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香桑の近況

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**国境を越えて**

2022.07.19

あなたは、誰かの大切な人

原田マハ 2017 講談社文庫

ホテルの朝ごはんに、トルティーヤ入りのメキシカンスープが並んでいた。
アボカドやライム、コリアンダーやハラペーニョなどが、自分でトッピングできるように並べてあった。
私はハラペーニョは少な目で、コリアンダーは多め。
チキンブロスのじんわりと沁みるような優しい味わい。
ああ、これだ。きっと、これだ。
「月夜のアボカド」でエスターが作ってくれたカルド・トラルペーニョはこんな風に優しくて沁みる味だったに違いない。
本で読んだばかりのお料理が、期せずして目の前にある。
その偶然にびっくりした。

後で調べてみたら、カルド・トラルペーニョにはひよこ豆は入るがトルティーヤは入らない。
トルティーヤ入りのスープは、ソパアステカというのがあるみたいだけど、クミンの風味はしなかった。
いいのだ。あのホテルの朝食のスープは、カルド・トラルペーニョでいい。
私にとっては、「心も身体もほっとするような、やさしい力に満ちたスープ」(p.62)であったことに変わりがないから。

その前夜、同じレストランで夕食中、私は生まれて初めて意識を失った。抗がん剤治療中で、体調が思わしくなかったせいだと思う。
自分ではよくわからないままに気を失ってしまったのであるが、同伴者はずいぶんと肝が冷えたという。
車椅子を借りてホテルの部屋に運んでもらい、水を飲んでは休み、水を飲んでは休み、脂汗がひいて体調が落ち着くのを待った。
レモンよりも温かみのある鮮やかな黄色に塗られた天井の、海辺のホテルの一室は広々としていて、本来ならもっと解放感を楽しむはずだったのに。
動くと叱られるので、落ち着いてからも横になって静かに、原田マハさんの『あなたは、誰かの大切な人』という薄めの短編集を読んで過ごした。

6つの短編からなるこの本は、どれもそんなに若くはない、それぞれに仕事をしてきた独身女性たちが主人公だ。
舞台は、斎場だったり、ロスアンジェルスだったり、イスタンブールだったり、メキシコシティだったり。
仕事をしているうちに逃してしまうものがいくつかある。婚期を思い浮かべる人もいるかもしれないが、この本に何度も形を変えて描かれるような、父や母と共に過ごす時間の終わりの描写に私は惹かれた。
自分もすっかり中年になり、両親もすっかり老人となり、それはいつか来る日だ。
私の娘時代の終焉は、感じるぐらい近づいてきている。それでもきっと、愛された思い出は消えないであろう。
だから、どんな風に見送るのか、その不在を受け入れるのか、ヒントをもらうような気持ちになった。

6つめの短編「皿の上の孤独」は、2つめの「月夜のアボカド」と薄く繋がっている物語だ。
「月夜のアボカド」はロスアンジェルスが舞台だったが、「皿の上の孤独」ではメキシコシティに至る。
部位は違うが、主人公と同じく、私もがん患者。私は恋人に支えられながら治療を受けているから、主人公の選ぶ道とは違うけれど、「命があるうちに」という感覚は、私の中にもある。
だから、主人公がわざわざ行ってみたバラガン邸がどんな建物か知りたくて、検索してみた。
あ、と声が出そうになった。
小説の中で「明るいイエローに満たされた」と表現される室内を見て、天井を改めて見上げた。
明るいイエロー。レモンより濃くて、ひまわりよりは明るい。山吹よりも黄色く、太陽の日差しのよりも優しい。
そのホテルをリノベーションした人は、きっとバラガン邸を意識したに違いない。
そう直感した。まるで、秘密を知ってしまったような、謎解きができてしまったような、そんなひそかな喜びを感じた。

再発を恐れながらも、どうにかこうにか、生き延びている。
今日を生きた。だから、明日も生きよう。
日々、そんなふうに思いながら。(p.202)

物語は、不意に現実と繋がることがある。
あの日、あの場所で読めたことが奇跡のような一冊だった。

2019.02.04

シェーラ姫の冒険(上)

村山早紀・著 佐竹美保・絵 刊行日2019年3月15日 童心社

母親の大きな指輪を借りてみたり、ミントティーや羊の焼き肉ってどんな味だろうと想像したり、かつて、たくさんの子どもたちが魅了された物語。
初読みの大人も、最初の数ページでわくわくして、冒険の旅の仲間となりました。
大人が読んで違和感のない、さりとて児童文学の気配のある、絶妙の難易度調整がされた整った日本語になっています。

悪い魔法使いに石にされてしまった王国を救うため、7つの宝石を探す旅に出た3人の子どもたち。
素直で元気でお人好しで優しくて怪力なかわいいお姫様。シェーラは心も体も強くあろうとしている特別なお姫様ですが、誰もが思わず笑み返したくなるような魅力を持っています。
シェーラの幼馴染のファリードは魔法使い。
途中から旅に加わるハイルは元盗賊で、短剣使い。

子どもたちの敵である悪い魔法使いサウード。
元盗賊の錬金術師ハッサン、魔法の杖と地図の話を教えてくれる賢者ハシーブ、正義の海賊シンドバット。
砂漠のオアシス、海の中の幽霊船に守られた島、雪深い山奥に建つ王国、空を飛ぶ賢者たちの住む都市。
それぞれの章(きっと、これが一冊ずつだったのでしょう)ごとに、新しい舞台が広がり、新しい登場人物と出会い、シェーラは成長していくのです。
悲しいことやつらいこともあるけれど、シェーラ姫たちと一緒なら、きっとなんとかできると信じられる、素敵な物語です。

読み手は旅の4人目の仲間になったり、シェーラ姫に乗り移ってみたり、ファリードやハイルに憧れてみたりしたことでしょう。
たくさんの子ども達が魅力されたのもよくわかります。
こんな物語に幼いうちに出会えると、きっと心のなかでキラキラとお人好しで優しくて素直な笑顔が輝き続けるに違いないと思いました。
シェーラ姫のお友達だった人は再会を喜んでください。

初めて出会う人は、私と一緒に冒険を楽しんでほしい。
美しくて楽しくて、童心に戻ってわくわくして読み進めました。
続きが気になります。早く読みたくなります。
でも、一言ひとこと、丁寧に読みたくなる美しい物語。
本として手もとにくる日を楽しみにしています。

これはおまけの感想ですが、なんとなく、「ですます」調で感想を紡ぎたくなりました。
#NetGalleyJP さんで読ませていただきました。

2018.04.25

となりのイスラム

内藤公典 2016 ミシマ社

世界の三大宗教のひとつ、イスラム教。
普通のイスラム教徒、敬虔なイスラム教徒である人たちとは、どんな人たちであるのか。
どんな風に考えていたり、どんな風に生活しているのか。
彼らの気になることはどんなことで、どんな風に接することが心遣いになるのか。
おどろおどろしいイスラム国の話ではなく、小難しいイスラム教の解説でもない。
わかりやすく、易しい言葉で書かれているので、読みやすい。
1500年の間、世界で16億人もの人々が信仰するイスラム教の豊かさを教えてくれる本だ。

著者がシリアやトルコへの留学を経て体験してきたイスラム世界を、イスラム教徒ではない目線で紹介している。
80年代のダマスカスなど、緑の溢れていたであろうオアシスの景色に泣きそうになった。
今は瓦礫になってしまったことを思うと、胸がつぶれそうに痛む。
遠来の人をもてなしていた人々が、多くは死に、その場を逃げ出した。
普通の人々が普通に暮らすことができないし、気楽な外国人が旅行することは難しい。
いつか訪ねたいと思っていた憧れの場所だったのに。

ヨーロッパ諸国で、どのようにして、普通のイスラム教徒が居場所を失っていったのか。
それを各国の事情ごとに解説してあり、非常に興味深かった。
否定されたことの反動形成として、アイデンティティの根拠として、より原理的なイスラム教に回帰していく。
その過程は、日本国内に住むコリアン系の人たちの世代ごとの違いを想起した。

彼らの思考や世界観の特徴には、見習うべき、参考になるところがいっぱいある。親近感もあった。
もちろん、自分のものとも、西洋のものとも違うところも随分ある。
それでも、知らないまま偏見と差別で憎悪を助長させるよりも、知ることでお互いを尊重できたら素敵だ。

私はイスラムご飯が好きで、以前、スーダンの人がしているケバブ屋をひいきにしていた。
とても知的に高い方たちで、感じがよくて、心から素敵な人たちだった。
彼らとの出会いが、私のなかのイスラムの人たちへのイメージを形作っている。
彼らのお店はお酒を置いていなかったので、以降、私は、お酒の置いていないお店は「敬虔なイスラムの人のお店」と表現するようになった。
その理由も、本書のハラールについての記述を読んでいただけば、了解してもらえると思う。

本屋さんで見かけて、気になり続けていた本である。この本を置いていた本屋さんのセンスがいい。
本屋は、こういう自分の興味関心に+αの部分の本と出合うことがあるから好きだ。
実を言うと、タイトルをうろ覚えで『となりのイスラムさん』だと勘違いしていた。
でも、イスラムさんとさん付けにしたくなるぐらい、フレンドリーな本だ。
イスラムの人たちに対してフレンドリーな文章であり、読み手にとってイスラムの人たちがフレンドリーになる。
高校生ぐらいの方たちでも十分に読みこなせる日本語であるから、手に取ってもらいたい。

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2016.11.09

メコン詩集

鹿島道人 2015 不知火書房

好きな地域を題材にしてあるからと手にとってみた。
さまざまな形の詩が編まれている。
漢文もあれば、散文もあるような、多様な詩の集まり。
詩の世界も多様である。

アジアも多様である。
ここに描かれているのは、どこか陰のあるアジアだ。
アジアの影は、戦争の記憶であったり、現在の貧困であったり。
歴史の育てた智恵もあれば、生き抜く力もきっと持っている。

同じところを旅をしても、人によって思い浮かぶことは違うんだなぁ。
でもきっと、自分の心に去来したものを誰かに伝えたくなる。
それが旅というものなかもしれないな、と思って閉じた。

2015.02.02

犯韓論

黄 文雄 2014 幻冬舎ルネッサンス新書

一冊の新書の中に、韓国、日本、台湾を頂点とする三角関係が描かれている。
政治的に、ではない。文化的に、それぞれは関係しあい、影響しあい、無関係ではありえないが、同一の同質のものとはくくり得ないそれぞれの文化や文明を持っている。

著者は台湾出身の方である。中国ではない。台湾ならではの歴史、背景を持っている方である。
すなわち、日韓関係の当事者というしがらみの外からの目線で語ることができる。
韓国の人が記した近代史を何冊かは読んできたつもりであったが、語調も目線も違ってくる。
そこには、この著者の持つバイアス、背景も投影されているとは思う。
一台湾人から見た日本、韓国、日韓関係というところが、非常に興味深かった。

ありていに言って、正しい歴史認識ってなんだ!?と思う。
「正しい」は「歴史」にかかるのか、「認識」にかかるのか。
しかも、いずれにせよ、それは誰にとって「正しい」のだろうか。
本書は、韓国は自国の歴史の蓄積がされてこなかったという歴史があること、そこからファンタジーが容易に歴史的事実と混同されやすいことを、解説してくれている。
歴史の蓄積がされにくかった要因として、属国であったために自国史の編纂がなされておらず、中世の貴族達の教養は自国史ではなく中国史に立脚していたこと、また、王朝交代ごとに書類や資料を焼失させており、交代王朝の正当化のために粉飾してきた。
もちろん、政権の正当化のために都合よく歴史を書き換えることは日本でも行われてきたことであるが、そういうものだと信じ込むかどうかの読み手のリテラシーの程度も含めて、一概には言えないものの、やっぱり差はあるのかもしれない。
と、ここまで書いて、韓国王宮ファンタジーを歴史ドキュメントと勘違いしていそうな自分の家族を思い浮かべて、自分の言葉の着地点を見失った。

ともかくとしてだ。
対韓国、対中国への理解と対処を進めるための一助となるように書かれた一冊であるが、昨今のグローバル化したテロリズムへの理解と対処にも通底して、日本は、日本人はどうしたらいいだろう、と考えることに役立つと思われる。
「思いやりは日本人古来の民族的特質である。それが悪いわけではないが、他人本位の思いやりは避けなくてはならない」(p.228)との苦言は、意味深いなぁ。
日本が理想でもなければ完璧でもないことをわかった上で言うけれども、このボケていられるぐらいの平和が、これからも続くように祈る。
平和であることの恩恵が失われつつあるような痛みと悲しみを感じながら、平和を祈る。

2015.01.09

悟浄出立

万城目 学 2014 新潮社

実を言えば、中身を知らずに読み始めた。
近畿地方のあれこれから飛び出して、作者はついに中国大陸を舞台にするのか。
それも、西遊記に材を取るのかとわくわくしながら、ページをくった。

あれ?

次は、趙雲。三国志やし。西遊記ちゃうし。
二章目に入ってから、これは、中国の古典に題をとった短編集だと理解する。
これまでも、『鴨川ホルモー』を読んだときなど、この作者は中国の戦国ものと、日本の戦国ものが好きだと感じたものである。
そういった好きで親しんできたであろう古典のいくつかを、主人公ではない人物を主人公に据えて、傍らから語らせるという手法でリライトしたものである。
華やかさは少ない。だが、英雄ではないからこそ、身近にせまり、自分と重なりあうようななにかが描き出されているのではないか。

孫悟空ではなく、沙悟浄。
ただただついていくだけの消極的な人生から、一歩、先頭へと踏み出していく景色が鮮やかだ。
自分が行きたい方向へ行く。その転換の瞬間を切り取った手腕が見事だと思った。

趙雲。三国志の名だたる英雄の中で決して目立つほうではない。
戦いの勇猛さではなく、故郷を失ったことに気づく悲しみが胸を打つ。

項羽ではなく、虞美人。
覇王がかつて愛していた人の身代わりでしかなかった自分。
その自分を、自分こそが本物として覇王に迫る痛々しさ。
しかし、その女性に「いちいち意地を張るのも馬鹿馬鹿しく思わないでもない」と冷静な視線を与える作者が素敵だ。
私はこれはかなりの名品だと思う。

荊軻ではなく、同じ音の名前を持つ一役人。
秦の始皇帝暗殺と言えば映画を思い出すけれども、その宮城に勤めて一役人から見た事件の日。
歴史には残らないドラマが人の数だけあるということ。

司馬遷ではなく、その娘。
この章がまた圧巻だった。
書き手としての、書くという営みへの思いが叩き込まれている。
たとえ今、読み手がいなくとも、文字は300年後のその先の人々に物語を届けるかもしれない。
物語を書く使命感のようなものを感じた。

2014.10.28

阿修羅のジュエリー

鶴岡真弓 2011 イースト・プレス

この「よりみちパン!セ」のシリーズは、筆者のラインナップも興味深いし、大人であっても興味を惹かれるようなテーマ、タイトルが並ぶ。
「学校でも家でも教えてもらえなかったリアルな知恵満載」と帯にあり、子どものための本ではあるが、生きづらさを生きる、無縁なものはひとつもない、青春の大いなるなやみや未知なるみじかな世界など、分類も気が利いている。
この本だって、美学・美術史・文化人類学にあたるような領域だろう。
難しくならいくらだって述べられていそうなことを、改めて、子ども目線で興味を持ってもらえるように、かみくだいた表現、すべての漢字にルビを振った状態で語られている。

