い場所はわかっているのだろうか。
仕舞いっぱなしで、色褪せたり、しみがついたり、なにか汚れていたら悲しい気がして、それを見て確かめることはためらわれた。
だから、「うちには猫がいるから、やめとき」と返事をした。
猫が遊んで振り回してひどいことになってしまったお雛様の写真が、目に浮かんだから。

せっかく親が買ってくれた雛飾りだったのに。
あのお雛様とお内裏様も、私の友達、私の味方として、ずっと待っていてくれているのだろうか。
今、見たら、衣装の美しさに感嘆し、小さいのに丁寧に作られた顔立ちや手の細工に驚嘆し、にっこりとした笑顔で眺めることができるのだろうか。
村山さんの小説を読んだ後に、あのお雛様たちと出会っていたら、最初からわくわくしながら雛飾りを飾り、一年に一度の再会を喜べたのかもしれない。
そう思うと、大きな損をしてきたような思いがした。

世界は、にんげんを愛している。
村山さんの物語は、その愛に気づくきっかけをくれる。
だから、揺り動かされては涙し、優しい気持ちで閉じることができるのだと思った。

2022.07.19

あなたは、誰かの大切な人

原田マハ 2017 講談社文庫

ホテルの朝ごはんに、トルティーヤ入りのメキシカンスープが並んでいた。
アボカドやライム、コリアンダーやハラペーニョなどが、自分でトッピングできるように並べてあった。
私はハラペーニョは少な目で、コリアンダーは多め。
チキンブロスのじんわりと沁みるような優しい味わい。
ああ、これだ。きっと、これだ。
「月夜のアボカド」でエスターが作ってくれたカルド・トラルペーニョはこんな風に優しくて沁みる味だったに違いない。
本で読んだばかりのお料理が、期せずして目の前にある。
その偶然にびっくりした。

後で調べてみたら、カルド・トラルペーニョにはひよこ豆は入るがトルティーヤは入らない。
トルティーヤ入りのスープは、ソパアステカというのがあるみたいだけど、クミンの風味はしなかった。
いいのだ。あのホテルの朝食のスープは、カルド・トラルペーニョでいい。
私にとっては、「心も身体もほっとするような、やさしい力に満ちたスープ」(p.62)であったことに変わりがないから。

その前夜、同じレストランで夕食中、私は生まれて初めて意識を失った。抗がん剤治療中で、体調が思わしくなかったせいだと思う。
自分ではよくわからないままに気を失ってしまったのであるが、同伴者はずいぶんと肝が冷えたという。
車椅子を借りてホテルの部屋に運んでもらい、水を飲んでは休み、水を飲んでは休み、脂汗がひいて体調が落ち着くのを待った。
レモンよりも温かみのある鮮やかな黄色に塗られた天井の、海辺のホテルの一室は広々としていて、本来ならもっと解放感を楽しむはずだったのに。
動くと叱られるので、落ち着いてからも横になって静かに、原田マハさんの『あなたは、誰かの大切な人』という薄めの短編集を読んで過ごした。

6つの短編からなるこの本は、どれもそんなに若くはない、それぞれに仕事をしてきた独身女性たちが主人公だ。
舞台は、斎場だったり、ロスアンジェルスだったり、イスタンブールだったり、メキシコシティだったり。
仕事をしているうちに逃してしまうものがいくつかある。婚期を思い浮かべる人もいるかもしれないが、この本に何度も形を変えて描かれるような、父や母と共に過ごす時間の終わりの描写に私は惹かれた。
自分もすっかり中年になり、両親もすっかり老人となり、それはいつか来る日だ。
私の娘時代の終焉は、感じるぐらい近づいてきている。それでもきっと、愛された思い出は消えないであろう。
だから、どんな風に見送るのか、その不在を受け入れるのか、ヒントをもらうような気持ちになった。

6つめの短編「皿の上の孤独」は、2つめの「月夜のアボカド」と薄く繋がっている物語だ。
「月夜のアボカド」はロスアンジェルスが舞台だったが、「皿の上の孤独」ではメキシコシティに至る。
部位は違うが、主人公と同じく、私もがん患者。私は恋人に支えられながら治療を受けているから、主人公の選ぶ道とは違うけれど、「命があるうちに」という感覚は、私の中にもある。
だから、主人公がわざわざ行ってみたバラガン邸がどんな建物か知りたくて、検索してみた。
あ、と声が出そうになった。
小説の中で「明るいイエローに満たされた」と表現される室内を見て、天井を改めて見上げた。
明るいイエロー。レモンより濃くて、ひまわりよりは明るい。山吹よりも黄色く、太陽の日差しのよりも優しい。
そのホテルをリノベーションした人は、きっとバラガン邸を意識したに違いない。
そう直感した。まるで、秘密を知ってしまったような、謎解きができてしまったような、そんなひそかな喜びを感じた。

