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香桑の近況

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**愛すること**

2019.04.01

エンド オブ スカイ

雪野紗衣 2019年4月22日発売予定 講談社

普通であること。正常であること。
それは、現代の日本において、必要以上に重視されている価値観のように思う。
過剰に縛られているのではないかとすら、思う。
もはや、呪いのように。

『エンド オブ スカイ』は雪野紗衣さんが書いたということで、読ませていただきたいと思った。
あの『彩雲国物語』とは、テイストが違うと思う人もいるかもしれない。特に序盤は私も文章の中の雪野さんらしさを探したほど、イメージが違う。
だが、中盤あたりから、ぐいぐいと力強く、主人公ヒナの背中を押してくる。
この力強さは、まぎれもなく、雪野さんのフレーバーを感じた。
それは不在の母親との母子葛藤であり、苦境を笑い飛ばしながらたくましく生き抜く人物像だったり、思わず噴き出してしまうほど愉快で優秀なだめな人物像だったり……。

未来を舞台にして、だれもが遺伝子レベルで設計された正常さを持ち得るようになった世界で、主人公ヒナは周りからどこか浮いており、常に自分は正常であるのだろうかと問い続けている。
彼女が出会った少年との物語は、近未来SFであり、不思議なロマンスになっている。
途中で似ていると思ったのは名作『夏への扉』だったが、読み終えてから思うのは、「天女の羽衣」であり、「浦島太郎」であり、トヨタマヒメの物語であり。
結ばれてはならない二人が結ばれる、古い古い神話やおとぎ話が思い出されてならなかった。
SFのなかに異類婚姻譚が生き返り、その形式を踏襲しながら、人とは何かをもう一度問いかけてくる物語なのだ。

人が違って見えるのは普通だが、それを「普通じゃない」と思うことは変なのだ。

作者は舞台を未来にしているが、こめられたメッセージは現在を生きる人に向けてのものに相違ない。
普通ってなに。正常ってなに。人間ってなに。幸福ってなに。
持って生まれた性別や民族で区別し、差別することの愚かさを指摘し、考えるようにうながす。
問題ってなに。障害ってなに。「障害がある」ってなに。
障害があることを人の優劣と勘違いするような犯罪が起きることもあるが、すべての人は「必要があって今ここにいる」。
人は違っていないといけない。多様性という生存戦略をとっくの昔に選んだ生き物なのだから。そういう観点から、人と違うことを堂々と肯定してみせるくだりは胸が熱くなった。

そして、人はいつか死ななくてはいけない。
死ぬことの意味まで見通しながら、生きることの意味を手繰り寄せる。
様々なヘイトに対する凛とした反論であると同時に、ありとあらゆる生を肯定し、今を生きのびようと力強く応援する物語。
もしかしたら、あの物語の仙人たちの物語であり、解答ではないのだろうか。
まぎれもなく、これは雪野紗衣さんらしい物語だと思った。

われらに生まれた理由などありはしない。ちゃんと死んで次と交代すれば、どんな風に生きたって遺伝子は気にしないのさ。子孫を残しても残さなくても、次に自分と違う存在が歩いてりゃ、それで世はこともなしだ。

#エンドオブスカイ #NetGalleyJP

2019.01.08

あたしとあなた

谷川俊太郎 2015 ナナロク社

美しい装丁に惹かれて手に取った。
箔押しの表紙に、青い薄紙のページ。
海に潜るような、空に昇るような。
ひっそりとして人知れぬ世界を包む本だ。

あたしとあなた。
そばにいるのに、わかりあえない。
あたしとあなた。
二人でいるのに、孤独が深まる。
あたしとあなた。
二人でいるから、対立してしまう。

まだ若く、未来に時間が多くあり、エネルギーがあり、共にあることを喜びとする「あたしとあなた」ではない。
共に生きてくることはできたけれども、共に死ぬことはできない、老齢期の「あたしとあなた」の言葉たちのように感じた。

もしかしたら、どちらかが認知機能の衰えから疎通性が低下していたり、他方を認知することが難しくなっているのかもしれない。
また、もしかしたら、それぞれに死期を迎えていたり、片方はすでに思い出のなかの人となってしまっているのかもしれない。

そんなひりひりとした孤独と、絶望を通り過ぎた諦念だけが持つ儚さ、軽やかさが、悲しくなった。
悲しくて、悲しくて、泣くことさえ許されない。
そんな風に、もの悲しい気持ちでいっぱいになった。
きっといつか、自分もまたこんな風に別れていくのだろう。別れるしかないのだろう。そんな未来を見せられた気がしたから、かもしれない。

