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香桑の近況

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>ジェンダーや性の問題

2017.10.27

Black Box

伊藤詩織 2017 文藝春秋

記者会見の場での彼女を見て、私は凛々しいと思った。
その勇気を称賛したいと思った。

「そこに血を残しなさい」

筆者がアメリカ留学中にホストマザーから受けた教えに、ぞっとした。
私が四半世紀前に読んだスーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』(JICC出版局 1990)には、不正確な記憶であるかもしれないが、被害者が抵抗した証拠がなければ性交渉は合意と見なされることがしたためてあった。
銃で脅されていたとしても被害者が怪我をしておらず出血していなければ合意と見なされる理不尽さを訴える本だった。
あの時のうちのめされるような憤りと慄きが蘇った。
ぴたりと重なったと思った。

本書の内容には、大きく3つの要素がある。
ひとつめは、被害者がどのようにして被害に遭遇するか。
ふたつめは、被害状況直後からどのような症状や状態が出現するか。
みっつめは、被害者が必要なサポートにいかにつながりにくいか。
この三点を、被害者自身のまだ真新しい記憶に基づいて、体験を記述しているところで、広く読まれてほしい本である。
被害者の受けた傷がどれほど深刻で、後々までいかにダメージを与え続けるものであるか、これが一般常識になるように参考してもらいたい。
被害者が必要なサポートにつながりにくいところは、医療や司法の方はもちろん、自衛のために、知っておいてもらいたい部分である。

筆者のレイプの状況は、残念だがこういうことは女性に起こりうるものとして読んだ。
状況をこうして文章として再現することも、苦痛を伴う作業だったと思う。
何度、言葉にしたからといって、自分の中のその記憶を刺激するたびに、フラッシュバックも起きやすくなったことだろう。
勘違いしてならないのは、フラッシュバックというのは、ただ単に想起することではない。
あたかもその場その時に戻ったかのように、五感や感情のすべてで過去の体験を再体験することだ。
その時の恐怖心や不快感も丸のまま、ありありと蘇ってくる。直後で、おそらく未治療で、未回復であるなら、その苦痛はどれほどであるだろう。
その苦痛を耐えながら書かれた本だ。

被害者が恥ずかしいと思わなければならないことが間違っている。
性暴力被害にまつわる間違った言説は世の中にあふれている。
被害者が誘ったのではないか。被害者にはめられたのではないか。被害者が魅力的なことが悪い。
被害者も快感を感じたのではないか。女性は暴力的に扱われることを待ち望んでいるのではないか。してやったのだからありがたいと思え。
と、加害者に同情的で、被害者をかえって責めるような言葉はよく聞かれる。
そのうえで、「傷物になった」という言い方で、被害者の尊厳が永久に傷つけられたことを社会として承認し、被害者は傷つけられた者として恥じながら生きることを求められる。

正しい被害者像を演じなければ、同情すらしてもらえない。そんなおかしいことはない。
なぜなら、まじめでおとなしい、清楚で内気、そんな女性像こそ、「狙われやすい」対象だからである。
意地悪な言い方をすれば、性的に誘惑的ではない印象を与える被害者像を演じることによって、もっとも性被害にあいやすい女性として性的に誘惑させられることになる。
その点、同情しろというメッセージを発するのではなく、おかしいことはおかしいと声を上げる筆者の姿に、感銘を受け、称賛したいと思った。

筆者を含めた被害者が、二次的、三次的に、それ以上、傷つけられることのないように祈りたい。
筆者を含めた被害者の傷が、その傷跡は心の中で消えなくとも、生々しさが薄れて抱えやすいものとなるように祈りたい。
なによりも、このような被害を受ける人が減ることを、強く強く願いたい。

2017.05.11

官能と少女

宮木あや子 2016 ハヤカワ文庫

一癖ある恋愛短編集。
どこか胸の奥に刺さるような、胃の腑がつかまれるような、そんな苦い痛みを持つ短編ばかり。
恋愛やエロティシズムに釣られて読み始めると、その欲望に傷つけられた者の痛みを見せ付けられる。
愛しい手は私から何もかも奪い去った手である。私を根底から傷つけたその手を、愛しいと思うしか、生き延びる術がなかった。
そうすることしかできなかった悲しみが、不思議な透明感を持って描かれている。
これは、少女たちの物語。官能と女性、ではない。少女というところが心憎いタイトルだ。

この傷つきを幻想的だと感じる人は幸いだ。作り物だと思える人は幸いだ。
恋愛という甘ったるくて見せ掛けだけの能天気で夢見がちな理想論は、ここにはない。
可哀想と嘆く同情や、そんな関わりは許されるべきではないと否定する良識に、簡単に押し殺されてしまうほど、こういう傷つきは隠されやすい。
世の中に、性暴力や性虐待は、実に多い。加害者に暴力や虐待の意識がなくとも、身にも心にも大きな傷を抱えながら生きている人は多い。
明確な暴力の既往があるわけではないので表に現れることはないが、普通の性を送れない生きづらさを抱えている人となると、いかほどばかりか。
LGBTとは違う次元で、性の苦しみと悲しみと痛みを、一見はエロティックに描いて見せたところが作者の手腕に思う。

宮木さんの短編集は、一冊の中でどこかとどこかが繋がっているところが好きだ。
この物語も、ゆるやかな円環を描く構造になっている。
どこがどう繋がっているかは、読んでからのお楽しみ、のほうがいいかな。
この本、宮木さんの本だからと買ってみたら、読んだことのある本だった。
タイトルをまったく憶えていなかったので、見覚えのある文章に立ち読みでもしたのだろうか?といぶかしんだが、最後まで読んだことのある本だった。

私の記憶力って。

2017.01.10

最貧困女子

鈴木大介 2014 幻冬舎新書

女性の貧困を言われるようになったのは数年前。
くしくも、著者がとりあげたNHKの特集を私も見ていた。
その後、貧困女子という言葉でメディアやネットで取り上げられる人たちが貧困ではないと言わないが、どこか軽い。
そんなもんじゃないよ、という最貧困を見えるようにしようとしたのが、この本である。

相対的貧困層ではなく、絶対的な貧困層。
貧乏ではなく貧困。その区別に、なるほどと思った。
著者は伝え方の難しさを自覚している人で、貧困女子高生の報道に対して、著者は未成年をありのままに報道しすぎることへの批判を行っている(http://diamond.jp/articles/-/104452)。
そんな著者の文章は、取材対象者に対して、真剣に胸を痛めていることが伝わってくる
見下すわけではない。哀れみは、見下しの変形だ。面白がるのでもない。
誰か一人でなんとかできるわけではないけれども、まずはこんな人たちがいるのだと見えるようにしようと言葉を尽くす。
そんな姿勢で綴られている文章に感じた。

実際に、経済的な困難を抱えている女性達、それもかなり若い女性達にお会いすることが私は多い。
虐待や育児放棄、親の不在、前の世代からの貧困といった背景があってもなくても、教育の配慮を受けられずに来て、医療にも福祉にもなかなかつながりにくい人たち。出会っても途切れてしまう人たち。
セックスワークとの親和性が本書でもしばしば取り上げられているけれども、それしかできない、かろうじてそれならできる、で、生き延びている人たちがいるのだ。
私が知っている彼女達をどんな風に紹介されているのだろうと思って、手に取った。
こんな風に紹介してくださっていて、周知しようとしてくれている人がいるんだと知ることができてよかった。

努力がたりないとか、本人の選んだことだとか、そんな言葉で思考停止せずに、彼女達の苦境を考えてほしい。
彼女達を見捨てていませんか。買う側に回っていませんか。より傷つけてはいませんか。
違法なことをしているとか、だからだめだとか、そんな建前論はなんの役にも立たない。
この国は少子化対策が必要だと言いながら、子どもを産む女性しか政策の対象にしていないけども、制度からこぼれ落ちている存在がある。
ないのと、なかったことにするのは、意味が違うのだ。

著者は取材を通じて得られた知見からケースの類型化を図っている。
「3つの無縁」と「3つの障害」に関わる社会学や福祉の専門家にはこれを活かしてもらいたい。
この国では、売春は法律で禁じられているから、ないことになっている。
売春はないことになっているので、売春婦もいないことになっている。
ないこと、いないことには、対策もしなくていいことになっている。
だから、こんな生き方しかできない存在があるのだと、周知するところから始めないといけない。
専門家ではないと何度も著者は断りを入れることで、専門家への喚起を促しているように見えた。