再発を恐れながらも、どうにかこうにか、生き延びている。
今日を生きた。だから、明日も生きよう。
日々、そんなふうに思いながら。(p.202)

物語は、不意に現実と繋がることがある。
あの日、あの場所で読めたことが奇跡のような一冊だった。

2022.07.15

風の港

村山早紀 2022 徳間書店

翼に風を。
心の翼に、よき風を。
その風は、心をどこまでも遠く高く、羽ばたかせてくれるもの。

村山さんという作家さんは、飛行機や旅が好きな人だ。
猫が好きで、植物が好きな人だから、家を長く開けることはあまりされていないと思うのだが(ことに、この2年間はコロナの影響もある)、ふわりと身軽に旅に出る雰囲気を持っていらっしゃる。
その分、この2年間以上にもなってしまったコロナ生活の息苦しさを、空港の物語がふっと横穴を開けてくれるような、とりわけて愛しいものに感じた。
そう。それまでは、私も出張だ、旅行だと、空の旅を楽しみにしていた。
電車の旅も楽しいけれど、飛行機に乗ることは子どもの頃から、特別で。
だから、空港という場所も、アミューズメントパークに似た特別な感じが、今もする。

目を閉じれば浮かぶ、さまざまな空港の景色。
国内のものも、海外のものも。
中でも、一番の馴染みといえば地元の空港と言いたいところだが、最近、建て変わってしまって、お店も変わってしまって、ちょっと馴染みが薄くなってしまった。
それよりも、空港らしい空港として、私の中でどっしりと横たわっているイメージは、羽田空港のほうになるのかもしれない。ここも、長い年月の間に、いろんな変化があるのだけれど。

第1ターミナルと第2ターミナル、今日はどちらだっけ?
横浜に出るなら、リムジンのほうが早いし、楽だ。乗り換えも少ないし、迷子の危険性がとても少なくて済む。
都内に出るなら、モノレールで。できれば、大井競馬場で、馬の一頭も見ることができると嬉しい。
水面に浮かぶ、カモメたちやカモたちも見どころだ。
京急も便利だから、ホテルを選ぶ候補地が増えた。
行きはたいてい時間の余裕がないのだけれど、帰り道、余裕があったら、水上バスを使うのが好きだった。

そんな胸にいっぱいにつまった思いが、噴出してくるような気がした。
あの空港の、あの一角で、こんな素敵な魔法が起きていたら、とても素敵じゃないか。
こんな素敵な魔法の一つ、起きても不思議がない。それが空港という場所なのだ。
どんな魔法かと言えば、出会いの魔法。人と人とのささやかな出会い、すれ違いが、詰め込まれた、素敵な旅の一幕となっている。

今まで読んできた村山さんの本の中で、一番、大人向けだなぁと思った。
大人の女性たちに、まず、勧めたい。
というのも、当たり前のように恋愛して結婚して妊娠して出産して…というライフコースをたどる女性を否定しないけれども、そういうライフコースをたどっていない女性たちも否定しないところが、今回の一番の魅力のように感じたからだ。
それぞれの女性たちにそれぞれの生き方があって、いいも悪いもない。お互いに相手を少し気にすることはあっても、否定はしない。
どんな生き方を背負ってきたかなんて、誰にも見せないで、仕事をしたり、人生を頑張っている大人の女性たちを応援する本だ。

だからといって、女性だけが頑張っているわけではなくて、頑張っているのは男性も女性も同じ。
それどころか、どんな生き物だって生きていることを頑張っていることを、いつも視野に入れている人だ。
そういうところが、女性の世界に閉じずに、すべての人々、すべての生き物に開かれていた。
『風の港』というタイトルにふさわしい風通しのよさが、気持ちよかった。
ここは村山さんのバランス感覚の素晴らしさだと思う。

