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>ジェンダーや性の問題

2021.04.06

さよなら、俺たち

清田隆之 2020 スタンド・ブックス

こういう議論を男性が語るようになってくれたのかと、新鮮な驚きと喜びがわいてきた。
男性自身が、どのようにホモソーシャルな社会を体験して、内面化しているのか、そこを自ら振り返りながら言葉にしたものに触れる機会は、私はまだ少ない。
男性がどのように男性性を体験しているのか、男性に語ってもらわないことには、私は一応、女であるので、よくわからないのだ。
そういう男性が書いたジェンダーについてのエッセイであるという点の魅力は後述することとして、先に、同業者の方たちに読んでほしいなぁと思ったもう一つの魅力を書いておきたい。

筆者は桃山商事という「恋バナ収集ユニット」として1000人以上の方のお話を聞いてきたのだそうだ。
その活動を通じて、徐々に彼らなりの方法論を構築していったところが素晴らしいなぁと思った。

恋愛相談において最も重要なのは相手の「現在地」を一緒に探っていくことだという考えに至った。
人の悩み事というのは短い言葉で言い表せるほど単純なものではない。(中略)実に様々な要素が複雑に絡み合っている。それゆえ、悩んでいる本人も自分が何に悩んでいるのか、ハッキリ把握していないケースのほうが多かったりする。
それらを読み解くためには、決めつけず、誘導せず、まずはじっくり相手の話に耳を傾ける必要がある。(中略)相談者さんが「今、何に悩んでいるのか」を整理し、共有していく。このプロセスに最低でも1時間はかける。(p.124)

このように、話を聞くことで何をするか、どのようにするか、何を目指していくかを、きちんと整理してあることが素晴らしい。
心理援助職になったばかりの方で、話を聞くとは何を聞けばいいのか、どのように聞けばよいのか、聞くことでどうすればよいのかを迷う方がいらしたら、ぜひ、参考にしてほしい。

相談者さんのお悩みにじっくり耳を傾け、現在地を一緒に探りながら相手に合った解決策を提示していく。これが我々の考える恋愛相談の理想型だ。とにかく相手の話をよく聞く。内容としては極めてシンプルであり、特殊な経験や専門知識は必要ない。すべての男性にオススメしたい方法だ。(p.127)

と、筆者は特殊な経験や専門知識はないと書くけれども、これを心理職がしないとしたら、私はとても残念に思う。
様々な介入技法を身に着けて、専門性を高めることは大事なのだけれども、基本の基本は、ここじゃないだろうか。
これを書いたのが同業者じゃないことが、私はちょっと悔しかったり寂しかったりした。

また、読み進めていくうちに、human beingとhuman doingという概念を援用して、ジェンダーの違いを説明しようとするくだりが出てくる。
これって、イルツラ(東畑開人『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』)じゃないのか?と、思った。
ケアとセラピーの対比は、human beingとhuman doingの対比を補助線として援用することによって、ぐっと鮮明になると思う。
セラピーをしなければいけない気持ちに駆られているときには、human doingとしての生き方に自分がなっている時なのだ。

筆者は、多くは女性たちからもたらされる失恋についての話を聞き続けたことで、男性である自らと対峙せざるを得なくなる。
女性の目を通じて語られる男性たちの「嫌なところ」が、自分にもあるのではないか?と考えて自分を見つめる作業は、しんどい時があると思う。
筆者は落ち込んだことり悔やんだことをかっこつけずにエッセイにつづっていく。そこがいい。

「男性が加害者、女性が被害者」という話ではないし、すべての男性が女性蔑視をするわけでもない。しかし、男性が「男性である」だけで与えられている〝特権”は確実にあって、それは「考えなくても済む」「なんとなく許されている」「そういうことになっている」といった形で我々のまわりに漂っている。(p.10)

そう。そうなのだ。
男性の特権を指摘されたときに、そんなものはないのだと反論する男性も多いわけであるし、反論したくなる気持ちもわかる。
フェミニズムはミサンドリーとイコールではないのに、そこをごっちゃにして拒否反応を示す男性も多い。
それでも、男性であるというだけで特権があるのだという女性側からの主張を一旦引き受けてもらえないと、女性側として話が進められないのだ。
そこを認めた上で論じてくれている男性がこうやって登場していることに、私はなんとなくの救いを感じた。

ジェンダー論というのは、私は諸刃のものに感じることがある。
これを論じることで、自分が居心地よくなるものとは限らない。それは女性にとっても、だ。
だからこそ、フェミニストを嫌悪する女性もいるわけであるし、フェミニストを名乗る人々のなかにもいろんな人たちがいる。
そのあたり、上野千鶴子さんのフェミニストは自称でよいこと、フェミニストの女性は自分の中にミソジニーを抱えているものだという論に、ちょっとだけ安心したことがある。
男性がミソジニーに気づき、ミサンドリーを感じたとしたら、やっぱり居心地悪く、憂鬱で不愉快な体験になるだろうとは予測される。
だからといって、たとえば非モテであるとか弱者男性であるとかを盾にされても困るのだ。
それでも、女性がホモソーシャルな社会に適応するためにミソジニーを引き受けざるを得なかったように、そのホモソーシャルな社会を維持してきた側としてのミサンドリーを引き受けてもらって初めて、お互いに話が通じるのではないか。

そういう隘路を見出した読書だった。

新しくできた書店で、手に取った本。
Twitterで見かけた記憶があった。
たまたま、サイン本だった。
在庫はその一冊だったので、サイン本をいただいた。
これもなにかの御縁。

