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香桑の近況

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**女子校にて**

2011.09.24

ガーデン・ロスト

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)  紅玉いづき 2010 メディアワークス文庫

この頃を描いた小説に弱い。
自分はとっくに通り過ぎてしまった日々。
なのに、まだ、心のどこかが疼いてしまう。
自分の中に幼稚さがまだ残っていて、反応する。
あの頃は、その幼稚さが許された。

4人の少女だけで成り立つ放送部。
それぞれの少女は、外見も個性も抱える問題も違う。
誰かに優しくしなければ誰にも愛されないと思い込むエカ。
愛玩用になりたいだけなのに食用にされることを受け入れているマル。
女性らしくない自分の容姿にひそかに引け目を持つオズ。
勉強ができなければ不幸であると母親の期待に応えようとするシバ。
誰もが、ただ、愛されたいだけなのに。

それぞれ違うのに、どの少女達にも自分を重ね合わせたくなる魅力がある。
おそらく、少女だったことのある人なら誰でも、どこかに自分を見出すのではないだろうか。
思い出せば気恥ずかしくてなるけれども、それはそれで愛しくないわけではない。
今よりも幼くて、今よりもつたなくて、今よりもひたむきで、今よりも敏感で、今よりも不安定で、今よりも狭量で。
今よりも、今よりも、今よりも、でも、今でも。

3年間をともにしてきた、その3年目の物語。
いつまでも続くかと思っていた日々が終わろうとする。
いつか失うことを避けられない日々だからこそ輝く。
今日も誰かの失われゆく楽園の日々が輝いていると嬉しい。

2008.11.10

姫百合たちの放課後

姫百合たちの放課後 (ハヤカワ文庫 JA モ 3-3)  森奈津子 2008 ハヤカワ文庫

なるべく軽い本が読みたくて、できれば笑える本が読みたくて。
というわけで、最近のお気に入りの森さん。ちょっとSF風味を期待して、ハヤカワ文庫を手に取った。
短編集につき、表題作の女子校風味のものもあれば、SF風味の偽史シリーズもあって、更には私小説風のものまであり、盛りだくさんだ。
発表が1995年から2002年のものとあり、単行本のあとがきと文庫版のあとがきを見比べると、著者をとりまく環境の変化が興味深い。

タイトルからして、パロが多いのだけれども、内容が予測できない。
「花と指」とか「2001年宇宙の足袋」とか「お面の告白」とか……。でも、このあたりが面白かったかな。
「ひとりあそびの青春」という私小説風のものは、途中まで本当に私小説だと思って読んでいたのだが、中学生の頃に友達に「新井素子のSF小説を貸してあげた」というくだりが出てきた。
この人もか!と思うと同時に、妙に納得した。あの頃のSFの空気が、森さんにも漂っているから、なんだか懐かしいのかもしれない。
というか、森さんのSF系のエロは、ナンセンスさが際立って、楽しいんだもん。

表紙はうっかり手に取りたいぐらい可愛いけれど、未成年は要注意。かも。

2008.10.28

先輩と私

先輩と私  森奈津子 2008 徳間書店

そんなわけで、息抜きの一冊。
違うものを抜くように、帯にて指示が入っているが……。
帯の指示はもう一つ。帰宅してから帯と表紙をはずすように書かれていた。
その通りにしてみて、納得。これは人前でははずしてはいけない。
表紙をはずして提供する図書館では、この本は書架に並ぶことがないだろうなぁ。

本屋さんにこの人の本が並んでいるのを珍しく思って、つい買っちゃった。
しばらくあの本屋さんには行けない気がする。

つまりは、今度もエロと笑いの絶妙な競演であり、それも女性ばかりのエロであり、多分にSM要素も入っているわけだ。
とはいえ、エロといっても、この作者が書くエロは、あっけからんとして、堂々としていて、なんだか陽性という感じ。
ささやかな恥じらいやつつしみはありつつも、性に伴う後ろ暗さを感じさせないところが、魅力なんじゃないかな。

