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香桑の近況

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**死を思うこと**

2016.11.11

f植物園の巣穴

梨木香歩 2012 朝日文庫

主人公は園丁で、植物園に勤務している。
いくつも出てくる草木を、それとわからぬ時には、一つ一つ調べながら読み進めた。
戦前の文学を読んでいるかのような文体に、一度目は途中で投げ出した本だった。
久しぶりに取り出して読み始めた時、丁寧に草木を調べながら、景色を思い浮かべるようにしてみた。
梨木さんの文章に無駄がないように思う。
だから、わからないところを飛ばすのではなく、一つ一つ立ち止まりながら、主人公が迷いこんだ町を歩いてみようと思ったのだ。

萩原朔太郎『猫町』や、宮沢賢治が描くような、現実から地続きの異世界を思い出す。
もしくは、ジブリの『千と千尋の神隠し』。
先ほどまでは普通の現実の世界だったのに、自分でも気づかぬうちに幻想の世界をさまよっているのだ。
気づいていないから、いつも通りの行動をとろうとする自分。
しかし、いつも通りにはありえないことが次に次に起きる。
人の頭が雌鳥に見えたり、歯科医の家内の前世が犬だったり、お稲荷様が世話を焼いてくださったり。

これは夢の世界。
夢の中では、不思議なことがよく起こる。
情報が圧縮されて、自分の中で似ているものが重なり合ったり、違う姿で現されたりする。
人は自分の心を守るためにさまざまな防衛をしている。
自分に都合が悪いことは、別のものに置き換えて記憶されていたりする。
意識は、だから自分の無意識にしまったものをすっかり忘れていることもある。
夢の中で、人は記憶を整理する。
意識では処理しきれないも痛手を、無意識が解決しようと、何度も何度もトライする。
ほったらかしにしたら心が立ち行かなくなるような失敗も、夢の中なら安全に扱える。
そうやって処理していく過程だと気づいた時から、物語の不思議がすうっと私自身になじんだ気がする。
夢/無意識の中で起きる現象を、上手に取り入れて、かつ、表現された物語だった。

解説の通り、読み終えてから再び冒頭に戻って読み始めると、さまざまな小さな単語やエピソードが、実は全体を暗示する象徴であったことがわかる。
理性と知性が幾重にも防衛した奥底に流れる川は時間であり、無意識である。
時間を正しくさかのぼり、正しい流れにすることを、心が求めていたのだろう。
もう記憶を迂回をしなくても、正しい流れになる日が来たと知っていたのだろう。
静かな感動がひたひたと胸に溢れてくるような物語だった。

大きな悲しみを味わったことのある人の、心の過程をこれほど美しく描いてあるとは。
ずっとほったらかしにしたことを、もったいないことをしたと思ったが、これも今だから味わえたことと思うことにしたい。

2016.08.26

アンマーとぼくら

有川 浩 2016 講談社

出ることもチェックしていなかったぐらい、有川作品への興味も下がっていたけれど、これはいい本。
評判通り、綺麗な表紙なのもいい。
表紙の意味がわかるのは、読んでからのことだけど。
タイトルの意味がわかるのも、読んでからのことだけど。

号泣すること、2回。
これはね、泣くよね。
泣けない人とか、泣かない人とかもいるけど、私は泣くなぁ。
最後はどうなるか途中で予想がついたけれども、これは泣くよ。

主人公のリョウが、沖縄に到着したところから始まる奇跡の3日間。
沖縄でガイドをしてきた継母の3日間の休暇につきあう旅だ。
王道の観光名所を回りながら、過去と現在が交錯する。

過去は変えられない。本当ならば。
これを主人公のための、3日間と受け取る人もいるだろう。
過去の記憶の書き換えはできる。感じ方を変えることもできる。
主人公が自分の子ども時代の記憶を救済するための過程と読むことはできる。
でも、これは、晴子さんの魂が慰撫されるたのめの3日間だったと思うのだ。

だって、この後、主人公はやっぱり後悔せずにはいられないと思うのだ。
もっとそばにいればよかった。もっと一緒にいればよかった、と。
いくら、この後、沖縄に転居してきたといっても、事あるごとに思い出す。
そして、自分ができたかもしれないのにしなかったことを考えるのではないか。
後から、後から、気づくことは出てくる。後になってからしか、気づけないことがある。
そんな含みを、勝手に付け加えておこうと思う。

複雑な家族関係のあたりは『明日の子供たち』の取材の成果かな。
北海道の描写は、『旅猫レポート』とか。
植物の種類と写真は『植物図鑑』ね。
観光地を回る感じは『県庁おもてなし課』だろうか。
これまでの作品が透けて見えるような、薄様が幾重にも重なり合っているような。
これまでの取材が程よくブレンドされて、熟成されたような印象があった。
感情表現はこれまでになくとてもストレートで、押し付けがましいほど、文字が浮いて感じることもあったが、感情の強さを表すには他になかったような気がするし。
ここ最近の作品の中では、好きなほうに入るかもなぁ、と思った。
強い強い感情をまっすぐに投げつけるような小説だった。

あー。沖縄、行きたいなぁ。
飛行機、乗りたいや。

2015.07.06

黄泉坂案内人

仁木英之 1994 角川文庫

これは好きだなぁ。
小説の感想を頭の中でまとめる時、どんな本を読んでいる人に勧めたらいいだろう?という視点で考えてみる。
この本の世界は、香月日輪さんの妖怪アパートに似ている。少し懐かしい景色と美味しいご飯、生活の中に当たり前のように存在する妖達。
この本の世界は、恩田陸さんの常野物語にも通底しているようにも思えるし、村山早紀さんの風早町シリーズのような優しい空気が流れている。

この世とあの世の境。
六道の辻のある辺り。
黄泉坂を上った先、川の手前に、その集落はある。
かつて奈良県にあったという入日村。玉置神社に見守られる山裾の村だ。
村長大国の取り仕切るもと、村人達は黄泉坂を上りかねている人を励ましてきた。
成仏しきれない魂はマヨイダマとなってしまうから、そうならないように成仏を手伝ってきた。
そんな村に、主人公は引っ張り込まれる。名前まで盗まれて。
この世とあの世を繋ぐ案内人になるように。

道案内をする三本足の烏は、やったんというからには、八咫烏に違いあるまい。
鍛冶の神様であり、特別製のクラシックカーまで作り出したのは、だいだらぼっち。
河童が釣竿を肩にかついで道を歩き、神社の禰宜を天狗が勤める。
神様と妖たちと共存する世界で、主人公のハヤさんはこの世に残した妻と娘を思いながら、死者たちの心残りに触れていくのだ。
その死者一人一人のドラマが、どれもまた珠玉の味わいで、しんみりとしたり、ほろりとしたり。
けれども、ハヤ君の相棒を勤める彩葉という元気のよい少女のおかげで、決して暗くはない。

この二人の名コンビの設定でいくらでも死者達のドラマをつむげそうなものを、作者はそうしなかった。
これはこれで終わり。続巻は彩葉の物語になるようだ。
言い尽くさなかったところに、想像の余地が残るのもよいと思う。切ないけれど。
ハヤさんの物語として読むと、大好きな山之口洋さんの『天平冥所図会』を思い出した。
要は、とても私の好みの本だったということ。

自分が最後にひとつ、思い残すとしたらなんだろう。

2015.05.01

営繕かるかや怪異譚

小野不由美 2014 角川書店

その人は、ほんの少し影が薄い。
どの物語でもそっと登場する。
尾端と名乗る。
繕いを営む人だ。
その屋号が営繕かるかやである。

古い町屋の多い小京都、城下町。
海が近く、海抜が低い。川が流れている。
そんな土地柄に越してきた人たちが、障りを感じる。
世代交代によって由緒や由来の失われた障りばかりだ。
新しく住人になった者は障りに気づいて戸惑い、不安や恐怖を持つ。
由緒や由来が失われているということは正体が不明であることを示し、対処が不明であることを表す。

建物自体を取り壊そうとしたり、庭を作り変えようとしたり。
建築業者や造園業者を通じて、その人が呼び出される。
霊感はないという人は、手当ての方法を編み出す。
閉め切られた部屋に窓を、閉じこもりたい人に隠れ場所を。
すべてを暴き立てるわけでもなく、打ち壊してやり直すわけでもない。
そっと、必要最小限に見えるぐらいの懐に優しい修理を提案するのだ。
営みを繕うために。

刈萱といえば茅葺屋根にも使うススキによく似た植物である。
今頃の季節のアレルギーのもとにもなったりする。
幽霊の正体見たりというが、となると、尾端を名乗る人は。
あまり多く語られないだけに、想像が膨らむ人物だった。

『残穢』もホラーであったが、決定的にベクトルが違う。
前作は、怪異の原因を突き止めようとして、ますます怪異が広がる物語だった。
それは病の感染するのにも似て、対処するために原因を探ろうとする営為が無効化される不安感と恐怖の物語だった。
怪異が深刻化・広範化されるにつれて、日常が非日常にスライドしすぎる感をおぼえた人もいるかもしれない。
私にとっては、住所に物語が近づいてくる恐ろしさに、かなりひどく怖かった。

それに対して、営繕かるかやでは、原因追求しない。
するのは、徹底して対処である。現実的に可能な対処である。
それも、相手を殲滅するような対策を練るのではない。
相手を尊重することによって無害化するような対応である。
言い換えれば、敵対関係そのものを無効化するようなものである。

古い日本家屋。
今は取り壊された祖父母の家を思い出した。
あの家で読んだら、もっと背筋がぞくりとしたかもしれない。
6篇のうち、ぞわぞわとした怖さを感じたのは、最後の一話だった。
これは実は救いの物語である。
著者が自分自身に投げかけた言葉でもあったのだろうか。

読み終えてから、家鳴りが少し怖い。
こないだ死んだばかりの猫が里帰りしているなら、大歓迎だけど。

2014.11.14

ベイブルース:25歳と364日

高山トモヒロ 2009 ヨシモトブックス

最近、映画化された本である。
読む前から泣くだろうな、と思った。
書き出しから胸が痛くなる。

筆者の苦労のあった少年時代から野球との出会い、野球を通じて相方と出会う高校時代。
さながら青春小説のように、キラキラとした思い出が語られる。
飾りの少ない言葉でとつとつと語られる、それからのこと。
じわじわと予感を感じながら読み進めていくしかない。

数年のずれはあるけれども、似たような時代を生きてきた。
こんな人もいたなぁ、うんうん、こんな感じだったよね。
懐かしい名詞がそこかしこで出てきて、重ね合わせるようにして読んだ。
それにしても、芸人さんの中で師匠と呼ばれる人たちって、かっこよい。
どんな風に後輩さんを支え、育てるのか、垣間見させてもらった。
描かれていないことだっていっぱいあるのだろうけども、キラキラしているところだけを集めてあるからこそ、この本は大事な宝箱のように感じたのだ。

それにしても。
25歳は若いなぁ。
一日長かったとしても、たったの26歳。

残されたものにとっても、若いからこそ、その別れの打撃が大きく、乗り越えがたいものに感じられたと思うのだ。
どう受けとめていいのか、本当にしんどかったのだと思う。
きっと、この本を書かないことには、この人は前に進めなかったのだろう。
先に進むことは、死者を忘れることではないし、悲しみは消せないものなのだから。
そんな一区切りになるよう、思い出を刻み込む。
いつまでも、いつまもで、この世に残るように。
何年経っても生々しい、その人の記憶を。別れの記憶を。後悔を。
その生々しさは創作ではないからこそ、その人たちの在りし日を知らなくても、涙を誘った。

2014.05.01

旅猫リポート

有川 浩 2012 文藝春秋

世の中には、何度、読み返しても号泣してしまう本がある。
この本も、間違いなく、そんな魔法がかかっている本の一冊だ。

19歳になるかならないかの猫が死んだ。
心臓発作を起こし、一気に衰弱して死んだ。
この本が出たのはその頃で、友人が有川さんのサイン入りを手に入れたからとプレゼントしてくれたが、今は読まないほうがいいだろうと口を揃えて言われた。

もうそろそろいいだろうか。

京都に旅行に行く道連れに選んだところ、前半を読みつつ行きの新幹線の中で落涙。
京都の街中で、よーじ屋を見るたびに涙ぐみ。
後半から最後まで読み上げた帰りの新幹線は涙が止まらず、すっかりとあやしい人になってしまった。
読み終えて呆然としながらも、また、ページをめくらずにいられない。

ああいかん。これを書こうとしてページをめくったら、また、涙が出てきた。

そんな風に、泣いてしまうとしか、書けない。
どこを読んでも涙が出てくる。
どこから読んでも最後まで見届けたくなる。

サトルという青年と、ナナという猫の物語。
青年は猫をつれて、銀色のワゴンを走らせる。
僕の猫をもらってください、もう飼えなくなったから。
困ったように、信頼できる友人達をめぐっていくのだ。
この物語は、それ以上、知らずに読んで欲しい。

先に死んだ猫には、同じ年に生まれた姉妹がいて、当然ながら21歳。
よれよれしながら、でも、まだ生きている。
そのぬくもりを感じながら、いつかどこかで、また出会う日を思う。
この子は、きっと私の猫だなぁ。この子の相棒は私と思ってもいいだろうか。
別れても、別れても、別れても。
いつかどこかで、また。

2012.06.10

彩雲国秘抄:骸骨を乞う

雪乃紗衣 2012 角川書店

一人ずつ去っていく。
中年期以降の人生の課題である。
見送ること。置いて行かれること。
老いていくことは置いていくことになる。
最後に自分自身もまた逝くからだ。

彩雲国物語を読んだ人にしか、お勧めしづらい。
しかし、彩雲国物語をハッピーエンドのまま、「いつまでもいつまでも幸せに暮らしました」と胸の宝箱にしまっておきたい人には勧めない。
ここの描かれるその後の日々は、何かを得る日々ではなく、何かを失う日々であるからだ。

悠舜、旺季、晏樹を追いながら、これまで失うことの多かった人たちの人生が語られる。
どの話も切ない。本編において、敵役であり、最後に負けた旺季はどのような人物だったのか。
最後の大貴族。本編でも魅力的で存在感のあった旺季を中心に改めて描くことで、戩華王との争乱の時代とその死も語られていく。
この三人は、秀麗や劉輝と異なり、戦争の経験を背負っている。死を背負っている。自らが殺してきた多くの命を。
骸骨を踏みにじりながら生きてきた。その自分が骸骨を乞う時が来る。

そして、劉輝。
大事なものを失いながら、心を穴だらけにしながら、引きずるように生きてきた王。
すり減って脆くなった王の心を癒しながら、潤しながら、豊かに満たしていく秀麗との愛情に満ちた日々。
こんな風に愛し合えればどんなに素敵なことだろう。途中から涙が出てしょうがなかった。
美しくて悲しい、輝きの日々。いつまでも輝き続ける日々。心を満たし続ける輝き。

紫仙や黒仙は何を思ったのか、明瞭には語られない。
しかし、まさか、藁人形だけが残ったりしたら、黒髪の軍師も不本意だと思うけどなぁ。

最後に、それまでの気分を入れ替えるように、悪夢の国試組の国試の時の物語が添えられている。
鄭悠舜、紅黎深、黄鳳珠、菅飛翔、来俊臣、姜文仲、そして、劉志美。
本編で決して登場回数が多かったとは言えない人物もいるが、誰もがかなり個性的で印象的。
いや~、やっぱり鳳珠が好き。この顔触れの中ではまともな方なんだけど、ちょっと変わり者で好きだなぁ。
お気に入りキャラとこの本の中で出会えた人はラッキーということで。

志美を通じて改めて、戦後を生きることの難しさが語られる。
阪神淡路大震災で人口に膾炙され、東日本大震災でも話題になったPTSDというものがある。
この異常な事態に対する自然な反応としての心身の症状は、もともと第一次世界大戦や第二次世界大戦、ヴェトナム戦争といった戦争帰還兵に特有の問題行動や症状から、研究が始まった。
その意味において、この本で描かれる喪失を抱えながら生きていくという課題は、東日本大震災を経て、多く共有されうるものであると言える。
と同時に、シリアのニュースを見たり、スーダンやソマリア、内乱や戦闘が続く土地はまだまだ多い。その世界で、この物語は繰り返され続けている。現在進行形で。
だからこそ、今現在は戦闘状態にはないこの国で、戦争をおそらくは体験としては知らないであろう世代に読まれる意義が、きっとあるのだと思う。
泣きながら、そんなことを思った。

2012.03.14

どうせ、あちらへは手ぶらで行く

城山三郎 2012 新潮文庫

『そうか、もう君はいないのか』を読み、続けて、城山氏の人となりに触れてみたいと思って、本書を買ってみた。
内容的にも、作家が書いていた日記のようなメモのうち、最後の9年間のものになる。
元気な妻と過ごした最後の一年間から、作家自身が死ぬまでの経過をたどることができる。
その点でも、この二冊はあわせて読む価値がある。

解説で真山仁氏が、「私たちには、『読まれることを想定して綴る言葉』と『自らの心の叫びや戒めとして刻んだ言葉』がある」(p.187)と書いている。
作家が人に読まれることを想定せずに書いた言葉は、妻を亡くした悲しみ、日々老いていくことへの不安に満ちている。
その中で、折れそうな自分を叱咤するように「楽しく、楽に」と自らに言い聞かせる。
娘や孫と過ごす時間を一番の幸せに感じつつ、仕事をうまくこなせなくなっていくもどかしさや嫌気。
物忘れが増えて、一人では立ち行かなくなりつつあると、途方に暮れる男性。

かんじんのお前が居ない。(p.88)

妻の夢を見ることの幸せと、目覚めた後の身を切られるような寂しさ。
時間が経っても、ふと、涙がこみあげてくる日があったことが伺える。
愛する伴侶をなくした人の心の記憶として、人が老いていくプロセスとして、この日記は災害で家族を失った人にも届く思いもあるのではないか。
それにしても、お酒の飲みすぎ。心配になるじゃないですか。酔いが醒めると眠気も覚めるのだから、眠れない人が痛飲しちゃだめーっ。痛々しくて居たたまれない。

最後の最後に、日記は1951年に戻る。
心憎い。やられたーっと思った。
瑞々しく、美しい出会いの記録だ。

次女の手による本書出版の経緯に、また泣かされた。
確かに、自分の両親の手紙や手帳、PCや携帯の中のメールなど、捨てるに捨てがたいが、見るに見がたいことだろう。
それに触れるまでには、子として親の喪のワークを勧めなくてはならなかったであろうが、しかし、私は、『そうか、もう君はいないのか』と『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』の二冊は、広く愛される本ではないかと思い、読めてよかったと思った。
含蓄のある言葉も多く、引用しておきたくなる。学ぶことの多い、人生観だ。
タイトルの元になった「歩け 歩け」の詩は、老い行く両親に読ませたいと思った。ほら、こんなもんだよって。ほかの人だって。

『読まれることを想定して綴る言葉』は仕事で使う言葉である。これは残ることは仕方がない。
このブログに書く文章は、私にとっては『自らの心の叫びや戒めとして刻んだ言葉』の率が高い。
名を隠し、顔を隠すことによってしか、私は叫ぶことができないから。
一番、聞いてほしい人をわずらわせてはいけないから、ここにあそこに叫ぶ。

さて、次は何を読もうか。
この本と一緒に『指揮官たちの特攻』を買って帰ったのであるが、案の定、私が読む前に父に取られてしまった。
山之口洋の『瑠璃の翼』も父が持っていって、「あなたは読まなくていい本だから」と言われ、そのまま父のものとなったので、同じ運命になるかもしれない。
代わりに、父が同じ城山氏の『役員室午後三時』ほか数冊を貸してくれたのであるが、どれも分厚い。
うーん。

2012.03.12

そうか、もう君はいないのか

城山三郎 2010 新潮文庫

こんな夫婦になりたかったーーーーっ。
穏やかで暖かい筆致で語られる夫婦の姿に、胸がほっこりとする。
出会いから結婚、子どもたちが巣立ってからの生活、旅行の数々。
妻への愛情と敬意がひしひしと感じられ、思わず微笑したくなる。

タイトルが、気になっていた本だ。なんとも言えない響きに惹かれていた。
改めて、ふと、大切な人の不在を実感するときの、その溜め息のような悲しみ。
この人の小説を読んだことはなかったし、作家が最後に書いた亡き妻との生活、没後に発見された原稿ということで、読んだら泣くと思って手が出なかった。
だから、こんなにも温かさに満ちた思い出としてパートナーを語れることに、感激した。

とはいえ、半ばに挟まれた詩の2編を読んだとき、号泣スイッチon。
続いての、奥さんのガンの発見と闘病のくだりになると、もう。
でも、こんな風に。
こんな風に手をつないで、年を重ねていきたかった。
一緒に老いていきたかった。
別れる、その瞬間まで。
羨ましいこと限りない。

城山氏の遺稿に続き、妻を亡くしてからの、城山氏のその後が、次女によってつづられている。
夫婦の愛情。親子の愛情。家族の密な時間が率直に語られていた。
これも、たまらず、泣いた。思い切り泣いた。
職場で読むのは大きな間違いだった。花粉症の季節で幸いした。
そして、解説は児玉清氏。これはこれで、また、切ない。
愛情に満ちた、素晴らしい一冊だった。

パートナーとは、一緒に生まれることがないように、一緒に死ぬこともない。
短いか長いか、一緒に生きることができるだけ。
パートナーの不在に、私もまだ、うまく慣れることができない。
その貴重な喜びの時間を書き留めることを試したことがあったが、書くと書ききれない膨大な情報が漏れ落ちる上に、自分が泣き崩れてどうにもならなくなるので挫折中。
こんな風に、暖かな記憶を記録できれば、それは私の記憶がいつかおぼろになってからも宝物のように輝き続けるだろう。
またそのうち、ゆっくりと取り組もうと思う。

別れの後は、私にとって余生である。
奇跡を思い描くことはなく、希望を抱くこともない。
恨みや憎しみはないし、私は自棄を起こせるたちでもない。
幸せも喜びも半減するとも、余生は余生らしく、淡々と過ごしたい。
人が孤独を背負う手伝いを生業にしながら。

2012.01.13

死ぬ瞬間:死とその過程について

エリザベス キューブラー・ロス 鈴木 晶(訳)  2001 中公文庫

久しぶりに読み返す機会があったのだが、ここにレビューをアップしていなかったことに気付いた。

死は、いつか必ず目の前にある主題だ。
この本は死の問題を扱うときに欠かせぬ名著だ。
死の過程の図は、非常によく引用される。
まず、「衝撃と不信」の段階があり、次に「否認」、そして「怒り」。「取り引き」を経て、「抑うつ」に至り、「受容」を迎える。
これらの段階は不可逆的に一方的に進むわけではなく、行きつ戻りつするものであり、必ずしも受容に至るとは限らない。

著者とその仲間達は、末期がん患者200人以上にインタビューした。
著者の質問法、コメントの仕方、解釈には、今でこそ異論や批判があるかもしれない。
が、病を患い、自らの死というものに向き合わざるをえなくなった人々の言葉は、時を経てなお読む価値がある。
著者がインタビューした人々は、もうとうに死んでしまったことであろうと考えると、ぐっと圧倒される迫力があった。

その後の著者の動向は横において、死の臨床というそれまで未踏地だった主題に取り組んだ業績は大きい。
以下に引用するように、死という彼岸に渡る営みを見守り続けることは、著者に宗教的な境地をいたらしめることになった。
此岸から彼岸を語ることは、此岸にいるものは彼岸にいることができないがゆえに、超越的な言語を用いざるをえなくなる。
とはいえ、終末期医療の臨床に携わる人はもちろん、臨床家でなくとも、人の間に生きていると、自分の死、他者の死がいつか必ず待っているのだから、時には死について考える機会を持つことも前向きな営みではなかろうか。

「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏かな停止であることがわかるだろう。人間の穏かな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二の存在であることがわかる。そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。七十歳を過ぎるまで生きられる人は多くはないが、ほとんどの人はその短い時間の中でかけがえのない人生を送り、人類の歴史という織物に自分の人生を織り込んでいくのである。(p.448)
(2006/6/22)

私は、左手が死に触れているような感触をイメージする。
それは水に似ている。質感や温度を伴って、指先に感じる。中指と薬指のたあたりに。
私が自らその水面に飛び込むつもりはない。誘惑があったとしても、そこに引きずられないための手を打つ。
しかし、私はそこに惹きつけられずにいる人がいることを忘れないために、あるいは今にもそこに戻りゆく人がいることを忘れないために、ただ、触れ続けていたいと思っている。
死は、私の、逃げることのできない、現実である。

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

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