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香桑の近況

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小説(日本)

2017.03.16

魔導の福音

佐藤さくら 2017 創元推理文庫

面白かった。このことを最初に書いておこうと思う。
新たな登場人物も多く、さまざまな要素が詰め込まれており、とても一言では語りつくせない面白い物語になっている。

ここに、リンズという薬がある。魔物が棲みついた人に服ませる薬だ。
エルミーヌでは、魔物棲みとわかった人は、速やかに神の許に還していた。つまり、殺していた。
現王が即位してから、魔物棲みの保護救済を謳い、殺すことではなく収容所に収容することにした。
その時に用いられる薬が、リンズだ。大量に摂取すれば死にいたることもある神経毒であり、摂取した者は生きる屍のようになる。
前作の魔導師たちが社会的に差別されてきたならば、近作の魔物棲みは社会的に抹殺されてきた存在だ。

そのような世界で始まる物語。主人公カレンスの人柄は温和で、真面目で、ある種の凡庸さと人のよさと持っている。つまり、特別な英雄ではない。
カレンスの周りに、魔物棲みとして殺される運命にある妹や、同性愛者であり破天荒な名家の令嬢であるアニエスなど、個性的で魅力的な登場人物が次々に出てくる。
特にアニエスは、多くの読み手に愛されると思う。文武両道に秀でている、元気がよくて美人な女性であり、学院唯一の女生徒である。アニエスは同性愛者であり、カレンスとも、その他の学生とも、恋愛関係になることはありえない。実に素敵な設定だ。
カレンスとアニエスが出会う学生生活は、それだけで一冊の物語になってよいほど、活き活きとしており、笑いもこみあげるほど、楽しくて愛しいものだった。
その部分、前作とはまったく違う雰囲気を味わうことができ、著者の作風の幅を感じた。
この学生生活の部分で、前作に引けをとらない分厚さ、新しく出る登場人物や土地の多さに対する戸惑いもなりをひそめ、物語に引き込まれる。

しかし、幸せな日々は永遠ではない。
カレンスが学業を修めて、故郷に戻ったときから、物語は次のフェーズに入る。
再び妹の問題と対峙しなければならない。妹を見殺しにした自分の罪を、見つめなおさなければならなくなる。
魔物棲みとされた人々は殺されるか、リンズで眠らせられるわけであるが、私が思い出したのは『レナードの朝』であり、『カッコウの巣の上で』だった。
物語ではあるが、連想させられるものは深く、考えささえられる部分もまた、本書と著者の魅力だと思う。
後半での魔法描写や心理描写は前作を受けついで見劣りすることはない。
力は悪ではない。使い方の問題なのだ。使うことの目的が課題なのだ。
悪いことをしたとしたら、それはその人が悪いのか。そうさせてしまったのは誰か。草せざるを得なかったのは何故だ。
この著者のすごいところは、善悪の二元論に簡単には落ち込んでしまわないことである。
もちろん、ゼクスとレオンのコンビも途中から登場するし、これはどこに帰着するんだろうと先を急いで読まずにいられなかった。
三部作になると予定されている物語だが、そこに止まらずに著者の描き出す世界を追いかけたいものだ。

どんなに弱くてもいい。間違えてもいい。迷ってもいい。
大多数の「正しい」が自分にとって「正しくない」こともある。
死んだほうが楽に感じる日があったとしても、生きていくしかない。
自分が自分らしく生きる道を探しながらあがいている、登場人物たちの一生懸命さが愛しい。
ほかの道はないのか。それだけなのか。見落としていることはないか。できることはないか。
自分が背負うべきものをなかったことにしない。
あがいて、あがいて、先に進もうとする。
そんな勇気を思い出させてくれる物語だ。

