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>小児・発達の問題

2019.06.20

アスペルガー医師とナチス:発達障害の一つの起源

エディス・シェファ― 山田美明(訳) 2019年6月20日刊行 光文社

「アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物であり、彼が暮らしていた世界が生み出したものだった」。(p.10)

アスペルガー障害に名を残す人物について、私はまったく無知だった。
この本は「社会的・政治的力が医学的診断にどれほどの影響を与えるのか、それに気づき、それと闘うのがいかに難しいかを明らかにし、神経多様性を推進していくための教訓とすること」(pp.10-11)に目的を置いている。
「アスペルガーの暮らす社会では、民族共同体に参加するためには、適切な人種であり、適切な生理を持っている必要があった。だがそれ以外に、共同体意識も必要だった。その共同体と、考え方や行動が一致しなければならない。ドイツ民族の発展は、一人ひとりがそう思えるかどうかにかかっている。こうした社会的一体感を目指したからこそ、ナチスのイデオロギーにおいてはファシズムが重要だった」(pp.14-15)。民族共同体に適さないと診断されれば、「生きるに値しない命」として殺害される。
そしてだからこそ、自閉症の診断基準に社会性が挙げられるのだ。第三帝国の児童の殺害はプログラムの規模が小さく、5000人から1万程度だったとされるのだそうだ。

私はぞっとした。

発達障害の概念は新しく、だからこそ、研究がとても盛んなトピックのひとつである。身体的なマーカーの探索や、薬物療法についてなど、多方面からの研究が進むと同時に、実際に困っている人の相談も増加している。
それは、注目されるトピックだから発達障害に目が向きやすく、相談が増えているだけではないのではないか。
集団に同調させる圧力が強まっていること、同時に、十分に適応できないと感じる人が増えていることに、起因するのではないか。
集団に適さない者は切り捨てる風潮が強まれば、論調は自ずと100年前をくりかえす。
20世紀初頭のウィーンの状況が、現代日本に重なって見えてくるところが恐ろしい。

本書には、この時期のウィーンの精神医学、児童精神医学の様子が紹介され、名だたる治療者たちが次々に登場する。
すべてはここから始まった。そういう時代を知る一助にもなる。
カナーとアスペルガー、アメリカとウィーンのそれぞれで、社会的な引きこもりを示す子どもたちの状態を「自閉的」であると表現するようになり、それが子どもたちへの支援に必要な理解のためではなく、診断として疾患として成立していく経過についてもよくわかった。
単なる状態象であり、特徴の一つであったものを、社会にとって有害なものとして意味づけしたのは、ナチスの価値観に他ならなかったことも。
その時代の医学が依拠していた消極的優生学と積極的優生学についても、だ。それがどれほどのジェノサイドをもたらしたのか。

ナチスの心理療法は、「個人の精神衛生を体制の価値観に順応させることを目的に、これまでの精神分析のように過去を探求するのではなく、現在の問題に目を向けるよう患者を指導した」(p.96)が特徴だという。
教育も、医療も、子どもを、人を、国家に適した存在にすることを目的としていた。
「自分は病気なのではなく、そういう性格なのだという自信」(p.109)をつけさせるアプローチから、「人格を強制するための環境を提供」(p.109)し「子どもを変革する」ことに方向転換していた。
心理職に従事する者として、ここにもまた、自戒の念を感じずにいられない。

国家に管理を任せてはならない。
その大きな理由がここにある。

個別な人々の問題を政府が管理するようになる。
たとえば、第三帝国になる前のウィーン政府は、「子どもや家庭のあるべき姿を決める権限を徐々に高めていった。不適切な部分があると見なされれば、子どもは家族から引き離され、里親のもとへ預けられた利、児童養護施設に入れられたり、収監されたした」(p.32)という。
1939年のナチス支配下においては、3歳未満の幼児を殺すごとに、医師や看護師に手当てやボーナスが支払われていた。
幼児だけではなく、成人もまた、殺害されるようになっていく。

