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香桑の近況

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# 九州縦横

2017.12.21

先生のお庭番

朝井まかて 2014 徳間文庫

美しい物語だ。
外国の人の目を通すことで、当たり前だった景色の美しさに気づく。
当人同士以外の目を通すことで、引き裂かれた男女の関係も、美しい物語となる。

タイトルだけではどんな物語かぴんとしなかったのであるが、植物が好きな方から貸していただいた。
しぼると先生の薬草園を管理する園丁が主人公である。だから、先生のお庭を番するお庭番。
決して、忍者の物語ではない。

シーボルト。日本人通辞よりも発音が不正確なオランダ語を話す、オランダ商館医。
19世紀の日本で、外国人が逗留できるのは長崎出島に限られており、逗留できる欧米人はというとオランダ人に限られていた。
とはいえ、海外の事情に明るくない日本人にはあれこれと説明することにして、実際は諸国から調査員が偽って流入してきていたようである。
現に、シーボルトもまたドイツ人だった。

そんなあやしい外国人がいっぱいの出島に派遣された少年熊吉は、シーボルトに心酔し、采配を任されて、のびのびと薬草園を作る。
当時のヨーロッパはプラントハンター達の時代でもあるから、現地の協力者ということになるだろうか。
剣より、花を。
風刺もいっぱいこめられていると思うが、シーボルトの台詞には、熊吉だけではなく、私もちょっとしびれた。

熊吉は真面目で勤勉な気性。植物を大事に愛する思いと、シーボルトを尊敬して貢献したい気持ちの両方で、目いっぱい、腕も、知識もふるう。
茶の種をばたびあ(ジャワ)に送り、現地で茶栽培を始める手助けをする。
オランダに日本の草木が生きたまま運べるように、知恵を絞る。
図鑑もなければ、分類法も確立しておらず、流通も限られるような植物を育てていく様は、読んでいてわくわくするものがあった。

熊吉はシーボルトのもとで4年を過ごす。
大人になるにつれて、人々がシーボルトの妻であるお滝を蔑んでいることも感じ取る。
シーボルトの言動に疑いを持ち、自分の目で見て頭で考えて行動ができるようになる。
美しい日々が、終わる時が来る。
主人公の成長と、時代の物語が見事に重なり合っている。
それらの日々を胸におさめて、もう一つの花が咲くような最後が素晴らしい。
幻滅を超えて、輝き続ける美しい日々。

Wikipediaによると、Hydrangea otaksaという学名は、植物学上有効ではないそうだ。
ツッカリニとの共著『日本植物誌』の中で、シーボルトがアジサイに与えた名前である。
しかし、ほかの人が先に名前をつけていた種類と同一のものとみなされ、後から着けたotaksaという名前は無効なのだそうだ。
その名前の由来が「お滝さん」だというのは、牧野富太郎という植物学者の推測に基づく。
otaksaというアジサイの名前は幻のようである。シーボルトとお滝さんの関係もまた幻のようである。
その儚さが、調べてみると、改めてせつなくなった。

2016.02.02

ゆうじょこう

村田喜代子 2016 新潮文庫

硫黄島の海女の娘が、熊本にあった遊郭に売られる。時は既に明治に入り、娘たちの気風も、遊郭をとりまく社会も、少しずつ変化していた。
実際に、1900年に東雲楼で娼妓たちによるストライキ事件があったそうで、それを下敷きにしつつも、幼い娘たちが淡々と日常として遊女として働く姿にひきこまれる。
そこに、エロスはない。
かすかな初恋の痛みはあったが、恋愛を描くための小説ではないし、性愛を描くための小説でもない。
主人公のイチがたどたどしい故郷なまりで記す日誌。それを読む女紅場の鐵子さんや、東雲楼の随一の花魁である東雲さんといった登場人物たちの、それぞれの女性達が実際に息づいているかのような生活感に惹かれたのだと思う。

これを成長譚と呼ぶには抵抗を感じるが、イチが人間として力強く育ち行く姿と、見守る二人の賢い大人の女性の交流がなんとも魅力的であった。
吉原を舞台とする小説は多いし、それがもっぱら性愛や辛苦や悲惨を主軸にするとき、使われる言葉はおおむね東北や北関東という印象を持っている。
ここでは、ルビをふらねば理解不能になる人も多いであろう南九州の言葉が多用されていることにも、現実味という説得力を感じたことを付け加えておきたい。

似ている本をあげるとするならば、パトリシア・マコーミック『私は売られてきた』。こちらは、ネパールからヒマラヤを越えてインドに売られてきた少女の物語だ。
マーセデス・ラッキーが小説のなかで「自分の体しか売るものがなかったからといって、彼女達を蔑むことはできない」といった一文を書いていたことがあって感銘を受けたが、娘しか売るものがなかった親を蔑まずにいることは難しいと、改めて思った。

2014.11.19

月の森に、カミよ眠れ

上橋菜穂子 2000 偕成社文庫

神話が神話になる前の物語。
むしろ、民話か昔話。
主人公は人間であり、人間の生活から神々の息吹が失われていく瞬間が、見事なファンタジーとして結実されている。
人々の気持ちのありようを描くだけではなく、まさにこんな風であったかもしれないと思わせる生活のありようの具体性は、著者が文化人類学者であるからこそ。
日本の古代、律令が敷かれていく時代をモデルにしつつ、熱や匂いを感じるような活き活きとした物語になっており、気づけば主人公達と一緒に深い森の空気を感じることができるだろう。

裏切られ、殺されていく神々。
時に自然は荒れ狂う恐ろしいものとなるが、人間は実に自分勝手に自然から奪い放題、壊し放題にしてきた。
そういうマクロな物語を描くのが神話であるが、一人一人の人間の生活に即した人生や心情を描くとなれば民話に近い。
文庫も子ども向けにルビがふられてはいるが、物語は大人であるこそ、感じる部分もあるのではないだろうか。

カミと人の物語であり、同時に、母と息子の物語でもある。
ナガタチの母子葛藤がキシメとの対話によって解消されるプロセスが見事だと思った。
こういう物語で、ナカダチの父たるカミをうけいれられなかった母親の弱さのみならず、タヤタを思いやることができないキシメの幼さを取り上げたところが、秀逸な物語だと思ったのだ。
受身的な人生を送るのではなく、自らの過ちを背負い、自分でで自分の運命を選んだホオズキノヒメの美しさが際立つ。

思いがけず美しい物語に出会った。

2013.03.12

妻の超然

絲山秋子 2013 新潮文庫

常日頃に漫然と感じていることを、すぱんと言い当てるように言語化された文章に出会うときに、この作家はすごいと思う。さすがだと思う。
そういう文章との出会いが多い作家が、自分に相性のいい作家であると思う。感性が近いというのはおこがましいし、勘違いのようで気持ち悪い。
三人称で書かれた「妻の超然」、一人称で書かれた「下戸の超然」、二人称で書かれた「作家の超然」。
それぞれに、ぐいとひきつけられる文章があり、「作家の超然」の主人公がある小説の登場人物に自分を見出すように、私もこの小説群の主人公達に自分を見出した。

愛しているなんて言うから愛がなくなるのだ。(p.74)

「妻の超然」の一文に、ずきんと胸が痛んだ。
なくしたものを、やっと、なくしたと受け入れようとした時に読む文章としては、とても痛かった。
浮気しているであろう夫に対して、超然とした態度を保とうとする妻。
超然になりきれない、崩れ去るところが、とても幸せな夫婦の姿に見えてくる。
彼が幸せであることが嬉しい。そう。そういうものなのだ。

変わるよ、改めるよ、なんでも努力してみるよ、と僕は言えない。(p.179)

「下戸の超然」の一文に、唇をかみしめた。
何度も、何度も、何度も、言い続けた。
言い続けて、変わること、改めることができなかったかもしれない。
私は努力したつもりでも、努力は認められなくて、私も言えなくなった。
私は短気であり、依怙地である。頑固であり、融通がきかない。不器用で、かつ、卑屈である。
私は苦手なことを苦手という。それを卑屈だと言った人は、私が人を見下しているとも言った。どちらなのだろう。
その人には、私が「下戸の超然」の主人公のように超然として見えたのだろうか。解説はこの主人公に身勝手さや冷酷さを読むが、私は戸惑いを見出して共感する。
飲み込んで言葉にしなかった言葉がどれだけあるか。それを伝えることもないまま、わかりあえずに別れていく。

好きなものだけに囲まれて、仕事という狭い切り口だけで社会との接点を持ち、人と会わない生活をしていれば、いくらわがままでも良かった。(p.213)

つまり、こういう生き方を指摘されたのだと思う。お前はひとりで長くいすぎたのだ、と。偽善であると言われたのは、こういう振る舞いだったのだろう、と。
「作家の超然」という小説は、私にとっては入れ子細工だ。
主人公が小説の登場人物に「おまえはどうしたって、自らの物語を彼女の中に見出してしまう」(pp.253-254)ように、私はこの中に自分を見出さずにいられない。
1人で老いていくということ。やがて死ぬということ。その予告として、練習としての、病と入院、手術。
一文ではなく、物語に自分が見出されていく。
そこに、読者として、文学の力を見出したい。小説の力を信じている。

私には、寂しい気持ちがある。
これがなくなれば、どんなに楽であることだろう。
寂しくて寂しくて寂しくて涙が止まらぬ日がある私には、自分を見出す物語との出会いが、落ち着きを取り戻すきっかけになり、現実と向き合う機会となり、日常をやり過ごす支えとなるのだ。

2012.09.10

残穢

小野不由美 2012 新潮社

穢れは、いつ、どうやって消えるものなのだろうか。
怪談に二つあるという。
「怪について語った話」と「怪しい話」。
後者は、語ることが怪になる。だから、封印される。
この本についても、詳しくは話さないほうがいいのかもしれない。

というわけで、怖かったーっ。
作者の空白の9年間を埋めるような物語運び。
しかも、そこに実在の人物が出てくる。現実の地名が出てくる。既知の作品が出てくる。
しかも、身近に出てくる。
さもありそうな舞台仕掛けである上に、小野さんならではの、夜中にトイレに行くのが怖くなるような、きわめて身近なところでじっとりとまとわりつくような、ぞぞっと背筋をかけのぼってくるような、寒気のような怖さ。
怖くて、途中で休みつつ、でも、途中でやめることはできなかった。
どこに着陸するのか、知りたいじゃん。

1つの怪について語った話から出発する。
その怪はどこから始まったのか、さかのぼってたどっていく。
そのプロセスで、今世紀から90年代、高度成長期、戦後、戦前、明治大正期の時代の風土が語られていく。
ある時期から大きく報道された事件の数々は、私も記憶にしっかりとある。
作者が織り成す怪異の様相も、どこかで聞いた事件を彷彿とするようなものだ。

作者は、事件について調べている。数々の事件を、どう捉えるべきか、考えているような気がした。
天津罪と国津罪とを、どう捉え、どう裁くのかを考えてきたような気がした。
共同体社会に脅威をもたらす罪は、「穢れを生じ、穢れを除去するために祭祀を行う必要があった」(p.236)。
人の外部に付着した穢れというシステム。時間が経過したり、一定の手続きを踏めばリセットされるシステムになっている。しかし、手続きを守らなければ、伝染し、拡大する(が、希薄化もする)システム。
そのシステム自体が、近代化と共に希薄化し、継承されていないことへの警鐘を含む物語だ。
システムは壊れていっている。しかし、穢れはまだそこに。

蛇足であるが、作者は、事件について調べ、考えている。そう思ったのは、十二国記の「落照の獄」を読んだ時のことだ。
十二国記でも、天津罪を裁かなくてはならない。システムがエラーを犯すとき、システムの内からそのエラーをどう糾すのか。そのエラーの指摘によって、システム事態が間違いであったことを証明したとき、世界はどうなるのか。
『残穢』の中で、「世界のフレームを問い質す」という表現が出てくる。

どう世界を捉えるのか、という問題にすべては還元されてしまう。(p.333)

作者の思索の続きが、十二国記で味わえることを願っている。

2012.08.31

マルガリータ

村木 嵐 2010 文藝春秋

天正遣欧少年使節。
輝かしく語られる彼らが8年後に帰国した時、既にキリスト教は禁教となっていた。
その後の彼らを、日本史の授業では学ばなかった。
四人のうち、一人は病死、一人は国外追放、一人は拷問されて殉教し、残る一人は棄教した。
背教者となった千々石ミゲルを、その妻「たま」の目から描いた小説である。

たま。まりあ。まるた。マリータ。マルガリータ。
タイトルの「マルガリータ」は真珠という意味である。
たまは、親の形見である真珠をミゲルにお守りとして持たせ、マルタのように働き者の娘へと成長していく。
言いたいことのひとつも言えないまま、運命に流されるままに、ただただ働き、ただただミゲルに寄り添おうとする。
マルタとマリアの説話を知っており、それを理不尽と思ってきた私には、珠がマルタになぞらえることが、なんとも苦い。

一人ひとりの人間は、人間であることに変わりがないはずなのに、国を動かすために他者の人生を台無しにすることをためらわない者もいれば、思い通りの人生を送らせてもらえない者もいる。
ある種の人々にとっては政とは不可解であり、ある種の人々にとっては当然の営みである。
かくも、世界は理不尽だ。

ミゲルと他の少年使節たちは、4人で1つのように、志を同じくしていた。
誰にも殉教させるまい。
南蛮人たちは、なぜ、日本人に殉教を求めるのか。
死ぬための信仰ではなく、生きるための信仰を守るために、誰も信仰の名のもとに死なせないために、司祭になろう。
彼らの生涯を通して、信仰とは何か、宗教とは何か、政治とは何か、改めて考えさせられる。

と同時に、そのような教育を受けたこともなく、知識もなければ興味もない、ただただ生活をまっとうに送るために働き続ける珠の疎外感が苦しい。
ただただ夫を慕って、一生懸命に働いている。
その珠より、なぜ、ほかの女性の方が、夫の心を理解するのか。そんなことは苦しすぎる。
報われなくて、悲しくなった。マルタは、いつも理不尽だ。

だけど、よく考えてみれば、真珠のように丸くて美しい世界を守ろうとして、ミゲルはミゲルの戦いを戦っていたのではないのか。
守るつもりでいながら、二人のマルガリータに守られていたのではないのか。
ほら、ちゃんと愛してあえているじゃない。
じれったいなぁ、もう。
情けないほど慕っているから、どんな彼だってアリなのだ。受け入れて、受け止めて、追いかけるしかない。

雑誌で読んだ書評が気になって、購入したものの、何年も積んだままにしていたが、もったいないことをしたと思う。
これほど引き込まれる、魅力的な物語だったとは。最後は涙ながらに読み進めた。
時代と世界は、飯嶋和一『黄金旅風』とも重なり合う。あわせて読むのもいいだろう。

2005年10月から2006年1月にかけて、国立科学博物館にて「パール」展があった。
そこで、大村藩の藩主の食事中に、口にした貝から偶然でてきた真珠が展示されていた。
そういうものを「御喰み出し(おはみだし)」というのだそうだ。
たしか、私が見たのは、「夜光の名珠」と銘打たれており、アコヤではなくアワビから出てきた真珠だったと思う。
調べて行くと、真珠は聖母マリアをたとえるときなど、聖書やキリスト教文化の中でも高価なもの、貴重なもののメタファーとして用いられてきたようだ。
珠は、それだけして手に入れるべき、女性だったと思いたい。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ13.46)

2012.08.04

九州の滝:100の絶景

Dsc_04861_2 熊本広志 2007 海鳥社

最近の愛読書。
正確には、読まずにうっとりと眺めている。
涼しげでいいのだ。この季節、水が恋しくなるから。

屋久島で大川の滝に出会って以来、滝にはまっている。
水の音に耳を傾け、しぶきを体に浴びながら、全身で感じるのが好き。
80mを超える瀑布の迫力は素敵だけど、10mぐらいの落差で幅広の滝も見てみたい。
次はどこに行こうかな。そんなときに参考になる一冊。
滝の落差、所在地、問合せ先と電話番号や周辺地図まで掲載されている。

カメラマンの人らしく、どんな風に写真を撮ったのかも書いてある。
撮影好きの人には、そんなところも参考になるのかな。

貸してもらったまま数週間、そろそろ返さなくちゃいけないけど、手放しがたい。
自分でも買っちゃおうかな。
そして、いつ行ったか、誰と行ったか、記録していきたいかも。
100をコンプするのは大変そうだけど、この中からお気に入りを1つ2つ見つけられたらいいと思う。

2012.01.24

沖で待つ

絲山秋子 2009 文春文庫

明日で仕事を辞める。そんな日に、なんで読んでしまったんだろう。
星型ドライバーはわかるけど、コーキングはわからなくて首を傾げた。
それでも、「沖で待つ」の過ぎてしまった時間の愛しいけれどもばかばかしいような、でも二度と持てない時間が過ぎていく切なさは感じた。
と、解説を読みながら思った。

この本には「勤労感謝の日」「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」の3つが収録されている。
表題作と「勤労感謝の日」は、女性総合職という立場で働いてきた女性たちの、あの時とその後を描いている。
私より幾つか年上の先輩たちの体験談を聞いているような気分になる。

就職したてのあの時の高揚感と不安感。その時を一緒に過ごした人たちとの関わりは、ほかで再現されるものではない。
決して恋愛にはならない男女を描くところは絲山さんらしいが、それだけではなく、大事な瞬間が過去になってしまっていく時間の経過を描くところも、絲山さんならではな気がする。
「沖で待つ」
筋には触れないでおくけれど、この言葉を作中で読んだときの、なんとも言えない響きに、やられた。
意味もなく、泣きそうになった。不意打ちのように、深く揺られた。

また、この表題作は私にはとても馴染みのある地名がいくつも出てきた。
そうなのだ。九州に来たことのない関東の人って、福岡をものすごく隔たった場所のように感じていることがある。
とりあえず、福岡に来てよ。来てみてよ。そんな誘い文句として、東京から離れたことがない人に読んでほしくなった。

そして、その後。
企業から離れ、次の就職が見つからず、未婚であるとしたら。
「勤労感謝の日」の主人公は、「三十五を過ぎたらただの扱いにくいおばさんだ。どれだけキャリアがあろうが、社会常識に長けていようが却ってそんなもんは徒になるだけだ」(p.40)と自ら言う。
しがらみで見合いすれば負け犬を語らせるような男が相手では、やさぐれてもいいと思う。
心の中の声がざっくばらんで、うまくいかない日の、やりきれないようなじくじくとした気分が、真に迫る。
今後のためにも、一緒に飲みに入ってくれる年下の友人と、できれば話を聞いてくれる行きつけの店は確保しておきたい。
すっかり扱いにくいおばさんだもの。私も。まぁ、しゃあない。

「みなみのしまのぶんたろう」は感想が非常に難しい。
ひらがなばかりで読みづらいが、皮肉たっぷり。
現実に存在する人を連想するが、怒られないのかな。大丈夫なのかな。
でも、笑った。

2009.11.30

武士道エイティーン

武士道エイティーン  誉田哲也 2009 文藝春秋

とうとう、ここにたどりついた。最後の夏。18歳の、高3の夏。
なーのーにー、なんでそういうことが起こるかなぁ?
やきもきしながら、2人の成長を見守ることになる。
彼女達は変わらず、元気で一生懸命で、だからこそ爽やかで、好感が持てる。

香織と早苗。人によって、どちらに自分を託すか、それぞれだろう。
『武士道シックスティーン』『武士道セブンティーン』と、これまでは香織と早苗が交互に語られる形で進められてきたが、『エイティーン』では合間に、早苗の姉や桐谷先生の若かりし頃、あるいは、吉野先生の伝説「実録・百道浜決戦」といったスピンアウトが差し挟まれることで、群像劇といった趣もある。
でも、こんなにローカルでいいのかな。プラリバとか、それって何?って思われないかなぁ。

いろんな人の、いろんな人生、いろんな歴史、いろんな思いが積み重ねられ、織り込まれ、より合わさり、今この場にたどりつく。
一人一人は、どこでどんな因縁があったかを知るべくもないが、それでも、あるべくして、なるべくして、今がある。
その不思議を、物語の中だけど、感じることができた。

少女達は高校を卒業し、大学へと進学する。
確かに、18歳というと、高校3年生の途中から大学1年生(あるいは浪人1年目)の途中までだ。
高校三年間での剣道にかけた生活は、大会が終わった時から、就職や進学へと視界を転じることが要求される。
いつまでもいつまでも、剣道の高みだけを目指すことが誰にでも許されることはない。
やればできるとか、願えばかなうというのは、どこか嘘だ。
剣道をするにも、どこで、どのようにするかを考えなくてはいけない。高みというのは、どの高みだ? 大会か? 技術か? 指導か? それとも、収入か?
生活の糧を得ることを考えなくてはならない。仕事をしていくならば、剣道を活かすのか、まったく違うのか。自分の身体や能力が、それ以上の高みを許さぬこともある。
剣道のみならず、どのようなスポーツであっても、プロとなる道があるスポーツであったとしても、どこかでそれ以外のものを見つめなくてはいけない時がつきつけられる。

道のりは人によって違えることもあるだろう。異なる道に進むこともあるだろう。
だけれども、目指すところはきっと交わる。一つになる。どこかできっと通じ合う。
たとえ、真横にいなくても大丈夫。どこか遠くにいる人が、同じように頑張っている人がいることか、きっと支えになる。
香織と早苗にはもちろん、レナや田原など、すべての頑張る女の子達に応援を送りたくなった。
これからも頑張れ。この先も人生は長い。ずっとずっと、頑張れ。あきらめるな。
君は一人じゃない。きっと頑張れる。大丈夫だよ。

武運長久を、祈る。

2009.06.15

悪人

悪人  吉田修一 2007 朝日新聞社

これが新聞に掲載されていたのか。
読み終えて、その意義を考えさせられた。
そもそも、悪人とはなんぞや。

これも読み始めるまでにしばらく積んでいた本であるが、読み始めたら一気であった。分厚さは読むうちに忘れた。
見知った地名、見知った景色。そして、人々の姿は等身大で、近所に息づいていても不思議はない。
女が男に殺された。よくある事件のひとつとして小さく報道されて終わりになるかもしれない。
男女それぞれの家庭や職場の生活、周囲の人々を描くことで、小さな事件の当事者にとっての大きさを思い知らされる。

加害者が殺害に至るまでのやりきれなさと、殺害後の逃亡生活を招いた出会いのかけがえなさに、加害者に対していくぶんかの同情を感じた。
被害者に対して同情しきれなくなるような設定の妙であり、それ以上に、むかつく登場人物の配置といい、善悪は二元論のような単純なものでなくなる。
加害者は悪であるとして、果たして、被害者は善かと言えば、そうではないのだ。

法で裁く悪は、法で規定されているものに過ぎない。その意味では、悪人とは犯罪者である。
しかり、心情を踏まえた上で語られる悪を規定するのは、倫理である。宗教であることもあれば、信念であり、関係性である。
本当の悪とはなんぞや。それは、容易に答えることをためらわせる問いである。私にとっては。

裁判官制度が導入された。裁判で裁くのは法で定められた悪である。
そのあたり、自分はきちんとできるのかな。今、もしもこの事件を裁く側に回るとしたら、自分はどうするのだろう。
加害者に対して同情の余地があると、被害者に対して同情できない余地があるとして、量刑を判断することはふさわしいのだろうか。
情状を酌量することで倫理的な判断が加わることになるとすれば、それは裁いてもよいことなのだろうか。
いろいろと考えさせられた。何はともあれ、殺人はいけない。

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