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**物語を読みとくこと**

2021.08.06

金閣を焼かなければならぬ:林養賢と三島由紀夫

内海 健 2020 河出書房新社

狂気とはいったい何であろうか。
自分が体験していない(と思う)ものを理解するために、私は文学の力を借りてきた。
精神科で働き始めた頃の私は、それぞれの症状を理解しなければならないという要請に迫られていた。
小説に描かれている狂気は、しかし、疾患としての症状と同じものであるのだろうか。

『金閣を焼かなければならぬ』は、前半では林養賢、後半では三島由紀夫という二人の人物について語る。
この二人を結びつけるのは、金閣寺の放火。
林は、実際に金閣寺に放火した人物である。その事件に取材して、傑作を世に出したのが三島である。

著者はあえて「分裂病」という病名を用いながら、了解不能な狂気というものを抽出しようとしている。
人というものは原因や動機を理解したがるもので、それを理解することで話を終わりにするという特性があると思う。
理解することが解決ではなくても、「わかる」までその問題から離れなくなる。そのくせ、「わかった」ら問題から離れて放置してしまったりもする。
だから、「金閣寺を焼く」という行為についても、ああだこうだと動機を後付けで創作してでも理解しようとする。

養賢の行為は了解不可能である。心因をいくら積み上げても、そこにはたどり着かない。(p.42)

著者は不可能な時点にとどまり続けることで、養賢の人生から病理をすくいあげ、分裂病という病はどのようなものであるかをありありと描き出していく。
デカルトやサルトルやカントを引用しながら、実存が脅かされた病者は、自由にこそ狂気のポテンシャルがはらまれているからこそ、定言命法にすがりついていくプロセスの説明はスリリングですらある。

「分裂病はすでに復路である」という言葉がとてもしんどい。
了解不可能で純粋な狂気の体験があり、そこから現実世界へと回帰していくときに、医学的疾患になる。
「かつて分裂病と呼ばれたものは、近代的な主体に内包された危機であった」、そういう体験であったということをありありと教えられた読書体験となった。

対して、三島由紀夫の病理は「離隔」であった。
生き生きとした現実感、生存している実感を感じることができない。
自分自身が世界の一部として存在していると感じられないからこそ、狂気に対してもよく勉強しているうえに「微温的な共感などに流されないがゆえに、公平」(p.210)であり、養賢本人には言語化できない了解不能な体験を再体験するかのように言語化することができたのではないか。
同時に、『金閣寺』の主人公を描くことは、三島が自分の分身ではない他者を、主体として描くことによって「みずからの離隔を突破し、ナルシシズムを粉砕する」(p.211)ものであったのだと看破する。
そうやってナルシシズムを一旦は超克しえたように見えた三島が、結局は世界から拒絶されてしまい、自死せざるを得なかったことが改めて切ない。

歯ごたえのある本で、ずいぶんと読むのに時間がかかってしまった。
読み終えてみて思うのは、狂気とはなにか、と問う時に、読んでほしい一冊であるということだ。
最近、藤本タツキ「ルックバック」というマンガが話題になった。私はその作品を読んで、素直にすごいと思った一人である。
そこには、殺人者が出てくる。その表現について問題になり、修正が加えられたという作品だ。修正後については読んでいない。

私は精神科医療で働く人間として、文学的表現の記号としての狂気は、実際の疾患としての統合失調症とはまったく別物であると受け止めている。
春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』『私たちはなぜ狂わずにいるのか』の二冊が、私の考え方には大きく影響しているだろう。
狂気を示すいくつかの単語は、アクチュアルな現実から既に遊離した記号であって、具体的な誰かを指し示すものではない。
とはいえ、言葉の成立の歴史から記号と具体が混乱して扱われることもあれば、被害的な認知が働きやすいという症状から自分に引き寄せて受け止めてしまって傷つくような事態も起きる。
その点、統合失調症を代表とする精神疾患について、日本の社会は理解は不十分であり、態度が幼稚であることは否めない。

