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香桑の近況

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**女であること**

2017.01.21

コンビニ人間

村田沙耶香 2016 文藝春秋

胸が痛かった。
なんでこんなにばかにされないといけないのだろう。
なんでこんなに否定されないといけないのだろう。
なんでこんなに拒絶されないといけないのだろう。
なんで。なんで。なんで。

主人公の古倉さんははすごいじゃないか。
18年間、続けて勤務できていることってすごいじゃないか。
きっと休むこととてほとんどなく、黙々と淡々と働き続けることができる。
この人の精一杯の社会適応だと思うのだ。
それを、恋愛していないとか、結婚していないとか、出産していないとか、正社員じゃないとか、そんなことで、なんでこんなに責められないといけないのだろう。
そんなに「みんなと同じ」じゃないと許せないのか、と、問うている小説なのだと思う。

私のささやかな知見と照らし合わせて読めば、発達の偏りを持つ人たちの世界の感じ方を、よく表していると驚嘆した。
そうなのだ。こういう戸惑いや、こんなことが実際にあることを、私は見聞きしている。
古倉さんは、視覚情報よりも聴覚情報が優位で、聴覚の過敏さがあるのだろう。
いつも同じであることがその人の安心感に繋がっており、応用は苦手であるが、同じことをこつこつと繰り返すことはとても得意な人。
言葉を言葉通りに受け止めるため、ユーモアや冗談をうまく理解できなかったり、感情の交流がやや苦手だったり。
そういうアスペルガーなど、発達障害にありがちな世界の体験様式を擬似的に体験させてくれるすごい本じゃないかと思ったのだ。

さまざまな理由でなかなか就労が難しい人たちとお会いしてきた。
定型発達じゃないと、人でないかのような言い方を、なんの気なしにしてしまう人がいる。
しかし、ハンディキャップを持っている人たちを思い出すと、主人公の彼女がこんなにも働けていることがすごいよって、言いたくてたまらなくなった。
すごい、えらい、よくやっていると、手放して褒めちぎりたくなるのだ。
だから、どうか、よってたかって、そんな風に責めないでほしいと、つらくなった。

これって治るものじゃないんだよ。治すものじゃないんだよ。
人とは発達の進み具合が違ったり、発達の具合にでこぼこあったりするけれど、古倉さんは古倉さんのペースで発達していくんだよ。
人が得意なことが苦手だったり、人が苦手なことが得意だったり、誰しもでこぼこしているものだけど、そのでこぼこが大きめなのが、古倉さんの特徴なんだよ。
「治せ」という言葉で、その人らしさを否定や拒絶しないでほしいよって悲しくなった。

とはいえ、古倉さんを一番口悪しく責める白羽だって、たいがい生きづらい人物である。
口では大層なことを言うが、行動が伴わない。プライドだけは高いくせに。
できないこと、していないことが多すぎて、そこを批判されると独自路線な論を展開し、ますます周囲から拒絶され、孤立と無力に傷つきそうになると更に自己愛を肥大させることで傷つきをなんとか無視しようとする。
白羽の言葉はその他大勢の意見を悪し様な言葉で代弁したりしているから、彼をあざ笑う人は、彼に意地悪を代行させながら自分の本音は隠していい人ぶれる一石二鳥を得る。
不器用というか、奇矯というか、愛されないだろうなぁ。発達の問題もありそうだけど、人格の問題になるのかなぁ。
なかなか気の毒に思ってもらえないことで、生きづらさが報われにくくて、ますますこじれていきそうな人物だ。

それでも、白羽のほうが上手に普通の人のふりができるのだから、世界はとても不公平だ。
人間はみんな一緒だという幻想に固執している大きな一群があるが、いろんな生き方があっていいだろうに。
誰に迷惑をかけるわけでもなし、古倉さんなんて彼女の生き方でもって、お客さんの役に立ち、職場に貢献することもできているのに。
この社会はたやすく人を排除する。

古倉さんの感覚や思考に、共感できない人もいれば、否定したい人もいるだろう。
共感する人と、受容する人も違うように、いろいろな読み方、受け止め方があるのは当たり前だ。
当たり前だが、共感できなかった人にこそ、読んでもらいたい一冊なのだ。
こういう内的世界を抱えている人、こういう世界の感じ方をしている人がいるんだよ、ってこと。

私は出産も結婚もしておらず、常勤ではあるが正社員という括りではない職種であるから、あちらとこちらの区別の線引きには敏感である。
仕事という場を得て、やっと一息つけるようになったんだもの。職業アイデンティティが私を支えてくれている。
それでも、不幸じゃないのにね。

2017.01.10

最貧困女子

鈴木大介 2014 幻冬舎新書

女性の貧困を言われるようになったのは数年前。
くしくも、著者がとりあげたNHKの特集を私も見ていた。
その後、貧困女子という言葉でメディアやネットで取り上げられる人たちが貧困ではないと言わないが、どこか軽い。
そんなもんじゃないよ、という最貧困を見えるようにしようとしたのが、この本である。

相対的貧困層ではなく、絶対的な貧困層。
貧乏ではなく貧困。その区別に、なるほどと思った。
著者は伝え方の難しさを自覚している人で、貧困女子高生の報道に対して、著者は未成年をありのままに報道しすぎることへの批判を行っている(http://diamond.jp/articles/-/104452)。
そんな著者の文章は、取材対象者に対して、真剣に胸を痛めていることが伝わってくる
見下すわけではない。哀れみは、見下しの変形だ。面白がるのでもない。
誰か一人でなんとかできるわけではないけれども、まずはこんな人たちがいるのだと見えるようにしようと言葉を尽くす。
そんな姿勢で綴られている文章に感じた。

実際に、経済的な困難を抱えている女性達、それもかなり若い女性達にお会いすることが私は多い。
虐待や育児放棄、親の不在、前の世代からの貧困といった背景があってもなくても、教育の配慮を受けられずに来て、医療にも福祉にもなかなかつながりにくい人たち。出会っても途切れてしまう人たち。
セックスワークとの親和性が本書でもしばしば取り上げられているけれども、それしかできない、かろうじてそれならできる、で、生き延びている人たちがいるのだ。
私が知っている彼女達をどんな風に紹介されているのだろうと思って、手に取った。
こんな風に紹介してくださっていて、周知しようとしてくれている人がいるんだと知ることができてよかった。

努力がたりないとか、本人の選んだことだとか、そんな言葉で思考停止せずに、彼女達の苦境を考えてほしい。
彼女達を見捨てていませんか。買う側に回っていませんか。より傷つけてはいませんか。
違法なことをしているとか、だからだめだとか、そんな建前論はなんの役にも立たない。
この国は少子化対策が必要だと言いながら、子どもを産む女性しか政策の対象にしていないけども、制度からこぼれ落ちている存在がある。
ないのと、なかったことにするのは、意味が違うのだ。

著者は取材を通じて得られた知見からケースの類型化を図っている。
「3つの無縁」と「3つの障害」に関わる社会学や福祉の専門家にはこれを活かしてもらいたい。
この国では、売春は法律で禁じられているから、ないことになっている。
売春はないことになっているので、売春婦もいないことになっている。
ないこと、いないことには、対策もしなくていいことになっている。
だから、こんな生き方しかできない存在があるのだと、周知するところから始めないといけない。
専門家ではないと何度も著者は断りを入れることで、専門家への喚起を促しているように見えた。

明日はわが身なのだ。
あなたの母親や妻や娘や姉妹や姪の学生時代のアルバイトや卒業後の生計を立てる手段として、風俗や売春は適切なのか。万全を尽くして子育てをしているつもりが、その子どもが家出をして、その後の人生がこの状態だったとしたら。
あなたの父親や夫や息子や兄弟や甥が買う側に回ることを想定して生活しているだろうか。あるいは、男性もまた売る側に回されることがある。
平気だって人もいるだろうけど、それでも、考えてほしい。どこでどう転じるか、わからないではないか。
どれだけリスクが高いのか。それでも、そうとしか食べる方法がないってこと。これを普通のことだとしてしまいたくない。
私のできることもまたささやかだけども、彼女達を知ってほしいと思って、記事を書いておく。

2016.12.15

男役

中山可穂 2015 角川書店

そこは夢の世界にたとえられる。

私が宝塚大劇場に行ったことがあるのは、一度きり。
高校の時も友人の一人が熱烈なファンで、大学の時も友人の一人が熱烈なファンで。
あれはたぶん、大学の友人につれていってもらったような気がする。
なんの作品だったのか、誰が出ていたのかも憶えていない。
劇団員といえばいいのかな。ステージの上の華やかさとサービス精神、なんといっても男役の皆さんのかっこよさ。
過剰なまでのロマンチシズムとアドリブの笑いのギャップに、生で何度も観たくなるファン心理を悟った。
礼儀正しく規律正しいファン達の熱量に圧倒され、独特の世界だなぁ、と思いながら、帰ってきた。

その時の印象そのままの世界が、この本の中にある。
宝塚そのものではなくて、印象としての宝塚。思い出としての宝塚。
著者が後書きで但し書きをしているけれども、リアルを追求したものではない。
逸脱するからこそ、幻想としての宝塚が強く心によみがえってくる。
友人たちの話から垣間見てきた宝塚、自分が一度だけ行った宝塚、その場所でならさもありなんと思うような、そういうしっくりくる感じがする。

中山さんの物語は、気合いを入れて読むものだと思っていた。
心の一番やわらかい所を閉まっているパンドラの箱をこじあけながら読むような、心が右往左往に引きずられて引き裂かれるような思いをするような、そんな恋愛小説を書く方だと思っているから。
美しい日本語で、美しい恋愛小説を描く、随一の方だと思っているから。
だから、読むタイミングをすごく選ぶのだけども、この物語はそんな心の準備は不要だった。

ファントムこと、扇乙矢。50年前に舞台事故で死に、宝塚を守護してきた幽霊。
現在のトップであり、引退を控えた、如月すみれ。
乙矢の相手役だった麗子の孫である、永遠ひかる。

彼女達、三代にわたって受け継がれていく、男役という生き方。生き物。
確かに女性であるには違いないが、彼女たちは男役である数年間を、女性ではないものとして自らを形作る。かといって、男性そのものではない。
男役は、男性の理想形を体現する、男役という性別であり、生物になる。
現実ではなく仮想の宝塚だからと敢えて書いておくけれども、そんな仮想の性別であり、この世界に仮住まいしているような人物像が、中山さんの世界に似合うように思った。
なにしろ、美しい。それだけで十分だ。

すみれの引退で幕を引く。
その切れ味がまた、中山さんらしいなぁと、舌を巻いた。
著者はもともと近代能楽集の一作品になるようにこの物語を構想したそうだが、ファントムだけではなく、男役そのものが舞台という一夜の夢でしか息づけない、そういう物語だったのかもしれない。

近いうちに、『娘役』のほうも手に入れなくちゃ。

2014.06.19

百合のリアル

牧村朝子 2013 星海社新書

非常にいい本である。
ぜひ、図書館には入れて欲しい。
できれば、公立図書館や高校以上の学校図書館に入れて欲しい。
中学生にはちょっと早いかもしれないが、性の悩みを悩み始める頃の人たちに届くようなところに並べて欲しい。
心からそう願う。

読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
質問/対談形式にしてあるところもとっつきやすいと思う。
マンガのページもところどころ挟まっていたりもする。
帯の著者の写真が、とても美人でひゃほー。雰囲気がとてもいい。
どこか遠い世界のレズビアンではなく、もっと身近で等身大。
リアルな悩みに答えてくれるいい本なのだ。

同性愛の問題を語るとき、カテゴライズする用語が年々増加の一途をたどることに気づく。
そのカテゴライズすること自体を取り上げて、そんなラベリングを一旦取り外して、目の前の人と人との一対一で対峙するところから始めようと、著者は対人関係の根本に立ち戻ることを勧める。
そんなところは、同性愛であるかどうかは横において、誰にでも言える、役立つ、本当はとっても当たり前であるはずの考えが述べられている。

そういう用語の解説にとどまらず、比較文化的に男女以外の性の区分を紹介してみたり、歴史的に同性愛の治療とされてきたものを紹介してみたり、内容は横断的でである。
同性愛であることの苦しみへの対処法や、同性カップルのこうむりやすい不利益、同性同士で婚姻するための現行上の仕組み、女性同士のセックスの例など、盛り込まれている情報は豊富だ。

セックスのルールはシンプルよ。『している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること』これだけなの。(P.156)

