2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

著者名索引

香桑の近況

  • 2018.1.4
    2017年 合計55冊
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計378冊
無料ブログはココログ

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2017年12月

2017.12.21

先生のお庭番

朝井まかて 2014 徳間文庫

美しい物語だ。
外国の人の目を通すことで、当たり前だった景色の美しさに気づく。
当人同士以外の目を通すことで、引き裂かれた男女の関係も、美しい物語となる。

タイトルだけではどんな物語かぴんとしなかったのであるが、植物が好きな方から貸していただいた。
しぼると先生の薬草園を管理する園丁が主人公である。だから、先生のお庭を番するお庭番。
決して、忍者の物語ではない。

シーボルト。日本人通辞よりも発音が不正確なオランダ語を話す、オランダ商館医。
19世紀の日本で、外国人が逗留できるのは長崎出島に限られており、逗留できる欧米人はというとオランダ人に限られていた。
とはいえ、海外の事情に明るくない日本人にはあれこれと説明することにして、実際は諸国から調査員が偽って流入してきていたようである。
現に、シーボルトもまたドイツ人だった。

そんなあやしい外国人がいっぱいの出島に派遣された少年熊吉は、シーボルトに心酔し、采配を任されて、のびのびと薬草園を作る。
当時のヨーロッパはプラントハンター達の時代でもあるから、現地の協力者ということになるだろうか。
剣より、花を。
風刺もいっぱいこめられていると思うが、シーボルトの台詞には、熊吉だけではなく、私もちょっとしびれた。

熊吉は真面目で勤勉な気性。植物を大事に愛する思いと、シーボルトを尊敬して貢献したい気持ちの両方で、目いっぱい、腕も、知識もふるう。
茶の種をばたびあ(ジャワ)に送り、現地で茶栽培を始める手助けをする。
オランダに日本の草木が生きたまま運べるように、知恵を絞る。
図鑑もなければ、分類法も確立しておらず、流通も限られるような植物を育てていく様は、読んでいてわくわくするものがあった。

熊吉はシーボルトのもとで4年を過ごす。
大人になるにつれて、人々がシーボルトの妻であるお滝を蔑んでいることも感じ取る。
シーボルトの言動に疑いを持ち、自分の目で見て頭で考えて行動ができるようになる。
美しい日々が、終わる時が来る。
主人公の成長と、時代の物語が見事に重なり合っている。
それらの日々を胸におさめて、もう一つの花が咲くような最後が素晴らしい。
幻滅を超えて、輝き続ける美しい日々。

Wikipediaによると、Hydrangea otaksaという学名は、植物学上有効ではないそうだ。
ツッカリニとの共著『日本植物誌』の中で、シーボルトがアジサイに与えた名前である。
しかし、ほかの人が先に名前をつけていた種類と同一のものとみなされ、後から着けたotaksaという名前は無効なのだそうだ。
その名前の由来が「お滝さん」だというのは、牧野富太郎という植物学者の推測に基づく。
otaksaというアジサイの名前は幻のようである。シーボルトとお滝さんの関係もまた幻のようである。
その儚さが、調べてみると、改めてせつなくなった。

2017.12.18

アカネヒメ物語

村山早紀 2017 徳間文庫

幸せにならなきゃ、いけないんだよ……。(p.230)

こんな言葉に涙腺が刺激されてしまうのは、自分が我知らず疲れていたり、傷ついているからだろう。
今、読みたかった言葉がここにある。
私の心の滋養として、必要な物語だ。

アカネヒメという神様は、500年間、風早の町の西のあたりを守護してきた。
まだたった500年しか生きていないから、子猫のけがを治すぐらいしかできないんだとしょんぼりしちゃうような、かわいい姫神様だ。
表紙のイラストはしっくりくる愛らしい姿で、徳間文庫のつやつやの表紙から、ふんわりと浮かび上がってきそう。
主人公はるひは、そんな姫神様をふんわりと小鳥のように肩の上に乗せて、自転車をこぎながら、またとない日々を走り抜けるのだ。

アカネヒメはとてもすごい魔法を繰り出してくれる神様だ。
人が大好きで、一人ぼっちで寂しくても、悲しいことばかりが続いても、眺めることしかできなくても、人を見守り続けることが無償の愛だ。
彼女の優しい思いは、はるひを通じて、読み手の心にも染みわたる。
読み手は、心の中に溜まっていたしんどいことを涙にして流しだしてしまうだろう。
これが、アカネヒメの癒しの魔法だ。
心がほんのり温かくなり、少しだけ、未来に向かってがんばってみようと思う力を取り戻す魔法だ。
村山早紀さんならではの極上の魔法だ。

絶望するには、まだ人間は優しすぎ、諦めるには、世界はまだ広く、人類は可能性をいくらも秘めているのだと、わたし自身がまだ思っているのですから。(p.299)

あとがきの作者の言葉は、そのまま、アカネヒメの声で聞こえてくる。

児童書として出版された当時に出会わなかったことは残念だが、大人になった今だからこそ、童心に戻って心を震わせる体験が貴重なものだ。
大人だからこそ、子どもたちを取り巻く世界の厳しさや悲しさを知ってしまっているからこそ、はるひ達の未来を守っていきたいと願う。
こんなに美しくて優しい神様が、悲しまずにすむような、そんな世界であってほしいと願わずにいられない。

よきもの、優しいもの、美しいものが引き裂かれていく。今まではこれから先もあるのが当たり前だと思っていたが、当たり前のように消えていく。
指の間からぽろぽろと砂がこぼれるように、大事なものが失われていっているのに、それを指摘すると逆に避難されるような社会が、とても苦しい。
当たり前のように未来の夢を語れる世界でなくなってきている気がしているが、それでも、まだ、希望はここにある。

この美しい物語が、100年先も、200年先も伝わるといい。

2017.12.14

ヒロインの旅:女性性から読み解〈本当の自分〉と想像的な生き方

M・マードック S・マッケンジー(訳) 2017 フィルムアート社

ユング派の影響が大きく、神話と象徴を用いながら無意識の働きを表現し、女性性の成長発達の階梯を示す。
そのプロセスである「ヒロインの旅は、『女性性からの分離』で始まり『男性性と女性性の統合』で終わる」(p.17)
女性の成長発達段階説ではなく、性別にかかわらず、誰もが心の中に有している男性的なものと女性的なものの折り合いをつけていく旅である。
女性性と母性、それぞれとの出会いと別れ、仲直りの旅になるものだろう。

ゆったりと余白を取った贅沢なページのデザインだ。
ページを表す数字も凝っているし、章ごとの扉は黒字で白抜きにしてあったりと、デザインの面でのこだわりを感じた。
上品なおしゃれさが、女性性を取り戻すことを謳う本書を、引き立てている。
合理的ではないかもしれないが、余白や無駄、ちょっとした一工夫の持つ美しさを愛する。それは男性性ではなく、女性性に分類されることだろう。

詩的な文章であり、人によってはとっつきにくさを感じることがあるかもしれない。
読みやすい日本語に翻訳されているが、もともとの英文の持つリズムやノリに、異文化を感じる。
このテンションの高さや陶酔感は、自分が失っていたものを見つけて取り戻した喜びや、自分がもともと持っていたものが素晴らしいものだと気づいた誇らしさに裏打ちされているのだろう。

原著が出版されたのは1990年だそうだ。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』の原著が出版されたのが1982年。
バーバラ・A・カー『才女考:「優秀」という落とし穴』の原著が出版されたのが1985年。
ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』の原著が出版されたのが1986年。
これらは同じ問題点に立脚しており、同じ流れの上に並ぶ本だと思う。

それは、女性はどう生きたらいいのだろう、という問いだと思う。
男性に従属的で家庭に献身する専業主婦のモデルから、男性と同じような教育を受けて同じような活躍を目指すキャリアウーマンのモデルにシフトしてきた。
だが、男性と同じような教育を受けても、同じように仕事をすることは望まれないこともある。活躍できないこともある。
その上に、今までと同じように素晴らしい妻であり母であることと両立を目指すスーパーウーマンのモデルまで登場してきたことで、多くの女性は疲れて果ててしまったのだと思う。
どれだけ頑張っても、頑張っても、男性を測る尺度しかなければ、女性はいつまで経っても二流なのだ。だって、男性ではないもの。
なんでこんなに苦しいのか、疲れるのかを考えていったとき、男性とは対等でありたいが同じものではないと、差異を差別にならないように峻別しながら語る必要性が生じたのだと考える。

そうやって、語りながら、どうすればよいのか、暗中模索し、試行錯誤しているのだ。今現在も。
そうやってスーパーウーマンを目指すことを求められてなろうとした人や、最初から自分には無理だとあきらめて専業主婦に戻る人たちの子ども世代も、自分の生き方を問い続ける年齢になっている。
先細りする社会において、様々な挫折の先例が積み重なり、女性に求められる像と与えられる教育のどちらもが混沌を呈しているようにも思う。
『女性にとって教育とはなんであったか』のレビューで自分が書いた言葉であるが、「男性的であることが人間的であることではなければ、女性的であることのみが人間的であることでもない」。
ならば、どうすればよいのか、どうあればいいのか。その模索の旅が、ヒロインの旅である。
エロスとロゴスの仲直りの旅である。

この本を読んでいる間、私はいつもよりもふさぎこみがちで、落ち込みやすく、親しい人の態度に敏感に反応しがちになった。
時に、なにもかもやる気をなくす状態になり、私は私の冥界下りを想起し、再体験し、それこそが冥界下りだったのだと再確認した。
自分の無意識の混沌の海底に封印した記憶を掘り起こしては矯めつ眇めつ眺めることもあった。
自分の母を傷つける言葉から母を救おうともがき苦しむ自分と、その母をそれでもうとましく思ったことのある自分が対決した。
中年期に入った自分の課題と、今になってやっと得られた平安や成長を見つめ直し、安心と満足と感謝で微笑むことができた。
ずっしりと重たいセラピーを、本を読むことで受けた気がする。

セクシズムやレイシズムを乗り越えていくためには、今もこういった思考は有効であり、今以上に洗練を必要としているのだと、私は思う。

現代のヒロインは過去の遺物を刀で断ち切り、自らの魂が命じる道を行く。母への怒りを鎮め、父への非難と妄信をやめ、自分自身の闇と対峙すべきだ。受け入れるべきは自分の影である。(p.272)

2017.12.04

奇跡のリンゴ:「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録

石川拓治 2013 幻冬舎

あー。このリンゴ、食べてみたいなぁ。
そんな気持ちでいっぱいになった。

もともとはNHKが「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組のために取材したことをベースにして書かれた本だ。
頭の中で、あの音楽やあのナレーション、テロップを追加しながら、読んでみたくなる。
なんとなく、番組として報道されているところが思い浮かぶような、景色や物事の描写が丁寧な記録だった。

リンゴは大量の農薬を必要とする農作物である。
たまたま木村秋則さんの奥さんが農薬を使うと気分が悪くなる人で、その奥さんが気分が悪くなるようなやり方はやめられないかという思い付きから始まったような試みだったという。
しかし、それだけ農薬が必要とされるのも理由があったわけで、そこから年単位で、極貧生活になりながらもあきらめきれない無農薬栽培との格闘が始まる。
格闘した相手が、農薬から病害虫被害になり、自然になり、人になり、やがては格闘そのものから解脱していく過程が圧巻だった。

それは解脱と言っていいのだと思う。
宗教的な悟りの域で、木村さんは人間と自然の対立を解消し、大きな自然の営みの中でリンゴを世話する自分という位置づけを見出していく。
彼の言葉、彼を取材しての筆者の言葉が力強いのは、苦しんで苦しんでおかしくなりそうな木村さんの人生に裏付けられているからだと思う。
Kindle版は、文中に何人の人がハイライトしたと傍線が引かれることがある。それがちょっとだけ、興ざめだった。
素敵な言葉がいっぱい詰まっているが、気に入った表現は自分で選びたいものである。

現在のようなリンゴに改良されてから、原種のリンゴがクラブアップルと呼ばれるようになったこと。
ヨーロッパでは加工品として食されることが好まれ、園芸改良品種が開発されたアメリカでは生食されることが好まれること。
アメリカでは丸かじりするが、日本では切り分けて食べるので、より大きく改良されたこと。
こういった、リンゴの歴史に触れられていることも、とても興味深かった。
ということは、日本でもお菓子に加工するなら紅玉が好まれるが、タルトタタンやアップルパイなども、作られた頃はクラブアップルが使われていたのだろうか、などと、想像が膨らむ。

おりしも、この本を読み終わった日に、長野の友人からリンゴがひと箱届いた。
農薬の使用を訪ねるような野暮はしない。ワックスがついておらず、樹上で熟して蜜がいっぱい詰まった、私には上等のリンゴである。
丁寧に育てられたリンゴである。育てた人の苦労に感謝しながら、いただこうと思った。

2017.12.01

日本の近代とは何であったか:問題史的考察

三谷太一郎 2017 岩波新書

選挙前に読み終えたかったが、時間がかかってしまった。

政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制の四つの観点から描かれており、明治以降の日本の歩んできた道が有機的に絡み合っている。
それぞれの観点ごとに、順を追って語られるため、慣れない分野であっても理解しやすく、また、わかりやすい説明となっていた。

著者が50年の研究生活の成果として、日本の近代についての総論となるように企図して書かれたものだ。
ヨーロッパの近代化について研究していたバジョットの研究に基づき、ヨーロッパ的な近代を目指しつつもヨーロッパにはない日本の問題を俯瞰する。
著者の長い研究のキャリアの成果を惜しみなく分け与えてもらった感じがする。
手に取りやすい新書であることもありがたい。

日本の近代の全体像を追いかけていくことで、現代の状況をはたと考えさせられる。
なかでも、天皇制の位置づけの章で教育勅語の成立過程が出てくる。
明治国憲法は天皇の超立憲君主的性格を明確になしえていなかったのに対し、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示するものだった。
この流れを切り離して、教育勅語の中身はいいからと現在の教育の教材に安易に持ち込んでくることは、前近代からの揺り返しであることがはっきりとわかる。
少なくとも、現政権の人々が天皇の意志を尊重しないことから、その存在を尊重していないことがうかがえる以上、そこで成立せしめようとする神聖不可侵なものの得体は知られず、いかがわしいこともわかる。

近代化は、それに伴って固定された「慣習の支配」によって抑えられてきた前近代の深層に伏在する情動を噴出させます。それは議論を許さず、ひたすら迅速な行動へと駆り立てる原始社会への突然の回帰です。バジョットはこれを「先祖帰り」(atavism)と呼びました。(pp25-26)

今、日本は先祖帰りを起こそうとしているのではないか。
その危険性は常に社会は有している。
警句に満ちた、とても現実的な一冊だった。
現代の日本がどうやって成立してきたかを学ぶときに、真っ先に選ぶことを勧めたい。

これぐらいのことは常識として学んでおくべきであると貸してくれた父を、改めて尊敬した。

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

Here is something you can do.

  • グッドレビュアー
  • プロフェッショナルな読者
  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック