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映画・テレビ

2015.11.16

図書館戦争The Last Mission

2015年 日本 

自由を守る戦いは、終わってはならない。

図書館戦争LMを2回観た感想を、そろそろまとめてみようかと思う。
毎朝、出勤時に1作目のサントラを聞いていると、またぞろ劇場で観たくなるから困る。
1作目も2作目も、やはり劇場で観てこそ、迫力を味わってこその映画らしい映画だと思うのだ。

LMは仁科司令の退官で話を終えるが、公式のパンフレットにも書かれているが、これからも戦いを続くという不穏な空気を残している。
巌のような固い意志を持って図書隊を育て上げた司令官の一時代は終わったが、戦いそのものは終わらない。終わることがない。
そのことを踏まえて考えてみると、戦いの終わりなんてものはありうるのだろうかと思うようになった。

自由を守る戦いは、終わってはならない。

なぜか。

自由が獲得され、それが制度化されると同時に、形骸化や変質化を免れえないものだからである。
自由が自由であり続けるためには、常に解放され続けなければならないという、運動そのものが必要とされる。
そのように考えていけば、自由の反対に置かれるのは、束縛であり、服従であり、制限であり、それを定める制度である。
制度は自由を保障しながら、自由を制限する。ゆえに、自由という権利には責任という義務を伴うのである。
自由を自由のままであり続けるように行使する責任である。好き放題にすることとは一線を画するための責任である。その自由を剥奪されないために他者を視野に入れることも責任なのかもしれない。
自分で結果を引き受けることが責任であるが、そうやって自由を大事に受け継ぐことによって、自己内のみならず、未来に向かっての責任を背負っているのかもしれない。
なにしろ、自由は失うと、再び手に入れるのはなかなか難しい代物なのだ。それは、平和と言い換えてもよい。

戦い方はそれぞれである。
また、大義のための戦いの最中であっても、一人一人の人が幸せになる自由は享受してもよい。
その幸せは、恋愛もあれば達成もあり、人によって様々でよいのだと思う。
一人一人の登場人物について、少しずつ感想を添えていくのであれば。
なんと言っても、玄田隊長の最後の指示に泣かされた。かっこよくてたまらない。男泣きした人たちが続出するのもわかる。
堂上教官は、以前よりもリーダーとして自分の班をまとめる雰囲気があった。そんな男くさいかっこよさと、てれ具合がなんとも魅力的である。
小牧も、手塚弟も、1作目からの時間経過がよいほうに働いて、ますますたくましく、頼もしく、かっこよさを増していたと思う。
郁。その走りっぷり、がんばりっぷりは、応援したくなるものだった。
その郁を抱きとめる折口さんの表情が、胸を痛めた聖母に見えて忘れられない。
手塚兄。意外に、手塚兄らしかった。兄弟っぽい。無駄にアップが多い気はしたけれど。
仁科司令を演じる石坂さんの迫力。さすがと思った。この人じゃなければこの説得力はなかったと思った。

なんで、ここまで。
カメラマンの疑問の向かう先は、図書隊でもあるが、良化隊でもある。
良化隊を現場で指揮を取る尾井谷が、ミッション終了時に見せる沈黙の表情。
原作者はそれを、尾井谷がよきライバルである玄田隊長を裏切らねばならなかったことに対する後悔ではないかと解釈していた。
最初に映画を観たとき、私は与えられたミッションに失敗したことを受け止めているのではないかと思った。
2回目に観たとき、この人も戦争を終わらせたかったのではないかと、ふと思った。
なんで、そこまで。
自分の部下達である良化隊の傷つきを引き受けて、相手を全力で追い詰める作戦を指揮したのは、その目的を正しく理解していたからこそではないか。
そこまでさせる、そこまでしたのは、良化隊としても守るものがあり、ひいては、この戦争を終わらせたかったのではないか。