さらりと大事なことを書く著者に、好感を持った。
とても賢く、ユーモアのある女性だと思う。
書かれている文章が魅力的で、正直を言えば、ファンになった。

2014.05.26

更年期以降を元気に生きる女性ホルモン補充療法

新野博子 2013 海竜社

持病のため、自分が受ける治療法を知っておこうと思い、読んだ。
更年期以降、高齢となった女性にも女性ホルモン補充療法を勧めている点で、自分自身の現状とは必ずしもそぐわないところも多かったが、読んでみて治療を受けないことのほうが不安になった。

エストロゲン欠乏によって、どのような変化(老化)が起こるかを説明しつつ、閉経後の性の問題にもしばしば触れられている。
健康的な心身を保つために、食事や運動といった自助努力可能なものについてもページが割かれていた。
その上で、ホルモン補充療法の適応範囲や方法などが説明されている。

私の関心としては、どのような老化が起きるかではなく、ホルモン補充療法そのものの効果や方法、副作用であったのだが、暗に相違して、老化についての記述のほうがボリュームが多かったかな。

実感としては、受ける前よりは受けるようになってから、ずいぶんと楽になった。身体的にも。心理的にも。
今の年齢で、今すぐ老化に突き進むと考えると怖いので、治療を受けつつ、ゆっくりと老いていきたいものである。

2013.03.05

婚外恋愛に似たもの

宮木あや子 2012 光文社

いつも一番上の女。
上から三番目の女。
普通で真ん中の女。
下から三番目の女。
いつも一番下の女。

『野良女』の姉妹作とのことだが、主人公達の年齢が5歳アップし、既婚になったことで、抱える悩みの種類が変わるものだ。
民主主義だろうと資本主義だろうと、そこには格差があり、階層がある。
共通して35歳である彼女達は、お互いが同じ階層ではないことを知っている。
同時に、自分と近しい生活圏の人たちの中において、自分が外れ値であることを知っている。
外れ値であるにもかかわらず、階層を越境していくこともままならないことも、知っている。
その抉り出し方は潔くて容赦ないが、嫌らしくならない。不意打ちのような笑いの効果も絶妙だ。

彼女達が愛するものは、決して手に入らない。
なぜなら、愛するひとは、2.5次元。つまり、アイドル。
5人組のアイドルのそれぞれのファンを描きながら、5人のまったく違った女性の生き方を描いているのだ。
5人は出会い、ゆるやかな友人関係をなしていく様に、あるあると何度頷いたことか。
私の長い付き合いとなった友人達の多くは、共通のバンドのファンであり、そのコンサートを通じて今も会い続けることができているのだ。

痛くてもなんでも、人はパンのみで生くるにあらず。
愛がなくては。
私は常々コンサートに通う理由をこう思う。
「愛している」と、そう言ってもらいに通っているのだ。
デトックスになるようなアイドルではないかもしれないが、2.5次元の愛すらなくなると、私は相当に苦しくなる、気がする。

現実を振り返ると、片岡のように、自分の偶像を「神様と崇め、日々拝みながら修道女のように生きるだけで充分」(p.187)じゃないかと思ってしまう今日この頃。
自分はどの階層に位置するかなぁ。
親近感を持つのは山田で、共感するのは桜井かなぁ。
どれだけ思い悩んだとしても、私は1番になることはない。
いろいろと考えたりもするけれど、愛しく感じた本だった。

コンサートはすべての境界線を壊す祝祭であるが、神と人との境界線は壊れない。
アイドルはアイドルのままに。

エンターテイメントが誰かの希望になるように。(p.160)

2013.03.04

野良女

宮木あや子 2012 光文社文庫

恋愛始めるのも、終わらせるのも体力いるよね。(p.224)

ほんまにだ。
なんだろう。
ほろ苦い気持ちになった。
それは、私から見れば彼女たちが、まだまだ十分に若くて、むしろ楽しいのはこれからなんだよって思ってしまったからだろうか。

30歳を目前にした独身女性が5人。
恋人が最近いない遣水、恋人は一回り以上年上の朝日、遠距離恋愛中の坪井、DV男とつきあう桶川、不倫中の横山。
それぞれ仕事はあるが、人生には困っている。
よく酒を飲むし、よくタバコも吸うし、基本、よく働くが、どうも「普通の結婚」というものに縁がない。
女子同士のあけすけな会話、脳内の思考を、あからさまに書いてみたような小説。

ここにも出てきた、ユーラシア大学。
『憧憬☆カトマンズ』を思い出して、にやりとした。
あの作品ほど、ウルトラハッピーじゃないし、はっちゃけてはいない。
それなりに切なくてもたくましく、悩みながらも笑いを忘れず、地に足をつけて元気に乗り切るパワーがあり、ハッピーもある。
面白かったし、笑うところもしばしばあったし、嫌いじゃないけど、身につまされるから、読み直すことはないかな。
私のコンディションも多少、悪かった。

朝日以外の恋愛のパターンはすべて踏襲してきているような気がして、座り込んで床にのの字を書きたくなった。
卵巣も片方、摘出済みである。ODやリスカはしたことないけど、そこまで思いつめる気持ちもわからんでもない。
自作ポエムってプレゼントにのけぞったことは、あるなぁ。うん。あれは破壊的だった。しかも、履き違えた男女平等主義者だった。
数は多いわけじゃないけれど、ばかなことはいくつかしてきたし、恋愛はとても私をばかにする。
その体力が、もうなくなったなぁ、と感じてほろ苦くなったのだと思う。

2012.06.25

文芸あねもね

綾瀬まる・豊島ミホ・蛭田亜紗子・三日月拓・南綾子・宮木あや子・山内マリコ・山本文緒・柚木麻子・吉川トリコ 2012 新潮文庫

東日本大震災の後、女による女のためのR-18文学賞受賞者を中心に、10人の作家達が全額寄付を目的としたチャリティ同人誌を作った。
電子書籍として売り出されたその同人誌の存在を知らなかったが、紙媒体の文庫として出版されたことを知り、購入した。
この本ができるまでの経緯は、山本文緒によるあとがきからも伺えるし、その他の執筆者による「文芸あねもね★できるまで物語」として巻末にまとめられている。

とても漢前なエピソードである。作家はすべて女性であるけれども。行動力と、統一しすぎない寛容さ(ゆるさとも言う)が素敵。
どれもこれも魅力的で、見た目通りのボリュームがあった。
一つ一つ味わうだけの価値がある。
震災による被災の有無に関わらず、女性たちを励ますような力強さを持っている物語群だ。男性も励まされると思う。多分ね。

山内マリコ「アメリカ人とリセエンヌ」
こういう想像を自由に広げる時期ってあるよねー。と、遠い目。
自分で泣けちゃうぐらいに空想できるのは作家さんならでは、では……と、さも自分は違うかのような顔をしてみる。
震災にまつわる思いを払拭してくれるような、ゆるい出だしで、ほっとした。

彩瀬まる「二十三センチの祝福」
いい話だった。しんみりと味わった。
うまく感想がいえないけれど。
ちょっとドラマみたいな。映画みたいな。

宮木あや子「水流と砂金」
スピンオフ作品は本編を読んでいないと、いまいちよくわからない……。
なので、これの感想は保留にしておく。
多分、本編を読むと好みなんだろうなぁ。という予感がした。

蛭田亜紗子「川田伸子の少し特異なやりくち」
この作品、好き。
そうなんだよ。社会人のふりさえできれば、社会人として一応は社会で生きていくことはできるんだ。
「ちゃんとしたおとな」というファンタジーに振り回されたり、ハードルの高さにめまいを感じている人には、ぜひ読んでもらいたいな。

豊島ミホ「真智の火のゆくえ」
やられた。中篇といっていい。この作品集の中で一番長さもある。
将也のような、こういう男に、本当に弱い。弱くなってしまった。何かしら、恋人を思い出させる要素を持つ登場人物に出会うと、ぐらぐらと揺さぶられて涙腺が壊れる。回復にしばらくかかる。
私が恋人と10代、20代を一緒に過ごしていたら、こんな風に魅了されていたのかもしれない。
私の知りえない人の若い日を覗き見るような気持ちになった。
と同時に、真智のように、大事な人を見つけたら、絶対に手離しちゃいけないよ、手を離したらしけないよ、そばにずっといるんだよ、と、エールを送りたくなった。
終わってしまったら、もう、取り戻せないものだから。

柚木麻子「私にふさわしいホテル」
東京の山の上ホテルを舞台にした衝撃の一夜の物語である。
ひどいなぁ、と思いながら、笑っちゃう話。
デビューを目指す作家の必死さがリアルなんだよなぁ。
そこまでしないよね?って聞きたくなるぐらい。

南 綾子「ばばあのば」
小説家一本で食べていくのは難しい。それって本当なんだろう。
そういう話が続くと、本当に厳しいんだなぁ、と、思う。
と、同時にあきらめない強さが、この本の趣旨にぴったりなんだろうとも思う。
独身のまま加齢していくのはねぇ。
あっという間に時間は過ぎて、不安に思う暇もないぐらいにあっという間に年を取るから、大変だよ。
ええもう、ほんとに。あれこれと耳の痛い話だった。

三日月拓「ボート」
元に戻る。なにごともなかったように。
それは現在の私の課題である。
元に戻れるわけがない。元通りになるのは嫌だ。
そこに引き止めておきたい気持ちをこらえて。
元に戻れるわけなどない。
その感覚を味わいながら読んだ。

山本文緒「子供おばさん」
あいたたた。また、耳が痛い。
『プラナリア』は苦手に感じたが、この短編はすんなりと馴染む気がした。
耳が痛いけれども、耳が痛くなるぐらい、自分の心情や境遇に近しいからだ。

日常に倦むことはない。
何も成し遂げた実感のないまま、何もかも中途半端のまま、大人になりきれず、幼稚さと身勝手さが抜けることのないまま。確実に死ぬ日まで。(pp.443-444)

それで悪いか。

吉川トリコ「少女病 近親者・ユキ」
ユキが可愛い。これもスピンオフ作品で、本編を読まずにこれだけを読んだのだけど、キュンとした。
いとしい人が、だれか知らない人のところにいってしまう。なんて。
そんなのは見たくないな。そんなのは、泣くしかないもの。そんなのは。
別れの話はつらいなぁ。最後にやっぱり遠い目になった。

2012.02.27

女神の誓い

マーセデス・ラッキー 1995 創元推理文庫

愛は自由でなければ生きられぬ。

この言葉は出会ったときから深く私に刻まれるものになった。
愛は自由でなければ。私も愛を自由にしなければならないだろう。
愛する人を縛るのではなく。空に返すように。自由に。
手離さなければ、死んでしまうものなら。

あまりにも好きすぎて感想を簡単には言えない。私がマーセデス・ラッキーに出会った一冊目。
あまりにも長い時間をかけて読んできたシリーズであるから、私の価値観に少なからず影響を与えている。
子どもの頃から様々なファンタジーを読んできたけれども、今でも私の中のNo.1はこのシリーズ。
ヴァルデマール年代記と呼ばれる一連の異世界ファンタジーの、この最初のタルマとケスリーを主人公にしたシリーズが一番好きだ。
女の子(立派に大人の女性も含む)が戦う物語の中でも、この二人がどれだけ自立しており、魅力的か。余計な媚びや萌えは必要ない。彼女たちは誇り高い。
しかも、決して、男性対女性という構図になるわけではなく、脇の男性たちも多くは成熟しており、魅力がある。

一族を殺され、略奪され、自身も輪姦されたことから、復讐のために女神の誓いを立てた剣士タルマ。
シン=エイ=インという一族は、ネイティブ・アメリカンを彷彿とさせる生活文化を持っている。
彼らは格言好きで、「愛は自由でなければ生きられぬ」というのも、その一つ。
「願い事をするときは気をつけなさい。もしかしたら叶うかもしれないから」というのも、大好きだ。

貴族の生まれであるが、兄により金持ちのところに売られ、性的虐待を受けた心の傷を持つ魔法使いケスリー。
魔法使いといっても、かなり実践的で実戦的。負けず嫌いで、タルマの言葉を借りれば「強情でがんこで愚かでむこうみずでどうかしている」(p.402)。
圧倒的に、私が自分を投影させるなら、ケスリーだったなぁ。

ケスリーとタルマが出会い、「もとめ」という名の特別な剣があり、ワールという不思議な獣を召喚して、パーティができあがる。
最初は警戒し合っていたケスリーとタルマであるが、徐々にお互いに気遣うあまりにお互いを失うような危機に遭遇する。
後には息もぴったりの魂の姉妹になる2人が、この本ではまだまだぎこちなくて初々しい。
それぞれが心の傷を克服していくことが、誰かを信じ、誰かを愛するためには、不可欠だ。
どちらか片方ではない。双方が、だ。

片方が片方を庇護しなければならないのではなく。
片方が片方に追従しなければならないのではなく。
お互いが対等に尊重しあい、信頼しあい、愛し合うには。
束縛でもなく、執着でもなく、未練でもなく、愛を愛のままにしておくために。
ただただ愛し続けたいから。愛を送り続けよう。
愛は自由でなければ生きていられないのだ。

本を読むと余計なことばかり考えてしまうから、新しい本に手が出ない。
しばらく、懐かしい本を読み返すにとどめておこうかな。

2012.02.21

ふがいない僕は空を見た

窪 美澄 2010 新潮社

大声をあげて泣き出したい。
主人公たちと一緒に泣き出したくなった。
泣かないと、心の中の水位を下げてしまわないと、これ以上、涙を溜めていられない。
手を噛んで、嗚咽を殺す。残った歯形を見て、自分の歯並びが不揃いだと思う。
どうしよう。恋人に会いたくなる。忘れられるわけがない。忘れたふりをしなくちゃいけないのに。
大声をあげて泣いてしまいたい。

5つの連作短編集。主人公が入れ替わっていくことで、それぞれの立場からの切なさがこみあげてくる。
恋は一人では成り立たない。しかし、「ミクマリ」と「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」の対で終わらないところが、いい。
「ミクマリ」の初々しさや瑞々しさを感じる少年と関係を持っていたあんずの「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」の救われなさ。芥川の蜘蛛の糸とは違い、その糸は地獄からの救いではなく、雁字搦めに現世に縛り付ける糸だ。
あんずはいい。自分の行為で自分だけが嘲笑われるならいい。覚悟の上に引き受けることだ。そのとき、なぜ、斉藤までも巻き込まなくてはならないか。そうやって繋ぎとめておきたくなる気持ちもわかるが、それはしてはならないと思う。
「2035年のオーガズム」を読んで、やっぱりと惨憺たる気分になった。自分の妻を繋ぎとめられないからって、よその男の子を貶めるなよ、と、あんずの夫に腹が立つ。主題は、斉藤の恋人になりかかっていた少女の家族の再生の物語なんだけど。
「セイタカアワダチソウの空」は、性のことは横に置き、斉藤の友人であるはずの福田のなんとも苦々しい日々を描く。貧困の皺寄せは、いつも子ども達に来る。こんな生活をしている子達を、こんな思いをしている子達を知っている。福田のラストの気持ちを応援したくてたまらない。
そして、「花粉・受粉」。斉藤の母を主人公にした、いい作品だ。仕事に逃げ込みながらも一生懸命に生きてきた感じが、好き。なんだけれども、その感想の前に、あんず夫ーーーっ!!と怒りのほうが大きかった。あーもー、こういう男、大っ嫌い。
自然って。人の思いとおりにならないものなんだけどな、とつぶやく。
だから、神さまって祈りたくなるんだ。

「女による女のためのR-18文学賞」の受賞作は、なんでこんなにざらざらとするんだろう。
去年の「偶然の息子」も、ざらざらしていた。母性と言い切ると語弊が生じるが、性行為だけを純粋に楽しむだけでは、なにかを描き損ねてしまうのだ。
このざらつきは、川上未映子『乳と卵』とか、三浦しをんや山田詠美にも垣間見られるわけで。
男性向けのエロやBLでは、こういう卵を抱える苦さは描かれないところが非対称だと思う。同性愛の場合もどちらかと言えば薄い。
性は生であることをしっかりと見据えている男性もいるが、そのあたりの温度差というか、こだわりが面白いな、と思った。

幸福の絶頂。もろくて儚い絶頂だ。
何度も何度も味わい続ける人もいるだろう。
失って二度と味わえぬ人もいる。もとから味わうことのない人もいる。
そういえば、「一緒にイキタイ」というのはダブルミーニングだと思ったことを思い出す。
「一緒に生きたい」と祈るように口にした。彼の腕の中で、幸福なまま、一緒に生きたいと祈っていた。

子どものために祈る。
私が産みたかった子どものために。私が産めなかった子どものために。かつて子どもだった人のために。
今、私が関わっている子ども達のために。これから関わりゆく子ども達のために。
子どもを育てたいなぁ。自分の収入が安定しないのでなかなか踏み切れなかったが、私が子どもを持つ方法がある。特定の子どもを支援する。私だけの子ども、じゃないけれど。私と彼の子どもでもないけれど。
私は誰かのために、じゃないと、がんばれないのだ。がんばれるけど、力半分になってしまうから。

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