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香桑の近況

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**母と娘の間**

2020.10.20

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野千鶴子・田房永子 2019 大和書房

経験を表現する言葉のメニューはできるだけ多いほうがいい。(中略)あらかじめ言葉を知らないことは表現できない。(中略)感情って言語化されないと経験にならないのよ。(p.147)

教育や読書がもたらすものであり、カウンセリングでしていることをすぱーんと気持ちよく表現してもらった。そういう一文に出会った本だ。

フェミニズムという言葉に対して、世代によって、反応が異なる。
その世代によって体験していることが違うことを明示するところから、この本はスタートする。
時代によって教育(社会+学校+家庭のすべての教育)が異なり、教育に反映されている社会の価値観が世代によって異なる。
そこが、対人援助職をしている私が社会学と近現代史を学ぶ必要を感じるポイントだ。
臨床心理学が個人の体験、個人の内側に問題の端緒を掘り下げようとするのに対して、社会学は個人を成り立たせている社会と時代の文脈を整理して理解しようとするものだ。その世代ごとの変化を、冒頭から簡潔に表で示している本だからこそ、同業者の人に手に取ってほしいと思いながら読んだ。
そこをわかっていないと、なぜ、団塊世代の女性が母親になった時に毒親という名称を与えられた存在になりがちなのか、ロスジェネ世代との桎梏が生じているのか、ロスジェネ世代が結婚率・出生率が低下しているのか、過剰に個人の体験、個人の責任に落とし込んでしまいかねない。

私は対談や対話形式で書かれているものはあまり得意ではないのだけれども、この本は上野千鶴子さんと田房永子さんという「親子ほどに」年齢の隔たる二人の対談を文字に起こしたものだ。
会話だからこその活き活きとして、活発な論の展開が軽快で読みやすく、横でおしゃべりを眺めているような気分になる。
素晴らしいのは、上野さんの問いかけ方だ。田房さんに立ち止まり、振り返り、新たな視点や考えを引き出すような、そういう問いかけを何度もなさっている。それに、褒めることも忘れない。
更に、上野さんは必ず論拠や引用もとを示す。上野さんは「学恩」という言葉でその流儀を表現していたが、誰がそのことを論じていたか、誰がその言葉を発明したか、上野さんの知識の深さや広さと誠実さに感銘を受けた。
さすが、長年、研究されてきた方であり、教育されてきた方だけあると思った。そういう上野さんと話すことがあるとしたらこんな感じなのかしら?という疑似体験をさせてもらった気分。

その上野さんが、田房さんとの対話で、断絶を何度か確認する場面も印象的だった。ほんとに知らないの?と確認しながら、ウーマンリブやフェミニズムの功績について語り、下の世代に語り継がれていないことに驚きを示す様子が、ひどく印象的だった。
私自身は田房さんより少し年上で、大学で学び機会もあったものだから、一緒になって、え?知らないの?と思う部分と、私も知らなかったという部分の両方があった。

Jene Roland Martinが『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』において、女性が受けてきた教育の変遷と、その変遷がもたらす世代ごとの分断を明らかにしている。
男女の平等化という名目のもとに、女性の教育の男性化がなされた1960年代、そこで優秀な成績をおさめたはずの女性たちがどういう人生を送ったかを示したBarbara A. Karrの『才女考』のインパクトも大きかった。
どちらも、私が90年代に読んだ本である。大学の授業で、フェミズムを学ぶ機会があり、上野千鶴子さんの著書にも触れた頃である。
フェミニズムといっても色々な考え方があり、Andrea Rita Dworkinの『インターコース:性的行為の政治学』はラジカルでスリリングで面白かったのだけど、この本を教科書にした講義での男性の友人たちの反発と不満の大きさに驚いたことも忘れられない。
その反発と不満は、田嶋陽子さんを嘲笑することでしか優位性を示せなかった人たちの反応に通底していたと、今も思う。

そういう90年代の空気を思い出させてくれる点で懐かしさもあったし、それ以前の学生運動の頃のリブ運動についてを教えてくれる本でもあったし、今になって語られるようになったミソジニーとホモソーシャルな社会という視点と、これからのことを考えさせてくれる本でもある。
男性にも女性にも、支援者にも当事者にも、読んでもらいたい本である。

ここからは、読後、何週間経っても忘れられないことを書こうと思う。
この本が問題だったのではなく、この本に書かれていた社会のこと、女性が受けてきた待遇を知ることで、たまらない気持ちになったのだ。

それは「上野さんがフェミニストになったワケ」という見出しのついた大学闘争についての話で、男性が女性を用途別使い分けをしてきたと指摘する部分だ。
米津知子さんの「(大学闘争で)自分はバリケードの中でメイクもせずラフな格好で男と一緒に闘っていたのに、その男たちの彼女になるのはお化粧して身ぎれいした女の子だった」という言葉から始まる。
これを読んだ時にぱっと思い出したのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』だ。第二次世界大戦に従軍したロシアの女性たちのインタビューであるが、まったく同じようなことが語られていたことを思い出した。まったく同じことを繰り返している。
一緒に闘う女性は「ゲバルト・ローザ」。恋人には都合のいい耐える女、待つ女である「救対(救援対策)の天使」。そして、もう一つの類型が、「慰安婦」もしくは「公衆便所」。

当時、性的にアクティブな女の子たちを、男たちは「公衆便所」って読んでいたのね。凄まじい侮蔑の言葉でしょ。同志の女につけこみながら、陰で笑い者にしてたの。(p.67)

この侮蔑的な表現に触れたことは初めてではないが、この文脈が私にはひどくこたえて、ひどく引きずることとなった。
旧来の伝統的な価値観に対する抵抗の運動をしていたはずの男性たちの振る舞いが、そのまま「家父長的なオヤジと同じふるまい」(p.66)であった。
「運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった」(p.67)という上野さんの言葉が、私の骨身に染みているものに響いたのだと思う。
打ちのめされるような重たい気分が、ずっと尾を引いている。私の気力を根こそぎ奪うような、恨みと諦めが入り混じった重たいものだ。かつては怒りであったが、いまはもうその力を持ち続けることも難しい。
一度は期待し、信じた分だけ、つらかっただろうと、思い描いてしまうのだ。

性的なアクティブさを獲得することは、女性にとって主体性の獲得のはずだった。その女性たちは、自分たちがより幸せに充足して生きられるようにあがいていたように思うのだ。けっして、背後で侮蔑されるために生きていたわけではないのに。
今なお、この侮蔑的な表現はネットの中で見かけることがあるものだし、表現は違っていたとしてもこのような類型化=使い分けをされているように感じることがある。いや、ゲバルト・ローザなんて、ほとんど望まれてもいなんじゃないかとすら感じることもある。
今現在を生きている若い女性たちのなかには、ただ幸せになりたい思いから、異性と知り合い、性交渉をすることで、結局は同じ道をたどっている人たちがいる。
彼女たちの顔が思い浮かんで、私はますます悲しくなったのだと思う。ただ幸せになりたいだけなのに。なんでこんな目にあわねばならないのか。

私の中にもミソジニーはある。それは間違いない。
上野さんは「自分の中にあるミソジニーと闘い続けてきた人をフェミニストと呼ぶ」(p.183)、「フェミニズムは女にとって、自分と和解するための闘いだ」(p.184)と定義する。
そして、「フェミニストは自己申告概念だから、そう名乗った人がフェミなのよ」(p.185)とも。
だとしたら、もう一度、腹が立つことには腹を立て、それは違うと言い続ける力を取り戻していきたい。

2019.04.01

エンド オブ スカイ

雪野紗衣 2019年4月22日発売予定 講談社

普通であること。正常であること。
それは、現代の日本において、必要以上に重視されている価値観のように思う。
過剰に縛られているのではないかとすら、思う。
もはや、呪いのように。

『エンド オブ スカイ』は雪野紗衣さんが書いたということで、読ませていただきたいと思った。
あの『彩雲国物語』とは、テイストが違うと思う人もいるかもしれない。特に序盤は私も文章の中の雪野さんらしさを探したほど、イメージが違う。
だが、中盤あたりから、ぐいぐいと力強く、主人公ヒナの背中を押してくる。
この力強さは、まぎれもなく、雪野さんのフレーバーを感じた。
それは不在の母親との母子葛藤であり、苦境を笑い飛ばしながらたくましく生き抜く人物像だったり、思わず噴き出してしまうほど愉快で優秀なだめな人物像だったり……。

未来を舞台にして、だれもが遺伝子レベルで設計された正常さを持ち得るようになった世界で、主人公ヒナは周りからどこか浮いており、常に自分は正常であるのだろうかと問い続けている。
彼女が出会った少年との物語は、近未来SFであり、不思議なロマンスになっている。
途中で似ていると思ったのは名作『夏への扉』だったが、読み終えてから思うのは、「天女の羽衣」であり、「浦島太郎」であり、トヨタマヒメの物語であり。
結ばれてはならない二人が結ばれる、古い古い神話やおとぎ話が思い出されてならなかった。
SFのなかに異類婚姻譚が生き返り、その形式を踏襲しながら、人とは何かをもう一度問いかけてくる物語なのだ。

人が違って見えるのは普通だが、それを「普通じゃない」と思うことは変なのだ。

作者は舞台を未来にしているが、こめられたメッセージは現在を生きる人に向けてのものに相違ない。
普通ってなに。正常ってなに。人間ってなに。幸福ってなに。
持って生まれた性別や民族で区別し、差別することの愚かさを指摘し、考えるようにうながす。
問題ってなに。障害ってなに。「障害がある」ってなに。
障害があることを人の優劣と勘違いするような犯罪が起きることもあるが、すべての人は「必要があって今ここにいる」。
人は違っていないといけない。多様性という生存戦略をとっくの昔に選んだ生き物なのだから。そういう観点から、人と違うことを堂々と肯定してみせるくだりは胸が熱くなった。

