2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

**趣味の宗教学**

2014.10.28

阿修羅のジュエリー

鶴岡真弓 2011 イースト・プレス

この「よりみちパン!セ」のシリーズは、筆者のラインナップも興味深いし、大人であっても興味を惹かれるようなテーマ、タイトルが並ぶ。
「学校でも家でも教えてもらえなかったリアルな知恵満載」と帯にあり、子どものための本ではあるが、生きづらさを生きる、無縁なものはひとつもない、青春の大いなるなやみや未知なるみじかな世界など、分類も気が利いている。
この本だって、美学・美術史・文化人類学にあたるような領域だろう。
難しくならいくらだって述べられていそうなことを、改めて、子ども目線で興味を持ってもらえるように、かみくだいた表現、すべての漢字にルビを振った状態で語られている。

興福寺の阿修羅像。
東京の国立博物館と、福岡の九州国立博物館で開かれた阿修羅展は、空前絶後の入場者数を記録した。
みうらじゅん作詞の高見沢俊彦「愛の偶像」がメインテーマとして流れ、みうらじゅんが会長となって阿修羅ファンクラブまでできた。
その二年後に出版された本書は、阿修羅王立像の身に着けている服飾品のデザインに注目しているところが目新しい。

複製された阿修羅の色鮮やかな姿に見て取れる胸飾や臂釧、宝相華文様の裙は、なにを意味し、どこからもたされたのか。
その答えとなるのが、花と星。
地上の花と天上の星が、それぞれが希望の光として照らしあい、古今東西の人々を照らしてきた。
その光をとどめるものとして宝石が用いられており、衣装にも数々の花柄が描かれた。
エジプト、ペルシャ、ローマ帝国といった西側の文化と、インド、中国、そして日本に至る東側の文化の交流が背景にある。
阿修羅から眺める世界は、共通のたった一つの祈りに満ち溢れてくるのを感じた。

仏教美術の観点もであるが、個人的には中世ヨーロッパ絵画についての考察が面白かった。
人物像など、人物の顔かたちに目が行きがちになってしまうのだが、宝飾品や衣装のデザインに目を留めるのも、とても興味深く楽しい。
どんな素材で作られているのだろうと思うこともしばしばあるし(石が好きなので、石の種類は何か、など)、どういう形で止まっているのか?動いても落ちないのか?と気になるものもあったり。
著者じゃないけど、レプリカでいいから身に着けてみたいと思うものだ。
やっぱり、キラキラするものって、好きだなぁ。自分もね。

もう少し大人向けのバージョンで読んでみるのもいいかな。
平易な言葉遣いは門戸を広く読者を受け入れるものであると思うが、逆に少しだけものたりない気持ちにもなりました。
それぐらい、面白かったということで。

2013.02.15

見仏記6:ぶらり旅篇

いとうせいこう・みうらじゅん 2012 角川文庫

奈良に行きたくなるなぁ。
薬師寺、新薬師寺、唐招提寺は、また行きたいんだよね。
となると、やっぱり東大寺も捨てられない。『天平冥所図絵』を再読し、平山郁夫の大仏開眼の絵を思い出しながら、訪ねるのもいい。
ああ。旅がしたくなる。

1冊目に続いて読んだのが6巻というのは、職場で回ってきたから。
中間を読んでおらず、1冊目からこの本の間に20年という月日が経っていることもあり、大きく違いを感じた。
2人の旅人がとても自然に歩いているというか、仏像そのものへの記述よりも、2人の歩いている空気の自然さを強く感じたのだ。
いとうさんが文中で「巡礼の旅」と書いているけれども、そんな感じ。
歩き回ること自体が目的化しつつあるような。仏像は旅の目的ではなく、2人の旅を見守るもののように見えてきた。

歩き回った場所としては、奈良が一冊の半分を占める。
ちょうど、平城遷都1300年だった2010年のことである。
頭の中で、「Hey!Joe」が流れていく。
後半は愛知、途中と最後で京都。
愛知のお寺はまったく行ったことがないが、日本美術史の授業で出てきたようなおぼろな記憶が……。
それよりは、やっぱり京都のほうが馴染み深い。

東京国立博物館で「空海と密教美術」展、行っておけばよかったな。
一緒にいたのは、象のダンナに面差しに似ている人だった。
きっと私も、「最初に好きになった人を一生反復して生きていく」(p.276)1人に過ぎない。
いつか機会を得たら、東寺に彼を探しに行こう。そうしよう。
いとうさんのように、みうらさんのように、『マイ・フェバリット・シングス』を歌いながら。

2012.11.09

霊性の文学 言霊の力

鎌田東二 2010 角川ソフィア文庫

言葉には力がある。
言葉は時に非力であるが、力がある。
日々に使う言葉はすべて、呪文であり、魔法を持つ。
それが文学として形をなしたとき、どんな力を持ちうるのか。

流れるようなすべらかな現代語で紡ぎなおした『超訳 古事記』の著者が、どんな言葉をほかにも紡いでいるのかを知りたくて購入。
ネット買いだったので、手元に届いてから目次を見たのであるが、そこで取り上げられている人物は幅広く、見ようによっては雑多に感じるかもしれない。ある時代を背負っている人々。
宮沢賢治、折口信夫、三島由紀夫、中上健次、高橋和巳、ドストエフスキー、ニーチェ、バタイユ、ロートレアモン、寺山修二、美輪明宏、宮内勝典、山尾三省、出口王仁三郎。
私にとってはなじみのある人もいれば、なじみのない人もいる。というか、なじみのない人のほうが多い。

本書の中でとりわけ印象深かったところといえば、美輪明宏による信仰と宗教の違いの指摘である。
そこを踏まえたうえで、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』でジョヴァンニがキリスト教者との会話で戸惑う場面を読む。
宗教は対立するが、しかし、対立するのではない道があるのではないか。

文学を紐解きながら、底に流れる霊性を掬い出しつつ、信仰とはなにか、宗教とはなにか、神とはなにかを問うていく。
それは聖なる高みばかりではない。なにかしらの越境や断絶、解体あるいは混沌を含みうる、ほの暗い深みを覗き込むような作業だ。
かといって、小難しいわけではなく、むしろ読みやすい。引き込まれるように読み、ここから読んでみたい本が更に増えもした。

呪われているということ。それは不可抗力的に悪に直面せざるをえない魂と運命をもっているということにほかならない。言い換えると、人類文化の“闇”を視る“眼”をもって生まれたということである。その呪われた者だけが、呪いの渦中に自らを投げ出すことによって、「至高性」に到達することができる。(p.140)

思考は言葉を媒介にして成立するので、動画ばかりでは思考は鍛えられないんだよね。
上質な表現としての動画の存在を否定しないが、具象にばかり偏っては、ますます感覚優位になり、不安耐性が低く、衝動の制御が難しくなることだろう。反省的思考も抽象的思考も低下して、現実検討が働かず、被暗示性や高くなることだろう。
白か黒かとスプリッティングしやすい認知では、世界の深みを覗き込むことは決してできない。覗き込んでなお引きずり込まれずに耐えることができない。
深みから高みへと飛翔する力であり、毒にもなり薬にもなる文学の力を、私は信じていたいと思う。祈っていたいと思う。

2012.05.21

日本神話の女神たち

林 道義 2004 文春文庫

うーん。
うなってしまった。
どうしよう。

自分自身のパートナーシップの問題を考えるとき、「見るなの禁止令」はひどく現実味を帯びてくる。
ここ最近、鎌田東二『超訳 古事記』に出会ったことをきっかけに、神話関係を続けて読んだり、読み直してみた。
私が「見るなの禁止令」を学んだ北山修さんは精神分析の立場であるが、本書の著者はユング派。
両者による神話の取り扱いの違いは、かなり際立っている。同じ素材でも、ここまで変わるか。その違いを味わうのは楽しい。

本書を読む前に、『日本神話の英雄たち』を再読した。
著者は、古事記・日本書紀が成立したときの集合的無意識の在り様や社会の在り様に寄せつつ、神話的・元型的な読み方をしていく。
そこに読み解かれるような政治的な時代背景、編纂者の思惑といったあたりが、鎌田さんが知ってがっかりしたという古事記の大人の事情に重なるのだと思う。
私としても、知りたいのはそこではない。
今に活かせるような読み方のバリエーションであり、イメージのふくらみなのだ。
古事記から読み解く過去の現象と無意識も面白いけれども、それが今も活きている力に変えていく作業のほうが私は好きなのだ。

そういう意味では、アニマとアニムスをバランスよく育てていくことを、成功例としてオオクニヌシとスセリヒメ、失敗例をヤマトタケルとオトタチバナで説明している箇所が面白かった。
禁止令を超えて、カップルがどのようにすれば長続きできるか、示唆している。
同時に、人の意識と無意識との折り合いの付け方が示されている。これは、ユング派ならではの視点なのだろう。
また、古事記はわりと母親不在であるという指摘も興味深い。母親不在と言うか、「父-娘」もしくは「母-息子」の組み合わせで登場しやすいってことだと思うのだが。
母は時に代理母(タマヨリヒメやヤマトヒメ)になるので、出産時の母親死亡率も高かったんだろうなぁ、なんてことを、考えてしまった。

総じて、『英雄たち』ではさほど感じなかった違和感が、『女神たち』では感じてしまった。
自分が女性であるため、どうしても女神のほうに、自己を投影させやすいからだろう。
重ね合わせようとした自分の気持ちが、どこかに置いてきぼりになるような、もやもや感が残った。
また、「このことは次著で書く」という言葉が数回出てきた。
次著ってどれ?

そこは女性の心理としてそうじゃないよ~と言いたくなる。特に、イザナミにおいて。
女性の気持ちはこうなんだよって、誰か書いてくれないかなぁ。
好きで好きで好きでたまらないから、いざなわれて理を曲げようとしたのに、「やっぱ無理」って断られてもねぇ。
なんで約束を守ってくれなかったの? 恥ずかしい。悲しい。腹が立つ。
なんで逃げ出すの? なんで置いていくの? そんなものだったの?
追いかけるよ。ちょっと待ってよ。まず、話をしようよって言っているのに、なんで逃げるかなぁ。
そこで、「ごめん」って言ってくれたら、それですむじゃない。「約束を破ってごめん」「逃げ出してごめん」って言ってくれたらよかったのに。醜いところも含めて、どーんと引き受けてくれたら、もっといい男だって惚れ直したのに、全力で逃げるか?
そりゃ怒るわな。怒るけど、許しちゃうんだよ。好きだから。
怖がらせるためにつきあったわけじゃない。好きな人を苦しめたいわけじゃない。ここまでこじれてしまったら、どうしようもないのもわかっている。
だから、「1500の産屋を立てよう」と誓いの言葉を引き出せたことで満足しよう。これからさきのあなたの行動のすべてに、私の痕跡が刻まれているのだから。私はなかったことにはならないのだから。
そうやって、あなたは光の下で輝いていてくれればいい。
私は無意識のかげりにひそみ、あなたが幸せに向かうよう、支えていくことができれば、それで満足だ。
こんな感じで。

2012.05.08

神道の逆襲

菅野覚明 2001 講談社現代新書

この著者の本は、『武士道の逆襲』とこれを続けて読んだ。どちらも読みごたえがある。
印象に強い本であったので、てっきり記事を書いていると思ったら、書いていなかったようだ。
別所を調べてみたが、『武士道の逆襲』のほうは別所でも書いていない。ありゃ。
二冊とも、もう手離しちゃったよ……。

読んでみて、私は神社に行ったことはあったとしても、いかに神道なるものについて寡聞であるかを痛感した。
歴史的に順を追いながら、神道の各派の思想哲学を説いてあり、初学者にとっては難解なきらいはあるが、豊かな参考書となりうる。

なによりも、日本でいう神との出会いとはどういうものであるかをわかりやすく教えてくれた。
その例として、萩原朔太郎の『猫町』を挙げている。神隠し寸前の体験として、この物語は、「道を失い、再び道を取り戻すまでの時間が詳細に語られている」(p.41)。
場所や人は同じだけれども違うという、日常世界の「景色の裏側」にあったカミが突如として「景色」として現れる、世界の反転が起きている。
このような体験が、神道の教説の深い主題の一つをなすと、菅野は言う。

日本における神なるものが、私にとって馴染みのあるキリスト教の神の概念とはまったく違うこと、それでいて私のキリスト教理解はそこはかとなく神道っぽいことを発見できた。これは私にとっては、新鮮で有益な体験となった。
また、神話の解釈というと、短絡的にユング派を思い出すのだけれども、本居宣長の思想は多分に対象関係論的である点が非常に興味深かった。

神道って何?という疑問と、そもそも日本の神道でいう神様って何?という疑問を持った人に勧めたい。
『武士道の逆襲』については、自分の感想を参考にする資料がないから、アップは断念。
(2005.6.4)

レヴィ=ストロース入門

小田 亮 2000 ちくま新書

冒頭のデリダ批判がしびれる。かっこいいなぁ。
レヴィ=ストロースじゃなくて、小田さんがかっこいいなぁ。

私がレヴィ=ストロースに触れたのは大学のときである。
選択必修の第二外国語でフランス語を選び、二年目には、なぜか、テキストで「悲しき熱帯」を読むという恐ろしい講義を受けた。
翻訳書だって訳わからんのに、フランス語になったら訳がわかるかーっ。
そんな悲鳴を何度もあげたが、しかし、ある一文において、ひどく感銘を受けたことも記憶にある。

その一文を探すためには本人の文章にあたるのが一番だろうが、あいにく、どの論文かを覚えていない。私の理解力・読解力からいって入門がふさわしいだろう。
そんなわけで、買い溜めて積み上げていたちくま新書を手に取ってみた。

体系は変換しない。構造は変換する。
数学の行列みたいなもの~?と、読み進めるうちに頭の上の???は増えていくが、おおむねわかりやすい。
ジーン・アウルの「エイラ:地上の旅人」シリーズ(集英社版のタイトル、私が読んだ評論社版では「始原への旅立ち」)を読んでいたことが、婚姻システムの構造を想像する助けになったと思う。
そんなわけで、交叉イトコ婚のあたりで、多少、?を飛ばしても、そこを力技で乗り越えていくと、私の読みたかった神話の話になる。

一つ一つの神話は、だから何?とか、それが何?とか、わけがわからないことが多い。そこに象徴性を見出して/託して読み解く(と見せかけて他の何かを表現/理解するために援用する)やり方と、レヴィ=ストロースの方法はまったく異なる。
南米から北米にかけて採取された神話を、読み比べ、読み合わせ、折り重ね、継ぎ接ぎし、ブリコラージュしていく。
どれが一番古くて、正しいのかを探るのではなく、複数の素材を、砕いたり、裏返したりしながら、対立しながら共通する部分をすくい出し、並び替えていく。
その過程を通じて「神話の大地は丸い」こと、地理的に遠い神話に類似性が見られることを示していく。
しかも、多重コードであることを認めているからイメージは豊潤に象徴性は保たれたまま布置されていく。
このくだりはスリリングで、楽しくて、面白くて、わくわくした。世界が活き活きと蘇ってくるような魅力がある。

レヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものだ」(p.208)という。
自然という連続した体験を、文化という言語によって分節化された不連続なものに置き換えていく過程で、連続と不連続の対立を現実に解消することはできないが、神話はそこをなだめ、理解したり、納得できるようにするものだという。
その機能については腑に落ちるし、最初は奇妙に感じた『神話論理』の巻ごとのタイトルも、なるほどと思った。
レヴィ=ストロースは「私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(p,206)言っていたのそうだ。まるで依巫のようだ。まるで、稗田阿礼みたい。
日本では神との出会いは、日常の景色がふとしたことで非日常の景色に「反転」する体験(菅野覚明『神道の逆襲』)なのだから、神話は何かひとつの根源にさかのぼるものではなくていいのだと思う。

