2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

**平和を祈ること**

2017.06.05

私の方丈記

三木 卓 2014 河出書房新社新書

国語の教科書で触れた時から、方丈記は私にとって特別なものである。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
この世界観は私に馴染み、今も私の根底の一角を成している。

だからと言って、全文を読んだ記憶が希薄で、本屋さんでこの本を見かけた時には自然に手が伸びた。
三木さんの現代語訳は、あとがきで著者が企図したと書いてある通りに、読みやすい。
ただただ内容を味わいたい身としては、対訳で表記されているよりも、現代語訳は現代語訳だけで表記されていることも読みやすかった。

鴨長明は、人生でうまくいかないことが続き、50歳を過ぎて僧になった。
60歳を過ぎて、京の街中から外れたところに庵を結び、静かでのんびりとした生活を過ごす。
独居老人生活の見本というか、手本のような人であるが、言うほど楽ではないんだろうなぁと思ったりする。
彼が書き付けたつむじ風や遷都、飢饉、地震といった世の中の恐ろしいことは、当たり前であるが現在とまったく違いはない。
仏僧の生活を送っているはずが、世俗の苦しみと山暮らしの楽しみに心が囚われていることに囚われているのではないか。
そういう極めて個人的な文章だった。

分量として意外に短い。

その方丈記の現代語訳の後に、それぞれの段にインスパイアされた三木さんの「私の方丈記」が収められている。
大陸で過ごした戦前から戦直後に引き揚げてきてからの生活がつづられており、今、この本にひきよせられた理由はここかと思った。
戦争の体験、戦争の記憶である。兵士ではない人が体験した、無政府状態の混乱や恐怖、その後の飢餓や喪失が、どこか軽妙で気負いのない口調で語られる。
この方は私の父よりも少し年上であるが、三木さんの描いた東京の景色に、父の子ども時代を透かし見ることができた。
きっと、たくさんの人がつらかったり、苦しんだ。そのことを、この国はもう忘れようとしている。
隔世の念があり、とても同じ場所で起きたことであるとは思えないような一瞬を、体験した本人だって感じているけども。
でも、繰り返しちゃいけないよね。

世の中には、集団をあつかうのがうまく、いつも状況の中でもっとも適切なことを全体にとって望ましい結果にむかって導いてくれる、すばらしい人物がいる。(中略)
でもぼくは、そういう人間が、密室の部屋にもどって一人になったとき、どういうことになっているのかが、少し気になる。(中略)
ぼくは、かれがふだん見るかれとは似ても似つかないものになっていることを願うし、また事実そうなっているだろう、と思う。自分一人の空間で自分勝手にふるまう、ということは、つまり自分を意識しない自分になっていること、である。そういう時間はだれにとってもなければならないものである。(pp.143-145)

この著者の言葉、人間観が素敵だなぁと思った。
現実的で良識的な感覚に裏打ちされた、あたたかなまなざしを感じる。
私自身がこれから年を重ねていくときに、こんな風なまなざしを持っていられますように。

巻末には方丈記の原文を収められている。

2017.04.24

憲法という希望

木村草太 2016 新潮社新書

国家の三大失敗は、「無謀な戦争」、「人権侵害」、「権力の独裁」である。
このように、著者の説明は、非常に簡潔でわかりやすい。
憲法は、「ごく簡単に言えば、過去に国家がしでかしてきた失敗のリスト」(P.25)である。
その失敗を繰り返さないために、憲法は軍事統制(第2章)、人権保障(第3章)、権力分立(第4-6章)を三つの柱にしている。
指摘されるまでもなく、世界を見渡せば、これらが保障されている生活は意外と当たり前ではない。
当たり前のように生活しているけれども、日本だって、この憲法が制定されて、まだ100年と経っていないのである。

著者は政府を批判する時には、憲法が示す国家がやりがちな失敗を参照しながら、具体的に根拠と対案を述べることを勧めている。
そのような考え方をする例として挙げられているのが、夫婦別姓と沖縄の基地問題である。
前者は人権条項を使いこなすことであり、後者は地方自治は有名無実化されかねないことの議論となる。
どちらの議論も、著者の言葉には説得力がある。直感や情緒に頼らず、同情票を集めるのではなく、差別感情を煽るのでもない。
理詰めの論の展開には納得がいく上に、私のような法についてのど素人にもわかりやすい平易な文章だった。
沖縄と基地の問題を、自分なりに咀嚼する大きな一助となった。

私は、恥ずかしいことではあるが、漫然と、日本という全体のためには、地方が我慢するのも仕方ないのではないかと思ってしまっていた。
一部の沖縄バッシングに眉をひそめたり、過剰すぎるがゆえに違和感を感じたとしても、何がどう問題であるのか、よくわからないままでいた。
本書には、日本政府がいかに手抜きをしてことを進めようとしているか、その過程についての反論が「木村理論」として三段階で示されている。
第一に国政の重要事項は国会が法律で定めなければならない(憲法41条「立法」)、第二に自治体の自治権をどのような範囲で制限するのかを法律で定めなければならない(憲法92条「地方自治の本旨」)、第三に特定の地方公共団体だけに適用される法律はその住民の同意がなければ制定できない(憲法95条「住民の投票」)ことの三段階である。

法律がなくとも何事も閣議決定という形で、すべて内閣で決めればよいという、現在の内閣の問題点がくっきりと浮かびあがる。
基地の有無の問題ではなく、地方自治が守られるかどうかの観点で見ると、政府が決めたから文句を言わせないという前例を作らせることが、恐ろしいことがわかる。
著者は「辺野古に米軍基地を設置する根拠法が本当にないのだ、ということにぞっとした」(p.105)というが、私はこのことに対する国の答弁や反論のかみ合わなさに寒気がした。
かみ合わなくてもごり押しする。相手が納得しようがしまいがかまわない。やりたいと思ったことをやる。そんな姿勢が透けて見えるようで、寒気がした。

私は改憲には反対である。
原則を変えてよいのは、ほかにあらゆる手段を講じてもなお、問題解決が図れなかった時だけであると考えるからだ。
原則を安易に変えてはならない。少なくとも、原則を変えなければならないほどの要請があると、私は感じていないからである。
ましてや、失敗の歴史をなかったことにするかのような、懐古主義的な復興主義のに追従するつもりはまったくない。
そう考えてはきたが、この数年、改憲へ向けて流れが向かっているような危機感を感じてならない。
その流れに、感覚的や情緒的ではなく、理論的に、かつ現実的に、自分が反対表明を示す論拠がほしいと思うようになった。
それが、私が改めて、憲法というものについて学びたいと思ったきっかけである。
「憲法は『よりよい社会にしたい』という国民一人ひとりの希望から形作られるもの」(p.114)であり、権力者に憲法を守らせるように見張るのは国民一人ひとりだ。
「憲法は日々を生きる私たちの味方」(p.114)であるのと同時に、私もまた憲法の味方でいたいと思った。

どうか、一人でも多くの方に、憲法という希望を守ってもらいたい。自由を守ってもらいたい。自分と自分の大切な人、その未来のために。

2017.04.15

ライオンと魔女と衣装ダンス:ナルニア国物語2

C.S.ルイス 土屋京子(訳) 2016 光文社古典新訳文庫

私にとっては世界一の物語だ。
映画は見たが、大人になって初めて読む。
今、この時に読むことで、この物語の背景には戦争があることを、ひしひしと感じた。

遠い昔。
初めてこの本とであった時、それはDQ2をプレイしたあとで、ファンタジーの洗礼を受けた後だった。
寝る間を惜しんで本を読むのは初めてのことだった。
目の前に新しい世界が開ける。飛び切りの美しい景色。
アスランのかっこよさ。魔女の憎々しさ。
主人公達と一緒に冒険をするように、世界に引き込まれた。

その冒険を、こうして新訳を読むことで、再び体験することができた。
初めて読んだ時よりは、今のほうが植物の名前を知り、イギリスの景色を見て、食べ物を味わったことがある。
もぐりこめるようなたんすとは中々出会わなかったが、押入れの中にはもぐりこんでみたものだ。
ターキッシュ・デライトを食べてみたことだって、もちろんある。試してみたくならなかった人がいるだろうか。
セピア色になって輪郭もおぼろになっていた古い写真が、時間を巻き戻して鮮やかな色合いを取り戻し、動き出していくかのように、目の前に蘇っていった。