興福寺の阿修羅像。
東京の国立博物館と、福岡の九州国立博物館で開かれた阿修羅展は、空前絶後の入場者数を記録した。
みうらじゅん作詞の高見沢俊彦「愛の偶像」がメインテーマとして流れ、みうらじゅんが会長となって阿修羅ファンクラブまでできた。
その二年後に出版された本書は、阿修羅王立像の身に着けている服飾品のデザインに注目しているところが目新しい。

複製された阿修羅の色鮮やかな姿に見て取れる胸飾や臂釧、宝相華文様の裙は、なにを意味し、どこからもたされたのか。
その答えとなるのが、花と星。
地上の花と天上の星が、それぞれが希望の光として照らしあい、古今東西の人々を照らしてきた。
その光をとどめるものとして宝石が用いられており、衣装にも数々の花柄が描かれた。
エジプト、ペルシャ、ローマ帝国といった西側の文化と、インド、中国、そして日本に至る東側の文化の交流が背景にある。
阿修羅から眺める世界は、共通のたった一つの祈りに満ち溢れてくるのを感じた。

仏教美術の観点もであるが、個人的には中世ヨーロッパ絵画についての考察が面白かった。
人物像など、人物の顔かたちに目が行きがちになってしまうのだが、宝飾品や衣装のデザインに目を留めるのも、とても興味深く楽しい。
どんな素材で作られているのだろうと思うこともしばしばあるし(石が好きなので、石の種類は何か、など)、どういう形で止まっているのか?動いても落ちないのか?と気になるものもあったり。
著者じゃないけど、レプリカでいいから身に着けてみたいと思うものだ。
やっぱり、キラキラするものって、好きだなぁ。自分もね。

もう少し大人向けのバージョンで読んでみるのもいいかな。
平易な言葉遣いは門戸を広く読者を受け入れるものであると思うが、逆に少しだけものたりない気持ちにもなりました。
それぐらい、面白かったということで。

2014.06.19

韓国人による恥韓論

シンシアリー 2014 扶桑社新書

この本の著者は、韓国生まれ、韓国育ちの韓国の人だそうだ。
私から見れば、きわめて冷静で中立的に文章を紡いでいると思う。
ということは、韓国の中では、著者であることが分れば、どれほどひどい目にあうのか、を心配しなければいけない。
これって変だ。おかしくないか。
おかしいと言っても通用しないだろうけど、韓国における反日は宗教じみて合理性が通じないことを内側から批判する書になっている。
今後益々純化(=日本から見ると状況の悪化、理性の退化)していくであろうことを予測している書でもある。

読んでみて、切ない気持ちになっている。
自国を恥じなければいけない著者を思って切なくなる。
2002年の共同開催のワールドカップやその後の韓流ブームが起きた時を懐かしんで切なくなっている。
私の気のせいではなく、やはり自体は剣呑な方向へと悪化しているのかと思い、切ない。

セウォル号の事件があってからしばらくの間、ネットで掲示板を追ってみた。
韓国や中国の方が書いたものを和訳してあるサイトはいくつかある。
翻訳した人がどのような意図を持って、基準を持って、紹介してあるのか、そこには保留が必要とわかっていても、なんだか物悲しくなった。
私は韓国に何度か足を運んだことがある。その回数は二桁になる。
ある時から、行く気がうせた。嫌われるとわかっている国に、わざわざ足を運ぶ気にならなくなった。
日本が改めて嫌われていると感じるのは、報道のせいなのか。施策のせいなのか。
しかし、外交上、両者は安定して平和でなければまずいはずではないのか。
それなのに、しかも、というか、韓国が中国に近寄ろうとしている感じもする。