そして、人はいつか死ななくてはいけない。
死ぬことの意味まで見通しながら、生きることの意味を手繰り寄せる。
様々なヘイトに対する凛とした反論であると同時に、ありとあらゆる生を肯定し、今を生きのびようと力強く応援する物語。
もしかしたら、あの物語の仙人たちの物語であり、解答ではないのだろうか。
まぎれもなく、これは雪野紗衣さんらしい物語だと思った。

われらに生まれた理由などありはしない。ちゃんと死んで次と交代すれば、どんな風に生きたって遺伝子は気にしないのさ。子孫を残しても残さなくても、次に自分と違う存在が歩いてりゃ、それで世はこともなしだ。

#エンドオブスカイ #NetGalleyJP

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2016.04.06

彩雲国秘抄:骸骨を乞う(上・下)

雪乃紗衣 2016 角川文庫

今回、文庫化されるにあたり、書下ろしが添えられていると知って購入した。
4年前、単行本で読んだ時には、「月の見えない裏側」のような物語だと思った。
近所の方が亡くなられてお通夜の後に一気に読んだせいか、それとも、22年もの間そばを暖めてくれた猫が風になった日に前後して読んだせいか、単行本の時以上に、泣いて泣いてたまらなかった。
上巻に収められた鄭悠舜の「雪の骨」と旺季の「霜の躯」。どちらにしても、自分が年齢を重ねるごとに、味わいが深くなった気がする。
下巻には凌晏樹の「北風の仮面」、紅秀麗と紫劉輝の短い結婚生活を描く「氷の心臓」、そして、今回の角川文庫版にのみ収録された書下ろしが、紫劉輝の最期と成長した娘とのかかわりを描く「秘話冬の華」だ。そうだ、「悪夢の国試組」も入っていた。
レビューを見ていると、今回の文庫の売り方だとか、単行本の時もであるが内容についてとか、賛否両論ではある。
こんなにいい物語なのにもったいない。これは大人の物語だ。
私は読めてよかったと思っている。心を揺さぶられた物語だ。
登場人物も大人になった。それは、著者も大人になったということではないか。

何度も出てくるのは、別れの言葉だ。
人生から去り逝く時。それが、彼らにとっては主と仰いだ人の御前を辞する時である。
だからこそ、骸骨を乞うことは、辞職の意味を指し示すのであるが、そこに、著者はいくつもの意味を込めているかのように感じる。
魂までが骸骨の形をしていた戩華であるとか、ガラガラと踏み潰される骸骨の山であるとか。
その積み重なった一番の奥に、著者自身が読み手に幕引きを乞うているように感じられた。

以前も「氷の心臓」でたまらず泣いたが、読み直してみると、これは母親からの許しの物語だ。
ふりかえってみると、彩雲国物語は母親不在の物語だと思う。
母親を早くに失くした秀麗や静蘭。直前までの戦乱の時代の影響で、身元不明の孤児であった絳攸や、一族郎党を殺された皇毅や悠舜といった人物も多い。母親殺しをしているものも少なくない。
秀麗は自分を産んだから母親が死んだと思い込んでいた点で、自ら積極的に母親殺しの罪悪感を背負っていた。
対して、劉輝は母親殺しの記憶を抑圧し、罪悪感を解離することで生き延びてきた人物である。

彼らが接する大官達はおおむね男性ばかりの世界であることから、父性には事欠かない。
戩華の父性はわかりづらいとしても、旺季や邵可の父性はわかりやすいであろう。したがって、皇毅という上司も、いささか父性的な役回りをとることになる。
政治という仕事についての領域であれば、そういった父子関係を中心に物語が回っていくことに問題はない。

本編に登場する強烈な大人の女性達は、胡蝶といえば妓女という働く女性、瑠花は縹家を背負って暗躍しまくるし、百合も紅家当主の妻であるが母親ではないしと、おおむね働く女性として登場する。
彼女達は恋はする。働きもする。子どもを抱えながら、家庭と仕事の両立ができていそうに見えるのは、碧家の歌梨と、後の柴凛ぐらいではないか。
女性が母親として描かれる時には、子煩悩すぎて我を忘れたり、子どもよりも夫を愛してすぎて自滅するような危険な存在にスライドしてしまう。それが鈴蘭の君だったり、第六后妃だったりする。
母親としての生き方と働く女性としての生き方のバランスをうまくとれずに、家庭よりも仕事を優先させているような女性のほうが物語世界では目立っているように思うのだ。

