2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

**愛すること**

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2017.02.01

娘役

中山可穂 2016 角川書店

中山さん、どうしたんだ!?
と驚くほど、楽しく読んだ一冊。
設定にも驚いたが、こんなに楽しい物語に出会うことが嬉しく驚く。
ドラマチックであり、シリアスでありながら、主人公がとてもキュートなのだ。

『男役』を読んだからにはこちらも、と思って、手に入れた本だった。
男役を描くと、これぞ宝塚という世界になるが、その男役を支えているのは実は娘役。
そう聞いて、なるほどとひどく納得した。
男役の魅力は、その人工的な「第三の性別」というファンタジー性にあるのだと思っていたが、男役をよりひきたてるために娘役もまた人工的に作り上げられているものだ。
なるほどなぁ。さすがだなぁ。女性への目線のやわらかさが、さすが中山さん。

野火ほたるの娘役の物語をひきたてているのは主人公である片桐と、親分さんの二人の宝塚ファンだ。
宝塚を愛しているけれども、愛しているからこそ、やくざである自分が近づきすぎてはいけない。
舞台を観ているひと時だけは渡世の憂さを忘れていたいのに、世界のほうが放って置いてくれないところが憂さたるもの。
この二人のやくざ達が、とってもキュートなのだ。いっそコミカルと言ってもいいかもしれない。
宝塚歌劇のファンであるヤクザさんというシュールな設定は、物語がリアルになりすぎないために生まれたらしい。
作者の楽しそうな様子が透けて見えると思った。大人のユーモアたっぷりの作品に仕上がっている。

一人の娘役の成長を見守りながら、物語は数年間を駆け抜けるように進んでいく。
見守る片桐の人生は、時に彼女に近づき、離れながら、大きく変化していく。
伏線が回収されていないというレビューも読んだが、人生なんてむしろそんなものだ。
こうとしか生きられなかった男のロマンチシズムと、作者さんのユーモアがたっぷりのドラマチックな一冊。

大人の遊び心って、本気を出すからかっこいいと思うのだ。
中山さんの小説を長年読み続けたファンとして。
この作家さんの物語を、時には大笑いしながら読む日がくるなんて、なんだか嬉しかった。
好きな作家さんには、なんというか、人生を楽しんでいてもらいたいと、勝手に願って祈ってる。

 *****

作中のカルド・ヴェルデというスープ。
美味しそうでレシピを調べて作ってみました。
これは、ほんとに美味しい。家族にも好評でした。
作り方も材料でシンプルで、滋養があって、優しい食べ物。
私の定番メニューにしていきたいと思います。

2016.12.15

男役

中山可穂 2015 角川書店

そこは夢の世界にたとえられる。

私が宝塚大劇場に行ったことがあるのは、一度きり。
高校の時も友人の一人が熱烈なファンで、大学の時も友人の一人が熱烈なファンで。
あれはたぶん、大学の友人につれていってもらったような気がする。
なんの作品だったのか、誰が出ていたのかも憶えていない。
劇団員といえばいいのかな。ステージの上の華やかさとサービス精神、なんといっても男役の皆さんのかっこよさ。
過剰なまでのロマンチシズムとアドリブの笑いのギャップに、生で何度も観たくなるファン心理を悟った。
礼儀正しく規律正しいファン達の熱量に圧倒され、独特の世界だなぁ、と思いながら、帰ってきた。

その時の印象そのままの世界が、この本の中にある。
宝塚そのものではなくて、印象としての宝塚。思い出としての宝塚。
著者が後書きで但し書きをしているけれども、リアルを追求したものではない。
逸脱するからこそ、幻想としての宝塚が強く心によみがえってくる。
友人たちの話から垣間見てきた宝塚、自分が一度だけ行った宝塚、その場所でならさもありなんと思うような、そういうしっくりくる感じがする。

中山さんの物語は、気合いを入れて読むものだと思っていた。
心の一番やわらかい所を閉まっているパンドラの箱をこじあけながら読むような、心が右往左往に引きずられて引き裂かれるような思いをするような、そんな恋愛小説を書く方だと思っているから。
美しい日本語で、美しい恋愛小説を描く、随一の方だと思っているから。
だから、読むタイミングをすごく選ぶのだけども、この物語はそんな心の準備は不要だった。

ファントムこと、扇乙矢。50年前に舞台事故で死に、宝塚を守護してきた幽霊。
現在のトップであり、引退を控えた、如月すみれ。
乙矢の相手役だった麗子の孫である、永遠ひかる。

彼女達、三代にわたって受け継がれていく、男役という生き方。生き物。
確かに女性であるには違いないが、彼女たちは男役である数年間を、女性ではないものとして自らを形作る。かといって、男性そのものではない。
男役は、男性の理想形を体現する、男役という性別であり、生物になる。
現実ではなく仮想の宝塚だからと敢えて書いておくけれども、そんな仮想の性別であり、この世界に仮住まいしているような人物像が、中山さんの世界に似合うように思った。
なにしろ、美しい。それだけで十分だ。

すみれの引退で幕を引く。
その切れ味がまた、中山さんらしいなぁと、舌を巻いた。
著者はもともと近代能楽集の一作品になるようにこの物語を構想したそうだが、ファントムだけではなく、男役そのものが舞台という一夜の夢でしか息づけない、そういう物語だったのかもしれない。

近いうちに、『娘役』のほうも手に入れなくちゃ。

2016.08.26

アンマーとぼくら

有川 浩 2016 講談社

出ることもチェックしていなかったぐらい、有川作品への興味も下がっていたけれど、これはいい本。
評判通り、綺麗な表紙なのもいい。
表紙の意味がわかるのは、読んでからのことだけど。
タイトルの意味がわかるのも、読んでからのことだけど。

号泣すること、2回。
これはね、泣くよね。
泣けない人とか、泣かない人とかもいるけど、私は泣くなぁ。
最後はどうなるか途中で予想がついたけれども、これは泣くよ。

主人公のリョウが、沖縄に到着したところから始まる奇跡の3日間。
沖縄でガイドをしてきた継母の3日間の休暇につきあう旅だ。
王道の観光名所を回りながら、過去と現在が交錯する。

過去は変えられない。本当ならば。
これを主人公のための、3日間と受け取る人もいるだろう。
過去の記憶の書き換えはできる。感じ方を変えることもできる。
主人公が自分の子ども時代の記憶を救済するための過程と読むことはできる。
でも、これは、晴子さんの魂が慰撫されるたのめの3日間だったと思うのだ。

だって、この後、主人公はやっぱり後悔せずにはいられないと思うのだ。
もっとそばにいればよかった。もっと一緒にいればよかった、と。
いくら、この後、沖縄に転居してきたといっても、事あるごとに思い出す。
そして、自分ができたかもしれないのにしなかったことを考えるのではないか。
後から、後から、気づくことは出てくる。後になってからしか、気づけないことがある。
そんな含みを、勝手に付け加えておこうと思う。

複雑な家族関係のあたりは『明日の子供たち』の取材の成果かな。
北海道の描写は、『旅猫レポート』とか。
植物の種類と写真は『植物図鑑』ね。
観光地を回る感じは『県庁おもてなし課』だろうか。
これまでの作品が透けて見えるような、薄様が幾重にも重なり合っているような。
これまでの取材が程よくブレンドされて、熟成されたような印象があった。
感情表現はこれまでになくとてもストレートで、押し付けがましいほど、文字が浮いて感じることもあったが、感情の強さを表すには他になかったような気がするし。
ここ最近の作品の中では、好きなほうに入るかもなぁ、と思った。
強い強い感情をまっすぐに投げつけるような小説だった。

あー。沖縄、行きたいなぁ。
飛行機、乗りたいや。

2014.06.19

百合のリアル

牧村朝子 2013 星海社新書

非常にいい本である。
ぜひ、図書館には入れて欲しい。
できれば、公立図書館や高校以上の学校図書館に入れて欲しい。
中学生にはちょっと早いかもしれないが、性の悩みを悩み始める頃の人たちに届くようなところに並べて欲しい。
心からそう願う。

読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
質問/対談形式にしてあるところもとっつきやすいと思う。
マンガのページもところどころ挟まっていたりもする。
帯の著者の写真が、とても美人でひゃほー。雰囲気がとてもいい。
どこか遠い世界のレズビアンではなく、もっと身近で等身大。
リアルな悩みに答えてくれるいい本なのだ。

同性愛の問題を語るとき、カテゴライズする用語が年々増加の一途をたどることに気づく。
そのカテゴライズすること自体を取り上げて、そんなラベリングを一旦取り外して、目の前の人と人との一対一で対峙するところから始めようと、著者は対人関係の根本に立ち戻ることを勧める。
そんなところは、同性愛であるかどうかは横において、誰にでも言える、役立つ、本当はとっても当たり前であるはずの考えが述べられている。

そういう用語の解説にとどまらず、比較文化的に男女以外の性の区分を紹介してみたり、歴史的に同性愛の治療とされてきたものを紹介してみたり、内容は横断的でである。
同性愛であることの苦しみへの対処法や、同性カップルのこうむりやすい不利益、同性同士で婚姻するための現行上の仕組み、女性同士のセックスの例など、盛り込まれている情報は豊富だ。

セックスのルールはシンプルよ。『している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること』これだけなの。(P.156)

さらりと大事なことを書く著者に、好感を持った。
とても賢く、ユーモアのある女性だと思う。
書かれている文章が魅力的で、正直を言えば、ファンになった。

2012.04.21

超訳 古事記

鎌田東二 2009 ミシマ社

どうして約束を違えるのか。
いざない、いざなわれ。
永久に手を繋いで歩もうと誓ったものを。
のちに裏切るぐらいなら、なぜ、いざなった。
この怒りを、嘆きを、苦しみを、憤りを、悲しみを、憎しみを、恨みを、愛しさを、恋しさを。
ねえ、なぜ、わかってくれない。

詩のように研がれた文章。詞のように声に馴染む文章だ。その秘密は、この本の作られ方にあり、あとがきを読むとわかる。
読みやすく、わかりやすく、古事記の全体像を掴むには最適であろう。
そぎ落とされたところに旨みがあるのかもしれないが、大筋から味わえるものも多い。
神話の中には、イメージが次々に喚起される、豊饒な世界が広がっている。
子ども向けの古事記以来に触れる私にはほどよい内容であり、しかも、品があってすっかり気に入った。

イザナギ、イザナミの夫婦喧嘩から、父子家庭の末子のスサノオの反抗期、父親の養育放棄もしくは子の家出のくだり、こんな家庭ってあるよなー…。
同胞葛藤といえば、アマテラスとスサノオも、母親不在の家庭で、母親の代理を求められる長女のギブアップと、あくまでも母親を希求する末子という感じで、よく見られる。
ニニギの嫉妬妄想、海幸彦と山幸彦の同胞葛藤。イワナガとコノハナサクヤも同胞加藤。
現代の家族関係や異性関係に見られるトラブルって、結構、そのまま、古事記の中に見出せるのが面白かった。
家族や異性関係で生じるトラブルの原型を見出すと同時に、冥府下りや大地の女神の死、見るなの禁止令といった、神話だからこそ語られるモチーフを再考するよい契機となった。

面白いのは、イザナギもオルフェウスも異界に死んだ妻を迎えに行くが、死んだり醜くなった妻は捨てられて話が終わる。
しかし、女神達は違う。大国主の母親も、イシスも、男神が殺されたときには、母親もしくは恋人たる女神は、その遺体をかきあつめて生き返らせようとする。なにがなんでも生き返らせようとする。
イザナギがイザナミにがっかりするところは、すでに女性は若く美しくないといけないという価値観の反映のように読めてしまう。
男性から口説いておきながら、男性のほうから去っていくことを許せないと怒りを感じるのは、なにも、イザナミだけではない。
その後も清姫や六条御息所に受け継がれ、お七やお岩を経て、今も日々増産中。
そういうイザナミ的な要素は、多かれ少なかれ、女性は持っているものだと思っている。
少なくとも、私は持っている。

女性である私の目から見れば、ほんの少し違うのだ。
イザナミはイザナギを傷つけたかったわけではない。殺したかったわけではない。決定的に別れたかったわけではない。
裏切られた苦しみをわかってほしかっただけなのだ。約束を破ってごめん、と、一言言ってほしかっただけなのだ。
もっと言えば、醜くなってしまった自分に恐れをなすのではなく、そんな醜い面も含めてどーんとうけいれてくれたらどんなによかっただろう。
出会ったときの二人のように美しくなくなってしまったとしても、手を携えて、愛を確かめあっていきたかっただけではないのか。

愛を保ち続けていたくて、縁を繋ぎ続けたくて、呪いの言葉をつむぐ。
現代であれば、別れ話の後のヤケ酒みたいなものだ。リストカットやODしてしまう人の心情にも通じると思う。
イザナギの後悔を、改悛を、導き出したくて、罪悪感に、同情心に訴えかける。
それが最早愛ではなかったとしても、どこかで繋がっていたいと切なく願う人を、責めないでほしい。
お願い。私から、立ち去らないで。
そんな祈りがあるから、別れの言葉は言わないでいてほしいのだ。別れざるを得ないとしても。
そして、仲直りの仕方を書かないから、ニニギとコノハナサクヤ、山幸彦と豊玉姫も繰り返す。

見るなと言ったのに。
あれほど、お願いしたのに。
見るなとお願いしたのが悪いのか。
約束を守ってくれると信じたことが悪いのか。
私はあなたを信じていたのに。
あなたはどうして信じてくれない。待ってくれない。任せてくれない。
その裏切りを謝ってくれないまま、自分のほうが傷ついたような顔をして。
誤りを過ちにして、一人だけ禊して終わらせてしまうなんて。
許さない。

呪いは、私を忘れるなという約束の言葉。
あなたの過去に私という存在があったことをあなたが忘れたとしても、あなたの意識が根ざす無意識のひそみに私はそっと隠れつつ、あなたを支えていくだろう。
あなたは知らず知らずに私の願いをかなえていくのです。
あなたがなしていく営みのはじまりが私にあることを、あなたが忘れてしまっても。
私はひそかに悦ぶでしょう。
かすかにでも、私があなたになにかよきものを残すことができたのだとしたら。
出逢ってよかった。

2012.04.19

きみはポラリス

三浦しをん 2011 新潮文庫

最近、うちの猫ががんだということがわかった。
部位は違うが二度目のがんだ。
年が年だから、今度は麻酔ができない。手術ができない。
飼い始めて19年。来年は今頃はいるのだろうか、と思いながら過ごしてきた。
いつかその日が来るとわかっていても、近づいてきていることを確かめることは、切ない。
だから、「春太の毎日」を読んでしんみりした。

好きな人が望むなら。
ずっと一緒にいるよ。(「永遠に完成しない二通の手紙」)
裏切らず、本気を貫く。(「裏切らないこと」)
死ぬまで、全部忘れて楽しく暮らす。(「私たちがしたこと」)
私は行く。求めても与えられず、探しても見いだせず、門をたたいても開かれることのない道を。(「夜にあふれるもの」)
私は小さなその土地に踏みとどまって、あらゆる移ろいを見つめ続ける覚悟をつけた。(「骨片」)
すべてを飲みこんで生きていく。(「ペーパークラフト」)
もしもいつか、私たちの心が遠く隔てられてしまう日が来ても、この笑顔はいつも私のどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。(「森を歩く」)
まったくもって、生活からは逃れようがない。(「優雅な生活」)
ああ、いつまでもこうしていたい。ずっと仲良く暮らしていたい。(「春太の毎日」)
何度聞かれても、私は信じると答えるだろう。(「冬の一等星」)
好きなんだ。(「永遠につづく手紙の最初の一文」)

それぞれの短編から一節ずつ引用してみた。もっと美しく胸打つ文章もあるが、ここはあえて流れ重視で選んでみた。
このように、いつも心の中で輝くポラリスのように、その場所は変わらず、私の目指すべき位置を教えてくれる存在として輝き続けるような恋や愛ばかりが集められている。
本数が多い上に短編から中編ぐらいの長さばかりで、読みやすいけれども全体はしっかりとボリュームがあった。
また、三浦さんのその後の作品の登場人物のプロトタイプになっているのかな?というキャラクターも散見して面白かった。
もっと面白いと思ったのは、巻末にお題もしくは自分お題が記されていたことである。短編のタイトルとは別ものの、依頼時、執筆時のお題を見ると、なるほどと興味深かった。
ちなみに、解説は中村うさぎ氏。この取り合わせが素敵であり、中村さんの文章によって、私の恋も愛に認定してもらえたような喜びをかみ締めた。

好きな人が望むなら。望まなくても。それは自分が望むことだから。
ためらいがなかったとは言わない。ためらっている間に、彼の本気はすり抜けてしまった。
本当に本気なら、本物なら、ちょって待てと言いたくなるが。
男ってばか。
女はそんなことを望んでいないよってことを、先回りしてかなえようとして空回りするからばかって言いたくなるんだ。
女の恋は上書き方式って誰が決めた。
恋はそんなものではない。
たった一つ。決めてしまったら、それを抱いて生きるしかない。
あなたが望むなら。忘れたふりを私はしよう。してあげよう。
あなたが見ているところでは。見ていないところでも。
そう思いはしたが、忘れられるものではないんだよ。そう簡単にはね。

忘れたふりをしてあげてもいい。そうすれば、あなたは「この女もか」と失望を再確認して安心することができただろう。
あなたは過去の憂鬱と未来の希望から目をそむけることしかしないが、しかし、私はここに踏みとどまっていよう。
踏みとどまることで、あなたにそんな安穏とした臆病な平和に逃げ込むことを許さず、私は自分の心を裏切らずにいよう。
呼ばれたら応じる。助けを求められたら駆けつける。そのためにここにいる。私はそういうものだ。そういうものがいるという安心感が、私の供するものだ。
忘れない。裏切らない。そこに常にある。そんなものがあることを、あなたがいつか信じられたらいいのに。愛されているということを。
祈りは、まだまだ続くのだ。

だって、あなたが私を守る星なのだもの。
いつも心の中で輝く、導く、励ますもの。
忘れられるのはあきらめてくれ。

2012.03.12

そうか、もう君はいないのか

城山三郎 2010 新潮文庫

こんな夫婦になりたかったーーーーっ。
穏やかで暖かい筆致で語られる夫婦の姿に、胸がほっこりとする。
出会いから結婚、子どもたちが巣立ってからの生活、旅行の数々。
妻への愛情と敬意がひしひしと感じられ、思わず微笑したくなる。

タイトルが、気になっていた本だ。なんとも言えない響きに惹かれていた。
改めて、ふと、大切な人の不在を実感するときの、その溜め息のような悲しみ。
この人の小説を読んだことはなかったし、作家が最後に書いた亡き妻との生活、没後に発見された原稿ということで、読んだら泣くと思って手が出なかった。
だから、こんなにも温かさに満ちた思い出としてパートナーを語れることに、感激した。

とはいえ、半ばに挟まれた詩の2編を読んだとき、号泣スイッチon。
続いての、奥さんのガンの発見と闘病のくだりになると、もう。
でも、こんな風に。
こんな風に手をつないで、年を重ねていきたかった。
一緒に老いていきたかった。
別れる、その瞬間まで。
羨ましいこと限りない。

城山氏の遺稿に続き、妻を亡くしてからの、城山氏のその後が、次女によってつづられている。
夫婦の愛情。親子の愛情。家族の密な時間が率直に語られていた。
これも、たまらず、泣いた。思い切り泣いた。
職場で読むのは大きな間違いだった。花粉症の季節で幸いした。
そして、解説は児玉清氏。これはこれで、また、切ない。
愛情に満ちた、素晴らしい一冊だった。

パートナーとは、一緒に生まれることがないように、一緒に死ぬこともない。
短いか長いか、一緒に生きることができるだけ。
パートナーの不在に、私もまだ、うまく慣れることができない。
その貴重な喜びの時間を書き留めることを試したことがあったが、書くと書ききれない膨大な情報が漏れ落ちる上に、自分が泣き崩れてどうにもならなくなるので挫折中。
こんな風に、暖かな記憶を記録できれば、それは私の記憶がいつかおぼろになってからも宝物のように輝き続けるだろう。
またそのうち、ゆっくりと取り組もうと思う。

別れの後は、私にとって余生である。
奇跡を思い描くことはなく、希望を抱くこともない。
恨みや憎しみはないし、私は自棄を起こせるたちでもない。
幸せも喜びも半減するとも、余生は余生らしく、淡々と過ごしたい。
人が孤独を背負う手伝いを生業にしながら。

2009.08.17

感情教育

感情教育 (講談社文庫)  中山可穂 2002 講談社文庫

伊勢佐木町から始まる。
この冒頭の1ページを開いて、横浜に行く時の共に選んだ。
最後の夏を目指す、その道すがら。飛行機の中で少しでも休養を取るつもりにしていたことも忘れて、引き込まれるように読みふけった。

中山さんの小説は、繰り返し、繰り返し、姿を変えながら一つの恋愛が立ち現れる。
遁走曲のように、変奏曲のように、通底している作者の体験があるのだと思っている。
デビュー作を読んだ後は遠ざかり、最近の小説で読み直すようになったので、新しい作品ほど作者の体験が昇華されていることを感じるし、以前の作品ほど生々しさに満ちている感じがする。

この本は、作者が恋人とその子どものために書いた本だと、どれかの後書きで読んだ。『白い薔薇の淵まで』だったと思う。
だからこそ、後回しにしてきた。生々しいと、自分が凹んでしまいそうな気がして。
中山さんの文章は大好きなのだが、読むことにとてもエネルギーを要する。我が身と向き合う作業が、必ず伴うからだ。

産まれてすぐに母親に捨てられた那智の半生を描く、第一章「サマータイム」。
これだけでもお腹がいっぱいになりそうなぐらい、丹念に彼女の不幸を描く。この人生は、不幸あるいは不遇と言っていいだろう。
自分自身というものからは一生逃れられない、その無力感と閉塞感。ぐいぐいと自分の中の古い傷跡を押し開かされるような痛みを感じた。
男性から閉じ込められ、外界から切り離され、ふみにじられることしか、自分には許されないのか。その嘆きが、痛々しくてたまらなくなる。

第二章「夜と群がる星の波動」は理緒という、父親から捨てられた女性の半生を描く。
いきなり別の場所、別の人物の物語が始まり、那智は不在で、この本は短編集であったのかと目を疑った。
芝居が好きで、文筆家になって、同性愛というセクシュアリティを隠さずに生きている女性。
しばしば、作者が自分を投影させて書いているだろうと思われるタイプだ。
恋愛にのめりこんでは体調を崩す、このタイプの方に、私も自分を投影しやすかったりする。
しかも、大学の景色が自分の知っていたものに似ていて、いつも以上に親近感を持つことができた。私のときにはここまで華やかではなかったが。
章題は、サルバトーレ・クワジーモドという詩人の詩句の一節だそうだ。イメージの広がる、とても美しい言葉であるが、詩集はとても素晴らしいお値段なので手を出すのはためらわれる。

そして、第三章「ブルーライト・ヨコハマ」で、運命の二人がやっと出会う。
出会ってからはあっという間だった。前世から絆を結ばれた二人のように、出会ったときからしっくりと来るような二人の恋は駆け足だ。
しかし、理緒にとって、人妻であり、母親であり、もともと性的な関係で苦労をしてきた那智との恋は、波乱含みだった。
相手が既婚者であるだけで、望めないことが増えてしまう。そのあたりが一番切なくて、二人が死の海に臨んだときには、一緒になって魅入られてしまいそうになった気がする。

一晩でいい。共に抱き合いながら眠れたら。共に夜明けを迎えることができたら。たったそれだけのことが、許されない。
愛する人に、自分との恋愛の代償に、現在の家庭や生活を捨てろと言えるか。自分の幸福の代償に、現在の家庭や生活を捨てることはできるのか。
二者択一ではないはずのことが、二者択一であるかのように選択を迫られる。自分自身も、そうとしか事態を把握できないほど、疲れ果てて視野狭窄に陥ってしまうことがある。

作者は後書きに本書がその時の最高傑作と書いている。恋愛は終わっても、小説は残る。
美しい恋愛の記念碑として輝く本書は、恋愛小説としてももちろんであるが、被虐待からのサバイバーを描いた小説としても秀逸だと思った。

 ***

あなたと今後どうなるにせよ、あなたと出会えてよかった。人生はとても短い。愛せる人にめぐり会うのは奇跡のようなものだ。心を開いて、前を向いて、自分に正直に、生きていってください。(p.235)

2009.05.03

サグラダ・ファミリア(聖家族)

サグラダ・ファミリア「聖家族」 (集英社文庫)  中山可穂 2007 集英社文庫

なんでこんなに泣けるんだろう。
中盤を過ぎたところから、ページを繰るたびに涙が出ては文字が読めなくなった。
本を読んでここまで泣いたことは、ついぞ思い出せない。
それぐらい、泣けて、泣けて、最後まで泣いてしまった。

ピアニストの響子とルポライターの透子。
響子の前から去った透子が再び現れるとき、父親不在の子どもを産んでいた。
そして、子どもを置いて逝ってしまう。永遠に。

去年から、私の周りに死が多い。
死はいつもそこにあり、私の周りに限らず、誰の周りにもあるものだが、意識させられることが増えた。
自分や家族の死に面している人に関わるうちに、いつも私自身の指先が死に触れているような感覚が消えなくなった。
そんなときに読んだから、余計に小説の中の死に反応してしまった。
つらかったわけではない。やっと泣くことができた。そう思った。

照ちゃんみたいな人になれたらいいのになぁ。
憧れるけど、私には難しい。作者は、主人公にして、「女が男に絶対にかなわないことがひとつだけある…(中略)…それは、オカマの人のやさしさである」(p.204)と言わせる。だから、女である私には難しくていいことにしておく。
どうしても、自分を重ね合わせるなら、響子の不器用な生き方のほうになる。仕事では評価されるが、女性的、母性的な役割に同一化するのはぎこちない。

偽装結婚に養子縁組。
そこに血の繋がりはない。性の関わりもない。でも、愛なら。
目前に不在の人への愛だけで結ばれた家族は、だから、奇跡のような家族だ。
彼らは愛という神に捧げられた犠牲なのだ。だから、聖なる家族なのだ。
彼ら、聖別された家族が、いつまでもその神を忘れずにいられたらいい。
いや、忘れることなどない。きっと。
生きることは、祈りに似ている。

愛が生活に飲み込まれることへの恐れや、魂が壊れてしまいそうなぐらいの大きな喪失体験。
音楽という芸術の高揚や、さまざまな人との出会いの妙。愛して、愛されて、別れて、それでも生きている、今ここにいる自分というもの。
他の作品とも通底する作者の主題はピアノの音に彩られ、とても美しい祈りと慰めに満ちた小説になっている。

より以前の記事一覧

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック