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香桑の近況

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**父と娘の間**

2012.08.22

囚われの王女と魔術師の娘:黒鳥伝

マーセデス・ラッキー 原島文世(訳) 2011 中央公論新社

王子というのはダメダメな存在である。
という前半に何度か挫折しかかった本。
主人公は、魔法使いフォン・ロットバルトの娘オディール。
現代は「Black Swan」。映画とは無関係である。
邦題が「黒鳥の湖」でも悪くはないとは思うけど。

下半身の始末がなってない王子ジークフリート。
オデットは愛想がなく、美しいが感じが悪い。
すると、自然にオディールに感情移入することになる。

オディールは母親不在の家庭で育ち、父親に対して強く承認欲求を感じているが、なかなか満たされない。
父親の片腕になりたいと思い、自分なりに魔術の研鑽を積んできたが、ある日、父親から誉められるのは家事に関わるものだけだということに気づく。
また、物語が進むにつれ、オディールとオデットが交流していく過程で、父親が限りなく魔法を使うために力を吸い取られているのではないかと疑いを持つ。
娘にとっては唯一の肉親である父親。しかし、父親にとっての娘とは。

オディールとオデットのそれぞれの娘-父の葛藤に比して、ジークフリートと女王の息子-母の葛藤は淡白であり、直接の対決を果たすのはオディールだけである。
それぞれが親子の分離を果たして、世代交代をしていく物語だ。
童話的であるが、ジークフリートのおかげで性的な内容も多いため、勧める年齢層に困るなぁ。
対象年齢は10代の物語だとは思うけれども、アメリカ的にはありなのか?
いや、王子様には要注意って、教育も大事なのかな。うぅむ。

もてるから(この場合は権力があるから)といって食い散らかしたらいかんぞって感じだろうか。
レイプを合意と言い張ったり、当然の権利と勘違いしている痛々しさを、明確に指弾するところが、非常にラッキーらしいところだと思う。
どう考えても、全体を通じて、一番、漢前だったのはオディールだったところも、がんばる女の子を応援するラッキーらしい。

最後は胸がすくような大団円である。
おとぎ話にはとてもふさわしい。

2012.02.14

絶望名人カフカの人生論

フランツ・カフカ 頭木弘樹(訳) 2011 飛鳥新社

私は愚痴っぽい。弱音も吐くし、言い訳がましい。
が。
カフカには負けるなぁ。ここまで突き抜けたら、いっそすごいと思うんだ。
この本が、最近の一番のお気に入りで、一押しだったりする。

誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。
しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。(p.148)

こんな日(2月14日)にこんなこと言われちゃったら、しばらく浮上できなくなりそうだ。既に似たようなことを私は言われているような気はするが……。
カフカの場合、これは日記の中の言葉であるから、相手というのは自分であって、自分に言い聞かせていると読むことができるだろう。
3度も婚約して、3度とも結婚に至らなかったカフカの、恋愛の空回り具合が身に染みる。他人事には思えなくて、遠い目をしてみた。
普通に憧れるのだ。それが手が届かないぐらい、高みにあるように感じる。ほかの人にとっての普通が、どうにも難しく感じてしまう。
比べるならば、ダンテの愛は持続的に空回って他者に大盤で振る舞われたが、カフカの愛は急速に自己の内側へと奥底へと空回る。

この本は、カフカの手紙や日記からの引用に、訳者が解説を加えている形式だ。
私はカフカの小説も読んでいないし、人となりを知っていたわけではないけれども、愛すべき人物像が解説によって思い浮かぶ。
働くのが嫌いと言いながら仕事は有能だし、ひきこもりたいと言いながら遅刻はするけど出勤しているわけで、死にたいと言いながらも自殺企図は一度もない。
なんとなく、こう、最強のヘタレ男子的な魅力が湧き上がってきて、カフカという人が可愛くなってしまった。
カフカの『変身』も何度となく借りては返して読みおおせていないが、もっとこの人の残した言葉に触れてみたいと思う。

なにしろ、カフカの悩みは非常に現代的なのだ。びっくりした。
あまりにも的を得た比喩や表現が多くて、さすが小説家は上手なのだ。
特に父子葛藤のところは、同じ19世紀後半に同じくオーストリアのユダヤ系の家庭に生まれているところで、フロイトをすぐに想起した。
ダブルバインド理論なんか出てくるのはもっと後の話だが、フロイト以上に父子の間でなにが起きているかを明瞭に表現している気がした。
父への手紙は全文を読んでみたいなぁ。でも、これは、お母さんがお父さんに渡すはずがないよねぇ。
こんなことを言いながらひきこもっている人、実際にいっぱいいそう……。

読んでいて何度も思わず笑ってしまった。緊張がふっと緩んだ時の、そういう笑いだ。
力んでいたものや張り詰めていたものがすうっと抜ける感じがいい。
自分が思いつめていたことも、カフカに比べたらまだまだだなぁとか、同じようなことで悩んでいるやつがいるなぁとか、思えてくる。
そうやって、もの思いから少し距離を置くことができたときに、緊張は緩み、少し楽になることができるだろう。
その点、通して1度読んだら終わりにするのではなく、思い出したときに手にとって、いくつか読み返してみるような本だと思う。

ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、ひとりでいれば何事も起こらない。(p.42)

それでも、普通に、結婚に、恋愛に、友人に、人生に、憧れずにはいられない。誰かを愛さずにはいられないんだよね。何度だって。

2011.12.16

私の男

桜庭一樹 2007 文藝春秋

東京都足立区。
玄関から入ってすぐに台所、リビングと、奥に寝室。
マンションの一室。
そこに、2人は住んでいた。

骨になっても離れないと思っていたはずなのに、どうして逃げてしまったのだろう。
忘れるなと言ったくせに、どうしてどこかに消えてしまうことができるのだろう。
父親のように、母親のように、息子のように、娘のように、兄のように、姉のように、弟のように、妹のように。
あんなに愛し合ったはずなのに、なぜ。
実ることなく、花は腐る。あっという間に朽ちる。

桜庭は親子として、罪人として、幾重にも結びついていた2人を、あっさりと絶つ。
その別れの章から始まり、2人の歴史を遡るように、物語は進んでいく。
人は誰かの面影を探して恋をする。紫の上に、藤壺を、ひいては、桐壺を見出した光源氏のように。

93年のキタといえば、奥尻島だ。途中で、気付いた。
私が体験した、最初の大きな地震。それが奥尻島だったと思っていたが、記憶と日付があわないことに気づいた。
東京に住んでいて、入浴中だったのだ、船が揺れるように、大きくゆったりとした波がしばらく続いた。自分が海に浮かんでいるような気分になった。
風呂から上がり、テレビをつけたら、地震速報が流れていた。あれはいつのどこの地震だっただろう。
ともかく、そこから始まる物語。

そして、もしかしたら、連鎖していく物語。
腐野花は、鎖の花。
結婚して、苗字が変わって、鎖がとかれた。
だから、淳悟はいなくなった。

そういう意味でも、違う意味でも、手に取る時期に意味があった。
大震災のあった今年、恋人と別れたその日に、積読本の中からこの本に呼ばれた。
どうやら、感覚が戻ったらしい。声なき声が聞こえるように。戻ってきた感じがする。
章を読み終えるたびに、号泣して、本を閉じて、一晩経って、続きを読んで。
そんな読み方をするから、時間がかかった。

きれいな男の人だった。手を繋いで歩きながら、何度も見惚れた。
目鼻立ちの整った、綺麗な顔立ち。
綺麗な目をしていた。くっきりと二重の杏仁型。
惹きつけられてやまないような色気があった。仕草にも、姿にも。
煙草を吸うから、話すとき、ふっくらと形のよい唇が少し歪んだ。
ラッキーストライクのメンソール。
煙草を吸うときは自分ひとりの世界に入るみたいだった。
肌に煙草の味がしみついていた。指輪にまで煙草のにおいが。
台所に立つ後姿がすらりとしてしなやか。背の高い人。
笑うと愛嬌があって、人好きがする。ちょっぴりいたずら好きで。
如才なく立ち回り、人の中に溶け込むことができて。
楽しませるのが上手な人で、仲間や友達にも愛されていて。
やわらかな響きの声。笑いの混じる声。怒りに震える声。かすれる吐息。
口をつぐむと寂しさや悲しさが背後に闇のようにわだかまっていた。
置いて行かれた子どものように心細そうな目をする人だった。
繊細で情の篤い、愛情深い。濃やかで、細やかで。
誰よりも誰よりも優しい人。
私の男。
その名を舌の上で転がす。
生まれた土地から動かなかった人。その根を引き抜いてはいけない。

せめて。
……その先は言うまい。

2010.03.21

千年の祈り

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)  イーユン・リー 篠森ゆりこ(訳) 2007 新潮社

中国とアメリカ。
共産主義と資本主義。
中国と英語。
東と西の断絶を、その間隙に沈む言語で読む、不可思議。
この本も、母国語ではないからこそ書けた表現であり、遠くから母国を見つめなおす作業だ。
母国というのは、自分が生まれ育ち、知らず知らずに自らのうちに取り込んだ、文化であり歴史であり思想であり習慣であり精神である。
言葉の一つ一つが哲学であり、言語は思考である。異なる言語を得ることによって、初めて自分の思考を客体化することが可能になるのかもしれない。

この著者に興味を持ったのは、雑誌で読んだ短い文章だった。
本を手に入れるまでに時間が経ち、その文章も、掲載されていた雑誌のことも見失ってしまったが、その文章を読んだ時の、この人を読まなくてはいけないという強く湧きあがった義務感は憶えている。
入手してからまたしばらく経ち、目次を開くと「死を正しく語るには」というタイトルが見えた。
フォレスト『さりながら』の次に読むのにふさわしいのはこの本だと思った。
「不滅」とくればクンデラであるし、後書きを読めば、作者がクンデラはもちろん、サルトルやカミュ、ニーチェ、キルケゴールなどに親しんでおり、そのあたりもフォレストと通じるものを感じて、一つの流れを感じた。

10の短編のいくつかは中国を舞台にしており、いくつかはアメリカを舞台にしている。
面白いのは、中国を舞台にする短編には時制がない。もとの英文が、すべて現在形で書かれているのだろうか。中国語の素養がないので確かなことは知らないが、中国語には過去形がないようなことを聞いたことがあり、確かに漢文で過去形を習った憶えもないので、その時制のなさに中国を感じた。
勘違いだったら恥ずかしいけれども、欧米の言語は時制には口うるさい。その知識からすると、一つめの短編「あまりもの」は、首をかしげるぐらいに違和感があり、その違和感の理由に気付くのに間もなかった。
そして、10個目の短編「千年の祈り」では、「過去のことを語る習慣はない」(p.228)、「いつまでも思い出にふけっているのはよくない」(p.245)と語られる。
過去のことを語らぬならば、それが過去ではないとするならば、過去形はいらない。

この百年、中国は大きな変化をいくつも経た。近代史にうとい私は、それを十分に把握しているとは言えないが。長い長い皇帝の時代があり、

それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。(中略)やがて内戦。ついに共産主義の夜明けを迎えるのである。(pp.57-58、「不滅」)

文化大革命があり、あるいは、天安門事件があり、それは世代ごとに大きく文化が異なるような事態が起きていることを示す。
単なる親と子の断絶ではない。その断絶は、歴史による断絶。
あまりにも深く、どうしようもなく広く、越えようのない隔たりのゆえに、どの人もわかりあえない。
寂しくて、淋しくて、さびしくてさびしくてさびしくて、母親は底なしの愛に落ちる。
他方で、「誰かの子供でいるというのは、その立場からおりることのできない難しい仕事である」(p.176)。

