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**趣味の歴史・政治**

2017.12.01

日本の近代とは何であったか:問題史的考察

三谷太一郎 2017 岩波新書

選挙前に読み終えたかったが、時間がかかってしまった。

政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制の四つの観点から描かれており、明治以降の日本の歩んできた道が有機的に絡み合っている。
それぞれの観点ごとに、順を追って語られるため、慣れない分野であっても理解しやすく、また、わかりやすい説明となっていた。

著者が50年の研究生活の成果として、日本の近代についての総論となるように企図して書かれたものだ。
ヨーロッパの近代化について研究していたバジョットの研究に基づき、ヨーロッパ的な近代を目指しつつもヨーロッパにはない日本の問題を俯瞰する。
著者の長い研究のキャリアの成果を惜しみなく分け与えてもらった感じがする。
手に取りやすい新書であることもありがたい。

日本の近代の全体像を追いかけていくことで、現代の状況をはたと考えさせられる。
なかでも、天皇制の位置づけの章で教育勅語の成立過程が出てくる。
明治国憲法は天皇の超立憲君主的性格を明確になしえていなかったのに対し、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示するものだった。
この流れを切り離して、教育勅語の中身はいいからと現在の教育の教材に安易に持ち込んでくることは、前近代からの揺り返しであることがはっきりとわかる。
少なくとも、現政権の人々が天皇の意志を尊重しないことから、その存在を尊重していないことがうかがえる以上、そこで成立せしめようとする神聖不可侵なものの得体は知られず、いかがわしいこともわかる。

近代化は、それに伴って固定された「慣習の支配」によって抑えられてきた前近代の深層に伏在する情動を噴出させます。それは議論を許さず、ひたすら迅速な行動へと駆り立てる原始社会への突然の回帰です。バジョットはこれを「先祖帰り」(atavism)と呼びました。(pp25-26)

今、日本は先祖帰りを起こそうとしているのではないか。
その危険性は常に社会は有している。
警句に満ちた、とても現実的な一冊だった。
現代の日本がどうやって成立してきたかを学ぶときに、真っ先に選ぶことを勧めたい。

これぐらいのことは常識として学んでおくべきであると貸してくれた父を、改めて尊敬した。

2017.04.24

憲法という希望

木村草太 2016 新潮社新書

国家の三大失敗は、「無謀な戦争」、「人権侵害」、「権力の独裁」である。
このように、著者の説明は、非常に簡潔でわかりやすい。
憲法は、「ごく簡単に言えば、過去に国家がしでかしてきた失敗のリスト」(P.25)である。
その失敗を繰り返さないために、憲法は軍事統制(第2章)、人権保障(第3章)、権力分立(第4-6章)を三つの柱にしている。
指摘されるまでもなく、世界を見渡せば、これらが保障されている生活は意外と当たり前ではない。
当たり前のように生活しているけれども、日本だって、この憲法が制定されて、まだ100年と経っていないのである。

著者は政府を批判する時には、憲法が示す国家がやりがちな失敗を参照しながら、具体的に根拠と対案を述べることを勧めている。
そのような考え方をする例として挙げられているのが、夫婦別姓と沖縄の基地問題である。
前者は人権条項を使いこなすことであり、後者は地方自治は有名無実化されかねないことの議論となる。
どちらの議論も、著者の言葉には説得力がある。直感や情緒に頼らず、同情票を集めるのではなく、差別感情を煽るのでもない。
理詰めの論の展開には納得がいく上に、私のような法についてのど素人にもわかりやすい平易な文章だった。
沖縄と基地の問題を、自分なりに咀嚼する大きな一助となった。

私は、恥ずかしいことではあるが、漫然と、日本という全体のためには、地方が我慢するのも仕方ないのではないかと思ってしまっていた。
一部の沖縄バッシングに眉をひそめたり、過剰すぎるがゆえに違和感を感じたとしても、何がどう問題であるのか、よくわからないままでいた。
本書には、日本政府がいかに手抜きをしてことを進めようとしているか、その過程についての反論が「木村理論」として三段階で示されている。
第一に国政の重要事項は国会が法律で定めなければならない(憲法41条「立法」)、第二に自治体の自治権をどのような範囲で制限するのかを法律で定めなければならない(憲法92条「地方自治の本旨」)、第三に特定の地方公共団体だけに適用される法律はその住民の同意がなければ制定できない(憲法95条「住民の投票」)ことの三段階である。

法律がなくとも何事も閣議決定という形で、すべて内閣で決めればよいという、現在の内閣の問題点がくっきりと浮かびあがる。
基地の有無の問題ではなく、地方自治が守られるかどうかの観点で見ると、政府が決めたから文句を言わせないという前例を作らせることが、恐ろしいことがわかる。
著者は「辺野古に米軍基地を設置する根拠法が本当にないのだ、ということにぞっとした」(p.105)というが、私はこのことに対する国の答弁や反論のかみ合わなさに寒気がした。
かみ合わなくてもごり押しする。相手が納得しようがしまいがかまわない。やりたいと思ったことをやる。そんな姿勢が透けて見えるようで、寒気がした。

私は改憲には反対である。
原則を変えてよいのは、ほかにあらゆる手段を講じてもなお、問題解決が図れなかった時だけであると考えるからだ。
原則を安易に変えてはならない。少なくとも、原則を変えなければならないほどの要請があると、私は感じていないからである。
ましてや、失敗の歴史をなかったことにするかのような、懐古主義的な復興主義のに追従するつもりはまったくない。
そう考えてはきたが、この数年、改憲へ向けて流れが向かっているような危機感を感じてならない。
その流れに、感覚的や情緒的ではなく、理論的に、かつ現実的に、自分が反対表明を示す論拠がほしいと思うようになった。
それが、私が改めて、憲法というものについて学びたいと思ったきっかけである。
「憲法は『よりよい社会にしたい』という国民一人ひとりの希望から形作られるもの」(p.114)であり、権力者に憲法を守らせるように見張るのは国民一人ひとりだ。
「憲法は日々を生きる私たちの味方」(p.114)であるのと同時に、私もまた憲法の味方でいたいと思った。

どうか、一人でも多くの方に、憲法という希望を守ってもらいたい。自由を守ってもらいたい。自分と自分の大切な人、その未来のために。

2017.02.28

余命三年時事日記 1

余命プロジェクトチーム 2016 青林堂

途中で、読むのがしんどくなった。
あわないものはあわないので、しょうがない。

中道でいたい。と思うので、右のほうも、左のほうも、目配りしておきたいと思っている。
この数年、戦後の記憶の根強い世代の韓国嫌いに対して、悪い人ばかりじゃないよ、メディアでとりあげられる人が偏っているんだと思うよ、反韓意識を煽りたい人もいるんだと思うよと言い続けて疲れてしまった。
韓国や中国の中での反日の言動の数々の報道には、私も腹が立つこともあるし、とりなすのが疲れてばかばかしく感じるようになった。
もう仲良くしようとしなくてもいいんじゃないかという気持になったり、皮肉な、あるいは攻撃的な言説を選ぶようになったり。
これが韓国疲労病ってやつかもしれない。
ところが、元来、天邪鬼なたちなので、自分の右に傾きすぎていた秤を、とんとんと、方向修正したくなってきた。
この本の内容が内容であるだけに、どうもこういう言い訳をしてからじゃないと、感想を述べづらい。

この本はブログを編集したものだそうだ。
ブログの書籍化とは難しいなぁと思う。
余命三年と告知されてからブログを書き始めたのだそうだ。
このブログ、初代と呼ばれる最初に書き始めた方は既に亡くなっているという。
その後を引き継いでいるのがプロジェクトチームになるのだろうが、文章の校正をするときに、書き直しづらかったこともあるのかなぁ。
ところどころ、文章の読みづらさや前後の齟齬、時制の違和感などがあるのは仕方がない。
一般人向けにマイルドな内容をピックアップして本にしたそうであるが、内容というよりも、話の流れで、読み手はわかっているものとして書かれている部分の意味がよくわからなくてついていけないこともあった。

また、現状ではなく、数年前の状況に即して書かれている部分も散見された。
にも関わらず、国内国外の政治についての分析については、なるほど、そういう見方もあるのか、と、興味深い。
全体を通じて、部分部分では納得もするし、同意するところもある。
この文脈を理解しておくと、日々のニュースが違った意味合いを持つものに見えてくるのは面白い。
この面白さが、秘密を共有しているような、自分が理解できる「選ばれた人間」になったかのような喜びを読み手に与える魅力になるのだろう。

しかし、在日韓国人について問題を掘り下げるにしたがって、私の中で違和感が増していった。
読んでいて、どうしても、私の友人知人がちらつく。
彼らは在日韓国人であるが、勤勉に就労している人たちであり、むしろ普通の人たちであって、彼らを含んで在日韓国人と一括されると嫌なのだ。
生活保護受給者ではないので不正受給者ではありえないし、ヤクザでもないぞーって。
私は楽観的ではないので、読み手の日本人がすべて現実的に判断可能でありかつ良識的に行動可能であると信じないため、通報を呼びかけるくだりになると、違和感が拒否感になった。
通報の勧めは、監視と密告の社会の勧めである。どこの社会主義国だよ・・・と思うと、気持ち悪く、それ以上、読み進めることが苦行となった。

一括処理は運動の基本である。
複雑性や多様性は、スローガンのインパクトを弱めるからだ。
わかりやすい一言にまとめること、運動には不可欠なのだ。例としては、選挙をあげることができる。日本のではなくて、アメリカ大統領選がわかりやすい。
わかりやすさで、クリントン氏はトランプ氏に及ばなかったのだと思う。
だが、一括処理することの乱暴さが、私は苦手なのだ。数々の例外がとりこぼされることで、現実から遊離したものになりはててしまう危険性も無視して、ごり押しするのだもの。
右に行き過ぎても、左に行き過ぎても、そうではない他者を切り捨てるところが、どっちに転んでもファシズムだ。
ファシズムはどうしても私のしょうにあわない。あわないものはあわないのだから、しょうがない。

こうして見てみると、日本の左右というのもよくわからないものだなぁ。
詳細に論じる気力がわかないが、ねじれがいっぱいあることを再確認した。
私が愛するのは自由と平和である。寛容と共存を尊び、公正と敬意を心がけたい。
私には私がまだわからぬことがあることと、私の心が感じ取ることを、大事にしておこう。

2017.02.02

日本会議の研究

菅野 完 2016 扶桑社新書

読み終えて、溜息ひとつ。
読んでよかったがなんとも気が重い。
気が重いが、これが現状なのだろう。
これを現状だと思うと、腑に落ちる。
この気の重たい内容は、実際に読んでいただきたい。

2017年1月6日。ベストセラーが出版差し止めというニュースに驚いた。
この判決はなかなか出るものではないと思っていた。
現に、ニュースの見出しには、過去の判例無視という表現さえ踊った。
ただし、事実ではないと裁判所が削除修正を求めているのは、訴えられた6箇所のうちの1箇所のみ。
著者と出版社を応援するつもりで、慌てて購入を試みた本だ。
その場でKindle版をダウンロードし、後日、書店で現物を購入した。
その後、扶桑社と著者は、該当箇所を黒塗りにして出版を続けている。
裁判を起こした方には起こした方の事情があるのだろうが、私はこの本を読んでよかったと思う。

私は、美しいという価値観を振りかざすスローガンが気持ち悪い。
美とは直観的に理解するものであり、理性で議論する範疇を超えている。
美は、なんとなくの共感であり、説明がつかない次元に立脚することである。
美による統治は、知性的な分析や反省、理性的な対話や理解を封じてしまう。
言い訳のつかぬことを押し通し、言い返すことを許さない価値観が美である。
だから、美しいを連呼し、押し付けられることが、とても気持ち悪い。
この気持ち悪さの理由が、この本で明らかになったと思う。

日本会議という寄り合い所帯をまとめる紐帯となるのは、君が代であるとか、日の丸であるとか、ぼんやりとしたなにか保守的なもの、伝統的(と思われやすい)もの、であるようだ。
ウンベルト・エーコが、『永遠のファシズム』で「ファジーなファシズム」という言い方をしていたことを思い出す。
その日本会議という形で政治を動かす得票を集める人たちは、特定の宗教と密接に関係している。
そして、話は私の生まれる前にまでさかのぼる。

60年と70年の安保。その学生運動の時、大学生だった人たちも70代だ。
それから時は流れた。それだけの時が流れた。
にもかかわらず、いまだに、左翼に対する攻撃という運動を続けていたい人たちがいる。
その年頃の人たちなら、今更、言動が変わることはないだろう。
彼らの最終目標は、私はとても受け入れがたい。
どういうものであるかは実際に読んでもらいたい。

2006年。教育基本法が改正された。
私はひどく憤ったことを憶えている。
基本法だ。基本となる法律を変えるということは、その上に乗っかるその他の法律等々まで影響をこうむるのだ。すべてのありとあらゆる努力と工夫を講じて尚どうしようもなかった時にしか変えてはいけないものではないのか。そこまでの努力をしたのか。
しかも、教育だ。教育を変えようとする政権には注意を払うべきである。私はそう習った。
なぜならば、ナチスが最初に着手したのが教育だったからだ。

改めて、調べてみた。
2006年の政権は、誰が持っていたのか。
ちょうど、第一次安倍政権の時だったのか。
政権をとって最初に成立した主な法案だったのか。
そうか。そういうことか。そういうことなのか。
私の中で腑に落ちた。私なりに、本書の内容を検証できたと思う。
この本を否定したり、非難したりする人がいるほど、ここに書かれていることは的はずれじゃないのだろう。
政教分離すらできない政権を、私は支持しない。

2015.11.16

本能寺の変:431年目の真実

明智憲三郎 2015 文芸社文庫

これは面白かった。
小説ではない。学術論文でもない。
明智光秀の血を引く著者は、本能寺の変の前後の資料を、その信頼性を吟味しながら再調査することで、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉らの人柄と行動を検証する。
現在の研究は、織田信長なら豊臣秀吉という直後の施政者が、自分に都合よく情報操作している点を考慮せずに資料を用いているところから、全体がゆがんでしまっている点の指摘が、非常に痛快である。
それは、たとえば、司馬遼太郎史観のような、司馬遼太郎が書いているからそれが真実か事実であるかのような誤謬など、ほかにも同種類のゆがみを指摘は可能であろう。
古くは、中国エリアの代々の国が、王朝が交代するたびに、前王朝の歴史を編んできたわけであるが、それは現王朝の正当化に資するバイアスがかかったものであることは、よく知られていると思われる。
だとすれば、国内でも同様のことが行われていないと、まったく考慮に入れていないほうが能天気だと思うのだ。

歴史小説で積み重ねられた織田信長や明智光秀らのイメージがあると思うのだけれども、それが一挙に覆された感がある。
豊臣秀吉はもともとあまり好きではなかったからいいのだが、徳川家康がうっかりいいやつに見えてしまったことが不本意だった。
なるべく信頼性の高い資料をもとに、蓋然性が高い合理的な推論を重ねていったとき。
今とはもう少し違う人物像や事件像が、ますます明確になっていくのかもしれない。

2015.04.07

独裁者のためのハンドブック

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス
四元健二・朝野宜之(訳) 2013 亜紀書房

間違いなく、お勧めだ。
きわめて興味深く、面白かった。
読む人は選ぶかもしれないし、興味を持つ人は更に少ないかもしれないが。
それがもったいないと思えるし、政治がこんなに面白くてわかりやすいことに驚いた。

歴史から現在までの政治や企業における独裁者達が登場するため、イメージしやすい。
時に皮肉交じりで、軽妙な口調で語られるし、タイトルがタイトルだけれども、これはとても真面目な政治な本だ。
民主政治と独裁政治は地続きであること。
この二つを分けずに、同一のモデルで読み解くことで、見えてくるものがある。
民主国家はたやすく独裁国家にスライドできる。
それが、怖い。
ヴィジョンとして見えてくるから怖い。

