彩瀬まる 2012 新潮社
本当に、人の数だけ、あの震災の時に目にしたものは違うのだ。(p.114)
あの日、その場にいた人の数だけ体験があり思考があり記憶ある。
しかし、それを言葉に記すことができる人は少ない。
偶然にもその場を旅行していた若い女性の小説家によるルポルタージュだ。
3月11日に常磐線で移動中に被災し、からがら高台に逃げる。
その夜の記憶の生々しさ。続く、数日。
埼玉に一旦は戻ってからも、体力は回復せず、不安と罪悪感に駆られる。
そして、著者は再び、福島に入る。
私がある程度の放射線に鈍感でいられるのは、私が既に子を生み育てる可能性を持っていないからだ。
私の親戚を見渡せば、がん患者だらけの家系だ。その自分ががんになる危険性が高まっても、ええやないか。なることには変わりがない。
人間がばら撒いたものなのだ。その利益も享受してきた。ならば、自分の体で回収するぐらいしてもいいぞと腹を据えている。
私自身はそう思うが、まだ若く、これから次世代を生み育てる可能性を持っていたり、今現に子育てに携わっている人には、過剰なほどに注意深くあってほしいと願っている。
だから、作者がたまねぎを目の前にしたときのためらいを肯定的に受け止めたい。それを正直に文章に書き込んだ勇気に好感を持つ。
なにしろ、確かなことが少ない。
チェルノブイリからようやく25年。報告書が出たと聞いても、英語だからと見送った。
知らないことも多すぎるが、わからないことも多すぎる。科学は万能ではないことぐらい、よくわかっているはず。
わかっているから、不安になるのは仕方がないんだよなぁ。思考停止しそうなぐらいの不安がこみ上げてくるのだって、自然な反応なのだよなぁ。同時に、ある程度は鈍感に思考停止しておかないと、そこで生きていけないほどに不安になるものだろう。
スリーマイルとは規模が違う。でも、広島と長崎で、人は生きてきた。それはよすがになるのだろうか。よすがにすることができれば、それは広島と長崎を経た人にとっても、希望に繋ぎなおすことができる。
この目に見えぬものへの不安感を抱えて生きていくためのおとしどころを、私はまだ模索している最中だ。
何度も泣きそうになりながら読んだ。というか、涙がにじむ。
こんな記録から目をそむけようとする人もいるだろう。それを責めはしない。
しかし。
私は弱く脆い。だとしても、鋭敏でありたいと願っている。
目を閉じて、目を伏せて、目を避けていたくなるようなものにも、敢えて目を向けていたい。
ざらざらと削られ、えぐられ、傷つくような思いをしても、自分の敏感さを保っておきたい。
研ぎ澄ましておくこと。張り詰めておくこと。磨き上げておくこと。それが私の道具であるから。
大丈夫。だからといって、決して倒れないし、潰れないし、壊れてしまわないよ。
*****
ここからは、自分の記憶を書き残しておきたいと思う。
その日のことは忘れられない。
婦人科の待合室に置かれたテレビ画面を、最初は誰も気づかずに通り過ぎていた。
これはただごとじゃないのに?
わざと声を上げてみた。
看護師さんが振り向く。臨席で座って待っていたカップルが目を上げる。
「震度7だって!」誰かが声を上げる。
診察が終わった後、職場に戻らず、帰宅させてもらった。私はテレビの前から離れられなくなった。
東北に知り合いは少ないが、関東には比較的多い。
メールやSNS、ネットゲームを通じて、知り合いの安否を確認していった。
青森や岩手の人と連絡がつくまでは3日ぐらいを要したと記憶している。仙台の知人の安否を知るにはもっと時間がかかった。
安否の確認の次には、遠隔地に住む自分に何ができるかを考えた。
情報の空洞化が起きることは、阪神淡路の記録を読んで知っている。
必要な情報で私に提供できることはと言えば、異常な事態に対する自然な反応として不安が高まりやすいことを周知すること。
ネット上でDLできる災害時の心理的ケアのリーフレットを探した。後になっては、原発関係の情報も探した。見つけた情報はいくつかの方法で配布した。
チェルノブイリの事故を調べた知識から、福島原発の第一報を聞いたときから、メルトダウンしないわけがないと危惧していた。
生命の危機がある状態では心理的なケアどころではない。
3月11日の時点で、生命の直接的な危険は少ないが大きな不安に駆られており、心理的な支援を必要としていたのは、津波に襲われはしなかったが、震度5や6の揺れを感じた関東から北関東の人たちだった。
その後、不安は地震に対するものから原発に対するものへとゆるやかにシフトしていった。長引く不安を、私の関われる範囲ではあるが、抱える、支えるよう、心がけたつもりである。
ささやかなメッセージやつぶやきの交換でどれほどのことができたかは心もとないが、しかし、いくらかは役に立てたと思いたい。
また、地震の当日から直後に情報提供を心がけたのは、義援金の寄付先の案内であった。
日赤に対する寄付の使い道について、阪神淡路のときは後から批判が大きかった。それでも、真っ先に飛び込んでいく力を持つのは日赤である。地震直後は日赤のHPもアクセス可能だったが、その日の22時か23時頃にはダウンしていたと思う。
そのほか、自分がどのような活動を支援をしたいかを定めてから寄付をするべきだと考え、いくつかの信頼できる団体を紹介したり、寄付の方法を紹介した。手持ちの現金が少なくても、ポイントカードのポイントを寄付する方法だってある。
被災しなかった人は自分だけが無事であるという罪悪感があり、なにか自分でもできることを見つけることが、少しでも心穏やかになるために役立った。
簡単ではあるが、これが、私の、あの日とそこから続く一週間ほどの記録である。
だが、私にとっては悪いことばかりではなかった。
あの日々があって、やっと出会えた人がいてくれたから。
人々にとって、悪いだけの思い出にならぬよう祈っている。
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