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香桑の近況

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**母と娘の間**

2016.04.06

彩雲国秘抄:骸骨を乞う(上・下)

雪乃紗衣 2016 角川文庫

今回、文庫化されるにあたり、書下ろしが添えられていると知って購入した。
4年前、単行本で読んだ時には、「月の見えない裏側」のような物語だと思った。
近所の方が亡くなられてお通夜の後に一気に読んだせいか、それとも、22年もの間そばを暖めてくれた猫が風になった日に前後して読んだせいか、単行本の時以上に、泣いて泣いてたまらなかった。
上巻に収められた鄭悠舜の「雪の骨」と旺季の「霜の躯」。どちらにしても、自分が年齢を重ねるごとに、味わいが深くなった気がする。
下巻には凌晏樹の「北風の仮面」、紅秀麗と紫劉輝の短い結婚生活を描く「氷の心臓」、そして、今回の角川文庫版にのみ収録された書下ろしが、紫劉輝の最期と成長した娘とのかかわりを描く「秘話冬の華」だ。そうだ、「悪夢の国試組」も入っていた。
レビューを見ていると、今回の文庫の売り方だとか、単行本の時もであるが内容についてとか、賛否両論ではある。
こんなにいい物語なのにもったいない。これは大人の物語だ。
私は読めてよかったと思っている。心を揺さぶられた物語だ。
登場人物も大人になった。それは、著者も大人になったということではないか。

何度も出てくるのは、別れの言葉だ。
人生から去り逝く時。それが、彼らにとっては主と仰いだ人の御前を辞する時である。
だからこそ、骸骨を乞うことは、辞職の意味を指し示すのであるが、そこに、著者はいくつもの意味を込めているかのように感じる。
魂までが骸骨の形をしていた戩華であるとか、ガラガラと踏み潰される骸骨の山であるとか。
その積み重なった一番の奥に、著者自身が読み手に幕引きを乞うているように感じられた。

以前も「氷の心臓」でたまらず泣いたが、読み直してみると、これは母親からの許しの物語だ。
ふりかえってみると、彩雲国物語は母親不在の物語だと思う。
母親を早くに失くした秀麗や静蘭。直前までの戦乱の時代の影響で、身元不明の孤児であった絳攸や、一族郎党を殺された皇毅や悠舜といった人物も多い。母親殺しをしているものも少なくない。
秀麗は自分を産んだから母親が死んだと思い込んでいた点で、自ら積極的に母親殺しの罪悪感を背負っていた。
対して、劉輝は母親殺しの記憶を抑圧し、罪悪感を解離することで生き延びてきた人物である。

彼らが接する大官達はおおむね男性ばかりの世界であることから、父性には事欠かない。
戩華の父性はわかりづらいとしても、旺季や邵可の父性はわかりやすいであろう。したがって、皇毅という上司も、いささか父性的な役回りをとることになる。
政治という仕事についての領域であれば、そういった父子関係を中心に物語が回っていくことに問題はない。

本編に登場する強烈な大人の女性達は、胡蝶といえば妓女という働く女性、瑠花は縹家を背負って暗躍しまくるし、百合も紅家当主の妻であるが母親ではないしと、おおむね働く女性として登場する。
彼女達は恋はする。働きもする。子どもを抱えながら、家庭と仕事の両立ができていそうに見えるのは、碧家の歌梨と、後の柴凛ぐらいではないか。
女性が母親として描かれる時には、子煩悩すぎて我を忘れたり、子どもよりも夫を愛してすぎて自滅するような危険な存在にスライドしてしまう。それが鈴蘭の君だったり、第六后妃だったりする。
母親としての生き方と働く女性としての生き方のバランスをうまくとれずに、家庭よりも仕事を優先させているような女性のほうが物語世界では目立っているように思うのだ。

主人公からして、秀麗のように魅力的な男性に囲まれながら、学業や仕事で達成していくライフコースを描き出すが、秀麗自身が結婚と仕事の二者択一を迫られて困り果てるのが本編の大まかな流れである。
秀麗においては、手本とする成熟した女性のモデルが欠如しているのであるから、父親を成長のお手本として、就労すなわち仕官へと達成の目標を置くようになることは当然の帰結である。
もっとも、彼女は母性的な女性性をも有しており、希代の世話焼きである。甘えることが致命的にへたくそながんばりやさんでもある。
これはルビー文庫という若い女性向けのラインアップにおいて呈示する女性の成熟のイメージが結婚出産を理想としていないことを示している。
そうなると、母子密着から生じる分離不安や母子葛藤は生じにくい。むしろ、母親の不在に基づく孤独、基盤が欠如していることから生じる不信や不安の物語として内的な世界は展開してきたのだ。