2021.02.06

女たちの避難所

垣谷美雨 2020 新潮文庫

あの日のことを忘れることなど、できない。
あの日には幼すぎて記憶にはあまりない人や、その後に生まれた人もいる。
けれども、あの日は自分にとっていつか来る日であるかもしれない。

この本は、東日本大震災に題材を取っている。
福島の架空の海沿いの町で、災害に遭った3人の女性が主人公だ。
彼女たちが、災害をどのように体験し、災害後をどのように体験したか。
避難所とはどういう場所であったかを、小説として読み手に体験させる本だ。

文体はなめらかで真に迫り、あの日からひっきりなしに放送された映像が目の前に浮かぶ。
この人は無事にあの災害を生き延びるのか、あの災害の規模を憶えているだけに、地震の描写が苦しくなった。
あまりにも苦しくなり、手にとっては置き、手にとっては置き。
最後の数ページを先に読んで自分を安心させてみても、読み進めるのがつらくなった。
そのうち、腹が立って仕方がなくて、読み進めるのがつらくなった。

福子は子育ても終わった中年の女性だ。その夫は、定職に就かず、ギャンブルに依存しているような男だ。怒らせると面倒で、ただ男であるというだけで威張り散らす。でも、地域の女性らしさの規範にのっとって、福子は黙りこんで耐えるしかない。
遠乃は出産したばかりの若い女性だ。夫を災害で喪うが、夫の父親と兄から家事労働を含むケアの担い手、性的な対象として、当然のように世話することを求められる。乳児を抱えた美しい女性が、避難所でどういう目に遭ったか。
渚は小学生の息子を持つシングルマザー。離婚歴があり、飲食店を営む彼女を、地域の人々はふしだらな女性として扱う。そのため、息子も学校でいじめにあっていた。

読むほどに、怒りが湧いてたまらなくなった。
腹が立ちすぎて眠れなくなるわ、吐き気がしてくるわ、うんざりするほど憤りが湧いてきた。
福子と遠乃と渚と、その他の女性たちと、どの女性たちが自分に近しく感じるかは、読む人によって異なると思うが、彼女たちの苦しみは自分の苦しみと地続きだ。
だから、私はこの小説を、架空の物語として読めなかった。

これは小説の形を取るしかなかった記録に思う。
こんなことはきっとたくさんあって。
きっともっとひどくて。
あの頃、ひどい話を端々で聞いた。
とても丁寧に取材されており、実在のモデルを想像してしまうほど、鮮明で具体的で現実的だ。
脚色されているとしたら、過大に盛るのではなく、過小にマイルドにしなければならない方向性に、だと思う。
小説という体裁を取らなければ、本として出せないほどにひどいことがいっぱいあったのだろう。

だが、問題の多くは、多かれ少なかれあちらこちらで繰り返されている。
震災前からあり、震災によってあぶり出されたことは、今なお現にある。
竹信三恵子さんは解説で、「人をケアするべき性」として扱われてきた女性被災者たちをケアしてくれる存在はなく、静かに疲れはてていくと書いているが、それはCovid-19流行下でも現在進行形であることを自殺者数が示しているのではないか。
三界に家なしと言われてきたこの国の女性たちに、避難所はあるのだろうか。
この小説では、主人公たちは東京に避難することを決めるが、そこが楽園であるわけではない。
都市の女性なら理不尽に抗議できたかどうかは、去年、バス停で休んでいるところを殺された女性が示すのではないか。

日本の社会っでいうのは、女の我慢を前提に回っでるもんでがす。それに、若い男の人が年寄りに遠慮して物が言えないのも前からそうでした。(p.332)

男の人がこの本を読んだら、どんな風に感じるのだろう。
ミソジニーな傾向の人、ホモソーシャルな社会が居心地のよい人が読んだら、くだらないと言うのだろうか。嘘っぱちだと言うのだろうか。自分たちを故意に貶めていると言うのだろうか。
それとも、お行儀のよい感想を言うのだろうか。

福子にも、遠乃にも、渚にも、#DontBeSilent のエールが届くといい。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、なかったことにされるではないか。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、こちらの不愉快さに気づいてもらえないではないか。
声を上げても怒鳴られ、声を上げても殴られ、声を上げても押し殺されてきた中で、声を上げることがどれほど大変か。

この世界に、まだ避難所すら持てないことをつきつけられているのだから。

2021.01.14

おうち性教育はじめます:一番やさしい!防犯・SEX・命の伝え方

フクチマミ 村瀬幸浩 2020 KADOKAWA

性に関わることは、口にし慣れている人と、し慣れていない人のギャップがとても大きいように思う。
性についての悩みもおうかがいすることがあったり、若い方に避妊や性暴力について話すことがあるため、私は仕事としては平気であれこれ口にする。
が、プライベートの文脈で、例えば、親と話し合えと言われたら、余計な羞恥心が刺激されることがないわけではない。
だからこそ、子どもにどのように性にまつわるいろんなことを教えるかという場面に立たされた時に戸惑うのも、それが大多数の反応ではないかと思ったりもする。

日本での「性教育」は高校の保健体育にゆだねられている。
しかし、性暴力や性虐待は小学生段階(場合によっては未就学の段階)から起きることを考えると、幼少時から教えてもらえるほうが子どものためだと思う。
その点、本書の3-10歳からの家庭での性教育を、まじめにきちんと取り上げているところが素晴らしい。
更に、性教育と言われると、すぐに避妊と性行為の話に勘違いされやすいのだが、そんな矮小なものではないことを教えてくれる内容になっている。

