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2018.01.22

サイコパス解剖学

春日武彦・平山夢明 2017 洋泉社

精神科医として、サイコパスのはっきりとした定義がないことを、春日氏は語る。
定義がないものを、平山氏が、こういうのはどうか、こういうことはどう考えたらいいかと、これでもかーこれでもかーと俎上の上に出してくる。
それってサイコパスかな?違うと思うなぁ。あ、でも、それはありか。と、サイコパスっぽいものを思い浮かべながら、この二人の言うサイコパスというものを捉えるのが第一章だ。

対談で語り合う二人の感覚と、自分の感覚の摺り寄せに、ひどくもやもやした。
わかりやすいなと思った特徴は、「他人を便利な道具、あるいは使えない道具として見ている」(p.42)だ。
反省や後悔しないこと。他者をコントロールしたがること。なにかずれている感じ。
論理はあるのに倫理ではない、ずれ具合が気持ち悪さの源泉になるようだ。

そのずれている感じや突き抜けている感じへに、人は憧れを持ってしまうのではないかと、平山氏は指摘する。
「サイコパスは文学的フィクション、『普通の人たち』による妄想の産物という気がするけどね」(p.48)という春日氏の指摘は、かなり大事な気がする。
これは、レクター博士のような典型的と言われる純粋なサイコパスとしか言えないようなキャラクター(もしくはパーソナリティ)のことであるのだろうけども。
そういう誰かに、むしろコントロールされて安心するという人というのも、それはそれで、どっかおかしい。

現実に起きたいくつかの大量の、あるいは、残虐な殺人の加害者を例にあげながら対談が進むあたりは興味深かった。
が、長谷川博一氏『殺人者はいかに誕生したか』を読んだ私は、その中の幾人かについては、サイコパスだからというだけでは割り切れないじくじくした思いがした。
そうせざるをえないなにがしかがある人と、なにがしかがない人の違いがあるように思う。
そして、そのなにがしかがない人は、想像上の産物なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
少なくとも、だれにでもサイコパスの芽があるのではないかという考え方は、フロイト以来の伝統的な考え方ではないかと思った。
誰しも、心の中に病理を抱えている。

それでも、「普通の人たち」はサイコパスという言葉を必要とする。
その言葉でしか言い表せないものがあるという、利便性や有用性に基づく必要性もあると思う。
自分にとって不可解だったり不愉快だったりする相手をののしるための言葉を、差別だなんだと自粛した結果として、日本語では非難されるから非難されにくい表現を転用しているという意味で。
やつらと自分は違うんだ、と、彼我を分けて、安心するために。

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