なお、お気に入りはルシアン兄さまである。

2017.03.03

紅霞後宮物語 第五幕

雪村花菜 2017 富士見L文庫

前作で物語がひと段落がついた印象を受けたので、これからどうするのかと思っていたら。
途中で、あれー?どうしたー??と、予想外の方向に行きそうになり、それはそれでありなので微笑ましく読み進めたところ、やっぱり主人公達はぶれなかった。
ネタばれをしないように書こうとすると、どうにも意味のわからぬ文章になる。

小玉の抱える問題は、現代的で現実的だ。
キャリアを積んできて既に中年になった女性が、結婚しろ、妊娠しろ、出産しろといった社会一般からの期待に対して、その期待に応えることと職務を果たすことが両立しない。
自分の職務や役割、意味を見失いそうになったり、期待に応えられないことが苦しくなったり、こもごもの思いが浮かび上がる。
その中で、なにが最善か、見極めることは難しい。

以下の記述が端的だと思うから、引用する。

「お父さん、お母さん、そして子どもがふたりくらい。これが正しい家族です!」ということになっているために、そうでないかたちで生きている少数派の人たちは、どこかで「正しくないもの」とみなされがちです。
(東 小雪・増原裕子 2013 ふたりのママから、きみたちへ イースト・プレス)

小玉はこの「正しい家族」を求められている。本の中の世界でも、本の外の読み手にも。
小玉が文林と心身ともに仲睦まじく過ごし、二人の間に実子をもうけることができ、その子を育てながら、政治的な難局も解決していくような欲張りな物語であれば納得する読み手もあろうかと思う。
しかし、そうじゃないところに、私はこの小説の魅力を感じるのだ。

現代の知識として、35歳以上の初産婦および40歳以上の経産婦を高齢出産という。
35歳以降は卵子は老化して質が低下すると共に、卵胞内卵子数は急減する。
この卵子の老化に伴い、妊娠率の低下、流産率の上昇、染色体異常率の上昇が起きる。
すべて出産にはリスクが伴うものではあるが、高齢出産ではリスクが更に高いことは否めない。
したがって、架空の物語世界でいかようにも御都合主義な展開が可能であったとしても、そこで妊娠出産が無事に行えるか疑問を持つ小玉の感性は、もっともなものなのだ。

そんな正しい家族になれない、家族になりたいとも望まない、なにか欠けたる心を抱えている気がして、自分がだめな人間のような気持ちがよぎること。
そんな正しい家族になれない、出産の限界の年齢であったり、出産育児をしていると両立できない仕事をしており、その仕事ができなくなることが不安に感じたりすること。
そういう「正しい家族」に素直になれないもやもやした気分を、「正しい家族」の姿に綺麗に押し込めてしまわないところが、この物語の魅力であり、小玉の魅力だと思う。

小玉は子どもを作るために文林に嫁いだわけではない。
他の後宮の女性たちが子どもを作ることを期待されて、嫁がされたのとは一線を画している。
少なくとも、とうの小玉が、そう思っていない。彼女は軍人として、軍人のまま、嫁いだのだ。
だから、いつかこの二人が、子どもを作るためではない、二人だけの関係を温めていけたらいいなぁと思う。
それにしても、小説って楽しい。その思いをかみ締めながら、一気読みした。

2017.02.21

あきない世傳 金と銀3:奔流篇

髙田 郁 2017 時代小説文庫

あほぼんな若だんさんが死んで、その弟である惣次から求婚された幸。
断れるような立場ではなし、かと言って、惣次は勘気なところが心配な人。

話の続きが気になっていただけに、一気に読んだ。
やっぱり……と残念な気持にもなるが、夫婦仲良くめでたしめでたしでは、話が続かなくなる。
幸には幸せになってもらいたいだけに、複雑な気分で読み終えた。
ネタばれにならないようには、これぐらいまでしか書けない。