私が学生時代に触れた論文は「神話の構造」だったみたい。
どれが一番古くて、だからどれが正しいのかを探ってみようとしても、それは無理なことなのだから、今残っているものを「束」にして考えてみないか?という提案が、ひどく新鮮だったのだ。
そんな理解の仕方は、今も私の中では大事なツールになっている。

2012.04.21

禅語

石井ゆかり 2011 パイインターナショナル

表紙の白い蓮の花の美しさにうっとりして手に取った。
PIEの本は写真が綺麗で、ついつい欲しくなってしまう。
写真の美しさから入ってもいい。言葉の意味深さから入ってもいい。
どちらからでも味わえる。しかも、少し小ぶりで手に馴染む。

喫茶去や本来無一物、明鏡止水といった、見覚えはあるが意味はいまひとつ自分では説明がつかない言葉。
漢詩や慣用句、あるいは、単語といってもいい言葉。
それぞれの言葉に意味や由来を付け加えた上で、エッセイが添えられている。
通して一気読みするよりも、1日に1つか2つ、ゆっくりと味わいながら読んでいきたい。
その文章のページにも、何気ない図柄が配されていたりして、趣のある本なのだ。

「薬病相治」という言葉を知った。
なるほどと思った。
私の日頃の営みはまさに相治す。
私は薬であり、病である。

祇是未在。
他不是吾。
まだまだ学ぶべきことは多い。

春在一枝中。

雪月花の美しいときはあなたを思い出して想うよ。

超訳 古事記

鎌田東二 2009 ミシマ社

どうして約束を違えるのか。
いざない、いざなわれ。
永久に手を繋いで歩もうと誓ったものを。
のちに裏切るぐらいなら、なぜ、いざなった。
この怒りを、嘆きを、苦しみを、憤りを、悲しみを、憎しみを、恨みを、愛しさを、恋しさを。
ねえ、なぜ、わかってくれない。

詩のように研がれた文章。詞のように声に馴染む文章だ。その秘密は、この本の作られ方にあり、あとがきを読むとわかる。
読みやすく、わかりやすく、古事記の全体像を掴むには最適であろう。
そぎ落とされたところに旨みがあるのかもしれないが、大筋から味わえるものも多い。
神話の中には、イメージが次々に喚起される、豊饒な世界が広がっている。
子ども向けの古事記以来に触れる私にはほどよい内容であり、しかも、品があってすっかり気に入った。

イザナギ、イザナミの夫婦喧嘩から、父子家庭の末子のスサノオの反抗期、父親の養育放棄もしくは子の家出のくだり、こんな家庭ってあるよなー…。
同胞葛藤といえば、アマテラスとスサノオも、母親不在の家庭で、母親の代理を求められる長女のギブアップと、あくまでも母親を希求する末子という感じで、よく見られる。
ニニギの嫉妬妄想、海幸彦と山幸彦の同胞葛藤。イワナガとコノハナサクヤも同胞加藤。
現代の家族関係や異性関係に見られるトラブルって、結構、そのまま、古事記の中に見出せるのが面白かった。
家族や異性関係で生じるトラブルの原型を見出すと同時に、冥府下りや大地の女神の死、見るなの禁止令といった、神話だからこそ語られるモチーフを再考するよい契機となった。

面白いのは、イザナギもオルフェウスも異界に死んだ妻を迎えに行くが、死んだり醜くなった妻は捨てられて話が終わる。
しかし、女神達は違う。大国主の母親も、イシスも、男神が殺されたときには、母親もしくは恋人たる女神は、その遺体をかきあつめて生き返らせようとする。なにがなんでも生き返らせようとする。
イザナギがイザナミにがっかりするところは、すでに女性は若く美しくないといけないという価値観の反映のように読めてしまう。
男性から口説いておきながら、男性のほうから去っていくことを許せないと怒りを感じるのは、なにも、イザナミだけではない。
その後も清姫や六条御息所に受け継がれ、お七やお岩を経て、今も日々増産中。
そういうイザナミ的な要素は、多かれ少なかれ、女性は持っているものだと思っている。
少なくとも、私は持っている。