明日はわが身なのだ。
あなたの母親や妻や娘や姉妹や姪の学生時代のアルバイトや卒業後の生計を立てる手段として、風俗や売春は適切なのか。万全を尽くして子育てをしているつもりが、その子どもが家出をして、その後の人生がこの状態だったとしたら。
あなたの父親や夫や息子や兄弟や甥が買う側に回ることを想定して生活しているだろうか。あるいは、男性もまた売る側に回されることがある。
平気だって人もいるだろうけど、それでも、考えてほしい。どこでどう転じるか、わからないではないか。
どれだけリスクが高いのか。それでも、そうとしか食べる方法がないってこと。これを普通のことだとしてしまいたくない。
私のできることもまたささやかだけども、彼女達を知ってほしいと思って、記事を書いておく。

2016.02.02

ゆうじょこう

村田喜代子 2016 新潮文庫

硫黄島の海女の娘が、熊本にあった遊郭に売られる。時は既に明治に入り、娘たちの気風も、遊郭をとりまく社会も、少しずつ変化していた。
実際に、1900年に東雲楼で娼妓たちによるストライキ事件があったそうで、それを下敷きにしつつも、幼い娘たちが淡々と日常として遊女として働く姿にひきこまれる。
そこに、エロスはない。
かすかな初恋の痛みはあったが、恋愛を描くための小説ではないし、性愛を描くための小説でもない。
主人公のイチがたどたどしい故郷なまりで記す日誌。それを読む女紅場の鐵子さんや、東雲楼の随一の花魁である東雲さんといった登場人物たちの、それぞれの女性達が実際に息づいているかのような生活感に惹かれたのだと思う。

これを成長譚と呼ぶには抵抗を感じるが、イチが人間として力強く育ち行く姿と、見守る二人の賢い大人の女性の交流がなんとも魅力的であった。
吉原を舞台とする小説は多いし、それがもっぱら性愛や辛苦や悲惨を主軸にするとき、使われる言葉はおおむね東北や北関東という印象を持っている。
ここでは、ルビをふらねば理解不能になる人も多いであろう南九州の言葉が多用されていることにも、現実味という説得力を感じたことを付け加えておきたい。

似ている本をあげるとするならば、パトリシア・マコーミック『私は売られてきた』。こちらは、ネパールからヒマラヤを越えてインドに売られてきた少女の物語だ。
マーセデス・ラッキーが小説のなかで「自分の体しか売るものがなかったからといって、彼女達を蔑むことはできない」といった一文を書いていたことがあって感銘を受けたが、娘しか売るものがなかった親を蔑まずにいることは難しいと、改めて思った。

2014.06.19

百合のリアル

牧村朝子 2013 星海社新書

非常にいい本である。
ぜひ、図書館には入れて欲しい。
できれば、公立図書館や高校以上の学校図書館に入れて欲しい。
中学生にはちょっと早いかもしれないが、性の悩みを悩み始める頃の人たちに届くようなところに並べて欲しい。
心からそう願う。

読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
質問/対談形式にしてあるところもとっつきやすいと思う。
マンガのページもところどころ挟まっていたりもする。
帯の著者の写真が、とても美人でひゃほー。雰囲気がとてもいい。
どこか遠い世界のレズビアンではなく、もっと身近で等身大。
リアルな悩みに答えてくれるいい本なのだ。

同性愛の問題を語るとき、カテゴライズする用語が年々増加の一途をたどることに気づく。
そのカテゴライズすること自体を取り上げて、そんなラベリングを一旦取り外して、目の前の人と人との一対一で対峙するところから始めようと、著者は対人関係の根本に立ち戻ることを勧める。
そんなところは、同性愛であるかどうかは横において、誰にでも言える、役立つ、本当はとっても当たり前であるはずの考えが述べられている。

そういう用語の解説にとどまらず、比較文化的に男女以外の性の区分を紹介してみたり、歴史的に同性愛の治療とされてきたものを紹介してみたり、内容は横断的でである。
同性愛であることの苦しみへの対処法や、同性カップルのこうむりやすい不利益、同性同士で婚姻するための現行上の仕組み、女性同士のセックスの例など、盛り込まれている情報は豊富だ。

セックスのルールはシンプルよ。『している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること』これだけなの。(P.156)

さらりと大事なことを書く著者に、好感を持った。
とても賢く、ユーモアのある女性だと思う。
書かれている文章が魅力的で、正直を言えば、ファンになった。

2014.05.26

更年期以降を元気に生きる女性ホルモン補充療法

新野博子 2013 海竜社

持病のため、自分が受ける治療法を知っておこうと思い、読んだ。
更年期以降、高齢となった女性にも女性ホルモン補充療法を勧めている点で、自分自身の現状とは必ずしもそぐわないところも多かったが、読んでみて治療を受けないことのほうが不安になった。

エストロゲン欠乏によって、どのような変化(老化)が起こるかを説明しつつ、閉経後の性の問題にもしばしば触れられている。
健康的な心身を保つために、食事や運動といった自助努力可能なものについてもページが割かれていた。
その上で、ホルモン補充療法の適応範囲や方法などが説明されている。

私の関心としては、どのような老化が起きるかではなく、ホルモン補充療法そのものの効果や方法、副作用であったのだが、暗に相違して、老化についての記述のほうがボリュームが多かったかな。

実感としては、受ける前よりは受けるようになってから、ずいぶんと楽になった。身体的にも。心理的にも。
今の年齢で、今すぐ老化に突き進むと考えると怖いので、治療を受けつつ、ゆっくりと老いていきたいものである。

2012.04.06

心に性別はあるのか?:性同一性障害のよりよい理解とケアのために

中村美亜 2005 医療文化社

もともとは英文の論文として発表され、そこに著者が「エッセイ」と評する主張を付け加えた構成になっている。
自分の性別に悩む人、自分は性同一性障害ではないかと悩む人に、手に取ってもらいたい一冊だ。
この中でインタビューを答える人たちにはいろいろな人がいる。
性の多様性を、セックス、セクシュアリティ、ジェンダーのどの次元においても再確認した上で、自分の性について向き合ってもらいたい。自分と向き合うことを、自分自身を受けいれる過程で何度も必要になる。
単純に男女の二元論に再陥落していくことは決して治療的ではないことを、ケアに関わる側も知っておくべきだが、この落とし穴に当事者がまず落ち込まないようにしてほしいと願うからだ。
ほかの人がどのように自分自身の性と折り合いをつけてきたか、きっと参考になることだと思う。

続きは個人的な心情を露悪的に書いてみようと思うから、読む人は気を付けて。

私の身も心も、偏りがある。
女としてもできそこなっているし、人としても欠けている。
それがどーした?と個人の内部では落ち着いているが、他者に理解されるとは限らない。
パートナーとも結局はうまくいかなかった。
私にとって女性であるということは、苦々しさを含む。
「外から押し付けられる」ものだという感覚がつきまとうからだ。

自分はどういう人間であるのか、ほかならぬ自分が決めていくものである。それはその通りだと思う。
そこにその通りに他者から理解されたと願って、プレゼンテーションの適切さが問われ、他者からのパーミッションが得られるかどうかで生きやすさはある程度左右されてくる。
アイデンティティとはそういうものだと思う。

髪が伸びた。いっそ剃髪したいぞ。と、思う私のジェンダーはいつも中途半端なところにアイデンティファイされる。
私の中に「自分は反対の性別である、という強く継続的な自己認識」はないが、「自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感」は豊富にある。ついでに、性行為および性的な対象に見なされることへの不快感や拒否感もある。
積極的に男性性を獲得したいとは思わないが、女性であることがやりきれない。
もうちょっと直截に言ってしまえば、男性器は二重の意味でほしくない。
乳房もいらないと思うことがしばしばある。あと7kgぐらい痩せるか、筋肉を鍛え上げて体脂肪を落とすか、切除するか、どれが一番現実的だろうと考えるのは楽しいが、どれも実行はしないだろう。

ニュートラルな性があればいいのに。
自分の中のことは自分で抱えるし、自分でけりをつければよいが、我は独りであるわけではない。
私は親密な他者関係である色恋沙汰からリタイアしたいのであり、巻き込まないでくれとアピールするための手段を欲する。
自分が女性であるというそのことよりも、女性として扱われる、女性として性的に欲されることが、一番嫌なことである。
そういう意味では、剃髪というのは一目でわかる象徴であり、すぐれた文化装置、生活の知恵だった。と、源氏物語を読んでいて思った。

この程度の生きづらさを積極的に疾患扱いする必要はまったくないが、しかし、同時に、ジェンダーを検討するときにはこのような曖昧さや揺らぎを含みおきつつ理解していかなくてはならない。
ジェンダー・アイデンティティを再確認するプロセスにおいて、安易な男女の二元論に陥ることがあってはお粗末だ。
だからこそ、こういった「心に性別はあるのか?」という素朴な疑問はとても大切に思い、著者の姿勢に好感を持って読んだ。

2012.02.29

性同一性障害と戸籍:性別変更と特例法を考える

針間克己・大島俊之・野宮亜紀・虎井まさ衛・上川あや 2007 緑風出版

付け焼刃的に勉強中。必要に差し迫らないと読まない本ってあるわけで。
人がよりよく生きるためのお手伝いとして、この領域の勉強を再びするのもありかなぁ、と思った。よりよく……というと語弊があるから、より生きやすく? よりハッピーに、というほうが、しっくりくるかな。
手元には日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第3版)」もある。こちらはネットでダウンロード可能だ。

社会学的、心理学的な領域でのジェンダーの勉強ならしてきたが、法律や制度が絡んでくると知らないことも多い。
実際、改名の手続きは、戸籍の性別変更の手続きとは別で、よりハードルが低いことも、初めて知ったよ……。
Q&A形式なので、当座、必要なところだけを拾い読みしがちなのであるが、当事者も援助者も、通読が望ましいだろう。
知らないことがあるかもしれないし、知らないことで損をしてほしくないもの。

ホルモン療法も、手術も、どちらも身体的、心理的な負担は大きい。
望んですることとはいえ、身体はよくも悪しくも心に影響を与える。
更に、各種手続きはわずらわしいこともあるだろう。というか、この本を見ていると大変だろうと、理不尽さを感じた。
手術をしたから、戸籍を変えたからといって、人生のすべてがすぐさま思いとおりになるわけではない。
現時点では踏み出す人は、やはり相当の覚悟が求められる。気軽に取り組むことでもないとは思うが。
楽なことではないのだから、遠慮せず、適切で必要な援助を受けてほしい。

それでもなお、と、踏み出す人のお手伝いができればいいなぁ。

2009.01.12

トランスジェンダー・フェミニズム

トランスジェンダー・フェミニズム  田中玲 2006 インパクト出版会

やっとこういうことが語られるようになったのだなぁ。
どちらかといえば、薄い本である。読むのに時間はかからない。だから、多くの人に手にとってもらいたい。世の中、「自分の身体的な性別に違和感がない異性愛者」だけではないことを確認するために。
著者は何度も繰り返し、性の多様性を示す。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス。これだけでは多様性を示すには足りないことをも示す。
身体の性の面においても、社会的・文化的な意識上の性の面においても、性的な志向の面においても、性は多様だ。多様なものを組み合わせると、タイプ分けが不毛になるほど、多様になる。
この本の秀逸なところは、そういった性の多様性を語るときに用いられる言葉について、丁寧に解説を補っているところである。トランスジェンダーについて詳しくない人にもとっつきやすく、最初に手にとる一冊としてお勧めだ。

残念なのは、「障害」という用語に対する、著者の偏見のようなものである。偏見であるとは言わないし、差別と言うと語弊があるが、その割り切れなさを感じて、ここでもやはり、という残念さを感じた。
DSMを通じて、精神疾患は「病気」から「障害」へと表現を転化させており、このことに対する賛否はいまだ消えてはいないものの、一般的には「障害」と表現する用語法が普及した感がある。
「障害」というと、先天的な不自由さや、今後も好転しない恒久的な不自由さのイメージがある。障害者自立支援法における障害とは、そのようなものであると思う。障害は障害であるのだから治らないのが前提、という、用語法に基づくのだ。
しかし、精神科諸領域の疾患に用いる気分障害、摂食障害や発達障害、性同一性障害といった診断名の「障害」の概念は、disorderの訳語であり、旧来的な「障害」の概念とは軌を一にしないのである。
乱暴ではあるが私の理解で私の言葉に直すならば、摂食障害eating disorderは「食事に関して困っている状態」であり、性同一性障害gender identity disorderは「性同一性に関わることで問題を感じていること」という意味以上の含みはないと考える。発達障害developmental disorderならば「発達上でなんらかの偏りがあるらしく得手不得手があるんだ」だし、気分障害mood disorderなら「気分の面でうまくいっていない感じ」なのだ。
調子よくいっていないことを、disorderは表しているのだから。handicapという意味ではない。そこを、著者はhandicapとして受け止めているように感じられて、読んでいて齟齬を感じた。
言葉に過剰な意味を盛り込むことには慎重であらねばならない。適切な表現というのは実に難しい。自戒にしておく。