けれども、文学的な記号であり表現であり仕掛けとして、狂気というものは必要とされることがある。
文学ではなくても、日常会話のなかで、なにか話が伝わりにくくて自分とは相いれない対象を示すときに、怒りや様々な感情をこめてののしるときなどに、なにか記号が必要とされることがある。
そういう意味では、私は読み手の9割以上の人が「これは記号である」と理解できるようになるリテラシーや価値観の共有の方が必要とされているのではないかと思ったりする。
そのためには、統合失調症とはどのような病であるのか、より現実的により具体的に認知されていくことが必要である。

そのようなことをつらつらと考えていると、記号的な狂気の表現とは区別されて精神疾患として扱われるべき統合失調症という病名ではなく、ロマンティックな狂気の烙印と無縁ではなかったかつての分裂病という表現を用いた著者の感覚は、このようなルックバックという作品をめぐる事態への私の問題意識が、呼応するものであるかのように感じている。

2019.08.20

イナンナの冥界下り

安田 登 2015 ミシマ社

漢字発生時の「心」の作用、すなわち「時間を知ること」と、そしてそれによって「未来を変える力のこと」(p.5)

イナンナの冥界下りに興味を持ったのは、M.マードック『ヒロインの旅:女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』がきっかけだ。
イナンナがエレシュキガルに会い、Black Motherの顔を得ることが、女性の回復であり成長に不可欠であることを描く下りで、イナンナが登場するのだ。
女性の深い傷つきを語る上で、一度きちんと触れておきたいと思うようになった。

そのうち、この神話が能として演じられたことを知り、ますます興味が惹かれるようになった。
そして、手に取ったのこの本だ。

シュメールの神話は、ギリシャ神話のように物語(登場人物の感情や行動に因果がある)になっておらず、10代の頃にはよくわからないままだった。
それを、こころ=言葉以前の時代の名残として位置付ける解釈に納得した。作者は「あわいの時代」と表現する。
現代とはものの見方や価値観があったことを汲み取るように、最も古い時代の神話を読み解く過程は興味深い。

「死」こそが「心の時代」の最大の産物のひとつなのです。(p.85)

こころを表す言葉を発明してこころを獲得してから、人は過去と未来を認知し、後悔と不安を抱くようになった。
それは極めて男性的な(男性性的な、のほうがよいかな)時代である。
こころと言葉を扱う仕事に就く者としてスリリングで刺激的で、どう受け止めてよいのか。
私の冥界下りを思い出さねば。

これは本屋さんで買うべき本。
手触りの良い、素敵な本だ。

2014.06.11

怖い絵

中野京子 2007 朝日出版社

怖さとは何か。
奇異であること。醜悪であること。残酷さ。
襲いかかるような恐怖ではなく、ひたひたと忍び込むような、どこかに残り香のように漂う怖さ。
気づいたときに初めて居心地が悪くなるのだ。

ムンクはもちろん、ゴヤやブリューゲル、ドガといった名前が並ぶ。
著名な画家、有名な作品が紹介されている。
著者の名前を知らなくとも、ヘンリー8世の肖像画など、どこかで見覚えある人も多いだろう。
それらが怖い絵かどうかは別にしても、気持ちのいい鑑賞ではない。
解説を読んで、怖いと思うかどうかは別にしても、だ。

著者のじっとりとした書き方が、なんとなく居心地が悪かった。
主題となる20枚の絵はそれぞれカラーで紹介されているし、1つずつの解説は程よく短い。
解釈は人それぞれではあると思うのだが、絵が描かれた背景を知ったり、読み解き方を学ぶ上で、読みやすい読み物となっている。
絵をただ見るのではなくて、絵を読み解くような作業があることを知れば、絵画鑑賞も面白くなる。
そういう鑑賞の初歩的なテキストとして、いいかもしれない。

私が好むものは風景画である。
風景画には比較的、そういうどろりとした情念がこもりにくいから見やすい。
クノップフ『見捨てられた街』などを見ていれば、そうとばかりは言い切れないのであるが、それでも、人物画よりも余程見やすい。
抽象画もまた好みで見ればいいと割り切ってからは、ずいぶんと楽になった。
怖いわけではないが、ある種の情念を感じると、ただ絵を見るだけのことがひどく疲れる作業になることは認める。

2012.11.09

霊性の文学 言霊の力

鎌田東二 2010 角川ソフィア文庫

言葉には力がある。
言葉は時に非力であるが、力がある。
日々に使う言葉はすべて、呪文であり、魔法を持つ。
それが文学として形をなしたとき、どんな力を持ちうるのか。

流れるようなすべらかな現代語で紡ぎなおした『超訳 古事記』の著者が、どんな言葉をほかにも紡いでいるのかを知りたくて購入。
ネット買いだったので、手元に届いてから目次を見たのであるが、そこで取り上げられている人物は幅広く、見ようによっては雑多に感じるかもしれない。ある時代を背負っている人々。
宮沢賢治、折口信夫、三島由紀夫、中上健次、高橋和巳、ドストエフスキー、ニーチェ、バタイユ、ロートレアモン、寺山修二、美輪明宏、宮内勝典、山尾三省、出口王仁三郎。
私にとってはなじみのある人もいれば、なじみのない人もいる。というか、なじみのない人のほうが多い。

本書の中でとりわけ印象深かったところといえば、美輪明宏による信仰と宗教の違いの指摘である。
そこを踏まえたうえで、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』でジョヴァンニがキリスト教者との会話で戸惑う場面を読む。
宗教は対立するが、しかし、対立するのではない道があるのではないか。

文学を紐解きながら、底に流れる霊性を掬い出しつつ、信仰とはなにか、宗教とはなにか、神とはなにかを問うていく。
それは聖なる高みばかりではない。なにかしらの越境や断絶、解体あるいは混沌を含みうる、ほの暗い深みを覗き込むような作業だ。
かといって、小難しいわけではなく、むしろ読みやすい。引き込まれるように読み、ここから読んでみたい本が更に増えもした。

呪われているということ。それは不可抗力的に悪に直面せざるをえない魂と運命をもっているということにほかならない。言い換えると、人類文化の“闇”を視る“眼”をもって生まれたということである。その呪われた者だけが、呪いの渦中に自らを投げ出すことによって、「至高性」に到達することができる。(p.140)

思考は言葉を媒介にして成立するので、動画ばかりでは思考は鍛えられないんだよね。
上質な表現としての動画の存在を否定しないが、具象にばかり偏っては、ますます感覚優位になり、不安耐性が低く、衝動の制御が難しくなることだろう。反省的思考も抽象的思考も低下して、現実検討が働かず、被暗示性や高くなることだろう。
白か黒かとスプリッティングしやすい認知では、世界の深みを覗き込むことは決してできない。覗き込んでなお引きずり込まれずに耐えることができない。
深みから高みへと飛翔する力であり、毒にもなり薬にもなる文学の力を、私は信じていたいと思う。祈っていたいと思う。

2012.05.21

日本神話の女神たち

林 道義 2004 文春文庫

うーん。
うなってしまった。
どうしよう。

自分自身のパートナーシップの問題を考えるとき、「見るなの禁止令」はひどく現実味を帯びてくる。
ここ最近、鎌田東二『超訳 古事記』に出会ったことをきっかけに、神話関係を続けて読んだり、読み直してみた。
私が「見るなの禁止令」を学んだ北山修さんは精神分析の立場であるが、本書の著者はユング派。
両者による神話の取り扱いの違いは、かなり際立っている。同じ素材でも、ここまで変わるか。その違いを味わうのは楽しい。

本書を読む前に、『日本神話の英雄たち』を再読した。
著者は、古事記・日本書紀が成立したときの集合的無意識の在り様や社会の在り様に寄せつつ、神話的・元型的な読み方をしていく。
そこに読み解かれるような政治的な時代背景、編纂者の思惑といったあたりが、鎌田さんが知ってがっかりしたという古事記の大人の事情に重なるのだと思う。
私としても、知りたいのはそこではない。
今に活かせるような読み方のバリエーションであり、イメージのふくらみなのだ。
古事記から読み解く過去の現象と無意識も面白いけれども、それが今も活きている力に変えていく作業のほうが私は好きなのだ。

そういう意味では、アニマとアニムスをバランスよく育てていくことを、成功例としてオオクニヌシとスセリヒメ、失敗例をヤマトタケルとオトタチバナで説明している箇所が面白かった。
禁止令を超えて、カップルがどのようにすれば長続きできるか、示唆している。
同時に、人の意識と無意識との折り合いの付け方が示されている。これは、ユング派ならではの視点なのだろう。
また、古事記はわりと母親不在であるという指摘も興味深い。母親不在と言うか、「父-娘」もしくは「母-息子」の組み合わせで登場しやすいってことだと思うのだが。
母は時に代理母(タマヨリヒメやヤマトヒメ)になるので、出産時の母親死亡率も高かったんだろうなぁ、なんてことを、考えてしまった。

総じて、『英雄たち』ではさほど感じなかった違和感が、『女神たち』では感じてしまった。
自分が女性であるため、どうしても女神のほうに、自己を投影させやすいからだろう。
重ね合わせようとした自分の気持ちが、どこかに置いてきぼりになるような、もやもや感が残った。
また、「このことは次著で書く」という言葉が数回出てきた。
次著ってどれ?

そこは女性の心理としてそうじゃないよ~と言いたくなる。特に、イザナミにおいて。
女性の気持ちはこうなんだよって、誰か書いてくれないかなぁ。
好きで好きで好きでたまらないから、いざなわれて理を曲げようとしたのに、「やっぱ無理」って断られてもねぇ。
なんで約束を守ってくれなかったの? 恥ずかしい。悲しい。腹が立つ。
なんで逃げ出すの? なんで置いていくの? そんなものだったの?
追いかけるよ。ちょっと待ってよ。まず、話をしようよって言っているのに、なんで逃げるかなぁ。
そこで、「ごめん」って言ってくれたら、それですむじゃない。「約束を破ってごめん」「逃げ出してごめん」って言ってくれたらよかったのに。醜いところも含めて、どーんと引き受けてくれたら、もっといい男だって惚れ直したのに、全力で逃げるか?
そりゃ怒るわな。怒るけど、許しちゃうんだよ。好きだから。
怖がらせるためにつきあったわけじゃない。好きな人を苦しめたいわけじゃない。ここまでこじれてしまったら、どうしようもないのもわかっている。
だから、「1500の産屋を立てよう」と誓いの言葉を引き出せたことで満足しよう。これからさきのあなたの行動のすべてに、私の痕跡が刻まれているのだから。私はなかったことにはならないのだから。
そうやって、あなたは光の下で輝いていてくれればいい。
私は無意識のかげりにひそみ、あなたが幸せに向かうよう、支えていくことができれば、それで満足だ。
こんな感じで。

2012.05.15

囲碁心理の謎を解く

林 道義 2003 文春文庫

囲碁に興味を持った時期があった。
マンガの影響である。ゲームを買おうかどうか、かなり悩んだ。たしか3作目だったと思うが、そのエンディングを見るために、1から買う?と考えたら、結局は手を出さなかったため、いまだに囲碁のことはよくわからない。
当時、流行っていた「ヒカルの碁」が出てくると知り、どのように心理学的に解釈されるか興味を持って手に取った。

そういうマンガを扱った部分は、いわばツカミだった。
「ヒカルの碁」の棋譜は美しいが、岡野玲子「陰陽師」の棋譜は碁を知らない人のものだなんてコメントもあったと記憶している。
本題としては、かけひきに表れる心理状態や性格傾向、攻撃性の問題、右脳と左脳の機能の問題などなど、碁に触れながらも多彩に語られていた。特に、右脳と左脳それぞれに障害を負った場合に、碁が変容することは興味深いものだった。
数々の川柳も、解説がないと、碁を知らないものには笑いがわからなかったと思う。
碁を知らなくても、碁の世界の面白さに触れることができる本。
(2005.5.27)