女性である私の目から見れば、ほんの少し違うのだ。
イザナミはイザナギを傷つけたかったわけではない。殺したかったわけではない。決定的に別れたかったわけではない。
裏切られた苦しみをわかってほしかっただけなのだ。約束を破ってごめん、と、一言言ってほしかっただけなのだ。
もっと言えば、醜くなってしまった自分に恐れをなすのではなく、そんな醜い面も含めてどーんとうけいれてくれたらどんなによかっただろう。
出会ったときの二人のように美しくなくなってしまったとしても、手を携えて、愛を確かめあっていきたかっただけではないのか。

愛を保ち続けていたくて、縁を繋ぎ続けたくて、呪いの言葉をつむぐ。
現代であれば、別れ話の後のヤケ酒みたいなものだ。リストカットやODしてしまう人の心情にも通じると思う。
イザナギの後悔を、改悛を、導き出したくて、罪悪感に、同情心に訴えかける。
それが最早愛ではなかったとしても、どこかで繋がっていたいと切なく願う人を、責めないでほしい。
お願い。私から、立ち去らないで。
そんな祈りがあるから、別れの言葉は言わないでいてほしいのだ。別れざるを得ないとしても。
そして、仲直りの仕方を書かないから、ニニギとコノハナサクヤ、山幸彦と豊玉姫も繰り返す。

見るなと言ったのに。
あれほど、お願いしたのに。
見るなとお願いしたのが悪いのか。
約束を守ってくれると信じたことが悪いのか。
私はあなたを信じていたのに。
あなたはどうして信じてくれない。待ってくれない。任せてくれない。
その裏切りを謝ってくれないまま、自分のほうが傷ついたような顔をして。
誤りを過ちにして、一人だけ禊して終わらせてしまうなんて。
許さない。

呪いは、私を忘れるなという約束の言葉。
あなたの過去に私という存在があったことをあなたが忘れたとしても、あなたの意識が根ざす無意識のひそみに私はそっと隠れつつ、あなたを支えていくだろう。
あなたは知らず知らずに私の願いをかなえていくのです。
あなたがなしていく営みのはじまりが私にあることを、あなたが忘れてしまっても。
私はひそかに悦ぶでしょう。
かすかにでも、私があなたになにかよきものを残すことができたのだとしたら。
出逢ってよかった。

2012.02.13

やさしいダンテ<神曲>

阿刀田高 2011 角川文庫

やっと終わったー。長かったー。
「ダンテ君の天界うるるん旅行記」@『聖☆おにいさん(6)』。
河出文庫だったら3冊編成、平川祐弘訳の完全版なら6090円。
地獄篇から始まるという、興味はもっても、はなはだやる気を殺ぐ名作。
古典中の古典として、図書館で借りては開くことなく返していた学生時代。
そんな話をしたら、後輩がこの本を貸してくれたわけであるが……。

ダンテ、話が長いよ。地元の人の噂話をされてもよくわかんないよ。
この本ではそういう面倒なところを程よく割愛し、わかりにくいところに程よく説明を加えている。
たとえば、天国の至高天で聖者達がどのように座しているか、東京ドームにたとえてあるのは、かなりわかりやすかった。
だから、優しい。易しいじゃなくて、優しい。ダンテじゃなくて阿刀田さんが優しい。
こういう気遣いのある翻案がなされていないと、原作はかなり読みづらいだろうってことは、よくわかった。
『神曲』それ自体が、小説にしたからよくわかる入門書、マンガにしたからわかりやすい解説書みたいな役割を持っていたにしても、ここまで噛み砕いてもらわないと、私は読みおおせなかったな。