幼児の殺害プログラムを行っていた施設の「スタッフは、子どものいる世話から解放されたいという両親の思いに合わせ、死んでよかったのだとはっきり口にしている」(p.130)ことは、最近あった事件のあれこれを思い出さされる。
「だが児童安楽死プログラムの真の目的は、両親の生活を楽にすることではなく、望ましくない市民を第三帝国から排除することにあった」(p.130)。
殺すだけではなく、致命的な人体実験も多く行われていた。
どんな子どもたちがどんな目にあったのか。複数の事例が紹介されている第7章や第8章は胸が痛くてたまらなくなった。生き延びた人々のエピソードが紹介されているのは、第10章になる。

現代の神経発達障害についての様々な言説は、ともすれば「社会に同化できそうな子どもと同化できそうにない子どもを区別したアスペルガーの考え方と変わらない」(p.330)。

私は、このたまらなくぞっとした感覚を忘れずにいたいと思う。
私も人、人も人、同じ人であることを忘れずにいたい。性別や年齢が違えど、どんな疾病や障害があろうと、国籍や言語、宗教や思想が多様であれど、そこにいるのは人であることを忘れずにいたい。私は私、人は人、自他は別人である。同時に、私も人も人である。
そして、私の心は、魂は自由であることを、大事にしたいと思う。

#アスペルガー博士とナチス #NetGalleyJP

 

 

2017.08.16

いじめのある世界に生きる君たちへ:いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉

中井久夫 2016 中央公論新社

いじめには「立場の入れ替え」がない。
いじめの進行過程は、「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階がある。

わかりやすい説明は精神科医の中井久夫さん、絵はいわさきちひろさん。
絵本のような外見で、心理や教育の専門家でなくとも読みやすく、わかりやすい一冊となっている。
小学校高学年でも読めるようにと配慮されているとのこと。

解説というと、上から目線のようだが、著者自身のいじめの体験をベースにしたフラットな目線、語り掛けるような言葉遣いは、そっと寄り添うようだ。
自分の心のなかに何が起きているのか、体験を整理することに役立つと思う。
また、誰にも言えずにきたこと、誰にもわかってもらえずにきたことを、ちゃんとわかってもらえると感じられるのではないかと思う。
いじめ被害者が自殺を選ぶ理由のみならず、加害者の過剰に残酷になるメカニズムもわかる。

裏返せば、いじめであり、権力掌握のためのHow Toになってしまうことを、著者は恐れながら書いている。
いじめる子どもが、そのいじめの仕方を大人から学んでいることも、鋭い指摘だ。
大人にとっても、家庭内や会社、地域、国家で同様の現象に遭遇している可能性は高い。
だから、二重の意味で、大人には読んでおいてほしい。
予防としても、対処としても、対応しならければならないのは大人のほうである。

なかなかこちらのブログを更新する余裕がないのだが、素晴らしくよい本だったので慌てて書いた。
夏休みも終盤に入り、そろそろ、二学期が近づいてくると感じ始めるころではないか。
宿題なんかできていなくてもいい。友達がいなくてもいい。ちゃんとしなくちゃと、自分を追い詰める子が少ないといいな。
どうしても学校に行きたくない子が、生きたくないに転じてしまうことを心配している。
生きていることから逃げ出してしまうぐらいなら、学校から逃げ出してしまっていいんだよ。
今は見えない気持ちでいっぱいかもしれないけれど、生き延びる道はいくらでもあるからね。

すべての子どもと、かつて子どもだった人が、安心で安全で過ごせるように、今日も祈りたい。

2017.02.28

脳が壊れた

鈴木大介 2016 新潮新書

深刻な話なのに。
深刻な話なんだけど。
くすくす笑ってしまうぐらい、率直な文章が素敵だった。
イラストもユーモラスで、ほのぼのとしている。
笑ってしまってごめんなさいと思うけど、笑えるのは著者の人柄と、なにより生きていらっしゃるから。

41歳で脳梗塞になり、軽度の高次脳機能障害の後遺症を持つことになった体験記。
この人の『最貧困女子』を読み、ほかにはどんな本を書いていらっしゃるのか検索して、これを見つけた。
その瞬間、目が丸くなったと思う。
41歳で脳梗塞って大丈夫なのか!?
ていうか、脳梗塞って、大丈夫じゃないやん!?
と、びっくりしながら、概要を読み、これは読まねばなるまいてと、すぐに購入を決めた。

これは、読む価値がある。
高次脳機能障害という言葉に聞き慣れない人もいるかもしれない。
初めて聞いたとき、高次って、脳にひっかかるのか、脳機能にひっかかるのか、障害にひっかかるのか、これだけではよくわからないと思ったことを憶えている。
どんな症状が出るのか。どの治療やリハビリテーションをするのか。
頭部外傷や脳梗塞などの後遺症のひとつであるが、そこで起きる現象が、時に発達障害の妻の体験との共通項に気づくこと、著者がインタビューしてきた相手を想起させること、そこもひっくるめての体験談である。

病を得ることで、自分の生き方の見直しや御夫婦の関係の見直し、そして社会への提言と膨らんでいく。
全体を通じてテンションが高めであるのは、感情が大きくなりやすい障害であることと、助かったという安堵感と、気づいたことを伝えたいという願いだろう。
これは読んでよかったし、読めてよかった。

ある箇所で、デギン公をネットで調べてみた。
以来、思い出しては笑ってしまう。
どうしてもこのことは書き足しておきたくなった。

2017.01.21

コンビニ人間

村田沙耶香 2016 文藝春秋

胸が痛かった。
なんでこんなにばかにされないといけないのだろう。
なんでこんなに否定されないといけないのだろう。
なんでこんなに拒絶されないといけないのだろう。
なんで。なんで。なんで。

主人公の古倉さんははすごいじゃないか。
18年間、続けて勤務できていることってすごいじゃないか。
きっと休むこととてほとんどなく、黙々と淡々と働き続けることができる。
この人の精一杯の社会適応だと思うのだ。
それを、恋愛していないとか、結婚していないとか、出産していないとか、正社員じゃないとか、そんなことで、なんでこんなに責められないといけないのだろう。
そんなに「みんなと同じ」じゃないと許せないのか、と、問うている小説なのだと思う。

私のささやかな知見と照らし合わせて読めば、発達の偏りを持つ人たちの世界の感じ方を、よく表していると驚嘆した。
そうなのだ。こういう戸惑いや、こんなことが実際にあることを、私は見聞きしている。
古倉さんは、視覚情報よりも聴覚情報が優位で、聴覚の過敏さがあるのだろう。
いつも同じであることがその人の安心感に繋がっており、応用は苦手であるが、同じことをこつこつと繰り返すことはとても得意な人。
言葉を言葉通りに受け止めるため、ユーモアや冗談をうまく理解できなかったり、感情の交流がやや苦手だったり。
そういうアスペルガーなど、発達障害にありがちな世界の体験様式を擬似的に体験させてくれるすごい本じゃないかと思ったのだ。

さまざまな理由でなかなか就労が難しい人たちとお会いしてきた。
定型発達じゃないと、人でないかのような言い方を、なんの気なしにしてしまう人がいる。
しかし、ハンディキャップを持っている人たちを思い出すと、主人公の彼女がこんなにも働けていることがすごいよって、言いたくてたまらなくなった。
すごい、えらい、よくやっていると、手放して褒めちぎりたくなるのだ。
だから、どうか、よってたかって、そんな風に責めないでほしいと、つらくなった。

これって治るものじゃないんだよ。治すものじゃないんだよ。
人とは発達の進み具合が違ったり、発達の具合にでこぼこあったりするけれど、古倉さんは古倉さんのペースで発達していくんだよ。
人が得意なことが苦手だったり、人が苦手なことが得意だったり、誰しもでこぼこしているものだけど、そのでこぼこが大きめなのが、古倉さんの特徴なんだよ。
「治せ」という言葉で、その人らしさを否定や拒絶しないでほしいよって悲しくなった。