物語は横に置き、今回、楽しんだのは江戸時代の大阪の情景と町衆達のつつましやかな生活ぶりである。
人と建物しか視界に入らない生活を送りがちになるが、目を向けていないだけでそこには花が咲き、耳を傾けていないだけでそこには鳥が鳴いている。
一筆啓上とさえずる頬白の声は初夏の響き。雁の初音は秋の訪れ。そこに引き売りの声が重なる。
月が満ち、また、月が欠け。着物に綿を入れたり、それを脱いだり。人は季節を感じ、愛でる。
季節が駆け足で流れ行く様子の情景描写が丁寧で、五感に訴えてくる。そこが美しくて、とても素敵だなぁと思った。

ここに描かれている身近な自然は、実は今も身近で感じられることが多い。
呉服の美しい色合いに慣れていくのも楽しいが、物語の景色が現実にある現在と繋がっていることを感じるのも一興だと思う。

ネタばれになるが、最後にやっぱり一言。
五鈴屋にはあほぼんしかおらんのかーっ。

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2017.02.01

娘役

中山可穂 2016 角川書店

中山さん、どうしたんだ!?
と驚くほど、楽しく読んだ一冊。
設定にも驚いたが、こんなに楽しい物語に出会うことが嬉しく驚く。
ドラマチックであり、シリアスでありながら、主人公がとてもキュートなのだ。

『男役』を読んだからにはこちらも、と思って、手に入れた本だった。
男役を描くと、これぞ宝塚という世界になるが、その男役を支えているのは実は娘役。
そう聞いて、なるほどとひどく納得した。
男役の魅力は、その人工的な「第三の性別」というファンタジー性にあるのだと思っていたが、男役をよりひきたてるために娘役もまた人工的に作り上げられているものだ。
なるほどなぁ。さすがだなぁ。女性への目線のやわらかさが、さすが中山さん。

野火ほたるの娘役の物語をひきたてているのは主人公である片桐と、親分さんの二人の宝塚ファンだ。
宝塚を愛しているけれども、愛しているからこそ、やくざである自分が近づきすぎてはいけない。
舞台を観ているひと時だけは渡世の憂さを忘れていたいのに、世界のほうが放って置いてくれないところが憂さたるもの。
この二人のやくざ達が、とってもキュートなのだ。いっそコミカルと言ってもいいかもしれない。
宝塚歌劇のファンであるヤクザさんというシュールな設定は、物語がリアルになりすぎないために生まれたらしい。
作者の楽しそうな様子が透けて見えると思った。大人のユーモアたっぷりの作品に仕上がっている。

一人の娘役の成長を見守りながら、物語は数年間を駆け抜けるように進んでいく。
見守る片桐の人生は、時に彼女に近づき、離れながら、大きく変化していく。
伏線が回収されていないというレビューも読んだが、人生なんてむしろそんなものだ。
こうとしか生きられなかった男のロマンチシズムと、作者さんのユーモアがたっぷりのドラマチックな一冊。

大人の遊び心って、本気を出すからかっこいいと思うのだ。
中山さんの小説を長年読み続けたファンとして。
この作家さんの物語を、時には大笑いしながら読む日がくるなんて、なんだか嬉しかった。
好きな作家さんには、なんというか、人生を楽しんでいてもらいたいと、勝手に願って祈ってる。

 *****

作中のカルド・ヴェルデというスープ。
美味しそうでレシピを調べて作ってみました。
これは、ほんとに美味しい。家族にも好評でした。
作り方も材料でシンプルで、滋養があって、優しい食べ物。
私の定番メニューにしていきたいと思います。

2017.01.21

コンビニ人間

村田沙耶香 2016 文藝春秋

胸が痛かった。
なんでこんなにばかにされないといけないのだろう。
なんでこんなに否定されないといけないのだろう。
なんでこんなに拒絶されないといけないのだろう。
なんで。なんで。なんで。

主人公の古倉さんははすごいじゃないか。
18年間、続けて勤務できていることってすごいじゃないか。
きっと休むこととてほとんどなく、黙々と淡々と働き続けることができる。
この人の精一杯の社会適応だと思うのだ。
それを、恋愛していないとか、結婚していないとか、出産していないとか、正社員じゃないとか、そんなことで、なんでこんなに責められないといけないのだろう。
そんなに「みんなと同じ」じゃないと許せないのか、と、問うている小説なのだと思う。

私のささやかな知見と照らし合わせて読めば、発達の偏りを持つ人たちの世界の感じ方を、よく表していると驚嘆した。
そうなのだ。こういう戸惑いや、こんなことが実際にあることを、私は見聞きしている。
古倉さんは、視覚情報よりも聴覚情報が優位で、聴覚の過敏さがあるのだろう。
いつも同じであることがその人の安心感に繋がっており、応用は苦手であるが、同じことをこつこつと繰り返すことはとても得意な人。
言葉を言葉通りに受け止めるため、ユーモアや冗談をうまく理解できなかったり、感情の交流がやや苦手だったり。
そういうアスペルガーなど、発達障害にありがちな世界の体験様式を擬似的に体験させてくれるすごい本じゃないかと思ったのだ。

さまざまな理由でなかなか就労が難しい人たちとお会いしてきた。
定型発達じゃないと、人でないかのような言い方を、なんの気なしにしてしまう人がいる。
しかし、ハンディキャップを持っている人たちを思い出すと、主人公の彼女がこんなにも働けていることがすごいよって、言いたくてたまらなくなった。
すごい、えらい、よくやっていると、手放して褒めちぎりたくなるのだ。
だから、どうか、よってたかって、そんな風に責めないでほしいと、つらくなった。

これって治るものじゃないんだよ。治すものじゃないんだよ。
人とは発達の進み具合が違ったり、発達の具合にでこぼこあったりするけれど、古倉さんは古倉さんのペースで発達していくんだよ。
人が得意なことが苦手だったり、人が苦手なことが得意だったり、誰しもでこぼこしているものだけど、そのでこぼこが大きめなのが、古倉さんの特徴なんだよ。
「治せ」という言葉で、その人らしさを否定や拒絶しないでほしいよって悲しくなった。

とはいえ、古倉さんを一番口悪しく責める白羽だって、たいがい生きづらい人物である。
口では大層なことを言うが、行動が伴わない。プライドだけは高いくせに。
できないこと、していないことが多すぎて、そこを批判されると独自路線な論を展開し、ますます周囲から拒絶され、孤立と無力に傷つきそうになると更に自己愛を肥大させることで傷つきをなんとか無視しようとする。
白羽の言葉はその他大勢の意見を悪し様な言葉で代弁したりしているから、彼をあざ笑う人は、彼に意地悪を代行させながら自分の本音は隠していい人ぶれる一石二鳥を得る。
不器用というか、奇矯というか、愛されないだろうなぁ。発達の問題もありそうだけど、人格の問題になるのかなぁ。
なかなか気の毒に思ってもらえないことで、生きづらさが報われにくくて、ますますこじれていきそうな人物だ。

それでも、白羽のほうが上手に普通の人のふりができるのだから、世界はとても不公平だ。
人間はみんな一緒だという幻想に固執している大きな一群があるが、いろんな生き方があっていいだろうに。
誰に迷惑をかけるわけでもなし、古倉さんなんて彼女の生き方でもって、お客さんの役に立ち、職場に貢献することもできているのに。
この社会はたやすく人を排除する。

古倉さんの感覚や思考に、共感できない人もいれば、否定したい人もいるだろう。
共感する人と、受容する人も違うように、いろいろな読み方、受け止め方があるのは当たり前だ。
当たり前だが、共感できなかった人にこそ、読んでもらいたい一冊なのだ。
こういう内的世界を抱えている人、こういう世界の感じ方をしている人がいるんだよ、ってこと。

私は出産も結婚もしておらず、常勤ではあるが正社員という括りではない職種であるから、あちらとこちらの区別の線引きには敏感である。
仕事という場を得て、やっと一息つけるようになったんだもの。職業アイデンティティが私を支えてくれている。
それでも、不幸じゃないのにね。

ギケイキ:千年の流転

町田 康 2016 河出書房新社

一行目。
きょとんとして、それから爆笑した。
ああそうか。ギケイキって義経記かと、これまた何テンポか遅れて、実感が沸いた。
もう一度、一行目を読み直して、やっぱり笑った。

義経をはじめ、どいつもこいつも、あかんやつや……と苦笑しながら読んだ。
方言に馴染めなかったり、むさくるしさにうんざりしたり。
なにかというと菊門の話になるし、ややこしくなるとすぐに殺しちゃうし。
義経は血筋がよく、顔かたちもよく、おしゃれで、すぐれた能力がある。
主人公の万能感や自己愛、独特の美学と暴力的な衝動は、パンクが似合う。
思春期で反抗期で、自分というものをこれぞとばかりに声高に叫びたいお年頃。
どうしようもなく自惚れて見える義経が、時折、兄頼朝に思いを馳せる。
それがたまらなく、せつないのだ。それが、この本の魅力だと思う。

義経の目線は、千年前の当時と、当時から千年経った現在を自在に流転する。
まるで当時の義経を再現するように語られていくかと思えば、「まあ、僕はもう死んでるんですけどね」という具合に、物語に寄り添おうとしていた読者を突き放し、現在に立ち戻させる。
この時間感覚と距離感は、今までなかなか味わったことがなかった。
個性的な語り口に、合う合わないはあると思うけど、いろんな意味で意表をつかれた。

一行目、忘れられんな……。

2017.01.07

国芳猫草紙:おひなとおこま

森川楓子 2016 宝島社文庫

今年初めての読書は、タイトル買いした一冊。
国芳といえば、ユーモラスでかわいい猫達。
これはきっと愛らしいと思い、手にとってみた。
初読みの作家さんである。

鰹節問屋の又旅屋の娘のおひなが、絵を習いに通うのが歌川国芳の家。
国芳の家には、兄弟子達が数人おり、更に多数の猫達が暮らしている。
器量よしで賢いおこまという白猫の冒険を、おこまの猫目線で語るのと同時に、おひなの人間目線でも語っていく。
その冒険がなかなかのもので、名家のお家騒動にも関わってくるのだ。
猫達がわいわいと出てくるおかげか、その事件のあらましにも関わらず、全体として可愛らしい感じがした。

河鍋暁斎が歌川国芳に指示していたことなど、歴史的な事実も踏まえてある。
後書きによると、国芳の猫を主人公とした草紙があって、それを下敷きにしているそうだ。
『朧月猫草紙』というその物語を、翻案しつつ、膨らませたものが、この物語だ。
『朧月猫草紙』の現代訳もあるそうで、機会があれば読みくらべてみたいものだ。
著者の猫への愛情、原作への愛情が感じられた。

2016.12.27

花咲家の人々

村山早紀 2012 徳間文庫

風早町にひっそりと住む、ある家族の物語。
植物と会話することができる一族だが、その力は知る人ぞ知るものだ。
風早町は村山さんのいくつもの作品の舞台となっている町だから、そんな力を持つ一族が普通に住んでいてもおかしくない。
町も、そこに住む人も、不思議なことには懐が広いのだ。

おとぎ話のように、読んでいる間、穏やかな時間が過ぎてゆく。
老いていく人々や、死んでいった人々との出会いが心に残る。
不思議な力を持っている一族であっても、時間は同じように流れていく。
どれほど不思議な力をもってしても、老病死から救えるわけではない。

けれども。
老病死と老病死苦とは違うんだなぁ、と、これを書きながら気づいた。
三角屋のおじいさん、かっこよかったなぁ。
老いてこそなしとげられることがあり、病を得てこそ気づけることがあり、死んでもなお残せるものがあるとするなら、それはただただ苦しいものではなくなるような気がする。
しんみりとはするけれども、逃げ出したいほどの、でも、逃げ出すことのできない苦しみが、もっと透明で美しい色彩のものに塗り替えられるような魔法を感じた。
春の庭の女王とばかりに咲き誇る桜や、ベンチを綺麗な彩りで特等席に変えるバラや、冬の庭を飾るクリスマスローズに。

植物は自ら動くことはないけれども、心はあるのかもしれない。
村山さんの作品では、これまでも植物が魔法の担い手としてちょくちょく登場してきたが、このシリーズではそんな植物たちが重要な役割を果たす。
花咲家の人々が、人々と植物の間に立って、これからどのような物語を紡いでいくのかを楽しみにしたい。

それだけではなく、『みどりのゆび』や『ライオンと魔女』といった古典の童話が出てくるのも、読書しながら育った人には楽しみになると思う。
ここからどんな本であるか、手を伸ばす人がいあたら、それも素敵な魔法。

風早町が舞台なだけに、そこでコンビニたそがれ堂の出番ですよ! 三郎さん、助けてあげてぇ~と、ついつい思ってしまうこともあった。
それは、私が最初に読んだ村山さんの作品が、コンビニたそがれ堂だったからなんだろうな。

2016.12.15

男役

中山可穂 2015 角川書店

そこは夢の世界にたとえられる。

私が宝塚大劇場に行ったことがあるのは、一度きり。
高校の時も友人の一人が熱烈なファンで、大学の時も友人の一人が熱烈なファンで。
あれはたぶん、大学の友人につれていってもらったような気がする。
なんの作品だったのか、誰が出ていたのかも憶えていない。
劇団員といえばいいのかな。ステージの上の華やかさとサービス精神、なんといっても男役の皆さんのかっこよさ。
過剰なまでのロマンチシズムとアドリブの笑いのギャップに、生で何度も観たくなるファン心理を悟った。
礼儀正しく規律正しいファン達の熱量に圧倒され、独特の世界だなぁ、と思いながら、帰ってきた。

その時の印象そのままの世界が、この本の中にある。
宝塚そのものではなくて、印象としての宝塚。思い出としての宝塚。
著者が後書きで但し書きをしているけれども、リアルを追求したものではない。
逸脱するからこそ、幻想としての宝塚が強く心によみがえってくる。
友人たちの話から垣間見てきた宝塚、自分が一度だけ行った宝塚、その場所でならさもありなんと思うような、そういうしっくりくる感じがする。

中山さんの物語は、気合いを入れて読むものだと思っていた。
心の一番やわらかい所を閉まっているパンドラの箱をこじあけながら読むような、心が右往左往に引きずられて引き裂かれるような思いをするような、そんな恋愛小説を書く方だと思っているから。
美しい日本語で、美しい恋愛小説を描く、随一の方だと思っているから。
だから、読むタイミングをすごく選ぶのだけども、この物語はそんな心の準備は不要だった。

ファントムこと、扇乙矢。50年前に舞台事故で死に、宝塚を守護してきた幽霊。
現在のトップであり、引退を控えた、如月すみれ。
乙矢の相手役だった麗子の孫である、永遠ひかる。

彼女達、三代にわたって受け継がれていく、男役という生き方。生き物。
確かに女性であるには違いないが、彼女たちは男役である数年間を、女性ではないものとして自らを形作る。かといって、男性そのものではない。
男役は、男性の理想形を体現する、男役という性別であり、生物になる。
現実ではなく仮想の宝塚だからと敢えて書いておくけれども、そんな仮想の性別であり、この世界に仮住まいしているような人物像が、中山さんの世界に似合うように思った。
なにしろ、美しい。それだけで十分だ。

すみれの引退で幕を引く。
その切れ味がまた、中山さんらしいなぁと、舌を巻いた。
著者はもともと近代能楽集の一作品になるようにこの物語を構想したそうだが、ファントムだけではなく、男役そのものが舞台という一夜の夢でしか息づけない、そういう物語だったのかもしれない。

近いうちに、『娘役』のほうも手に入れなくちゃ。

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