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香桑の近況

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**女であること**

2021.04.06

さよなら、俺たち

清田隆之 2020 スタンド・ブックス

こういう議論を男性が語るようになってくれたのかと、新鮮な驚きと喜びがわいてきた。
男性自身が、どのようにホモソーシャルな社会を体験して、内面化しているのか、そこを自ら振り返りながら言葉にしたものに触れる機会は、私はまだ少ない。
男性がどのように男性性を体験しているのか、男性に語ってもらわないことには、私は一応、女であるので、よくわからないのだ。
そういう男性が書いたジェンダーについてのエッセイであるという点の魅力は後述することとして、先に、同業者の方たちに読んでほしいなぁと思ったもう一つの魅力を書いておきたい。

筆者は桃山商事という「恋バナ収集ユニット」として1000人以上の方のお話を聞いてきたのだそうだ。
その活動を通じて、徐々に彼らなりの方法論を構築していったところが素晴らしいなぁと思った。

恋愛相談において最も重要なのは相手の「現在地」を一緒に探っていくことだという考えに至った。
人の悩み事というのは短い言葉で言い表せるほど単純なものではない。(中略)実に様々な要素が複雑に絡み合っている。それゆえ、悩んでいる本人も自分が何に悩んでいるのか、ハッキリ把握していないケースのほうが多かったりする。
それらを読み解くためには、決めつけず、誘導せず、まずはじっくり相手の話に耳を傾ける必要がある。(中略)相談者さんが「今、何に悩んでいるのか」を整理し、共有していく。このプロセスに最低でも1時間はかける。(p.124)

このように、話を聞くことで何をするか、どのようにするか、何を目指していくかを、きちんと整理してあることが素晴らしい。
心理援助職になったばかりの方で、話を聞くとは何を聞けばいいのか、どのように聞けばよいのか、聞くことでどうすればよいのかを迷う方がいらしたら、ぜひ、参考にしてほしい。

相談者さんのお悩みにじっくり耳を傾け、現在地を一緒に探りながら相手に合った解決策を提示していく。これが我々の考える恋愛相談の理想型だ。とにかく相手の話をよく聞く。内容としては極めてシンプルであり、特殊な経験や専門知識は必要ない。すべての男性にオススメしたい方法だ。(p.127)

と、筆者は特殊な経験や専門知識はないと書くけれども、これを心理職がしないとしたら、私はとても残念に思う。
様々な介入技法を身に着けて、専門性を高めることは大事なのだけれども、基本の基本は、ここじゃないだろうか。
これを書いたのが同業者じゃないことが、私はちょっと悔しかったり寂しかったりした。

また、読み進めていくうちに、human beingとhuman doingという概念を援用して、ジェンダーの違いを説明しようとするくだりが出てくる。
これって、イルツラ(東畑開人『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』)じゃないのか?と、思った。
ケアとセラピーの対比は、human beingとhuman doingの対比を補助線として援用することによって、ぐっと鮮明になると思う。
セラピーをしなければいけない気持ちに駆られているときには、human doingとしての生き方に自分がなっている時なのだ。

筆者は、多くは女性たちからもたらされる失恋についての話を聞き続けたことで、男性である自らと対峙せざるを得なくなる。
女性の目を通じて語られる男性たちの「嫌なところ」が、自分にもあるのではないか?と考えて自分を見つめる作業は、しんどい時があると思う。
筆者は落ち込んだことり悔やんだことをかっこつけずにエッセイにつづっていく。そこがいい。

「男性が加害者、女性が被害者」という話ではないし、すべての男性が女性蔑視をするわけでもない。しかし、男性が「男性である」だけで与えられている〝特権”は確実にあって、それは「考えなくても済む」「なんとなく許されている」「そういうことになっている」といった形で我々のまわりに漂っている。(p.10)

そう。そうなのだ。
男性の特権を指摘されたときに、そんなものはないのだと反論する男性も多いわけであるし、反論したくなる気持ちもわかる。
フェミニズムはミサンドリーとイコールではないのに、そこをごっちゃにして拒否反応を示す男性も多い。
それでも、男性であるというだけで特権があるのだという女性側からの主張を一旦引き受けてもらえないと、女性側として話が進められないのだ。
そこを認めた上で論じてくれている男性がこうやって登場していることに、私はなんとなくの救いを感じた。

ジェンダー論というのは、私は諸刃のものに感じることがある。
これを論じることで、自分が居心地よくなるものとは限らない。それは女性にとっても、だ。
だからこそ、フェミニストを嫌悪する女性もいるわけであるし、フェミニストを名乗る人々のなかにもいろんな人たちがいる。
そのあたり、上野千鶴子さんのフェミニストは自称でよいこと、フェミニストの女性は自分の中にミソジニーを抱えているものだという論に、ちょっとだけ安心したことがある。
男性がミソジニーに気づき、ミサンドリーを感じたとしたら、やっぱり居心地悪く、憂鬱で不愉快な体験になるだろうとは予測される。
だからといって、たとえば非モテであるとか弱者男性であるとかを盾にされても困るのだ。
それでも、女性がホモソーシャルな社会に適応するためにミソジニーを引き受けざるを得なかったように、そのホモソーシャルな社会を維持してきた側としてのミサンドリーを引き受けてもらって初めて、お互いに話が通じるのではないか。

そういう隘路を見出した読書だった。

新しくできた書店で、手に取った本。
Twitterで見かけた記憶があった。
たまたま、サイン本だった。
在庫はその一冊だったので、サイン本をいただいた。
これもなにかの御縁。

2021.02.06

女たちの避難所

垣谷美雨 2020 新潮文庫

あの日のことを忘れることなど、できない。
あの日には幼すぎて記憶にはあまりない人や、その後に生まれた人もいる。
けれども、あの日は自分にとっていつか来る日であるかもしれない。

この本は、東日本大震災に題材を取っている。
福島の架空の海沿いの町で、災害に遭った3人の女性が主人公だ。
彼女たちが、災害をどのように体験し、災害後をどのように体験したか。
避難所とはどういう場所であったかを、小説として読み手に体験させる本だ。

文体はなめらかで真に迫り、あの日からひっきりなしに放送された映像が目の前に浮かぶ。
この人は無事にあの災害を生き延びるのか、あの災害の規模を憶えているだけに、地震の描写が苦しくなった。
あまりにも苦しくなり、手にとっては置き、手にとっては置き。
最後の数ページを先に読んで自分を安心させてみても、読み進めるのがつらくなった。
そのうち、腹が立って仕方がなくて、読み進めるのがつらくなった。

福子は子育ても終わった中年の女性だ。その夫は、定職に就かず、ギャンブルに依存しているような男だ。怒らせると面倒で、ただ男であるというだけで威張り散らす。でも、地域の女性らしさの規範にのっとって、福子は黙りこんで耐えるしかない。
遠乃は出産したばかりの若い女性だ。夫を災害で喪うが、夫の父親と兄から家事労働を含むケアの担い手、性的な対象として、当然のように世話することを求められる。乳児を抱えた美しい女性が、避難所でどういう目に遭ったか。
渚は小学生の息子を持つシングルマザー。離婚歴があり、飲食店を営む彼女を、地域の人々はふしだらな女性として扱う。そのため、息子も学校でいじめにあっていた。

読むほどに、怒りが湧いてたまらなくなった。
腹が立ちすぎて眠れなくなるわ、吐き気がしてくるわ、うんざりするほど憤りが湧いてきた。
福子と遠乃と渚と、その他の女性たちと、どの女性たちが自分に近しく感じるかは、読む人によって異なると思うが、彼女たちの苦しみは自分の苦しみと地続きだ。
だから、私はこの小説を、架空の物語として読めなかった。

これは小説の形を取るしかなかった記録に思う。
こんなことはきっとたくさんあって。
きっともっとひどくて。
あの頃、ひどい話を端々で聞いた。
とても丁寧に取材されており、実在のモデルを想像してしまうほど、鮮明で具体的で現実的だ。
脚色されているとしたら、過大に盛るのではなく、過小にマイルドにしなければならない方向性に、だと思う。
小説という体裁を取らなければ、本として出せないほどにひどいことがいっぱいあったのだろう。

だが、問題の多くは、多かれ少なかれあちらこちらで繰り返されている。
震災前からあり、震災によってあぶり出されたことは、今なお現にある。
竹信三恵子さんは解説で、「人をケアするべき性」として扱われてきた女性被災者たちをケアしてくれる存在はなく、静かに疲れはてていくと書いているが、それはCovid-19流行下でも現在進行形であることを自殺者数が示しているのではないか。
三界に家なしと言われてきたこの国の女性たちに、避難所はあるのだろうか。
この小説では、主人公たちは東京に避難することを決めるが、そこが楽園であるわけではない。
都市の女性なら理不尽に抗議できたかどうかは、去年、バス停で休んでいるところを殺された女性が示すのではないか。

日本の社会っでいうのは、女の我慢を前提に回っでるもんでがす。それに、若い男の人が年寄りに遠慮して物が言えないのも前からそうでした。(p.332)

男の人がこの本を読んだら、どんな風に感じるのだろう。
ミソジニーな傾向の人、ホモソーシャルな社会が居心地のよい人が読んだら、くだらないと言うのだろうか。嘘っぱちだと言うのだろうか。自分たちを故意に貶めていると言うのだろうか。
それとも、お行儀のよい感想を言うのだろうか。

福子にも、遠乃にも、渚にも、#DontBeSilent のエールが届くといい。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、なかったことにされるではないか。
ひとつひとつの理不尽に声をあげなければ、こちらの不愉快さに気づいてもらえないではないか。
声を上げても怒鳴られ、声を上げても殴られ、声を上げても押し殺されてきた中で、声を上げることがどれほど大変か。

この世界に、まだ避難所すら持てないことをつきつけられているのだから。

2020.10.20

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野千鶴子・田房永子 2019 大和書房

経験を表現する言葉のメニューはできるだけ多いほうがいい。(中略)あらかじめ言葉を知らないことは表現できない。(中略)感情って言語化されないと経験にならないのよ。(p.147)

教育や読書がもたらすものであり、カウンセリングでしていることをすぱーんと気持ちよく表現してもらった。そういう一文に出会った本だ。

フェミニズムという言葉に対して、世代によって、反応が異なる。
その世代によって体験していることが違うことを明示するところから、この本はスタートする。
時代によって教育(社会+学校+家庭のすべての教育)が異なり、教育に反映されている社会の価値観が世代によって異なる。
そこが、対人援助職をしている私が社会学と近現代史を学ぶ必要を感じるポイントだ。
臨床心理学が個人の体験、個人の内側に問題の端緒を掘り下げようとするのに対して、社会学は個人を成り立たせている社会と時代の文脈を整理して理解しようとするものだ。その世代ごとの変化を、冒頭から簡潔に表で示している本だからこそ、同業者の人に手に取ってほしいと思いながら読んだ。
そこをわかっていないと、なぜ、団塊世代の女性が母親になった時に毒親という名称を与えられた存在になりがちなのか、ロスジェネ世代との桎梏が生じているのか、ロスジェネ世代が結婚率・出生率が低下しているのか、過剰に個人の体験、個人の責任に落とし込んでしまいかねない。

私は対談や対話形式で書かれているものはあまり得意ではないのだけれども、この本は上野千鶴子さんと田房永子さんという「親子ほどに」年齢の隔たる二人の対談を文字に起こしたものだ。
会話だからこその活き活きとして、活発な論の展開が軽快で読みやすく、横でおしゃべりを眺めているような気分になる。
素晴らしいのは、上野さんの問いかけ方だ。田房さんに立ち止まり、振り返り、新たな視点や考えを引き出すような、そういう問いかけを何度もなさっている。それに、褒めることも忘れない。
更に、上野さんは必ず論拠や引用もとを示す。上野さんは「学恩」という言葉でその流儀を表現していたが、誰がそのことを論じていたか、誰がその言葉を発明したか、上野さんの知識の深さや広さと誠実さに感銘を受けた。
さすが、長年、研究されてきた方であり、教育されてきた方だけあると思った。そういう上野さんと話すことがあるとしたらこんな感じなのかしら?という疑似体験をさせてもらった気分。

その上野さんが、田房さんとの対話で、断絶を何度か確認する場面も印象的だった。ほんとに知らないの?と確認しながら、ウーマンリブやフェミニズムの功績について語り、下の世代に語り継がれていないことに驚きを示す様子が、ひどく印象的だった。
私自身は田房さんより少し年上で、大学で学び機会もあったものだから、一緒になって、え?知らないの?と思う部分と、私も知らなかったという部分の両方があった。

Jene Roland Martinが『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』において、女性が受けてきた教育の変遷と、その変遷がもたらす世代ごとの分断を明らかにしている。
男女の平等化という名目のもとに、女性の教育の男性化がなされた1960年代、そこで優秀な成績をおさめたはずの女性たちがどういう人生を送ったかを示したBarbara A. Karrの『才女考』のインパクトも大きかった。
どちらも、私が90年代に読んだ本である。大学の授業で、フェミズムを学ぶ機会があり、上野千鶴子さんの著書にも触れた頃である。
フェミニズムといっても色々な考え方があり、Andrea Rita Dworkinの『インターコース:性的行為の政治学』はラジカルでスリリングで面白かったのだけど、この本を教科書にした講義での男性の友人たちの反発と不満の大きさに驚いたことも忘れられない。
その反発と不満は、田嶋陽子さんを嘲笑することでしか優位性を示せなかった人たちの反応に通底していたと、今も思う。

そういう90年代の空気を思い出させてくれる点で懐かしさもあったし、それ以前の学生運動の頃のリブ運動についてを教えてくれる本でもあったし、今になって語られるようになったミソジニーとホモソーシャルな社会という視点と、これからのことを考えさせてくれる本でもある。
男性にも女性にも、支援者にも当事者にも、読んでもらいたい本である。

ここからは、読後、何週間経っても忘れられないことを書こうと思う。
この本が問題だったのではなく、この本に書かれていた社会のこと、女性が受けてきた待遇を知ることで、たまらない気持ちになったのだ。

それは「上野さんがフェミニストになったワケ」という見出しのついた大学闘争についての話で、男性が女性を用途別使い分けをしてきたと指摘する部分だ。
米津知子さんの「(大学闘争で)自分はバリケードの中でメイクもせずラフな格好で男と一緒に闘っていたのに、その男たちの彼女になるのはお化粧して身ぎれいした女の子だった」という言葉から始まる。
これを読んだ時にぱっと思い出したのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』だ。第二次世界大戦に従軍したロシアの女性たちのインタビューであるが、まったく同じようなことが語られていたことを思い出した。まったく同じことを繰り返している。
一緒に闘う女性は「ゲバルト・ローザ」。恋人には都合のいい耐える女、待つ女である「救対(救援対策)の天使」。そして、もう一つの類型が、「慰安婦」もしくは「公衆便所」。

当時、性的にアクティブな女の子たちを、男たちは「公衆便所」って読んでいたのね。凄まじい侮蔑の言葉でしょ。同志の女につけこみながら、陰で笑い者にしてたの。(p.67)

この侮蔑的な表現に触れたことは初めてではないが、この文脈が私にはひどくこたえて、ひどく引きずることとなった。
旧来の伝統的な価値観に対する抵抗の運動をしていたはずの男性たちの振る舞いが、そのまま「家父長的なオヤジと同じふるまい」(p.66)であった。
「運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった」(p.67)という上野さんの言葉が、私の骨身に染みているものに響いたのだと思う。
打ちのめされるような重たい気分が、ずっと尾を引いている。私の気力を根こそぎ奪うような、恨みと諦めが入り混じった重たいものだ。かつては怒りであったが、いまはもうその力を持ち続けることも難しい。
一度は期待し、信じた分だけ、つらかっただろうと、思い描いてしまうのだ。

性的なアクティブさを獲得することは、女性にとって主体性の獲得のはずだった。その女性たちは、自分たちがより幸せに充足して生きられるようにあがいていたように思うのだ。けっして、背後で侮蔑されるために生きていたわけではないのに。
今なお、この侮蔑的な表現はネットの中で見かけることがあるものだし、表現は違っていたとしてもこのような類型化=使い分けをされているように感じることがある。いや、ゲバルト・ローザなんて、ほとんど望まれてもいなんじゃないかとすら感じることもある。
今現在を生きている若い女性たちのなかには、ただ幸せになりたい思いから、異性と知り合い、性交渉をすることで、結局は同じ道をたどっている人たちがいる。
彼女たちの顔が思い浮かんで、私はますます悲しくなったのだと思う。ただ幸せになりたいだけなのに。なんでこんな目にあわねばならないのか。

私の中にもミソジニーはある。それは間違いない。
上野さんは「自分の中にあるミソジニーと闘い続けてきた人をフェミニストと呼ぶ」(p.183)、「フェミニズムは女にとって、自分と和解するための闘いだ」(p.184)と定義する。
そして、「フェミニストは自己申告概念だから、そう名乗った人がフェミなのよ」(p.185)とも。
だとしたら、もう一度、腹が立つことには腹を立て、それは違うと言い続ける力を取り戻していきたい。

2020.07.15

男の子でもできること:みんなの未来と願い

国際NGOプラン・インターナショナル(文) 金原瑞人(訳) 2020 西村書店

タイトルからして素晴らしい本。
数々の写真に透けて見える、表情豊かな子どもたちの写真。
そこに添えられた文章がいい。
金原瑞人さんの訳がいいからすうっと入ってきて、考えさせられる。
最後に、上野千鶴子さんの解説が全体をまとめあげる。

男の子「でも」できること。「だから」ではなく、「しか」ではない。
女の子「だけ」ではなく、男の子「でも」。そこに希望を灯そうとする素敵な本だ。

この本に書かれていることを理解できるようになるには、少し時間がかかるかもしれない。
後からわかってくることもあるだろう。
最初は母親が読んであげるのだろうか。父親が読んであげると、それはとても素敵だと思う。

母親だけではなく。
姉妹たちだけではなく。
未来の伴侶や、娘や、孫娘や。
隣人や、遠くの人が。
どこかで今まさに押しつぶされそうになっていることを、男の子たちにも我が事として知ってもらいたい。
そこに、男の子たちでもできることがあることを教えてくれる。

いつか未来に必要なくなるまで、図書館や待合室、いろんな場所に置かれてほしい本だ。

最後に、プラン・インターナショナルについても少し紹介しておきたい。
世界中の女の子を支援するNGOだ。援助の仕方にバリエーションがあり、ひとりの女の子を継続的に支援し、手紙を通じて交流するというプラジェクトを持っている。
単なる寄付を越えて、遠い国の女の子の親になる。そういう夢を叶えてくれる活動を行っていることを、ぜひ、知ってもらいたい。


2019.08.20

イナンナの冥界下り

安田 登 2015 ミシマ社

漢字発生時の「心」の作用、すなわち「時間を知ること」と、そしてそれによって「未来を変える力のこと」(p.5)

イナンナの冥界下りに興味を持ったのは、M.マードック『ヒロインの旅:女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』がきっかけだ。
イナンナがエレシュキガルに会い、Black Motherの顔を得ることが、女性の回復であり成長に不可欠であることを描く下りで、イナンナが登場するのだ。
女性の深い傷つきを語る上で、一度きちんと触れておきたいと思うようになった。

そのうち、この神話が能として演じられたことを知り、ますます興味が惹かれるようになった。
そして、手に取ったのこの本だ。

シュメールの神話は、ギリシャ神話のように物語(登場人物の感情や行動に因果がある)になっておらず、10代の頃にはよくわからないままだった。
それを、こころ=言葉以前の時代の名残として位置付ける解釈に納得した。作者は「あわいの時代」と表現する。
現代とはものの見方や価値観があったことを汲み取るように、最も古い時代の神話を読み解く過程は興味深い。

「死」こそが「心の時代」の最大の産物のひとつなのです。(p.85)

こころを表す言葉を発明してこころを獲得してから、人は過去と未来を認知し、後悔と不安を抱くようになった。
それは極めて男性的な(男性性的な、のほうがよいかな)時代である。
こころと言葉を扱う仕事に就く者としてスリリングで刺激的で、どう受け止めてよいのか。
私の冥界下りを思い出さねば。

これは本屋さんで買うべき本。
手触りの良い、素敵な本だ。

2018.11.05

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

小川たまか 2018 タバブックス

2016年から2018年にかけて。
私が意識してTwitterから見える社会を見ようとしてきた時期と、ちょうど重なる。
もしかしたら、著者の人と同じツイートを読んだりしてきたのかもしれないし、知らず知らずのうちに著者の記事を読んでいたこともあった。

この2年。たった2年であるが、目次に時系列に並べられたトピックを見ると、もっとはるかに時間が経ってしまっているような気がする話題もある。
どれだけの情報に、自分は押し流され、押しつぶされているのだろう。

性暴力はある。とても身近なところにある。
性差別もある。毎日のように押し付けたり、押しけられたりしている。
感じている人は気づいているけど、気づいていない人は感じもしない。
そんな風に「ほとんどない」ことにされているのが、性と関わるいくつもの問題なのだ。

私にとっては問題であるけれど、そんなことで…と問題にされないことが多い様々な日々の話題を、信頼できる友人と話すような気分で読んだ。
そこに引っかかる自分の感性をおかしいと思わずに済む。ここにも、ひとり、感じている人がいることがいることに、ほっとする。
考えや体験がまるきり同じなわけがないけれど、ほとんどないことにされやすいけど、やっぱりあるんだよね。
あるけど、ほとんどないことにされたりするんだよね。
その失望感や絶望感が、やっぱりねという再確認と共に、読後、ずっしりと襲ってきた。

女だというだけで、どれだけ、なかったことにされないといけないのだろう。
このこころは。

その溝を確めるために、是非とも読んでもらいたい本だ。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2017.10.27

Black Box

伊藤詩織 2017 文藝春秋

記者会見の場での彼女を見て、私は凛々しいと思った。
その勇気を称賛したいと思った。

「そこに血を残しなさい」

筆者がアメリカ留学中にホストマザーから受けた教えに、ぞっとした。
私が四半世紀前に読んだスーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』(JICC出版局 1990)には、不正確な記憶であるかもしれないが、被害者が抵抗した証拠がなければ性交渉は合意と見なされることがしたためてあった。
銃で脅されていたとしても被害者が怪我をしておらず出血していなければ合意と見なされる理不尽さを訴える本だった。
あの時のうちのめされるような憤りと慄きが蘇った。
ぴたりと重なったと思った。

本書の内容には、大きく3つの要素がある。
ひとつめは、被害者がどのようにして被害に遭遇するか。
ふたつめは、被害状況直後からどのような症状や状態が出現するか。
みっつめは、被害者が必要なサポートにいかにつながりにくいか。
この三点を、被害者自身のまだ真新しい記憶に基づいて、体験を記述しているところで、広く読まれてほしい本である。
被害者の受けた傷がどれほど深刻で、後々までいかにダメージを与え続けるものであるか、これが一般常識になるように参考してもらいたい。
被害者が必要なサポートにつながりにくいところは、医療や司法の方はもちろん、自衛のために、知っておいてもらいたい部分である。

筆者のレイプの状況は、残念だがこういうことは女性に起こりうるものとして読んだ。
状況をこうして文章として再現することも、苦痛を伴う作業だったと思う。
何度、言葉にしたからといって、自分の中のその記憶を刺激するたびに、フラッシュバックも起きやすくなったことだろう。
勘違いしてならないのは、フラッシュバックというのは、ただ単に想起することではない。
あたかもその場その時に戻ったかのように、五感や感情のすべてで過去の体験を再体験することだ。
その時の恐怖心や不快感も丸のまま、ありありと蘇ってくる。直後で、おそらく未治療で、未回復であるなら、その苦痛はどれほどであるだろう。
その苦痛を耐えながら書かれた本だ。

被害者が恥ずかしいと思わなければならないことが間違っている。
性暴力被害にまつわる間違った言説は世の中にあふれている。
被害者が誘ったのではないか。被害者にはめられたのではないか。被害者が魅力的なことが悪い。
被害者も快感を感じたのではないか。女性は暴力的に扱われることを待ち望んでいるのではないか。してやったのだからありがたいと思え。
と、加害者に同情的で、被害者をかえって責めるような言葉はよく聞かれる。
そのうえで、「傷物になった」という言い方で、被害者の尊厳が永久に傷つけられたことを社会として承認し、被害者は傷つけられた者として恥じながら生きることを求められる。

正しい被害者像を演じなければ、同情すらしてもらえない。そんなおかしいことはない。
なぜなら、まじめでおとなしい、清楚で内気、そんな女性像こそ、「狙われやすい」対象だからである。
意地悪な言い方をすれば、性的に誘惑的ではない印象を与える被害者像を演じることによって、もっとも性被害にあいやすい女性として性的に誘惑させられることになる。
その点、同情しろというメッセージを発するのではなく、おかしいことはおかしいと声を上げる筆者の姿に、感銘を受け、称賛したいと思った。

筆者を含めた被害者が、二次的、三次的に、それ以上、傷つけられることのないように祈りたい。
筆者を含めた被害者の傷が、その傷跡は心の中で消えなくとも、生々しさが薄れて抱えやすいものとなるように祈りたい。
なによりも、このような被害を受ける人が減ることを、強く強く願いたい。

2017.05.11

官能と少女

宮木あや子 2016 ハヤカワ文庫

一癖ある恋愛短編集。
どこか胸の奥に刺さるような、胃の腑がつかまれるような、そんな苦い痛みを持つ短編ばかり。
恋愛やエロティシズムに釣られて読み始めると、その欲望に傷つけられた者の痛みを見せ付けられる。
愛しい手は私から何もかも奪い去った手である。私を根底から傷つけたその手を、愛しいと思うしか、生き延びる術がなかった。
そうすることしかできなかった悲しみが、不思議な透明感を持って描かれている。
これは、少女たちの物語。官能と女性、ではない。少女というところが心憎いタイトルだ。

この傷つきを幻想的だと感じる人は幸いだ。作り物だと思える人は幸いだ。
恋愛という甘ったるくて見せ掛けだけの能天気で夢見がちな理想論は、ここにはない。
可哀想と嘆く同情や、そんな関わりは許されるべきではないと否定する良識に、簡単に押し殺されてしまうほど、こういう傷つきは隠されやすい。
世の中に、性暴力や性虐待は、実に多い。加害者に暴力や虐待の意識がなくとも、身にも心にも大きな傷を抱えながら生きている人は多い。
明確な暴力の既往があるわけではないので表に現れることはないが、普通の性を送れない生きづらさを抱えている人となると、いかほどばかりか。
LGBTとは違う次元で、性の苦しみと悲しみと痛みを、一見はエロティックに描いて見せたところが作者の手腕に思う。

宮木さんの短編集は、一冊の中でどこかとどこかが繋がっているところが好きだ。
この物語も、ゆるやかな円環を描く構造になっている。
どこがどう繋がっているかは、読んでからのお楽しみ、のほうがいいかな。
この本、宮木さんの本だからと買ってみたら、読んだことのある本だった。
タイトルをまったく憶えていなかったので、見覚えのある文章に立ち読みでもしたのだろうか?といぶかしんだが、最後まで読んだことのある本だった。

私の記憶力って。

2017.03.30

夫のちんぽが入らない

こだま 2017 扶桑社
書店で平積みされた本の書名が、一瞬わからなかった。
注意深く文字を探してみると、SNSで書名をよく見かけるようになった本だとわかった。
立ち読みする度胸はなかったので、そのまま買ってみることにした。これもなにかの御縁。
読み始めると、一気だった。
解決はない。対策はない。
こうすることしかできなかった苦闘の歴史があるだけだ。
こうせざるをえなかった血のにじむ格闘の記録だ。
ほかにやりようがあったのならば、ここまで悩むこともなかっただろう。
性交渉に苦痛が伴う場合や、結婚しても妊娠や出産しない場合、女性によってはこれほど苦しむこともあるのだと、率直に書かれている。
無責任な第三者だからこそ、ああすればこうすればと言うことは簡単であるが、当事者として行うことは、とても苦しくて難しいことを忘れずにおきたい。
読み手は、これが物語ではないことを、思い出すとよいのではないか。
書き手がどうやら器用な立ち回りができる方だとは思えず、まだまだ言葉になりきらない思いや体験もあったことだろう。
読み進めるにしたがって、徐々に夫婦のありようが歪になっていく様な気がして、夫の前に、自分自身が専門家に相談するという選択肢がなかったのだろうかと、残念な感じがした。
頑なに、頑なに、ますます解決から遠ざかっていくのを見守るしかないような残念な感じがした。
私にとって、決して読後感の気持ちよいものではなかった。
しかし、不器用に、頑なに、その人なりに取り組もうとしてきた格闘の歴史であると受け止めておきたい。
読み手が読後にどろどろした気分になったとしたら、この本の成功であると思うし、そのどろどろじくじくした感覚がこの書き手の普段の気分であるかもしれないなぁ。
これから読む方は、どうぞ御留意を。
それにしても、この書名は度胸があるなぁ……。

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