なんだかなぁ。
新しいことを持ち出しては、謝れ、謝れ、金を出せってなんだろう。
自分たちが盗んだものを返さないとか。なんでもかんでも、韓国起源説にするとか。そんな風に嘘をついて認められたことがなんで嬉しいのだろうか。中国に朝貢外交していたことの屈辱をドラマで描きながらも、やっぱりその道を選ぼうとするのはなんでなのだろう。
そんな、自分の感覚からはどうしてもわからないというか、納得できないことが積もり積もって、私は段々、韓国という国が好きではなくなってきている。
すべての韓国の人が反日ではないと信じていたいし、これまでのよい思い出、よい印象があるだけに、とても残念だから、そういうネットの掲示板も見たくないと思うようになった。
見たくなくても、目を疑い、耳を疑い、国籍を超えて、人としていかがなものかと問いたくなるような事例が、次々に目前に現れる。嫌な言葉が、溢れかえっている。

どれもが、私の気のせいや、メディアの偏向ではなく、現に韓国で反日が強烈になっていることの反映だった。
10年ほど前に、韓国の近現代史に興味を持って数冊を読んでみた。たしか、『韓洪九の韓国現代史』だったと思う。
韓国では「親日」という表現は現在の日本に親しみを持つ立場ではなく、日帝の支配に賛同する意味を持つ歴史的な用語であることが紹介されていた。したがって、反日の反対語がない、と。
言い換えれば、『恥韓論』にて指摘されているように、反日しかない、ことになる。
韓国が反日にすがらざるをえないのは、韓国が自分自身の失敗や問題から目をそらすためである。

著者はこのように説明する。

本当は自分自身に問題があるのに、それを認めることができないから、日本が悪いと決めてしまうのです。(中略)
私はこう書きました。「僕は善だから、何をしてもいい」からもう一歩狂ったのが「あいつが悪だから僕は善だ。だから僕はあいつに何をやってもいい」であると。敵意が「あいつ」に集中的に向かうと。(p.178)

このように他責的になることで、自責から生じる抑うつを回避しようとする心理は、個人のなかでも、日本人のなかでも、よく見られることだ。
自分は被害者である。加害者は悪だ。それなら、被害者は善だ。被害者である自分は善だ。善は悪になんでもしていい、と、被害者が迫害者に転じることを、よく見かける。
それは、DVやストーカーの心理によく似ている。彼らの被害感と他責感には、客観性や合理性の入り込む隙間はない。とことん独善的な思い込みである。
それを国家の単位でぶつけてこられても。

巻末のほうで、著者は、日本は韓国に距離を置く外交を勧めている。隣国だからと過度に親切にしようとするのではなく、例外的な措置をとるのではなく、基本的な外交だけをするように勧めている。
それを聞くと、セウォル号の沈没の際、日本から救助の支援を打診して断られた、それでよかったのかな、と思う。
そして、個人のレベルでの持論をもっと発信すべきであること、日本は日本で韓国批判も含めての世論を形成することを提案している。
韓国にこれからも住み続けていきたいであろう韓国の人が、韓国が中国と仲良くするようなニュースが流れたら危機感を持って警戒してほしいと言わなければいけないなんて。
そんな人もいるから大丈夫よ、なんて、例外に思わないでほしいと言わなければいけないなんて。

私は、日本に住む、日本生まれの日本人として、この国だって、古きよき日本人らしさを否定する教育が進み、民度なるものが下がりつつある現状と、そのことと外国から向けられている敵対心に退行するために、日本のよさを再評価しようとしている傾向の両方を感じている。
私は憲法第9条を誇らしくいただきながら、日本と日本人が好きだよって言ってくれる人たちがいる日本をちょっと嬉しく思いつつ、受け継いできたものをなるべく大事に守っていけたらなぁと願っている。
馬鹿正直さとか、真面目さとか、平和にぼけていられるお人よしさとか、当り前に与えられてきた環境の居心地のよさ、守って行きたくない?
理性を手放している者同士の対立にならないよう、事実やデータは大事である。親しき仲にも礼儀を払いつつ、殴り合いにならない距離を保つことは必要である。
慰安婦問題であるとか、大量虐殺批判であるとか、言いがかりに感じる自分の感性は、もう否定しないでおこうと思った。
ぶつくさぶつくさ言いながら、これ以上、悪くならないように祈り続けていたい。