幼少時から家族が教えることがベスト。
そのためには、まずは親が性教育ってなにか、どういうことを教えていけばよいか、どうやって伝えればよいかを知らなくてはならない。
プライベートパーツの考え方、男性のからだの仕組み、女性のからだの仕組み、そして、性行動と避妊について。
口にするのも恥ずかしいとためらってきたことを、どんな言葉で伝えればよいか、その文例の一つ一つがあたたかくておだやかで素敵なメッセージになっている。

これらの知識は、男性も女性も等しく知っていてほしいこととして語られるところが、とてもいい。
生々しさの希薄なほのぼのとした絵柄のマンガだからこそ、家庭や職場でも堂々開きやすい本になっている。
小学生が読むには難しいところもあるかもしれないが、保護者が勉強した後、中学生ぐらいになった子どもが自分で読んでみるようになってもいいかもしれない。

この本の最後の章では、大人にこそ知っていてほしい性の知識について触れられている。
SOGIといった最近の概念も紹介しつつ、性をどのように考えればよいのか、大人が変わっていくための指針となる情報が詰め込まれている章だ。
その中で、性行為を、①子どもをつくるため、②共に楽しく生きるため、③支配するため、の3つに分類している。
AVなどの大人がフィクションとして楽しむために描かれるのは③が多いことと、従来の性教育が①にばかり注目しがちだったことを考えると、②の部分にあえてしっかりと触れてあるところに、この本の価値があるように思った。

2020.10.20

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野千鶴子・田房永子 2019 大和書房

経験を表現する言葉のメニューはできるだけ多いほうがいい。(中略)あらかじめ言葉を知らないことは表現できない。(中略)感情って言語化されないと経験にならないのよ。(p.147)

教育や読書がもたらすものであり、カウンセリングでしていることをすぱーんと気持ちよく表現してもらった。そういう一文に出会った本だ。

フェミニズムという言葉に対して、世代によって、反応が異なる。
その世代によって体験していることが違うことを明示するところから、この本はスタートする。
時代によって教育(社会+学校+家庭のすべての教育)が異なり、教育に反映されている社会の価値観が世代によって異なる。
そこが、対人援助職をしている私が社会学と近現代史を学ぶ必要を感じるポイントだ。
臨床心理学が個人の体験、個人の内側に問題の端緒を掘り下げようとするのに対して、社会学は個人を成り立たせている社会と時代の文脈を整理して理解しようとするものだ。その世代ごとの変化を、冒頭から簡潔に表で示している本だからこそ、同業者の人に手に取ってほしいと思いながら読んだ。
そこをわかっていないと、なぜ、団塊世代の女性が母親になった時に毒親という名称を与えられた存在になりがちなのか、ロスジェネ世代との桎梏が生じているのか、ロスジェネ世代が結婚率・出生率が低下しているのか、過剰に個人の体験、個人の責任に落とし込んでしまいかねない。

私は対談や対話形式で書かれているものはあまり得意ではないのだけれども、この本は上野千鶴子さんと田房永子さんという「親子ほどに」年齢の隔たる二人の対談を文字に起こしたものだ。
会話だからこその活き活きとして、活発な論の展開が軽快で読みやすく、横でおしゃべりを眺めているような気分になる。
素晴らしいのは、上野さんの問いかけ方だ。田房さんに立ち止まり、振り返り、新たな視点や考えを引き出すような、そういう問いかけを何度もなさっている。それに、褒めることも忘れない。
更に、上野さんは必ず論拠や引用もとを示す。上野さんは「学恩」という言葉でその流儀を表現していたが、誰がそのことを論じていたか、誰がその言葉を発明したか、上野さんの知識の深さや広さと誠実さに感銘を受けた。
さすが、長年、研究されてきた方であり、教育されてきた方だけあると思った。そういう上野さんと話すことがあるとしたらこんな感じなのかしら?という疑似体験をさせてもらった気分。

その上野さんが、田房さんとの対話で、断絶を何度か確認する場面も印象的だった。ほんとに知らないの?と確認しながら、ウーマンリブやフェミニズムの功績について語り、下の世代に語り継がれていないことに驚きを示す様子が、ひどく印象的だった。
私自身は田房さんより少し年上で、大学で学び機会もあったものだから、一緒になって、え?知らないの?と思う部分と、私も知らなかったという部分の両方があった。

Jene Roland Martinが『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』において、女性が受けてきた教育の変遷と、その変遷がもたらす世代ごとの分断を明らかにしている。
男女の平等化という名目のもとに、女性の教育の男性化がなされた1960年代、そこで優秀な成績をおさめたはずの女性たちがどういう人生を送ったかを示したBarbara A. Karrの『才女考』のインパクトも大きかった。
どちらも、私が90年代に読んだ本である。大学の授業で、フェミズムを学ぶ機会があり、上野千鶴子さんの著書にも触れた頃である。
フェミニズムといっても色々な考え方があり、Andrea Rita Dworkinの『インターコース:性的行為の政治学』はラジカルでスリリングで面白かったのだけど、この本を教科書にした講義での男性の友人たちの反発と不満の大きさに驚いたことも忘れられない。
その反発と不満は、田嶋陽子さんを嘲笑することでしか優位性を示せなかった人たちの反応に通底していたと、今も思う。

そういう90年代の空気を思い出させてくれる点で懐かしさもあったし、それ以前の学生運動の頃のリブ運動についてを教えてくれる本でもあったし、今になって語られるようになったミソジニーとホモソーシャルな社会という視点と、これからのことを考えさせてくれる本でもある。
男性にも女性にも、支援者にも当事者にも、読んでもらいたい本である。

ここからは、読後、何週間経っても忘れられないことを書こうと思う。
この本が問題だったのではなく、この本に書かれていた社会のこと、女性が受けてきた待遇を知ることで、たまらない気持ちになったのだ。

それは「上野さんがフェミニストになったワケ」という見出しのついた大学闘争についての話で、男性が女性を用途別使い分けをしてきたと指摘する部分だ。
米津知子さんの「(大学闘争で)自分はバリケードの中でメイクもせずラフな格好で男と一緒に闘っていたのに、その男たちの彼女になるのはお化粧して身ぎれいした女の子だった」という言葉から始まる。
これを読んだ時にぱっと思い出したのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』だ。第二次世界大戦に従軍したロシアの女性たちのインタビューであるが、まったく同じようなことが語られていたことを思い出した。まったく同じことを繰り返している。
一緒に闘う女性は「ゲバルト・ローザ」。恋人には都合のいい耐える女、待つ女である「救対(救援対策)の天使」。そして、もう一つの類型が、「慰安婦」もしくは「公衆便所」。

当時、性的にアクティブな女の子たちを、男たちは「公衆便所」って読んでいたのね。凄まじい侮蔑の言葉でしょ。同志の女につけこみながら、陰で笑い者にしてたの。(p.67)

この侮蔑的な表現に触れたことは初めてではないが、この文脈が私にはひどくこたえて、ひどく引きずることとなった。
旧来の伝統的な価値観に対する抵抗の運動をしていたはずの男性たちの振る舞いが、そのまま「家父長的なオヤジと同じふるまい」(p.66)であった。
「運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった」(p.67)という上野さんの言葉が、私の骨身に染みているものに響いたのだと思う。
打ちのめされるような重たい気分が、ずっと尾を引いている。私の気力を根こそぎ奪うような、恨みと諦めが入り混じった重たいものだ。かつては怒りであったが、いまはもうその力を持ち続けることも難しい。
一度は期待し、信じた分だけ、つらかっただろうと、思い描いてしまうのだ。

性的なアクティブさを獲得することは、女性にとって主体性の獲得のはずだった。その女性たちは、自分たちがより幸せに充足して生きられるようにあがいていたように思うのだ。けっして、背後で侮蔑されるために生きていたわけではないのに。
今なお、この侮蔑的な表現はネットの中で見かけることがあるものだし、表現は違っていたとしてもこのような類型化=使い分けをされているように感じることがある。いや、ゲバルト・ローザなんて、ほとんど望まれてもいなんじゃないかとすら感じることもある。
今現在を生きている若い女性たちのなかには、ただ幸せになりたい思いから、異性と知り合い、性交渉をすることで、結局は同じ道をたどっている人たちがいる。
彼女たちの顔が思い浮かんで、私はますます悲しくなったのだと思う。ただ幸せになりたいだけなのに。なんでこんな目にあわねばならないのか。

私の中にもミソジニーはある。それは間違いない。
上野さんは「自分の中にあるミソジニーと闘い続けてきた人をフェミニストと呼ぶ」(p.183)、「フェミニズムは女にとって、自分と和解するための闘いだ」(p.184)と定義する。
そして、「フェミニストは自己申告概念だから、そう名乗った人がフェミなのよ」(p.185)とも。
だとしたら、もう一度、腹が立つことには腹を立て、それは違うと言い続ける力を取り戻していきたい。

2020.06.02

ダイエット幻想:やせること、愛されること

磯野真穂 2019 ちくまプリマー文庫

ダイエットは幻想であると断罪する本ではない。
ダイエットという幻想に、いかに人が振り回されているか。
あるいは、人が幻想に我が身と生活を支配されるあまりに、世界と具体的に関わる方法を失う。
そんな事態を、ダイエットを例にして、解き明かす。

やせることと愛されることがいびつに絡み合ってしまったものが、摂食障害である。
著者が摂食障害について研究してきた集大成に位置づけられる本であり、深い理解を示す。
摂食障害で悩んでいる方や、摂食障害の治療にあたる方が読んで資することは間違いない。
摂食障害という疾患が、どういった文化背景に根差して症状として立ち現れてくるのか、治療者には必ず読んでほしい。
しかし、ダイエットというものは、日本人では当たり前に誰でもが口にする言葉であり、そこを切り口にして語られる文化についての本であるから、誰もが読んでみる甲斐があると思う。

著者は、この本は3つのパートから成っていると、終章で流れを要約している。私自身の言葉でまとめるよりも、これ以上にわかりやすい要約はないように思われるので、少し長くなるが引用したい。

ここまで私たちは、やせたいと思う気持ちは自分の外側からやってきて私たちの中に住み着いたものであり、その気持ちは承認欲求と分かちがたく結びついていること、ところが承認欲求に対し現代社会はあまりいい顔をせず、他人のことは気にせず、自分らしく生きている(ように見える)人を称賛すること、その結果、私たちは、承認欲求などなさそうな顔をしながら、一方でそれを満たすといった、矛盾したふるまいをせざるを得ないこと、この三つを第一章と第二章で共有しました。続く第三章から第五章では、女の子であることとやせたい気持ちの密接な関わりを示し、女の子でいようとすることが、女性同士の無益な争いと、終わることのない「やせ合戦」を生んでしまう危険性、そして、「選ばれる」女の子として生きようとするのではなく、大人の女性になる生き方を多くの人が選ぶことが「やせ合戦」を回避する処方薬になるだろうことを指摘しました。そして第六章から第八章においては、食べ物や身体を数字や栄養素といった概念に変換し、その知識に基づいて頭で食べようとすることで、刻々と変わりゆく世界に身体を織り込ませながら食べて生きるという、いのちを持つ生き物にとって必須の力が失われかねないことを警告しました。(pp.185-186)

私は、この1つめと2つめのパートからは「かわいいの呪い」を、3つめのパートからは「ふつうの呪い」を感じた。
かわいいの呪いとふつうの呪いの二つは、私自身の価値観や生き方にも影を落としているところはある。
自分なりに見つけたこの二つのキーワードの視点から、もう少し書いておきたいと思う。

1.かわいいの呪い

前半の第一章から五章は、可愛くあらねばならぬという呪いが、どれほど日本に行き渡り、強力に人を縛っているかを描く。
磯野さんは「『かわいいの呪い』の本質は、この言葉に女性が大人になることを妨げる力が潜むこと」(p.63)と指摘する。
「カワイイは正義」「カワイイは作れる」といった言葉で、可愛くあらねばならないと求められることはあまりにも日常的である。
少しでも愛される、好印象を持ってもらえるように、自分をプレゼンテーションすると思えば、それはそれで悪いものではないように感じていた。
ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるなら、やらない手はないと語る人も、身の回りにいた。
だから、この本を読むまで、それがよくあれかしのまじないであるばかりでなく、のろいの作用を有していることに気づいていなかった。

より小さく、より幼く、より弱々しく、より頼りなく、よりおばかな。
幼子のような無垢で無力で無邪気な存在であることで「愛される」存在であろうとする。
その戦略は、中年になっても「美魔女」などという表現で奨励されて、いつまで続けるべきなのか、不明である。
年齢相応であることが否定されて、年齢不相応が奨励されると、達成に多大なコストを必要とする。
そんな不自然を強行してしまうのは、「『かわいい』を捨てたら『愛されない』のではないかと不安になってしまう」(p.112)からだ。

その戦略はどこかでギブアップしないといけない。
もろもろのノイズが想像できるが、幼女からいきなり老女になるのではなく、その間に「おとな」になるイメージを持つ。
その年齢ごとの年齢相応である女性のイメージを育てること。かわいい以外の女性像のモデルを持つこと。(ここまで書いて、ぱっと思い浮かんだのは、『風の谷のナウシカ』のドーラで、私の理想像のひとつである)
自分がいつまでも若作りをしている痛々しい中年女、選ばれないことに不満たらたらの中年女にならないために。なにもできないままで、もはや誰にも助けてもらえない、老女にならないために。
他人の視線から「選ばれる」ことをめぐる争いから離脱することが、かわいいの呪いからの解放になる。

自分自身の「女性」というジェンダーが呪いのように感じている人、感じたことがある人には、ぜひとも読んでもらいたい文章である。
と同時に、女性に可愛さを求めることがなにを意味するのか、男性にも一緒に考えてもらいたい部分である。
女性は男性に選ばれるために存在しているわけではなく、女性もまた選ぶ権利と能力を持っている。
男性が選ばれる立場に立たされるときの、どうせ自分は選ばれないに違いないという痛みや憎しみは、かわいいの呪いの変奏曲のように思えてならない。

この本では、かわいいの呪いが他者から「選ばれる」ための呪いであることを説明するために、予防医学や差異化の欲望についても触れている。
このあたりの論の展開は、磯野真穂さん・宮野真生子さん『急に具合が悪くなる』とも通底しており、磯野さんらしさを感じて、非常に興味深く読んだ。

歴史的にふくよかであることよりも痩せていることのほうに価値を付与されるようになった背景に、20世紀後半以降の予防医学の台頭がある。
医学が、「目の前で苦しんでいる人を治療するという『いまここ』に着目する」ものから、苦しみの真っ最中ではない人々の身体にまで助言したり、生き方や生活の仕方に干渉するようになっていく。
病気を事前に予防できることは素晴らしいことであるかもしれないが、病気と健康の境目があいまいになり、病気になることは予防や管理のミスとして位置づけられかねないことになる。
「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)ことは、本書のなかではだからこそダイエットというものに日本全体がよいものという認識を持って、ダイエットに役立つとなれば無頓着に全肯定の振る舞いを示すことを説明する。
しかし、読み手である私は、Covid-19流行の外出自粛期間中に読んだからこそ、違う意味を見出した。そのことは、後でもう一回、触れたいと思う。

また、「差異化の欲望」というのは、「隣にいる人より、あるいは過去の自分よりもちょっとだけ優れていたいという、私たちの心の奥底にある欲望」(p.86)である。
自分自身の達成の欲求を満たすことができるが、承認や親和の欲求と結びついて、選ばれるためにより魅力的に、つまりここでは、よりかわいく、より痩せていることに、人を駆り立てるものの一つとして登場する。
この差異化の欲望を、私がよく見かけるのは、摂食障害の方にとどまらない。それはSNSのなかでもよくあることであるし、なんといっても、オンラインゲームの世界では、まさにそれ。そればっかり。
ほんの少しでも早い記録や、ほんの少しでも新しい装備や、ほんの少しでも強い武器、あるいは、ほんの少しでも魅力的な”相方”…といった様々なところで、人は競い合う。自慢しあう。時には、罵倒しあう。お金をかけたり、時間をかけたりして、現実がおろそかになる人も出てきてしまうほどに。
この数年、オンラインゲームの中で見てきた様々な問題を一言で説明してしまうような、すごいキーワードと出会ってしまったと思った。

2.ふつうの呪い

人は「ふつう」であることに捉われやすい。
ふつうであれ。これが呪いとして働くことは、同調圧力を考えてもらえば、その息苦しさが呪いであることが伝わるのではないか。
ふつうであれ、ということは、ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるまじないのように用いられることも多い。かわいいの呪いとまったく同じである。
だが、ふつうとは何であろうか?

摂食障害では、「ふつうに食べる」ことが難しくなる。
糖質制限ダイエットの根拠が薄いことを解説した上で、磯野さんは、ダイエット方法を選ぶときの「強烈なタブー、変身の物語、カリスマのいるダイエット」の3つの注意点を列挙する。
強烈なタブーは見るなの禁止令が示す通り、禁じられたものにこそ人の意識は向けられるので、そのタブーを破りやすくなる。「食べるな」というタブーは、食べることを考え続けることにほかならない。
変身は差異化の強烈なものであるし、たった一つの取り組みで人生がすべてうまくいくような魔法はありはしない。すがりつきたい、だまされたい気持ちはわかるとはいえ。
そして、カリスマの指示を仰がなければ何もできない状態になることは、無責任で思考放棄して楽な面もあるかもしれないが、「いい食べ物と悪い食べ物の境界を引いているのは人間であって現実の世界にそのような境界が引かれているわけでは」(p.160)ない。

ダイエットをするにしても、現実的な世界との関わりを失わずに行っていかなければならない。
なぜならば、「『ふつう』は『ふつう』の構造を意識させ、それを感覚的に行うことを禁ずることで意外と簡単に崩すことができる」(p.166)からだ。
これはとても怖い指摘であるが、本当にその通りだとしか言いようがない。
磯野さんはスポーツ選手を例に挙げるが、摂食障害の方たちにとっても、「ふつうに食べる」のふつうがわからなくて苦労することが極めて多い。
どれぐらいの量がふつうなのか、なにを食べることがふつうなのか、どういう食べ方がふつうなのか。
ふつうを意識した時から、ふつうは難しくなる。
あなたに「今からピンクの象を思い浮かべないでくださいね。絶対、思い浮かべたらだめですよ。ピンクの象は思い浮かべたらいけないんです!」とタブーを設けた瞬間から、頭にピンクの象が浮かんでしまうようなものだ。
ふつうを意識した時から、ぎこちなくなる。不鮮明になってしまうのだ。

磯野さんは、かわいいの呪いに対しても処方箋を提示したように、ふつうの呪いに対しても処方箋を示そうとする。
それは、「ふつうに食べられることは、無限定空間で生きられること」(p.172)という題に集約されるであろう。
現実の世界というものは、なにが起こるかわからない。こうなればこうなる、ああすればああなると規則性があるよう、その変数と規則は無限である。だから、こうだけすればよいというたった一つの規則や、あれさえあればいいというたった一つの変数だけで、コントロールすることはできない。
「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではない」(pp.172-173)のだ。
もっと平たく言えば、「そこに『おいしさ』はあるか」(p.132)ということ。世界の彩を感じながら食を楽しむことができたら、それはきっとふつうに食べられている。

ふつうに食べられる力の回復は、世界と具体的にかかわり合って生きているという感覚の回復とも言い換えることができる(p.182)

3.感染症流行と数字に束ねられる存在

ここまで、かわいいの呪いとふつうの呪いの二つを、この本を読み解くキーワードとして述べてきた。
だが、この本を私が読んだのは、Covid-19の流行に伴い、外出の自粛を促される「ふつうではない」状況下であった。抗がん剤治療中というハイリスクな体調であったから、この自粛を私は強く内面化していたと思う。
このCovid-19流行下の体験(以下、「コロナの体験」)を、この本から眺めてみたい。

コロナの体験は、「ふつう」を失う体験だったと思う。
それまでの「ふつう」は無限定空間で生きることだった。それが、家の中という「限定空間」に押し込められる体験となった。
家のなかでの生活も、厳密にいえば、日々刻々と変化する無限定なものであるが、活動範囲は禁止令によって限定されていたことが、ふつうではない体験となっていたように思う。
世界と身体の関わりの喪失であり、主観的な体験の喪失であり、社会という集団の中で具体的に生きる力を発揮する機会の喪失であった。
世界と身体の関わりは、物理的に外出を自粛するという意味でも断たれたが、世界のどこに病原菌があるかわからないという意味ですべてが有害でありうるという不信感においても断たれた。
目の前の物質の影響に注意を注ぐために、自分の感情や感覚を封印していくような対処方法も見られた。

コロナの体験下において、人々が食に注目したのは、生存のためだけではない。食品の買いだめが最初に起きた、そのことは生存のためであったかもしれないが、その後にこんな時でないと作ってみることはなかったというような様々な調理が流行した。蘇は最たるものである。
室内でデジタルな視聴覚情報だけが充満する中で、食は、味覚や嗅覚、触覚といった様々な感覚への刺激となる。
食材の多くは家の外部からもたらされるものであり、新奇さや変化を体験することができ、作った食べたという話題は外部とつながる話題となる。
集団や世界との交流を取り戻す糸口となっていたのだと思う。

引きこもり生活が長くなるにつれて、フードロスや在庫ロスの解消のための掲示板が登場した。そこでも私自身が食品を買い物した。
「購買意欲を誘うのは商品に付与された物語」(p.88)と看破されている通りで、そこに添えられた人々の苦労話に私は弱く、あっちにふらふら、こっちにふらふらと引かれてしまった。
そういった苦難にあっている人にささやかな支援を届けることで、自分が救世主に変貌するかのような変身の物語を期待したわけではないが、そこに生じるわずかな会話に、私はとても引き付けられたのだと思う。
そんな風に、私自身、世界と関わる機会に飢えていたのだと、今は思う。

「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)という個所を、先に引用した。
このことは、健康管理の一環としてダイエットが推進されてきたことに関連して言及されているが、『急に具合が悪くなる』ではがんとの関係で語られていた。
この病気の自己責任論は、今回の感染症の流行でも、しばしば、噴き出しているように思う。
「そんなところに行くからだ」とか「ちゃんとマスクをしないからだ」といった言説がそのものだ。
うかつな行動はなるべく控えたほうがいいとはいえ、病気に感染することは個人の努力だけでは避けえない事態である。道徳的な善悪で断じられることではない。
しかし、自己責任論は、病気の感染に道徳的な判断を導入するところが、先験的に間違いである。そう、間違いだ。

病気は職業も人種も知名度も関係なく襲うが、日本でコロナで死ぬということが我が身にも起こりうる身近なものとして認識される契機となったのは、芸能人の死だったように思う。
しかし、それより前から、世界のあちらこちらから1日に何人の人が感染し、何人の人が亡くなったというニュースが届いていた。
なぜだか、私にはイタリアのニュースが特に胸にこたえた。
ある日の1日の死者が500人を超えていたり、800人を超えていたり。それより多くの死者が出た日があり、国があろうとは思う。
その一人一人に人生があり、人間関係がある。その一人一人と芸能人は、どちらも私には等しく他人であり、見知らぬ誰かがすでにもう亡くなっていることに、無関心でいられる人の多さが、これまた胸が痛かった。

この時にTwitterでフォロワーさんとした会話は、その後に、この本で読んだでピダハンと呼ばれる人たちのことと結びついた。
アマゾンに住み、数字の概念も、色の概念も持たない人々。
彼らは抽象的な概念で多様性をそぎ落とすことをせずに、一つずつをとことん具象として具体として認識しているのだという。
彼らを例にして、磯野さんは数には管理という役割があり、世界の彩を消す脱文脈化の機能があることを指摘する。
となれば、私のしている心理援助職という職業は、個を数に置き換えずに個として向き合う仕事である。個別性や具体性、多様性や曖昧性、抽象性や複雑性を、分類したり消去したりせずに、文脈を取り戻し、個と世界との関わりを修復するような、そんな営みであると言えるのではないだろうか。
ピダハンのように世界のなかで生きることは、とんでもない記憶力を要求されるのであるが、そんな風に、なにもそぎ落とすことなく、その人をその人としてしか分類することも意味付けすることもなく、出会っていけたらよいなぁと思った。

人との出会い、関係性について、磯野さんは最後にラインという考えを提示する。
点ではなく、ライン。
この考え方は『急に具合が悪くなる』にも出てくるが、本書のほうがよりわかりやすく解説してあったように思う。
ほぼ同時期に出版されたこの2冊は、相補的な読み方ができるため、あわせて読むことが望ましいと聞いた通りだった。
『急に具合が悪くなる』ががんという死に至ることもある病を通じて生きることを照射した本であったのに対して、『ダイエット幻想』は愛されるという受動的な評価のためやせなければならないと能動的に献身して破綻する摂食障害を例にしながら生きることを照射する。
どちらも、生きる実感と希望を紡ぐ本である。

2019.05.17

アスピーガールの心と体を守る性のルール

デビ・ブラウン 2017 東洋館出版社

対人関係に苦慮しやすい発達障害傾向のある少女たちのために書かれた本だ。
アスペルガーの少女という意味の、アスピーガールという可愛らしい呼び方にこだわらず、お付き合いがうまくいかない、お付き合いというものがまだよくわからない、という人たちに読んでもらいたい。
これは性のハウツー本ではなく、人付き合いのためのハウツー本だから。
きっと、必要としている人は多いと思う。

文字を読むと疲れてくるという人なら、目次を見て、気になったところだけでも読んでほしい。
できれば、男の子たちにも知っていてもらいたい。
大人の人たちも、彼らがどんなことで困りやすいか、どんなアドバイスが役立つのか、知ってもらいたい。
望まないセックスから身を守る。当たり前のことをわかりやすく、優しくて気さくな言葉で書いた、とっても素敵で、素晴らしい本だ。

表紙も可愛らしくていいなぁ、と思った。
性という一文字に過剰に反応してしまう人もいるとは思うけれども、もし見かけたら、恥ずかしがらずに手に取ってもらいたい。
ちっとも、恥ずかしいものじゃないのだから。
あったかくてまっすぐな、応援の言葉に触れてほしいなぁ。

2018.11.05

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

小川たまか 2018 タバブックス

2016年から2018年にかけて。
私が意識してTwitterから見える社会を見ようとしてきた時期と、ちょうど重なる。
もしかしたら、著者の人と同じツイートを読んだりしてきたのかもしれないし、知らず知らずのうちに著者の記事を読んでいたこともあった。

この2年。たった2年であるが、目次に時系列に並べられたトピックを見ると、もっとはるかに時間が経ってしまっているような気がする話題もある。
どれだけの情報に、自分は押し流され、押しつぶされているのだろう。

性暴力はある。とても身近なところにある。
性差別もある。毎日のように押し付けたり、押しけられたりしている。
感じている人は気づいているけど、気づいていない人は感じもしない。
そんな風に「ほとんどない」ことにされているのが、性と関わるいくつもの問題なのだ。

私にとっては問題であるけれど、そんなことで…と問題にされないことが多い様々な日々の話題を、信頼できる友人と話すような気分で読んだ。
そこに引っかかる自分の感性をおかしいと思わずに済む。ここにも、ひとり、感じている人がいることがいることに、ほっとする。
考えや体験がまるきり同じなわけがないけれど、ほとんどないことにされやすいけど、やっぱりあるんだよね。
あるけど、ほとんどないことにされたりするんだよね。
その失望感や絶望感が、やっぱりねという再確認と共に、読後、ずっしりと襲ってきた。

女だというだけで、どれだけ、なかったことにされないといけないのだろう。
このこころは。

その溝を確めるために、是非とも読んでもらいたい本だ。

2018.10.13

性の多様性ってなんだろう? 

渡辺大補 2018 平凡社

中学生ぐらいの人に向けて書かれた本だ。
筆者が若い人と語り合うような構成になっている。
とても読みやすく、若い人が性について戸惑い、悩むときに、支えになるような一冊である。

性は、身体の性別やDNAのタイプ、性自認、性役割、性志向など、多次元の概念から構成されている。
丁寧に考えていくと、人というものは人それぞれであることにたどりつく。
多様性であることを肯定していく語り手の言葉は読み進めるほど、安心感を持った。
誰かが性のことを悩むとき、問題は悩ませている社会であり、システムであり、その社会を作っている大人たちの責任であると、きちんと指摘しているところがいい。

この本に無関係な人はいない。性に関心がない人も、性を有している。
性的な視線にさらされているかもしているし、無意識のうちに性役割や文化を受け取っている。
だから、性を語ることは、すべての人について語ることになる。
この本を、LGBTの理解するための本と紹介するのはもったいないと思った。
すべての人が、自分は自分、これでいいんだと思えたら、少しだけ楽になれる。

男性と女性が結婚して、二人ぐらい子どもを持つことが当たり前だと思っている人たちがいある。
それが「普通だから」と思考停止している人に、それって本当?と確めたい。
これは、大人に読んでほしい本だなぁ。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2017.10.27

Black Box

伊藤詩織 2017 文藝春秋

記者会見の場での彼女を見て、私は凛々しいと思った。
その勇気を称賛したいと思った。

「そこに血を残しなさい」

筆者がアメリカ留学中にホストマザーから受けた教えに、ぞっとした。
私が四半世紀前に読んだスーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』(JICC出版局 1990)には、不正確な記憶であるかもしれないが、被害者が抵抗した証拠がなければ性交渉は合意と見なされることがしたためてあった。
銃で脅されていたとしても被害者が怪我をしておらず出血していなければ合意と見なされる理不尽さを訴える本だった。
あの時のうちのめされるような憤りと慄きが蘇った。
ぴたりと重なったと思った。

本書の内容には、大きく3つの要素がある。
ひとつめは、被害者がどのようにして被害に遭遇するか。
ふたつめは、被害状況直後からどのような症状や状態が出現するか。
みっつめは、被害者が必要なサポートにいかにつながりにくいか。
この三点を、被害者自身のまだ真新しい記憶に基づいて、体験を記述しているところで、広く読まれてほしい本である。
被害者の受けた傷がどれほど深刻で、後々までいかにダメージを与え続けるものであるか、これが一般常識になるように参考してもらいたい。
被害者が必要なサポートにつながりにくいところは、医療や司法の方はもちろん、自衛のために、知っておいてもらいたい部分である。

筆者のレイプの状況は、残念だがこういうことは女性に起こりうるものとして読んだ。
状況をこうして文章として再現することも、苦痛を伴う作業だったと思う。
何度、言葉にしたからといって、自分の中のその記憶を刺激するたびに、フラッシュバックも起きやすくなったことだろう。
勘違いしてならないのは、フラッシュバックというのは、ただ単に想起することではない。
あたかもその場その時に戻ったかのように、五感や感情のすべてで過去の体験を再体験することだ。
その時の恐怖心や不快感も丸のまま、ありありと蘇ってくる。直後で、おそらく未治療で、未回復であるなら、その苦痛はどれほどであるだろう。
その苦痛を耐えながら書かれた本だ。

被害者が恥ずかしいと思わなければならないことが間違っている。
性暴力被害にまつわる間違った言説は世の中にあふれている。
被害者が誘ったのではないか。被害者にはめられたのではないか。被害者が魅力的なことが悪い。
被害者も快感を感じたのではないか。女性は暴力的に扱われることを待ち望んでいるのではないか。してやったのだからありがたいと思え。
と、加害者に同情的で、被害者をかえって責めるような言葉はよく聞かれる。
そのうえで、「傷物になった」という言い方で、被害者の尊厳が永久に傷つけられたことを社会として承認し、被害者は傷つけられた者として恥じながら生きることを求められる。

正しい被害者像を演じなければ、同情すらしてもらえない。そんなおかしいことはない。
なぜなら、まじめでおとなしい、清楚で内気、そんな女性像こそ、「狙われやすい」対象だからである。
意地悪な言い方をすれば、性的に誘惑的ではない印象を与える被害者像を演じることによって、もっとも性被害にあいやすい女性として性的に誘惑させられることになる。
その点、同情しろというメッセージを発するのではなく、おかしいことはおかしいと声を上げる筆者の姿に、感銘を受け、称賛したいと思った。

筆者を含めた被害者が、二次的、三次的に、それ以上、傷つけられることのないように祈りたい。
筆者を含めた被害者の傷が、その傷跡は心の中で消えなくとも、生々しさが薄れて抱えやすいものとなるように祈りたい。
なによりも、このような被害を受ける人が減ることを、強く強く願いたい。

Here is something you can do.

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