主人公からして、秀麗のように魅力的な男性に囲まれながら、学業や仕事で達成していくライフコースを描き出すが、秀麗自身が結婚と仕事の二者択一を迫られて困り果てるのが本編の大まかな流れである。
秀麗においては、手本とする成熟した女性のモデルが欠如しているのであるから、父親を成長のお手本として、就労すなわち仕官へと達成の目標を置くようになることは当然の帰結である。
もっとも、彼女は母性的な女性性をも有しており、希代の世話焼きである。甘えることが致命的にへたくそながんばりやさんでもある。
これはルビー文庫という若い女性向けのラインアップにおいて呈示する女性の成熟のイメージが結婚出産を理想としていないことを示している。
そうなると、母子密着から生じる分離不安や母子葛藤は生じにくい。むしろ、母親の不在に基づく孤独、基盤が欠如していることから生じる不信や不安の物語として内的な世界は展開してきたのだ。

これらのことを踏まえると、彩雲国物語というのは、母親不在の世界で、母親殺しを背負った二人が出会う物語であったと言い換えられる。
秀麗のほうは物語を通じて成長していき、母親である薔薇姫と薔薇姫の記憶を持つ人々、あるいは数々の大人の女性達との触れ合いを通じて、母親殺しの罪悪感を荷卸することができる。
しかし、劉輝は母親殺しの記憶を抑圧していることから、罪悪感にさいなまれることもなければ、許されることもなかった。

そして、二人が父と母になる日が来た時、それはやってくる。
山家に住む白髪の老婆は、戦争ですべての子どもを失ったことで正気も失った女性として描かれる。
かつて劉輝の首を絞めたこともある女性が、出産を控えた秀麗と劉輝の前にひょっこりと現れ、劉輝にかつての暴言や暴挙を謝罪し、秀麗にお守りを手渡す。
器量よしの娘の幼い時の晴れ着の布で作ったお守り。仙女である薔薇姫よりも、もっと泥臭くて、やぼったくて、でもきっと、双方同じように温かい母親の愛情が秀麗と重華に注がれる。
物語を読んでいけば、山家の老婆は劉輝の母親の母親であることが推察される。
秀麗の娘に託されたお守りは、秀麗の姑とその母親達からの贈り物であり、そういう形で、母親達は息子夫婦に愛情と謝罪とを伝えたのだ。
老婆とその娘は、劉輝に謝罪を乞う形で、劉輝のことをも許したに違いない。明確に語られてはいないけれども、劉輝が池に手向けた花に応じているようにも読める。
戦争の最大の被害者である子どもを亡くした母親一般が、新たな王を受容し、施政者と民が和解した瞬間として読み解くこともできるが、母親不在だった物語の最後の最後に、母親が訪れた。その瞬間だったように思う。
これは四世代に渡る母子の再会であり、謝罪であり、赦免である。
和解であり、祝福である。

そして、最後に、秀麗の忘れ形見である一人娘の重華が、劉輝の最後の家出を共にする。
どちらがどちらのお供だったかは横に置き、重華が劉輝を許す。劉輝の人生を許す。劉輝の存在を許す。
父親を見て育ったところが秀麗そっくりである。きっと見かけと性格は、秀麗の母親にそっくりなんだろうけれども。
こうして、世界からは大人たちが去り、大人になった者達も去っていく。

彩雲国物語は8人の仙の集う世界としてスタートしたのではないかと最初は思っていた。
読み勧めていくうちに、仙の存在感はますます希薄になり、誰がどの色の仙かも明確に語られずにいた。
本編の最後、これは人の世の物語になったと感じた。作者は人の世界の物語として閉じることをどこかの時点で選んだのだと思った。
劉輝の世は、8仙が打ち揃っても誰も気づかない、人だけで治めたからこその最上治。
仙たちは不在になったわけではないけれども、そこが仙に頼り切らずに人が自分の力でなんとかしようと頑張ったことが大事だったのだと思う。

娘の世は娘のものであり、別の物語。
物語は閉じられても、世界は続いてくのだろう。

2014.09.10

明日の子供たち

有川 浩 2014 幻冬舎

舞台は児童養護施設。
そこで生活しているからといって、可哀想だと思わないでほしい。
そう胸をはる高校生女子の言葉に、戸惑いながらへこみながら成長していく新人スタッフが主人公。

よく取材してあるのだと思う。
現場でありがちな心のすれ違い、言葉の行き違い。
スタッフを志しそうな動機、心折れてしまいがちな人のタイプ、やっていける人との違い。生ぬるく甘ったるいボランタリー精神ではなくて、職業としてのプロ意識がほしい。
支援の限界、そもそもの施設の目標、現実の壁。義務教育が終わった時点で、高校に進学できなければ、施設を出て就労することが求められる。まったはない。
不自由はあろう。でも、子ども達だってばかではない。子ども達なりに現実を見て、学んで、考えている。