  あたしは
  神を
  探しに行く
  迷子に
  ならないように(pp.56-57)

迷子に、ならないように。

2017.05.12

恋歌

朝井まかて 2013 恋歌 講談社

苛烈で凄惨。
歌は、その歌だけで味わうのもよいが、背景が加わることで更に輝きを増す。
それが命がけで詠まれたものであるなら尚更、背景を知ることが意味を知ることになる。
幕末の時代から明治を生きた歌人、中島歌子の生よりも、その時代の描写に圧倒された。

明治維新は江戸城の無血開城で成ったとはいうが、施政者がただ単に交代しただけではなかった。
なにも江戸城や京の都だけで起きた大事件ではなく、その時代に住む人の生活をあちらこちらで大きく変えるものだった。
たとえば、髙田郁『あい:永遠にあり』も江戸城の外で展開される幕末であったが、主人公のあいは中島歌子に比べればまだ穏やかな人生であった。
二人を決定的に分けるのは、あいが農民、歌子が商人の娘であったことよりも、夫が医師であるか武士であるか、それも水戸の武士であったかどうか、であるように思う。

登世という娘は、江戸の富裕な商人の娘として何不自由なく生まれ育った。
彼女が結婚した相手は水戸藩士。
当時、水戸の藩士は天狗党と諸生党に二分して政権争いをしていた。
その争いは、積年の恨みとなり、血で血を洗い、骨を相食むことになる。
戦闘の表舞台に登世があがることはないが、武士の妻女として投獄されて悲惨を味わう。
食べものを十分に与えられず、寒いなかに捨て置かれ、傷病の手当ては受けさせてもらえない。
身分の高い家の子どもともなれば、趨勢が決まった時に目の前で斬首されていく。
そんな悲惨を味わう。

これのどこが、アウシュビッツと異なるだろうか。
明治維新は、ほんのたった150年ほどの昔のことだ。。
当時は当時の教育があり、知性があり、理性はあっただろう。
しかし、人は残酷になれる。どこまでも冷酷になれる。野蛮にはきりがない。
日本人は礼儀正しいとか、武士は高潔だったとか、思いたがる人たちもいるけれど、例に漏れず、こんな野蛮な歴史をちゃんと抱えている。
この野蛮さは過去もあり、現在もある。現在だって、残念ながらしっかりとある。
尊皇攘夷を謳った人たちが維新後に先を競って欧米に倣おうとした皮肉と矛盾も、今も大差がない気がする。

この物語、導入と結びの仕掛けも素晴らしい。
一人の歌人の手記を通して、歌しか抱きしめることができなかった恋と、歌しか残すことができなかった人々が語られる。
そして、歌を命がけで詠むような時代ではなくなってしまった世界に、歌ではないものを残していく。
いとしい人は、どうして先に死んでしまったのか。
厳格に追求すれば騒乱が起きる元。相手が滅ぶまで追求しあう男達の対立を、人を愛すること、人を知ることで、ささやかに解決を図ったのは女達だった。
忘れられない愛しさだけが憎しみを超えて、復讐を恐れて手加減できなくなる愚かしさを、終わらせることができたのだ。
心のままに生きることの難しさ、共に死ぬことの難しさが切なかった。

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2017.02.01

娘役

中山可穂 2016 角川書店

中山さん、どうしたんだ!?
と驚くほど、楽しく読んだ一冊。
設定にも驚いたが、こんなに楽しい物語に出会うことが嬉しく驚く。
ドラマチックであり、シリアスでありながら、主人公がとてもキュートなのだ。

『男役』を読んだからにはこちらも、と思って、手に入れた本だった。
男役を描くと、これぞ宝塚という世界になるが、その男役を支えているのは実は娘役。
そう聞いて、なるほどとひどく納得した。
男役の魅力は、その人工的な「第三の性別」というファンタジー性にあるのだと思っていたが、男役をよりひきたてるために娘役もまた人工的に作り上げられているものだ。
なるほどなぁ。さすがだなぁ。女性への目線のやわらかさが、さすが中山さん。

野火ほたるの娘役の物語をひきたてているのは主人公である片桐と、親分さんの二人の宝塚ファンだ。
宝塚を愛しているけれども、愛しているからこそ、やくざである自分が近づきすぎてはいけない。
舞台を観ているひと時だけは渡世の憂さを忘れていたいのに、世界のほうが放って置いてくれないところが憂さたるもの。
この二人のやくざ達が、とってもキュートなのだ。いっそコミカルと言ってもいいかもしれない。
宝塚歌劇のファンであるヤクザさんというシュールな設定は、物語がリアルになりすぎないために生まれたらしい。
作者の楽しそうな様子が透けて見えると思った。大人のユーモアたっぷりの作品に仕上がっている。

一人の娘役の成長を見守りながら、物語は数年間を駆け抜けるように進んでいく。
見守る片桐の人生は、時に彼女に近づき、離れながら、大きく変化していく。
伏線が回収されていないというレビューも読んだが、人生なんてむしろそんなものだ。
こうとしか生きられなかった男のロマンチシズムと、作者さんのユーモアがたっぷりのドラマチックな一冊。

大人の遊び心って、本気を出すからかっこいいと思うのだ。
中山さんの小説を長年読み続けたファンとして。
この作家さんの物語を、時には大笑いしながら読む日がくるなんて、なんだか嬉しかった。
好きな作家さんには、なんというか、人生を楽しんでいてもらいたいと、勝手に願って祈ってる。

 *****

作中のカルド・ヴェルデというスープ。
美味しそうでレシピを調べて作ってみました。
これは、ほんとに美味しい。家族にも好評でした。
作り方も材料でシンプルで、滋養があって、優しい食べ物。
私の定番メニューにしていきたいと思います。

2016.12.15

男役

中山可穂 2015 角川書店

そこは夢の世界にたとえられる。

私が宝塚大劇場に行ったことがあるのは、一度きり。
高校の時も友人の一人が熱烈なファンで、大学の時も友人の一人が熱烈なファンで。
あれはたぶん、大学の友人につれていってもらったような気がする。
なんの作品だったのか、誰が出ていたのかも憶えていない。
劇団員といえばいいのかな。ステージの上の華やかさとサービス精神、なんといっても男役の皆さんのかっこよさ。
過剰なまでのロマンチシズムとアドリブの笑いのギャップに、生で何度も観たくなるファン心理を悟った。
礼儀正しく規律正しいファン達の熱量に圧倒され、独特の世界だなぁ、と思いながら、帰ってきた。

その時の印象そのままの世界が、この本の中にある。
宝塚そのものではなくて、印象としての宝塚。思い出としての宝塚。
著者が後書きで但し書きをしているけれども、リアルを追求したものではない。
逸脱するからこそ、幻想としての宝塚が強く心によみがえってくる。
友人たちの話から垣間見てきた宝塚、自分が一度だけ行った宝塚、その場所でならさもありなんと思うような、そういうしっくりくる感じがする。

中山さんの物語は、気合いを入れて読むものだと思っていた。
心の一番やわらかい所を閉まっているパンドラの箱をこじあけながら読むような、心が右往左往に引きずられて引き裂かれるような思いをするような、そんな恋愛小説を書く方だと思っているから。
美しい日本語で、美しい恋愛小説を描く、随一の方だと思っているから。
だから、読むタイミングをすごく選ぶのだけども、この物語はそんな心の準備は不要だった。

ファントムこと、扇乙矢。50年前に舞台事故で死に、宝塚を守護してきた幽霊。
現在のトップであり、引退を控えた、如月すみれ。
乙矢の相手役だった麗子の孫である、永遠ひかる。

彼女達、三代にわたって受け継がれていく、男役という生き方。生き物。
確かに女性であるには違いないが、彼女たちは男役である数年間を、女性ではないものとして自らを形作る。かといって、男性そのものではない。
男役は、男性の理想形を体現する、男役という性別であり、生物になる。
現実ではなく仮想の宝塚だからと敢えて書いておくけれども、そんな仮想の性別であり、この世界に仮住まいしているような人物像が、中山さんの世界に似合うように思った。
なにしろ、美しい。それだけで十分だ。

すみれの引退で幕を引く。
その切れ味がまた、中山さんらしいなぁと、舌を巻いた。
著者はもともと近代能楽集の一作品になるようにこの物語を構想したそうだが、ファントムだけではなく、男役そのものが舞台という一夜の夢でしか息づけない、そういう物語だったのかもしれない。

近いうちに、『娘役』のほうも手に入れなくちゃ。

2016.08.26

アンマーとぼくら

有川 浩 2016 講談社

出ることもチェックしていなかったぐらい、有川作品への興味も下がっていたけれど、これはいい本。
評判通り、綺麗な表紙なのもいい。
表紙の意味がわかるのは、読んでからのことだけど。
タイトルの意味がわかるのも、読んでからのことだけど。

号泣すること、2回。
これはね、泣くよね。
泣けない人とか、泣かない人とかもいるけど、私は泣くなぁ。
最後はどうなるか途中で予想がついたけれども、これは泣くよ。

主人公のリョウが、沖縄に到着したところから始まる奇跡の3日間。
沖縄でガイドをしてきた継母の3日間の休暇につきあう旅だ。
王道の観光名所を回りながら、過去と現在が交錯する。

過去は変えられない。本当ならば。
これを主人公のための、3日間と受け取る人もいるだろう。
過去の記憶の書き換えはできる。感じ方を変えることもできる。
主人公が自分の子ども時代の記憶を救済するための過程と読むことはできる。
でも、これは、晴子さんの魂が慰撫されるたのめの3日間だったと思うのだ。

だって、この後、主人公はやっぱり後悔せずにはいられないと思うのだ。
もっとそばにいればよかった。もっと一緒にいればよかった、と。
いくら、この後、沖縄に転居してきたといっても、事あるごとに思い出す。
そして、自分ができたかもしれないのにしなかったことを考えるのではないか。
後から、後から、気づくことは出てくる。後になってからしか、気づけないことがある。
そんな含みを、勝手に付け加えておこうと思う。

複雑な家族関係のあたりは『明日の子供たち』の取材の成果かな。
北海道の描写は、『旅猫レポート』とか。
植物の種類と写真は『植物図鑑』ね。
観光地を回る感じは『県庁おもてなし課』だろうか。
これまでの作品が透けて見えるような、薄様が幾重にも重なり合っているような。
これまでの取材が程よくブレンドされて、熟成されたような印象があった。
感情表現はこれまでになくとてもストレートで、押し付けがましいほど、文字が浮いて感じることもあったが、感情の強さを表すには他になかったような気がするし。
ここ最近の作品の中では、好きなほうに入るかもなぁ、と思った。
強い強い感情をまっすぐに投げつけるような小説だった。

あー。沖縄、行きたいなぁ。
飛行機、乗りたいや。

2014.06.19

百合のリアル

牧村朝子 2013 星海社新書

非常にいい本である。
ぜひ、図書館には入れて欲しい。
できれば、公立図書館や高校以上の学校図書館に入れて欲しい。
中学生にはちょっと早いかもしれないが、性の悩みを悩み始める頃の人たちに届くようなところに並べて欲しい。
心からそう願う。

読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
質問/対談形式にしてあるところもとっつきやすいと思う。
マンガのページもところどころ挟まっていたりもする。
帯の著者の写真が、とても美人でひゃほー。雰囲気がとてもいい。
どこか遠い世界のレズビアンではなく、もっと身近で等身大。
リアルな悩みに答えてくれるいい本なのだ。

同性愛の問題を語るとき、カテゴライズする用語が年々増加の一途をたどることに気づく。
そのカテゴライズすること自体を取り上げて、そんなラベリングを一旦取り外して、目の前の人と人との一対一で対峙するところから始めようと、著者は対人関係の根本に立ち戻ることを勧める。
そんなところは、同性愛であるかどうかは横において、誰にでも言える、役立つ、本当はとっても当たり前であるはずの考えが述べられている。

そういう用語の解説にとどまらず、比較文化的に男女以外の性の区分を紹介してみたり、歴史的に同性愛の治療とされてきたものを紹介してみたり、内容は横断的でである。
同性愛であることの苦しみへの対処法や、同性カップルのこうむりやすい不利益、同性同士で婚姻するための現行上の仕組み、女性同士のセックスの例など、盛り込まれている情報は豊富だ。

セックスのルールはシンプルよ。『している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること』これだけなの。(P.156)

さらりと大事なことを書く著者に、好感を持った。
とても賢く、ユーモアのある女性だと思う。
書かれている文章が魅力的で、正直を言えば、ファンになった。

2012.04.21

超訳 古事記

鎌田東二 2009 ミシマ社

どうして約束を違えるのか。
いざない、いざなわれ。
永久に手を繋いで歩もうと誓ったものを。
のちに裏切るぐらいなら、なぜ、いざなった。
この怒りを、嘆きを、苦しみを、憤りを、悲しみを、憎しみを、恨みを、愛しさを、恋しさを。
ねえ、なぜ、わかってくれない。

