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香桑の近況

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**死を思うこと**

2022.11.28

魂でもいいから、そばにいて:3・11後の霊体験を聞く

奥野修司 2017 新潮文庫

東日本大震災。
突然、大事な存在を失った人たちが、その後の日々をどのように生き延びてきたかを教えてくれる一冊。

解説は彩瀬まるさん。
彩瀬さんが「苦しい読書だった」と書いているが、私にとっても苦しい読書だった。
ひとつひとつの別離の記憶だけでもずっしりとするのに、最初から最後まで、いくつもの別離が積み重ねられているので、ずっしりとしないわけがない。
少し読んでは休み、少し読んでは休み、気づいたら何か月も持ち歩いて、表紙はすっかりぼろぼろになってしまった。

被災地の幽霊譚は、断片的に耳にすることがあった。
あの災害だ。それもさもありなんと思った。
それを真夏の幽霊譚のように消費するコンテンツのような扱いをしていない。
このタイトルの、真摯で切実な響きそのままに、著者は丁寧にひとりひとりの物語を聴取する。

著者は同じ人に3回のインタビューをしており、その3回のなかでも変化があったり、喪のワークについてのすぐれた資料集として読むことができる。
そんな風に、読み手である自分のほうが心理学的な解釈をしながら読んでしまいそうになるのだが、著者がそういった余計な解説や解釈をしないところに好感を持った。
不思議なことは不思議なままに置く、その慎重な姿勢が、話し手を傷つけることのないインタビューにしているのだと思う。

これらは、「生者と死者がともに生きるための物語」であり、生きのびるための知恵の物語だ。
そこに、死者の思い出を忘れることなく投げ捨てることなく抱え続けながら、それでも生き延びていくために、生きる価値、生きる意義、生きる喜びを紡ぐ営みを見出すことができるだろう。

過酷な体験をした被災者は、自らの体験を語ることでセルフケアをしたいのだ。それらを受け止めてもらえず、悶々と過ごしている被災者いる社会こそ異常ではないだろうか。(p.116)

2020.04.24

心にいつも猫をかかえて

村山早紀 2020 エクスナレッジ

エッセイと小説と写真、3度美味しい贅沢な本。
著者初のエッセイは、見送った猫、すれ違った猫の数だけ、思い出が切ない。
猫に限らず、小さないきものと一緒に生活したことがある人は、その命を見送った経験もあるかと思う。
小さないきものと一緒に生活したことがなくとも、知っている人や知らない人の死に触れることはあるだろう。
そういう過ぎ行く命への深い愛情と、見送ったからこその後悔が語られる。

そういう猫たちと暮らしてきた日々の思い出とともに、子どもの頃の思い出や、作家としての経験、未来へと思い描くことなどが語られる。
どんな人があんなに心揺さぶられる物語を紡いでいるのか。
どれだけ、本と本屋さんという文化を大事に思っているか。
どれほど、「ふかふかの毛並みの、翼や鱗を持つ命たちの、その魂」(p.25)を愛しているか。
このエッセイと、この期間に書かれた小説は、愛して愛してやまなかった命を見送った後の喪失と鎮魂の過程であるようにも感じた。
自分自身にも、愛する命にも、命には限りがあることを見据えているから、ぶれずに優しく、謙虚で、凛として強いのだと思う。

長崎を舞台にした春夏秋冬の4つの物語。
ところどころ、長崎の言葉に訳された台詞が出てくる。九州に縁が薄い人には聞きなれない言葉遣いであるかもしれないが、私にはなじみのある言語。
方言には独特のイントネーションやリズムがある。音色がある。
その長崎弁が最大限に効果を発揮していると感じたのが、夏の物語、「八月の黒い子猫」だ。
前もってnoteで公開されたときには、全編が標準語で書かれたものと、一部が長崎弁で書かれたものの2パターンがあった。
その時も、これは長崎弁のほうがいいと強く感じたのを憶えている。
断然、こっちがいい。
私には秋の物語もほんのりと切ないし、冬の物語も胸が痛いものがあるが、春の物語は号泣ものだった。
どの猫の物語も、猫って人間を愛してるくれるんだと教えてくれる。
村山さんと猫。この組み合わせは、絶対、泣く。そういうものなのだから、箱ティッシュやタオルは用意してから読むのがよいと思う。

エッセイと小説の両方が楽しめるだけでも贅沢だが、この本にはたくさんの猫たちの写真がちりばめられている。
村山さんの家族である歴代の猫さんたちも、町の景色のなかの猫さんたちも、どちらも表情豊かだ。
Twitterで見たことのある写真があると、思わず頬がゆるんだ。
しかも、街猫さんたちの撮影をしたマルモトイヅミさんが描いた、イラストの猫さんたちもとても可愛い。
奥付の猫さんは何度も何度も見ては、にっこりとしたくなる。イラストも入れて、この本は4度美味しい。
表紙や帯の手触りもよく、細かなところまで気配りされた、丁寧に作られている本だ。
手触りも入れたら5度も美味しい。

著者とはTwitterでお話しすることがあり、実際にお会いしたことがある。
エッセイを読んでいると、村山さんにお会いしてお話ししている気持ちになった。
私の頭のなかでは、読んでいる文字が村山さんの声や話し方で再生されるのだ。
これは、小説を読んでいるときにはおきないことで、エッセイだからこそ、御本人とお話ししているような体験になるのだと思う。
地方のなまりのない、鈴を転がすような澄んだ声と柔らかな声音で、表情豊かに話される御様子まで、目に浮かぶようだった。
世界が平穏を取り戻したら、再びお会いしにうかがいたいなぁ。
そして、記憶のなかの長崎の景色をアップデートするのだ。

この本、読んでいて面白かったのは内容だけではなく、エッセイと小説の両方があるという読み心地の部分もだ。
私の感覚だが、エッセイを読む速度と物語を読む速度、違うことを感じた。
物語はすっと没入する感じ、エッセイはゆったりと語り合う感じがする。
前者は映画館で見る映画のようなものだし、後者は面と向かったの対話やラジオを聞くのにも似ている。
似ているようで、まったく違う「読書」なのだ。それが交互にくるので、読んでいる自分のペースに変化が生じ、一冊を読むなかでの起伏となるのが興味深い体験だった。

今、我が家にいる猫たちの中でも、ひたむきに信頼と愛情をささげてくれる猫がいる。
彼らの信頼を裏切らず、彼らを最期まで見届けたい。
せっかく我が家を選んで、来てくれた猫たちなのだから

2020.03.29

コンビニたそがれ堂:花時計

村山早紀 2020 ポプラ文庫ピュアフル
 
時が巻き戻せたら。
 
そんな願い事が共通した3つの物語が収められている。
詮ないとわかっていても祈るように願うのは、それぞれが取り返しのつかない事態を孕んでいるからだ。
取り返しがつかないとなれば、生死が関わってくる。
死という不在をどのように受け止め、自分の内側に納めていくのか、作者の手探りが感じられる。
なにしろ、1つめの「柳の下で逢いましょう」の主人公ときたら、影の薄い幽霊さんときている。
この「柳の下で逢いましょう」には野良猫の母子が出てくるが、数年前に我が家の裏口に来ていた野良猫の母子に重なった。
その子どもたちのうちの4匹は、我が家でそろそろ中年になってきたが、できれば母親猫にも安心して暮らせる生活を提供したかった。
長く飼っていた猫に一番そっくりだった母親猫。一度も鳴くことがなくて、警戒心が強くて、触らせることもなかった母親猫。
物語のなかでは、母親猫にも暖かい寝床と食事が得られたようで、私のなかの思い出の猫も少し救われた気持ちになって嬉しかった。
全体に濃密な死のにおいを感じたが、そこはそこ、3つめの物語にふわりと光の世界に引っ張り上げられ、現実に戻るような読書となった。
 
私は、後悔は不在という心にぽっかりと空いた穴の縁をなぞる作業のように思い描くことがある。
もはやその存在そのものには触れることがかなわないから、代わりに不在に触れてしまうのだ。
不在に触れるたびに心が痛むとしても、その痛みだけがかつてそこに存在があった証である。
だから、痛くても痛くても、触れてしまうのだと思う。
惜しむ、悼むとは、不在の痛みを感じ、なかったことにしないことなのだと思う。
それでも、時は流れて、穴の縁はなぞるうちにすべらかになり、いくらか大きさが小さくなり、深さが浅くなり、こころの内に抱えやすくなっていく。
 
実を言えば、私はあの時に戻りたいと思うことは今のところ、あんまりない。
自分の人生は一度だけで十分だと思っているので、やり直すことで終わりまでの時間が長くなることを考えると、ぞっとする。
あれはやめておけとか、それはいらなかったと思っても、こうしておけばよかったと思うことが少ないのかもしれない。
そんな私であっても、Twitterで老猫を甲斐甲斐しく世話をする人を見ると、死んでいった猫にもっとしてあげられることがあったのではないかと落ち込むことがあった。
冷静に考えてみれば、知識も技術も足りなくてどうしようもなかったし、自分の気力と体力も限界だったとは思うのだけど。
それでも。
 
物語は不思議だ。
できなかったことが、かなえられることがある。
自分に似ている人を見出すこともできるし、自分が物語の中の人となって生きることもできる。
当たり前の日常を生きている平凡な人生のなかで、「自分なんていてもいなくても同じではないか」と思ってしまうことがある。
自分に意味や価値がないように感じて、もどかしくて頼りなくて焦ったり苛立つような感じは、思春期に特有のものだと思っていた。
けれども、大した人生を送っていないような、これではいけないような感じというのは、折々に触れてよみがえるものだということがわかってきた。
青年期、中年期、そして、老年期になっても、自分の来し方を振り返るたびに、行く末を思うたびに、ひとの子のこころは揺れ動くものなのかもしれない。
だから、「自分を許しておあげなさい」というねここの助言が、この本の全体を貫く贈り物なのだと思う。
できなかったことを許す。
できなかった自分を許す。
きっと、それが喪の作業の要なんだろう。
今の自分を許せないような気持ちが頭を持ち上げてきて迷子になったとしたら、たそがれ堂を探すチャンスなのだ。
神様は留守にしていても、代わりに可愛らしい店番のお嬢さんが話を聞いてくれるだろう。
おでんは温かく煮えているし、おいなりさんは甘くてしっとりしていて、葛湯や梅昆布茶をサービスしてもらえるかもしれない。
「未来はいつだっていい子の味方」なのだから、その未来を生きている大人があんまりよろよろしたくないなぁと思った。

2019.11.25

急に具合が悪くなる

宮野真生子・磯野真穂 2019 晶文社

村山早紀さんに教えていただいて、手に取った。
その後、読み始める前に、私がまさに『急に具合が悪くなる』とは、誰も予想がつかなかったはずだ。
私自身にはかすかな予感がありつつも、まさかこんな時に思ったのだから。
そういう臨場感と御縁のある読書となった。
三度目のがん治療……手術のために入院した先で読み始めた。

二人の知性が、とにかく素晴らしい。
宮野真生子さんは哲学者。磯野真穂さんは医療人類学者。
二人の真剣な言葉の投げ合いに、舌をまく。そんな表現があるのかと、胸を衝かれる。
そう!それ!!それなんですよ、と、どのページにも一人で唸り、頷く。
少し読んでは噛みしめ、また少し読んでは立ち止まって胸に響かせる。
たとえば、「不運は点、不幸は線」(p.124)であるとか、詩的ですらある。

この本のなかで取り扱われてるテーマは「生と死」に集約されていくのであるが、もう少し細かく分けていくと、①死とコントロール、②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野、③大病についてのポリティカルコレクトネスといったあたりが大変興味深かった。そして、④点と線と厚みが全体に流れている。

まず、①死とコントロールについて。ハイデガーの語る死についてで思い出した私自身の死生観があるが、それは別の記事に書くことにしたいと思う。
がんになることを、自己責任論として語る人が世の中にいる。私とてなりたくてなったわけではないし、ならなくてすむならなったわけがないのであるが、そこを宮野さんは「合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、コントロールの欲求と言える」(p.86)と指摘する。
それを磯野さんは「何かには必ず原因があり、合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念」(p.105)と受け止める。
このような欲求と信念が、自己責任論であるのではないか。だからこそ、がんになったことも自己責任論ということにしてしまわれる。
人間がどうしても、なんで?と原因を知りたがる習性があるからこそ、このようなことが起きる。
磯野さんは「科学は<HOW>を説明し、妖術は<WHY>を説明する」(p.104)と目からうろこがぽろぽろ落ちるような文化人類学の理解を紹介している。
科学的な理解というのは、ひとつずつ知見を積み重ねた蓋然的な理解であるが、それが迂遠で面倒なプロセスであったり、人のワーキングメモリーを超えるような情報量だったりするとき、人は直観的な理解を好む。直観的な理解は検証を拒むため、しばしば直感や直勘に堕する。
いくら、グレタ・トゥーンベリさんが「科学の声を聴いてほしい」と訴えても、人間が知りたがるのはWHY。そこに大きなずれが生じてしまうのだ。

そのような生き方の行き着く先として、宮野さんは「生き方の最終地点で求められるものが、最近流行の『終活』ではないかと思います。予期できない『死』というものに対し、事前に準備しておくことで、できる限り自分の人生の責任を自らとり、身ぎれいにしてこの世から離脱する」(p.158)ことを挙げる。
このくだりは、先に読んだ小島美羽さんの『時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』の自死した人の部屋の章を想起した。荷物を処分し、ブルーシートを敷いて、「なにか未簡潔なものを残して周りに迷惑をかけることなく、自分の人生を自分の手で一個の完成したものにして去ってゆく」(pp.158-159)。そのようなコントロールを達成しようとして行きつく先に、終活としての自死があるように思われた。
宮野さんは続けて、「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるから。生きている者は、そうした痕跡をめぐって語り合い、考え、引き継いだり引き継がなかったりしつつ、亡くなった人を思い、その死を受け入れてゆけるのかもしれません」(p.159)と語る。
言い換えれば、他者に迷惑を残してよいことや、人生は未完成でよいことが、生きる隙間にならないだろうか。完全でなくてよいのだ。コントロールできなくてよいのだ。自己責任で背負わなくてもよいのだ。
死は不完全で偶然である。けして、「なぜ」では説明できない。その不確実さの中に放り込まれる体験であるから、逆に妖術にはまりこみやすい人も出てしまうのだろう。

②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野について。これは、実感をもって頷くことばかりである。
私自身ががんの治療について、この手術をしたらどうとか、この抗がん剤を使うとどうとか、%で数字を示されながら選択することが続いていた。正直なところ、私は専門家ではないので、なにがよいか、選べと言われても困るので、医師のおすすめを追認することしかできない。もっと積極的に、おすすめの治療法を示してほしいし、それを選ぶのが専門性じゃないのか?とつっかかりたくなる。
宮野さんは、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」(p.48)に対して、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(p.49)と、率直に私の心中を代弁してくださるかのように述べる。
エビデンスという数字を示すことで、「現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多い」(p.38)という磯野さんの指摘も、じわじわと染みてきた。

患者は、「待ち受ける未来はこうだからこちらの道をゆく」という運命論的な選択しかできないということになります。運命論的に見据えられた未来は、患者の意思だけで作られたわけではなく、医療者の意図、さらにいえばかれらが拠り所にするエビデンスの作成者の意図との融合物です。医療者が「患者の意思を尊重」というとき、その患者の意思の中に、医療者の意思が相当に組み込まれている。<正しい情報>という言葉には、その現実を見えなくさせる力があるため、そのことはあまり真剣に考えられていないような気がします。(p.40)

このくだりは、自分もまた医療領域で働いている以上、肝に銘じておきたいと思った。
インフォームドコンセントそのものを否定はしないが、そこに欺瞞を持たせないようにしたい。
なぜなら、選ぶのも、決めるのも、本当に大仕事で疲れるからだ。

そのような数字でこうなるかもしれない、ああなるかもしれないと示されて、どこが確かな正解の道かわからないまま、そろそろと慎重に生きるしかない。
そのような<かもしれない>で溢れているのが、保険適用の標準的な治療をやりつくした後、緩和病棟に入るほどは悪化していない状態の人が、自由診療に向かった先にあるという。
合理的に判断しようと思っても、エビデンスまでたどり着かないような<かもしれない>の荒野。
そりゃあ、妖術に頼りたくなる人を責めるわけにはいかない。
合理的な判断そのものが立ち行かなくなる境地を示すことは、合理的で自己責任をもって生きるという生き方そのものの限界を示している。
「どれを選んでもうまくいくかどうかはわからない」(p.228)のだ。

付け加えれば、偶然性を恐れる人たちの息苦しさも、偶然しかない世界であることを社会が否認して、完璧を目指させられることと不可分であると感じた。
不可能な自己責任論に追いつめられる。首を絞めあう。
その中で、まじめに限りなくNGを避けようとして、身動きが取れなくなってしまったり、できない自分を責め続けるような事態になっているのだろう。
そんな風に考えることもできると思った。

③大病についてのポリティカルコレクトネスについて。
がんになった人にはこれを言ってはいけないとか、こういう風に受け答えしましょうとか、マニュアル化しようとしてしまう人たちがいる。それは、相手を傷つけてはいけないという配慮に満ちているようで、実は日常を失わせ、患者の人間性を疎外する。
専門家としてなにがしかの患者の家族に会うときに、安易に日常性をセラピューティックなもので侵襲させてしまうような助言をしないよう、自戒したい。

「ガンが治ったら」という仮定は、「ガンが治らなかったら」というもう一つの可能性を浮かび上がらせます。さらに、「治ったら一番に何がしたいか」という問いかけは、治らねば一番したいことができないというメッセージを暗に発しています。(p.44)

この宮野さんが書いた個所を読んだとき、私は自分の手術が終わり、腫瘍は取り除けたと思っている時に読んだ。自分の中に腫瘍が残っており、つまりは「治る」という状態に永遠に至ることがないことを知らないうちに、読んだ。
治るというのはなにか。そのことも、深い問いだ。
うつ病の治療を受けている方に、「寛解」という概念を示して、なかなか納得してもらえないこともあるが、当たり前だ。
完治を目指してきたのに、完治はしない。寛解だから治療終了と言われて、納得できる人はなかなかいないだろう。
それと一緒だ。どうやらがんは私から消えないらしい。前回の手術から今回の再発の間、一応は腫瘍がない状態でがん患者を名乗ってもいいものか?と考えていたが、今度はどうやらがん患者であることが私の一部として背負い続けないと仕方がないようだ。
もう元通りになることはないことに私自身も、多少のショックを受けているが、これを人に話すことが大仕事であることを今回思い知った。

相手ががんであると知った時から、あれがいい、これもいいと、勧めてくる人たちがいる。その現象について、幡野広志@hatanohiroshi さんもツイートされていたし、宮野さんも触れている。
私はそこまでの目にあっていないが、だが、この病状を伝えると相手のほうが動揺して大騒ぎする場面ならあった。大騒ぎをしないようにしてくれているが、両親やパートナーがショックを受けているのは感じている。
そうなってくるとかける言葉に困る。私は相手を過剰に動揺させたくないために言葉に困り、相手は私に対して何を言ったらよいか、言ってもよいかがわからなくて困る。
そのようにコミュニケーションが硬直し、患者ー健康な人との役割が固定していくことについて、宮野さんと磯野さんは丁寧に対話で取り上げる。

たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている、それがガン患者であることを一〇〇パーセント受け入れていないということの意味です。そして、こうした生き方をとることで、私はそれなりに充実した人生をおくることができています。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません。(p.116)

この言葉に、今、支えられている。見習いたいと思う。大いに、参考にしていきたい。
私は私。私のすべてががん患者であることに覆いつくされないように。がん患者である私ではなく、私の一部にがんがある、ただそれだけ。
そんな風に思えたのは、まったく同じ病気や病状ではないが、宮野さんが先輩として言葉を紡いでくれたからだ。
この本に、今、出会えてよかった。

④点と線と厚みは、全体を通してちりばめられたキーワードのようなものだ。それは少しずつ表現を変えながら、何度も何度も立ち現れる。
二人の間に自由な連想が働いていることを教えてくれると同時に、まるでミルトン・エリクソンの催眠を読んでいるように私をトランスをいざなった。
それが明確になるのが第6便の「不運は点、不幸は線」(p.124)という表現体。そこからSNSのLINEやインゴルドという文化人類学者の「歴史の中で、ラインを生み出した運動が次第にラインから奪われていく経緯を示すこと」(p.182)という議論など、いくつもの線が引かれていく。そして、それは織物に編み込まれていく糸となるのだ。

人との出会いは、糸を結ぶようなものだと私は思う。
人生を織物にたとえることはよくあるが、編み物でもいい。
途中で加えた色糸を、そこから先の自分の織物に織り込み、編み込んでいく。
そうやって、自分だけのタペストリーもしくはwebsを作り上げていく。
その加えた糸の結び目より前にも糸はあり、その糸の端を垂れたまままにしておかないようにするために、さかのぼって編み込んでいくこともするだろう。きっと出会うはずだったんだと考えたり、これまでの出会う前の時間にも意味があったと考えたり、磯野さんが宮野さんを魂の分かち合いとして位置付けたように。
そうして、念入りに両端を編み込んで、その人がいつか世界から消えてしまっても、自分の世界にはしっかりと在り続けるように位置付ける。自分の人生に意味づける。

いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向的に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。(p.224)

私は宮野さんに教えてもらった「世界への信と偶然に生まれてくる『いま』に身を委ねる勇気」(p.96)を持ちつつ、明日からの入院と抗がん剤治療にトライしたいと思う。
忘れそうになったら、また、この本を手にとりたいと思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていた人たちと、この本を教えてくれた人に感謝をこめて、筆を置くこととする。

2019.10.31

時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし

小島美羽 2019 原書房

孤独死のリアル。
自分はいつか孤独死をするだろう。
その未来を、怖いけども確かめるような気持ちで手に取った。

予想以上のリアルさに、手に取ったことを後悔する。
ここまでリアルに再現してあるとは予想外で、ミニチュアではなく現場そのものであるかのような写真の一つ一つに、ぞっとした。
生々しさに、ぞっとした。

とはいえ、人が死んだ跡のことを、ここまで率直に描いたものを初めて見た。
死の痕跡を通じて、その人の生を汲み取るような、著者の目線と感性が素晴らしい。
著者は「個人のことを家族のように思いながらいつも作業している」(p.138)という。
だからこそ、ミニチュアで再現された部屋の様子は生々しいが、けして興味本位ではないことが伝わってくる。
最後は孤独死だったとしても、「故人の人生はけっして、不幸でも孤独でもなかった、と思うのだ」(p.85)という言葉に希望を感じた。

ごみ屋敷のことや自殺のことは、職業柄の関心もある。ごみ屋敷という結果をもたらすようなためこみ症(Hoarding Disorder)は、DSM-5から疾患として見なされるようになった。所用物を捨てたり手放すことが難しくて、ためこんでしまうのだ。だが、ここでは実例を知る人のいくつかのごみ屋敷になるルートのようなものが示されていて、興味深かった。
また、自殺者の部屋が驚くほど片付けられていることから、死んでもなお他者になるべく迷惑をかけないように配慮したであろうことが察せられて、たまらなく切ない。自殺の現場の依頼は、年に60-70件あるというから、多い。
が、一番、胸が締め付けられたのは、第6章。
残されたペットたち、と題されたこの章は、猫を飼っている自分自身、明日は我が身として考えなければならない。

伴侶がいたとしても、死ぬ時は一緒であるとは限らず、どちらかは残されて一人で死ぬだろう。
子どもがいたとしても、その死の間際にかたわらにいるかどうかは、別の話だ。
施設や病院にいたとしても、死ぬ瞬間は一人で味わうものである。
孤独死は誰にでも起こりうる。今は自殺が占める割合が高いそうだが、これからの時代はますます増えていくものではないかと、勝手に考えていたりする。
だから、これは、誰にとっても無関係ではない本だと思う。

2019.08.20

イナンナの冥界下り

安田 登 2015 ミシマ社

漢字発生時の「心」の作用、すなわち「時間を知ること」と、そしてそれによって「未来を変える力のこと」(p.5)

イナンナの冥界下りに興味を持ったのは、M.マードック『ヒロインの旅:女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』がきっかけだ。
イナンナがエレシュキガルに会い、Black Motherの顔を得ることが、女性の回復であり成長に不可欠であることを描く下りで、イナンナが登場するのだ。
女性の深い傷つきを語る上で、一度きちんと触れておきたいと思うようになった。

そのうち、この神話が能として演じられたことを知り、ますます興味が惹かれるようになった。
そして、手に取ったのこの本だ。

シュメールの神話は、ギリシャ神話のように物語(登場人物の感情や行動に因果がある)になっておらず、10代の頃にはよくわからないままだった。
それを、こころ=言葉以前の時代の名残として位置付ける解釈に納得した。作者は「あわいの時代」と表現する。
現代とはものの見方や価値観があったことを汲み取るように、最も古い時代の神話を読み解く過程は興味深い。

「死」こそが「心の時代」の最大の産物のひとつなのです。(p.85)

こころを表す言葉を発明してこころを獲得してから、人は過去と未来を認知し、後悔と不安を抱くようになった。
それは極めて男性的な(男性性的な、のほうがよいかな)時代である。
こころと言葉を扱う仕事に就く者としてスリリングで刺激的で、どう受け止めてよいのか。
私の冥界下りを思い出さねば。

これは本屋さんで買うべき本。
手触りの良い、素敵な本だ。

2019.08.10

死者の民主主義

畑中章宏 2019 トランスビュー

四方八方に論が展開していき、刺激的な読書となる。そんな本だ。
あとがきを読むと、どうやら、あちこちで書かれたものを集めたもののようである。
#NetGalleyで拝読したゲラは、第一章「死者の民主主義」と第二章「人はなぜ『怪』を見るのか」だけであるから、余計にこの論がどこに流れゆくのか、見えなかったというのもある。

登場する素材はさまざまで、ハロウィンもあれば、『この世界の片隅で』も出てくる。
『レディプライヤー1』もあれば『遠野物語』もある。
「現生に怨恨をのこす迷える怨霊」が集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが日本の妖怪であると、筆者は定義する。(p.40)

妖怪が存立する理由のなかには、腑に落ちない感情や、割り切れない想いを合理化する機能があった。(p.69)

SNSにおける炎上という現象が、新しい時代の民俗現象として位置付けらるところが、とても興味深かった。
筆者はAIが「やがて人間生活を脅かす妖怪になっていくかもしれない」(p.69)と指摘する。筆者はその兆候はまだ捉えられていないというが、SFのような創作の世界では、常にAIは妖怪になりうるものだった。たとえば、映画「ターミネーター」が教えてくれることである。「ブレードランナー」が教えてくれることである。当時はAIという呼び方ではなかったけれども。

著者は怪を映し鏡にして、微妙で絶妙な角度から現代を映し出そうとしているように見える。
それはSNSが発達して、新たな妖怪が発見されてにくくなった社会である。
それでいて、「東日本大震災以降の、気持ちの落ち着かなさやおさまりの悪さ、もやもやした感情」(p.103)が今も続いており、震災は終息も収束していないことを映していく。
もやもやを処理する機構としてかつて妖怪は優秀だった。妖怪がいなくなったら、そのもやもやはどうしたらよいのだろうか。

前後して読んだ本が、瀬川貴次『ばけもの好む中将8:恋する舞台』であったり、阿部智里『弥栄の烏』だったりして、私の中では死した者とのおつきあいが続いている感じだ。
おりしも8月であり、さまざまな残酷な事件が続いている年であるからなおさら、私自身も、このもやもやを感じている。

幸福なときも不幸なときも、「夢かもしれない」「悪夢のようだ」とつぶやきながら、日本人はずっと残酷な現実を生きてきたのだ。(p.118)

#死者の民主主義 #NetGalleyJP

2018.10.31

さよならのあとで

ヘンリー・スコット・ホランド 髙橋和枝(訳) 2012 夏葉社

手のひらに載るような、小さな絵本。
素朴な装飾と古風な字体の表紙。
ひっそりとしたたたずまいで書架に並んでいた。
存在感は控えめなはずなのに、目が惹かれ、手に取ると、離せなくなった。

1ページに1行か2行。
たっぷりの余白と余韻をもって語られる詩。
たっぷりの空間に柔らかな線で描かれた絵。
その空白が、時間をゆっくりと進める効果を持つ。
一つ一つの言葉や絵に、思いを込めながら読むことになる。

死は何でもないものです。
私はただ となりの部屋にそっと移っただけ。

移ってしまって見えなくなったその人からの温かい語りかけの言葉だった。
さよならのそのあとで、それでもなにも変わっていないのだと教えてくれる言葉。
優しくて穏やかな、慰めに満ちた一冊だ。

自分が身近な存在を亡くしたときに思い出したい。
大切な存在を亡くした人に手渡したくなる。
あるいは、まだ死というものを体験していない幼く若い人に、こういうものであるんだよと学んでもらうことにも役立つだろう。

2018.09.05

永善堂病院:もの忘れ外来

佐野香織 2018年9月5日刊行 ポプラ社

誰しも忘れたくないことがある。
忘れられないことではない。忘れたくないことだ。

主人公の佐倉奈美は、キャリアを断念して実家を離れ、祖父母の住む地方都市の物忘れ外来で働き始める。
様々な老いや死の物語が、若い女性の成長と回復の物語に転じていく。

ぴんぴんころりも、ねんねんころりも、どちらも、悲しいものである。
逝かねばならないものの押しつぶされそうな不安。
がんや認知症の病気そのもののダメージも人を不安にするが、それは死のとば口であるという認識が不安を大きくする。
自分はこれから死に向かって残り時間を過ごしていくのだと、改めて気づいてしまう瞬間から、情緒は波打ち、悲しみや怒り、様々な感情を引き起こす。

世界から人を隔絶する膜がある。見えない膜だ。
その膜は、病気だったり、傷つきだったり、孤独そのものだったりする。
祈りが膜を乗り越える時があることを信じるのが、支援職の仕事でもある。
見送らねばならないもののいつまでも尾を引く後悔を解きほどくこともだ。

すべての人が苦しみが少なく、心満ち足りて、静かに眠るように逝くことができるといいのに。
その人生の再晩年期を、その生きて働いてきた苦労が報われるようなものであってほしい。
老いや死を扱いながらも、可哀想な物語に仕立てあげることなく、爽やかで穏やかな気持ちになる稀有な物語だった。
なかでも、老医師夫婦の和解の物語が、とても素敵でたまらなかった。

レビー小体型認知症に前頭側頭型認知症、脳血管性認知症。
そう。認知症の種類は、アルツハイマー型だけではない。
サルコペニアやフレイルなど、馴染みがないとわかりづらい言葉もあるだろう。
老いや死は誰しも避けて通れないものであるが、自分や肉親がそうなってみないとわからない人もまだまだ多いと思う。
こういう物語の題材になることを通じて、これが当たり前に起きることだと、もっともっと身近なものになってほしいものだ。

死は、その人が最後にできる教育だと、私は思う。
主人公がそのプレゼントを受け取りながら成長していく。
誰かにそうやって受け継がれていくから、無駄な死は、無駄な生は、ひとつもない。
そうやって世界は、今日も回っていくだろう。

#永善堂病院 #NetGalleyJP

2017.08.18

わたしのげぼく

上野そら 2017 アルファポリス

猫と別れた記憶のある人、猫と長い時間を過ごしてきた人には、たまらない一冊だ。
私の友人知人たちで猫好きな人たちを、巻き込みたくなる涙腺破壊力だ。
猫じゃなくてもいい。犬でもいい。うさぎでもいい。鳥でもいい。
人ではない家族とかつて一緒に住んでいたことのある人たちに贈りたい。

主人公は表紙の偉そうな猫さん。ハチワレのオス猫さん。
飼い主家族の少年を「げぼく」と呼びながらも、愛情たっぷりな猫さん。
その猫さんの紡ぐ言葉が、いつの間にか、自分の愛した猫たちの言葉に重なり、心の柔らかなところをわしづかみにして、ぐいぐいと涙をしぼりとられた。

昼休み中の職場で、上司の目の前だというのに、止まらなかった。
思い切り不審な目で見られたが、この絵本ならば仕方ない。
泣くとわかっていても再びページを開けてしまうような、中毒性まで有している。

これはどう考えても、大人向けの絵本だ。
ティッシュペーパーを先に用意してから読むことをお勧めする。

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