三浦しをん 2007 新潮文庫
初めての性行為と、初めての性的な暴力と、どちらが忘れがたいものなのか。
あるいは、初めて好きになった人と。
私は、男性作家が女性を主人公にして書いた小説をあまり好まない。主人公の一人称であるなら、尚更である。
私は男性が女性の性を無邪気に語るとき、違和感を、嫌悪感すら抱くことがある。
その性的な眼差しに。男性による女性の性への、男性との性行為による快感という幻想に、吐気がする。
この小説を書いた人が男性なら、私は感嘆してうめき、敬服して涙したかもしれぬ。
三浦しをんが女性であることに安心しつつ、それでもなお、心の襞の合間にしまいこんでは紛らわせ、奥底から立ち上っては形にならぬ、繊細で敏感で曖昧なものを質感たっぷりに描く筆にうなった。
性的な嫌がらせや暴力は、本人の意思とは無関係に、強制的に、一方的に、人を性的な対象にする。
主体性を剥奪された体験は、その後の性的な生活のすべてに影を落とす。
ぬぐいきれない嫌悪感を、私は知っている。私の体験は書かない。いつどこで、どのような状況で何をされたか、忘れもしないことがある。その直後の友人との会話まで克明に憶えている。
学生の頃の通学電車の中で会う痴漢とか、職場の上司からのセクハラであるとか、知り合いとの望まぬ性行為であるとか、程度の差があったとしても。
女は性的な要求にさらされて当然であると笑う男は、去勢されても当然だと思う怒りを心の奥底に私は持つ。
「洪水のあとに」に、実際にやっちゃまずいとしても、心情の上では私は快哉を送る。それぐらい、腹立たしくも傷つく行為であると思い知れ。
だが、それが望んで体験した性行為であったとしても、たやすく捨て去られたときの絶望も、致命的な熱さを持つ。
会えないなんて、死ぬのと同じだ。捨て去られることは、殺されることに等しいと、何故、わからないのか。
すべてを投げ出す思いで差し出したものを、受け止める覚悟もなしに性欲の処理をした人よ。後で捨てるぐらいなら、何故、抱いたのか。
愛しい愛しい男に、最早、熱が伝わらぬ。声が届かぬ。求められないならば、息ができない。息することを望まない。この激しさを知れ。
悲痛な叫びが誰にも聞かれることなく、「地下を照らす光」に焼き尽くされる様の残酷さは、作者も手抜かりがない。
ジェンダーを引き受けることは、かくも難しい。いくつもの傷つきを経ながら、女であることも引き受けながら大人になるものだが、そこにどうにも馴染めなかったり、取り残された感じを持つこともあるだろう。
殉死するほどの恋の熱を感じることができない。我を賭して飛び込むこともできない。心に何か欠けているのではないかと不全感に捕われる。
図書館の中、校舎の屋上、通学路をはずれた雑木林に避難をしながら、想像上の友達
に庇護されながら、かすかな希望を祈らずにいられない。
レヴィナスの言う、それが許されないときに初めて希望となるような、災厄の箱から最後に残されたものを、「廃園の花守りは唄う」。
全面的に、無条件に、私を許して欲しい、認めて欲しい、愛して欲しいと。ジェンダーの問題は、存在の問題にシフトする。
那由多も、淑子も、翠も、他人ではない。
誰が自分に近いかといえば、誰もどこか自分に似ている。強いて言えば、どうしても周りと合わせられず、なおかつ、尊い出会いを胸に抱く翠か。
かつて通り過ぎた、女子校という場、思春期という季節を、懐かしく思い出す一冊となった。
ところどころに引かれる短歌もよかった。中島敦がここにも出てきて、再読したい気持ちが増した。
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