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2019年7月

2019.07.30

ひとはなぜ戦争をするのか

A.アインシュタイン S.フロイト 2016 講談社学術文庫

ひとはなぜ戦争をするのか。

この問いを発したのはアインシュタイン。
その問いに応えるのはフロイト。

往復書簡は、国際連盟のプロジェクトであり、アインシュタインへの依頼だった。
誰でも好きな人を選び、「いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換」(p.9)するというプロジェクトだ。
時は、1932年。
アインシュタインの手紙はポツダムで、フロイトの手紙はウィーンで書かれた。
なんとも豪華な組み合わせの往復書簡だ。2人とも、世紀を代表する知性である。

アインシュタインの問いかけが結構、意地悪なのだ。
彼はきちんと私見を述べながら、問いかけを発しているため、ほとんど解答を自分で述べているようにも見える。
フロイトに残された問いは、したがって、一つだけに絞られる。
人間が憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか。

フロイトの返事の書き出しは、だからとても、書きにくそうに書いているように見える。
謙遜という自己弁護を駆使した文章の書き方は、デカルトにも見えるような西欧的なマナーではあるが、微笑ましい気がした。
アインシュタイン自身が答えているじゃないかと支持的かつ肯定的な反応を示した後、フロイトは徐々に生の欲動と死の欲動を援用した論を展開していく。
なぜ平和主義者は戦争に強い憤りを覚えるのか?と問いを設定していくところは、さすがである。
すべての人間が平和主義になるためにはどれだけの時間がかかるかわからないが、フロイトは希望をもって手紙をしめくくる。

この往復書簡の前段階にあるものがカントの「永遠平和のために」、この後にくるものがヤスパースの「われわれの戦争責任について」ではなかろうか。
1932年。フロイトが共同体への一体感を述べるとき、それがナチスの掲げていた価値観と重なっていることを教えてくれるものが、シェファー「アスペルガー医師とナチス」である。
こう位置づけて読んでいくと、この短い往復書簡がずっしりと、うんざりと、のしかかってくる。
フロイトが持っている時代性を、「アスペルガー医師とナチス」を読んだ後だからこそ、強く感じさせられた。

と同時に、二人の知性の素晴らしく先見的な言説にも舌を巻いた。
たとえば、アインシュタインは「『教養のない人』よりも『知識人』と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。」(p.16)と指摘する。
このくだりは、オウム真理教を筆頭に、高学歴の人がたやすくカルトに与する事例が連想された。
学生運動のような政治的、社会的な運動も例外ではない。現在のSNSを見ていても、知識人だからといって、カルトやオカルトとは無縁でない例の枚挙にいとまがない。
また、この続きの「彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」(pp.16-17)のという理解は、SNSこそが世界を理解する窓口であると勘違いしてしまったが故の誹謗中傷を繰り広げる人たちや、フェイクニュースの確信や拡散する人たちの説明にそのまま用いることができると思う。

フロイトのほうは文化の発展が人間の心の在り方に変化を引き起こし、体にも変化を起こすと理論展開していく。
その結果「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まって」(p.53)、「攻撃本能を内に向かっていく」(p.54)ことが起きると指摘する。
現代から見て的確な予言であったように思う。現代の日本の出生率の低さと自殺率の高さを、経済的な問題は別にして、フロイトの言葉を用いながら説明しようと思えばできるのだと思った。

本文は短いものである。翻訳は浅見昇吾。
手紙ということで専門用語をふりまくような難解な文章ではなかったのだろうと推察するが、とても読みやすくて違和感のない日本語でよかった。
そこしっかりとした2つの解説が加わっている。
1つは養老孟司が、もう一つは斎藤環。解剖学者と精神科医という二つの立場から、それぞれに現代の立場からフロイトの回答を補強しているところが面白い。

戦争はいつか飼い慣らし、飼い殺すことができるかもしれない、希望。
フロイトの答えは、啓蒙であり文明化。これが、理性が腐食することが事例として提示される前のキリスト教文化圏の最高の回答だったことは、間違いないかと思う。
それは最大の希望だった。
文化はまだ希望だと思いたい。

2019.07.22

お江戸けもの医 毛玉堂

泉ゆたか 2019年7月22日刊行 講談社

動物たちは嘘はつかない。動物のすることには意味がある。
人がすることにも意味がある。だが、人は嘘をつく。

小石原の療養所で人の医者をしていたという凌雲と、その押しかけ女房となったお美津。
捨てられているところを世話して、そのまま貰い手がないまま引き取っている、犬たちや猫。
夫婦のぎくしゃくとした同居は意外とにぎやかで、あれやこれやと客と出来事が舞い込んでくる。

お美津の幼馴染は笠森お仙というから、浮世絵好きとしてはにやにやせずにはいられなかった。もちろん、鈴木晴信だって登場する。
こういう実在の人物を縦糸にして、お美津や凌雲という想像の人物を横糸に絡めて、物語というおりものができあがる。
それも、とびきり穏やかで優しい物語だ。切ったはったのない、町衆の時代劇に重ねられた市井の人々の物語だ。

ただ傷ついた動物の治療をするだけではなく、人間以外の動物とどのようにつきあっていくのかを投げかける。
その動物たちとのつきあいのなかで最も難しいのが、人という動物との付き合い方であり、お美津とお仙それぞれの葛藤も穏やかに描かれる。
なんで、凌雲は人の治療をやめて、動物の医者になることになったのか。その凌雲と男女の仲ではないお美津が、どのようにして女房になったのか。そして、この二人はどうなるのか。
そこに善次という謎の少年まで加わるから、最後まで読まないと事のあらましはわからない。

トラジは獣のくせに、あんたの勝手でここにいるんだ。ここにいてくれるんだ。トラジに余計な負担を掛けようなんて考えずに、少しでも楽しく穏やかに暮らせるように、あんたが心を配ってやってはどうだ?(p.146)

人はよく動物の気持ちをあれこれと思い描いてこじつけてしまいがちで、自分の勝手や都合の押し付けではなくて、動物としての自然な理由を考えることは難しいことがある。
そのあたりの機微がとてもよく描かれていて、少し耳が痛い。
犬思い、猫思いの、優しい物語だ。

#お江戸けもの医毛玉堂 #NetGalleyJP

2019.07.08

フェオファーン聖譚曲(オラトリオ) op.1  黄金国の黄昏

菫乃薗ゑ 2019/08/28刊行 opsol book

国を倒す。
復讐と革命の物語だ。

ロシア風の名前と東アジア風の世界観、ヨーロッパ風の食文化や生活風土。
剣と魔法の物語であり、専制君主が君臨する王国、その宮廷を舞台とした物語だ。
ロジオン王国の貴族たち、魔法使いたち、騎士たちと、登場人物が多い。
長編となる物語の第一章であるが、意外なほど、登場人物たちの立ち位置が目まぐるしく変わる。
そのスピードが、読み手を引き込む力になる。建物や衣装など、想像の手がかりとなるような描写がもっとあればと思う反面で、このスピードを殺さないように冗長な描写は控えめにして、物語が展開していくとよいなぁと思った。

ありがちな異世界からの召喚の魔法に頼ろうとする、黄昏を迎えた国。
その幕引きを、主人公アントーシャはどのように成し遂げるか。
これはぜひとも続きが読みたい。
真っ赤な装丁も印象的であり、実物を手に取ってみたいと思っている。

#NetGalleyJPで読ませていただいた、これから出る本。楽しみだ。
著者と出版社の、これからの活躍を応援したい。

#フェオファーン聖譚曲オラトリオ #NetGalleyJP

ほんとうの道徳

子ども達への信頼に裏打ちされている。そこが素敵な本だ。
公教育で道徳を教科として行うことが決まってしまったのであれば、それをどう活かしていくのか。
すればするほど価値の対立をもたらしたり、上っ面だけの茶番にならないように、実践的な方法論と哲学が積み重ねてきた知見が盛り込まれている。
世界がよりよいものになるように。そんな希望を思い出させてくれる点で、とてもよい本だった。

公教育で行われる道徳が、ムラの習俗のような一部の共同体にだけ通用するような道徳原理の教え込みになるのではなく、より普遍的なルールを目指す精神の陶冶になるような願いを込めて書かれている。
多様化に逆らうのではなく、多様化に対応していくために不可欠で当たり前のはずの考え方、ヘーゲルの掲げた「自由の相互承認」という原則である。

「わたしたちは、他者の『自由』を侵害しないかぎり、何をしてもいいし、どんな価値観やモラルを持ってもいい」(p.50)。

まず、お互いを認め合う。そこから、お互いに一緒に生活していくためのルールを作り、常に手直ししながら、お互いの自由をお互いに守っていく。
とてもシンプルな提案で、平和な提案である。

何が望ましい生活習慣であるか、それぞれの家庭の文化や宗教的な背景によって異なる。
この日本の国内において、海外から流入してきた人が増えるにつれ、子どもたちの背景は多様化が進んでいる。
その中で、ここは日本だから日本的なものをと声高に言いたくなる人の気持ちもわかるが、その日本的なものでさえ、時代や地域によって揺らぎがあるのであり、なにか真なる日本的な道徳のようなものがあるわけではない。

その前提の上に、これまで数千年にわたって哲学者が倫理学の問題として思索を重ねてきた知見を取り入ればよいのだ。せっかく、積み重ねられた知の財産があるのだもの。
著者は、カントやヘーゲルに触れながら、「どんな道徳の持ち主も、できるだけ自由に、そして平和に共存できる」(p.47)市民社会を目指すことを提唱している。
目指すなら、やっぱり、そこではないだろうか。

著者と似たような場所で倫理学や教育学を学んできた私にとっては、とても馴染みがある。
あのゼミの、あの先生か、と懐かしい思いで胸がいっぱいになった。
自分は研究者にはなりえなかったけれども、学べたことは私の一部として息づいている。
学生の頃に触れていたような言葉たちが、希望を紡ぐ言葉となってきらきらとしていた。

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