隔たりがあるにもかかわらず縛られている、その感覚を、著者は繰り返し叫んでいるように感じた。
母であり、母国であり、母国語であり、そういう自分を作り上げているもの、切っても切り離せないなにものか。
愛していながら憎まずにはいられない。けれども切り捨てるのは難しい。
海を越えて、物理的に距離を置いて、どうにかこうにか、心理的にも距離を置けるようになったもの。
程よい距離を望む心は、離れたくはないがぶつかりたくもない、本当はうまく繋がっていたいという祈りではないだろうか。

2009.04.29

かぐや姫の結婚:日記が語る平安姫君の縁談事情

繁田信一 2008 PHP研究所

月に帰るかぐや姫の解題ものかと思いきや、『小右記』という藤原実資という貴族が書いた平安時代の日記を解説したものである。
藤原道長の一族が栄華を極める頃、道長反対派でありながらも敬意も払われた名門貴族にして賢人。その実資が、老いてから得た娘に長生きするように祈りをこめて千古と名づけた。その娘は世に「かぐや姫」と呼ばれたという。
帯のコピーが最悪だと思ったが、面白かった。幸せを探した女性の物語ではなく、愛娘の幸せを求めてやまない父親の物語である。

本屋さんで見かけたときに気になり、他の本屋さんでも見かけたときに買うことを決めた。久しぶりに、「呼ばれた」本だったのだ。
平安時代の雰囲気は好きだし、古文の音の響きは大好きだ。文化史になると、もひとつ興味深く思う。
とはいえ、源氏物語といえば『あさきゆめみし』を真っ先に思い出す程度の私であるから、『更級日記』『大鏡』『栄花物語』のタイトルは知っていても読んではいない。
これらの日記ものや平安時代の文学を好む人にとっては、この『かぐや姫の結婚』は姫君たちの実際の生活をより具体的に理解するための助けになるに違いない。
また、生活を知ることから、彼女たちのメンタリティにまで迫ることができるだろう。姫君たちを育み、取り巻く価値観や世界観を知ることは、文学を読むときの理解を深めてくれる。

『小右記』は、実資が982年(天元5年)から1032年(長元5年)ぐらいの間、書いたものが残っているのだそうだ。この本を読んでいると実に残念になるのだが、ところどころは欠損している。
実に50年分の日記。しかも、漢文で書かれている。
それを読みこなせるのだから、著者はすごいなぁと羨ましくなった。漢文や古文を、その美しい響きの音のまま、読むことができるなんて。
こんな風に読めるなら、世に読むことができる書物の世界がぐーんと増えるではないか。一次資料を読みこなせるというのは垂涎である。

それにしても、道長って嫌なやつだなー。下半身のけじめがついていないから、多くの娘にも恵まれて、権勢を得ることができたんだけどさ、見境ないなぁ。
そういう感想を述べたくなるほど、登場する貴族たちは実に人間臭い。著者の目線はどの人にも公平で、語られていない部分も緻密に推理を重ねながら、歴史の中に名を残す人々の人間らしさを織り上げていく。
婚姻関係も単純な一夫一婦制ではなく、養子縁組もあるようなややこしい人間関係については、その場ごとに相関図が示されている。
また、日記の時点ごとに、関係者たちの年齢や身分の一覧表が作られていたり、貴族の長寿番付なんてものが整理されていたり、通時的にも継時的にも事態を了解しやすく配慮されている。
古典を読むときに、身分が変わることや、身分が変わることで呼び名が変わることに戸惑わされることがあるが、そういったシステムがどのようなルールで動いていたかも、この本は教えてくれた気がする。

物語ではないからこそ、「もしも」は成り立たない。
すでに過去のものとなっている歴史を誰も変えられない。
時間は流れ去り、それを取り戻すことはできないのだ。
これが物語であったなら、もっともっと幸せな結末を思い描いたかもしれないが、人生とはままならぬものである。今昔を問わず。
昔の人の人生をそのまま味わうことの悲喜が切なく、月を見上げたくなった。

2008.09.10

武士道シックスティーン

武士道シックスティーン  誉田哲也 2007 文藝春秋

面白かった。
最後には、こうきてほしい!という方向に物語は流れ、わかっていてもウルッと涙腺が緩んだ。
すかさずセブンティーンに手を伸ばしたいところをこらえて、感想を書いておきたい。

振り分けるなら、私のキャラは磯山に近い。
ここまで持続力のあるほうではないが、この頑固さには親近感。
孤独を孤独であるとすら認識することなく、自分一人で生きてきたように勘違いしていた。
だけど、成長するにつれ、幼い世界観では割り切れないことが起きてくる。

一方、西荻のほうも、悩みゼロというわけではない。
勝敗にこだわらない剣道を楽しむ彼女は、人の好さが目立つが、同時に傷の記憶が勝敗への嫌悪感を与えている。
しかし、めげないという強さでは人一倍。
磯山が認める好敵手であり、ある面では救世主となる。

この二人の少女の出会いという横糸と、それぞれの父親と娘のやり直しという縦糸が、絶妙に織り込まれている。
ゆっくりと読むはずが、途中で手放せなくなり、結局、一気に読んだ。
剣道の知識がなくても、説明は丁寧だし、雰囲気で楽しめる。
章の合間には、道具の各部名称も図解されている。
表紙も可愛くて、元気があって、ぴったりだ。

読んでいて元気をわけてもらえるような本だった。
入院中の無聊の慰めに、友人が贈ってくれたものだ。
これ以上ないお見舞いの品だ。ほんと、ありがと〜。

退院はしたものの、引き続き、自宅療養中。
パソコンを立ち上げる気力がまだありません。
皆さんからいただくコメントへの返事は、もうしばらくお待ちくださいませ。
温かいお言葉、ありがとうございます。

2008.09.06

いつかパラソルの下で

いつかパラソルの下で (角川文庫 も 16-5) (角川文庫 も 16-5)  森 絵都 2008 角川文庫

知られたくないようなことなら、最初からやらなければいい。(p.104)

そりゃそうなんだけど、秘密というものは人を引きつける魅力があるのだ。
秘密の匂いを嗅ぎつけたときの私は、クリームを前にした猫のように舌なめずりをしているかもしれない。
自分自身は秘密を抱え込むのは上手ではないが。

『カラフル』から続けて読み、あまりの作風の違いに驚いた。
前作は14歳の少年が主人公なだけに感じられなかった女性の匂いと性の匂いが濃密だ。
振り返ってみれば、『カラフル』の中の桑原ひろかの造形は肉惑的で、性欲も普通で平凡なものと肯定されていた。
対して、この『いつかパラソルの下で』に出てくる主人公家族は、自分の性に歪みを見いだしている。
「非凡」というより、「普通ではない」という否定文が持つネガティブなアイデンティファイが宿命づけられている。

たとえば、野々は感じない女だ。濡れない女だ。ふわふわと仕事と同棲相手を変えながら生きているから恋の多い女に見えて、彼女はいつも捨てられる覚悟をしながら男性を抱く。
まともに恋ができないほどの劣等感、自分は愛されるわけがないという諦念。
その心情が切なくて、親近感も感じた。
好きなのに、好きなのに、こんな私だから、いつか捨てられなくてはならない。
好きだから、好きだから、あなたが望みを私はかなえてあげてしまいたくなる。
あなたが消えろというなら、私は消えるしかない。
相手の負担にならないように、遠慮して控えめに欲張らずにつつましく目の前の幸せを大事にしてきたことを、将来を考えていないと糾弾されたら、泣く声も出ない。

極度の潔癖症の父親が支配する家庭。その父親が死んだ後、母親は心気症のような行動をとり、家とは決別したはずの主人公と兄、家に取り残された妹が集まる。
この家族像も見覚えがあると目を疑った。似たような雰囲気、構造、問題を持つ家族は、実際に少なくないだろう。
家族史や郷土文化に知らず知らず縛られている人は多いはずだ。うちの親族だっていまだに旧民法の世界観だし。
マクロな家族の点でも、よりミクロな野々の恋愛の点でも、なさそうでありそうな普遍性を持たせて、同時進行しているから、厚みがあって面白い小説になっているのだと思う。

父を探す旅は自分を探す旅になる。
俄然、著者の力強さが登場人物に乗り移ってくる。
親を許す旅は自分を許す旅になる。
家族の再生などというとチープになってしまいそうだが、桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人たち』やよしながふみ『愛すべき娘たち』と同列に並べておきたい。
力強く、前向きで、ハッピーな気持ちで読み終えることができた。最初は入り込みづらかったが、こういう気分になれることが嬉しい。
人生の不幸の原因は親であると怪気炎をあげている人は、小説なんて作り物の綺麗事と切って捨てちゃうかな。
小説が追いつかないような悲惨があるのはわかった上でなお、親への割り切れなさを抱えている大人に勧めたい。反抗期を生きることを許されている10代の読者には、二十歳を過ぎても急に変わるわけがないってことと、いつまでも親の所為にするのは格好悪いことを、この本から感じてほしい。

 ***

誰だって親には恨みの一つもあるけど忘れたふりをしてるんだ、親が老いて弱っちくなるのを見てしょうがなく許すんだ、それができないでこれからの高齢社会をどうするんだ、みみっちいトラウマふりかざして威張ってるんじゃねえ(p.198-199)

2007.08.17

パパとムスメの7日間

パパとムスメの7日間  五十嵐貴久 2006 朝日新聞社

役割交換のロール・プレイ。
カップルの関係性の見直しのために、夫に妻の真似、妻に夫のふりをして会話をしてもらう。
いじめの予防と解決のために、いじめる側と、いじめられる側を決めて、なりきって演技をしてもらう。
今ここで、相手だったら、何を感じ、何を思い、何を考え、何を言い、何を行うのだろうか?

すずなちゃんのブックレビューで知った後、ドラマ化された。
そのため、パパのイメージはどうしても舘ひろしさん。
声も喋り方も、学校の景色や町並みも、ドラマを頭の中で再現するようにして読んだ。
とはいえ、小説には小説の表現手法があって、ドラマにない面白みもある。
ムスメの口調は、文章でわざわざ読みたいものではないので、どちらかといえばパパ目線で読んだ。

ヴィスコンティの映画のあたりが、私のツボ。確かに、寝れる。というか、寝た。
「ルードヴィヒ:神々の黄昏」でも寝れるし、「山猫」でも眠れる。熟睡可能だ。
画面がどれだけ綺麗で、建物も衣装もこりまくっていたとしても、だ。
デートで空振りするつらさに共感してしまうパパが微笑ましくてよかった。

組織は腐ることがある。企業の中で、腐りそうな気分をなだめながら働いている人には、ムスメの正論に励まされることもあれば、そんなにうまくいくわけないとますます腐りたくなるかもしれない。
どうしてこう、顔色をうかがう相手を間違ってしまうのか。
自分の顔を向ける方向を間違えないようにして、日々を過ごしたいものだ。

ところで、西野さん。ああいう人っているよな……と思い出すと薄暗くなる。
日本語がまっすぐ伝わらないの。相手の中で都合よく都合よく、つけたされたり、すりかえられたりして、まったく言葉が通じなくなる。
自分の中だけで世界が完結している人は、バランスが悪い。適応範囲内におさまっている間はいいが、はずれてしまうと修正が難しいところが気の毒だ。

物語は「ありえない話」という意味でファンタジーの設定なんだけれども、パパとムスメが立場を入れ替えて眺めるそれぞれの生活はリアリティがあった。
医療を頼って科学を導入せず、ファンタジーを保ったところが、興をそがずにすんだのだと思う。
共通する取り組むべき課題が解消されたとき、非常事態の緊密な関係は失われるかもしれないが、お互いへの理解は深まっているはず。
できれば、ラストは、パパとムスメがもう少し仲良くなっているといいな、と思ったけれど。
小説を読んで自分の立場を入れ替えてみた後は、父は娘に、娘は父に、笑顔の一つ分ぐらいサービスできたらいいな、と思った。

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