これらのことを踏まえると、彩雲国物語というのは、母親不在の世界で、母親殺しを背負った二人が出会う物語であったと言い換えられる。
秀麗のほうは物語を通じて成長していき、母親である薔薇姫と薔薇姫の記憶を持つ人々、あるいは数々の大人の女性達との触れ合いを通じて、母親殺しの罪悪感を荷卸することができる。
しかし、劉輝は母親殺しの記憶を抑圧していることから、罪悪感にさいなまれることもなければ、許されることもなかった。

そして、二人が父と母になる日が来た時、それはやってくる。
山家に住む白髪の老婆は、戦争ですべての子どもを失ったことで正気も失った女性として描かれる。
かつて劉輝の首を絞めたこともある女性が、出産を控えた秀麗と劉輝の前にひょっこりと現れ、劉輝にかつての暴言や暴挙を謝罪し、秀麗にお守りを手渡す。
器量よしの娘の幼い時の晴れ着の布で作ったお守り。仙女である薔薇姫よりも、もっと泥臭くて、やぼったくて、でもきっと、双方同じように温かい母親の愛情が秀麗と重華に注がれる。
物語を読んでいけば、山家の老婆は劉輝の母親の母親であることが推察される。
秀麗の娘に託されたお守りは、秀麗の姑とその母親達からの贈り物であり、そういう形で、母親達は息子夫婦に愛情と謝罪とを伝えたのだ。
老婆とその娘は、劉輝に謝罪を乞う形で、劉輝のことをも許したに違いない。明確に語られてはいないけれども、劉輝が池に手向けた花に応じているようにも読める。
戦争の最大の被害者である子どもを亡くした母親一般が、新たな王を受容し、施政者と民が和解した瞬間として読み解くこともできるが、母親不在だった物語の最後の最後に、母親が訪れた。その瞬間だったように思う。
これは四世代に渡る母子の再会であり、謝罪であり、赦免である。
和解であり、祝福である。

そして、最後に、秀麗の忘れ形見である一人娘の重華が、劉輝の最後の家出を共にする。
どちらがどちらのお供だったかは横に置き、重華が劉輝を許す。劉輝の人生を許す。劉輝の存在を許す。
父親を見て育ったところが秀麗そっくりである。きっと見かけと性格は、秀麗の母親にそっくりなんだろうけれども。
こうして、世界からは大人たちが去り、大人になった者達も去っていく。

彩雲国物語は8人の仙の集う世界としてスタートしたのではないかと最初は思っていた。
読み勧めていくうちに、仙の存在感はますます希薄になり、誰がどの色の仙かも明確に語られずにいた。
本編の最後、これは人の世の物語になったと感じた。作者は人の世界の物語として閉じることをどこかの時点で選んだのだと思った。
劉輝の世は、8仙が打ち揃っても誰も気づかない、人だけで治めたからこその最上治。
仙たちは不在になったわけではないけれども、そこが仙に頼り切らずに人が自分の力でなんとかしようと頑張ったことが大事だったのだと思う。

娘の世は娘のものであり、別の物語。
物語は閉じられても、世界は続いてくのだろう。

2014.09.10

明日の子供たち

有川 浩 2014 幻冬舎

舞台は児童養護施設。
そこで生活しているからといって、可哀想だと思わないでほしい。
そう胸をはる高校生女子の言葉に、戸惑いながらへこみながら成長していく新人スタッフが主人公。

よく取材してあるのだと思う。
現場でありがちな心のすれ違い、言葉の行き違い。
スタッフを志しそうな動機、心折れてしまいがちな人のタイプ、やっていける人との違い。生ぬるく甘ったるいボランタリー精神ではなくて、職業としてのプロ意識がほしい。
支援の限界、そもそもの施設の目標、現実の壁。義務教育が終わった時点で、高校に進学できなければ、施設を出て就労することが求められる。まったはない。
不自由はあろう。でも、子ども達だってばかではない。子ども達なりに現実を見て、学んで、考えている。

だってさ。
これだけ虐待死のニュースがあるんだよ?
それなのに、どうして、実の両親と生活することだけ幸せだなんて言えるのかな。
どうして、そんなに無邪気で、無責任に、見当違いの同情や正義を振りかざせるのだろう。
相手を可哀想だと決め付けることは、時には上から目線だ。対岸の火事だ。遠見の見物だ。相手を可哀想だと思う自分の優しさに陶酔する響きと、自分の優位を確認する作業が潜むことがある。そうじゃないこともある。
誰も、その人の親ならばできた以上に愛情を注ぐことはかなわなくても、暴力や苦痛の中に子どもを無理に押し込むことはないんじゃないのかな。
残念だけど、離れて初めて平和でいられる関係もあると思うのだ。

