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2021年8月

2021.08.24

猫が30歳まで生きる日:治せなかった病気に打ち克つたんぱく質「AIM」の発見

宮崎 徹 2021 時事通信社

本書の印税の一部は、猫と人間の腎臓病研究などの費用に充てられる。
東京大学で人間の病気の医師であり、研究者である著者が、猫の宿業とでもいうべき腎臓病の治療薬の開発にも関わる。
そこにはいくつもの出会いの積み重ねがあり、著者の研究がどのように広がっていったかの流れと、AIMという血液中にあるたんぱく質の働きについて、平易な表現でつづられている本だ。
特別な知識はなくても読めると思うが、もしかしたら、『はたらく細胞』をちょっとかじっていたりすると、だいぶとわかりやすいかもしれない。

腎臓病、肝臓がん、肥満、アルツハイマー型認知症。
どれもこれも現代的で、私にとっては身近な病名が並ぶ。高齢の親戚家族はの9割ぐらいは、どれかに当てはまる。全員かもしれない。
そのどれもこれも、老廃物が蓄積することで、徐々に機能障害が起きていき、最後は特定の臓器が充分に活動しなくなることで、寿命を迎えるというモデルであることは、なんとなく普段から感じていたことであった。
人間の体と寿命というのは、そういうものであることはわかる。
その「老廃物が溜まる」ところを、なるべく遅らせるために、お掃除機能を高める。そういう治療モデルの提示がとても面白かった。

私自身ががん患者であり、その定期的な通院の待合室で読んでいたものだから、こんな風に科学が進むことで治療法が見つかっていくこともあることに、涙腺が緩みそうになった。
文中に抗体医薬品というのが出てくるけれども(p.188)、私が服薬しているものがこれになる。分子標的薬と呼ばれたりもしている。
実際に高額な治療費がかかるわけであるが、仕組みを聞いた時に、よくそんな精緻なものが作れると驚いたものだ。
そういう自分に身近なキーワードが、次々に出てくる本でもあった。

私は猫好きであるし、かつて一緒に生活をしていた22歳ほどまで生きた猫も、最後の最後は腎臓病の問題だった。
そのよろよろと苦しむ姿を知っているから、その苦しみがやわらいだ姿を見ることができただけでも、飼い主がどれほど安堵や喜びを味わうか、思い描くことができる気がする。
同時に、猫たちの寿命がのびたときのために、人のほうが先に寿命を終えたときに残された猫たちを次の人が世話をするようなことが当たり前の意識と仕組みを作っていくことも必要になる。
猫たちの寿命が長くなるということは、人の方が先に死ぬことも増えるんじゃないかと思うから。
その部分は、著者ではなく、猫を飼う、猫を愛する人たちの役割である。

イエネコだけではなく、ライオン、トラ、ヒョウ、チーターといったネコ族すべてが共通の問題を持っているとは思わなかった。
数を極端に減らして種の危機を迎えている種にとって、寿命が延びることで繁殖の機会が増えると、数の回復にもつながるのではないかと期待が持てる。
基礎研究というのは、大変、夢があるなぁ、希望があるなぁと思った。
猫好きの人だけではなく、基礎研究てなに?と首をかしげる人や、これから進路を考える10代の人にも触れてほしいような本だった。

 

2021.08.06

金閣を焼かなければならぬ:林養賢と三島由紀夫

内海 健 2020 河出書房新社

狂気とはいったい何であろうか。
自分が体験していない(と思う)ものを理解するために、私は文学の力を借りてきた。
精神科で働き始めた頃の私は、それぞれの症状を理解しなければならないという要請に迫られていた。
小説に描かれている狂気は、しかし、疾患としての症状と同じものであるのだろうか。

『金閣を焼かなければならぬ』は、前半では林養賢、後半では三島由紀夫という二人の人物について語る。
この二人を結びつけるのは、金閣寺の放火。
林は、実際に金閣寺に放火した人物である。その事件に取材して、傑作を世に出したのが三島である。

著者はあえて「分裂病」という病名を用いながら、了解不能な狂気というものを抽出しようとしている。
人というものは原因や動機を理解したがるもので、それを理解することで話を終わりにするという特性があると思う。
理解することが解決ではなくても、「わかる」までその問題から離れなくなる。そのくせ、「わかった」ら問題から離れて放置してしまったりもする。
だから、「金閣寺を焼く」という行為についても、ああだこうだと動機を後付けで創作してでも理解しようとする。

養賢の行為は了解不可能である。心因をいくら積み上げても、そこにはたどり着かない。(p.42)

著者は不可能な時点にとどまり続けることで、養賢の人生から病理をすくいあげ、分裂病という病はどのようなものであるかをありありと描き出していく。
デカルトやサルトルやカントを引用しながら、実存が脅かされた病者は、自由にこそ狂気のポテンシャルがはらまれているからこそ、定言命法にすがりついていくプロセスの説明はスリリングですらある。

「分裂病はすでに復路である」という言葉がとてもしんどい。
了解不可能で純粋な狂気の体験があり、そこから現実世界へと回帰していくときに、医学的疾患になる。
「かつて分裂病と呼ばれたものは、近代的な主体に内包された危機であった」、そういう体験であったということをありありと教えられた読書体験となった。

対して、三島由紀夫の病理は「離隔」であった。
生き生きとした現実感、生存している実感を感じることができない。
自分自身が世界の一部として存在していると感じられないからこそ、狂気に対してもよく勉強しているうえに「微温的な共感などに流されないがゆえに、公平」(p.210)であり、養賢本人には言語化できない了解不能な体験を再体験するかのように言語化することができたのではないか。
同時に、『金閣寺』の主人公を描くことは、三島が自分の分身ではない他者を、主体として描くことによって「みずからの離隔を突破し、ナルシシズムを粉砕する」(p.211)ものであったのだと看破する。
そうやってナルシシズムを一旦は超克しえたように見えた三島が、結局は世界から拒絶されてしまい、自死せざるを得なかったことが改めて切ない。

歯ごたえのある本で、ずいぶんと読むのに時間がかかってしまった。
読み終えてみて思うのは、狂気とはなにか、と問う時に、読んでほしい一冊であるということだ。
最近、藤本タツキ「ルックバック」というマンガが話題になった。私はその作品を読んで、素直にすごいと思った一人である。
そこには、殺人者が出てくる。その表現について問題になり、修正が加えられたという作品だ。修正後については読んでいない。

私は精神科医療で働く人間として、文学的表現の記号としての狂気は、実際の疾患としての統合失調症とはまったく別物であると受け止めている。
春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』『私たちはなぜ狂わずにいるのか』の二冊が、私の考え方には大きく影響しているだろう。
狂気を示すいくつかの単語は、アクチュアルな現実から既に遊離した記号であって、具体的な誰かを指し示すものではない。
とはいえ、言葉の成立の歴史から記号と具体が混乱して扱われることもあれば、被害的な認知が働きやすいという症状から自分に引き寄せて受け止めてしまって傷つくような事態も起きる。
その点、統合失調症を代表とする精神疾患について、日本の社会は理解は不十分であり、態度が幼稚であることは否めない。

けれども、文学的な記号であり表現であり仕掛けとして、狂気というものは必要とされることがある。
文学ではなくても、日常会話のなかで、なにか話が伝わりにくくて自分とは相いれない対象を示すときに、怒りや様々な感情をこめてののしるときなどに、なにか記号が必要とされることがある。
そういう意味では、私は読み手の9割以上の人が「これは記号である」と理解できるようになるリテラシーや価値観の共有の方が必要とされているのではないかと思ったりする。
そのためには、統合失調症とはどのような病であるのか、より現実的により具体的に認知されていくことが必要である。

そのようなことをつらつらと考えていると、記号的な狂気の表現とは区別されて精神疾患として扱われるべき統合失調症という病名ではなく、ロマンティックな狂気の烙印と無縁ではなかったかつての分裂病という表現を用いた著者の感覚は、このようなルックバックという作品をめぐる事態への私の問題意識が、呼応するものであるかのように感じている。

2021.08.03

相棒

五十嵐貴久 2010 PHP文芸文庫

土方歳三と坂本龍馬。
追う側と追われる側ぐらいに立場の違う二人に、協力してとある捜査をしろと密命が下る。
それも、たった二日間で犯人を探し出せという無茶ぶり。
徳川慶喜暗殺未遂事件の。

ぐいぐいと京都の町を二人に連れまわされるうちに、ありえないことがありえたことに見えてくる。
京都に住んでいたことがあるので、出てくる通りの名前がいちいち懐かしくなる。
今出川通りを右に折れると相国寺。冷泉家は今出川と河原町通りの交差するところ。竹屋町に三条に。頭の中で地図をなぞる。
これだけ歩き回れば足も棒になりそうなところだが、丁々発止の二人の言い合いは止まらない。

几帳面で潔癖な印象の土方は、江戸のちょっとべらんめえな口調。
フケだらけで臭いそうな竜馬は、ほにほにとのんびりとしたら柔らかななまりのある口調。
どちらも、さまざまなドラマや映画やマンガやアニメで描かれてきたイメージを凝縮させたかのような魅力的な主役たちだ。
ほかにも、桂小五郎に西郷吉之助に岩倉具視にと、幕末維新の有名人がぞろぞろと登場する。
それが違和感がない、絶妙な時機を選び抜いた一瞬に仕掛けられた架空の事件であることに、舌を巻いた。

この二人に面識があって、こんな風に会話していたら、と想像することはとても楽しい。
楽しいが、歴史上の人物たちであるので、それぞれがどのような死に方をするのかが決まっている。
それがどうしようもなく切なくなる。
こうなってしまうのか、こうなってしまわずにはいられないのかと、わかっているのに切なくなる。
その切ないところを乗り越えていく竜馬の台詞がよかった。

「どんなにみっともなくても、生きてりゃ何とかなる。そういうもんじゃ」(p.449)

本屋さんで見かけた時から絶対に面白いと思って手に入れ、長く積んでいた本だった。
2022年正月にNHKで『幕末相棒伝』としてドラマ化されるという。
これだけ面白い作品なのであるから、時代劇を丁寧に作るNHKであるし、きっと魅力的なドラマになることだろう。
それにしても、もう少し早く読んでおけばよかったなぁ。面白かった。

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