松浦理英子・江國香織・角田光代・町田康・金原ひとみ・島田雅彦・日和聡子・桐野夏生・小池昌代 2008 新潮社
私の心はちっぽけだから、心に抱く男性は一人で十分。(p.44)
好きで。
好きで好きで、たまらなくて。
ほかのことなど、どうでもよくて。
でも、この恋はどこか不毛だ。
光源氏の恋も、光源氏に恋する恋も。
源氏物語から千年を記念して出された本だ。
積み続けて3年。今年度内になるべく積読本を減らして、手離してしまおうと思い、ようやく読み始めた。
テレビも見ない、ゲームもしない、ネットもしないとなると、意外と本を読めるもんだと驚くこの頃。
原作に忠実に気品のある世界を再現しているのは、松浦理英子「帚木」や島田雅彦「須磨」、日和聡子「蛍」だ。それぞれの書き手の言葉選びの巧みさや気配り、文体の美しさを読み比べることができる。
松浦さんの文章は正統派で隙がなく、原作そのままの雰囲気。島田さんの文章は品格があって、とても美しかった。どちらも忠実な訳を読んだ心地で、違和感がなく、しかも読みやすい。
日和さんの「蛍」には、物語とはどのようなものかと源氏が語る場面があり、その台詞は作家であれば格段の思いをこめずにいられないだろうと思われた。物語とは「見るにも見飽きず、聞くにも聞き捨てにできないようなこと(中略)を、心ひとつにおさめがたくて」(p.215)書かれるようになったという。
この「心ひとつにおさめがたくて」の感覚があるからこそ、自分もこうして物語ではないけれども、書き散らかさずにいられないのだと思う。
江國香織「夕顔」は、微妙。カタカナで現代にしかない単語を交えると、そこだけ浮いて見えた。現代的といえば現代的なんだが、私は違和感があるから惜しい気がする。それさえなければ、この夕顔は愛らしくて無垢、かなり魅力的だった。
桐野夏生「柏木」も、光源氏が死んだ後に女三宮が語る形を取る。女三宮は、源氏から「何度も叱られ、貶され、しているうちに、自信のない縮こまった魂の持ち主になったような気がしてならなかった」(p.137)。そんな源氏に対する反抗心から踏み切った柏木との思い出を語るのだ。この解釈は、すんなりと読みやすくてよかった。
現代に移したり、設定を大きく変えて描いているのが、角田光代「若紫」や金原ひとみ「葵」、小池昌代「浮舟」。
このアンソロジーは、これぐらい手を加えてあるものを集めてあるのだと思っていたが、意外に少なかった。
原作がどんな風に変化するのか、解釈されるのか、予想もつかない面白みがある。その期待を満足させてくれたのが、角田さんの「若紫」だった。
金原さんの「葵」は、六条が希薄になってしまって残念。
「浮舟」は中山可穂が『弱法師』で書いたものが一番好きだが、小池さんの解釈もわりと好きかも。人がひとつの面影を探し続けるなら、恋はひたすらに幻を追い求める行為に過ぎないという。なかなか切ない。
苦手なのは、町田康「末摘花」の源氏。これじゃあ、単にイタイ人……。言い回しが面白いといえば面白いけれども、源氏じゃないぃぃぃ。
でも、中年以降のぐだぐだ感たっぷりの源氏をこのノリで読んでみたいかも。玉鬘や女三宮に回し蹴られてりゃいいんだ。
六条御息所は人気が無いのかなぁ。
源氏物語のなかの数いるヒロインの中で、キャリアも体裁も外聞もプライドもかなぐり捨てて、年下の男性に入れ込んで自爆していく六条が、実は一番好きだったりする。
好きというか、自分を投影させやすいというか、親近感を持つというか。
好きな人に触れるほかのすべての女性を妬んで憎んで恨んでも、どうしても光源氏は嫌いになれない。
これじゃあ相手の気持ちを失うだけだとわかっていても止められない暴走っぷりが切なくて愛しい。
あ。もう少し可愛げあるヒロインを好きになれたら、私はもっと楽だったんじゃないかと、ふと、思い当たった。
最近のコメント