しかし、作戦は失敗する。
自由を守る戦争は、これからも続けられるということだ。

自由を守る戦いは、終わってはならない。
戦い続けることに意味がある。
魔女ランダと聖獣バロンの戦いのように。
それは、世界を動かす運動である。
映画の中のみならず、現実で続かなければならない戦争である。
願わくば、そこに一切の血が流れることがないように。

2013.02.20

僕のきっかけ:ひまわりと子犬の7日間・一也の場合

平松恵美子・杉江松恋 2013 MF文庫ダ・ヴィンチ

回ってきたので読むことになった一冊。
『ひまわりと子犬の7日間』をいう映画のサイドストーリーだという。
映画の登場人物のひとりを主人公にして書かれた、別視点からの物語になるのだろう。
この映画にも特に興味があるわけではないが、映画を知らなくても独立して楽しむことができた。

楽しむというのは、ちょっと違うか。
飼い主を失ったり、飼い主が手離した、犬や猫はどうなるか。
本谷有希子『乱暴と待機』でも、同種の職場が登場するが、物語の傾向はまったく異なる。笑っちゃうぐらいに。
こちらのほうは、もっと真剣に、保護された犬にとっての7日間という意味を描いている。

舞台は宮崎。
浪人生活の末、両親の期待をふりきるように東京の専門学校に行き、結局は行かなくなって、なんとなく過ごしてきた一也。
実家に戻らざるを得なくなってから、流されて働くことになったのが、公衆保健センターという場所だった。
じゃりパン好きな一也は、意欲は低いし、空回りしやすい。彼なりに考えてよかれと思ってしたことが、見事に空回りする。
無知だからこそ、周囲の怒りも買いやすい。不器用であるだけで、頑張り方を知らないだけで、評価されない苦さはよくわかる。

でも、どんなことが行われているか、知らないですまさないでほしい。
一也だけではなく、この国に住む人にとって。
生まれてくる犬や猫がいれば、その数だけ死んでいく犬や猫がいる。
その中に、死ぬのではなく、殺されている犬や猫がいるということ。
税金によって、私も含めた自分達が殺している犬や猫がいるということ。

ちなみに、私の住んでいる県では、殺処分まで7日間も猶予がない。
犬では3日間、猫は即日処分。

そこをちゃんとわかった上で、飼って欲しいし、売って欲しいし、地域でともに生活することを一緒に探して欲しいと願っている。

2012.11.10

世界は言葉でできている

「世界は言葉でできているBook Edition」製作委員会(編) 2012 日本実業出版社

本歌取り。
金田一秀穂の序言を読んで、なるほどと思った。
そう言われればそうだ。
元の歌を言い当てるよりも、それより巧みな、美しい表現を磨くほうが面白い。
その辺の機微を踏まえている人が生み出す言葉は、もとの言葉と似通っておらずともぐっとくることがあるし、本家を超える可能性も出てこよう。

テレビでは数えるぐらいしか見たことのない番組を書籍化したものであるが、こうして文字で並べると、改めて、言葉を生む人によって個性があって面白かった。
言語は思考であり、言葉は哲学である。
言葉にはおのずとみずからが反映されてしまう。
ものごとに対する価値観であると、人生に対する姿勢であるとか、日々の生活であるとか、恥ずかしいものまでもにじみ出てしまうことがある。
同じ言葉をもとにして自分なりの表現を考えるという、いわば定点観測のような作業を減ると、お互いの個性がどうしても際立ちやすくなる。
そこがまた妙である。

恋を得たことのない人は不幸である。
それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
瀬戸内寂聴(p.84)

瀬戸内寂聴の名言を読んで、あれ?と思った。
そう言えば、似たような言葉を私は贈ってもらったことがある。
今年の夏、見ず知らずの人からであったが。
バイロンのような古来の有名人から当代当世の人の言葉まで、いろいろな人の言葉がここには集められている。
もとの言葉のセレクトもいいんだろうなぁ。