ある女子大学にて、官能小説を極めんとする好色文学研究会と、私小説を出版するエロティック文学研究会が対立している。
この対立は、前者がオナニスト、後者がレズビアンという対立でもある。ただし、どちらも女性の性的解放を目指すところは共通である。
こういう設定でばかばかしいと、ひいちゃいけない。フェミニズム・ベーストのコメディなんだから。
小難しいことを考えずに読んでも十分に楽しいのだけど、考えてみても楽しい。いろんなものを逆手に取りながら、ネタにしてみせる手腕が見事なのだ。
ここではその小難しいことをいちいち書かないが、後書きを読んでも、主人公らの会話を見ても、著者の官能小説というものの理想が感じられるのも面白い。

とりあえず、目の前で自分の文章を朗読されることは、確かに立派な羞恥プレイだよなぁ。うむうむ。

2008.01.06

マリア様がみてる

マリア様がみてる (コバルト文庫) 今野緒雪 1998 集英社コバルト文庫

出来心で買ってしまった。
本屋さんで常に平置き。人気を保っているからには、きっと面白いんだろうと思って。
女子校ものって、つい読みたくなるのよね。

なんか、コバルト文庫だ。うん。安心したよ。
藤本ひとみのまんが家マリナのシリーズに女子校ものの巻があったなぁと、懐かしく思い出してしまったりした。
その中のいじめのシーンがえぐくって、そこだけいまだに忘れられなかったりする。

舞台のリリアナ学園は、聖ミカエル学園@『笑う大天使』はもちろんであるが、聖マリアナ学園@『青年のための読書クラブ』が思い出されて仕方がなかった。
名前も一文字しか変わらないし。きっと、このリリアナ学園のどっかに、ひっそりと読書クラブがあるはずだ、と、想像が止まらない。
私の頭の中で、これらの学園がすっかり地続き、隣りあわせに融合している。

赤白黄の薔薇様と呼ばれる3人を生徒会(山百合会と称す)としていただき、1対1の先輩後輩関係をスール(soeul=姉妹)制度として組み込む。
この組織が、この物語最大の工夫であり、百合だのなんだのと想像と風評をかきたてているらしい。
この一冊目を読む限り、別にこれぐらいどうってこともないんじゃないの?というぐらい健全な範囲だと思う。
思春期・青年期に同性の先輩に憧れるのは、むしろ、発達心理学上、正常と言ってもいいような気がするが。
それでも、多少の色眼鏡をかけて見ると、想像が膨らんでどうしようもなくなる人がいるのもわかるかも。

たかが高校生だという自覚のあるお嬢様たちが、ばたばたと走り回り、カレーをがっつりと食べるところがリアルに女子校らしい。
気楽に楽しむ本を読みたいときにはぴったり。
続きを読んでもいいな、と思ったぐらい。なかなか楽しかったです。

2007.12.11

青年のための読書クラブ

青年のための読書クラブ 桜庭一樹 2007 新潮社

あちこちのブログで気になった本だった。私も女子校出身者であり、きわめてマイナーな部活動を逃げ場にしていたものであるから。
桜庭一樹は「辻斬りのように」を読んだときに、あまりいい感じがしなかったので、手に取ってから逡巡。
ぱらぱらとページをめくるうちに、視界に飛び込んできたのが「緋文字」の文字。
ナサニエル・ホーソンとこんなところで出会うとは!

スカーレット・レターというと、デミ・ムーアが主演で映画化されたものとか、ビグズビーのリライト版も思い出すが、罪人の印である緋文字を胸につけられたヘスターの娘の名前はパールである。
聖マリアナ学園という女子校の100年の歴史、それも正史から削除された裏の歴史の断片を切り取った5つの短編は、赤い色に彩られている。
赤煉瓦、赤黒いドア、紅子、アザミ、蕾、薔薇色の顔、鉄色の髪、赤い香水瓶、赤毛、苺の香水、赤の扇子、ルージュ、ルビー、赤面、血、緋文字、紅はこべ、ブーゲンビリア、紅色金魚……。
同じく、黒にも隈取られているのであるが、この赤の色合いが際立つほど、面白い話であったと私は感じたのである。
逆に、第三章「奇妙な客人」の印象がぼんやりとしているのは、桃色の扇子しか持ち得なかったためとしておこう。実は、学生というものはすべて百代の過客であるのだが。

第一章「烏丸紅子恋愛事件」は、川原泉『大天使の乙女』を連想し、次にその映画版と重なり、目を疑った。大天使の乙女のなかに紛れ込んだ、毛色の変わった子羊のように肩身が狭い少女達。映画版では主人公が関西弁になっていたから、余計に似ている。
しかし、この作者、表現がえげつない。そこまでずけずけ言わなくてもいいじゃん……と涙目になりそうなほどである。
かといって、実態をヴェールにくるまれてスポイルされた良家の子女たる少女たちの群れの中に混じることができない青年達に対して、愛情がないわけではない。
群れの規格から外れた醜さは、むしろ、自我を形成し、他から己を屹立させる契機として働く。
タイトルからして、青年のためであり、少女のための読書クラブではない。

主人公達は、なぜ、「僕」という一人称を遣うのか。
それは、既に松村栄子『僕はかぐや姫』について書いたことと重なるため、ここでは繰り返さない。
ことに第四章「一番星」は、『僕はかぐや姫』をひどく連想させるものだった。

第二章「聖女マリアナ消失事件」では南瓜に反応し、第五章「ハビトゥス&プラティーク」では中野ブロードウェイに反応した。
南瓜といえば、松井幸子『日曜農園』。もしくは、トーナスカボチャラダムス『空想観光 カボチャドキヤ』。
中野ブロードウェイって、『サウス・バウンド』に出てきたビルだよね?

最後まで読み終えて、ふと、長野まゆみを思い出した。身体に対するえげつなさはないが、どことなく文章が似ている。男子校ヴァージョンを長野まゆみが書いたら、いろんな意味で対照的な一対になるだろうなあ。
時間がいくら流れ、時代が変わり、人々が入れ替わろうとも、さして変わらぬ人の性。
少しずつ姿を変えようとも、きっと連綿と続いていくのである。それは永遠の唐草模様のように。
この表紙が、不気味で怖かった……。

2007.09.02

笑う大天使

笑う大天使(ミカエル)プレミアム・エディション 2005年 日本

川原泉『笑う大天使』ほど、好きなマンガはない。
何度も何度も読み込んで、すっかり日にやけたコミックスを、大事に取っている。
女子校で過ごした生活を振り返るに、一番、しっくりくるのがこの世界だ。
吉田秋生『櫻の園』でもなく、三浦しをん『秘密の花園』でもない。
庶民の中の庶民、毛色の違った子羊は、お嬢様たちの中で、餌のいらない猫の飼い方を憶えた。

その映画化。

……うーん。やっぱり、難しいやね。
ハウステンボスでロケをしたのもよかったと思うし、ダミアンの声が太一郎さんというキャスティングも素晴らしい。
一臣さんは最初はイメージが違うかと思ったが、見慣れると、低めの声が魅力的でなかなかよい。
俊介さんも出番は少ないが、かっこいいじゃないか。孝にーちゃんもイメージに近い。
ロレンス先生は、もうちょっとブロンドのほうがよかったな。絵に近いキラキラの金髪か、イギリス人らしいアッシュブロンドも好みだけど。
1コマだけルドルフ氏も出てきたし、財務省をバックにとびかう御札にはカーラ氏のイラストが。ダミアンもよく動いていたし、猫かぶりの猫も可愛らしかった。麦チョコだって。黒いフェラーリは出てこなかったけど。

問題は、お嬢様がお嬢様らしくなかったこと。言葉遣いもさることながら、所作や表情が美しくない。制服や衣装が品がない。お嬢様が板についていないのである。やれやれ。
モブになると、毛色の違う子羊が浮いて見えない。チキンラーメンだけではインパクトが薄すぎるのよー。
ケンシロウ様オスカル様コロポックル様が出てきたときは嬉しかった。鉄腕アトムと超人ロックとウルトラマンはさすがに出てこなかった。ましてや、梵天丸や南斗水鳥拳やフランスの女王やらは。これは仕方あるまい。
作業服を着た労務者風の3人の女子高生によるアクション映画という、萌えをねらったんだか外したんだかわからない辺りに、力が入ってしまったようだ。

これはこれで、面白いんかいな?
殿下と史緒さんのストーリーはほろりとさせられたけどね。
川原作品に着目した点だけは評価する。(偉そう)

2007.05.10

僕はかぐや姫

松村栄子 1993 福武書店(文庫)

本屋で、タイトルに惹かれては手に取り、ぱらぱらと読んでは痛々しく、買うのはためらわれたまま読みおおせず、今となっては入手が難しそうな一冊。
三浦しをん『秘密の花園』を読んで、こんな小説があったことを思い出した。同じく女子高を舞台にしている点で、読み比べても面白いと思う。
『僕はかぐや姫』の主人公は17歳。彼女を含む文芸部員たちの一人称は「僕」。

女性しかいない中で生活するということことは、男性を意識しないでいいということであり、翻って女性らしくせずともいられることだ。
自分が内面化してきた女性像を意識しないでよいということであり、その内面化された女性像と自らをリンクさせないよいということである。
「僕」と名乗り、旧制高校やギムナジウムの幻想を再現するかのような文学的な会話をたしなむ主人公達は、男子校の文芸部と交流したときに、女性であることに直面せざるを得ない。

彼女たちは、ナマの「男性」になりたかったわけではない。マッチョな、男性らしいオスになりたかったわけではない。
かつて、フェミニズムが「Men(人類)はmen(男性)であって、womenはMenではない」と伝統的な文化は男女差別していると指弾していた表現を援用するならば、ただ人になろうとしていただけである。
家父長制の価値観下では、良妻賢母のような伝統的な意味合いで女性らしい女性は人ではないのだから、女性らしくなることを保留していたのだ。

しかし、教育を受けて自我を発達させることそれ自体が、「おばかで従順でだから可愛らしい弱者」になることと二律背反を起こす。
成長して女性らしさを引き受けるためには、性化されずに保ってきた自分の傷つきを味わわなくてはならない。性化されるという、傷つきだ。対象化され、身体化される、「される」という体験。
それをふまえて更に、自分自身を立ち上げて行くことは可能なのだと思うけれども、性的に未分化な少年から女性になるときのためらいをよく描いた小説だった。
女性としてのアイデンティティ、セクシュアリティ、ジェンダーは、かくも息苦しいものであった。
この小説は80年代を反映しているが、この息苦しさを今も味わっている人もいるのではないか。

今になって、きちんと読んでみればよかった、読んでみたいと思う。
調べてみたら、2006年のセンター試験の問題に使われたそうだ。
興味のある人は、ここをどうぞ。比較的引用も長い。

2007.04.30

同窓会

藍川 京 2004 幻冬社アウトロー文庫

受けつがれる夏合宿の儀式。上級生が下級生を上半身裸にし水を含んだ毛筆で背中に万葉集や古今集の恋の歌を書き、それを当てさせるのだ。くすぐったさと怪しい快感に身悶えする千里は三年生の沙千子にすべてを捧げた。……(裏表紙)

この部活の伝統が官能的である。青柳のようにしなやかで、艶かしくも甘やかに、イメージを掻き立てる。
女子校を舞台にしたものとして、ピックアップしてみた。女子校のリアルというより、女子校というファンタジーを利用した小説だ。

もっとも高校時代が描かれるのはプロローグだけ。本文はSM中心。
「愛があればどんなプレイも快感だ」。なるほど。

本文で面白いのは、千里、沙千子、佳菜恵ら女性3人の同性愛を描く物語の中での男性の役割だ。
男性の役割には二つある。
沙千子を巻き込むトラブルの相手である沼田&宇田川は、時代劇の廻船問屋&悪代官のごとく、憎々しくてみっともない悪役である。もちろん、成敗される。
もう一人の内海は、もともとは千里の愛人として出てくるが、いかにもつけたしなのである。男性読者を配慮しての登場人物なのであろうが、レズものエロビデオで最後に必ず出てくる男優ぐらいに人格面の色付けもなければ活躍もない、生きているバイブのようなもんである。

潔いまでの男女の扱いの差。
勧善懲悪の図式に、善に女性、悪に男性を代入した、女性だけが美味しい官能小説。
女性の、女性による、女性のためのエロ。表紙のイラストも清楚で美しい。
園華女子高書道部の設定、シリーズ化しないかなあ、なんて、ひそかに願っている。

2007.04.29

秘密の花園

秘密の花園 (新潮文庫)  三浦しをん 2007 新潮文庫

初めての性行為と、初めての性的な暴力と、どちらが忘れがたいものなのか。
あるいは、初めて好きになった人と。

私は、男性作家が女性を主人公にして書いた小説をあまり好まない。主人公の一人称であるなら、尚更である。
私は男性が女性の性を無邪気に語るとき、違和感を、嫌悪感すら抱くことがある。
その性的な眼差しに。男性による女性の性への、男性との性行為による快感という幻想に、吐気がする。
この小説を書いた人が男性なら、私は感嘆してうめき、敬服して涙したかもしれぬ。

三浦しをんが女性であることに安心しつつ、それでもなお、心の襞の合間にしまいこんでは紛らわせ、奥底から立ち上っては形にならぬ、繊細で敏感で曖昧なものを質感たっぷりに描く筆にうなった。

性的な嫌がらせや暴力は、本人の意思とは無関係に、強制的に、一方的に、人を性的な対象にする。
主体性を剥奪された体験は、その後の性的な生活のすべてに影を落とす。
ぬぐいきれない嫌悪感を、私は知っている。私の体験は書かない。いつどこで、どのような状況で何をされたか、忘れもしないことがある。その直後の友人との会話まで克明に憶えている。
学生の頃の通学電車の中で会う痴漢とか、職場の上司からのセクハラであるとか、知り合いとの望まぬ性行為であるとか、程度の差があったとしても。
女は性的な要求にさらされて当然であると笑う男は、去勢されても当然だと思う怒りを心の奥底に私は持つ。
「洪水のあとに」に、実際にやっちゃまずいとしても、心情の上では私は快哉を送る。それぐらい、腹立たしくも傷つく行為であると思い知れ。

だが、それが望んで体験した性行為であったとしても、たやすく捨て去られたときの絶望も、致命的な熱さを持つ。
会えないなんて、死ぬのと同じだ。捨て去られることは、殺されることに等しいと、何故、わからないのか。
すべてを投げ出す思いで差し出したものを、受け止める覚悟もなしに性欲の処理をした人よ。後で捨てるぐらいなら、何故、抱いたのか。
愛しい愛しい男に、最早、熱が伝わらぬ。声が届かぬ。求められないならば、息ができない。息することを望まない。この激しさを知れ。
悲痛な叫びが誰にも聞かれることなく、「地下を照らす光」に焼き尽くされる様の残酷さは、作者も手抜かりがない。

ジェンダーを引き受けることは、かくも難しい。いくつもの傷つきを経ながら、女であることも引き受けながら大人になるものだが、そこにどうにも馴染めなかったり、取り残された感じを持つこともあるだろう。
殉死するほどの恋の熱を感じることができない。我を賭して飛び込むこともできない。心に何か欠けているのではないかと不全感に捕われる。
図書館の中、校舎の屋上、通学路をはずれた雑木林に避難をしながら、想像上の友達
に庇護されながら、かすかな希望を祈らずにいられない。
レヴィナスの言う、それが許されないときに初めて希望となるような、災厄の箱から最後に残されたものを、「廃園の花守りは唄う」。
全面的に、無条件に、私を許して欲しい、認めて欲しい、愛して欲しいと。ジェンダーの問題は、存在の問題にシフトする。

那由多も、淑子も、翠も、他人ではない。
誰が自分に近いかといえば、誰もどこか自分に似ている。強いて言えば、どうしても周りと合わせられず、なおかつ、尊い出会いを胸に抱く翠か。
かつて通り過ぎた、女子校という場、思春期という季節を、懐かしく思い出す一冊となった。

ところどころに引かれる短歌もよかった。中島敦がここにも出てきて、再読したい気持ちが増した。

櫻の園

吉田秋生 JETS COMICS

そこは、満開の桜を冠にいただく、夫を持たない王女たちの国。
好きで好きでたまらなくて、ままならなくて、切なくて。
恋や性の最初の体験を自らの肉に刻みつつ、我が身が女であることを思い知らされる頃。恋が思うだけのものから、生身に切迫するようになる頃。
女らしいことを要求される私。女らしくあれない私。

私に触れずに過ぎた男たちが優しかったと思いを馳せるなど、ものの見方に随分と驚かされた。
どれだけ優しいか。同じ作者の『吉祥天女』と併せて読めば、痛々しいほど感じることができるだろう。

時世の違いができてしまったが、世俗から切り離されたかのような女子校の、どこか浮世離れしたことを許される空気を味わうと、作品の古びることない魅力を感じる。
手持ちは文庫化される以前のものであるが、読み返しては手放せず、今に至る。
10代が遠くなっても、胸に深く響くものがある。

女子校を舞台とする作品の中でも傑作であり、女性の高校生のころを描いた傑作でもある。

 ***

三浦しをん『秘密の花園』に、穂村弘が寄せた解説で、これを紹介していた。すこぶる懐かしい。

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