詩のように研がれた文章。詞のように声に馴染む文章だ。その秘密は、この本の作られ方にあり、あとがきを読むとわかる。
読みやすく、わかりやすく、古事記の全体像を掴むには最適であろう。
そぎ落とされたところに旨みがあるのかもしれないが、大筋から味わえるものも多い。
神話の中には、イメージが次々に喚起される、豊饒な世界が広がっている。
子ども向けの古事記以来に触れる私にはほどよい内容であり、しかも、品があってすっかり気に入った。

イザナギ、イザナミの夫婦喧嘩から、父子家庭の末子のスサノオの反抗期、父親の養育放棄もしくは子の家出のくだり、こんな家庭ってあるよなー…。
同胞葛藤といえば、アマテラスとスサノオも、母親不在の家庭で、母親の代理を求められる長女のギブアップと、あくまでも母親を希求する末子という感じで、よく見られる。
ニニギの嫉妬妄想、海幸彦と山幸彦の同胞葛藤。イワナガとコノハナサクヤも同胞加藤。
現代の家族関係や異性関係に見られるトラブルって、結構、そのまま、古事記の中に見出せるのが面白かった。
家族や異性関係で生じるトラブルの原型を見出すと同時に、冥府下りや大地の女神の死、見るなの禁止令といった、神話だからこそ語られるモチーフを再考するよい契機となった。

面白いのは、イザナギもオルフェウスも異界に死んだ妻を迎えに行くが、死んだり醜くなった妻は捨てられて話が終わる。
しかし、女神達は違う。大国主の母親も、イシスも、男神が殺されたときには、母親もしくは恋人たる女神は、その遺体をかきあつめて生き返らせようとする。なにがなんでも生き返らせようとする。
イザナギがイザナミにがっかりするところは、すでに女性は若く美しくないといけないという価値観の反映のように読めてしまう。
男性から口説いておきながら、男性のほうから去っていくことを許せないと怒りを感じるのは、なにも、イザナミだけではない。
その後も清姫や六条御息所に受け継がれ、お七やお岩を経て、今も日々増産中。
そういうイザナミ的な要素は、多かれ少なかれ、女性は持っているものだと思っている。
少なくとも、私は持っている。

女性である私の目から見れば、ほんの少し違うのだ。
イザナミはイザナギを傷つけたかったわけではない。殺したかったわけではない。決定的に別れたかったわけではない。
裏切られた苦しみをわかってほしかっただけなのだ。約束を破ってごめん、と、一言言ってほしかっただけなのだ。
もっと言えば、醜くなってしまった自分に恐れをなすのではなく、そんな醜い面も含めてどーんとうけいれてくれたらどんなによかっただろう。
出会ったときの二人のように美しくなくなってしまったとしても、手を携えて、愛を確かめあっていきたかっただけではないのか。

愛を保ち続けていたくて、縁を繋ぎ続けたくて、呪いの言葉をつむぐ。
現代であれば、別れ話の後のヤケ酒みたいなものだ。リストカットやODしてしまう人の心情にも通じると思う。
イザナギの後悔を、改悛を、導き出したくて、罪悪感に、同情心に訴えかける。
それが最早愛ではなかったとしても、どこかで繋がっていたいと切なく願う人を、責めないでほしい。
お願い。私から、立ち去らないで。
そんな祈りがあるから、別れの言葉は言わないでいてほしいのだ。別れざるを得ないとしても。
そして、仲直りの仕方を書かないから、ニニギとコノハナサクヤ、山幸彦と豊玉姫も繰り返す。

見るなと言ったのに。
あれほど、お願いしたのに。
見るなとお願いしたのが悪いのか。
約束を守ってくれると信じたことが悪いのか。
私はあなたを信じていたのに。
あなたはどうして信じてくれない。待ってくれない。任せてくれない。
その裏切りを謝ってくれないまま、自分のほうが傷ついたような顔をして。
誤りを過ちにして、一人だけ禊して終わらせてしまうなんて。
許さない。