いつでも愛はどちらかの方が深く、切ない。岡本太郎(p.228)

こんな名言に、どんな言葉が挑戦したか。挑戦していっているか。
それは、番組もしくは本著をご覧くださいってことで。

2011.06.09

もう一つのシアター!:有川浩脚本集

有川浩脚本集 もう一つのシアター! (メディアワークス文庫)  有川 浩 2011 メディアワークス文庫

脚本設定はTheatre劇団子の石山英憲さん。
Theatre劇団子との出会いからインスパイアされて、有川浩が書いた『シアター!』
その世界を、今度はTheatre劇団子が演じるという、キャッチボールが生み出した作品。
この脚本も有川さんが書いたんだっけ?と首をかしげながらページをくって、事情を納得。
いろいろと原作を踏襲されている点で、原作のファンはスピンアウトとして読む価値がある。

もともと脚本形式で書かれたものはちょっと苦手だ。
歌舞伎やミュージカルは見るが、演劇もちょっと苦手。
映画は好きだけど、舞台の張り上げる声が苦手で……でも、野外で見る舞台は結構好きかも。マサチューセッツで見たテンペスト、ジョグジャカルタで見たラーマヤーナ。
舞台をテレビで見ると面白さが半減するんだよね。やっぱり、ライブはライブが一番。

だから、この舞台を生で観られなかったのは残念に思う。
役者さんたちを思い浮かべることができない代わりに、これまでの『シアター!』を読みながら思い浮かべていた人たち+『3びきのおっさん』からの清田祐希を思い浮かべながら読んだ。
そして、驚くほど、違和感なく読んだ。脚本を読むというより、これもまた読みなれた有川作品である、そのためだろう。

面白いのは【註】である。それぞれの場面や台詞に、舞台が出来上がるまでのエピソードだったり、実際の舞台を見ての作者の感想だったりが付記されている。
その生のコメントが、舞台を作る側の目線から活き活きとしたものを感じさせてくれるのだ。
作者の感激や戸惑いに、私まで、そんなものなのかと驚いたり、笑ったり。
物語を楽しむと同時に、舞台を作るまでの過程という実際に起きた物語を楽しむことができるだろう。

巻末には、有川さんの対談もおさめられている。
片方は、舞台のゲストだった大和田伸也さん(「もう一つのシアター!」オリジナルの登場人物役)と。
もう片方は、演劇集団キャラメルボックスの阿部丈二さん(司にーちゃん役)と。
これもそれぞれ興味深い。有川さんの今後の活躍の幅が広がりそうな気配さえある。
できれば、もともとの設定を作った石山さんのコメントも読んでみたかったな。

2009.01.20

映画と恋と遺伝子と:映画にみる遺伝子と疾患

安東由喜雄 2006 マネージドケア・ジャパン

ある意味、とてもマニアックな本。
映画の面では、私も観たことがある、タイトルは知っているというものが多く、とっつきやすいコラムになっている。「ファインディング・ニモ」に始まり、「エデンの東」や「王様と私」「ローマの休日」といった名画から、「解夏」や「東京タワー」「Always 三丁目の夕日」など日本の作品、「私の頭の中の消しゴム」「ダ・ヴィンチ・コード」「ミリオンダラー・ベイビー」といった比較的新しい作品まで様々だ。
ああ、最近、映画を観ていないな。新しい作品ほど、タイトルしか知らないもの。

が、そこに付随された遺伝性の疾患の描写の点では、マニアックだと思う。そこに出てくる蛋白の種類だとか染色体の位置だとかは、私の守備範囲外だったのである。
気管支喘息や肺がんや大腸がん、ダウン症やアルツハイマー病など、認知度の高いであろう病気もよく紹介されている。
スティル病やモルキオ病、アミロイド・アンギオパチーというと、病名だけではなんのことだか……。
いろんな病気が遺伝によって左右されるらしい、ということはわかった。
そして、いろんな病気や障害と遺伝の関連は、ずいぶんと研究されているのだ、ということも。