2014.06.17

日本が戦ってくれて感謝しています:アジアが賞賛する日本とあの戦争

井上和彦 2013 産経新聞出版

惜しいなぁ、というのが、最初の感想。
タイトルからして読者を選ぶ本ではあるのだが、読者を選んでしまうところで、著者のメッセージは伝えたい人に伝わらなくなるのではないか。
そして、著者が本来読者となってもらいたい層には、この著者の熱い思いはなかなか共感しづらいのではないか。
そういう意味で惜しい。

アジア圏を旅行して、日本人だからという理由で嫌な思いをしたことはあまりない。
多少の嫌な思いをしたことはあったが、とても親切な人に出会ったり、共感を示されたり、丁寧に接遇された思いのほうが強い。
私が旅行したことがあるアジアと言えば、韓国、香港(中国に返還前)、台湾、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、カンボジアと限られている。
ほとんどが観光を目的とした短期滞在に過ぎず、韓国を除いては1-2度の訪問に過ぎない。
だから、自分の体験を普遍化することはできないと承知した上でも、それでも、日本人であることで好意的に接してもらったり、日本人であることとは無関係に好意的に接してもらうことあったにしろ、日本人であることで嫌な思いをしたことは少ない。

その私自身の体験に、学生時代に出会った留学生など、アジアの人と出会った体験をプラスして考えた時、そんなに日本人って嫌われているんだっけ、あれれ?という疑問を持つようになった。
もちろん、私がメディアを通して知る嫌日、反日の声はメディアのバイアスがかかっているがゆえに、中韓のどれだけの人の声であるかはわかりにくい。
わかりにくいけれども、なんとなく背負わされてきた日本人であることの負い目のようなものが、ほかならぬ他国の人の声によってほぐされていった経験を持つ。
だからこそ、できれば、この諸外国の声、諸外国の事情、諸外国の歴史に残る日本と日本人の足跡は、もう少しニュートラルな筆致で紹介されていたらよかったのにと思う。

著者の悔しさやもどかしさといった熱い感情が熱い涙と共に描かれる時、共感するように押し迫られても、引いてしまう、冷めてしまう。
共感は強制されて働くものではないのだ。
著者の感激や興奮のすごさは伝わるが、読者たる私は、著者の感動に置いてけぼりをくらった。
そこは、戦後教育を普通に受けてきた世代として、自作自演乙?と反応したくなるような心が作用してしまうのだ。
もっと冷静に、現実的に、中立的に、理性的に記されていたとしたら、もう少し読者層が広がるのではないだろうか。
もう少し、読者が自由に心を揺さぶられるのではないか。考えが揺さぶられるのではないか。
右でも左でも斜め上でも、感じ方の自由は残した書き方をしてもらえるとありがたいのに。

非常に興味深い資料が豊富である。
なかなかに国内では紹介されることのないインタビューや取材である。
それだけに、もったいないというか、残念というか。
私には、ざっくり言って、暑苦しかったのです。
物事を両面から把握しなおすという意味で読む意義がある。

 *****

広島の人と、韓国の人と、アメリカの人と、カンボジアの人と、ベトナムの人と、台湾の人と。
いろんな人といろんな話をした。戦争の話もした。よく聞かせてもらった。
なんで、人は私に戦争の話をしたがるのかよくわからないけれども、聞かせていただくことが多いような気がする。

それは、ベトナムのフエにて。
シクロの運転手さんの言葉が忘れられない。
それはこんな言葉だった。

日本はベトナムにも使われなかったような大きな爆弾を使われた。
それを考えると、日本も戦争の犠牲者ではないか。ベトナムと一緒だね。
海外に興味を持つことが平和を作ることに繋がるのではないか。
緑を植える人は、平和を作る人だと、ベトナムでは言うんだよ。

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