とはいえ、古倉さんを一番口悪しく責める白羽だって、たいがい生きづらい人物である。
口では大層なことを言うが、行動が伴わない。プライドだけは高いくせに。
できないこと、していないことが多すぎて、そこを批判されると独自路線な論を展開し、ますます周囲から拒絶され、孤立と無力に傷つきそうになると更に自己愛を肥大させることで傷つきをなんとか無視しようとする。
白羽の言葉はその他大勢の意見を悪し様な言葉で代弁したりしているから、彼をあざ笑う人は、彼に意地悪を代行させながら自分の本音は隠していい人ぶれる一石二鳥を得る。
不器用というか、奇矯というか、愛されないだろうなぁ。発達の問題もありそうだけど、人格の問題になるのかなぁ。
なかなか気の毒に思ってもらえないことで、生きづらさが報われにくくて、ますますこじれていきそうな人物だ。

それでも、白羽のほうが上手に普通の人のふりができるのだから、世界はとても不公平だ。
人間はみんな一緒だという幻想に固執している大きな一群があるが、いろんな生き方があっていいだろうに。
誰に迷惑をかけるわけでもなし、古倉さんなんて彼女の生き方でもって、お客さんの役に立ち、職場に貢献することもできているのに。
この社会はたやすく人を排除する。

古倉さんの感覚や思考に、共感できない人もいれば、否定したい人もいるだろう。
共感する人と、受容する人も違うように、いろいろな読み方、受け止め方があるのは当たり前だ。
当たり前だが、共感できなかった人にこそ、読んでもらいたい一冊なのだ。
こういう内的世界を抱えている人、こういう世界の感じ方をしている人がいるんだよ、ってこと。

私は出産も結婚もしておらず、常勤ではあるが正社員という括りではない職種であるから、あちらとこちらの区別の線引きには敏感である。
仕事という場を得て、やっと一息つけるようになったんだもの。職業アイデンティティが私を支えてくれている。
それでも、不幸じゃないのにね。

2015.07.14

絶歌

元少年A 2015年 太田出版

判断保留をしようと思う。
内容についての解釈や判断を、保留しようと思う。

そう思っていたが、読み終えた後に考え続け、本書は意味のある一冊だと思う気持ちのほうが大きくなった。
なぜか。
端的に言えば、彼の立場に立って考えるとき、いくつもの少年犯罪が繰り返されるたびに引き合いに出される事例が、あれは自分だ!と主張したくなることもあろう。同一性の回復のために、当然といえば当然の欲求である。
あるいは、様々な解釈を聞く中で、的外れに感じるものもあれば、その通りだと感じるものもあるのではないか。私の書くこの文でさえ、どれだけ当てはまっているかは、懐疑的である。
しかし、そのように想像を膨らませ、あれは自分だ!と証明したくなった時に、同様の犯罪を繰り返すのではなく、筆者は筆を取ることを選んだ。
言葉に表すことは、もっとも平和であり、冷静な理性と現実的な感覚が必要とされると思う。
ひどい犯罪をおかしたことには違いない筆者が、その後、同様の行為を繰り返していないところに、更正教育の価値を感じた。

私は第二章から読んだ。
この後半のほうが、筆者が本当は書きたかったことではなかったかとも思った。
それから、第一章に戻ったことも、私のこのような感想、印象に繋がっているのかもしれない。
思春期以降の長い期間、きわめて限られた人間としか接触することがなかったという大きなハンデも背負っているのだ。
陶酔しているかのように見える文章や、子どもっぽくすら見える表現があったとしても、そこに幾分の過剰なサービス精神とでも呼びたくなるような承認欲求と、彼自身の限界も見え隠れしていると受け止めることにした。

日本の法律上、彼は必要な刑罰を受け、法律上は許された存在である。
とはいえ、社会的には彼は許されることを許されない。
彼自身が自分を許してはいないように見受けられるし、許されないことであることを理解しているように感じられる。
そのように読めば、このあとがき代わりに書かれた遺族の方への手紙は、一生懸命に書いたのだろうなぁ、と、私は思わずにいられなかったのであるし、気軽に人を殺したい、傷つけたいと口にする人に読んでもらいたい生々しさがあった。

 *****

以下は、最初にアップしたときの内容である。

続きを読む "絶歌" »

2011.10.23

つなみ:被災地のこども80人の作文集

文藝春秋 8月臨時増刊号 2011

原稿用紙に書かれた不ぞろいな文字。
ひらがなも多く、文章もまだ整っていない。
幼い子どもであっても、地震と津波は目こぼししなかった。

名取市、仙台市、東松島市、石巻市、女川町、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市、釜石市、大槌町。
2011年3月11日の地震と、続く津波がなければ、これらの地名にこれほどまで見覚え、聞き覚えができることがなかっただろう。
私が住んでいる土地は、東北地方からは離れている。

幼稚園児や保育園児から高校生までの80人に地震の記憶を作文に書いてもらい、集めたものだ。
成長した子どもの文章はさすがに読みやすいし、真に迫る。しかし、たどたどしい幼い文章もまた却って胸が痛む。
現地にいなかった自分は映像でしか知らない体験が、彼らには、音があり、温度があり、においがあった。
一夜を過ごした教室の寒さ、1日パン1/4枚でしのいだ空腹、家族が迎えにくるまでの心細さ。
テレビを消せば目の前から忘れられるものではなく、その瞬間を過ぎても続く、引き伸ばさた体験である。

子どもに関わる教育、福祉、医療の領域に携わり、かつ、その場を体験していない者にとって、将来に渡る貴重な資料になるであろう。
しかし、できれば、せめて、匿名や仮名にすることはできなかっただろうか。
被災はなんら恥じる体験ではないが、しかし、体験をさらけ出すことの痛みもまた心配になったのだ。
清水將之によれば、子どもたちがさまざまな不調を呈するのはこれからかもしれない。幼ければ幼いほど、自分の体験を理解し、整理するのは後になるであろう。よい子であれば、周囲の大人を気遣うあまりに、我慢もしていよう。
これを書いた子どもたちと、その背後にいるもっとたくさんの子どもたちが、必要な支援を受けられているように祈る。
彼らのこれから先が少しでも穏やかでいられるよう、私にできる支援と準備もしていきたい。

2009.08.15

発達障害:境界に立つ若者たち

発達障害 境界に立つ若者たち (平凡社新書)  山下成司 2009 平凡社新書

障害を個性として丸ごと、受け止める。
そうできたら、どれだけよいことだろう。

専門書ではなく、解説書でもない。
今はもうなくなってしまった学校に通っていた生徒たちのインタビューで構成されている。
かつてはフリースクールと言われていた形態の無認可学校がある。学校であるとしても、無認可であるため、高卒などの資格としては認められなかった。
現在は、高校レベルの学校は多様化している。広域通信制とそのサポート校、単位制高校などなど。予備校で高卒認定試験の準備を提供することもあるし、ビデオなどを見ながら授業を受ける場合もある。
そういう制度と状況の変化の波に飲み込まれて消えてしまった学校の紹介が第一部。
第二部が生徒だった人たちの中から6人、生き生きとした様子が描き出されている。

LD(学習障害)、アスペルガー障害、軽度知的発達障害、ディスクレシア(難読症)など。
DSM-4の基準では、IQ70以下を精神遅滞と分類するが、それ以上ならall O.K. no problemかというと、そうではない。
精神医学的に問題があるかどうかではなく、こういった発達に関わる領域は、一人ひとりが困っているかどうか、その人自身が問題なく生活や人生をやっていけているかどうかが、問題なのだと思う。
IQは70以上であって、しかし困難を感じている人たちの問題を分類していくならば、境界知能などと表現したりもするけれども全般的に能力がやや低めであることだったり、発達障害、アスペルガー、ADHD、LD、療育の不十分による二次的な障害(虐待被害など)など、多様な状態像が立ち現れてくる。
障害の種類を知識として身につけることは大事ではあるが、この本では障害の名づけは横に置き、彼らが何を感じ、何を考え、どのように生きているのか、実際の様子が見えてくる。
一生懸命に生きているのに、どうしても不遇をかこつ現実が見えてくる。

