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香桑の近況

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**趣味の思想・哲学**

2019.11.25

急に具合が悪くなる

宮野真生子・磯野真穂 2019 晶文社

村山早紀さんに教えていただいて、手に取った。
その後、読み始める前に、私がまさに『急に具合が悪くなる』とは、誰も予想がつかなかったはずだ。
私自身にはかすかな予感がありつつも、まさかこんな時に思ったのだから。
そういう臨場感と御縁のある読書となった。
三度目のがん治療……手術のために入院した先で読み始めた。

二人の知性が、とにかく素晴らしい。
宮野真生子さんは哲学者。磯野真穂さんは医療人類学者。
二人の真剣な言葉の投げ合いに、舌をまく。そんな表現があるのかと、胸を衝かれる。
そう!それ!!それなんですよ、と、どのページにも一人で唸り、頷く。
少し読んでは噛みしめ、また少し読んでは立ち止まって胸に響かせる。
たとえば、「不運は点、不幸は線」(p.124)であるとか、詩的ですらある。

この本のなかで取り扱われてるテーマは「生と死」に集約されていくのであるが、もう少し細かく分けていくと、①死とコントロール、②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野、③大病についてのポリティカルコレクトネスといったあたりが大変興味深かった。そして、④点と線と厚みが全体に流れている。

まず、①死とコントロールについて。ハイデガーの語る死についてで思い出した私自身の死生観があるが、それは別の記事に書くことにしたいと思う。
がんになることを、自己責任論として語る人が世の中にいる。私とてなりたくてなったわけではないし、ならなくてすむならなったわけがないのであるが、そこを宮野さんは「合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、コントロールの欲求と言える」(p.86)と指摘する。
それを磯野さんは「何かには必ず原因があり、合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念」(p.105)と受け止める。
このような欲求と信念が、自己責任論であるのではないか。だからこそ、がんになったことも自己責任論ということにしてしまわれる。
人間がどうしても、なんで?と原因を知りたがる習性があるからこそ、このようなことが起きる。
磯野さんは「科学は<HOW>を説明し、妖術は<WHY>を説明する」(p.104)と目からうろこがぽろぽろ落ちるような文化人類学の理解を紹介している。
科学的な理解というのは、ひとつずつ知見を積み重ねた蓋然的な理解であるが、それが迂遠で面倒なプロセスであったり、人のワーキングメモリーを超えるような情報量だったりするとき、人は直観的な理解を好む。直観的な理解は検証を拒むため、しばしば直感や直勘に堕する。
いくら、グレタ・トゥーンベリさんが「科学の声を聴いてほしい」と訴えても、人間が知りたがるのはWHY。そこに大きなずれが生じてしまうのだ。

そのような生き方の行き着く先として、宮野さんは「生き方の最終地点で求められるものが、最近流行の『終活』ではないかと思います。予期できない『死』というものに対し、事前に準備しておくことで、できる限り自分の人生の責任を自らとり、身ぎれいにしてこの世から離脱する」(p.158)ことを挙げる。
このくだりは、先に読んだ小島美羽さんの『時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』の自死した人の部屋の章を想起した。荷物を処分し、ブルーシートを敷いて、「なにか未簡潔なものを残して周りに迷惑をかけることなく、自分の人生を自分の手で一個の完成したものにして去ってゆく」(pp.158-159)。そのようなコントロールを達成しようとして行きつく先に、終活としての自死があるように思われた。
宮野さんは続けて、「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるから。生きている者は、そうした痕跡をめぐって語り合い、考え、引き継いだり引き継がなかったりしつつ、亡くなった人を思い、その死を受け入れてゆけるのかもしれません」(p.159)と語る。
言い換えれば、他者に迷惑を残してよいことや、人生は未完成でよいことが、生きる隙間にならないだろうか。完全でなくてよいのだ。コントロールできなくてよいのだ。自己責任で背負わなくてもよいのだ。
死は不完全で偶然である。けして、「なぜ」では説明できない。その不確実さの中に放り込まれる体験であるから、逆に妖術にはまりこみやすい人も出てしまうのだろう。