中世のイマジネーションってすごいよね。世界観を知る上では興味深い。歴史上の有名人が次々に登場するのも面白い。
どちらかというと、地獄のほうが興味深く、煉獄、天国と進むに連れて、だんだん興味がさがっていった。
先導役がウェルギリウスからベアトリーチェに交代したのは、私にとっては痛恨。
興味が下がるにつれ、現実的に忙しかったのもあるが、読むスピードも落ちていってしまった。

ベアトリーチェ、どこがいーんだろー?
美人なのはよくわかった。わかったけど、彼女が死んだ後に書かれた作品とはいえ、こんな風に神格化されちゃうのは居心地悪くないかな。ベアトリーチェの親族の反応を聞いてみたい。
それに、ほかの女性をべた褒めに誉めて見つめて見惚れている場面ばかり書いているダンテは、少なくとも、ダンテの奥さんや子どもにとっては嫌じゃないかなぁ。
というか、ベアトリーチェを美化することで、自分の恋心を正当化しているだけでは……。
男の人ってアニマを本当に大事にするよねぇ。だから、アニマなんだけれども。

キリスト教の知識は少しはあります。でも、私には信仰はないのです。時代も地域も違うので常識も違うのです。
だからもう、読むのが苦痛になるのです。そんな天国、行かなくていいからさ~、みたいな。
取り急ぎは原典にはあたらなくていいやって、よくわかったです。
とはいえ、地獄の第二層ぐらいでとどまれるよう、身を慎むべし。

2011.01.23

世界はおわらない

世界はおわらない  ジェラルディン・マコックラン
金原瑞人・段木ちひろ(訳) 2006 主婦の友社

ノアの箱舟という惨劇。
世界の終りのような大洪水。
世界が終らないために選ばれた家族と動物たち。
聖書で語られていない物語は、なんとも言えない苦々しさに満ちている。

ノアと、その妻アマ。長男セムと、その妻バセマト。次男ハムと、その妻サライ。三男ヤフェトと、その盗まれてきた妻ツィラ。そして、記録されなかった末娘ティムナ。
新約聖書の最初、マタイによる福音書の冒頭を見れば、よくわかる。
ユダヤの文化では、誰が誰の息子であるか、それだけを記録する。
だから、娘の名前は残らない。その娘が主に物語を語る。
ライオンやヌーやワタリガラスが語ることもある。
アマやバセマト、ツィラやヤフェトが語ることもある。
しかし、ノアは決して語らない。

大洪水の日。
どうして、隣人を助けなかったのか。それは罪ではないのか。
どうして、動物を一つがいずつ選べたのか。群れで生きる生き物もいるのに。
どうして、彼らを世話しえようか。専門知識もなく、十分な食料も、空間もなく。
どうして、どうして、自分たちだけが選ばれたと、神の意志を知りえようか。
どうして?とささやく声は、はたして悪魔の声か。

人のやることって、どうしてこう不完全なのだろう。
よかれと思ってしていることも、そのほかの生き物にとっては大きなお世話かもしれないのだ。
後世から見たり、第三者の目から見ればナンセンスなことが、当の本人は気付かずに、至極真面目だという、不条理。
どうしようもない愚かさに、胸が悪くなる。
災害直後の極限状態の描写でありつつ、そこには様々な家族関係の問題を、問題を抱えた家族の在り様を端的に描いている。
箱舟に閉じ込められた動物たちの騒音と悪臭に自分も飲み込まれたような、ざらついた感触がした。

世界は終わらない。
このタイトルは、読み始める時と読み終えた時では、どれほど響きが変わることだろう。
ティムナの出会いと変化は、ネタばれになるので書かないが、閉塞する世界を打ち破る力を感じてほしい。
たとえ人が滅びようとも、再生は繰り返される。自然には逆らえない。

世界は終わらない。Not the End of the World.

 ***

親切心は、人間のきまぐれだ。おさえることはむずかしい。暴力や欲望のように。(p.279)

より以前の記事一覧

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック