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香桑の近況

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**女であること**

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2017.10.27

Black Box

伊藤詩織 2017 文藝春秋

記者会見の場での彼女を見て、私は凛々しいと思った。
その勇気を称賛したいと思った。

「そこに血を残しなさい」

筆者がアメリカ留学中にホストマザーから受けた教えに、ぞっとした。
私が四半世紀前に読んだスーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』(JICC出版局 1990)には、不正確な記憶であるかもしれないが、被害者が抵抗した証拠がなければ性交渉は合意と見なされることがしたためてあった。
銃で脅されていたとしても被害者が怪我をしておらず出血していなければ合意と見なされる理不尽さを訴える本だった。
あの時のうちのめされるような憤りと慄きが蘇った。
ぴたりと重なったと思った。

本書の内容には、大きく3つの要素がある。
ひとつめは、被害者がどのようにして被害に遭遇するか。
ふたつめは、被害状況直後からどのような症状や状態が出現するか。
みっつめは、被害者が必要なサポートにいかにつながりにくいか。
この三点を、被害者自身のまだ真新しい記憶に基づいて、体験を記述しているところで、広く読まれてほしい本である。
被害者の受けた傷がどれほど深刻で、後々までいかにダメージを与え続けるものであるか、これが一般常識になるように参考してもらいたい。
被害者が必要なサポートにつながりにくいところは、医療や司法の方はもちろん、自衛のために、知っておいてもらいたい部分である。

筆者のレイプの状況は、残念だがこういうことは女性に起こりうるものとして読んだ。
状況をこうして文章として再現することも、苦痛を伴う作業だったと思う。
何度、言葉にしたからといって、自分の中のその記憶を刺激するたびに、フラッシュバックも起きやすくなったことだろう。
勘違いしてならないのは、フラッシュバックというのは、ただ単に想起することではない。
あたかもその場その時に戻ったかのように、五感や感情のすべてで過去の体験を再体験することだ。
その時の恐怖心や不快感も丸のまま、ありありと蘇ってくる。直後で、おそらく未治療で、未回復であるなら、その苦痛はどれほどであるだろう。
その苦痛を耐えながら書かれた本だ。

被害者が恥ずかしいと思わなければならないことが間違っている。
性暴力被害にまつわる間違った言説は世の中にあふれている。
被害者が誘ったのではないか。被害者にはめられたのではないか。被害者が魅力的なことが悪い。
被害者も快感を感じたのではないか。女性は暴力的に扱われることを待ち望んでいるのではないか。してやったのだからありがたいと思え。
と、加害者に同情的で、被害者をかえって責めるような言葉はよく聞かれる。
そのうえで、「傷物になった」という言い方で、被害者の尊厳が永久に傷つけられたことを社会として承認し、被害者は傷つけられた者として恥じながら生きることを求められる。

正しい被害者像を演じなければ、同情すらしてもらえない。そんなおかしいことはない。
なぜなら、まじめでおとなしい、清楚で内気、そんな女性像こそ、「狙われやすい」対象だからである。
意地悪な言い方をすれば、性的に誘惑的ではない印象を与える被害者像を演じることによって、もっとも性被害にあいやすい女性として性的に誘惑させられることになる。
その点、同情しろというメッセージを発するのではなく、おかしいことはおかしいと声を上げる筆者の姿に、感銘を受け、称賛したいと思った。

筆者を含めた被害者が、二次的、三次的に、それ以上、傷つけられることのないように祈りたい。
筆者を含めた被害者の傷が、その傷跡は心の中で消えなくとも、生々しさが薄れて抱えやすいものとなるように祈りたい。
なによりも、このような被害を受ける人が減ることを、強く強く願いたい。

2017.05.11

官能と少女

宮木あや子 2016 ハヤカワ文庫

一癖ある恋愛短編集。
どこか胸の奥に刺さるような、胃の腑がつかまれるような、そんな苦い痛みを持つ短編ばかり。
恋愛やエロティシズムに釣られて読み始めると、その欲望に傷つけられた者の痛みを見せ付けられる。
愛しい手は私から何もかも奪い去った手である。私を根底から傷つけたその手を、愛しいと思うしか、生き延びる術がなかった。
そうすることしかできなかった悲しみが、不思議な透明感を持って描かれている。
これは、少女たちの物語。官能と女性、ではない。少女というところが心憎いタイトルだ。

この傷つきを幻想的だと感じる人は幸いだ。作り物だと思える人は幸いだ。
恋愛という甘ったるくて見せ掛けだけの能天気で夢見がちな理想論は、ここにはない。
可哀想と嘆く同情や、そんな関わりは許されるべきではないと否定する良識に、簡単に押し殺されてしまうほど、こういう傷つきは隠されやすい。
世の中に、性暴力や性虐待は、実に多い。加害者に暴力や虐待の意識がなくとも、身にも心にも大きな傷を抱えながら生きている人は多い。
明確な暴力の既往があるわけではないので表に現れることはないが、普通の性を送れない生きづらさを抱えている人となると、いかほどばかりか。
LGBTとは違う次元で、性の苦しみと悲しみと痛みを、一見はエロティックに描いて見せたところが作者の手腕に思う。

宮木さんの短編集は、一冊の中でどこかとどこかが繋がっているところが好きだ。
この物語も、ゆるやかな円環を描く構造になっている。
どこがどう繋がっているかは、読んでからのお楽しみ、のほうがいいかな。
この本、宮木さんの本だからと買ってみたら、読んだことのある本だった。
タイトルをまったく憶えていなかったので、見覚えのある文章に立ち読みでもしたのだろうか?といぶかしんだが、最後まで読んだことのある本だった。

私の記憶力って。

2017.03.30

夫のちんぽが入らない

こだま 2017 扶桑社
書店で平積みされた本の書名が、一瞬わからなかった。
注意深く文字を探してみると、SNSで書名をよく見かけるようになった本だとわかった。
立ち読みする度胸はなかったので、そのまま買ってみることにした。これもなにかの御縁。
読み始めると、一気だった。
解決はない。対策はない。
こうすることしかできなかった苦闘の歴史があるだけだ。
こうせざるをえなかった血のにじむ格闘の記録だ。
ほかにやりようがあったのならば、ここまで悩むこともなかっただろう。
性交渉に苦痛が伴う場合や、結婚しても妊娠や出産しない場合、女性によってはこれほど苦しむこともあるのだと、率直に書かれている。
無責任な第三者だからこそ、ああすればこうすればと言うことは簡単であるが、当事者として行うことは、とても苦しくて難しいことを忘れずにおきたい。
読み手は、これが物語ではないことを、思い出すとよいのではないか。
書き手がどうやら器用な立ち回りができる方だとは思えず、まだまだ言葉になりきらない思いや体験もあったことだろう。
読み進めるにしたがって、徐々に夫婦のありようが歪になっていく様な気がして、夫の前に、自分自身が専門家に相談するという選択肢がなかったのだろうかと、残念な感じがした。
頑なに、頑なに、ますます解決から遠ざかっていくのを見守るしかないような残念な感じがした。
私にとって、決して読後感の気持ちよいものではなかった。
しかし、不器用に、頑なに、その人なりに取り組もうとしてきた格闘の歴史であると受け止めておきたい。
読み手が読後にどろどろした気分になったとしたら、この本の成功であると思うし、そのどろどろじくじくした感覚がこの書き手の普段の気分であるかもしれないなぁ。
これから読む方は、どうぞ御留意を。
それにしても、この書名は度胸があるなぁ……。

2017.01.21

コンビニ人間

村田沙耶香 2016 文藝春秋

胸が痛かった。
なんでこんなにばかにされないといけないのだろう。
なんでこんなに否定されないといけないのだろう。
なんでこんなに拒絶されないといけないのだろう。
なんで。なんで。なんで。

主人公の古倉さんははすごいじゃないか。
18年間、続けて勤務できていることってすごいじゃないか。
きっと休むこととてほとんどなく、黙々と淡々と働き続けることができる。
この人の精一杯の社会適応だと思うのだ。
それを、恋愛していないとか、結婚していないとか、出産していないとか、正社員じゃないとか、そんなことで、なんでこんなに責められないといけないのだろう。
そんなに「みんなと同じ」じゃないと許せないのか、と、問うている小説なのだと思う。

私のささやかな知見と照らし合わせて読めば、発達の偏りを持つ人たちの世界の感じ方を、よく表していると驚嘆した。
そうなのだ。こういう戸惑いや、こんなことが実際にあることを、私は見聞きしている。
古倉さんは、視覚情報よりも聴覚情報が優位で、聴覚の過敏さがあるのだろう。
いつも同じであることがその人の安心感に繋がっており、応用は苦手であるが、同じことをこつこつと繰り返すことはとても得意な人。
言葉を言葉通りに受け止めるため、ユーモアや冗談をうまく理解できなかったり、感情の交流がやや苦手だったり。
そういうアスペルガーなど、発達障害にありがちな世界の体験様式を擬似的に体験させてくれるすごい本じゃないかと思ったのだ。

さまざまな理由でなかなか就労が難しい人たちとお会いしてきた。
定型発達じゃないと、人でないかのような言い方を、なんの気なしにしてしまう人がいる。
しかし、ハンディキャップを持っている人たちを思い出すと、主人公の彼女がこんなにも働けていることがすごいよって、言いたくてたまらなくなった。
すごい、えらい、よくやっていると、手放して褒めちぎりたくなるのだ。
だから、どうか、よってたかって、そんな風に責めないでほしいと、つらくなった。

これって治るものじゃないんだよ。治すものじゃないんだよ。
人とは発達の進み具合が違ったり、発達の具合にでこぼこあったりするけれど、古倉さんは古倉さんのペースで発達していくんだよ。
人が得意なことが苦手だったり、人が苦手なことが得意だったり、誰しもでこぼこしているものだけど、そのでこぼこが大きめなのが、古倉さんの特徴なんだよ。
「治せ」という言葉で、その人らしさを否定や拒絶しないでほしいよって悲しくなった。

とはいえ、古倉さんを一番口悪しく責める白羽だって、たいがい生きづらい人物である。
口では大層なことを言うが、行動が伴わない。プライドだけは高いくせに。
できないこと、していないことが多すぎて、そこを批判されると独自路線な論を展開し、ますます周囲から拒絶され、孤立と無力に傷つきそうになると更に自己愛を肥大させることで傷つきをなんとか無視しようとする。
白羽の言葉はその他大勢の意見を悪し様な言葉で代弁したりしているから、彼をあざ笑う人は、彼に意地悪を代行させながら自分の本音は隠していい人ぶれる一石二鳥を得る。
不器用というか、奇矯というか、愛されないだろうなぁ。発達の問題もありそうだけど、人格の問題になるのかなぁ。
なかなか気の毒に思ってもらえないことで、生きづらさが報われにくくて、ますますこじれていきそうな人物だ。

それでも、白羽のほうが上手に普通の人のふりができるのだから、世界はとても不公平だ。
人間はみんな一緒だという幻想に固執している大きな一群があるが、いろんな生き方があっていいだろうに。
誰に迷惑をかけるわけでもなし、古倉さんなんて彼女の生き方でもって、お客さんの役に立ち、職場に貢献することもできているのに。
この社会はたやすく人を排除する。

古倉さんの感覚や思考に、共感できない人もいれば、否定したい人もいるだろう。
共感する人と、受容する人も違うように、いろいろな読み方、受け止め方があるのは当たり前だ。
当たり前だが、共感できなかった人にこそ、読んでもらいたい一冊なのだ。
こういう内的世界を抱えている人、こういう世界の感じ方をしている人がいるんだよ、ってこと。

私は出産も結婚もしておらず、常勤ではあるが正社員という括りではない職種であるから、あちらとこちらの区別の線引きには敏感である。
仕事という場を得て、やっと一息つけるようになったんだもの。職業アイデンティティが私を支えてくれている。
それでも、不幸じゃないのにね。

2017.01.10

最貧困女子

鈴木大介 2014 幻冬舎新書

女性の貧困を言われるようになったのは数年前。
くしくも、著者がとりあげたNHKの特集を私も見ていた。
その後、貧困女子という言葉でメディアやネットで取り上げられる人たちが貧困ではないと言わないが、どこか軽い。
そんなもんじゃないよ、という最貧困を見えるようにしようとしたのが、この本である。

相対的貧困層ではなく、絶対的な貧困層。
貧乏ではなく貧困。その区別に、なるほどと思った。
著者は伝え方の難しさを自覚している人で、貧困女子高生の報道に対して、著者は未成年をありのままに報道しすぎることへの批判を行っている(http://diamond.jp/articles/-/104452)。
そんな著者の文章は、取材対象者に対して、真剣に胸を痛めていることが伝わってくる
見下すわけではない。哀れみは、見下しの変形だ。面白がるのでもない。
誰か一人でなんとかできるわけではないけれども、まずはこんな人たちがいるのだと見えるようにしようと言葉を尽くす。
そんな姿勢で綴られている文章に感じた。

実際に、経済的な困難を抱えている女性達、それもかなり若い女性達にお会いすることが私は多い。
虐待や育児放棄、親の不在、前の世代からの貧困といった背景があってもなくても、教育の配慮を受けられずに来て、医療にも福祉にもなかなかつながりにくい人たち。出会っても途切れてしまう人たち。
セックスワークとの親和性が本書でもしばしば取り上げられているけれども、それしかできない、かろうじてそれならできる、で、生き延びている人たちがいるのだ。
私が知っている彼女達をどんな風に紹介されているのだろうと思って、手に取った。
こんな風に紹介してくださっていて、周知しようとしてくれている人がいるんだと知ることができてよかった。

努力がたりないとか、本人の選んだことだとか、そんな言葉で思考停止せずに、彼女達の苦境を考えてほしい。
彼女達を見捨てていませんか。買う側に回っていませんか。より傷つけてはいませんか。
違法なことをしているとか、だからだめだとか、そんな建前論はなんの役にも立たない。
この国は少子化対策が必要だと言いながら、子どもを産む女性しか政策の対象にしていないけども、制度からこぼれ落ちている存在がある。
ないのと、なかったことにするのは、意味が違うのだ。

著者は取材を通じて得られた知見からケースの類型化を図っている。
「3つの無縁」と「3つの障害」に関わる社会学や福祉の専門家にはこれを活かしてもらいたい。
この国では、売春は法律で禁じられているから、ないことになっている。
売春はないことになっているので、売春婦もいないことになっている。
ないこと、いないことには、対策もしなくていいことになっている。
だから、こんな生き方しかできない存在があるのだと、周知するところから始めないといけない。
専門家ではないと何度も著者は断りを入れることで、専門家への喚起を促しているように見えた。

明日はわが身なのだ。
あなたの母親や妻や娘や姉妹や姪の学生時代のアルバイトや卒業後の生計を立てる手段として、風俗や売春は適切なのか。万全を尽くして子育てをしているつもりが、その子どもが家出をして、その後の人生がこの状態だったとしたら。
あなたの父親や夫や息子や兄弟や甥が買う側に回ることを想定して生活しているだろうか。あるいは、男性もまた売る側に回されることがある。
平気だって人もいるだろうけど、それでも、考えてほしい。どこでどう転じるか、わからないではないか。
どれだけリスクが高いのか。それでも、そうとしか食べる方法がないってこと。これを普通のことだとしてしまいたくない。
私のできることもまたささやかだけども、彼女達を知ってほしいと思って、記事を書いておく。

2016.12.15

男役

中山可穂 2015 角川書店

そこは夢の世界にたとえられる。

私が宝塚大劇場に行ったことがあるのは、一度きり。
高校の時も友人の一人が熱烈なファンで、大学の時も友人の一人が熱烈なファンで。
あれはたぶん、大学の友人につれていってもらったような気がする。
なんの作品だったのか、誰が出ていたのかも憶えていない。
劇団員といえばいいのかな。ステージの上の華やかさとサービス精神、なんといっても男役の皆さんのかっこよさ。
過剰なまでのロマンチシズムとアドリブの笑いのギャップに、生で何度も観たくなるファン心理を悟った。
礼儀正しく規律正しいファン達の熱量に圧倒され、独特の世界だなぁ、と思いながら、帰ってきた。

その時の印象そのままの世界が、この本の中にある。
宝塚そのものではなくて、印象としての宝塚。思い出としての宝塚。
著者が後書きで但し書きをしているけれども、リアルを追求したものではない。
逸脱するからこそ、幻想としての宝塚が強く心によみがえってくる。
友人たちの話から垣間見てきた宝塚、自分が一度だけ行った宝塚、その場所でならさもありなんと思うような、そういうしっくりくる感じがする。

中山さんの物語は、気合いを入れて読むものだと思っていた。
心の一番やわらかい所を閉まっているパンドラの箱をこじあけながら読むような、心が右往左往に引きずられて引き裂かれるような思いをするような、そんな恋愛小説を書く方だと思っているから。
美しい日本語で、美しい恋愛小説を描く、随一の方だと思っているから。
だから、読むタイミングをすごく選ぶのだけども、この物語はそんな心の準備は不要だった。

ファントムこと、扇乙矢。50年前に舞台事故で死に、宝塚を守護してきた幽霊。
現在のトップであり、引退を控えた、如月すみれ。
乙矢の相手役だった麗子の孫である、永遠ひかる。

彼女達、三代にわたって受け継がれていく、男役という生き方。生き物。
確かに女性であるには違いないが、彼女たちは男役である数年間を、女性ではないものとして自らを形作る。かといって、男性そのものではない。
男役は、男性の理想形を体現する、男役という性別であり、生物になる。
現実ではなく仮想の宝塚だからと敢えて書いておくけれども、そんな仮想の性別であり、この世界に仮住まいしているような人物像が、中山さんの世界に似合うように思った。
なにしろ、美しい。それだけで十分だ。

すみれの引退で幕を引く。
その切れ味がまた、中山さんらしいなぁと、舌を巻いた。
著者はもともと近代能楽集の一作品になるようにこの物語を構想したそうだが、ファントムだけではなく、男役そのものが舞台という一夜の夢でしか息づけない、そういう物語だったのかもしれない。

近いうちに、『娘役』のほうも手に入れなくちゃ。

2014.06.19

百合のリアル

牧村朝子 2013 星海社新書

非常にいい本である。
ぜひ、図書館には入れて欲しい。
できれば、公立図書館や高校以上の学校図書館に入れて欲しい。
中学生にはちょっと早いかもしれないが、性の悩みを悩み始める頃の人たちに届くようなところに並べて欲しい。
心からそう願う。

読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
質問/対談形式にしてあるところもとっつきやすいと思う。
マンガのページもところどころ挟まっていたりもする。
帯の著者の写真が、とても美人でひゃほー。雰囲気がとてもいい。
どこか遠い世界のレズビアンではなく、もっと身近で等身大。
リアルな悩みに答えてくれるいい本なのだ。

同性愛の問題を語るとき、カテゴライズする用語が年々増加の一途をたどることに気づく。
そのカテゴライズすること自体を取り上げて、そんなラベリングを一旦取り外して、目の前の人と人との一対一で対峙するところから始めようと、著者は対人関係の根本に立ち戻ることを勧める。
そんなところは、同性愛であるかどうかは横において、誰にでも言える、役立つ、本当はとっても当たり前であるはずの考えが述べられている。

そういう用語の解説にとどまらず、比較文化的に男女以外の性の区分を紹介してみたり、歴史的に同性愛の治療とされてきたものを紹介してみたり、内容は横断的でである。
同性愛であることの苦しみへの対処法や、同性カップルのこうむりやすい不利益、同性同士で婚姻するための現行上の仕組み、女性同士のセックスの例など、盛り込まれている情報は豊富だ。

セックスのルールはシンプルよ。『している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること』これだけなの。(P.156)

さらりと大事なことを書く著者に、好感を持った。
とても賢く、ユーモアのある女性だと思う。
書かれている文章が魅力的で、正直を言えば、ファンになった。

2014.05.26

更年期以降を元気に生きる女性ホルモン補充療法

新野博子 2013 海竜社

持病のため、自分が受ける治療法を知っておこうと思い、読んだ。
更年期以降、高齢となった女性にも女性ホルモン補充療法を勧めている点で、自分自身の現状とは必ずしもそぐわないところも多かったが、読んでみて治療を受けないことのほうが不安になった。

エストロゲン欠乏によって、どのような変化(老化)が起こるかを説明しつつ、閉経後の性の問題にもしばしば触れられている。
健康的な心身を保つために、食事や運動といった自助努力可能なものについてもページが割かれていた。
その上で、ホルモン補充療法の適応範囲や方法などが説明されている。

私の関心としては、どのような老化が起きるかではなく、ホルモン補充療法そのものの効果や方法、副作用であったのだが、暗に相違して、老化についての記述のほうがボリュームが多かったかな。

実感としては、受ける前よりは受けるようになってから、ずいぶんと楽になった。身体的にも。心理的にも。
今の年齢で、今すぐ老化に突き進むと考えると怖いので、治療を受けつつ、ゆっくりと老いていきたいものである。

2013.03.05

婚外恋愛に似たもの

宮木あや子 2012 光文社

いつも一番上の女。
上から三番目の女。
普通で真ん中の女。
下から三番目の女。
いつも一番下の女。

『野良女』の姉妹作とのことだが、主人公達の年齢が5歳アップし、既婚になったことで、抱える悩みの種類が変わるものだ。
民主主義だろうと資本主義だろうと、そこには格差があり、階層がある。
共通して35歳である彼女達は、お互いが同じ階層ではないことを知っている。
同時に、自分と近しい生活圏の人たちの中において、自分が外れ値であることを知っている。
外れ値であるにもかかわらず、階層を越境していくこともままならないことも、知っている。
その抉り出し方は潔くて容赦ないが、嫌らしくならない。不意打ちのような笑いの効果も絶妙だ。

彼女達が愛するものは、決して手に入らない。
なぜなら、愛するひとは、2.5次元。つまり、アイドル。
5人組のアイドルのそれぞれのファンを描きながら、5人のまったく違った女性の生き方を描いているのだ。
5人は出会い、ゆるやかな友人関係をなしていく様に、あるあると何度頷いたことか。
私の長い付き合いとなった友人達の多くは、共通のバンドのファンであり、そのコンサートを通じて今も会い続けることができているのだ。

痛くてもなんでも、人はパンのみで生くるにあらず。
愛がなくては。
私は常々コンサートに通う理由をこう思う。
「愛している」と、そう言ってもらいに通っているのだ。
デトックスになるようなアイドルではないかもしれないが、2.5次元の愛すらなくなると、私は相当に苦しくなる、気がする。

現実を振り返ると、片岡のように、自分の偶像を「神様と崇め、日々拝みながら修道女のように生きるだけで充分」(p.187)じゃないかと思ってしまう今日この頃。
自分はどの階層に位置するかなぁ。
親近感を持つのは山田で、共感するのは桜井かなぁ。
どれだけ思い悩んだとしても、私は1番になることはない。
いろいろと考えたりもするけれど、愛しく感じた本だった。

コンサートはすべての境界線を壊す祝祭であるが、神と人との境界線は壊れない。
アイドルはアイドルのままに。

エンターテイメントが誰かの希望になるように。(p.160)

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