呪いは、私を忘れるなという約束の言葉。
あなたの過去に私という存在があったことをあなたが忘れたとしても、あなたの意識が根ざす無意識のひそみに私はそっと隠れつつ、あなたを支えていくだろう。
あなたは知らず知らずに私の願いをかなえていくのです。
あなたがなしていく営みのはじまりが私にあることを、あなたが忘れてしまっても。
私はひそかに悦ぶでしょう。
かすかにでも、私があなたになにかよきものを残すことができたのだとしたら。
出逢ってよかった。

2012.04.19

きみはポラリス

三浦しをん 2011 新潮文庫

最近、うちの猫ががんだということがわかった。
部位は違うが二度目のがんだ。
年が年だから、今度は麻酔ができない。手術ができない。
飼い始めて19年。来年は今頃はいるのだろうか、と思いながら過ごしてきた。
いつかその日が来るとわかっていても、近づいてきていることを確かめることは、切ない。
だから、「春太の毎日」を読んでしんみりした。

好きな人が望むなら。
ずっと一緒にいるよ。(「永遠に完成しない二通の手紙」)
裏切らず、本気を貫く。(「裏切らないこと」)
死ぬまで、全部忘れて楽しく暮らす。(「私たちがしたこと」)
私は行く。求めても与えられず、探しても見いだせず、門をたたいても開かれることのない道を。(「夜にあふれるもの」)
私は小さなその土地に踏みとどまって、あらゆる移ろいを見つめ続ける覚悟をつけた。(「骨片」)
すべてを飲みこんで生きていく。(「ペーパークラフト」)
もしもいつか、私たちの心が遠く隔てられてしまう日が来ても、この笑顔はいつも私のどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。(「森を歩く」)
まったくもって、生活からは逃れようがない。(「優雅な生活」)
ああ、いつまでもこうしていたい。ずっと仲良く暮らしていたい。(「春太の毎日」)
何度聞かれても、私は信じると答えるだろう。(「冬の一等星」)
好きなんだ。(「永遠につづく手紙の最初の一文」)

それぞれの短編から一節ずつ引用してみた。もっと美しく胸打つ文章もあるが、ここはあえて流れ重視で選んでみた。
このように、いつも心の中で輝くポラリスのように、その場所は変わらず、私の目指すべき位置を教えてくれる存在として輝き続けるような恋や愛ばかりが集められている。
本数が多い上に短編から中編ぐらいの長さばかりで、読みやすいけれども全体はしっかりとボリュームがあった。
また、三浦さんのその後の作品の登場人物のプロトタイプになっているのかな?というキャラクターも散見して面白かった。
もっと面白いと思ったのは、巻末にお題もしくは自分お題が記されていたことである。短編のタイトルとは別ものの、依頼時、執筆時のお題を見ると、なるほどと興味深かった。
ちなみに、解説は中村うさぎ氏。この取り合わせが素敵であり、中村さんの文章によって、私の恋も愛に認定してもらえたような喜びをかみ締めた。

好きな人が望むなら。望まなくても。それは自分が望むことだから。
ためらいがなかったとは言わない。ためらっている間に、彼の本気はすり抜けてしまった。
本当に本気なら、本物なら、ちょって待てと言いたくなるが。
男ってばか。
女はそんなことを望んでいないよってことを、先回りしてかなえようとして空回りするからばかって言いたくなるんだ。
女の恋は上書き方式って誰が決めた。
恋はそんなものではない。
たった一つ。決めてしまったら、それを抱いて生きるしかない。
あなたが望むなら。忘れたふりを私はしよう。してあげよう。
あなたが見ているところでは。見ていないところでも。
そう思いはしたが、忘れられるものではないんだよ。そう簡単にはね。

忘れたふりをしてあげてもいい。そうすれば、あなたは「この女もか」と失望を再確認して安心することができただろう。
あなたは過去の憂鬱と未来の希望から目をそむけることしかしないが、しかし、私はここに踏みとどまっていよう。
踏みとどまることで、あなたにそんな安穏とした臆病な平和に逃げ込むことを許さず、私は自分の心を裏切らずにいよう。
呼ばれたら応じる。助けを求められたら駆けつける。そのためにここにいる。私はそういうものだ。そういうものがいるという安心感が、私の供するものだ。
忘れない。裏切らない。そこに常にある。そんなものがあることを、あなたがいつか信じられたらいいのに。愛されているということを。
祈りは、まだまだ続くのだ。

だって、あなたが私を守る星なのだもの。
いつも心の中で輝く、導く、励ますもの。
忘れられるのはあきらめてくれ。

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