だってさ。
これだけ虐待死のニュースがあるんだよ?
それなのに、どうして、実の両親と生活することだけ幸せだなんて言えるのかな。
どうして、そんなに無邪気で、無責任に、見当違いの同情や正義を振りかざせるのだろう。
相手を可哀想だと決め付けることは、時には上から目線だ。対岸の火事だ。遠見の見物だ。相手を可哀想だと思う自分の優しさに陶酔する響きと、自分の優位を確認する作業が潜むことがある。そうじゃないこともある。
誰も、その人の親ならばできた以上に愛情を注ぐことはかなわなくても、暴力や苦痛の中に子どもを無理に押し込むことはないんじゃないのかな。
残念だけど、離れて初めて平和でいられる関係もあると思うのだ。

こういうシビアな社会問題を扱うとき、過度に感傷的にならない有川さんの語り口に好感を持つ。
決してお涙頂戴にせず、現実の厳しさを織り交ぜながら、叱咤激励と問題提起を同時に行う。
児童臨床や児童福祉に関わる人が読んでも、違和感は少ないと思われる。
お涙頂戴ではないのだけれども、最後は泣いてしまったけどね。

可哀想の言葉が、単なる上から目線の同情ではなく、がんばっている子がいるんだなぁという驚きや励ましとして響けばいいのだけど。
悪いことばかりじゃなかった、嫌なことばかりじゃなかった、自分を思ってくれた大人もいたんだという体験が、その子の明日を支える糧になるといいな。
施設=可哀想と決めてかかっている人の目に、手にとまればいいな。

2012.01.03

マザコン

角田光代 2007 集英社

母のことは好きだ。
だが、どうしても、いらいらしたり、もやもやとする。
その割り切れなさをなんと表せば伝わるのだろうか。

娘も、息子も、母親を求めている。
幼い頃、自分を支え、包み、守っていた、揺るぎのない環境としての母親。
母親だけが、自分を丸ごと受け止めてくれる。
自分をすべて理解してくれようとするだろう。
そんな幻想を、娘も、息子も、持っている。
自分をすべて理解してほしい。
そんな欲望を、娘も、息子も、持っている。

だから、母親が幻想通りではなくなったときに、幻滅する。
母親が家を去ったとき。母親が老いたとき。母親が死んだとき。母親の、自分が見てきた母親として以外の顔を見せたとき。
幻滅は、不可避だ。現実を知らなかったのは子ども達のほうなのだから。
この本は短編集であり、それぞれの娘や息子達が、幻滅を繰り返す。

と、同時に、娘は母親の支配に身をよじる。
その支配については、斎藤環『母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか』を読んでもらうといい。
『マザコン』のなかの「ふたり暮らし」が気になった人には特に勧めたくなる。
父親のことを考えるならば、全体を通じて存在感が希薄だ。
「パセリと温泉」の有様は、我が家の近い将来に思えて仕方ならず、ぞっとした。
この短編の父親の様子は、思わずに母親に読み聞かせたほど。我が家だけのことでないというのは、あまり慰めにならない。

この小説で面白かった点は、人が娘/息子として母親に自分を丸ごと理解してほしいと求める一方で、自分の恋人や伴侶といった同世代異性とは話が通じるわけがないと投げ出しているところだ。
むしろ、異性とのディスコミュニケーションがひどいからこそ、幻想の母親にコミュニケーションを期待してしまうのかもしれない。
しかし、結局は幻想は幻想に過ぎず、誰にも理解されないまま、一人に突き落とされるような落下感がつきまとった。
読むにつれて、徐々に気分が沈んでいった。

最後に収められている「初恋ツアー」は、母親がコミカルなだけではなく、母親への幻滅を感じた男を妻が母親であるかのように抱きとめようとするところに、ある種の希望と救済を用意している。
こんな風に振舞えれば、よかったのにね。また落ち込んだ。

2010.03.21

千年の祈り

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)  イーユン・リー 篠森ゆりこ(訳) 2007 新潮社

中国とアメリカ。
共産主義と資本主義。
中国と英語。
東と西の断絶を、その間隙に沈む言語で読む、不可思議。
この本も、母国語ではないからこそ書けた表現であり、遠くから母国を見つめなおす作業だ。
母国というのは、自分が生まれ育ち、知らず知らずに自らのうちに取り込んだ、文化であり歴史であり思想であり習慣であり精神である。
言葉の一つ一つが哲学であり、言語は思考である。異なる言語を得ることによって、初めて自分の思考を客体化することが可能になるのかもしれない。

この著者に興味を持ったのは、雑誌で読んだ短い文章だった。
本を手に入れるまでに時間が経ち、その文章も、掲載されていた雑誌のことも見失ってしまったが、その文章を読んだ時の、この人を読まなくてはいけないという強く湧きあがった義務感は憶えている。
入手してからまたしばらく経ち、目次を開くと「死を正しく語るには」というタイトルが見えた。
フォレスト『さりながら』の次に読むのにふさわしいのはこの本だと思った。
「不滅」とくればクンデラであるし、後書きを読めば、作者がクンデラはもちろん、サルトルやカミュ、ニーチェ、キルケゴールなどに親しんでおり、そのあたりもフォレストと通じるものを感じて、一つの流れを感じた。

10の短編のいくつかは中国を舞台にしており、いくつかはアメリカを舞台にしている。
面白いのは、中国を舞台にする短編には時制がない。もとの英文が、すべて現在形で書かれているのだろうか。中国語の素養がないので確かなことは知らないが、中国語には過去形がないようなことを聞いたことがあり、確かに漢文で過去形を習った憶えもないので、その時制のなさに中国を感じた。
勘違いだったら恥ずかしいけれども、欧米の言語は時制には口うるさい。その知識からすると、一つめの短編「あまりもの」は、首をかしげるぐらいに違和感があり、その違和感の理由に気付くのに間もなかった。
そして、10個目の短編「千年の祈り」では、「過去のことを語る習慣はない」(p.228)、「いつまでも思い出にふけっているのはよくない」(p.245)と語られる。
過去のことを語らぬならば、それが過去ではないとするならば、過去形はいらない。

この百年、中国は大きな変化をいくつも経た。近代史にうとい私は、それを十分に把握しているとは言えないが。長い長い皇帝の時代があり、

それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。(中略)やがて内戦。ついに共産主義の夜明けを迎えるのである。(pp.57-58、「不滅」)

文化大革命があり、あるいは、天安門事件があり、それは世代ごとに大きく文化が異なるような事態が起きていることを示す。
単なる親と子の断絶ではない。その断絶は、歴史による断絶。
あまりにも深く、どうしようもなく広く、越えようのない隔たりのゆえに、どの人もわかりあえない。
寂しくて、淋しくて、さびしくてさびしくてさびしくて、母親は底なしの愛に落ちる。
他方で、「誰かの子供でいるというのは、その立場からおりることのできない難しい仕事である」(p.176)。

隔たりがあるにもかかわらず縛られている、その感覚を、著者は繰り返し叫んでいるように感じた。
母であり、母国であり、母国語であり、そういう自分を作り上げているもの、切っても切り離せないなにものか。
愛していながら憎まずにはいられない。けれども切り捨てるのは難しい。
海を越えて、物理的に距離を置いて、どうにかこうにか、心理的にも距離を置けるようになったもの。
程よい距離を望む心は、離れたくはないがぶつかりたくもない、本当はうまく繋がっていたいという祈りではないだろうか。

2009.09.24

乳と卵

乳と卵  川上未映子 2008 文藝春秋

しんどいなぁ。
ほんま、しんどい。

小説を読むのがしんどかったというのもある。人の頭の中の意識の流れは、整理された一本道などではなく、目に入る刺激によってはたやすく横道に入ったり、複数の流れが同時進行的に入り乱れたりするもので、それをそのままなるべく忠実に書き起こそうとすると、非常に読みにくい文章になったりする、と思う。
これは、そういう文章で書かれている。時折、関西弁が混じりながら、その関西弁がまた自分の慣れ親しむものとは地域を異にするものだから違和感があったり、かといって標準語で統一されたらこの味が出ないのもわかりつつも、なんだか読みにくい。口調によって主人公らの気持ちの上下が伝わるのだけれども、頭の中で音声化しながら読んでみたりするとリズムが掴みにくくて、それがはまりこむのがしんどかった理由の一つ。

あくまでもそれは表面的なしんどさであって、本当にしんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。
この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。
うん。

登場人物は、わずか3人。短い小説である。
主人公の夏っちゃん(夏子?)の一人称に、姪の緑子の独言が差し込まれる。
東京に住む主人公のところに、姉である巻子と、巻子の娘である緑子が大阪からやってくる3日間を描いている。
彼女達が東京にやってきた目的は、巻子が豊胸を手術を受けるため。その母親に対して緘黙を保つようになった緑子は、生理が来ることを密かに恐れている。
この親子の断裂は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。

子を産み育てことで貧弱になった胸を取り戻そう(どころか立派にしよう)とする母親は、子を産み育てことがそもそもの間違いかであったかのように子の目には映り、性的な魅力を身につけることで生殖の過程と成果を否定して、母ではなく女たらんとしているかのように思われる。
しかし、それは一義的な見方であって、性的により魅力的な女性となることで自らの商品価値をあげ、なんとか娘を育てていきたいとする母としての意識が彼女を駆り立てていないとは言いきれないのであるが、娘には伝わっていない。

子は子で、深く自分を責めている。母に優しくしたいのにできない。もっと話したい、言わなくちゃいけない言葉があるのに、喋ろうとすると喧嘩になるから、沈黙を保つしかない。それは母を守ろうとする精一杯の身振りである。しかし、それは子が母が侮蔑し、拒絶する態度として目に映る。
生んだことで後悔するなら生まなければよかったのに。生んだことで苦労するなら生まなければよかったのに。「みんなが生まれこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも、悲しいも、何もかもがもとからないだもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、そしたら卵子と精子、みんながもうそれを合わせることをやめたらええと思う」(p.83)と、自らの体の中に生まれる前から仕組まれている卵子という生殖の、再生産の仕組みを、子は憎む。

この親子の姿を見て、主人公は二人は言葉が足りない、そこにいる自分も言葉が足りないと嘆く。
そもそも、乳房の復活は、母性の復興ではなかったのか。咳止めに頼っている場合じゃないのだ。まったく。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう親子の姿は、しかし、ものめずらしいとは思えない。
言葉が足りない。でも、そこに気持ちがないわけではないのだ。
足りないまでも言葉を紡ぐことができれば、気持ちを紡ぎなおすこともできるかもしれない。
縁を、より強いものへと紡ぎなおすことが。

それにしても、いつから身体はこんなにも「私」にとって他者になってしまったのだろう。
生まれ持って与えられたものであり、勝手に変化していく思い通りにならぬものであり、そこから抜け出ることの許されない器。
その器に与えられた社会的な女性性の問題は、併録された「あなたたちの恋愛は瀕死」でも繰り返される。
こちらもなかなか空恐ろしくなるような短編であり、この空恐ろしさを感じない女性は、おそらく若いか、美しいか、魅力的なのであろうと思ってみたり。
表題作が、斎藤環『母は娘の人生を支配する』の題材の一つにされていた。読んで、久々に、女ってしんどいよなぁ、と、ぼやきたくなった。

子どもを産むって大仕事で、育てるのはもっともっと大仕事で、勢いで取り組む人もいるやろうけど、勢いばかりでは乗り切れない年齢の私はやっぱりこんな思いをさせることがわかっている子を産んじゃいけないなぁ。

2009.08.17

感情教育

感情教育 (講談社文庫)  中山可穂 2002 講談社文庫

伊勢佐木町から始まる。
この冒頭の1ページを開いて、横浜に行く時の共に選んだ。
最後の夏を目指す、その道すがら。飛行機の中で少しでも休養を取るつもりにしていたことも忘れて、引き込まれるように読みふけった。

中山さんの小説は、繰り返し、繰り返し、姿を変えながら一つの恋愛が立ち現れる。
遁走曲のように、変奏曲のように、通底している作者の体験があるのだと思っている。
デビュー作を読んだ後は遠ざかり、最近の小説で読み直すようになったので、新しい作品ほど作者の体験が昇華されていることを感じるし、以前の作品ほど生々しさに満ちている感じがする。

この本は、作者が恋人とその子どものために書いた本だと、どれかの後書きで読んだ。『白い薔薇の淵まで』だったと思う。
だからこそ、後回しにしてきた。生々しいと、自分が凹んでしまいそうな気がして。
中山さんの文章は大好きなのだが、読むことにとてもエネルギーを要する。我が身と向き合う作業が、必ず伴うからだ。

産まれてすぐに母親に捨てられた那智の半生を描く、第一章「サマータイム」。
これだけでもお腹がいっぱいになりそうなぐらい、丹念に彼女の不幸を描く。この人生は、不幸あるいは不遇と言っていいだろう。
自分自身というものからは一生逃れられない、その無力感と閉塞感。ぐいぐいと自分の中の古い傷跡を押し開かされるような痛みを感じた。
男性から閉じ込められ、外界から切り離され、ふみにじられることしか、自分には許されないのか。その嘆きが、痛々しくてたまらなくなる。

第二章「夜と群がる星の波動」は理緒という、父親から捨てられた女性の半生を描く。
いきなり別の場所、別の人物の物語が始まり、那智は不在で、この本は短編集であったのかと目を疑った。
芝居が好きで、文筆家になって、同性愛というセクシュアリティを隠さずに生きている女性。
しばしば、作者が自分を投影させて書いているだろうと思われるタイプだ。
恋愛にのめりこんでは体調を崩す、このタイプの方に、私も自分を投影しやすかったりする。
しかも、大学の景色が自分の知っていたものに似ていて、いつも以上に親近感を持つことができた。私のときにはここまで華やかではなかったが。
章題は、サルバトーレ・クワジーモドという詩人の詩句の一節だそうだ。イメージの広がる、とても美しい言葉であるが、詩集はとても素晴らしいお値段なので手を出すのはためらわれる。

そして、第三章「ブルーライト・ヨコハマ」で、運命の二人がやっと出会う。
出会ってからはあっという間だった。前世から絆を結ばれた二人のように、出会ったときからしっくりと来るような二人の恋は駆け足だ。
しかし、理緒にとって、人妻であり、母親であり、もともと性的な関係で苦労をしてきた那智との恋は、波乱含みだった。
相手が既婚者であるだけで、望めないことが増えてしまう。そのあたりが一番切なくて、二人が死の海に臨んだときには、一緒になって魅入られてしまいそうになった気がする。

一晩でいい。共に抱き合いながら眠れたら。共に夜明けを迎えることができたら。たったそれだけのことが、許されない。
愛する人に、自分との恋愛の代償に、現在の家庭や生活を捨てろと言えるか。自分の幸福の代償に、現在の家庭や生活を捨てることはできるのか。
二者択一ではないはずのことが、二者択一であるかのように選択を迫られる。自分自身も、そうとしか事態を把握できないほど、疲れ果てて視野狭窄に陥ってしまうことがある。

作者は後書きに本書がその時の最高傑作と書いている。恋愛は終わっても、小説は残る。
美しい恋愛の記念碑として輝く本書は、恋愛小説としてももちろんであるが、被虐待からのサバイバーを描いた小説としても秀逸だと思った。

 ***

あなたと今後どうなるにせよ、あなたと出会えてよかった。人生はとても短い。愛せる人にめぐり会うのは奇跡のようなものだ。心を開いて、前を向いて、自分に正直に、生きていってください。(p.235)

2009.04.21

母が重くてたまらない:墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き  信田さよ子 2008 春秋社

そこに、愛はないのだろうか。
愛の名のもとに母親は支配や共依存(依存されることに依存すること)をしかけ、怒りと罪悪感、無理解と絶望が娘を雁字搦めにしている。
そこから逃げ出さなくてはならないのか。娘に母親から逃げ出せる可能性はあるのか。娘は母親をすでに内在化しているというのに。

小難しい本ではない。文字は大きめで、具体的な事例も多く、簡潔にさっくりと、密着する母と娘、不在をかこつ父が織りなす家族の問題と処方箋を描き出す。
どことなく殺伐とした気分になるのは、娘の愛されたいという願望と、母親の中にあるかもしれない無条件の承認や愛情の部分が、措かれているからだろうか。
斎藤環『母は娘の人生を支配する』と続けて読んだが、『母は娘の人生を支配する』は男性の目線から「母-娘」関係を発見しなおす。母から娘の束縛性を普遍的なものとして取り扱っているところから、病的とまではいえない母娘にまで開かれている。
それに対して、『母が重くてたまらない』は「母親」(現実であれ幻想であれ)の束縛に明らかに苦しんでいる女性に向けて描かれている。女性である著者が、豊富な臨床経験の中から紡ぎだす娘の苦悶は実感がこもっており、母親の欲望の醜さと戦略のあざとさに打ちのめされるのだ。
多少、光の当て方や切り口は異なっているかもしれないが、だからこそ、2冊をあわせて読むことは母と娘の問題への理解を深めることになるだろう。

私は墓守娘の資格は十分だ。そう思い、なんとも言えない共感をもってタイトル買いした。
一人っ子で独身。兄弟もおらず、夫もおらず、子どももおらず、夫もいないから養子も持てず、間違いなくうちの家系は私で途絶える。最後の墓守である。
何年も前のこと、母は私に「総領は親が死ぬまで家を出られないのは当たり前だ」と怒鳴った。その後、何度、結婚を促されても、私の心は冷えるようになった。どの口で、それを言う。母はそんな啖呵は切ったことがない、忘れたと言うが、私には決して忘れられない一言である。
逆に、何度も家を出ようと思った。家を出る手段として手っ取り早く結婚を思い浮かべないこともなかった。私は男運の無さに自信があるのも難点だった。
結局はあきらめて、そこそこ隷従しつつ、じわじわと自分の領域を増やしている。そんな母にわかってもらいたいとか、変わってもらいたいという願望はいつの間にかあきらめた。そんな母であっても嫌いではない。そして、そんな母と過ごせる時間も先が長くないと感じている。それなりに愛しく、私にとってもはあまりにも大きな存在である。
今になると時々、両親と老後や死後の後始末を話すことがある。あまりにも墓をどう守るかという話題が重くなると、私は言い返すことにしている。私は無縁仏決定なんだけど、と。私が両親の墓をどうにかすることができるとしても、それはあくまでも私の代までだ。私を看取り、弔う人間はいないのだが……。順番通りならね。

そういう墓を守る段になったときの孤独感を扱うことを期待していたので、少し物足りなさを感じているのかもしれない。
纏綿とした関係も、究極では死が救済となることもある。もちろん、折り合いがつくならそれに越したことはない。
臨床家にとっては、母親、父親、娘自身に対する心理教育的なアプローチの材料を、惜しみなく処方箋として示してある点が非常に有益になろう。
その箇所は、現に悩んでいる人にとっても、温かな励ましの言葉、生き延びるためのヒントになることは間違いない。

ただ、忘れずにおきたいことは、母もまた誰かの娘であったという、そのことのような気がする。
だから、母とも娘同士という立場で連帯ができる希望を持っている。女同士という立場で連帯することがなかったとは言えないのだし。
重たいのは重たいけど、まあ、しょうがないさ。

Here is something you can do.

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