凪良ゆう 2019 東京創元社
最初の20ページほどで、喉元がきゅっと閉まるような、胸がぐっとふさぐような、そんな気分を味わった。
目をそらしたくなるような、いやいや、焦ってページをめくってはいけない。
先が気になりながら、それでも、飛ばさずに読むために、一気に物語に引き込まれていった。
この物語がこの終わり方でよかったと思う。
主人公たちが死ななくてよかった。物語に出てくる映画のように。
この主人公たちの関係が本物のロマンスであるかどうかはわからないが、「二人は結婚して子どもを産んで幸せな家庭を作りました。めでたしめでたし」のような終わり方をしなくてよかったと思う。
そんな、ヘテロで、モノガミーで、ヘルシーなものに弾圧されて、善良で健全な訓話に回収されずにすんでよかった。
この終わり方だから、私は救いを感じる。
むしろ、健康であるとすら思った。
おとぎ話の終わり方は、一つでなくていいのだ。
登場人物の一人ひとりが、こんな人と出会ったことがある、こんな人がいるという現実感があった。それは、私が心理臨床に携わっているから、余計にかもしれない。
主人公がなかなか被害体験を言い出せない。そのことは、とても当たり前なことだ。言い出せないことを本人は悔やむけれども、言おうとしても声が出なくなるのは、自然な反応のひとつと言ってもいい。ましてや、幼いときであるなら、なおさらである。
その主人公の更紗が、言い出せるようになるまでの成長は、どれほどのしんどいものであったか、作者はきっぱりと割愛させて見せているところもすごいと思った。
苦労した時代を丹念に描いてしまうと、物語が物語ではなくあんり、目的が変わってしまう。冗長になってしまったり、そのしんどさに読者がギブアップしてしまうかもしれない。
だから、ある意味で変わり果てた更紗を登場させるだけで十分であり、その更紗を見ることで、私は、適応とはなんだろう、成長とはなんだろうと考えさせられている。
ここから先はネタバレもあるので用心してもらいたいが、登場人物たちを三世代にわけると、この物語の魅力が見えてくる気がする。
子ども世代にいるのが、更紗、文、亮。
親世代として、更紗の実の両親、育ての親となった伯母夫婦、文の両親、亮の両親。
そして、祖父母世代として、亮の祖母とcalicoの入っていたビルのオーナーをあげておきたい。
更紗、文、亮はそれぞれ、足りないものを持っている。それは、親世代から与えられなかったり、損なわれてきたものである。
更紗の実父が病死した後、実母は恋人を作って、更紗を捨てる。
伯母夫婦は実子が更紗に対して行う性加害、更紗の性被害に気づかない。つまり、どちらの子をきちんと見る(観察の見るであり、面倒を見るであり、どちらの意味においても)ことができていない。
文の両親、特に母親はさらに表面しか見ておらず、文を監視拘束する。
亮の父親は母親への暴力があり、母親は亮を捨てて家を出ている。
いずれの家庭においても、母親が従来的な母性と呼ばれる幻想的な愛情をもった存在として機能することが十分にできず、父親の存在は希薄で消えやすいものになっている。
亮の祖母の愛情深さや面倒見という母親機能(反面で亮の母親への恨みを増幅させていたかもしれない)が、親世代では既に機能することが難しくなっている。
ビルのオーナーの阿方さんのような、自ら歩み寄って関わること、相手を否定せず、宝物を与えるような穏やかさや賢さも、親世代には引き継がれていない(阿方さんと実の子どもたちの関係は不明であるが)。
そういうこの戦後の75年の間に、世代を経るごとに引き継がれないままにきたものがある中で、どうやって愛やパートナーシップを、新しい家族の形を作っていくのか?という問いを、この物語は示しているのだと思う。
繰り返しになるが、更紗は、その母親が母親の役割を放棄している。
更紗は他者をケアすることは可能であるが、伝統的な妻であり、伝統的な母親のモデルから切り離された自由な存在である。
「良識的」「常識的」な仮面をつけてふるまう術は大人になるにつれて身に着けたが、それは彼女の表面だけの取り繕いにすぎない。
彼女の本質は「自由」である。母親から譲られ、母親から捨てられることで完成した自由なままの魂を持っている。
性被害の体験を経たことで、その自由を侵害されることに違和感を敏感に感じるようになった女性である。
だからこそ、亮は、更紗のパートナーにはなりえなかった。
亮は、親世代、祖父母世代からの性役割を降りることができなかった登場人物である。
ホモソーシャルでミソロジーな価値観を内在しており、表面では女性に優しいが、内面では対等になることができない。その点は、更紗の従兄の孝弘と同類である。
亮自身が暴力を見ながら育ってきた傷つきと、母親から捨てられた傷つきとが、どちらも未消化で未解決である。母親の逃亡は、父親と祖母とによって、裏切りとして文脈づけられてさえいる。
対して、文は、ホモソーシャルでミソロジーな文化からはみ出ざるをえなかった人物である。
母親の規範通りに生き、優秀な兄と比べられ、周囲の誰とも同じではない自分を感じるたびに委縮する。そんな自分は引き抜かれたひ弱なトネリコと同然であり、母親から否定される恐怖におののく。
文はいっそ、去勢されていると言ってもいいだろう。誰とも交わることが難しい稀有な存在である。
だから、この先も、文は更紗を侵害することはない。
それは、けして、古い時代に戻ったり、真似をすればよいというものではない。
だから、この物語には救いがある。
人の善意というものが、いかに醜悪であるか、無力であるかを暴いてみせたところにも、救いがある。
今の時代、なにも珍しいことじゃない。人が殺される場面すら、検索すれば簡単に見ることができる。未成年だからといって、なにも守られたりはしないのだ。善良な人たちの好奇心を満たすために、どんな悲劇も骨までしゃぶりつくされる。p.88
その絶望。
私はこの本を読みながら、ある部分では桜庭一樹さんの『砂糖菓子の弾丸は撃ちちぬけない』を思い出し、ある部分では隙名ことさんの『「私が笑ったら、死にますから」と水品さんは言ったんだ』を思い出した。
それぞれの作品を思い出した要素は異なるが、あわせて読んでもらいたいように思う。
最後に。
私が主人公がすごいなと思った箇所がある。
P.209の「ごめんね。わたしも、あなたにひどかったね」と言う言葉だ。
私はこれを言えずにすませた、言わずにしまえたことが多かったなぁと思うと、更紗の強さに感服した。
ほんとに、強くて、まぶしくて、魅力的な主人公だ。よかった。
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