2012.05.08

レヴィ=ストロース入門

小田 亮 2000 ちくま新書

冒頭のデリダ批判がしびれる。かっこいいなぁ。
レヴィ=ストロースじゃなくて、小田さんがかっこいいなぁ。

私がレヴィ=ストロースに触れたのは大学のときである。
選択必修の第二外国語でフランス語を選び、二年目には、なぜか、テキストで「悲しき熱帯」を読むという恐ろしい講義を受けた。
翻訳書だって訳わからんのに、フランス語になったら訳がわかるかーっ。
そんな悲鳴を何度もあげたが、しかし、ある一文において、ひどく感銘を受けたことも記憶にある。

その一文を探すためには本人の文章にあたるのが一番だろうが、あいにく、どの論文かを覚えていない。私の理解力・読解力からいって入門がふさわしいだろう。
そんなわけで、買い溜めて積み上げていたちくま新書を手に取ってみた。

体系は変換しない。構造は変換する。
数学の行列みたいなもの~?と、読み進めるうちに頭の上の???は増えていくが、おおむねわかりやすい。
ジーン・アウルの「エイラ:地上の旅人」シリーズ(集英社版のタイトル、私が読んだ評論社版では「始原への旅立ち」)を読んでいたことが、婚姻システムの構造を想像する助けになったと思う。
そんなわけで、交叉イトコ婚のあたりで、多少、?を飛ばしても、そこを力技で乗り越えていくと、私の読みたかった神話の話になる。

一つ一つの神話は、だから何?とか、それが何?とか、わけがわからないことが多い。そこに象徴性を見出して/託して読み解く(と見せかけて他の何かを表現/理解するために援用する)やり方と、レヴィ=ストロースの方法はまったく異なる。
南米から北米にかけて採取された神話を、読み比べ、読み合わせ、折り重ね、継ぎ接ぎし、ブリコラージュしていく。
どれが一番古くて、正しいのかを探るのではなく、複数の素材を、砕いたり、裏返したりしながら、対立しながら共通する部分をすくい出し、並び替えていく。
その過程を通じて「神話の大地は丸い」こと、地理的に遠い神話に類似性が見られることを示していく。
しかも、多重コードであることを認めているからイメージは豊潤に象徴性は保たれたまま布置されていく。
このくだりはスリリングで、楽しくて、面白くて、わくわくした。世界が活き活きと蘇ってくるような魅力がある。

レヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものだ」(p.208)という。
自然という連続した体験を、文化という言語によって分節化された不連続なものに置き換えていく過程で、連続と不連続の対立を現実に解消することはできないが、神話はそこをなだめ、理解したり、納得できるようにするものだという。
その機能については腑に落ちるし、最初は奇妙に感じた『神話論理』の巻ごとのタイトルも、なるほどと思った。
レヴィ=ストロースは「私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(p,206)言っていたのそうだ。まるで依巫のようだ。まるで、稗田阿礼みたい。
日本では神との出会いは、日常の景色がふとしたことで非日常の景色に「反転」する体験(菅野覚明『神道の逆襲』)なのだから、神話は何かひとつの根源にさかのぼるものではなくていいのだと思う。

私が学生時代に触れた論文は「神話の構造」だったみたい。
どれが一番古くて、だからどれが正しいのかを探ってみようとしても、それは無理なことなのだから、今残っているものを「束」にして考えてみないか?という提案が、ひどく新鮮だったのだ。
そんな理解の仕方は、今も私の中では大事なツールになっている。

2011.12.06

「彼女たち」の連合赤軍:サブカルチャーと戦後民主主義

大塚英志 2001 角川文庫

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。こういった、王子様による内面の全肯定で主人公の少女が自己実現してしまうのは、(中略)少女まんがの基本構造だ(p.54)

確かに、私は少女まんがで育った。そうすると、こうなるか。
自分の願望やら、ルーツやら、を言い当てられる気恥ずかしさ。
と言っても、この本は少女まんがの分析がメインではなくて、その心性を連合赤軍の女性に見るというもの。
同列に、あるいは、対比に、上野千鶴子らフェミニズムや、かつてのオウムの女性達が取り上げられる。

おばさんだが、連合赤軍をリアルタイムで知る世代ではない。
そのあたり、ウィキペディアを片手で調べながら読んだ。
読んでいるうちに、だんだん腹が立ってきた。むかむかした。
この革命を掲げる男性たち、自分がやったことを、女の所為にするなーっ。
女だから、ということで、片付けられることに腹が立つ。

女性性や母性をどのように受け入れるか、折り合いをつけるか、長年の課題だった。
私は、フェミニズムが運動ではなくアカデミズムの俎上に乗るようになった時代に学生を過ごした。
性など振り捨ててしまいたい時期もあった。自らとの付き合いは、ゆっくりゆっくり手探りするしかなかった。
特に女性性については、恋人の存在が大きい。彼がずいぶん助けてくれたと思う。心から感謝しているところだ。
その点、やっぱり、冒頭の引用に戻るのだ。

この本を出版されていた当時、単行本の出た96年に読んでいたらどうだったか。
自分自身の意識の流れと結びつけて受け止められるほど、私は内省できなかったかもしれない。
どうだろうか。「『内面』を自動化していくことで、『内省』を困難とする」(p.232)という表現が出てくるが、今の私のほうが「思われる」「思わせられる」といった無責任な表現を身に着けた。
法的な責任を免れる言語用法があまりにも浸透しすぎて、私的な会話ができなくなるほどに。そんな私が内省などできるのか。

だが、少なくとも、現在、読んだからこそ、この本が斎藤環『母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか』に繋がることがわかる。
両者を繋ぐ萩尾望都『イグアナの娘』は、あんまり印象に残ってないが、石女の私が残した、手の届かない領域だからしょうがない。

2011.11.24

幻滅論

幻滅論 北山 修 2001 みすず書房

お話にならない。そのことを、どう扱っていけばいいのだろう。
言語は第三者に「わかること」を当然とするが、第二者に「通じること」を私は希求している。
私はお話にならないことを大事に抱えて欲しいのだ、と、この本を読みながら振り返った。
思いがけず、最近の私のつまずきを違う視点から見ることになる。そこが、言葉にすることを通じてお話にならないことを俎上にあげようとする精神分析ならでは、という、気がする。

北山は、本書の中で二者間内交流と二者間外交流が、「ともに眺めること」を通じて同時に行われていることを、浮世絵の中の母子像を例に引きつつ、述べていく。
このような交流が言語の獲得以前の交流としてあることから始まり、愛は上から下へ与えるものであり、甘えは下から上へ求めるものであることと定義されがちであることなど、論は縦横に展開していく。

母子関係の比較的無条件な一体化は、つながっていない、通じていないという幻滅を経る。その幻滅には、エディプス的な父親の登場による幻滅、理想化された母親とは矛盾する母親に出会う幻滅、母親の不在という幻滅が挙げられる。自分をなす土台としての環境が崩れるという幻滅に、死という幻滅が加わる。

幻滅があって初めて、自分を愛してくれているものを同時に自分が傷つけていたことを人は知り、ゆっくりと自分の矛盾や「すまなさ」を噛み締めることができれば、ただ立ち去ろうとする自虐的世話役に対する恩や感謝や償いへと発展する経路が生まれる。

何度も「夕鶴」が例にして語られる。
私は長いこと自分が夕鶴の立場でいるつもりで、その場に踏みとどまるという選択肢に惹きつけられたが、今はむしろ、与ひょうの立場にいるのだと思う。
与ひょうはどうすればつうを引き止められるのか。どうすれば、安心して傷の手当てをさせてもらえるのだろう。織物など織らずともいいのに。そばにいるだけでいい。いや、織りたいときに織ってもいいのだ。この恩を。どうすれば。

治療関係でいちばん大事なのは、ただ現象を解釈し説明することではない。たとえ反復とはいえ、幻滅の相手役としてその受け皿になるという過程で、治療者は原則として「幻滅させる者」という苦痛な役割を果たさねばならない。(p.121)

たよりをまちながら。

2009.12.25

「イタい女」の作られ方:自意識過剰の姥皮地獄

「イタい女」の作られ方―自意識過剰の姥皮地獄 (集英社文庫)  中村うさぎ 2009 集英社文庫

頭のいい人だなぁ。というのが、最初の感想。
分離個体化とか投影同一視といった言葉を使わずに、個の成熟と、未成熟の病理について語ることができるのだから。
だから、できれば「自己愛性パーソナリティ障害」とか「解離性同一性障害」とか、疾患名も使わずに語って欲しかった気がする。
そんな病名に縛られずに彼女自身の理論を述べるほうが、ずっと説得力があるような気がするからだ。
著者が「我々」という主語を遣うところも、ちょっと苦手に感じたけれど。

「イタい女」は、自分自身の値踏みを間違えて勘違いしている女であると定義され、客観性の欠如によって特徴付けられる。
客観性を欠いたナルシシズムに陥らないための自己防衛システムが「ツッコミ小人」であり、弱点や欠点を他者に開示して長所を「姥皮」によって覆い隠す自虐の技術が横並びの関係を築くために必要となる。
面白いことだ。
David D. Burns『自分を愛する10日間プログラム:認知療法ワークブック』の中で、他者からの批判を無効化する最強の方法として、自分自身の欠点をユーモアとしてさらけだすことが示してあったと記憶する。

「姥皮」とは、まさに「敵を作らない」という無敵アイテムだと中村の知性は看破する。
そう言えば、『ハウルの動く城』の主人公にかけられた魔法も、一種の姥皮。

著者自身の見聞のみならず、各種プリンセス・ストーリーの分析を通じて、語っているところも面白い。白雪姫、姥皮、人魚姫、エヴァンゲリオン、イグアナの娘、愛すべき娘たち、あるいは、少女マンガ家と少年マンガ家の自画像の比較や、太宰治……。
また、女性の自虐に対して男性の小自慢を引っ張り出して比較するあたりの手際も見事だ。手厳しいが、その分の痛快さがある。
そのように攻撃的なまでに批判的な言説をふりまいていても、自分を安全な高みにおいて他者を睥睨するようなイタさには陥らぬよう、著者のツッコミ小人がフル稼働しているのが見えるようだ。
素材を様々に取り上げながらも、著者が自分自身の中のイタさを意識し続けるように、読み手としても自分の中のイタさをサーチしながら読むしかない。

私も早くその市場から降りたいと願う点において、恋愛市場的価値にある程度は右往左往させられている。出家という作法を借りることを、何度考えたことか。
「モテ」でも「愛され」でもなく、性暴力にあいやすいというのは、イタい。イタすぎる。
いい加減、ババア扱いにしてもらいたい。私の中に恋ができるほどの気力や体力は衰えた。そういう情熱が遠くなった気がしてならないのが現状だ。
人生を寄り添いあう契約を交わしたわけではないけれど、私を愛してくれる人たちがいる。これ以上、恋はいらないし、ましてや欲望はいらない。
私は、私という個を守るほうを選びたい。
だから、トラブルに遭った後に、この本を読んだのは正解だったと思う。一緒に男性の悪口を言っているような気分になれたから。少しは溜飲を下げるのに役立つ。たぶんにガールズ・トークのような読み心地だった。

それに、著者が陳腐なことと言いながらも書いている結論に、ほっとする。
恋と愛とを混同するところから閉塞して、疲弊している人には特に勧めてみたい。

 ***

「イタい人」というのは総じて「客観性に欠けている」と指摘したが、その「客観性の欠如」は「個の痛み」を自覚できないことから生じるのだ。「個」であるということは、自他の間に越えられない溝があるのを認めることであるから、これを自覚できない人が他人との距離感を測り間違えるのも無理はない。(中略)「個の自覚」とは「人間ひとりひとりが『個』であり、『個』とはすなわち『孤』なのである」という真実に気づくことだ。(pp.161-162)

いつもいつも恋をしている必要などない。ましてや、常に誰かから恋されている必要もない。人間に必要なのは「愛」だ。他者から理解され、大切にされてこそ、我々は自分の価値を実感できる。そして、自分も誰かを理解し大切にしたいと思うのだ。それは「恋」のような密室的な二者関係ではなく、複数の他者と広く関係を築ける感情だ。(p.193)

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