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香桑の近況

  • 2017.1.4
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    合計323冊
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**国境を越えて**

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2016.11.09

メコン詩集

鹿島道人 2015 不知火書房

好きな地域を題材にしてあるからと手にとってみた。
さまざまな形の詩が編まれている。
漢文もあれば、散文もあるような、多様な詩の集まり。
詩の世界も多様である。

アジアも多様である。
ここに描かれているのは、どこか陰のあるアジアだ。
アジアの影は、戦争の記憶であったり、現在の貧困であったり。
歴史の育てた智恵もあれば、生き抜く力もきっと持っている。

同じところを旅をしても、人によって思い浮かぶことは違うんだなぁ。
でもきっと、自分の心に去来したものを誰かに伝えたくなる。
それが旅というものなかもしれないな、と思って閉じた。

2015.02.02

犯韓論

黄 文雄 2014 幻冬舎ルネッサンス新書

一冊の新書の中に、韓国、日本、台湾を頂点とする三角関係が描かれている。
政治的に、ではない。文化的に、それぞれは関係しあい、影響しあい、無関係ではありえないが、同一の同質のものとはくくり得ないそれぞれの文化や文明を持っている。

著者は台湾出身の方である。中国ではない。台湾ならではの歴史、背景を持っている方である。
すなわち、日韓関係の当事者というしがらみの外からの目線で語ることができる。
韓国の人が記した近代史を何冊かは読んできたつもりであったが、語調も目線も違ってくる。
そこには、この著者の持つバイアス、背景も投影されているとは思う。
一台湾人から見た日本、韓国、日韓関係というところが、非常に興味深かった。

ありていに言って、正しい歴史認識ってなんだ!?と思う。
「正しい」は「歴史」にかかるのか、「認識」にかかるのか。
しかも、いずれにせよ、それは誰にとって「正しい」のだろうか。
本書は、韓国は自国の歴史の蓄積がされてこなかったという歴史があること、そこからファンタジーが容易に歴史的事実と混同されやすいことを、解説してくれている。
歴史の蓄積がされにくかった要因として、属国であったために自国史の編纂がなされておらず、中世の貴族達の教養は自国史ではなく中国史に立脚していたこと、また、王朝交代ごとに書類や資料を焼失させており、交代王朝の正当化のために粉飾してきた。
もちろん、政権の正当化のために都合よく歴史を書き換えることは日本でも行われてきたことであるが、そういうものだと信じ込むかどうかの読み手のリテラシーの程度も含めて、一概には言えないものの、やっぱり差はあるのかもしれない。
と、ここまで書いて、韓国王宮ファンタジーを歴史ドキュメントと勘違いしていそうな自分の家族を思い浮かべて、自分の言葉の着地点を見失った。

ともかくとしてだ。
対韓国、対中国への理解と対処を進めるための一助となるように書かれた一冊であるが、昨今のグローバル化したテロリズムへの理解と対処にも通底して、日本は、日本人はどうしたらいいだろう、と考えることに役立つと思われる。
「思いやりは日本人古来の民族的特質である。それが悪いわけではないが、他人本位の思いやりは避けなくてはならない」(p.228)との苦言は、意味深いなぁ。
日本が理想でもなければ完璧でもないことをわかった上で言うけれども、このボケていられるぐらいの平和が、これからも続くように祈る。
平和であることの恩恵が失われつつあるような痛みと悲しみを感じながら、平和を祈る。

2015.01.09

悟浄出立

万城目 学 2014 新潮社

実を言えば、中身を知らずに読み始めた。
近畿地方のあれこれから飛び出して、作者はついに中国大陸を舞台にするのか。
それも、西遊記に材を取るのかとわくわくしながら、ページをくった。

あれ?