②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野について。これは、実感をもって頷くことばかりである。
私自身ががんの治療について、この手術をしたらどうとか、この抗がん剤を使うとどうとか、%で数字を示されながら選択することが続いていた。正直なところ、私は専門家ではないので、なにがよいか、選べと言われても困るので、医師のおすすめを追認することしかできない。もっと積極的に、おすすめの治療法を示してほしいし、それを選ぶのが専門性じゃないのか?とつっかかりたくなる。
宮野さんは、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」(p.48)に対して、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(p.49)と、率直に私の心中を代弁してくださるかのように述べる。
エビデンスという数字を示すことで、「現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多い」(p.38)という磯野さんの指摘も、じわじわと染みてきた。

患者は、「待ち受ける未来はこうだからこちらの道をゆく」という運命論的な選択しかできないということになります。運命論的に見据えられた未来は、患者の意思だけで作られたわけではなく、医療者の意図、さらにいえばかれらが拠り所にするエビデンスの作成者の意図との融合物です。医療者が「患者の意思を尊重」というとき、その患者の意思の中に、医療者の意思が相当に組み込まれている。<正しい情報>という言葉には、その現実を見えなくさせる力があるため、そのことはあまり真剣に考えられていないような気がします。(p.40)

このくだりは、自分もまた医療領域で働いている以上、肝に銘じておきたいと思った。
インフォームドコンセントそのものを否定はしないが、そこに欺瞞を持たせないようにしたい。
なぜなら、選ぶのも、決めるのも、本当に大仕事で疲れるからだ。

そのような数字でこうなるかもしれない、ああなるかもしれないと示されて、どこが確かな正解の道かわからないまま、そろそろと慎重に生きるしかない。
そのような<かもしれない>で溢れているのが、保険適用の標準的な治療をやりつくした後、緩和病棟に入るほどは悪化していない状態の人が、自由診療に向かった先にあるという。
合理的に判断しようと思っても、エビデンスまでたどり着かないような<かもしれない>の荒野。
そりゃあ、妖術に頼りたくなる人を責めるわけにはいかない。
合理的な判断そのものが立ち行かなくなる境地を示すことは、合理的で自己責任をもって生きるという生き方そのものの限界を示している。
「どれを選んでもうまくいくかどうかはわからない」(p.228)のだ。

付け加えれば、偶然性を恐れる人たちの息苦しさも、偶然しかない世界であることを社会が否認して、完璧を目指させられることと不可分であると感じた。
不可能な自己責任論に追いつめられる。首を絞めあう。
その中で、まじめに限りなくNGを避けようとして、身動きが取れなくなってしまったり、できない自分を責め続けるような事態になっているのだろう。
そんな風に考えることもできると思った。

③大病についてのポリティカルコレクトネスについて。
がんになった人にはこれを言ってはいけないとか、こういう風に受け答えしましょうとか、マニュアル化しようとしてしまう人たちがいる。それは、相手を傷つけてはいけないという配慮に満ちているようで、実は日常を失わせ、患者の人間性を疎外する。
専門家としてなにがしかの患者の家族に会うときに、安易に日常性をセラピューティックなもので侵襲させてしまうような助言をしないよう、自戒したい。

「ガンが治ったら」という仮定は、「ガンが治らなかったら」というもう一つの可能性を浮かび上がらせます。さらに、「治ったら一番に何がしたいか」という問いかけは、治らねば一番したいことができないというメッセージを暗に発しています。(p.44)

この宮野さんが書いた個所を読んだとき、私は自分の手術が終わり、腫瘍は取り除けたと思っている時に読んだ。自分の中に腫瘍が残っており、つまりは「治る」という状態に永遠に至ることがないことを知らないうちに、読んだ。
治るというのはなにか。そのことも、深い問いだ。
うつ病の治療を受けている方に、「寛解」という概念を示して、なかなか納得してもらえないこともあるが、当たり前だ。
完治を目指してきたのに、完治はしない。寛解だから治療終了と言われて、納得できる人はなかなかいないだろう。
それと一緒だ。どうやらがんは私から消えないらしい。前回の手術から今回の再発の間、一応は腫瘍がない状態でがん患者を名乗ってもいいものか?と考えていたが、今度はどうやらがん患者であることが私の一部として背負い続けないと仕方がないようだ。
もう元通りになることはないことに私自身も、多少のショックを受けているが、これを人に話すことが大仕事であることを今回思い知った。

相手ががんであると知った時から、あれがいい、これもいいと、勧めてくる人たちがいる。その現象について、幡野広志@hatanohiroshi さんもツイートされていたし、宮野さんも触れている。
私はそこまでの目にあっていないが、だが、この病状を伝えると相手のほうが動揺して大騒ぎする場面ならあった。大騒ぎをしないようにしてくれているが、両親やパートナーがショックを受けているのは感じている。
そうなってくるとかける言葉に困る。私は相手を過剰に動揺させたくないために言葉に困り、相手は私に対して何を言ったらよいか、言ってもよいかがわからなくて困る。
そのようにコミュニケーションが硬直し、患者ー健康な人との役割が固定していくことについて、宮野さんと磯野さんは丁寧に対話で取り上げる。

たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている、それがガン患者であることを一〇〇パーセント受け入れていないということの意味です。そして、こうした生き方をとることで、私はそれなりに充実した人生をおくることができています。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません。(p.116)

この言葉に、今、支えられている。見習いたいと思う。大いに、参考にしていきたい。
私は私。私のすべてががん患者であることに覆いつくされないように。がん患者である私ではなく、私の一部にがんがある、ただそれだけ。
そんな風に思えたのは、まったく同じ病気や病状ではないが、宮野さんが先輩として言葉を紡いでくれたからだ。
この本に、今、出会えてよかった。

④点と線と厚みは、全体を通してちりばめられたキーワードのようなものだ。それは少しずつ表現を変えながら、何度も何度も立ち現れる。
二人の間に自由な連想が働いていることを教えてくれると同時に、まるでミルトン・エリクソンの催眠を読んでいるように私をトランスをいざなった。
それが明確になるのが第6便の「不運は点、不幸は線」(p.124)という表現体。そこからSNSのLINEやインゴルドという文化人類学者の「歴史の中で、ラインを生み出した運動が次第にラインから奪われていく経緯を示すこと」(p.182)という議論など、いくつもの線が引かれていく。そして、それは織物に編み込まれていく糸となるのだ。

人との出会いは、糸を結ぶようなものだと私は思う。
人生を織物にたとえることはよくあるが、編み物でもいい。
途中で加えた色糸を、そこから先の自分の織物に織り込み、編み込んでいく。
そうやって、自分だけのタペストリーもしくはwebsを作り上げていく。
その加えた糸の結び目より前にも糸はあり、その糸の端を垂れたまままにしておかないようにするために、さかのぼって編み込んでいくこともするだろう。きっと出会うはずだったんだと考えたり、これまでの出会う前の時間にも意味があったと考えたり、磯野さんが宮野さんを魂の分かち合いとして位置付けたように。
そうして、念入りに両端を編み込んで、その人がいつか世界から消えてしまっても、自分の世界にはしっかりと在り続けるように位置付ける。自分の人生に意味づける。

いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向的に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。(p.224)

私は宮野さんに教えてもらった「世界への信と偶然に生まれてくる『いま』に身を委ねる勇気」(p.96)を持ちつつ、明日からの入院と抗がん剤治療にトライしたいと思う。
忘れそうになったら、また、この本を手にとりたいと思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていた人たちと、この本を教えてくれた人に感謝をこめて、筆を置くこととする。

2019.07.30

ひとはなぜ戦争をするのか

A.アインシュタイン S.フロイト 2016 講談社学術文庫

ひとはなぜ戦争をするのか。

この問いを発したのはアインシュタイン。
その問いに応えるのはフロイト。

往復書簡は、国際連盟のプロジェクトであり、アインシュタインへの依頼だった。
誰でも好きな人を選び、「いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換」(p.9)するというプロジェクトだ。
時は、1932年。
アインシュタインの手紙はポツダムで、フロイトの手紙はウィーンで書かれた。
なんとも豪華な組み合わせの往復書簡だ。2人とも、世紀を代表する知性である。

アインシュタインの問いかけが結構、意地悪なのだ。
彼はきちんと私見を述べながら、問いかけを発しているため、ほとんど解答を自分で述べているようにも見える。
フロイトに残された問いは、したがって、一つだけに絞られる。
人間が憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか。

フロイトの返事の書き出しは、だからとても、書きにくそうに書いているように見える。
謙遜という自己弁護を駆使した文章の書き方は、デカルトにも見えるような西欧的なマナーではあるが、微笑ましい気がした。
アインシュタイン自身が答えているじゃないかと支持的かつ肯定的な反応を示した後、フロイトは徐々に生の欲動と死の欲動を援用した論を展開していく。
なぜ平和主義者は戦争に強い憤りを覚えるのか?と問いを設定していくところは、さすがである。
すべての人間が平和主義になるためにはどれだけの時間がかかるかわからないが、フロイトは希望をもって手紙をしめくくる。

この往復書簡の前段階にあるものがカントの「永遠平和のために」、この後にくるものがヤスパースの「われわれの戦争責任について」ではなかろうか。
1932年。フロイトが共同体への一体感を述べるとき、それがナチスの掲げていた価値観と重なっていることを教えてくれるものが、シェファー「アスペルガー医師とナチス」である。
こう位置づけて読んでいくと、この短い往復書簡がずっしりと、うんざりと、のしかかってくる。
フロイトが持っている時代性を、「アスペルガー医師とナチス」を読んだ後だからこそ、強く感じさせられた。

と同時に、二人の知性の素晴らしく先見的な言説にも舌を巻いた。
たとえば、アインシュタインは「『教養のない人』よりも『知識人』と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。」(p.16)と指摘する。
このくだりは、オウム真理教を筆頭に、高学歴の人がたやすくカルトに与する事例が連想された。
学生運動のような政治的、社会的な運動も例外ではない。現在のSNSを見ていても、知識人だからといって、カルトやオカルトとは無縁でない例の枚挙にいとまがない。
また、この続きの「彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」(pp.16-17)のという理解は、SNSこそが世界を理解する窓口であると勘違いしてしまったが故の誹謗中傷を繰り広げる人たちや、フェイクニュースの確信や拡散する人たちの説明にそのまま用いることができると思う。

フロイトのほうは文化の発展が人間の心の在り方に変化を引き起こし、体にも変化を起こすと理論展開していく。
その結果「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まって」(p.53)、「攻撃本能を内に向かっていく」(p.54)ことが起きると指摘する。
現代から見て的確な予言であったように思う。現代の日本の出生率の低さと自殺率の高さを、経済的な問題は別にして、フロイトの言葉を用いながら説明しようと思えばできるのだと思った。

本文は短いものである。翻訳は浅見昇吾。
手紙ということで専門用語をふりまくような難解な文章ではなかったのだろうと推察するが、とても読みやすくて違和感のない日本語でよかった。
そこしっかりとした2つの解説が加わっている。
1つは養老孟司が、もう一つは斎藤環。解剖学者と精神科医という二つの立場から、それぞれに現代の立場からフロイトの回答を補強しているところが面白い。

戦争はいつか飼い慣らし、飼い殺すことができるかもしれない、希望。
フロイトの答えは、啓蒙であり文明化。これが、理性が腐食することが事例として提示される前のキリスト教文化圏の最高の回答だったことは、間違いないかと思う。
それは最大の希望だった。
文化はまだ希望だと思いたい。

2019.07.08

ほんとうの道徳

子ども達への信頼に裏打ちされている。そこが素敵な本だ。
公教育で道徳を教科として行うことが決まってしまったのであれば、それをどう活かしていくのか。
すればするほど価値の対立をもたらしたり、上っ面だけの茶番にならないように、実践的な方法論と哲学が積み重ねてきた知見が盛り込まれている。
世界がよりよいものになるように。そんな希望を思い出させてくれる点で、とてもよい本だった。

公教育で行われる道徳が、ムラの習俗のような一部の共同体にだけ通用するような道徳原理の教え込みになるのではなく、より普遍的なルールを目指す精神の陶冶になるような願いを込めて書かれている。
多様化に逆らうのではなく、多様化に対応していくために不可欠で当たり前のはずの考え方、ヘーゲルの掲げた「自由の相互承認」という原則である。

「わたしたちは、他者の『自由』を侵害しないかぎり、何をしてもいいし、どんな価値観やモラルを持ってもいい」(p.50)。

まず、お互いを認め合う。そこから、お互いに一緒に生活していくためのルールを作り、常に手直ししながら、お互いの自由をお互いに守っていく。
とてもシンプルな提案で、平和な提案である。

何が望ましい生活習慣であるか、それぞれの家庭の文化や宗教的な背景によって異なる。
この日本の国内において、海外から流入してきた人が増えるにつれ、子どもたちの背景は多様化が進んでいる。
その中で、ここは日本だから日本的なものをと声高に言いたくなる人の気持ちもわかるが、その日本的なものでさえ、時代や地域によって揺らぎがあるのであり、なにか真なる日本的な道徳のようなものがあるわけではない。

その前提の上に、これまで数千年にわたって哲学者が倫理学の問題として思索を重ねてきた知見を取り入ればよいのだ。せっかく、積み重ねられた知の財産があるのだもの。
著者は、カントやヘーゲルに触れながら、「どんな道徳の持ち主も、できるだけ自由に、そして平和に共存できる」(p.47)市民社会を目指すことを提唱している。
目指すなら、やっぱり、そこではないだろうか。

著者と似たような場所で倫理学や教育学を学んできた私にとっては、とても馴染みがある。
あのゼミの、あの先生か、と懐かしい思いで胸がいっぱいになった。
自分は研究者にはなりえなかったけれども、学べたことは私の一部として息づいている。
学生の頃に触れていたような言葉たちが、希望を紡ぐ言葉となってきらきらとしていた。

2013.04.19

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール
工藤妙子(訳) 2010 阪急コミュニケーションズ

自分自身の中にフィルターがある。
私はすべてを記憶することはできない。
まず、すべての情報にふれることができない。
それらを、記銘することができない。
記銘した記憶のすべて想起することができない。
そして、記銘できていたはずのことさえ、人は忘却していく。
その限られた記憶力の中で、必要なものや好ましいものを選び残していくためのフィルターを用いている。

エーコとカリエールという、文筆家であると同時に稀覯本収集家である2人の、老練で諧謔あふれる対談だ。
書籍自体が美しい装丁で、見つけ、手に取り、そのまま、カウンターに持っていって購入した。
日本の携帯小説まで話題に出てくる。グーテンベルグの聖書や『アエネーイス』やシェイクスピアに並んで。
本について、図書館について、文化について、言葉や文字について、知について。
さまざまな人物名、書籍、引用。その知識の豊富さと、感性の洗練さと、思考の明瞭さ。
対談であることと、読みやすい訳であることで、専門書とかまえることなく、知性にうっとりと酔うことができる。

未来を確実に言い当てることは難しいという認識の上に、膨大な過去を集積し、その過去には空白があることまでも踏まえ、「問題はむしろ現在の不安定さ」(p.90)と指摘する。
自分が研究者を目指していた短い時期に、一つの主題について調べようとしたら、情報が無限にあることにめまいがした。
それを集める財力、読みこなす時間と体力と記憶力、言語の限界。理解したと思った瞬間には、次にはもう新たな知が生み出されている。自分の知らないことを知らざるをえない。
私が感じためまいを、この巨匠達2人+αも、当然のこととして語っていることに、ほっとした。

この2人は2人とも、人間の愚かしさに興味を持っているのだそうだ。
馬鹿と間抜けと阿呆を区別するくだり、声を立てて笑いながら読んだ。
「人間は半分天才で半分馬鹿」(p.299)と、自分自身の愚かさも踏まえつつ語り合うところは、かっこいい。
読むことと書くことと。憶えることと忘れること。信じることと疑うこと。
決して楽観的にはなりきらない。炎による検閲を意識しながら、言葉はくりだされる。西欧の文明そのものへの批判も、舌鋒鋭い。
彼らの言葉は非常に懐が深かった。本への愛情は、人間そのものへの好奇心の一形態と思った。

本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。その点をはっきりさせておくのは素晴らしいことですね。本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。(p.382)

これもまた、積読本の山を抱えている私をほっとさせてくれた言葉である。
よっしゃ。積むぞー。

2013.03.26

超訳 カント:時代を照らすカントの言葉

イマヌエル・カント 早間 央(訳・監修) 2011 マーブルブックス

男は、愛しているとき嫉妬深く、
女は、愛していなくとも嫉妬深い。(p.130)

うぅむ。カントよ、何があった?

入門書すらハードルが高いと思う人にも、哲学には興味がないという人にも、これなら読んでもらえないかな。
カントは、知性の明晰さで際立ち、言葉の切れ味が魅力な哲学者だ。
きっぱりと言い切る言葉の数々、どれもこれも引用したくなる。格好いいし、含蓄があるのだ。
カントのそういった名文を集め、章ごとに解説を加え、巻末にやや詳しくカントを紹介している。
ちょっと前にはやった感じの「超訳」シリーズであるが、本屋さんで割り引かれているのを発見して、即購入。

新しい発想だと思っていても、過去を紐とけば
すでに誰かが言っていたりするものだ。(p.101)

カント自身がこんな言葉を残しているが、私にとって、カントがまさにそうである。
読んでいて、そうそう!と頷く。自分のもやもやしていたものをすっきりと言葉に表して整理してもらう快感がある。
そもそも、出会ったのは高校生のときだ。
倫理や道徳は、カントを基準に学んだ。思考の方法を、哲学する過程を学んだ。
だから、私の価値観や世界観は、ベースにカントを置いている。
読んでいてすんなりと馴染むが、同時に、改めてカントが持つ現代性に気づいて驚く。

今なお通用する部分と、今だからこそ再考すべき部分があると思う。
一つずつを味わいながら、じっくりと思索したいものだ。
本書に集められている言葉は、実にカントらしい、啓蒙や正義、知性についての言葉だけではなく、男女についてや戦争について、教育について、様々なジャンルに分かれている。
美しい言葉も、苦い言葉もある。笑える言葉も、学ぶべき言葉もある。
その中で最後にひとつ、選ぶなら、今日の気分でこれにしておこう。

人は教育によってだけ、人間になることができる。(p.150)

2012.05.08

レヴィ=ストロース入門

小田 亮 2000 ちくま新書

冒頭のデリダ批判がしびれる。かっこいいなぁ。
レヴィ=ストロースじゃなくて、小田さんがかっこいいなぁ。

私がレヴィ=ストロースに触れたのは大学のときである。
選択必修の第二外国語でフランス語を選び、二年目には、なぜか、テキストで「悲しき熱帯」を読むという恐ろしい講義を受けた。
翻訳書だって訳わからんのに、フランス語になったら訳がわかるかーっ。
そんな悲鳴を何度もあげたが、しかし、ある一文において、ひどく感銘を受けたことも記憶にある。

その一文を探すためには本人の文章にあたるのが一番だろうが、あいにく、どの論文かを覚えていない。私の理解力・読解力からいって入門がふさわしいだろう。
そんなわけで、買い溜めて積み上げていたちくま新書を手に取ってみた。

体系は変換しない。構造は変換する。
数学の行列みたいなもの~?と、読み進めるうちに頭の上の???は増えていくが、おおむねわかりやすい。
ジーン・アウルの「エイラ:地上の旅人」シリーズ(集英社版のタイトル、私が読んだ評論社版では「始原への旅立ち」)を読んでいたことが、婚姻システムの構造を想像する助けになったと思う。
そんなわけで、交叉イトコ婚のあたりで、多少、?を飛ばしても、そこを力技で乗り越えていくと、私の読みたかった神話の話になる。

一つ一つの神話は、だから何?とか、それが何?とか、わけがわからないことが多い。そこに象徴性を見出して/託して読み解く(と見せかけて他の何かを表現/理解するために援用する)やり方と、レヴィ=ストロースの方法はまったく異なる。
南米から北米にかけて採取された神話を、読み比べ、読み合わせ、折り重ね、継ぎ接ぎし、ブリコラージュしていく。
どれが一番古くて、正しいのかを探るのではなく、複数の素材を、砕いたり、裏返したりしながら、対立しながら共通する部分をすくい出し、並び替えていく。
その過程を通じて「神話の大地は丸い」こと、地理的に遠い神話に類似性が見られることを示していく。
しかも、多重コードであることを認めているからイメージは豊潤に象徴性は保たれたまま布置されていく。
このくだりはスリリングで、楽しくて、面白くて、わくわくした。世界が活き活きと蘇ってくるような魅力がある。

レヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものだ」(p.208)という。
自然という連続した体験を、文化という言語によって分節化された不連続なものに置き換えていく過程で、連続と不連続の対立を現実に解消することはできないが、神話はそこをなだめ、理解したり、納得できるようにするものだという。
その機能については腑に落ちるし、最初は奇妙に感じた『神話論理』の巻ごとのタイトルも、なるほどと思った。
レヴィ=ストロースは「私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(p,206)言っていたのそうだ。まるで依巫のようだ。まるで、稗田阿礼みたい。
日本では神との出会いは、日常の景色がふとしたことで非日常の景色に「反転」する体験(菅野覚明『神道の逆襲』)なのだから、神話は何かひとつの根源にさかのぼるものではなくていいのだと思う。

私が学生時代に触れた論文は「神話の構造」だったみたい。
どれが一番古くて、だからどれが正しいのかを探ってみようとしても、それは無理なことなのだから、今残っているものを「束」にして考えてみないか?という提案が、ひどく新鮮だったのだ。
そんな理解の仕方は、今も私の中では大事なツールになっている。

2012.04.21

禅語

石井ゆかり 2011 パイインターナショナル

表紙の白い蓮の花の美しさにうっとりして手に取った。
PIEの本は写真が綺麗で、ついつい欲しくなってしまう。
写真の美しさから入ってもいい。言葉の意味深さから入ってもいい。
どちらからでも味わえる。しかも、少し小ぶりで手に馴染む。

喫茶去や本来無一物、明鏡止水といった、見覚えはあるが意味はいまひとつ自分では説明がつかない言葉。
漢詩や慣用句、あるいは、単語といってもいい言葉。
それぞれの言葉に意味や由来を付け加えた上で、エッセイが添えられている。
通して一気読みするよりも、1日に1つか2つ、ゆっくりと味わいながら読んでいきたい。
その文章のページにも、何気ない図柄が配されていたりして、趣のある本なのだ。

「薬病相治」という言葉を知った。
なるほどと思った。
私の日頃の営みはまさに相治す。
私は薬であり、病である。

祇是未在。
他不是吾。
まだまだ学ぶべきことは多い。

春在一枝中。

雪月花の美しいときはあなたを思い出して想うよ。

2010.10.20

史上最強の哲学入門

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)  飲茶 2010 マガジン・マガジン

熱いなぁ。表紙が。
哲学入門書の中では浮きそうな……。
でも、哲学者は格闘家みたいなものだという前提には納得する。
武器は己の肉体の代わりに己の思考、拳の代わりに舌先三寸をもって、高みを目指す。
そのスピリットは、確かに格闘マンガと通底していると言って過言ではない、と私は思う。
論文なんて口喧嘩と似たようなものなんだから。

そういう格闘マンガという、個々の対決をメタ・ストーリーに組み込んだ形式を採用したからこそ、思想の歴史の流れを感じることができる。
砕けた口調、身近なたとえを用いた、内容的には至極まっとうな哲学解説書だ。
一読して頭に入るぐらい、かなりわかりやすく、イメージしやすく、32人の男たちの思想が紹介されている。

惜しむらくは、もうちょっとコンセプトを活かしてもよかったのではないか。
たとえば、格闘ゲームの解説書のように、各キャラのステータスやらパラメータを評価して、特技なんかも紹介しちゃったりとか。
いや、いっそ、格闘のようにもっともっと絡めてみようよ。仮想の空間で議論させてみたらいいじゃん。
……なんてことを要求したら、書く人はとても大変な思いをするだろうけど。

誰の哲学が史上最強か。
そこは各人に触れてもらいたい。

やっぱり、私は哲学が好き。
ぐだぐだうだうだ考えるのが好き。
答えなんて出なくともよい。
この与えられた能力を使っていたい。
考えるのをやめるのではなく。
そういう病なんだよ。これは。

2009.08.07

萌える☆哲学入門:古代ギリシア哲学から現代思想まで

萌える☆哲学入門 ~古代ギリシア哲学から現代思想まで~  小須田 健 (監修)  2009 大和書房

わざわざ、萌えにしなくてもよいと思うのだが……。
とてもコンパクトに哲学史をまとめてあって、文章面の内容は非常にまとも。高校生から大学の一般教養の倫理哲学には十分に対応可能。
どのあたりが萌えなのかというと、可愛らしい女の子のキャラが道案内役にしてあるところか、それとも哲学者のイラストがそれとなくイケメン風に描いてあるところ……なのかな?

いや、うん。いえっさとブッダがイケメンになると、ほら、聖☆おにいさん風味で……もにゃもにゃ。
どの人がどんな風に美化されちゃっているか、そのあたりを見比べると、妙にテンションがあがりました。
でも、フーコーはどうにも加工できなかったのか、おっさん萌えな人向け? レヴィ=ストロースもか。
カントがうっかり好みな感じで動揺。キルケゴールはもともとが美形系だとは思うけど。
……と、ぶつぶつつぶやきながら、ぶはぶは笑いながら眺めてしまいました。

生き様死に様データなんかもまとめてあって、ゲームの攻略キャラのようになってしまっている。
その特技の項目が、これまた秀逸で、編著者たちのセンスが生きている。
ユニークな入門書だ。ほんと、攻略マニュアルって感じ。
ひたすらぐだぐだと思考することが好きにな人は、ぜひ、哲学そのものへの萌えを感じてもらいたい。

2007.03.29

占領下パリの思想家たち:収容所と亡命の時代

占領下パリの思想家たち―収容所と亡命の時代 桜井哲夫 2007 平凡社新書

フランスの現代思想に興味を持つ人はもちろんのこと、社会における知識人の役割を考える人、戦争や政治について語る人に、一読を勧めたい。
そのとき、何ができるのか。どう振る舞うべきか。
いや、そもそも、そのときを惹き起こしてはならないと深く戒めるために。

やっと読み終わったー。長かった。厚かった。中身が詰っていた。
古い時代の雑学っぽい文化史や生活史は好きだが戦争史は嫌いな上、気ままな自分の興味のあるところしか教えない歴史の先生にばかり教わってきた所為か、私の近代史から現代史の知識は薄い。
怒涛の歴史には圧倒される。数々の地名と人名に、右往左往しながら、ともかくも最後まで読んでみようと思った。
ここで登場する主な知識人には、サルトル、デリダ、コクトー、ボーヴォワール、レヴィ=ストロース、サン=テグジュペリ、アーレント、デュラス、カミュ、メルロ=ポンティ、ベンヤミンなどなど。

フランスの現代思想と言われるものは小難しそうなイメージが先行して、学生時代は手を出さないように自制し、なるべく避けて回っていた。
それが、内田樹『ためらいの倫理学』をきっかけに、サルトルの『嘔吐』を読んだ後、中山元『フーコー入門』、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』、熊野純彦『レヴィナス入門』と重ねたところに、この本を紹介された。
個々の哲学者の背景にあったものが、この本を読むことで、時系列がすっきりと整理され、生々しく肉付けされたように思う。
『茶色の朝』の日々、戦争の世紀の、その只中で生きていたということ。

フーコーは、戦後のフランスは、ハイデガーを乗り越えなくてはならないという使命を帯びていたわけ。
レヴィナスは、ユダヤ人であり、不条理な世界の、無用に過酷な苦しみに対し、私は無垢でありうるのかと問い続けたわけ。
情報量が多すぎて、なんとも感想が難しい。
が、とりあえず、サルトルはやっぱり変な人と思った。あんまり友達になりたくないタイプだなあ。
著者は後書きで中井久夫(『関与と観察』@積読中)を引きつつ、人類がいまだ戦争という宿痾から逃れていないことを指摘し、ベンヤミンから引きつつ、「『物』を媒介にして、相手の嘘に対しても報復行為を行わず、時間をかけて話し合いを続け、相互理解の道をさぐるという、平凡だがきわめて難しい道を歩むほかは、今後われわれが生き残る道はない」(p.299)と述べる。
歴史は、その平凡で当たり前のことを記銘・想起し続けるためにこそ、忘却してはならないと思った。

ちくま新書がお気に入りの最近、次に読む思想関係は、さしあたって船木亨『メルロ=ポンティ入門』、小田亮『レヴィ=ストロース入門』の予定。いよいよ、デリダ、ラカン、バタイユを避けきれなくなりつつある気がする。新書ぐらいで手頃な本があるといいんだけどな。

最後に孫引きになるが、メルロ=ポンティの文章を引いておこうと思う。三崎亜記の『となり町戦争』の主題は、まさにこのことであると思った。これは、日本という土地にいる人においても、また他の国の何かの戦争の時代を生きた人にとっても、共通することではなかろうか。今現在、どこかに戦争がある限り、誰も無関係ではありえない。

 ***

 われわれは、無実ではないし、自分たちが置かれていた状況の中では、非難されないですまされる行為というものはなかったというのは本当である。この地に留まることでわれわれはなんらかの程度、すべて共犯者となったのだ。(中略)武器あるいは宣伝活動で戦争を続けるためにフランスを去った人々も、自分の手が汚れていないと誇ることはできない。というのも、彼らがあらゆる直接的な妥協を免れていたとしても、一時的にこの土地から離脱していたからで、その意味では、われわれと同じく、彼らにも占領による荒廃への責任があることになるからだ。(p.278)

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