しかし、映画の中では様々な疾患や障害が登場するものである。著者は医師の目から見て、病気の紹介や描写の適切さをも問う。
レントゲン写真が裏表になっていないか、今となっては医学的常識が覆されてはいないか、病気があれば感動があると勘違いしたチープな作りをしていないか。
病者の描写は、病気があるから感動的なのではない。その病者が、病気を抱えながらもいかに生き、いかに死んでいったか、その戦いが感動に繋がることを指摘している。
そういった目線に、著者がどのように患者に接してきたのか、うかがい知れるようだ。多くの苦労を見てきた人の目線である。

映画の見方、病気の見方として面白い箇所も多かったが、遺伝子診断によって、将来の病気の可能性が予見できるようになるのは、少し恐ろしいと思った。
遺伝負因なら、私もきっとある。高脂血症と消化器系のガンおよび婦人科系の疾患の家族歴がある。
家族歴だけを見ていても憂鬱になるのだ。遺伝子レベルで診断されると、ちょっとつらいなあ。
わかるとしたら知りたいと思うかもしれないけれど、知ったことを受け留めるのはつらいこともある。かといって、インフォームされないことは、更に嫌だ。
そのあたりを心理的に援助する遺伝カウンセリングは、まだそんなに確立されたとは言えない領域である。
また、遺伝子レベルで問題ないことを重視する優生学的な思想に偏らないよう、社会自体も成熟しなければならない。

最後に、後書きで医学部の窮状というか惨状というか、そういう事態に言及されていた。海堂尊も繰り返し小説の中で書いていることであるが、どこもかしこも、やはり大変らしい。
本書の内容は興味深かったし、観たい映画、観なおしたい映画もあるけれど、なんだかその後書きがひっかかってならない。

 ***

医学部は教員の定数削減で研究力の弱体化が懸念され、医学部附属病院でも高度先進医療より利潤追求が優先されるようになり、医療の質の劣化が心配されはじめている。一方、教育は今までの講義中心の押し売り型から全員参加型の実習形式が求められ、これは学生の理解力を上げ、考える医師を育てるためには大変よいことだと思うのだが、教員の負担はさらに重たくなり、授業に振り回されるような状況が起こりはじめている。このような状況のなかで大学医学部のスタッフの多くが余裕をもてなくなり、無力感が漂いはじめているかにみえる。(pp.194-915)

2007.09.02

笑う大天使

笑う大天使(ミカエル)プレミアム・エディション 2005年 日本

川原泉『笑う大天使』ほど、好きなマンガはない。
何度も何度も読み込んで、すっかり日にやけたコミックスを、大事に取っている。
女子校で過ごした生活を振り返るに、一番、しっくりくるのがこの世界だ。
吉田秋生『櫻の園』でもなく、三浦しをん『秘密の花園』でもない。
庶民の中の庶民、毛色の違った子羊は、お嬢様たちの中で、餌のいらない猫の飼い方を憶えた。

その映画化。

……うーん。やっぱり、難しいやね。
ハウステンボスでロケをしたのもよかったと思うし、ダミアンの声が太一郎さんというキャスティングも素晴らしい。
一臣さんは最初はイメージが違うかと思ったが、見慣れると、低めの声が魅力的でなかなかよい。
俊介さんも出番は少ないが、かっこいいじゃないか。孝にーちゃんもイメージに近い。
ロレンス先生は、もうちょっとブロンドのほうがよかったな。絵に近いキラキラの金髪か、イギリス人らしいアッシュブロンドも好みだけど。
1コマだけルドルフ氏も出てきたし、財務省をバックにとびかう御札にはカーラ氏のイラストが。ダミアンもよく動いていたし、猫かぶりの猫も可愛らしかった。麦チョコだって。黒いフェラーリは出てこなかったけど。

問題は、お嬢様がお嬢様らしくなかったこと。言葉遣いもさることながら、所作や表情が美しくない。制服や衣装が品がない。お嬢様が板についていないのである。やれやれ。
モブになると、毛色の違う子羊が浮いて見えない。チキンラーメンだけではインパクトが薄すぎるのよー。
ケンシロウ様オスカル様コロポックル様が出てきたときは嬉しかった。鉄腕アトムと超人ロックとウルトラマンはさすがに出てこなかった。ましてや、梵天丸や南斗水鳥拳やフランスの女王やらは。これは仕方あるまい。
作業服を着た労務者風の3人の女子高生によるアクション映画という、萌えをねらったんだか外したんだかわからない辺りに、力が入ってしまったようだ。

これはこれで、面白いんかいな?
殿下と史緒さんのストーリーはほろりとさせられたけどね。
川原作品に着目した点だけは評価する。(偉そう)

2007.08.19

シェルタリング・スカイ

1990 イギリス

サハラの景色は美しい。朱色の大地と青空の対比。砂漠は夕焼け空のように美しく、白い骨のように無駄がなく清潔だ。T.E.ロレンスの言葉を思い出す。
砂漠の真ん中で記憶喪失になった人を探しに行く約束をした。その意味を知りたくて、DVDを借りてきた。
画面の美しさにうっとりする。サハラに行ってみたくないと言えば嘘になるが、蝿の多さは苦手だ。

一回観ただけで感想を述べるのは難しい。いろんな連想がもやもやと湧き立って形にまとまらない。
サハラに旅をしたアメリカ人夫婦ポートとキット、同行するタナー。
顔を隠してなされる愛撫、酔っ払って記憶に残らぬ愛撫は、匿名性を保つ。
それは、夫の代替。夫を想起させる手がかり。夫を記銘する身代わり。
他者との関わりを拒絶して、個の内で完結した自慰の範囲にあるもの。

サルトルの『嘔吐』を思い出した。人生を冒険という意味で満たそうとした主人公を思い出した。
レヴィナスを思い出した。キットは砂漠の民に対して、無条件で賓客として扱うことを要求している。(『レヴィナス入門』『ためらいの倫理学』
クンデラの『笑いと忘却の書』を思い出した。愛しても愛しても愛しても、忘れてしまう。

後半はほとんど台詞のない映画だ。人々は多いが、言葉がわからず、字幕がない。
群衆の中の孤独。アフリカの地方都市の群集も、N.Y.の都市の群集も、性質において変わらぬ。
主人公キットの孤独はますます深まる。一声も話さず、顔を隠し、私物を捨て、研ぎ澄まされていくほど、美しさを増す。
彼女を迎えに来た大使館女性が、冒頭のキットと同じように厚化粧をしている横で、キットは素顔に清楚な衣服を身に着けているのが印象的だ。
言葉を失い、記憶を失い、ありとあらゆる個性を一つずつはぎとられて、そこに残された孤独。

知人が勧めてくれた通り、最後の場面の原作者が語る言葉がよい。印象的で、哲学的だ。
原作者バロウズは、キットに「Are you alone?」と声をかけ、キットは笑顔で「Yes」と答える。
孤独になる不安を訴えていた神経質な表情はない。晴れ晴れとした笑顔があるだけだ。
字幕では「迷子になったのかね?」と訳されているが、「一人かい?」でもいいだろう。
キットは笑顔で、自分は孤独であると肯定してのけてみせたのだ。最早、自分の名前すら忘れ去った境地において、やっと。

旅行者travelerと観光者touristは違うという。後者は旅に出たときから家に帰ることを考えているが、前者は帰りを考えていないという。
でも、人生そのものが、繰り返しのほとんどない、後戻りすることのない旅行、いや彷徨なのだ。
空は固体のように、人を虚空から守っていると、ポートがキットに語りかける。キットは空虚への恐怖から守られたのだろうか。
彼女を待ち続けて、しかし、彼女の人生においてゆきずりの関わりしか持ち得なかったタナーの立ち位置が自分に近く、気の毒になった。

愛されたことを忘れるのと、愛したことを忘れるのと、どちらが悲しいことだろう。
人は忘れる。どうしても忘れる。いつか自分自身も忘れ去られる。終わりがあることを人は忘れがちである。
孤独からは逃れえず、不安や恐怖に駆られることがあっても、空がシェルターになる。空虚から、虚空から、人を守っている。
このタイトルが切ない祈りのように感じる。

私はあなたを空虚から守る空になりたかった。私が守らなくても、あなたが孤独のまま生きていけるように祈ろう。

2007.06.27

恋におちたシェイクスピア

アメリカ

シェイクスピアのラブコメが好きだ。「真夏の夜の夢」や「ロミオとジュリエット」は言うに及ばず、「テンペスト」や「十二夜」、「じゃじゃ馬ならし」に「恋の骨折り損」などなど。「ヴェニスの商人」も何とも言えない魅力があるし……。詳しいわけじゃないけれど、挙げればきりがない。台詞回しの妙味に、英語らしい英語の響きが加わると、うっとりする。

蜷川演出の歌舞伎「十二夜」を見て、即座に思い出したのが『恋におちたシェイクスピア』。シェイクスピア作品ではなく、シェイクスピアの若き日を題材にした映画。シェイクスピア自身の恋と、。「ロミオとジュリエット」の芝居を作り上げる過程がシンクロしていくところが面白い。

衣装や背景も美しく、シェイクスピアの時代の習俗を知るには持って来いの一作だろう。貴族と庶民の身分差、男性のみで演じられる演劇、ローズ座にカーテン座。グウィネス・パルトロウも魅力的だし、ジュディ・デンチ演じるエリザベス女王の「Too late, too late」の台詞は記憶に残る。

なぜ、「十二夜」のヒロインの名前はオリヴィアなのか。結ばれつつも結ばれえない恋人達の物語。

図書館学の授業の合間に、シェイクスピアを言えば、「ひとごろしいろいろ」と憶えるようにと言われた。1564-1616。シェイクスピアの生没年である。

ダンサーの純情

ダンサーの純情 韓国

ヨンセみたいな男は大っ嫌いだ。過去の傷を振りかざすばかりで、それで人を傷つけることにも無自覚な。目の前の人が、過去の傷つきのものととなる人とは、別人であることを忘れて、過去の傷つきに対する復讐を別人にぶつけるような人は嫌いだ。

「グリーンカード」の韓国版。ダンスのシーンも楽しめるし、面白い映画です。コミカルな要素も、ほろりとする要素もあり、安心して楽しめるような内容。

ただ、ちょっと、登場人物にいらいらしただけで。極めて個人的に。ちゃんと治療をして、ちゃんと法的に訴えて、対処すればいいじゃん。うじうじうじうじうじうじうじうじ、一人で落ち込んでいるだけで、何も解決にならないじゃん。いい迷惑。愛情でもなんでもないよ。ほんと、ばっかだなー。もーっ。

2007.03.13

大統領の理髪師

大統領の理髪師 韓国

外国から見て日本の20世紀後半の歴史がどんなものかは日本に住む日本人の私にはわかりかねるけれども、私から見て韓国の20世紀後半は、それまでに負けず劣らず激動続きだったように感じる。その時代を、政治の表面で目立つ人々ではなく、市井にいるはずの家族を通して描く。

コミカルな部分もあるが、政治の残酷さをきっぱりと描いており、驚かされた。このあたりの容赦のなさが、韓国らしい感じがする。政治権力とのつきあい方を考えさせつつ、家族への愛情を主軸にした、暖かい映画。台詞も演技もよく、哀しみを覚えさせながらも軽妙で、上手なドラマ。こういう映画が好き。

Here is something you can do.

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