次は、趙雲。三国志やし。西遊記ちゃうし。
二章目に入ってから、これは、中国の古典に題をとった短編集だと理解する。
これまでも、『鴨川ホルモー』を読んだときなど、この作者は中国の戦国ものと、日本の戦国ものが好きだと感じたものである。
そういった好きで親しんできたであろう古典のいくつかを、主人公ではない人物を主人公に据えて、傍らから語らせるという手法でリライトしたものである。
華やかさは少ない。だが、英雄ではないからこそ、身近にせまり、自分と重なりあうようななにかが描き出されているのではないか。

孫悟空ではなく、沙悟浄。
ただただついていくだけの消極的な人生から、一歩、先頭へと踏み出していく景色が鮮やかだ。
自分が行きたい方向へ行く。その転換の瞬間を切り取った手腕が見事だと思った。

趙雲。三国志の名だたる英雄の中で決して目立つほうではない。
戦いの勇猛さではなく、故郷を失ったことに気づく悲しみが胸を打つ。

項羽ではなく、虞美人。
覇王がかつて愛していた人の身代わりでしかなかった自分。
その自分を、自分こそが本物として覇王に迫る痛々しさ。
しかし、その女性に「いちいち意地を張るのも馬鹿馬鹿しく思わないでもない」と冷静な視線を与える作者が素敵だ。
私はこれはかなりの名品だと思う。

荊軻ではなく、同じ音の名前を持つ一役人。
秦の始皇帝暗殺と言えば映画を思い出すけれども、その宮城に勤めて一役人から見た事件の日。
歴史には残らないドラマが人の数だけあるということ。

司馬遷ではなく、その娘。
この章がまた圧巻だった。
書き手としての、書くという営みへの思いが叩き込まれている。
たとえ今、読み手がいなくとも、文字は300年後のその先の人々に物語を届けるかもしれない。
物語を書く使命感のようなものを感じた。

2014.10.28

阿修羅のジュエリー

鶴岡真弓 2011 イースト・プレス

この「よりみちパン!セ」のシリーズは、筆者のラインナップも興味深いし、大人であっても興味を惹かれるようなテーマ、タイトルが並ぶ。
「学校でも家でも教えてもらえなかったリアルな知恵満載」と帯にあり、子どものための本ではあるが、生きづらさを生きる、無縁なものはひとつもない、青春の大いなるなやみや未知なるみじかな世界など、分類も気が利いている。
この本だって、美学・美術史・文化人類学にあたるような領域だろう。
難しくならいくらだって述べられていそうなことを、改めて、子ども目線で興味を持ってもらえるように、かみくだいた表現、すべての漢字にルビを振った状態で語られている。

興福寺の阿修羅像。
東京の国立博物館と、福岡の九州国立博物館で開かれた阿修羅展は、空前絶後の入場者数を記録した。
みうらじゅん作詞の高見沢俊彦「愛の偶像」がメインテーマとして流れ、みうらじゅんが会長となって阿修羅ファンクラブまでできた。
その二年後に出版された本書は、阿修羅王立像の身に着けている服飾品のデザインに注目しているところが目新しい。

複製された阿修羅の色鮮やかな姿に見て取れる胸飾や臂釧、宝相華文様の裙は、なにを意味し、どこからもたされたのか。
その答えとなるのが、花と星。
地上の花と天上の星が、それぞれが希望の光として照らしあい、古今東西の人々を照らしてきた。
その光をとどめるものとして宝石が用いられており、衣装にも数々の花柄が描かれた。
エジプト、ペルシャ、ローマ帝国といった西側の文化と、インド、中国、そして日本に至る東側の文化の交流が背景にある。
阿修羅から眺める世界は、共通のたった一つの祈りに満ち溢れてくるのを感じた。

仏教美術の観点もであるが、個人的には中世ヨーロッパ絵画についての考察が面白かった。
人物像など、人物の顔かたちに目が行きがちになってしまうのだが、宝飾品や衣装のデザインに目を留めるのも、とても興味深く楽しい。
どんな素材で作られているのだろうと思うこともしばしばあるし(石が好きなので、石の種類は何か、など)、どういう形で止まっているのか?動いても落ちないのか?と気になるものもあったり。
著者じゃないけど、レプリカでいいから身に着けてみたいと思うものだ。
やっぱり、キラキラするものって、好きだなぁ。自分もね。

もう少し大人向けのバージョンで読んでみるのもいいかな。
平易な言葉遣いは門戸を広く読者を受け入れるものであると思うが、逆に少しだけものたりない気持ちにもなりました。
それぐらい、面白かったということで。

2014.06.19

韓国人による恥韓論

シンシアリー 2014 扶桑社新書

この本の著者は、韓国生まれ、韓国育ちの韓国の人だそうだ。
私から見れば、きわめて冷静で中立的に文章を紡いでいると思う。
ということは、韓国の中では、著者であることが分れば、どれほどひどい目にあうのか、を心配しなければいけない。
これって変だ。おかしくないか。
おかしいと言っても通用しないだろうけど、韓国における反日は宗教じみて合理性が通じないことを内側から批判する書になっている。
今後益々純化(=日本から見ると状況の悪化、理性の退化)していくであろうことを予測している書でもある。

読んでみて、切ない気持ちになっている。
自国を恥じなければいけない著者を思って切なくなる。
2002年の共同開催のワールドカップやその後の韓流ブームが起きた時を懐かしんで切なくなっている。
私の気のせいではなく、やはり自体は剣呑な方向へと悪化しているのかと思い、切ない。

セウォル号の事件があってからしばらくの間、ネットで掲示板を追ってみた。
韓国や中国の方が書いたものを和訳してあるサイトはいくつかある。
翻訳した人がどのような意図を持って、基準を持って、紹介してあるのか、そこには保留が必要とわかっていても、なんだか物悲しくなった。
私は韓国に何度か足を運んだことがある。その回数は二桁になる。
ある時から、行く気がうせた。嫌われるとわかっている国に、わざわざ足を運ぶ気にならなくなった。
日本が改めて嫌われていると感じるのは、報道のせいなのか。施策のせいなのか。
しかし、外交上、両者は安定して平和でなければまずいはずではないのか。
それなのに、しかも、というか、韓国が中国に近寄ろうとしている感じもする。

なんだかなぁ。
新しいことを持ち出しては、謝れ、謝れ、金を出せってなんだろう。
自分たちが盗んだものを返さないとか。なんでもかんでも、韓国起源説にするとか。そんな風に嘘をついて認められたことがなんで嬉しいのだろうか。中国に朝貢外交していたことの屈辱をドラマで描きながらも、やっぱりその道を選ぼうとするのはなんでなのだろう。
そんな、自分の感覚からはどうしてもわからないというか、納得できないことが積もり積もって、私は段々、韓国という国が好きではなくなってきている。
すべての韓国の人が反日ではないと信じていたいし、これまでのよい思い出、よい印象があるだけに、とても残念だから、そういうネットの掲示板も見たくないと思うようになった。
見たくなくても、目を疑い、耳を疑い、国籍を超えて、人としていかがなものかと問いたくなるような事例が、次々に目前に現れる。嫌な言葉が、溢れかえっている。

どれもが、私の気のせいや、メディアの偏向ではなく、現に韓国で反日が強烈になっていることの反映だった。
10年ほど前に、韓国の近現代史に興味を持って数冊を読んでみた。たしか、『韓洪九の韓国現代史』だったと思う。
韓国では「親日」という表現は現在の日本に親しみを持つ立場ではなく、日帝の支配に賛同する意味を持つ歴史的な用語であることが紹介されていた。したがって、反日の反対語がない、と。
言い換えれば、『恥韓論』にて指摘されているように、反日しかない、ことになる。
韓国が反日にすがらざるをえないのは、韓国が自分自身の失敗や問題から目をそらすためである。

著者はこのように説明する。

本当は自分自身に問題があるのに、それを認めることができないから、日本が悪いと決めてしまうのです。(中略)
私はこう書きました。「僕は善だから、何をしてもいい」からもう一歩狂ったのが「あいつが悪だから僕は善だ。だから僕はあいつに何をやってもいい」であると。敵意が「あいつ」に集中的に向かうと。(p.178)

このように他責的になることで、自責から生じる抑うつを回避しようとする心理は、個人のなかでも、日本人のなかでも、よく見られることだ。
自分は被害者である。加害者は悪だ。それなら、被害者は善だ。被害者である自分は善だ。善は悪になんでもしていい、と、被害者が迫害者に転じることを、よく見かける。
それは、DVやストーカーの心理によく似ている。彼らの被害感と他責感には、客観性や合理性の入り込む隙間はない。とことん独善的な思い込みである。
それを国家の単位でぶつけてこられても。

巻末のほうで、著者は、日本は韓国に距離を置く外交を勧めている。隣国だからと過度に親切にしようとするのではなく、例外的な措置をとるのではなく、基本的な外交だけをするように勧めている。
それを聞くと、セウォル号の沈没の際、日本から救助の支援を打診して断られた、それでよかったのかな、と思う。
そして、個人のレベルでの持論をもっと発信すべきであること、日本は日本で韓国批判も含めての世論を形成することを提案している。
韓国にこれからも住み続けていきたいであろう韓国の人が、韓国が中国と仲良くするようなニュースが流れたら危機感を持って警戒してほしいと言わなければいけないなんて。
そんな人もいるから大丈夫よ、なんて、例外に思わないでほしいと言わなければいけないなんて。

私は、日本に住む、日本生まれの日本人として、この国だって、古きよき日本人らしさを否定する教育が進み、民度なるものが下がりつつある現状と、そのことと外国から向けられている敵対心に退行するために、日本のよさを再評価しようとしている傾向の両方を感じている。
私は憲法第9条を誇らしくいただきながら、日本と日本人が好きだよって言ってくれる人たちがいる日本をちょっと嬉しく思いつつ、受け継いできたものをなるべく大事に守っていけたらなぁと願っている。
馬鹿正直さとか、真面目さとか、平和にぼけていられるお人よしさとか、当り前に与えられてきた環境の居心地のよさ、守って行きたくない?
理性を手放している者同士の対立にならないよう、事実やデータは大事である。親しき仲にも礼儀を払いつつ、殴り合いにならない距離を保つことは必要である。
慰安婦問題であるとか、大量虐殺批判であるとか、言いがかりに感じる自分の感性は、もう否定しないでおこうと思った。
ぶつくさぶつくさ言いながら、これ以上、悪くならないように祈り続けていたい。

2014.06.17

日本が戦ってくれて感謝しています:アジアが賞賛する日本とあの戦争

井上和彦 2013 産経新聞出版

惜しいなぁ、というのが、最初の感想。
タイトルからして読者を選ぶ本ではあるのだが、読者を選んでしまうところで、著者のメッセージは伝えたい人に伝わらなくなるのではないか。
そして、著者が本来読者となってもらいたい層には、この著者の熱い思いはなかなか共感しづらいのではないか。
そういう意味で惜しい。

アジア圏を旅行して、日本人だからという理由で嫌な思いをしたことはあまりない。
多少の嫌な思いをしたことはあったが、とても親切な人に出会ったり、共感を示されたり、丁寧に接遇された思いのほうが強い。
私が旅行したことがあるアジアと言えば、韓国、香港(中国に返還前)、台湾、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、カンボジアと限られている。
ほとんどが観光を目的とした短期滞在に過ぎず、韓国を除いては1-2度の訪問に過ぎない。
だから、自分の体験を普遍化することはできないと承知した上でも、それでも、日本人であることで好意的に接してもらったり、日本人であることとは無関係に好意的に接してもらうことあったにしろ、日本人であることで嫌な思いをしたことは少ない。

その私自身の体験に、学生時代に出会った留学生など、アジアの人と出会った体験をプラスして考えた時、そんなに日本人って嫌われているんだっけ、あれれ?という疑問を持つようになった。
もちろん、私がメディアを通して知る嫌日、反日の声はメディアのバイアスがかかっているがゆえに、中韓のどれだけの人の声であるかはわかりにくい。
わかりにくいけれども、なんとなく背負わされてきた日本人であることの負い目のようなものが、ほかならぬ他国の人の声によってほぐされていった経験を持つ。
だからこそ、できれば、この諸外国の声、諸外国の事情、諸外国の歴史に残る日本と日本人の足跡は、もう少しニュートラルな筆致で紹介されていたらよかったのにと思う。

著者の悔しさやもどかしさといった熱い感情が熱い涙と共に描かれる時、共感するように押し迫られても、引いてしまう、冷めてしまう。
共感は強制されて働くものではないのだ。
著者の感激や興奮のすごさは伝わるが、読者たる私は、著者の感動に置いてけぼりをくらった。
そこは、戦後教育を普通に受けてきた世代として、自作自演乙?と反応したくなるような心が作用してしまうのだ。
もっと冷静に、現実的に、中立的に、理性的に記されていたとしたら、もう少し読者層が広がるのではないだろうか。
もう少し、読者が自由に心を揺さぶられるのではないか。考えが揺さぶられるのではないか。
右でも左でも斜め上でも、感じ方の自由は残した書き方をしてもらえるとありがたいのに。

非常に興味深い資料が豊富である。
なかなかに国内では紹介されることのないインタビューや取材である。
それだけに、もったいないというか、残念というか。
私には、ざっくり言って、暑苦しかったのです。
物事を両面から把握しなおすという意味で読む意義がある。

 *****

広島の人と、韓国の人と、アメリカの人と、カンボジアの人と、ベトナムの人と、台湾の人と。
いろんな人といろんな話をした。戦争の話もした。よく聞かせてもらった。
なんで、人は私に戦争の話をしたがるのかよくわからないけれども、聞かせていただくことが多いような気がする。

それは、ベトナムのフエにて。
シクロの運転手さんの言葉が忘れられない。
それはこんな言葉だった。

日本はベトナムにも使われなかったような大きな爆弾を使われた。
それを考えると、日本も戦争の犠牲者ではないか。ベトナムと一緒だね。
海外に興味を持つことが平和を作ることに繋がるのではないか。
緑を植える人は、平和を作る人だと、ベトナムでは言うんだよ。

2012.11.13

ダンナ様はFBI

田中ミエ 2012 幻冬舎文庫

世の中には思いがけない出会いというものがある。
まったく予測だにしない時に、場所で。
思い描くこともなかったかのような相手と。
そんな出会いの不思議を私はよく知っているけれども、著者の出会いはかなり特別だ。
だって、相手はFBIの捜査官。2度すれ違っただけなのに、電話がかかってくるところから、出会いが始まる。

ゆっくりと関係が築かれ、結婚し、日本で生活を始めた二人。
その日常が面白い。
国際結婚ならでは、というだけではなく、ダンナ様が元FBIの麻薬捜査官だからこそのあれこれ。
時代は80年代半ばから90年代にかけて。今とは少し社会情勢は違うけれども、日本はいつもアメリカの後を追いかけているので、今になってダンナ様の懸念が現実になってきている。
アメリカ型の犯罪が日本で増加するという予測は確かにあたっているし、これからも進むだろうと予想される。
変なところだけは古きよき日本像を盲信している日本人は、都合よく目をそむけて現実的な対策は後手に回るばかりである。
今だからこそ、こんな専門家の力があると、いいのにね。専門家の言葉に耳を傾けて損は無い。

私の現実に即して、かなり耳を傾けて損はないと思われたのが、数々のダンナ様の愛のムチ。
FBI直伝・家庭も仕事も楽しむ10の掟と、FBI直伝・自分の魅力をアップさせる10の掟は、働く女性は読んで損は無い。
実践できていない部分もあるが、人の見分け方であるとか、関わり方であるとか、今更コーチングで社内研修に使われるような事柄が、とっくに20年や30年以上前にFBIでは当然のようになされていたみたい。

無理難題をふっかけられて、不平不満たらたらになる気分、あるある。
でも、悔しいけど、言う通りにしたらレベルアップするのも、わかるわかる。
そして、予想外の発想の展開に目が点になるのも……。
著者の愛情溢れた、率直で軽快な文章の読みやすさもあって、いっぱい笑わせてもらった。

「頑固で、シャイで、お節介」というダンナ様にそっくりな人を知っており、しかも関東風の口調に訳してあることからどうしても重なってしまい、私はちょびっと切なくなった。
そうか。やつは昭和の男ではなく、田中ミエさんの表現を借りるなら「明治男」であったか。
それはそれで笑える。
勝手に親近感を持って読み勧めていたものだから、最後のミッションでは思わず涙した。
素敵なエッセイだった。

2011.02.27

時が滲む朝

時が滲む朝 (文春文庫)  楊逸(ヤン・イー) 2011 文春文庫

中国の民主化とは。
中国にとっての民主化とは。
時勢に押されるように手に取った本だ。
作者は中国で生まれ、留学を機に来日し、在住している人である。
天安門事件から北京五輪まで。
中国に対する私のイメージも徐々に変わってきている感じがする。

1988年から物語は始まる。
主人公の父親は北京大学出身だったが、50年代の反右派運動に巻き込まれ、西北の黄土大地の貧農村で家庭を持った。
主人公の浩遠が、秦漢大学に進学するところから物語が始まる。寸暇を惜しんで勉強する大学生の生活は、華やかなりしバブルを享受していた日本のそれとは大きく隔たる。
学生たちは理想に燃えているからこそ、ゆっくりと学生運動に傾いていく。
彼らは官僚の汚職と腐敗に反対しただけだった。「国家興亡、匹夫有責」のスローガンのもと、愛国者であろうとしただけだった。

座り込む学生に、人々が軍用コートを届け、肉まんを差し入れする。
その光景に、驚きを禁じえなかった。
奥の人々が応援していた活動であったのか。
そのくせ、天安門事件のその後、人々は手のひらを返す。
学生たちの失意はどれほどであっただろうか。
『レ・ミゼラブル』にもこんな場面があったことを思い出す。

民主化とは何か。革命とは何か。
何が国のためであるのか。
国を愛するとはどういうことか。
学生たちは何をしようとしていたのだろうか。
何をしようとしているのか、はたしてわかっていたのだろうか。
ひるがえって、日本人の中にこのように悩むことができる人がいるだろうか。
それぞれの国は、一体どちらへ向かおうとしているのだろう。

正直なところ、中国に対してはあまりよい印象を持っていない。
冬の終わりがけから初夏にかけて、空気が白くかすみ、濁る。
以前ならば黄砂であったが、今は違う。
目を刺激し、鼻や喉の粘膜を刺激し、アレルギー様の症状や、軽い喘息のような症状に悩まされる。
政治のことは私が語るには難しすぎるが、薄汚い青空を見上げれば、あきらめまじりの嘆息が出る。
この空気のために、中国が嫌になる。
この季節、飛行機に乗ればどれほど空気がよどんでいるが可視できるし、よその土地に行けば空の青さや光の眩しさに驚く。
海を挟んだ私の住む土地でこれだけ苦しいのであるから、中国の空気の汚れのもとになっているその場所での大気汚染はいかほどであるか。
そこに住んでいる人は、いかほどの思いを抱えているのだろうか。

ニュースを見るにつけ、中国はすさまじい勢いで変化しているように見えて、なかなかそれ以上の変化が難しい国のように感じる。
その難しさを改めて感じることができた一冊だった。そういう重たさがある。
イーユン・リー『千年の祈り』と共にあわせて読むことを勧めたい。
それと同時に、国境を越えて、輝かしい青春時代から、やがて家庭を持ち、成熟した大人になるプロセスを描いた瑞々しい小説として、爽やかさもあった。

 ***

兎にも角にもお腹には不満以外何もない、餃子をお腹に入れたければ、先ずその不満を出さないことには爆発してしまう。国運を大前提、家庭運を小前提にして、個人は迫害される運命以外に選択肢のない悲劇のヒーローを演じ上げていく。(p.130)

2011.02.03

私は売られてきた

私は売られてきた (金原瑞人選オールタイム・ベストYA)  パトリシア・マコーミック 代田亜香子(訳)
2010 作品社

ネパールからインドへ売られてくる少女は、毎年、約1万2千人。
世界的には年間50万人近い子どもが性産業に売られている。
タイも有名だが、カンボジアもまだまだ悲惨だ。
売られていく子ども達の数は、市場拡大を示しているのではない。
同等数の子ども達が、市場で消費されて市場から脱落していることをも示しているのだと思う。
虐待によって、病気によって、あるいは、自死を選ぶ子どももいるだろう。
言い換えれば、殺されていく子ども達の数であるのだと思う。

この本を知ったのは、書評か、なにか本を紹介する番組だったと思う。
世の中に悲惨なことは多すぎて、生活の中で触れる悲惨が充分にありすぎるので、この手の本は避けることが増えていた。
でも、なんだか、惹かれたのだ。
読んでみたいと思った。
母親をアマと呼ぶ少女。アマはノアの箱舟のノアの妻の名前だった。読むときが来た。
読んでみてよかった。

ラクシュミーという女神の名前をもらった少女。
たった13歳。でも、売られる少女の中では最も若いというわけではない。
売られる。叩かれる。閉じ込められる。レイプされる。更に売られる。
教育で洗練されてはいないが、彼女には知性があり、理性があり、深い情感があり、プライドがある。
新鮮な驚きを示し、学習することに喜びを見出す。母親を愛し、かすかな恋に胸をときめかせる。
少女の活き活きとした感性や、しなやかでたくましい、ヒマラヤの山のように誇り高い姿が印象的である。
その姿が、たとえどのような体験をしたとしても、その人は汚されることなくその人のままであることを教えてくれるのではないか。
彼女の魂が壊れる前に救い出されてよかったとほっとするような結末だった。

この子が育った環境では、情報も限られており、社会も限られていた。
大人を信じて喜んで売られていった彼女の世間知らずを責めてはいけない。
責められるべきは、彼女を売った継父である。
酒やギャンブルの楽しみのために、わずかな金のために少女を売り払った男である。その金がなくなれば、次は何を売るつもりなのか。
彼女達が生還したことを恥だと思ってはならない。あるいは、やましさから追い返す人もいるだろう。
恥ずかしいのは、少女を売ったことを忘れて、少女を買ったことを隠して、自分達だけは清いと思っている人たちのように思う。

『サンダカン8番妾館』を思い出した。
売買春は、昔からあった。今も各地にある。
だからといって、ありふれたものとして受け流すのは違うと思う。
自分の体しか売るものがなかった人を侮辱してはならない気が、私はする。
同時に、買うしかどうにもならない人を非難するのも、私は難しさを感じている。
でも、売られた少女を買うのは別だ。他者を売り、他者に売られた人を買うのは別だ。その人は売られて、買われて、自ら売っているわけではない。そこに能動性のひとかけらもない。
痛ましい気持ちと腹立たしい気持ちとがずっしりと残る。この重たさが、私に次に私がすべきことを探させるのだろう。

短い章立てで、漢字にはルビを振られており、主人公と同年代の読者にも提供できる。
どれだけ何を感じるかはわからない。でも、読んで、知っていて欲しい。
世界にはこんな少女達もいることを。こんな営みに加担しないために。

 ***

思い出そうとするのは、わずかな霧をつかもうとするものなんだな。忘れようとするのは、モンスーンを押しとどめようとするものなのだ。(p.92)

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