複数の登場人物たちの誰に気持ちを寄せるか、それは読み手それぞれだと思う。
一人、魔女が登場する。
映画「シェルタリング・スカイ」のなかで、旅行者travelerと観光者touristは違うという。後者は旅に出たときから家に帰ることを考えているが、前者は帰りを考えていないという。
人生そのものが、繰り返しのほとんどない、後戻りすることのない旅行、いや、彷徨であることを考えさせられた映画だった。
『風の港』の魔女の旅からの連想でこの映画を思い出したが、よくよく考えると、journeyという言葉のほうがむしろ似あう。
Journeymanといえば、徒弟制度で年季奉公を終え、給金をもらって働けるようになった職人のこと。 そうやって、諸国をめぐりながら糧を得る。
そういう生き方に、なんだか憧れを掻き立てられる。 それこそ、今の住所は「旅行中」なんて書きたくなる気持ちになることだって。

私は今、病気治療中で県外に出かけることを制限されている。
世界にはこの二年間、コロナという病気のせいで、移動をしばしば制限されてきた。
そこにロシアのウクライナ侵攻や、その他の平和を脅かす状況のせいで、渡航が難しい場所が増えている。
そんな様々なことが重なって、私の生活から空港は遠いものになり、時たま上空を通り過ぎていく飛行機が、一層、キラキラと輝いて見える。

だからこそ、この一冊の本の中に描かれた空港の景色と空気がとても楽しかった。
したい仕事をしていることとか。懐かしい友人と再会できることとか。心残りだったことが解けていくこととか。かつての自分がなにか誰かによいものを残していることがわかる瞬間とか。
登場人物たちに訪れる奇跡の一瞬に、胸が躍るような時間をもらった。
空港とホテルというのは、やっぱり大人の世界で。
すごく素敵で。
元気になったらどこかへ行こう。そう思った。

すずなちゃん、また空港で待ち合わせて、どこかに行こうよ。いつかまた会おうね。

2022.03.12

桜風堂夢ものがたり

村山早紀 2022 PHP研究所

「会いたかったひとに会える奇跡」があるなら、あなたは誰に会いたいですか?

帯を読んだ時に、ふっととあるツイートのことを思い出した。
亡くなった人と話ができるという「風の電話」と呼ばれる電話ボックスがあるという。
このツイートを見たときから、私は誰と話したいだろう?と考え続けている。
もう一度、出会えるなら、私は誰と会いたいだろう。

もう一度、会いたい人をぱっと思い浮かべられないことは、幸いなことなのかもしれない。
私が同居する家族と死別していないからこそ、思い浮かばないのではないかと思うからだ。
確かに、大学や大学院の指導教授に今を伝えたい気持ちもある。この世にはいない親戚たちもいる。すれちがったままになってしまった、かつての友人とか。
でも、それよりも、私は今はまだ共に過ごしている家族やパートナーと別れてからのほうが堪えるだろうし、その時にこういう祈りを必要とするのではないかと思うのだ。

『桜風堂夢ものがたり』は、本屋大賞にノミネートされた『桜風堂ものがたり』の素敵なスピンアウトだ。
桜風堂店主の孫である透の秋の日の冒険を描いた「秋の会談」。ここで透はずっと読みたかった本と出会う。
少年たちのちょっと無謀な冒険はどきどきする。仲良し三人組で冒険するなんて、そういう連作の子ども向けの有名の物語があったことを思い出す。
こういうお互いに特別に思うような仲間を得られることは、それ自体がとても幸せなことのように思う。
誰かが何かを望んだら、仲間は協力し合うものなのだ。だって、仲間なんだもん。
童心にかえる思いで冒険譚を読み、三度ぐらい読み返してから、やっと次の章に進んだ。

「夏の迷子」の主人公は、銀河堂書店の店長の柳田六郎太。私のお気に入りの人物のひとり。
その人が迷子になっている。かなりしっかりと遭難してしまったらしい。
ぱらりと開いて見えてしまった文字に展開が心配で、なかなか読み始めることができなかったのが、この二つ目の物語だ。
村山さんの物語はハッピーなものも多いけれども、人が死ぬときには死んじゃうので、絶対に大丈夫だと安心できない。
もしや、柳田店長が帰らぬ人になるのではないかと思うと心配で、読むのが怖かったのである。
いろんな意味で、ひやひやが止まらず、最後まで読んでも信用できなくて安心できなかった。

そして、安堵したのもつかの間、「子狐の手紙」で追い打ちをかけられた。涙腺が。
この短編の主人公は、三神渚砂だ。有能でかっこいい、若きカリスマ書店員。彼女もとても魅力的で、大好き。きっと、ファンも多いはず。
彼女は家族関係で苦労があったことは、これまでのシリーズの中でも登場しており、別れたままの父親と折り合いがつかないままになっていることが、読み手としても気になっていた。
満を持しての父親との邂逅は、私のほうが号泣しまくるような感動的なものだった。
これはいかんですよ。泣きますよ。普通、泣くって。
ティッシュペーパーじゃなくて、タオル推奨です。
渚砂ちゃん、よかったなぁ…。

そして、『灯台守』。
夢のような美しい物語。
儚い、けれども、信じる者には確かに「在る」ものを思い出させてくれる、美しい物語だった。

春夏秋冬にちなむような短編であるが、季節の順に並んでいないこともよかった。
桜野町の一年間ではなく、おりおりに触れての物語という風に読むことができたらから。
本を開けば、いつでも桜風堂に行くことができる。
今はその奇跡だけで、私には十分である。
三毛猫のアリスがおり、オウムの船長がいる、素敵な素敵な本屋さん。
物語のひとつひとつが、世の光となって灯し続ける、その世界を感じることができるだけで、今は十分である。

人間たちが、不幸な方へ行かないように。孤独な想いを抱かないように。
人間というものは、ほんとうには孤独ではないときも、ひとりぼっちだと思い込んで、うつむいてしまうから。誰かの優しい眼差しで見つめられていても、気づかないから。(pp.243-244)

願わくば、遠くで戦火に追われている人々の心にも、ひと時恐怖を忘れ、希望を思い出し、勇気を奮い立たせる、そんな灯となる物語が傍らにありますように。
優しさと安らぎを思い出す、猫のぬくもりにも似た、そんな灯となる物語が、だれの傍らにもありますように。

2021.08.03

相棒

五十嵐貴久 2010 PHP文芸文庫

土方歳三と坂本龍馬。
追う側と追われる側ぐらいに立場の違う二人に、協力してとある捜査をしろと密命が下る。
それも、たった二日間で犯人を探し出せという無茶ぶり。
徳川慶喜暗殺未遂事件の。

ぐいぐいと京都の町を二人に連れまわされるうちに、ありえないことがありえたことに見えてくる。
京都に住んでいたことがあるので、出てくる通りの名前がいちいち懐かしくなる。
今出川通りを右に折れると相国寺。冷泉家は今出川と河原町通りの交差するところ。竹屋町に三条に。頭の中で地図をなぞる。
これだけ歩き回れば足も棒になりそうなところだが、丁々発止の二人の言い合いは止まらない。

几帳面で潔癖な印象の土方は、江戸のちょっとべらんめえな口調。
フケだらけで臭いそうな竜馬は、ほにほにとのんびりとしたら柔らかななまりのある口調。
どちらも、さまざまなドラマや映画やマンガやアニメで描かれてきたイメージを凝縮させたかのような魅力的な主役たちだ。
ほかにも、桂小五郎に西郷吉之助に岩倉具視にと、幕末維新の有名人がぞろぞろと登場する。
それが違和感がない、絶妙な時機を選び抜いた一瞬に仕掛けられた架空の事件であることに、舌を巻いた。

この二人に面識があって、こんな風に会話していたら、と想像することはとても楽しい。
楽しいが、歴史上の人物たちであるので、それぞれがどのような死に方をするのかが決まっている。
それがどうしようもなく切なくなる。
こうなってしまうのか、こうなってしまわずにはいられないのかと、わかっているのに切なくなる。
その切ないところを乗り越えていく竜馬の台詞がよかった。

「どんなにみっともなくても、生きてりゃ何とかなる。そういうもんじゃ」(p.449)

本屋さんで見かけた時から絶対に面白いと思って手に入れ、長く積んでいた本だった。
2022年正月にNHKで『幕末相棒伝』としてドラマ化されるという。
これだけ面白い作品なのであるから、時代劇を丁寧に作るNHKであるし、きっと魅力的なドラマになることだろう。
それにしても、もう少し早く読んでおけばよかったなぁ。面白かった。

2021.06.15

コンビニたそがれ堂異聞:千夜一夜

村山早紀 2021 ポプラ文庫

久しぶりに三郎さんに会える本だ。
2020年の春からの記憶をくっきりと刻み込んだ本だ。
風早神社の娘である沙也加を主人公にして、いつもと少し違う日々が始まる。
欲しいものは欲しいと言わないように我慢してきて、欲しいものがわからなくなってきた人に、ぴったりの魔法の本だ。

ワクチンの接種が進むようになった今から思うと、やはり去年の春はとても追い詰められた気分でしんどかったように思う。
人の死が数として積み上げられて、いつ我が家にも襲い掛かるのではないかと、生きた心地がしなかった。
油断や慣れもあるとは思うけれども、その時に比べると格段と落ち着いたと思う。
相変わらず、あれもダメこれもダメで息詰まる感じはあるのだけれど。

その一年の違いはあるけれど、これは今の物語。
心が疲れた人に、いっぱいのお茶のように、そっと手渡したい物語。
優しい魔法を手にしてほしい。

*****

道路で、時々、事故にあった動物を見つける。
自分が猫が好きなせいもあるのか、猫が事故に遭いやすいのか、猫をみかけては、胸を押さえてうめいてしまう。
猫だけじゃなくて、狸だったり、イタチだったり、鳩だったり、鶏だったり…。
車を止めることはできないし、拾ってあげることはできないし、通り過ぎるしかないことが多い。
せめて道路緊急ダイヤル(#9910)に電話させていただいたことはある。

私は昔から、動物が好きだった。
うにょうにょしたものは苦手なので、虫の仲間はどうしても仲良くなれる気がしないのだが、クラスメートの顔と名前は覚えられないのに、鳥の図鑑ならいくらでも覚えることができた。
自然のこと、環境のこと、いつの間にか興味を持つようになると同時に、人でいることが申し訳ない気持ちになるようになった。
人だって地球に間借りしているだけのことなのに、なんで我が物顔にしているのだろうと不思議になる。

事故ではなくて、もっと故意に動物を殺した話を見聞きすると、何年も忘れられなくて苦しい。
少年たちが公園で抱卵中の白鳥を面白がって棒で殴り殺した話。
弓矢で追われて禁漁区から出てしまったところを殺されたセシルというライオン。
盆栽を倒したことに激高した男性に車のバンパーにしばられて何キロもひきずられて殺された猫のこと。
なんで、そんなにひどいことができるのだろう。
痛かったろう。怖かったろう。悲しかったろう。つらかったろう。腹が立っただろうか。びっくりしているうちに殺されたのだろうか。
せめて、苦しみが短く、少なかったのならいいのに。

人はとても残酷で、ひどいことを平気でする部分をもっている。
自分では手を汚すことはなくとも、興味本位で映像や文章を楽しむ人もいる。
自分には関係ないことだと割り切って、平然と受け流して忘れられる人もいる。
私は少し、割り切ることがへたくそなのだと思う。
すべての動物をすくうことができないといさめられたこともあるが、それでも、苦しくて苦しくて申し訳なくてたまらない気持ちになる。
今、冷房をつけて、電力を消費していることも、白クマさんにごめんなさいだったり、風力発電の風車に翼を切り落とされたワシさんにごめんなさいだったり、するのだもの。

だから、つばめたちが、主人公に助けられたことを歌い継いでいるのなら、なんて素敵なことなのだろうと涙が出た。
自分たち一族の英雄として、そういう素晴らしい人間がこの町にいるのだと誇らしく歌い継いでいるなんて。
そんな風に鳥の歌声を思い描いたことがなくて、涙があふれた。
村山さんの作品は、神様も、あやかしのねここも、猫たちも、そのほかの生き物も、この世界と人間を愛している。
人でいることが苦しくなったときに、人であることを許してくれるから、だから、泣けてしまうのだと思った。

2021.04.22

見守るもの:千蔵呪物目録3

佐藤さくら 2021 創元推理文庫

書き出しがいい。
プロローグから、凄みがある。びりびりと空気が緊張をはらむ。

この世界のどこかに自分を認めてくれる人がいないだろうかと、自分と同じような苦しみを抱いている人がいて、自分を見つけてくれないだろうかと、ばかみたいな期待を抱くのを、やめられないのだ。(p.11)

絶望を繰り返しても何度も期待を持つ。
こんな思いを知っている人の手に、そっと渡したくなる一冊だった。

佐藤さくらさんという作家は、『魔導の系譜』を含む「真理の織り手」シリーズでは、識字障害や発達障害、性的マイノリティなど、様々な生きづらさを抱えている人々を、そこにいることが当たり前の一人として描いてきた。
「千蔵呪物目録」でも、人間ではないものになってしまった朱鷺と冬二をめぐる物語であり、呪物によって人生を少なからずゆがめられた人々が登場する。

この『見守るもの』の蓮香は、ぱっと見は、ひきこもりに見える。
蓮香の苦しみを描き出すときの、作者の筆致には迫力がある。
このままじゃいけないことはわかっている。自分でもわかっている。誰よりもわかっている。

震える手で履歴書にペンを置いて、緊張と不安のせいで込み上げてくる吐き気と戦いながら書き上げたとき、その空白に打ちのめらされた。
蓮香は職歴もなく、なんの資格も持たず、運転免許すら持たない。自己をPRすることなどひとつもない。普通の人が当たり前にできていることが、なにひとつできない。そもそもこの世を生きていく資格がないように思える。
履歴書に生まれた空白は、それを物語っているようだった。(pp.135-136)

呪物のせいでこのようになってしまったのか。
それとも、このような性質であったから、呪物に選ばれたのか。
呪いを精神病理に置き換えて理解しようとしたとき、たまらなく胸を締め付けられた。
ひきこもらざるをえない人が、このままではいけないとはわかっていても、そのひきこもることを手放すしんどさが生じることがある。
症状がその人の一部となり、場合によっては支えや守りになってさえいる。その苦しみをよくここまで文字化したものだと思う。
ひきこもりだけではなく、依存症や強迫症、摂食障害など、様々な疾患や障害の、手放すことのためらいと折り重なった。

そのような苦しさを書きぬくだけではなく、この中には、愛しくてきれいなものもいっぱい散りばめられている。
それは、人という道理を外れてしまった朱鷺や冬二を、人につなぎとめているものになっているのではないだろうか。
小さな親切や、ささやかな好奇心や、感謝や賞賛。
自分を自分たらしめるものはなんであるのかを考えさせ、そこに自分を自分として承認するひとのまなざしが必要であることに気づかせる。

このシリーズはこの3冊目で完結とのこと。
シリーズを通じて、呪物というアイテムに込められた「祈りが呪いに変わる」ことを扱いながら、「人と人でないものの境界線はあるのか」を問うものとなっていった。
2巻で登場した神から人になろうとしつつある少女の鈴、3巻ではなんとも優しく穏やかで美しい人形の華さん、そして、朱鷺と冬二を並べたときに、人とは何であろうか?という問いが徐々に浮かび上がってきた。
人ではないものたちから人であることを照射するような、この続きを読みたいなぁ。

私は作者の描き出す世界やその世界に仕組みにも愛着を感じるが、どろどろとした感情や思考を伴う生々しい人物たちの、それでも生きていく不器用なしぶとさに魅力を感じている。
傷だらけになりながら、それでも、生き延びていく。
希望の光が見えない時でも、やるしかないじゃないかと闇をかき分けて進むような力強さを感じて、励まされるような、励ましたくなるような思いになるのだ。
本人には見えていないかもしれないが、それがこの人の輝きであるように思うのだ。

最後にもう一点。
この「見守るもの」を読んでいると、村山早紀さんをふっと想起することがあった。
人形というモチーフが、私の中で両者をつなげたのかもしれないが、考え直してみると、もっと大きなところでつながっているような気がした。
それは、彼ら人ではないものが、人をとても愛している、というところである。

2021.02.19

紅霞後宮物語(12)

雪村花菜 2020 富士見L文庫

中華風の王宮を舞台にしたファンタジーのなかで、主人公の小玉の年齢が高めであるところが異色だった本作。
未来において伝説のように神話のように語られるようになる小玉の、本当のところの物語というコンセプトも面白くて読み始めたシリーズだ。
既に、12巻目となった。

こう長くなってくると、読む方としてもちょっと惰性になってきたりして、読むたびにレビューを書くこともなくなっていたのだが、11巻あたりから、このシリーズは他の中華風の王宮を舞台にしたファンタジー群と一線を画したと思う。
先に「中華風の王宮を舞台にしたファンタジー」と書く時に、私の頭に浮かぶ代表作は、『彩雲国物語』であると書いておく。本屋さんで眺める限り、このジャンルはたくさんの本があると思うのだけれども、そのジャンルそのものを語ることは難しい。
活躍している女性を主人公に置きながら、少女マンガのようなきらびやかな夢物語のような活躍はコミカライズのまさに少女マンガに任せ、小説では本来作者が描きたかった実は普通の人たちであった主人公を描くところに、私は新しさを感じたのだ。

人は老いる。
若く、美しく、強く、元気で、純粋で、万能感に満ちた世界をそのまま輝かせるような終わり方をしたのが『彩雲国物語』だったと思う。私は『骸骨を乞う』がなんといっても傑作と思ってしまうのだけれども、ああいう形を取るしかなかった物語であったようにも思う。
老いる。外見も、精神も、肉体も、若いときのままではいられない。青春の輝きを失った後も、人生は続いていく。
いや、そもそもは、人は、不器用だったり、醜かったり、理不尽だったり、狡猾だったり、お世辞にも立派ではない部分を取り繕いながら生きているものだ。
そういう等身大の生々しさを、中華風の王宮を舞台にしたファンタジーのなかにぽいっと放り込んでみせたところが見事だと思ったし、容赦がないとも思った。
なにしろ、美形であるとさんざん称えられてきた文林も立派に中年として描かれている。表紙では美々しいままなのに…。

幻想を抱かれては幻滅される。
人々は勝手に幻想を抱き、勝手に幻滅していく。
読み手もまた登場人物に勝手に幻想を抱き、もしかしたら幻滅した人もいるかもしれない。
主人公たちは、すごくもないしえらくもない。もしかしたら没落しちゃうかもしれないのだろうか。
かえって、この先が気になっている。

2021.02.06

女たちの避難所

垣谷美雨 2020 新潮文庫

あの日のことを忘れることなど、できない。
あの日には幼すぎて記憶にはあまりない人や、その後に生まれた人もいる。
けれども、あの日は自分にとっていつか来る日であるかもしれない。

この本は、東日本大震災に題材を取っている。
福島の架空の海沿いの町で、災害に遭った3人の女性が主人公だ。
彼女たちが、災害をどのように体験し、災害後をどのように体験したか。
避難所とはどういう場所であったかを、小説として読み手に体験させる本だ。

文体はなめらかで真に迫り、あの日からひっきりなしに放送された映像が目の前に浮かぶ。
この人は無事にあの災害を生き延びるのか、あの災害の規模を憶えているだけに、地震の描写が苦しくなった。
あまりにも苦しくなり、手にとっては置き、手にとっては置き。
最後の数ページを先に読んで自分を安心させてみても、読み進めるのがつらくなった。
そのうち、腹が立って仕方がなくて、読み進めるのがつらくなった。

福子は子育ても終わった中年の女性だ。その夫は、定職に就かず、ギャンブルに依存しているような男だ。怒らせると面倒で、ただ男であるというだけで威張り散らす。でも、地域の女性らしさの規範にのっとって、福子は黙りこんで耐えるしかない。
遠乃は出産したばかりの若い女性だ。夫を災害で喪うが、夫の父親と兄から家事労働を含むケアの担い手、性的な対象として、当然のように世話することを求められる。乳児を抱えた美しい女性が、避難所でどういう目に遭ったか。
渚は小学生の息子を持つシングルマザー。離婚歴があり、飲食店を営む彼女を、地域の人々はふしだらな女性として扱う。そのため、息子も学校でいじめにあっていた。

読むほどに、怒りが湧いてたまらなくなった。
腹が立ちすぎて眠れなくなるわ、吐き気がしてくるわ、うんざりするほど憤りが湧いてきた。
福子と遠乃と渚と、その他の女性たちと、どの女性たちが自分に近しく感じるかは、読む人によって異なると思うが、彼女たちの苦しみは自分の苦しみと地続きだ。
だから、私はこの小説を、架空の物語として読めなかった。

これは小説の形を取るしかなかった記録に思う。
こんなことはきっとたくさんあって。
きっともっとひどくて。
あの頃、ひどい話を端々で聞いた。
とても丁寧に取材されており、実在のモデルを想像してしまうほど、鮮明で具体的で現実的だ。
脚色されているとしたら、過大に盛るのではなく、過小にマイルドにしなければならない方向性に、だと思う。
小説という体裁を取らなければ、本として出せないほどにひどいことがいっぱいあったのだろう。

だが、問題の多くは、多かれ少なかれあちらこちらで繰り返されている。
震災前からあり、震災によってあぶり出されたことは、今なお現にある。
竹信三恵子さんは解説で、「人をケアするべき性」として扱われてきた女性被災者たちをケアしてくれる存在はなく、静かに疲れはてていくと書いているが、それはCovid-19流行下でも現在進行形であることを自殺者数が示しているのではないか。
三界に家なしと言われてきたこの国の女性たちに、避難所はあるのだろうか。
この小説では、主人公たちは東京に避難することを決めるが、そこが楽園であるわけではない。
都市の女性なら理不尽に抗議できたかどうかは、去年、バス停で休んでいるところを殺された女性が示すのではないか。

日本の社会っでいうのは、女の我慢を前提に回っでるもんでがす。それに、若い男の人が年寄りに遠慮して物が言えないのも前からそうでした。(p.332)

男の人がこの本を読んだら、どんな風に感じるのだろう。
ミソジニーな傾向の人、ホモソーシャルな社会が居心地のよい人が読んだら、くだらないと言うのだろうか。嘘っぱちだと言うのだろうか。自分たちを故意に貶めていると言うのだろうか。
それとも、お行儀のよい感想を言うのだろうか。

福子にも、遠乃にも、渚にも、#DontBeSilent のエールが届くといい。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、なかったことにされるではないか。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、こちらの不愉快さに気づいてもらえないではないか。
声を上げても怒鳴られ、声を上げても殴られ、声を上げても押し殺されてきた中で、声を上げることがどれほど大変か。

この世界に、まだ避難所すら持てないことをつきつけられているのだから。

2021.01.17

星をつなぐ手:桜風堂ものがたり

村山早紀 2020 PHP文芸文庫

知識の源となり、ひととして生きていくための、すべての素地を作るものである活字。空想の世界に遊び、疲れた時の癒やしとなり、孤独なときは友となってくれる、書物。
それを集め並べ、人々に手渡すための場所――書店。(p,104)

本と本屋さんへの深い愛情を感じる一冊だ。
本屋大賞にノミネートされた『桜風堂ものがたり』の続編だから、前作から続けて読んでほしいとも思うけど、この本だけでも十分に楽しめる。
2018年に発行された単行本は、特に好きな終章ばかりを何度も読んだのだけれども、文庫化されたことをきっかけに改めて最初からじっくりと読み直した。

最寄駅から山道を徒歩30分ぐらいのところにある、かつての観光地。
温泉もある。観光ホテルもある。
昭和の終わりの方の時代に旅館はなくなってしまって、忘れ去られようとしているような小さな田舎町。
そこに昔からある一つの町の本屋さんが舞台だ。
一度は店主の急な体調不良のために、消えてしまいそうになっていた本屋さんの名前を桜風堂という。

その本屋さんが大きな危機を乗り越えるところは、前作に描かれている。
危機を乗り切ることができたのは、とても奇跡的なことだったと思うのだ。
でも、大事なことはめでたしめでたしのその後の毎日を、いかに生き延びるか。
なにしろ、今の日本では、本屋さんを取り巻く状況はとても厳しくて、毎日のように本屋さんが閉店していっているのだから。
その上、今、この2021年の1月は、昨年に続いてCovid-19が流行しており、本屋さんだけではなく、飲食店やホテルや…これまでの馴染みのお店が閉じて行っている。

自分は無力だと思う。大切にしていたものがみんな消えて行き、流れ去ってしまい、それを食い止めようとしても、とどめるだけの力を持たない。(p.234)

こんな無力感に襲われることもしばしばある。
このCovid-19が終息したとき、自分や家族や大切な人たちが誰一人として欠けることなく生きていられるのかも心配になることがあるが、どれだけのお気に入りのお店が生き残っているのだろうと悲しくなったり、切なくなったりする。
それは私だけのことではないだろう。

そういう御時世だからこそ、桜風堂に訪れる幸せな奇跡の物語に心を慰められた。
人の好意や熱意や祈りが、一つ一つはささやかなものであるけれど、重なりあい、組み合わさった時に、大きなうねりとなって流れ出すことがある。
その流れを感じることに、慰められたのだと思う。

「遠いお伽話」が、ほんとに遠い遠い過去のものになりつつあるのを感じる一年だった。
馴染んだものや思い入れのあるが姿を消していくことに、削られるような思いをした人も多かろう。
最前線で病と戦うわけではなくとも、感染症という目に見えない敵に対して不安を抱え続ける戦いを続けるには、心や魂に滋養が必要である。
それがエンターテイメントの効用であるように思う。アートの力であるように思う。

まだ世界は終わっていないのだから。
不安に押しつぶされそうになったり、絶望に飲み込まれそうになったり、知らぬ間に疲労消耗していた時にはファンタジーの魔法を思い出してほしい。
そして、「地球は揺り籠のように、たくさんの命の思い出を抱いて、宇宙を巡ってゆく」(p.322)。
今日も。明日も。

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