戦争中、田舎の邸宅に疎開してきた四兄弟。
ビーバーさんの言葉やタムナスさんの行動、そこかしこに、戦争の臭いがしている。
スパイの容疑をかけられる。人権も裁判もなにもなしに一方的に裁かれる。目をつけられないか、司法や権力の気を損ねないか、びくびくしながら生活する。
戦場でピーターが青ざめたり、吐きそうになることにも、リアリティが漂っている。
ここでは誰も笑わないって言い方は、笑われる場合があるってことで、それは物語の外の現実しかありえないではないか。

この物語は、書き手のルイスがつらい時代を知っていたから、物語ることができたのだと思う。
暗くつらく厳しい時代に、子ども達の心を守るように紡がれた物語なのだと思う。
大人が子どもに話しかけるような口調に安心しながら身をゆだねるように、つらい現実から異なる世界へといざなわれ、活き活きとした心を取り戻す物語なのだ。
今こそ、必要な物語だと思う。

2017.02.08

暗幕のゲルニカ

原田マハ 2016 新潮社

これはなんという小説か。
闘いなさい、と青ざめる主人公に声がかけられる。
ものの100ページも読まないうちに、鳥肌が立った。

本当にあった出来事をもとに書かれている。
イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルの記者会見の際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたという出来事があったそうだ。
国連本部に飾られていたはずのタペストリー。
それが、ピカソのゲルニカのレプリカだった。
実物大で、ピカソ自身が監修したというタペストリーだった。
この一件があり、タペストリーの所有者は、国連本部から他の美術館に移したという。

その出来事に立脚されているが、物語中の「現在」は仮名を与えられた人物達が生きる、少し仮想の現在になっている。
その少し仮想の21世紀と、「ゲルニカ」を描いているピカソとそれを撮影するドラ・マールが生きる20世紀が、同時進行に語られる。
少々、複雑な進行をしているわけだが、ゲルニカの空爆と9.11やイラクへの空爆がぴたりと重なり合い、その野蛮に対するアートからの抵抗が呼応する。
そして、ドラのピカソへの愛と、瑤子のイーサンへの愛が共鳴しあう。
どこまでが事実に基づいており、どこからが創作であるのか、溶け合ってわからないほど。
物語がどこへたどり着くのか、ページを繰るのももどかしくなる。

ゲルニカ。
その絵をいつかどこかで見ているのかもしれないが、私はどこで見たのだろう。
スペインには行ったことがない。
ニューヨークには、1982年、1992年に行っているが、これはゲルニカ返却後になる。
母がピカソの青の時代が好きだったから、どこかでなにかのピカソの特別展に行ったことはあるのだ。そんな時にレプリカを見たのかもしれない。
私の記憶がフェイクなのかもしれないが、それにしても、今より若く、幼かった私は、ゲルニカのよさや凄さがまったくわからず、首をかしげて終わった気がする。
この主人公のような、すなわち、作者のような感受性が羨ましい。

この本を読み終えた私は、この数十年、いくつもの戦争のニュースと災害のニュースとに接してきた。
子どもの時には遠いものに感じていた戦火の悲惨も、明日はわが身のようにひしひしと感じている。
殺したがり、死にたがり、殺させたがり、死なせたがる人々の気持ちが、まったく理解できない。
私の敵は、戦争である。暴力である。憎悪である。
まったく懲りない、学ばない、憶えない、無責任な忘れっぽさである。
安っぽい正義感や陶酔感、近視眼的な楽観主義や愛国主義、他者を憎悪することでしか自分を保てないようなチープな自尊心や優越感、そんなものが嫌でたまらない。
政治が利用してもしれきないところにある美しさを愛していたい。政治に利用されたときから、それは美ではなくなる。

自由と平和。これがどれほど、貴くて、儚いものか。
私もまた、この貴いものを守る側に立っていたい。改めて思った。
自由を愛し、平和を尊ぶ、祈りに満ちた物語だった。

2017.02.02

日本会議の研究

菅野 完 2016 扶桑社新書

読み終えて、溜息ひとつ。
読んでよかったがなんとも気が重い。
気が重いが、これが現状なのだろう。
これを現状だと思うと、腑に落ちる。
この気の重たい内容は、実際に読んでいただきたい。

2017年1月6日。ベストセラーが出版差し止めというニュースに驚いた。
この判決はなかなか出るものではないと思っていた。
現に、ニュースの見出しには、過去の判例無視という表現さえ踊った。
ただし、事実ではないと裁判所が削除修正を求めているのは、訴えられた6箇所のうちの1箇所のみ。
著者と出版社を応援するつもりで、慌てて購入を試みた本だ。
その場でKindle版をダウンロードし、後日、書店で現物を購入した。
その後、扶桑社と著者は、該当箇所を黒塗りにして出版を続けている。
裁判を起こした方には起こした方の事情があるのだろうが、私はこの本を読んでよかったと思う。

私は、美しいという価値観を振りかざすスローガンが気持ち悪い。
美とは直観的に理解するものであり、理性で議論する範疇を超えている。
美は、なんとなくの共感であり、説明がつかない次元に立脚することである。
美による統治は、知性的な分析や反省、理性的な対話や理解を封じてしまう。
言い訳のつかぬことを押し通し、言い返すことを許さない価値観が美である。
だから、美しいを連呼し、押し付けられることが、とても気持ち悪い。
この気持ち悪さの理由が、この本で明らかになったと思う。

日本会議という寄り合い所帯をまとめる紐帯となるのは、君が代であるとか、日の丸であるとか、ぼんやりとしたなにか保守的なもの、伝統的(と思われやすい)もの、であるようだ。
ウンベルト・エーコが、『永遠のファシズム』で「ファジーなファシズム」という言い方をしていたことを思い出す。
その日本会議という形で政治を動かす得票を集める人たちは、特定の宗教と密接に関係している。
そして、話は私の生まれる前にまでさかのぼる。

60年と70年の安保。その学生運動の時、大学生だった人たちも70代だ。
それから時は流れた。それだけの時が流れた。
にもかかわらず、いまだに、左翼に対する攻撃という運動を続けていたい人たちがいる。
その年頃の人たちなら、今更、言動が変わることはないだろう。
彼らの最終目標は、私はとても受け入れがたい。
どういうものであるかは実際に読んでもらいたい。

2006年。教育基本法が改正された。
私はひどく憤ったことを憶えている。
基本法だ。基本となる法律を変えるということは、その上に乗っかるその他の法律等々まで影響をこうむるのだ。すべてのありとあらゆる努力と工夫を講じて尚どうしようもなかった時にしか変えてはいけないものではないのか。そこまでの努力をしたのか。
しかも、教育だ。教育を変えようとする政権には注意を払うべきである。私はそう習った。
なぜならば、ナチスが最初に着手したのが教育だったからだ。

改めて、調べてみた。
2006年の政権は、誰が持っていたのか。
ちょうど、第一次安倍政権の時だったのか。
政権をとって最初に成立した主な法案だったのか。
そうか。そういうことか。そういうことなのか。
私の中で腑に落ちた。私なりに、本書の内容を検証できたと思う。
この本を否定したり、非難したりする人がいるほど、ここに書かれていることは的はずれじゃないのだろう。
政教分離すらできない政権を、私は支持しない。

2015.04.07

独裁者のためのハンドブック

ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス
四元健二・朝野宜之(訳) 2013 亜紀書房

間違いなく、お勧めだ。
きわめて興味深く、面白かった。
読む人は選ぶかもしれないし、興味を持つ人は更に少ないかもしれないが。
それがもったいないと思えるし、政治がこんなに面白くてわかりやすいことに驚いた。

歴史から現在までの政治や企業における独裁者達が登場するため、イメージしやすい。
時に皮肉交じりで、軽妙な口調で語られるし、タイトルがタイトルだけれども、これはとても真面目な政治な本だ。
民主政治と独裁政治は地続きであること。
この二つを分けずに、同一のモデルで読み解くことで、見えてくるものがある。
民主国家はたやすく独裁国家にスライドできる。
それが、怖い。
ヴィジョンとして見えてくるから怖い。

理解しておくべきことは、まず、政治は、名目的な有権者集団(取り替えのきく者)、実質的な有権者集団(影響力のある者)、盟友集団(かけがえのない者)の三層の土台があることだ。
私自身は疑いようもなく、名目的な有権者集団であり、政治の支配者にとって取り替えのきく者であるな。
この取り替えのきく者たちを支配する、主に盟友集団のサイズが、独裁政治か民主政治かを区別する。

そして、支配者たるもの、よい政治(もしくは経営)を行うことが目的ではなく、その権力を握り続けることが目的であると、著者らはぶっちゃけてしまう。
そのあたりが、これは理想的な政治を啓蒙する本ではなく、現実的な政治を分析する本である。
よい政治をしようとした政治家の政治家生命は短く、むしろ独裁者のほうが長く君臨するのは、独裁者としてやっていくためのコツがあるからだ。
独裁者としてやっていき続けるためには、これらを守らなければならない。

支配者を支配するルールは、次の5つだ。

1)盟友集団は、できるだけ小さくせよ。
2)名目上の集団は、できるだけ大きくせよ。
3)歳入をコントロールせよ。
4)盟友には、忠誠を保つに足る分だけ見返りを与えよ。
5)庶民の暮らしを良くするために、盟友の分け前をピンハネするな。

この目線に立つと、海外援助は投資であることが理解できるし、災害救助がいかに独裁者の懐を暖めてきたかも見えてくる。
ただ寄付するだけの善意が問題に加担してきたことを受け入れるのは、心理的に抵抗感はあったが、こういうことは知っておきたい事実である。現状である。
そして、現状は刻々と変わり続け、ここに書いてあるような現状打破へのヒントが追いつかなくなってはいないだろうか。
原著が上梓された後に台頭してきた、数々のある種の暴力的な集団においては、その集団が継続していくために、リーダー達がどのように上記のルールを守っているのだろうか。
そういう視点で見ることで、今は敵にしか見えない集団を理解し、その弱点を把握し、攻略(交渉にしろ、対立にしろ)の契機を発見できないかなぁ。
国家のような大きな集団だけではなく、サークル活動や企業など、多種多様な集団にも適応できる考え方であり、日常生活に応用可能という実用面も持っている。
考えさせられることが多かった。とにかく、多かった。

この御時世に読んで、ひしひしと感じることがある。
今の日本は大丈夫だろうか。

2015.02.02

犯韓論

黄 文雄 2014 幻冬舎ルネッサンス新書

一冊の新書の中に、韓国、日本、台湾を頂点とする三角関係が描かれている。
政治的に、ではない。文化的に、それぞれは関係しあい、影響しあい、無関係ではありえないが、同一の同質のものとはくくり得ないそれぞれの文化や文明を持っている。

著者は台湾出身の方である。中国ではない。台湾ならではの歴史、背景を持っている方である。
すなわち、日韓関係の当事者というしがらみの外からの目線で語ることができる。
韓国の人が記した近代史を何冊かは読んできたつもりであったが、語調も目線も違ってくる。
そこには、この著者の持つバイアス、背景も投影されているとは思う。
一台湾人から見た日本、韓国、日韓関係というところが、非常に興味深かった。

ありていに言って、正しい歴史認識ってなんだ!?と思う。
「正しい」は「歴史」にかかるのか、「認識」にかかるのか。
しかも、いずれにせよ、それは誰にとって「正しい」のだろうか。
本書は、韓国は自国の歴史の蓄積がされてこなかったという歴史があること、そこからファンタジーが容易に歴史的事実と混同されやすいことを、解説してくれている。
歴史の蓄積がされにくかった要因として、属国であったために自国史の編纂がなされておらず、中世の貴族達の教養は自国史ではなく中国史に立脚していたこと、また、王朝交代ごとに書類や資料を焼失させており、交代王朝の正当化のために粉飾してきた。
もちろん、政権の正当化のために都合よく歴史を書き換えることは日本でも行われてきたことであるが、そういうものだと信じ込むかどうかの読み手のリテラシーの程度も含めて、一概には言えないものの、やっぱり差はあるのかもしれない。
と、ここまで書いて、韓国王宮ファンタジーを歴史ドキュメントと勘違いしていそうな自分の家族を思い浮かべて、自分の言葉の着地点を見失った。

ともかくとしてだ。
対韓国、対中国への理解と対処を進めるための一助となるように書かれた一冊であるが、昨今のグローバル化したテロリズムへの理解と対処にも通底して、日本は、日本人はどうしたらいいだろう、と考えることに役立つと思われる。
「思いやりは日本人古来の民族的特質である。それが悪いわけではないが、他人本位の思いやりは避けなくてはならない」(p.228)との苦言は、意味深いなぁ。
日本が理想でもなければ完璧でもないことをわかった上で言うけれども、このボケていられるぐらいの平和が、これからも続くように祈る。
平和であることの恩恵が失われつつあるような痛みと悲しみを感じながら、平和を祈る。

2013.02.18

その日東京駅五時二十五分発

西川美和 2012 新潮社

「壊れるときは、始まるときだ」(p.74)

その言葉に、はっとした。
様々なことが壊れてしまった1945年8月15日。
その日の東海道本線始発は東京駅を5時25分に出る。

主人公は電車に乗り込みながら、西へ向かう。
一足早く解散した隊の特殊な事情を背負いながら、誰よりも早く敗戦を知り、誰とも共有できずに、西へ帰る。
故郷である広島へ。

その「現在」と、出征前から出征、訓練と、「過去」が入れ替わりに語られていく。
電車が進むにつれて、主人公の心もまた進んでいくのだ。
それは小説でありながら、現在進行形の手記であるかのような、現実感がしっかりとあった。
先の戦争を語りながら、懐古的にもならず、劇的になることもなく、むしろ日常的すぎるぐらいに過ぎていく。
その日の記憶。

どことなく、リービ英雄『千々にくだけて』を思い出す。
すべてが壊れてしまった。変わってしまった。
9.11の記憶。
3.11の記憶。
それが、8.15の記憶の通底音として立ち現れてくるのだ。
自分は知らないはずのその日が、自分の知っているあの日に、重なっていく。

これは、とてもいい小説だ。
久しぶりに本屋さんで、呼ばれて呼ばれて連れて帰った。
味わい深く、深く低く、体の芯に余韻が響く。
中編ぐらいの、どちらかといえば薄くて、すぐに読める本だと思う。
多くの人に読んでもらえたらいいな。
いつか、その日の記憶として。

2012.08.07

空飛ぶ広報室

有川 浩 2012 幻冬舎

久しぶりに有川さんが描く自衛隊。しかも、長編。
目次を見て、ああやっぱり、と思った。
「あの日の松島」
それを書く作家は有川さんしかいないだろうし、有川さんなら書かないわけがない。
ほんの少しでもむくわれてほしいな。いたわられてほしいな。
知らず知らず涙が出た。

有川作品を読んでいなかったら、ブルーインパルスが松島基地にいることを知らなかっただろう。
3.11の報道で松島基地の映像を見て、声にならない悲鳴を上げて、しかも、九州新幹線開通のためにブルーが福岡に来ていることを思い出して、いささか安堵して。
でも、一番近くにある基地が被災した時、どこをどう拠点とするのだろう、とか、素人ながら首をかしげたり。
もともとは私自身も自衛隊に対してネガティブな印象を持っていた。
小説という世界であるが、そこに一片の美化がないわけじゃないとしても、数々の災難救助活動に関する報道と、現在の国際社会の状況に加えて、有川作品を通じて、私の中の自衛隊に対する感情はずいぶんと様変わりした。

つまり、それが、広報の仕事だ。
主人公は不慮の事故でパイロット資格剥奪された空井。
パイロットでなくなった彼が配属されたのが航空幕僚監部広報室だ。
そこで空井がアテンドを任されたのは、記者からディレクターに異動させられたばかりの稲葉。
夢を断たれた2人が、自分の立ち位置を見直し、新しい目標を見つけ、プロとして成長していく物語である。
ほの甘いラブ要素は控えめぐらいでちょうどいい。この物語は甘すぎないところが逆にいい。
だって、「普通の人たち」の物語なのだから。

買ってすぐに一気読み。
読み始めてすぐに引き込まれて、進むんだけれども厚かった。
途中で仮眠を挟んで、仕事の合間も読んで、やっと読了。
最後の松島のくだりで、涙を禁じえなかった。

支援者支援という言葉がある。
災害支援の一領域だ。災害を支援する側も、二次的、三次的に傷つくことが知られている。
家族が行方不明でも活動をし続けた消防団の人たちを筆頭に、医療関係者、教育関係者、行政関係者、保健福祉関係者、宗教関係者、さまざまな領域で、自らも被災者でありながらも被災者の支援をしてきた人たちがいる。もちろん、自衛隊も。
彼ら自身、傷つきもするし、疲れもする「普通の人たち」であることを忘れないでほしいな。
傷ついたらその傷を治す努力をしてほしいし、疲れたらその疲れを癒す工夫をしてほしいな。
目に見えない傷や疲れや、その悲しみを、いたわってほしい。
人間なんだもの。普通の人なんだもの。人の子なんだもの。
機械だけじゃない。人間だってメンテナンスが必要なんだから。
助けを求める文化をあまり持たない人たちは心配になるなぁ。

2012.07.23

追放者の矜持(上・下):ヴァルデマールの絆

マーセデス・ラッキー 澤田澄江(訳) 2012 中央公論新社

〈使者〉アルベリッヒ。
カース出身の武術指南役の若き日の物語が登場だ。
セレネイがまだ世継ぎの王女であった頃からテドレル戦争まで。
ヴァルデマールにとっての大きな試練だった日々。

苦みばしった感じの、嫌われ者であっても動じない、厳しいが信頼のおけるおっさんという、おっさん好きにはたまならないアルベリッヒ。
おっさんになってからのアルベリッヒも大好きだが、若き日のアルベリッヒの堅物ぶりも大好物。
まさか、彼が主人公の物語を読めるとは思わなかった。

内表紙をめくると、この本は9.11のテロで亡くなった消防士に捧げられており、使命の前では命を投げ打ってでも役割を果たそうとする使者たちの姿に重なる。
と同時に、自爆テロをした人たちも、ある面では、使命の前に命を投げ打ってでも役割を果たそうとした人たちである(巻き込まれる被害者にとっては限りなく傍迷惑だが)。
そのように両面からものごとを見るとき、人はジレンマを感じる。そんなことができるのは、アルベリッヒに他ならない。

ヴァルデマールと当時敵対していたはずのカースの軍人が、ヴァルデマールの使者となる。
そこでは、信義や忠誠、名誉やアイデンティティといった価値観の問題が大きな主題となってくる。
敵国で信頼を得る市民になりうるのか、どちらの国を、民を、裏切ることなく、名誉を保ちうるのか。
アルベリッヒの悩みは、多民族国家アメリカの中で9.11後に暮らしてきたイスラム系の人たちの悩み、第二次世界大戦中の日系人の悩みに通底しているのだ。
正義とは何か。
アルベリッヒの悩みと答えの中に、作者自身のためらいと理想を感じた。

これまであまりカースの文化が語られたことはなかったが、言語の違いなどを見ていると、アジアっぽいイメージなのかな。
すると、黒髪で、凄腕の剣の使い手で、名誉や恩義を重んじているアルベリッヒは、著者にとってはサムライっぽい感じなのかなぁ。
そんなことを思いながら読んでいたら、アルベリッヒのヴィジュアルがFFⅤのカイエンに重なった。
やっぱり、好きだなぁ。

誰よりも誇り高く、名誉を重んじ、義や徳を身に着けた人。
そんな人を知っている。とても大好きな人が、そんな人だった。
大きな喪失の傷を抱えて、すっかりやさぐれいている感じまで似ている。
私には、その喪失を埋めることも、癒すこともできなかった。
私は彼の盾の友になりたかった。むしろ、〈共に歩むもの〉になりたかった。
無条件の愛と信頼を注ぎ、その空虚を満たしたかった。
彼がもう大丈夫だと安心できるように、支えと癒しを与えるものになりたかった。
でも、私はただの人。物語の人物のようになれるわけでもなく、ましてや人ではないものには。

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック