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香桑の近況

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**趣味の思想・哲学**

2013.04.19

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール
工藤妙子(訳) 2010 阪急コミュニケーションズ

自分自身の中にフィルターがある。
私はすべてを記憶することはできない。
まず、すべての情報にふれることができない。
それらを、記銘することができない。
記銘した記憶のすべて想起することができない。
そして、記銘できていたはずのことさえ、人は忘却していく。
その限られた記憶力の中で、必要なものや好ましいものを選び残していくためのフィルターを用いている。

エーコとカリエールという、文筆家であると同時に稀覯本収集家である2人の、老練で諧謔あふれる対談だ。
書籍自体が美しい装丁で、見つけ、手に取り、そのまま、カウンターに持っていって購入した。
日本の携帯小説まで話題に出てくる。グーテンベルグの聖書や『アエネーイス』やシェイクスピアに並んで。
本について、図書館について、文化について、言葉や文字について、知について。
さまざまな人物名、書籍、引用。その知識の豊富さと、感性の洗練さと、思考の明瞭さ。
対談であることと、読みやすい訳であることで、専門書とかまえることなく、知性にうっとりと酔うことができる。

未来を確実に言い当てることは難しいという認識の上に、膨大な過去を集積し、その過去には空白があることまでも踏まえ、「問題はむしろ現在の不安定さ」(p.90)と指摘する。
自分が研究者を目指していた短い時期に、一つの主題について調べようとしたら、情報が無限にあることにめまいがした。
それを集める財力、読みこなす時間と体力と記憶力、言語の限界。理解したと思った瞬間には、次にはもう新たな知が生み出されている。自分の知らないことを知らざるをえない。
私が感じためまいを、この巨匠達2人+αも、当然のこととして語っていることに、ほっとした。

この2人は2人とも、人間の愚かしさに興味を持っているのだそうだ。
馬鹿と間抜けと阿呆を区別するくだり、声を立てて笑いながら読んだ。
「人間は半分天才で半分馬鹿」(p.299)と、自分自身の愚かさも踏まえつつ語り合うところは、かっこいい。
読むことと書くことと。憶えることと忘れること。信じることと疑うこと。
決して楽観的にはなりきらない。炎による検閲を意識しながら、言葉はくりだされる。西欧の文明そのものへの批判も、舌鋒鋭い。
彼らの言葉は非常に懐が深かった。本への愛情は、人間そのものへの好奇心の一形態と思った。

本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。その点をはっきりさせておくのは素晴らしいことですね。本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。(p.382)

これもまた、積読本の山を抱えている私をほっとさせてくれた言葉である。
よっしゃ。積むぞー。

2013.03.26

超訳 カント:時代を照らすカントの言葉

イマヌエル・カント 早間 央(訳・監修) 2011 マーブルブックス

男は、愛しているとき嫉妬深く、
女は、愛していなくとも嫉妬深い。(p.130)

うぅむ。カントよ、何があった?

入門書すらハードルが高いと思う人にも、哲学には興味がないという人にも、これなら読んでもらえないかな。
カントは、知性の明晰さで際立ち、言葉の切れ味が魅力な哲学者だ。
きっぱりと言い切る言葉の数々、どれもこれも引用したくなる。格好いいし、含蓄があるのだ。
カントのそういった名文を集め、章ごとに解説を加え、巻末にやや詳しくカントを紹介している。
ちょっと前にはやった感じの「超訳」シリーズであるが、本屋さんで割り引かれているのを発見して、即購入。

新しい発想だと思っていても、過去を紐とけば
すでに誰かが言っていたりするものだ。(p.101)

カント自身がこんな言葉を残しているが、私にとって、カントがまさにそうである。
読んでいて、そうそう!と頷く。自分のもやもやしていたものをすっきりと言葉に表して整理してもらう快感がある。
そもそも、出会ったのは高校生のときだ。
倫理や道徳は、カントを基準に学んだ。思考の方法を、哲学する過程を学んだ。
だから、私の価値観や世界観は、ベースにカントを置いている。
読んでいてすんなりと馴染むが、同時に、改めてカントが持つ現代性に気づいて驚く。

今なお通用する部分と、今だからこそ再考すべき部分があると思う。
一つずつを味わいながら、じっくりと思索したいものだ。
本書に集められている言葉は、実にカントらしい、啓蒙や正義、知性についての言葉だけではなく、男女についてや戦争について、教育について、様々なジャンルに分かれている。
美しい言葉も、苦い言葉もある。笑える言葉も、学ぶべき言葉もある。
その中で最後にひとつ、選ぶなら、今日の気分でこれにしておこう。

人は教育によってだけ、人間になることができる。(p.150)

2012.05.08

レヴィ=ストロース入門

小田 亮 2000 ちくま新書

冒頭のデリダ批判がしびれる。かっこいいなぁ。
レヴィ=ストロースじゃなくて、小田さんがかっこいいなぁ。

私がレヴィ=ストロースに触れたのは大学のときである。
選択必修の第二外国語でフランス語を選び、二年目には、なぜか、テキストで「悲しき熱帯」を読むという恐ろしい講義を受けた。
翻訳書だって訳わからんのに、フランス語になったら訳がわかるかーっ。
そんな悲鳴を何度もあげたが、しかし、ある一文において、ひどく感銘を受けたことも記憶にある。

その一文を探すためには本人の文章にあたるのが一番だろうが、あいにく、どの論文かを覚えていない。私の理解力・読解力からいって入門がふさわしいだろう。
そんなわけで、買い溜めて積み上げていたちくま新書を手に取ってみた。

体系は変換しない。構造は変換する。
数学の行列みたいなもの~?と、読み進めるうちに頭の上の???は増えていくが、おおむねわかりやすい。
ジーン・アウルの「エイラ:地上の旅人」シリーズ(集英社版のタイトル、私が読んだ評論社版では「始原への旅立ち」)を読んでいたことが、婚姻システムの構造を想像する助けになったと思う。
そんなわけで、交叉イトコ婚のあたりで、多少、?を飛ばしても、そこを力技で乗り越えていくと、私の読みたかった神話の話になる。

一つ一つの神話は、だから何?とか、それが何?とか、わけがわからないことが多い。そこに象徴性を見出して/託して読み解く(と見せかけて他の何かを表現/理解するために援用する)やり方と、レヴィ=ストロースの方法はまったく異なる。
南米から北米にかけて採取された神話を、読み比べ、読み合わせ、折り重ね、継ぎ接ぎし、ブリコラージュしていく。
どれが一番古くて、正しいのかを探るのではなく、複数の素材を、砕いたり、裏返したりしながら、対立しながら共通する部分をすくい出し、並び替えていく。
その過程を通じて「神話の大地は丸い」こと、地理的に遠い神話に類似性が見られることを示していく。
しかも、多重コードであることを認めているからイメージは豊潤に象徴性は保たれたまま布置されていく。
このくだりはスリリングで、楽しくて、面白くて、わくわくした。世界が活き活きと蘇ってくるような魅力がある。

レヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものだ」(p.208)という。
自然という連続した体験を、文化という言語によって分節化された不連続なものに置き換えていく過程で、連続と不連続の対立を現実に解消することはできないが、神話はそこをなだめ、理解したり、納得できるようにするものだという。
その機能については腑に落ちるし、最初は奇妙に感じた『神話論理』の巻ごとのタイトルも、なるほどと思った。
レヴィ=ストロースは「私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(p,206)言っていたのそうだ。まるで依巫のようだ。まるで、稗田阿礼みたい。
日本では神との出会いは、日常の景色がふとしたことで非日常の景色に「反転」する体験(菅野覚明『神道の逆襲』)なのだから、神話は何かひとつの根源にさかのぼるものではなくていいのだと思う。

私が学生時代に触れた論文は「神話の構造」だったみたい。
どれが一番古くて、だからどれが正しいのかを探ってみようとしても、それは無理なことなのだから、今残っているものを「束」にして考えてみないか?という提案が、ひどく新鮮だったのだ。
そんな理解の仕方は、今も私の中では大事なツールになっている。

2012.04.21

禅語

石井ゆかり 2011 パイインターナショナル

表紙の白い蓮の花の美しさにうっとりして手に取った。
PIEの本は写真が綺麗で、ついつい欲しくなってしまう。
写真の美しさから入ってもいい。言葉の意味深さから入ってもいい。
どちらからでも味わえる。しかも、少し小ぶりで手に馴染む。

喫茶去や本来無一物、明鏡止水といった、見覚えはあるが意味はいまひとつ自分では説明がつかない言葉。
漢詩や慣用句、あるいは、単語といってもいい言葉。
それぞれの言葉に意味や由来を付け加えた上で、エッセイが添えられている。
通して一気読みするよりも、1日に1つか2つ、ゆっくりと味わいながら読んでいきたい。
その文章のページにも、何気ない図柄が配されていたりして、趣のある本なのだ。

「薬病相治」という言葉を知った。
なるほどと思った。
私の日頃の営みはまさに相治す。
私は薬であり、病である。

祇是未在。
他不是吾。
まだまだ学ぶべきことは多い。

春在一枝中。

雪月花の美しいときはあなたを思い出して想うよ。

2010.10.20

史上最強の哲学入門

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)  飲茶 2010 マガジン・マガジン

熱いなぁ。表紙が。
哲学入門書の中では浮きそうな……。
でも、哲学者は格闘家みたいなものだという前提には納得する。
武器は己の肉体の代わりに己の思考、拳の代わりに舌先三寸をもって、高みを目指す。
そのスピリットは、確かに格闘マンガと通底していると言って過言ではない、と私は思う。
論文なんて口喧嘩と似たようなものなんだから。

そういう格闘マンガという、個々の対決をメタ・ストーリーに組み込んだ形式を採用したからこそ、思想の歴史の流れを感じることができる。
砕けた口調、身近なたとえを用いた、内容的には至極まっとうな哲学解説書だ。
一読して頭に入るぐらい、かなりわかりやすく、イメージしやすく、32人の男たちの思想が紹介されている。

惜しむらくは、もうちょっとコンセプトを活かしてもよかったのではないか。
たとえば、格闘ゲームの解説書のように、各キャラのステータスやらパラメータを評価して、特技なんかも紹介しちゃったりとか。
いや、いっそ、格闘のようにもっともっと絡めてみようよ。仮想の空間で議論させてみたらいいじゃん。
……なんてことを要求したら、書く人はとても大変な思いをするだろうけど。

誰の哲学が史上最強か。
そこは各人に触れてもらいたい。

やっぱり、私は哲学が好き。
ぐだぐだうだうだ考えるのが好き。
答えなんて出なくともよい。
この与えられた能力を使っていたい。
考えるのをやめるのではなく。
そういう病なんだよ。これは。

2009.08.07

萌える☆哲学入門:古代ギリシア哲学から現代思想まで

萌える☆哲学入門 ~古代ギリシア哲学から現代思想まで~  小須田 健 (監修)  2009 大和書房

わざわざ、萌えにしなくてもよいと思うのだが……。
とてもコンパクトに哲学史をまとめてあって、文章面の内容は非常にまとも。高校生から大学の一般教養の倫理哲学には十分に対応可能。
どのあたりが萌えなのかというと、可愛らしい女の子のキャラが道案内役にしてあるところか、それとも哲学者のイラストがそれとなくイケメン風に描いてあるところ……なのかな?

いや、うん。いえっさとブッダがイケメンになると、ほら、聖☆おにいさん風味で……もにゃもにゃ。
どの人がどんな風に美化されちゃっているか、そのあたりを見比べると、妙にテンションがあがりました。
でも、フーコーはどうにも加工できなかったのか、おっさん萌えな人向け? レヴィ=ストロースもか。
カントがうっかり好みな感じで動揺。キルケゴールはもともとが美形系だとは思うけど。
……と、ぶつぶつつぶやきながら、ぶはぶは笑いながら眺めてしまいました。

生き様死に様データなんかもまとめてあって、ゲームの攻略キャラのようになってしまっている。
その特技の項目が、これまた秀逸で、編著者たちのセンスが生きている。
ユニークな入門書だ。ほんと、攻略マニュアルって感じ。
ひたすらぐだぐだと思考することが好きにな人は、ぜひ、哲学そのものへの萌えを感じてもらいたい。

2007.03.29

占領下パリの思想家たち:収容所と亡命の時代

占領下パリの思想家たち―収容所と亡命の時代 桜井哲夫 2007 平凡社新書

フランスの現代思想に興味を持つ人はもちろんのこと、社会における知識人の役割を考える人、戦争や政治について語る人に、一読を勧めたい。
そのとき、何ができるのか。どう振る舞うべきか。
いや、そもそも、そのときを惹き起こしてはならないと深く戒めるために。

やっと読み終わったー。長かった。厚かった。中身が詰っていた。
古い時代の雑学っぽい文化史や生活史は好きだが戦争史は嫌いな上、気ままな自分の興味のあるところしか教えない歴史の先生にばかり教わってきた所為か、私の近代史から現代史の知識は薄い。
怒涛の歴史には圧倒される。数々の地名と人名に、右往左往しながら、ともかくも最後まで読んでみようと思った。
ここで登場する主な知識人には、サルトル、デリダ、コクトー、ボーヴォワール、レヴィ=ストロース、サン=テグジュペリ、アーレント、デュラス、カミュ、メルロ=ポンティ、ベンヤミンなどなど。

フランスの現代思想と言われるものは小難しそうなイメージが先行して、学生時代は手を出さないように自制し、なるべく避けて回っていた。
それが、内田樹『ためらいの倫理学』をきっかけに、サルトルの『嘔吐』を読んだ後、中山元『フーコー入門』、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』、熊野純彦『レヴィナス入門』と重ねたところに、この本を紹介された。
個々の哲学者の背景にあったものが、この本を読むことで、時系列がすっきりと整理され、生々しく肉付けされたように思う。
『茶色の朝』の日々、戦争の世紀の、その只中で生きていたということ。

フーコーは、戦後のフランスは、ハイデガーを乗り越えなくてはならないという使命を帯びていたわけ。
レヴィナスは、ユダヤ人であり、不条理な世界の、無用に過酷な苦しみに対し、私は無垢でありうるのかと問い続けたわけ。
情報量が多すぎて、なんとも感想が難しい。
が、とりあえず、サルトルはやっぱり変な人と思った。あんまり友達になりたくないタイプだなあ。
著者は後書きで中井久夫(『関与と観察』@積読中)を引きつつ、人類がいまだ戦争という宿痾から逃れていないことを指摘し、ベンヤミンから引きつつ、「『物』を媒介にして、相手の嘘に対しても報復行為を行わず、時間をかけて話し合いを続け、相互理解の道をさぐるという、平凡だがきわめて難しい道を歩むほかは、今後われわれが生き残る道はない」(p.299)と述べる。
歴史は、その平凡で当たり前のことを記銘・想起し続けるためにこそ、忘却してはならないと思った。

ちくま新書がお気に入りの最近、次に読む思想関係は、さしあたって船木亨『メルロ=ポンティ入門』、小田亮『レヴィ=ストロース入門』の予定。いよいよ、デリダ、ラカン、バタイユを避けきれなくなりつつある気がする。新書ぐらいで手頃な本があるといいんだけどな。

最後に孫引きになるが、メルロ=ポンティの文章を引いておこうと思う。三崎亜記の『となり町戦争』の主題は、まさにこのことであると思った。これは、日本という土地にいる人においても、また他の国の何かの戦争の時代を生きた人にとっても、共通することではなかろうか。今現在、どこかに戦争がある限り、誰も無関係ではありえない。

 ***

 われわれは、無実ではないし、自分たちが置かれていた状況の中では、非難されないですまされる行為というものはなかったというのは本当である。この地に留まることでわれわれはなんらかの程度、すべて共犯者となったのだ。(中略)武器あるいは宣伝活動で戦争を続けるためにフランスを去った人々も、自分の手が汚れていないと誇ることはできない。というのも、彼らがあらゆる直接的な妥協を免れていたとしても、一時的にこの土地から離脱していたからで、その意味では、われわれと同じく、彼らにも占領による荒廃への責任があることになるからだ。(p.278)

ためらいの倫理学:戦争・性・物語

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 内田 樹 2003 角川書店

この本が、哲学の本を再び読んでみたい欲求を引き起こした。
親密にしていた人に勧められて読んだ一冊であり、その人との諍いを深めた一冊だ。

最初のいくつかの短編の読みやすさ、軽妙な語り口と話題への親しさで、つい引き込まれた。
気軽に読めそうなエッセイ集かと思いきや、硬質な論文まで幅広く集められているところで、途中から裏切られた感もある。
論文は用語の面でわかりにくさを覚える人もいるかもしれないが、その硬質な文章が面白かったのだ。
特にカミュについて。頭のよい人はこういう風に読み解くのか、と感動した。「太陽がまぶしかったから」という台詞の意味を、ようやく悟ることができた気分だ。

穏健や寛容、中庸なものを意識して好む人と、それらに反感を持つ人の双方に勧めたい。
個人のうちでさえ情緒や思考は一枚岩ではなく、むしろ一つの信念や信条に貫かれて揺らがぬ人のほうがファナティックな危うさを持つ。世界はもともとあまりにも多様。個に優先する普遍があると仮定しても個が普遍や絶対に言及した時点で相対性を帯びる。
その複雑さを複雑なままにしておくこと、自分自身の中の矛盾さや中途半端さを許すことは、言い換えれば、よい対象が実は悪い対象でもあるという抑うつに耐えることでもある。

しかし、自分の中の空白、自己の抵抗が示す抑圧するものを、間断なく見据え続ける作業は、結構、きつい。
この作業は私の仕事にとっては当たり前に必要とされることであり、やりなれた作業でもある。が、プライベートでまで貫徹したいとは思わない。
私にこの作業を要求した人は、しかし、彼自身において実践していたのだろうか。彼が他者の複雑を許容してくれているとは、私には感じられなかったことを残念に思う。
彼との話し合いはすれ違い、お互いの断絶を確かめるばかりだった。彼はお互いに交わることのない断絶があるといい、だからこそ私はそこに橋を架けたいと願ってやまず。その彼の振りかざす、内田やレヴィナスを確かめたくて、本を読んだ。

レヴィナスという名前を意識したのも、本書の中だった。
この本をきっかけにして、積読の山の中からサルトルの『嘔吐』を引き出し、その山にカミュの『異邦人』を置いた。後者は昔読んだが、既に記憶の彼方だ。
ついで、レヴィナスそのものをもう少し知りたいと思った。彼の唱える解釈は妥当なものであろうか。彼をもっと知りたくて、寄り添いたくて、彼に通じる言葉で話したくて、伝えたくて。
実際に読んだのは、さしあたって、熊野純彦『レヴィナス入門』である。仕事の片手間に読むには、オリジナルは敷居が高かった。
倫理について、政治について、死について、愛について、最早、読んだこと、感じたこと、考えたことを話し合う相手はいない。

あの時、いささか、私もむきになった。そのことは反省材料である。
自分を全否定されたら、むきになる。そのことは自己弁護の言い訳である。
本当のところはといえば、レヴィナスなんかどうでもよくて、彼が他の女性と親密にしていた、この本のことでも、彼にとってはやっぱり私は後回しだったという、それが腹が立っただけなんだよねー。結局、わからなかっただろうなあ。
私もちっちゃいことだが、その後、いまだに内田さんの本は読む気になれない。ベストセラーも出ているが、彼と彼女のことを思い出して嫌になるので、どうにも手に取る気になれない。それがなければ、ほかの著書にも手を出していたことだろう。

コミュニケーションの修行の困難さに途方にくれながら、私はそれでもほとんど不可能な夢を見ていた。
夢を見て、見続けて、まだ見ているのかもしれない。
(2006.4.25)

2007.03.04

レヴィナス入門

レヴィナス入門  熊野純彦 1999 ちくま新書

希望は、それが許されないときにはじめて希望となる。希望の瞬間において取りかえしのつかないものとは、希望の現在それ自体である。(p.75)

 ***

目次を見て、くらりとめまいがした。吐気とまではいかないが、揃いすぎている文字列に息詰まりを感じた。
「さしあたって」「とりあえず」といった表現は、厳密性を企図したときに増える。正確に表現しようとして、その目標が充分に達成し得ないことを予想して、断定を留保する言葉を多用する。
「~はずである」「~でなければならない」といった表現がそこに加わると、文章全体が息苦しくなる。ささやかな疑問もいかなる反論も許す余地を与えないような堅苦しさを感じた。
強迫的で肩がこる。哲学らしい、学生時代に馴染んだ極めて哲学らしい文章だった。

既視感。
この人の文章、レヴィナスを論じたかつての友人の文章と特徴が似ている。
語の選択、表現、文の構成。論の展開、全体の形式。レヴィナスを語る人の、共通の言語なのだろうか。

「私」である吐気。存在することへの疲労。これはある日の自分を思い出させる。
とっくに突き詰めて考えることを放棄した問題点と、懐かしくも哲学らしい文章で再会した感がある。
とはいえ、サルトルとの対比、ハイデガーとの対比を通じて語られるレヴィナスは、ホロコーストの時代を生きたヨーロッパのユダヤ人としての経験を無視することはできない。
p.161にあるような「子を、わけても息子をもつことにより、<私>は時間の断絶を超越し、死に勝利する」という発想は、イリガライの批判するような男性性からのものというよりも、ユダヤ的なものとして当然、納得されうるようなものである。
その経験の悲壮には、今よりも誇大な自己愛や万能感に支配されていた時代の自分でしか、太刀打ちできると過信できないものである(あくまでも過信であると自覚する)。

フーコー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスと入門を読んできたが(原著は私の手に余る)、彼らはフランスで戦後、ハイデガーを超克しなければならなかった。
サルトルが不安と神経症の世界であるなら、レヴィナスは不眠と心身症の世界。自己違和的になった身体の登場。ハイデガーの「手」からレヴィナスの「口」への移行は、自傷行為や摂食障害への理解を深める一助になる。
翻訳らしい風合いの残るレヴィナスの表現は詩的で目を惹く。端的であるために、部分を引いても意味が伝わりにくい。アフォリズムのように、いかようにも利用可能で、かえって引用しにくい。
哲学が好む、語の定義をめぐるヨーロッパ言語圏の言葉遊びには、興を感じなくなったんだよなあ。

私が他者を構成するのではない。他者が私を構成する。乳児からの発達を考えれば当然のように思う。「私が他者を構成する」というのは、成人の発想だ。
私と他者との間の決定的な断絶。「充たされない渇き、どのような対象によっても充足されない欠如、あるいはむしろ不在」、「充足されることでかえって渇くような渇き、それゆえにけっして満足がありえないような渇き、いつまでも・つねに欠如でありつづけ、だからひたすら追いもとめるしかないような疼き」(p.116)は、私にとっては、他者への渇望である。
だからこそ、埋めようもない差異を超えようとして、愛撫し、抱擁し、接吻する。他者が私を受肉する。それは同時に、私と他者との断絶の再確認である。私が私でしかないことの再確認である。
徹底した拒絶と断絶。したがって、性行為が私に残すのは、最早、渇望ではなく、焦燥ですらなく、絶望である。
絶望は私が性的な対象から降板されることによって完成される。逃れる先である未来は奪われた。彼に対する魅力を失うという点で、私は私の老いを、ひたよる死を先取りさせられる。私は消費され、他者に殺され、ものとなる。

いささか連想を自分に引き寄せすぎたが、「私は他者が死ぬことについて有罪である」(p.200)感覚を、突き詰めすぎているとは私は感じない。survivor's guilt(生存者の罪悪感)と呼ばれる心理を、より鋭敏に感じとることを想定すればよい。
他者との関係に、なべて倫理を読み込むため、このいっさいの受動性よりも受動的な、無限の受動性を据えることは卓越だと思った。
「なぜ殺してはいけないか?」という素朴な問いに答える可能性を、世界の一切の不条理と、原罪と言い表されるものとを説明する、仮借のない回答だった。

私が欲していたのは、応答ではない。
私は呼びかけを欲した。
私は呼びかける他者であるところの彼に対して有罪になりたかった。
繋ぎとめられ、私は彼という他者によって構成されたかった。殴打ではなく、愛撫で。
なぜかならば。そこに埋めようがなく、超えようがない、断絶があったからこそ。
あなたは果たして私に、顔と顔とで対峙したのだろうか。

この本で呈示されているレヴィナスは、私にとって親和的であるがゆえに、だから、どうなん?と、立ち止まってしまった。これを読んでいた人は、一体、何を感じとっていたのだろう。
次は、ユダヤの人という繋がりで、マルティン・ブーバーを振り返るのもよい。『我と汝』をどこかに所有していたと思うが……。
それとも、皮膚の所有に関連して、ドウォーキンを再読するのも魅力的だな、と、一冊を読むたびに読みたい本が増えていく。
それにしても、哲学者だけには限らないが、入門書や解説書を必要としないような、わかりやすーい描き方を、なんで最初からしてくれないんだろう……。

 ***

ソクラテスは、死は「夢のない眠り」であり、無上の幸せではないかと語ったそうだ。だとすると、不眠の夜は、死ぬことすら許されない苦痛の時間ではなかろうか。死にたいほどに苦しいにもかかわらず、死を奪われた。アウシュビッツを思い起こす。それほどの苦しみの前では、私程度のものに語る言葉はない。

2007.02.23

現代語訳 般若心経

現代語訳 般若心経  玄侑宗久 2006 ちくま新書

夜中に、わははと笑いながら、般若心経を読む人。
我ながら、なにやら不気味だ。

ちくま新書なのに。
この前、小説を読んだばかりの作者名に惹かれて手に取り、その場でぱらぱらと中身を眺めて驚いた。
穏やかで微笑ましい挿絵が入っている。
文章も読んでみると、なにやらコミカル…?
これは面白そうと思って衝動買いした。

物理学(西洋の科学の代表として)を突き詰めると、キリスト教的な神概念ともそぐわなくなる。その辺りは、池内了『物理学と神』が参考になる。
柳澤桂子の例もあるから、近代的で理知的なロゴスの知を推し進めた先に、いつか見た景色のように仏教的な世界を感じとる人は、一人や二人ではないらしい。
この感覚は、それなりに自分勝手に想像をめぐらせていた世界観に馴染むので、私には納得しやすい。

それ以上に、この現代語訳に盛り込みたい!と思ったのが、ウィトゲンシュタインの語りえぬものだった。
続けて読んだ二冊が、期せずしてぴったりと重なり合うような体験が、快い。
これを偶然と呼ぶか、共時性と言うか。

分かる(理解する)ことは、分けることに通ず。言葉を駆使して理解しようとしたときから、かえって遠ざかってしまうものがある。
ロゴスの知ので明をしてから、実践的な知である般若へと視点を転じ、最後に悟りを得る方法を紹介する。
それが、訳しようのない、意味を超えた咒文としての、般若心経。

名づけによって失われるものや、文字によって失われるものを本書でも指摘しているが、そこにとどまらず、より哲学的に近接を図ることを考えたくなった。
物理学よりも哲学のほうが、私には馴染みがある分、腑に落ちやすいだけのことかもしれない。
ウィトゲンシュタインにとって、宗教もまた言語ゲームであり、意味のない音の羅列に咒文の意図を託したときから言語ゲームに取り込まれる。
また、独我論が論として成り立つことによって、独我論は語りえないものとなる。自分にとって自分が特別であることが、誰にとっても可能である、そのことにおいて。
般若心経は「私」を特別で自立したものと捉えるような顚倒夢想の境地を遠く離れることで涅槃に辿りつくという。

遠いなあ…。

咒文をただ唱えるという行為が、思考を超える力を持つことには、まったく同意する。音に浸ることは、言葉で形成される思考を、どこか超越する。
ただ、私自身が、今ここにある自分にこだわりたくて、涅槃を目指したいと思っていないところが、涅槃をますます遠くしているような。
さらさら読める一冊であるが、意味を知った後で読み返す般若心経は、味わい深いものだった。やっとありがたみを感じることができた気がする。

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