とはいえ、現実の医療従事者の対応を見たり、性同一性障害の治療に関する精神医学・臨床心理学の記述を読んでいて、残念に感じることもある。
性同一性障害の「治療」を通じて、結局は男女二元論に還元・回収しようという無頓着さが横行しているからであり、その点では、著者が診断されることを嫌がったのも無理はなかろうと思う点である。
性同一性という言葉を使うことによって、ジェンダーに関する社会学が積み上げてきた議論に対して不勉強であり、治療者サイドが自らの性差別意識に無自覚な傲慢を感じることがあるからだ。
その上、ネットの本屋さんで検索をしてみれば瞭然であるが、MTFの発言は多いがFTMの発言は少ない。専門書の中身を紐解いてみても、GIDというとMTFが中心であって、FTMに関する情報の薄さに苦労する。
ジェンダー・アイデンティティを扱うのであってジェンダーを扱うわけではないから、ジェンダーを語らなくても良いというのは、私は詭弁だと思う。治療者のジェンダー観、セックス観、セクシュアリティ観が反映されないわけ、ないじゃないか。
FTMおよびMTFの人が持つ多様性の可能性を、単純な男女二元論に振り分けて圧縮することを、私は残念に思う。ついでに、必要とする人へのサービス提供が不十分な現状も残念に思う。
それでも、著者には思い出してもらいたい。ジェンダーが多様であるように、サポートする側も多様であることを。その多様性の中に希望があることも。

子どもの頃から今に至るまで、性的に欲望されない自分になりたいという願望がある。男性になりたいわけではない。しかし、女性として欲望されることへの嫌悪感や違和感が私の基底に流れている。ついでに、自分の欲望も捨て去ることができたら、どんなに楽だろう!
自分の女性をあきらめて引き受けたのと同じ頃、私はフェミニズムを見限った。フェミニズムがヘテロセクシュアルな女性原理主義・全体主義へと傾倒していることへの無自覚さが息苦しく、興味深いが自分を同一化させるのは嫌だと思ったのだ。
私は、家父長制度的な価値観の根強い文化圏に生活し、モノガミーへの撞着を捨てきれない19世紀的な倫理観を内在化させており、まあ、一応はセックスもジェンダーも女性系で、とりあえずはセクシュアリティもヘテロっぽい。性別に以前は違和感はあったが今はなく、おおむね異性愛である。
ここに「一応」「とりあえず」「系」「ぽい」「おおむね」と付け加えたところが、私が男女二元論を再構築していったある種のフェミニズムへの抵抗であり、反感である。
今も私はえせフェミでいい。それぐらいの立場でいる。

私は私である。私は私の立場から、女であることにこだわっていたい。
私が自分自身の性別を肯定的に受け入れ、楽しめるようになるまでは、実に長い時間がかかったように思う。それでも、いまだに不思議になる。
女性が他者から性的なまなざしを受けることによって性化されて女性として生きざるを得なくなる、この簡単なシステムを、フェミニズムに共感的であると自認する男性でさえ、なにゆえ理解することが難しいのだろう。そういう人に出会うたびに、私は単純な二元論で相手を切って捨てたくなる。
中村うさぎや桜庭一樹を読めば、その戸惑いの大きさがわかりやすく描かれている。山田詠美や三浦しをんもいい。レヴィナスを読むよりも、よっぽどわかりやすいと思うんだけど。
世の中、まだまだ変わらないんだろうなぁ。嘆息。

Here is something you can do.

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