こういうシビアな社会問題を扱うとき、過度に感傷的にならない有川さんの語り口に好感を持つ。
決してお涙頂戴にせず、現実の厳しさを織り交ぜながら、叱咤激励と問題提起を同時に行う。
児童臨床や児童福祉に関わる人が読んでも、違和感は少ないと思われる。
お涙頂戴ではないのだけれども、最後は泣いてしまったけどね。

可哀想の言葉が、単なる上から目線の同情ではなく、がんばっている子がいるんだなぁという驚きや励ましとして響けばいいのだけど。
悪いことばかりじゃなかった、嫌なことばかりじゃなかった、自分を思ってくれた大人もいたんだという体験が、その子の明日を支える糧になるといいな。
施設=可哀想と決めてかかっている人の目に、手にとまればいいな。

2012.01.03

マザコン

角田光代 2007 集英社

母のことは好きだ。
だが、どうしても、いらいらしたり、もやもやとする。
その割り切れなさをなんと表せば伝わるのだろうか。

娘も、息子も、母親を求めている。
幼い頃、自分を支え、包み、守っていた、揺るぎのない環境としての母親。
母親だけが、自分を丸ごと受け止めてくれる。
自分をすべて理解してくれようとするだろう。
そんな幻想を、娘も、息子も、持っている。
自分をすべて理解してほしい。
そんな欲望を、娘も、息子も、持っている。

だから、母親が幻想通りではなくなったときに、幻滅する。
母親が家を去ったとき。母親が老いたとき。母親が死んだとき。母親の、自分が見てきた母親として以外の顔を見せたとき。
幻滅は、不可避だ。現実を知らなかったのは子ども達のほうなのだから。
この本は短編集であり、それぞれの娘や息子達が、幻滅を繰り返す。

と、同時に、娘は母親の支配に身をよじる。
その支配については、斎藤環『母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか』を読んでもらうといい。
『マザコン』のなかの「ふたり暮らし」が気になった人には特に勧めたくなる。
父親のことを考えるならば、全体を通じて存在感が希薄だ。
「パセリと温泉」の有様は、我が家の近い将来に思えて仕方ならず、ぞっとした。
この短編の父親の様子は、思わずに母親に読み聞かせたほど。我が家だけのことでないというのは、あまり慰めにならない。

この小説で面白かった点は、人が娘/息子として母親に自分を丸ごと理解してほしいと求める一方で、自分の恋人や伴侶といった同世代異性とは話が通じるわけがないと投げ出しているところだ。
むしろ、異性とのディスコミュニケーションがひどいからこそ、幻想の母親にコミュニケーションを期待してしまうのかもしれない。
しかし、結局は幻想は幻想に過ぎず、誰にも理解されないまま、一人に突き落とされるような落下感がつきまとった。
読むにつれて、徐々に気分が沈んでいった。

最後に収められている「初恋ツアー」は、母親がコミカルなだけではなく、母親への幻滅を感じた男を妻が母親であるかのように抱きとめようとするところに、ある種の希望と救済を用意している。
こんな風に振舞えれば、よかったのにね。また落ち込んだ。

2010.03.21

千年の祈り

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)  イーユン・リー 篠森ゆりこ(訳) 2007 新潮社

中国とアメリカ。
共産主義と資本主義。
中国と英語。
東と西の断絶を、その間隙に沈む言語で読む、不可思議。
この本も、母国語ではないからこそ書けた表現であり、遠くから母国を見つめなおす作業だ。
母国というのは、自分が生まれ育ち、知らず知らずに自らのうちに取り込んだ、文化であり歴史であり思想であり習慣であり精神である。
言葉の一つ一つが哲学であり、言語は思考である。異なる言語を得ることによって、初めて自分の思考を客体化することが可能になるのかもしれない。

この著者に興味を持ったのは、雑誌で読んだ短い文章だった。
本を手に入れるまでに時間が経ち、その文章も、掲載されていた雑誌のことも見失ってしまったが、その文章を読んだ時の、この人を読まなくてはいけないという強く湧きあがった義務感は憶えている。
入手してからまたしばらく経ち、目次を開くと「死を正しく語るには」というタイトルが見えた。
フォレスト『さりながら』の次に読むのにふさわしいのはこの本だと思った。
「不滅」とくればクンデラであるし、後書きを読めば、作者がクンデラはもちろん、サルトルやカミュ、ニーチェ、キルケゴールなどに親しんでおり、そのあたりもフォレストと通じるものを感じて、一つの流れを感じた。

10の短編のいくつかは中国を舞台にしており、いくつかはアメリカを舞台にしている。
面白いのは、中国を舞台にする短編には時制がない。もとの英文が、すべて現在形で書かれているのだろうか。中国語の素養がないので確かなことは知らないが、中国語には過去形がないようなことを聞いたことがあり、確かに漢文で過去形を習った憶えもないので、その時制のなさに中国を感じた。
勘違いだったら恥ずかしいけれども、欧米の言語は時制には口うるさい。その知識からすると、一つめの短編「あまりもの」は、首をかしげるぐらいに違和感があり、その違和感の理由に気付くのに間もなかった。
そして、10個目の短編「千年の祈り」では、「過去のことを語る習慣はない」(p.228)、「いつまでも思い出にふけっているのはよくない」(p.245)と語られる。
過去のことを語らぬならば、それが過去ではないとするならば、過去形はいらない。

この百年、中国は大きな変化をいくつも経た。近代史にうとい私は、それを十分に把握しているとは言えないが。長い長い皇帝の時代があり、

それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。(中略)やがて内戦。ついに共産主義の夜明けを迎えるのである。(pp.57-58、「不滅」)

文化大革命があり、あるいは、天安門事件があり、それは世代ごとに大きく文化が異なるような事態が起きていることを示す。
単なる親と子の断絶ではない。その断絶は、歴史による断絶。
あまりにも深く、どうしようもなく広く、越えようのない隔たりのゆえに、どの人もわかりあえない。
寂しくて、淋しくて、さびしくてさびしくてさびしくて、母親は底なしの愛に落ちる。
他方で、「誰かの子供でいるというのは、その立場からおりることのできない難しい仕事である」(p.176)。

隔たりがあるにもかかわらず縛られている、その感覚を、著者は繰り返し叫んでいるように感じた。
母であり、母国であり、母国語であり、そういう自分を作り上げているもの、切っても切り離せないなにものか。
愛していながら憎まずにはいられない。けれども切り捨てるのは難しい。
海を越えて、物理的に距離を置いて、どうにかこうにか、心理的にも距離を置けるようになったもの。
程よい距離を望む心は、離れたくはないがぶつかりたくもない、本当はうまく繋がっていたいという祈りではないだろうか。

2009.09.24

乳と卵

乳と卵  川上未映子 2008 文藝春秋

しんどいなぁ。
ほんま、しんどい。

小説を読むのがしんどかったというのもある。人の頭の中の意識の流れは、整理された一本道などではなく、目に入る刺激によってはたやすく横道に入ったり、複数の流れが同時進行的に入り乱れたりするもので、それをそのままなるべく忠実に書き起こそうとすると、非常に読みにくい文章になったりする、と思う。
これは、そういう文章で書かれている。時折、関西弁が混じりながら、その関西弁がまた自分の慣れ親しむものとは地域を異にするものだから違和感があったり、かといって標準語で統一されたらこの味が出ないのもわかりつつも、なんだか読みにくい。口調によって主人公らの気持ちの上下が伝わるのだけれども、頭の中で音声化しながら読んでみたりするとリズムが掴みにくくて、それがはまりこむのがしんどかった理由の一つ。

あくまでもそれは表面的なしんどさであって、本当にしんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。
この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。
うん。

登場人物は、わずか3人。短い小説である。
主人公の夏っちゃん(夏子?)の一人称に、姪の緑子の独言が差し込まれる。
東京に住む主人公のところに、姉である巻子と、巻子の娘である緑子が大阪からやってくる3日間を描いている。
彼女達が東京にやってきた目的は、巻子が豊胸を手術を受けるため。その母親に対して緘黙を保つようになった緑子は、生理が来ることを密かに恐れている。
この親子の断裂は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。

子を産み育てことで貧弱になった胸を取り戻そう(どころか立派にしよう)とする母親は、子を産み育てことがそもそもの間違いかであったかのように子の目には映り、性的な魅力を身につけることで生殖の過程と成果を否定して、母ではなく女たらんとしているかのように思われる。
しかし、それは一義的な見方であって、性的により魅力的な女性となることで自らの商品価値をあげ、なんとか娘を育てていきたいとする母としての意識が彼女を駆り立てていないとは言いきれないのであるが、娘には伝わっていない。

子は子で、深く自分を責めている。母に優しくしたいのにできない。もっと話したい、言わなくちゃいけない言葉があるのに、喋ろうとすると喧嘩になるから、沈黙を保つしかない。それは母を守ろうとする精一杯の身振りである。しかし、それは子が母が侮蔑し、拒絶する態度として目に映る。
生んだことで後悔するなら生まなければよかったのに。生んだことで苦労するなら生まなければよかったのに。「みんなが生まれこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも、悲しいも、何もかもがもとからないだもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、そしたら卵子と精子、みんながもうそれを合わせることをやめたらええと思う」(p.83)と、自らの体の中に生まれる前から仕組まれている卵子という生殖の、再生産の仕組みを、子は憎む。

この親子の姿を見て、主人公は二人は言葉が足りない、そこにいる自分も言葉が足りないと嘆く。
そもそも、乳房の復活は、母性の復興ではなかったのか。咳止めに頼っている場合じゃないのだ。まったく。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう親子の姿は、しかし、ものめずらしいとは思えない。
言葉が足りない。でも、そこに気持ちがないわけではないのだ。
足りないまでも言葉を紡ぐことができれば、気持ちを紡ぎなおすこともできるかもしれない。
縁を、より強いものへと紡ぎなおすことが。

それにしても、いつから身体はこんなにも「私」にとって他者になってしまったのだろう。
生まれ持って与えられたものであり、勝手に変化していく思い通りにならぬものであり、そこから抜け出ることの許されない器。
その器に与えられた社会的な女性性の問題は、併録された「あなたたちの恋愛は瀕死」でも繰り返される。
こちらもなかなか空恐ろしくなるような短編であり、この空恐ろしさを感じない女性は、おそらく若いか、美しいか、魅力的なのであろうと思ってみたり。
表題作が、斎藤環『母は娘の人生を支配する』の題材の一つにされていた。読んで、久々に、女ってしんどいよなぁ、と、ぼやきたくなった。

子どもを産むって大仕事で、育てるのはもっともっと大仕事で、勢いで取り組む人もいるやろうけど、勢いばかりでは乗り切れない年齢の私はやっぱりこんな思いをさせることがわかっている子を産んじゃいけないなぁ。

2009.08.17

感情教育

感情教育 (講談社文庫)  中山可穂 2002 講談社文庫

伊勢佐木町から始まる。
この冒頭の1ページを開いて、横浜に行く時の共に選んだ。
最後の夏を目指す、その道すがら。飛行機の中で少しでも休養を取るつもりにしていたことも忘れて、引き込まれるように読みふけった。

中山さんの小説は、繰り返し、繰り返し、姿を変えながら一つの恋愛が立ち現れる。
遁走曲のように、変奏曲のように、通底している作者の体験があるのだと思っている。
デビュー作を読んだ後は遠ざかり、最近の小説で読み直すようになったので、新しい作品ほど作者の体験が昇華されていることを感じるし、以前の作品ほど生々しさに満ちている感じがする。

この本は、作者が恋人とその子どものために書いた本だと、どれかの後書きで読んだ。『白い薔薇の淵まで』だったと思う。
だからこそ、後回しにしてきた。生々しいと、自分が凹んでしまいそうな気がして。
中山さんの文章は大好きなのだが、読むことにとてもエネルギーを要する。我が身と向き合う作業が、必ず伴うからだ。

産まれてすぐに母親に捨てられた那智の半生を描く、第一章「サマータイム」。
これだけでもお腹がいっぱいになりそうなぐらい、丹念に彼女の不幸を描く。この人生は、不幸あるいは不遇と言っていいだろう。
自分自身というものからは一生逃れられない、その無力感と閉塞感。ぐいぐいと自分の中の古い傷跡を押し開かされるような痛みを感じた。
男性から閉じ込められ、外界から切り離され、ふみにじられることしか、自分には許されないのか。その嘆きが、痛々しくてたまらなくなる。

第二章「夜と群がる星の波動」は理緒という、父親から捨てられた女性の半生を描く。
いきなり別の場所、別の人物の物語が始まり、那智は不在で、この本は短編集であったのかと目を疑った。
芝居が好きで、文筆家になって、同性愛というセクシュアリティを隠さずに生きている女性。
しばしば、作者が自分を投影させて書いているだろうと思われるタイプだ。
恋愛にのめりこんでは体調を崩す、このタイプの方に、私も自分を投影しやすかったりする。
しかも、大学の景色が自分の知っていたものに似ていて、いつも以上に親近感を持つことができた。私のときにはここまで華やかではなかったが。
章題は、サルバトーレ・クワジーモドという詩人の詩句の一節だそうだ。イメージの広がる、とても美しい言葉であるが、詩集はとても素晴らしいお値段なので手を出すのはためらわれる。

そして、第三章「ブルーライト・ヨコハマ」で、運命の二人がやっと出会う。
出会ってからはあっという間だった。前世から絆を結ばれた二人のように、出会ったときからしっくりと来るような二人の恋は駆け足だ。
しかし、理緒にとって、人妻であり、母親であり、もともと性的な関係で苦労をしてきた那智との恋は、波乱含みだった。
相手が既婚者であるだけで、望めないことが増えてしまう。そのあたりが一番切なくて、二人が死の海に臨んだときには、一緒になって魅入られてしまいそうになった気がする。

一晩でいい。共に抱き合いながら眠れたら。共に夜明けを迎えることができたら。たったそれだけのことが、許されない。
愛する人に、自分との恋愛の代償に、現在の家庭や生活を捨てろと言えるか。自分の幸福の代償に、現在の家庭や生活を捨てることはできるのか。
二者択一ではないはずのことが、二者択一であるかのように選択を迫られる。自分自身も、そうとしか事態を把握できないほど、疲れ果てて視野狭窄に陥ってしまうことがある。

作者は後書きに本書がその時の最高傑作と書いている。恋愛は終わっても、小説は残る。
美しい恋愛の記念碑として輝く本書は、恋愛小説としてももちろんであるが、被虐待からのサバイバーを描いた小説としても秀逸だと思った。

 ***

あなたと今後どうなるにせよ、あなたと出会えてよかった。人生はとても短い。愛せる人にめぐり会うのは奇跡のようなものだ。心を開いて、前を向いて、自分に正直に、生きていってください。(p.235)

2009.04.21

母が重くてたまらない:墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き  信田さよ子 2008 春秋社

そこに、愛はないのだろうか。
愛の名のもとに母親は支配や共依存(依存されることに依存すること)をしかけ、怒りと罪悪感、無理解と絶望が娘を雁字搦めにしている。
そこから逃げ出さなくてはならないのか。娘に母親から逃げ出せる可能性はあるのか。娘は母親をすでに内在化しているというのに。

小難しい本ではない。文字は大きめで、具体的な事例も多く、簡潔にさっくりと、密着する母と娘、不在をかこつ父が織りなす家族の問題と処方箋を描き出す。
どことなく殺伐とした気分になるのは、娘の愛されたいという願望と、母親の中にあるかもしれない無条件の承認や愛情の部分が、措かれているからだろうか。
斎藤環『母は娘の人生を支配する』と続けて読んだが、『母は娘の人生を支配する』は男性の目線から「母-娘」関係を発見しなおす。母から娘の束縛性を普遍的なものとして取り扱っているところから、病的とまではいえない母娘にまで開かれている。
それに対して、『母が重くてたまらない』は「母親」(現実であれ幻想であれ)の束縛に明らかに苦しんでいる女性に向けて描かれている。女性である著者が、豊富な臨床経験の中から紡ぎだす娘の苦悶は実感がこもっており、母親の欲望の醜さと戦略のあざとさに打ちのめされるのだ。
多少、光の当て方や切り口は異なっているかもしれないが、だからこそ、2冊をあわせて読むことは母と娘の問題への理解を深めることになるだろう。

私は墓守娘の資格は十分だ。そう思い、なんとも言えない共感をもってタイトル買いした。
一人っ子で独身。兄弟もおらず、夫もおらず、子どももおらず、夫もいないから養子も持てず、間違いなくうちの家系は私で途絶える。最後の墓守である。
何年も前のこと、母は私に「総領は親が死ぬまで家を出られないのは当たり前だ」と怒鳴った。その後、何度、結婚を促されても、私の心は冷えるようになった。どの口で、それを言う。母はそんな啖呵は切ったことがない、忘れたと言うが、私には決して忘れられない一言である。
逆に、何度も家を出ようと思った。家を出る手段として手っ取り早く結婚を思い浮かべないこともなかった。私は男運の無さに自信があるのも難点だった。
結局はあきらめて、そこそこ隷従しつつ、じわじわと自分の領域を増やしている。そんな母にわかってもらいたいとか、変わってもらいたいという願望はいつの間にかあきらめた。そんな母であっても嫌いではない。そして、そんな母と過ごせる時間も先が長くないと感じている。それなりに愛しく、私にとってもはあまりにも大きな存在である。
今になると時々、両親と老後や死後の後始末を話すことがある。あまりにも墓をどう守るかという話題が重くなると、私は言い返すことにしている。私は無縁仏決定なんだけど、と。私が両親の墓をどうにかすることができるとしても、それはあくまでも私の代までだ。私を看取り、弔う人間はいないのだが……。順番通りならね。

そういう墓を守る段になったときの孤独感を扱うことを期待していたので、少し物足りなさを感じているのかもしれない。
纏綿とした関係も、究極では死が救済となることもある。もちろん、折り合いがつくならそれに越したことはない。
臨床家にとっては、母親、父親、娘自身に対する心理教育的なアプローチの材料を、惜しみなく処方箋として示してある点が非常に有益になろう。
その箇所は、現に悩んでいる人にとっても、温かな励ましの言葉、生き延びるためのヒントになることは間違いない。

ただ、忘れずにおきたいことは、母もまた誰かの娘であったという、そのことのような気がする。
だから、母とも娘同士という立場で連帯ができる希望を持っている。女同士という立場で連帯することがなかったとは言えないのだし。
重たいのは重たいけど、まあ、しょうがないさ。

2009.04.20

母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか

母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)  斎藤 環 2008 日本放送出版協会

精神分析を始めとする心理学系の本を読んでいて、わかってないなぁと冷ややかな笑みを浮かべたことはないだろうか。
いや、小説でもいい。男性による女性の心理の描写の限界、心理の理解の限界、あるいは、ファンタジーの在り処を感じて、冷笑か溜め息が出ることがある。

本書は、ひきこもりを専門とする臨床家である斎藤環が、ひきこもり症例の男女差から出発して、「母-娘」関係は、「母-息子」関係とは異なる様相を持つこと、ましてや、「父-娘」関係、「父-息子」関係とも異なっていることに問題意識をもって語り始める。
男性が、「母-娘」関係の特異性に注目することは少ない。なぜならば、男性は「母ー娘」関係の中には存在しないからであり、無関係だからこそ気づかない。にもかかわらず、「母-息子」関係、「父-娘」関係、「父-息子」関係の単純さとは比較にもならないほど、「母-娘」関係は複雑に入り組んでいる。
あったりまえじゃーん。と言えるのは、おそらく、女性の読み手であろう。
その女性にとってはおそらく日常的に体験する、娘の立場から母親との間に巻き込まれる愛憎、あるいは、母親として娘との間で繰り広げられる愛憎に、どのように男性が理論的に切迫するかが、本書の読みどころの一つではないだろうか。

著者が男性である以上、自分自身の感覚や体験から語ることはできない。
材料となるのは、ひきこもりや摂食障害といった母-娘関係が重要なファクターになりやすい症例や、新聞や雑誌の投書、事件報道、あるいは、小説や少女マンガ、映画など、多彩である。
よしながふみ『愛すべき娘たち』が使われているのは、ファンとして嬉しい。萩尾望都『イグアナの娘』や角田光代『マザコン』、川上未映子『乳と卵』など。物語の読み解きでは大塚英志がワンクッションとして入るところも、私にはとっつきやすかった。
それらの材料を縦横に組み合わせながら、母による不可避的な支配と娘は戦っていることを浮き彫りにする。
母の呪縛はこれまでも様々な切り口で部分的に理論化されてきたことを俯瞰し、しかも母親側も女性性と母性という困難さを抱え込まされていることをまで指摘する。ルソー以来の、社会制度に組み込まれた母性である。
不遜かもしれないが、この中では、私が普段書き散らかしていることが整理されているような気がして、私もあながち間違ったことを言ってないなぁ、と思ったりなんだり。

著者がさすがであるのは、安易な解決法を提示しないところだ。
そもそも、治療すべき課題であるのか?と極めて慎重な姿勢を見せる。とても冷静で好感が持てる。たとえ、母が娘に、娘が母に困っていても、それが医療に持ち込む問題であるかどうか、個々に判断する必要がある。

娘が母親を殺すことなく生き延びることは許されないのだろうか。
私自身を思う。私の母を思う。非常に母子密着しがちの親子関係だと思う。一人っ子として、理想の娘役と同時に息子役を背負わされていると感じ、家を出て過ごしたこともあった。再び同居してからは喧嘩も多い毎日があったが、今になって、私は同居しながら結構好き勝手に生活できるようになった。
おそらく母が死んだとき、私は孤独感と解放感の両方を味わうだろう。そうしてみると、父親よりも、やはり、母親のほうが、私の人生におけるインパクトが大きい。
ほどよい母親であることは難しいと言われる。同じように、ほどよい娘であることも難しい。しかし、そうしてお互いにほどよい距離を探していくほか、ない。
近すぎれば束縛でしかないものも、緩めれば絆になる。断ち切ればよいとは限らぬ。

タイトル買いした本であるが、手元に届いて見ると、表紙のイラストはよしながふみだ。本屋で見かけていたら、ジャケ買いしていたかもしれないなぁ。
母子関係とは直接関係ないトピックとして、オタク文化の男女比較なんてあたりも面白かった。
ある程度の心理学になじみがないとわかりづらい箇所もあるかもしれないが、女性のみならず、男性とも共有したいトピックだと思った。

2009.04.19

愛すべき娘たち

買ったきっかけ:
初めて読んだ、よしなが作品。
雑誌でこのうちの一話を読み、続きを追い、今はゆっくりよしなが作品を集めている。

感想:
斎藤環『母は娘の人生を支配する』に、このマンガが題材として出てきて、読み直してみた。
オムニバス形式で、何人もの愛すべき娘たちが登場し、そこかしこで涙があふれた。
登場人物それぞれの不器用さが愛情をもって描かれている。その不器用さと、切実さや真剣さが愛しくなる。
愛しくて、愛しくて、涙が出た。かつての自分、かつての友達、今の自分、今の友達、あるいは母親、いつかどこかで出会い、すれ違った女性たちを思って。
絵の描写も好きだが、言葉の一つ一つが胸に響く。記憶に残る言葉が多い。確かに、分かっていることと、許せることと、愛せることは違う。
この錯綜したしがらみを束縛として窮屈さを感じることがあろうとも、確かにその絆に結び繋がれながら生きていることが、この作品を通じて温かく受けとめられるような気がした。

おすすめポイント:
娘から母へ、母から娘へ。愛しいとは言い切れないこともある。けれど、愛すべき不完全な女達の物語。
図式化されていたとしても、だからこそあえて、読み手はそこかしこに自分を見出すことができるのではないだろうか。
まったく断絶を感じていた相手とも、女というだけでかすかに通じ合うようなことがあるよね、と頷きたくなるリアルさがあった。
もしかしたら、男性同士にもあるのかもしれないし、人間同士にあるものかもしれないけれど、女である身には女性同士のゆるやかな連帯感を鮮やかに印象深く描き出した作者に、こころからの拍手を。
そこに、愛がなかったとは言えないと、知ることができるから。(2006/6/7)

愛すべき娘たち (Jets comics)

著者:よしなが ふみ

愛すべき娘たち (Jets comics)

2008.05.30

少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人  桜庭一樹 2006 角川書店

少女を描くことにかけては抜群の桜庭一樹が、どのように「白雪姫」を解題するか。
タニス・リー『鏡の森』と読み比べてみたいと思った。読み終えた今の感想では、読み返すならこっち、かな。
断然の読みやすさ、ユーモア、そして、風土。モチーフは匂うごとくに漂うだけで、桜庭らしいオリジナルの物語になっている。
舞台は、旭川。やはり雪の降る土地柄でなくては。

短編「辻斬りのように」は、私が最初に読んだ桜庭の文章だったが、痛々しくて少し苦手に感じた。それでしばらく桜庭作品そのものを避けていた。
今回、読み直してみると、やはり痛々しい。これが、桜庭の描く、アルパツィア。
強烈な個性があるわけではない。平凡で、可愛そうな女。愛する人は愛してはいけない人だったから、呪いがかかった。もの狂い。

いんらんな母から生まれた子どもは美少女であり、平凡ではなかった。その顔が、母の罪を露呈する。
美少女である七竈の鏡は、雪風という同じ顔の少年である。鏡がこうなるか!
七竈には、父親も、継母もいない。ただ、いんらんの母と物静かな祖父と、犬がいるだけ。
その美しいかんばせが呪いである。王子しか釣り合わない美貌。しかし、日本のどこに王子がいようか。誰とも見合わぬ、非凡さという呪い。
成就せぬ恋という呪い。

かつて私は早く年を取りたかった。女でなくなればいいと思っていた。
あるいは、誰も知り合いのいない場所に行くことを好んでいた。私が私でなくなる開放感が必要だった。
そんな時代を思い出してみたけれども、気持ちはどこか母親である優奈のほうに惹かれた。
十代の少女に自分を重ね合わせるのは、ちょっと難しくなってきたみたい。やばい。……いや、当然か。

平凡であることの苦しみ。好きな人に近づく勇気を出せない苦しみ。
好きだった。好きだった。好きだった。どうしようもないほど。
忘れられない。心の中の特別な場所を捧げた、その人のことは。
若くて美しくて、今よりは少しでもマシな自分で、手に入れたかった。
綺麗で清潔で純粋なまま。恋心が老いて傷んで腐る前に。
私があなたを穢すことなく。しかし、手に入るなら伸ばさずにはいられず……。

このどろどろ具合が、同じもの狂いの覚えがある昭和の女の心に響いた。
あと、昭和の男がいい。確かにいい。うむうむ。
桜庭流の母と娘というテーマの描き方は、よしながふみを読んだときのような、そうなのよ!と言いたくなる感覚があった。
男性には見せず、女性だけで共有しておきたくなる作品だと思う。
最後に、名言を引用しておく。一時期よりも母をゆるせるようになった私は、それだけ年を取ったということなんだろう。

 ***

Photo 女の人生ってのはね、母をゆるす、ゆるさないの長い旅なのさ。ある瞬間は、ゆるせる気がする。ある瞬間は、まだまだゆるせない気がする。大人の女たちは、だいたい、そうさ。(pp.267-268)

七竈の花の香りをかぎました。甘い、甘い香りでした。ねっとりと濃厚な、ディオールの香水のような香りでした。

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