理解しておくべきことは、まず、政治は、名目的な有権者集団(取り替えのきく者)、実質的な有権者集団(影響力のある者)、盟友集団(かけがえのない者)の三層の土台があることだ。
私自身は疑いようもなく、名目的な有権者集団であり、政治の支配者にとって取り替えのきく者であるな。
この取り替えのきく者たちを支配する、主に盟友集団のサイズが、独裁政治か民主政治かを区別する。

そして、支配者たるもの、よい政治(もしくは経営)を行うことが目的ではなく、その権力を握り続けることが目的であると、著者らはぶっちゃけてしまう。
そのあたりが、これは理想的な政治を啓蒙する本ではなく、現実的な政治を分析する本である。
よい政治をしようとした政治家の政治家生命は短く、むしろ独裁者のほうが長く君臨するのは、独裁者としてやっていくためのコツがあるからだ。
独裁者としてやっていき続けるためには、これらを守らなければならない。

支配者を支配するルールは、次の5つだ。

1)盟友集団は、できるだけ小さくせよ。
2)名目上の集団は、できるだけ大きくせよ。
3)歳入をコントロールせよ。
4)盟友には、忠誠を保つに足る分だけ見返りを与えよ。
5)庶民の暮らしを良くするために、盟友の分け前をピンハネするな。

この目線に立つと、海外援助は投資であることが理解できるし、災害救助がいかに独裁者の懐を暖めてきたかも見えてくる。
ただ寄付するだけの善意が問題に加担してきたことを受け入れるのは、心理的に抵抗感はあったが、こういうことは知っておきたい事実である。現状である。
そして、現状は刻々と変わり続け、ここに書いてあるような現状打破へのヒントが追いつかなくなってはいないだろうか。
原著が上梓された後に台頭してきた、数々のある種の暴力的な集団においては、その集団が継続していくために、リーダー達がどのように上記のルールを守っているのだろうか。
そういう視点で見ることで、今は敵にしか見えない集団を理解し、その弱点を把握し、攻略(交渉にしろ、対立にしろ)の契機を発見できないかなぁ。
国家のような大きな集団だけではなく、サークル活動や企業など、多種多様な集団にも適応できる考え方であり、日常生活に応用可能という実用面も持っている。
考えさせられることが多かった。とにかく、多かった。

この御時世に読んで、ひしひしと感じることがある。
今の日本は大丈夫だろうか。

2015.02.02

犯韓論

黄 文雄 2014 幻冬舎ルネッサンス新書

一冊の新書の中に、韓国、日本、台湾を頂点とする三角関係が描かれている。
政治的に、ではない。文化的に、それぞれは関係しあい、影響しあい、無関係ではありえないが、同一の同質のものとはくくり得ないそれぞれの文化や文明を持っている。

著者は台湾出身の方である。中国ではない。台湾ならではの歴史、背景を持っている方である。
すなわち、日韓関係の当事者というしがらみの外からの目線で語ることができる。
韓国の人が記した近代史を何冊かは読んできたつもりであったが、語調も目線も違ってくる。
そこには、この著者の持つバイアス、背景も投影されているとは思う。
一台湾人から見た日本、韓国、日韓関係というところが、非常に興味深かった。

ありていに言って、正しい歴史認識ってなんだ!?と思う。
「正しい」は「歴史」にかかるのか、「認識」にかかるのか。
しかも、いずれにせよ、それは誰にとって「正しい」のだろうか。
本書は、韓国は自国の歴史の蓄積がされてこなかったという歴史があること、そこからファンタジーが容易に歴史的事実と混同されやすいことを、解説してくれている。
歴史の蓄積がされにくかった要因として、属国であったために自国史の編纂がなされておらず、中世の貴族達の教養は自国史ではなく中国史に立脚していたこと、また、王朝交代ごとに書類や資料を焼失させており、交代王朝の正当化のために粉飾してきた。
もちろん、政権の正当化のために都合よく歴史を書き換えることは日本でも行われてきたことであるが、そういうものだと信じ込むかどうかの読み手のリテラシーの程度も含めて、一概には言えないものの、やっぱり差はあるのかもしれない。
と、ここまで書いて、韓国王宮ファンタジーを歴史ドキュメントと勘違いしていそうな自分の家族を思い浮かべて、自分の言葉の着地点を見失った。

ともかくとしてだ。
対韓国、対中国への理解と対処を進めるための一助となるように書かれた一冊であるが、昨今のグローバル化したテロリズムへの理解と対処にも通底して、日本は、日本人はどうしたらいいだろう、と考えることに役立つと思われる。
「思いやりは日本人古来の民族的特質である。それが悪いわけではないが、他人本位の思いやりは避けなくてはならない」(p.228)との苦言は、意味深いなぁ。
日本が理想でもなければ完璧でもないことをわかった上で言うけれども、このボケていられるぐらいの平和が、これからも続くように祈る。
平和であることの恩恵が失われつつあるような痛みと悲しみを感じながら、平和を祈る。

2014.06.19

韓国人による恥韓論

シンシアリー 2014 扶桑社新書

この本の著者は、韓国生まれ、韓国育ちの韓国の人だそうだ。
私から見れば、きわめて冷静で中立的に文章を紡いでいると思う。
ということは、韓国の中では、著者であることが分れば、どれほどひどい目にあうのか、を心配しなければいけない。
これって変だ。おかしくないか。
おかしいと言っても通用しないだろうけど、韓国における反日は宗教じみて合理性が通じないことを内側から批判する書になっている。
今後益々純化(=日本から見ると状況の悪化、理性の退化)していくであろうことを予測している書でもある。

読んでみて、切ない気持ちになっている。
自国を恥じなければいけない著者を思って切なくなる。
2002年の共同開催のワールドカップやその後の韓流ブームが起きた時を懐かしんで切なくなっている。
私の気のせいではなく、やはり自体は剣呑な方向へと悪化しているのかと思い、切ない。

セウォル号の事件があってからしばらくの間、ネットで掲示板を追ってみた。
韓国や中国の方が書いたものを和訳してあるサイトはいくつかある。
翻訳した人がどのような意図を持って、基準を持って、紹介してあるのか、そこには保留が必要とわかっていても、なんだか物悲しくなった。
私は韓国に何度か足を運んだことがある。その回数は二桁になる。
ある時から、行く気がうせた。嫌われるとわかっている国に、わざわざ足を運ぶ気にならなくなった。
日本が改めて嫌われていると感じるのは、報道のせいなのか。施策のせいなのか。
しかし、外交上、両者は安定して平和でなければまずいはずではないのか。
それなのに、しかも、というか、韓国が中国に近寄ろうとしている感じもする。

なんだかなぁ。
新しいことを持ち出しては、謝れ、謝れ、金を出せってなんだろう。
自分たちが盗んだものを返さないとか。なんでもかんでも、韓国起源説にするとか。そんな風に嘘をついて認められたことがなんで嬉しいのだろうか。中国に朝貢外交していたことの屈辱をドラマで描きながらも、やっぱりその道を選ぼうとするのはなんでなのだろう。
そんな、自分の感覚からはどうしてもわからないというか、納得できないことが積もり積もって、私は段々、韓国という国が好きではなくなってきている。
すべての韓国の人が反日ではないと信じていたいし、これまでのよい思い出、よい印象があるだけに、とても残念だから、そういうネットの掲示板も見たくないと思うようになった。
見たくなくても、目を疑い、耳を疑い、国籍を超えて、人としていかがなものかと問いたくなるような事例が、次々に目前に現れる。嫌な言葉が、溢れかえっている。

どれもが、私の気のせいや、メディアの偏向ではなく、現に韓国で反日が強烈になっていることの反映だった。
10年ほど前に、韓国の近現代史に興味を持って数冊を読んでみた。たしか、『韓洪九の韓国現代史』だったと思う。
韓国では「親日」という表現は現在の日本に親しみを持つ立場ではなく、日帝の支配に賛同する意味を持つ歴史的な用語であることが紹介されていた。したがって、反日の反対語がない、と。
言い換えれば、『恥韓論』にて指摘されているように、反日しかない、ことになる。
韓国が反日にすがらざるをえないのは、韓国が自分自身の失敗や問題から目をそらすためである。

著者はこのように説明する。

本当は自分自身に問題があるのに、それを認めることができないから、日本が悪いと決めてしまうのです。(中略)
私はこう書きました。「僕は善だから、何をしてもいい」からもう一歩狂ったのが「あいつが悪だから僕は善だ。だから僕はあいつに何をやってもいい」であると。敵意が「あいつ」に集中的に向かうと。(p.178)

このように他責的になることで、自責から生じる抑うつを回避しようとする心理は、個人のなかでも、日本人のなかでも、よく見られることだ。
自分は被害者である。加害者は悪だ。それなら、被害者は善だ。被害者である自分は善だ。善は悪になんでもしていい、と、被害者が迫害者に転じることを、よく見かける。
それは、DVやストーカーの心理によく似ている。彼らの被害感と他責感には、客観性や合理性の入り込む隙間はない。とことん独善的な思い込みである。
それを国家の単位でぶつけてこられても。

巻末のほうで、著者は、日本は韓国に距離を置く外交を勧めている。隣国だからと過度に親切にしようとするのではなく、例外的な措置をとるのではなく、基本的な外交だけをするように勧めている。
それを聞くと、セウォル号の沈没の際、日本から救助の支援を打診して断られた、それでよかったのかな、と思う。
そして、個人のレベルでの持論をもっと発信すべきであること、日本は日本で韓国批判も含めての世論を形成することを提案している。
韓国にこれからも住み続けていきたいであろう韓国の人が、韓国が中国と仲良くするようなニュースが流れたら危機感を持って警戒してほしいと言わなければいけないなんて。
そんな人もいるから大丈夫よ、なんて、例外に思わないでほしいと言わなければいけないなんて。

私は、日本に住む、日本生まれの日本人として、この国だって、古きよき日本人らしさを否定する教育が進み、民度なるものが下がりつつある現状と、そのことと外国から向けられている敵対心に退行するために、日本のよさを再評価しようとしている傾向の両方を感じている。
私は憲法第9条を誇らしくいただきながら、日本と日本人が好きだよって言ってくれる人たちがいる日本をちょっと嬉しく思いつつ、受け継いできたものをなるべく大事に守っていけたらなぁと願っている。
馬鹿正直さとか、真面目さとか、平和にぼけていられるお人よしさとか、当り前に与えられてきた環境の居心地のよさ、守って行きたくない?
理性を手放している者同士の対立にならないよう、事実やデータは大事である。親しき仲にも礼儀を払いつつ、殴り合いにならない距離を保つことは必要である。
慰安婦問題であるとか、大量虐殺批判であるとか、言いがかりに感じる自分の感性は、もう否定しないでおこうと思った。
ぶつくさぶつくさ言いながら、これ以上、悪くならないように祈り続けていたい。

2014.06.17

日本が戦ってくれて感謝しています:アジアが賞賛する日本とあの戦争

井上和彦 2013 産経新聞出版

惜しいなぁ、というのが、最初の感想。
タイトルからして読者を選ぶ本ではあるのだが、読者を選んでしまうところで、著者のメッセージは伝えたい人に伝わらなくなるのではないか。
そして、著者が本来読者となってもらいたい層には、この著者の熱い思いはなかなか共感しづらいのではないか。
そういう意味で惜しい。

アジア圏を旅行して、日本人だからという理由で嫌な思いをしたことはあまりない。
多少の嫌な思いをしたことはあったが、とても親切な人に出会ったり、共感を示されたり、丁寧に接遇された思いのほうが強い。
私が旅行したことがあるアジアと言えば、韓国、香港(中国に返還前)、台湾、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、カンボジアと限られている。
ほとんどが観光を目的とした短期滞在に過ぎず、韓国を除いては1-2度の訪問に過ぎない。
だから、自分の体験を普遍化することはできないと承知した上でも、それでも、日本人であることで好意的に接してもらったり、日本人であることとは無関係に好意的に接してもらうことあったにしろ、日本人であることで嫌な思いをしたことは少ない。

その私自身の体験に、学生時代に出会った留学生など、アジアの人と出会った体験をプラスして考えた時、そんなに日本人って嫌われているんだっけ、あれれ?という疑問を持つようになった。
もちろん、私がメディアを通して知る嫌日、反日の声はメディアのバイアスがかかっているがゆえに、中韓のどれだけの人の声であるかはわかりにくい。
わかりにくいけれども、なんとなく背負わされてきた日本人であることの負い目のようなものが、ほかならぬ他国の人の声によってほぐされていった経験を持つ。
だからこそ、できれば、この諸外国の声、諸外国の事情、諸外国の歴史に残る日本と日本人の足跡は、もう少しニュートラルな筆致で紹介されていたらよかったのにと思う。

著者の悔しさやもどかしさといった熱い感情が熱い涙と共に描かれる時、共感するように押し迫られても、引いてしまう、冷めてしまう。
共感は強制されて働くものではないのだ。
著者の感激や興奮のすごさは伝わるが、読者たる私は、著者の感動に置いてけぼりをくらった。
そこは、戦後教育を普通に受けてきた世代として、自作自演乙?と反応したくなるような心が作用してしまうのだ。
もっと冷静に、現実的に、中立的に、理性的に記されていたとしたら、もう少し読者層が広がるのではないだろうか。
もう少し、読者が自由に心を揺さぶられるのではないか。考えが揺さぶられるのではないか。
右でも左でも斜め上でも、感じ方の自由は残した書き方をしてもらえるとありがたいのに。

非常に興味深い資料が豊富である。
なかなかに国内では紹介されることのないインタビューや取材である。
それだけに、もったいないというか、残念というか。
私には、ざっくり言って、暑苦しかったのです。
物事を両面から把握しなおすという意味で読む意義がある。

 *****

広島の人と、韓国の人と、アメリカの人と、カンボジアの人と、ベトナムの人と、台湾の人と。
いろんな人といろんな話をした。戦争の話もした。よく聞かせてもらった。
なんで、人は私に戦争の話をしたがるのかよくわからないけれども、聞かせていただくことが多いような気がする。

それは、ベトナムのフエにて。
シクロの運転手さんの言葉が忘れられない。
それはこんな言葉だった。

日本はベトナムにも使われなかったような大きな爆弾を使われた。
それを考えると、日本も戦争の犠牲者ではないか。ベトナムと一緒だね。
海外に興味を持つことが平和を作ることに繋がるのではないか。
緑を植える人は、平和を作る人だと、ベトナムでは言うんだよ。

2014.05.01

群雲、関ヶ原へ(下)

岳 宏一郎 1997 新潮文庫

何回読んでも、同じところに来ると、それ以上、先に進めなくなった。
その短編のタイトルを「花」という。
桑名の大名、氏家内膳正行広を描いたものである。

歴史上の大人物ではないと思う。
この本を読んで、初めて知るぐらいの名前だった。
豊臣に恩がある武将が、隠居して、高齢となり、他家の世話になっていたところ、家康から招聘される。
徳川に組すことを選んだ京極高知は、喜んで彼を送り出そうとするが、彼は泣きそうな顔で椿の花の下にたたずんでいた。
そして、高知は、大阪城落城のとき、淀と一緒に死んだ武将の中に、彼の行広を見出すのだ。

私にはわからない。
死ぬとわかっている場所へわざわざ赴く気持ちが。
人と人とが殺しあう気持ちもわからないし、人を殺してでも何かを得たいという気持ちがわからない。
天下が欲しいという気持なんて、まったくわからない。
わからないけれども、その桑名の大名の不器用さが、とても切なくなったのだ。

西軍が負けることは歴史的に決まっている。
その結論がわかっているからこそ、最後まで読むのがためらわれたのだ。
今回、ようやく続きを読むに至ったが、最後まで筆者は淡々として、中立的に、関ヶ原に集った人々を描き出していた。
過度に情緒的な演出がないことがいい。説教くさくもならない。説得力だけがある。

教科書的には知っていたが、こんなにも東軍が不利だったなんて。
本書を読んで、毛利勢が動けば、歴史はまったく違っていたことが改めてわかった。
石田三成の用兵や政治の評価が低いと言えども、こんなにも西軍がいいところまできていたなんて。
わからんものだなぁ。

そして、最後にどうしても言いたい。
細川幽斎よ。
それは和歌ちゃう。だじゃれや……。

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