誰が、どんな苦手を抱えているのか。
博物学的に分類して分類して、障害の名前は増えたけれども、個性として受け入れられる「普通」の幅が狭くなっているような気がしてならない。
アスペルガーの診断基準も読んでいて微妙な気分になるが、ADHDの不注意のあたりは全項目、自分にあてはまる自信があるもの。
そう思うと、障害と名づけはするが、それは何が苦手かを示しているだけに過ぎず、その人の特徴として、個性として受け止められるようになってほしい気持ちが強まる。
かといって、困っている人の困難は、どんなに頑張っても乗り越えようのないものとして厳然としてそこにあるからこそ、障害を障害として、困難を困難として、問題を問題として、認めないこともしてはならないと思うのだ。
そこで戦っている人と出会った時には、特に。

 ***

少なくなっていく子どもについて、かつてより手をかける余裕が生まれたことで、子ども自体はより手がかかるようになり、やがて手に負えなくなるに至った、という皮肉めいた現象が起きているように思えるのです。(p.48)

2009.03.08

僕の妻はエイリアン:「高機能自閉症」との不思議な結婚生活

僕の妻はエイリアン―「高機能自閉症」との不思議な結婚生活 (新潮文庫)  泉 流星 2008 新潮文庫

もしかして、私も異星人系?
こんなこともあんなことも、異星人の特徴というより、私にとって当り前のことなんですが……。

高機能自閉症(知的障害を伴わない自閉症)あるいはアスペルガー障害(言語発達の遅れがない自閉症)は、発達障害の中のひとつである。
この本の中で大人の発達障害を診る医師は少ないことが語られるが、それも当然。発達障害は18歳までに診断されることが前提となっている。
詳しいことは、杉本登志郎『発達障害のこどもたち』などに任せることして、本書に戻ろう。

最近の興味の延長で手にとってみた一冊。あとがきを読むと、これを読んで、「私もエイリアン系?」という感想が多かったそうだ。
異星人(エイリアン)と呼ばれているのは、ここでは、自閉症スペクトラムあるいは発達障害の特徴を持つ「妻」である。
「夫」は地球人。発達障害ではない、いわゆる普通の日本人。この夫にとっては、妻はまるで異星人。
二人の夫婦生活のありようを通じて、夫の目線から見た妻を描写する、というのが、本書の設定である。設定なんだよなぁ、これが。

夫婦になるということは、それぞれ別々の文化を背負った人間同士の異文化交流である。
お互いに相手が異星人に見えてくるときがあってしかり。自分にとっての「当たり前」が通じないとき、好奇心が働けば楽しめるが、いらいらしたり、混乱することもあるかもしれない。
そういううまくいかない感じに困った経験の、ちょっと極端なヴァージョンとして、この本は楽しむのもいいかもしれない。
妻は異星人だったと診断が出たところから、それを踏まえて工夫を重ねていくことで、夫婦の感じていた問題は少しずつ減りつつあるようだ。
障害という言葉の用法の難しさには、このブログでもしばしば触れている。
妻の「単に心身のどこかに不具合があるために、何らかの形で生活に支障をきたしている人っていうだけのこと」(p.185)という定義は、上手いなぁと思った。
障害かどうかはさておき、自分の特徴を知ることは、工夫を考えるために役立つ。相手との違いを知ることが、対策を考えるために役立つ。
妻の前向きさは、この本を最後までコミカルなまでに明るくしている。健気で可愛く一生懸命。過ぎると惚気っぽくて、あてられちゃった。

私は言葉にこだわる。言葉の意味にこだわる。
特に、本の中の夫婦喧嘩のあたり、赤面する思いで読んだ。似たようなことをやらかしていた気がする。
人の顔を憶えるのは苦手だ。恋人と街中で待ち合わせすることは、かなり不安になる。見分けられなかったらどうしよう?と、何年もつきあっていた相手にだって感じていた。
旅行の前に情報を集めて同行者を楽しませようとしすぎて途中で自分が疲れてきれてしまったり。
スーパーやレストランのB.G.M.でイントロクイズなんていうのも、毎日のことだ。いつどこで憶えたか分からないメロディが頭の中をぐるぐる回りだして止まらなくなることも。
恋人の研究にあわせて資料を読み込み、議論の挙句に単なる喧嘩になってしまったり。
音への過敏さではスウォッチがある部屋では眠れないぐらいで済んでいるし、年をとって感覚が少し衰え、記憶力が落ちつつあることで、私は情報管理が楽になった気がしている。
そう。もしかしたら、私が子どもの頃は、そこそこ偏りのあるプロフィールを出していたんじゃないか、と思うことがある。わかんないけどね。

数年前に別れた恋人にこの本を読ませたら、私が何にこだわっていたか、少しはわかってくれるだろうか。
むしろ、私の目から見たら夫のほうが異星人。それって普通か?一般的か?とツッコミたくなることがしばしばだったのだが、後書きを読んで違和感の理由が少しわかった気がする。
いやほんと、これは書くのは大変だったと思う。

2009.02.28

よくわかる自閉症:「関係発達」からのアプローチ

よくわかる自閉症―「関係発達」からのアプローチ  小林隆児 2008 法研

発達障害関連の本を数冊読んでみたが、コアとなる自閉症を理解するには、この本がわかりやすかった。
自閉症および発達障害の病因論には歴史的な変遷があるが、医療にエヴィデンスが求められる昨今、わかりやすいエヴィデンスとして脳の研究を中心に進められている感がある。
しかし、著者はあえて母子間の関係発達から自閉症および発達障害を捉え、コミュニケーションの特徴に注目する。

精神疾患の診断基準の一つであるDSMで用いられているdisorderという言葉を「障害」と訳すことで、いくらかの偏見や誤解がもたらされやすくなったように思われる。
発達障害もそうで、障害と名づけられ、しかも脳機能に起因づけられるとしたら、なんだか永久に変わらないもののような印象を受けはしまいか。
しかし実際には、発達に偏りがあろうと、そこから発達を促すような適切な関わりを得ることで、偏りは緩和され、より適応の度合いもよくなる。杉山登志郎『発達障害の子どもたち』を読んで、その可能性をずいぶんと考えさせられた。
本書の著者である小林も、その点を鑑みて、あえて「発達障碍」と表記する。また、母子関係で困難が生じていることが多いことを指摘し、それをより良好な愛着関係に変化するようサポートすることで、症状の緩和を図る経路を見出している。

注意が必要なのは、小林が旧来のような子育て病として自閉症を考えているわけではない、ということである。
もともと、刺激に過敏であるために愛着の対象にアンビバレントな反応をしめしやすい子どもたちがおり、その過敏さのために母親が関わりづらく、コミュニケーションがすれ違うところから母子間に悪循環が生じてしまう。
悪循環が症状や問題を大きくするのであれば、循環を逆転させればどうなるか。
そのためのアプローチは本書には詳しくないが、援助者も二人以上のチームで関わるところは興味深い。

このような時には、職員であれ援助者であれ、誰しも同じような悪循環に陥るのであって、私がこのようなことを冷静に指摘できたのは、当事者でないからという理由が大きいのです。正に「傍目八目」と言うことができましょう。(p.171)

密接に母子が二人で関わる時に冷静でいられなくなるのは当然であると、著者は受け止めている。対応の難しさを知っているからこその言葉だと思う。
母子間のコミュニケーションに注目するからといっても、決して母親を責める本ではない。このことは、何度も繰り返しておきたいなぁ。
自分の子どもに発達障害ではないかと疑問を感じていたり、すでに診断を受けたことがあるというお母さんたちには、第三者の専門家の援助を求めてほしいと思った。
孤立しては冷静でいられなくなる。煮詰まる前に、あきらめる前に、母子双方のために援助を受け入れてほしいと思った。

事例が数多く紹介されており、貴重な情報が多い。多くの事例は乳幼児であることから、小児に関わる仕事をしている人には、お勧めである。
確かにわかりやすい本であるが、一般に膾炙するほどわかりやすいかと問われれば少し困る。けれども、仕事として関わる人には知っていてもらいたい。
また、学童期、思春期以降の自閉症および発達障害に関わる人にとっても、問題の傾向と対応の方針は共通であるため、参考になることであろう。

2008.12.31

発達障害かもしれない:見た目は普通の、ちょっと変わった子

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子 (光文社新書)  磯部 潮 2005 光文社新書

宿題のための準備その2。
先に読んだ杉山登志郎『発達障害の子どもたち』の記憶が薄れないうちに、慌てて借りて読んだ。
発達障害については、専門家によって説明が微妙に変わる印象がぬぐえない。説明から思い浮かばれる病態像が、どうもぶれてしまうのだ。
私があまりにも知らないせいかもしれないし、人によって見方が違うせいかもしれない。概念が新しすぎて、定説が定まっていないせいかもしない。
あるいは、発達障害というものを、中核になる古典的な自閉症らしい自閉症を中心に描写するか、それとも辺縁にある多様な発達の偏りを視野に入れて描写するか、その違いのように感じた。
たとえば、これはまったくの個人的な印象であるが、今回読んだ磯辺は前者、先日読んだ杉山は後者という印象である。

どちらが正しいとか、どういうのが良いとか、判じることは私の手に余るが、言葉の持つ幅にある程度は敏感でありたいと思う。
同じ言葉を用いていても、それをどのような定義で用いているのかが異なるとき、会話はたやすくすれ違う。
だからこそ、言葉の定義を明確にすることは重要である。その言辞が診断名であるならば、その診断基準を。
本書は対応や治療についての記述は少ないが、DSM-ⅣとICD-10の診断基準を丁寧に紹介しながら、自閉症、高機能自閉症、アスペルガー、LD、ADHDを解説してある。
どのような基準を持って診断がなされているのか知りたい人には、一挙に紹介されている点で便利であろう。
実際例を、医師である著者、当の本人、その家族の三者の目線で言述しているところは目新しく、興味深かった。

個人的には、診断基準を読むと眠くなるのです……。
私がDSM-Ⅳを読んでいて面白いのは、それぞれの疾患の概念や鑑別ポイントが書いてあるあたりだ。DSMは決して、箇条書きの診断基準の羅列だけで構成されているわけではない。
この基準だけを見て自己判断することは不適切だと思うが、心当たりが生じれば専門家に相談するよい契機になるとも思う。

もう一つ個人的には、自閉症というよりも、広汎性発達障害の単語のほうに馴染みつつあるため、本書が出版されてからの3年間の時間経過を大きく感じた。
メチルフェニデートがADHDの治療薬として紹介されているが、本書より後に、悪用する大人たちへの対応のため、使用が非常に制限されてしまった。
また、特別支援学級をめぐる法的な整備をめぐり、現在は特に、中核的な自閉症には該当しなくともなんらかの発達の偏りがあるケース全般への対応が迫られている。
そういった状況の変化も計算に入れつつ、情報には接していかなくてはならないだろう。

本書は就職や結婚について、同胞や出産についての問題点も明記しており、耳に心地よい情報ばかりではない。
著者が臨床家として出会ってきたケースの数々の中で、ここには書かれていない様々な心痛があっての苦言であろうと思われた。
本人の性格の問題でもなければ、保護者のしつけの問題でもない。ただ、外見ではわからないところに苦手なものがあって、それもある程度は克服可能な苦手を持っているだけだということ。偏見や誤解が減じ、適切な対処がなされることを祈っている。

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