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香桑の近況

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2017年6月

2017.06.21

紅霞後宮物語 第六幕

雪村花菜 2017 富士見L文庫

最後の一行がいい。

それに尽きる。
感想がそれしか出ないぐらい、いい。読んでよかった。
いまいちすっきりしなかった前巻の意味も、あとがきを読めば納得。

ここから戦争に出陣していくわけであるが、ここまで話が続くとは思わなかった。読めるとは思わなかった。
物語の中には時間の流れがちゃんと存在しており、登場人物たちの成長や老化が感じられる。
この先、だれが生き残るのか。
伝説になるぐらいだから、小玉の活躍はたぶん約束されているのだろうけども、死んでいくであろう人々を思うと、少しためらう気持ちがある。
しかし、この夫婦、やっとここまで成長してきたので、引き続き見守りたい。

ほんと、こういう主人公、好きだよなぁ。
戦う女性が主人公の物語は好物なのだが、この最後の一行はかなり好きだ。
キャサリン・アサロ『スコーリア戦史』のソースコニーの名台詞と並べておこうと思う。

罪の声

塩田武士 2016 講談社

ぶあつい。このずっしりとした重みが、読み終えた時に、違う重みになる。
なんという物語なのか。

グリコ・森永事件に題材を取った小説である。
私にとっては名前とキツネ目の男のイラストの印象のほか、概要については記憶もおぼろだ。
そんな事件だったのかと初めて知ることもあり、どこからどこまでがフィクションになるのか、私には境目が朧だった。
事件の真相を追ううちに、その先にあるものを考えずにいられなくなる。
何があったのか。誰が起こしたのか。それだけではない。
その後、彼らの家族はどうなったのか。彼らにも家族がいたのではないか。

実際のルポルタージュを読んでいる感覚になり、既視感を覚えた。
そうだ。清水潔さんの著作を読んでいるときの気分に似ている。
物語の語りの中心にいるのは二人。そのうちの一人が、未解決の昭和の事件であるギンガ・萬堂事件を取材するように言いつけられた新聞記者だからだろう。
もう一人の主人公は、京都でテーラーを営む青年。この青年が実家から一本のテープを発見するところから過去への旅路が始まる。
そのテープは事件に使われたものであり、そのテープの声は子どものころの自分だったから、だ。

取材する者と、犯罪加害者の家族かもしれない者。
二人の視点から、別角度から照射するように、事件のあらましが少しずつ見えてくる。
取材する者と想起する者それぞれの視界が重なり、やがて二人がそろって事件を見た時、過去の事件を見直す意味も立ち現れる。
大きな事件のその後。そこに残された人々の傷の一つ一つを取り上げていく筆致は具体的かつ現実的で、的確だ。
被害者でもない、加害者でもない。でも、被害者の家族の会はあっても、加害者の家族の会はないのだ。

誰かを断罪するためではなく、誰かを救済するための情報発信。
なんのためのジャーナリズムなのか。これはリアルに反映されてほしい問いかけだ。
興味本位の、偏見に満ちた、印象操作による、集団による私刑になってはならない。
誰にどのような利益をもたらすための報道なのか、報道する側にはどこかで意識してもらいたい。
大本営発表になってはおらぬかと、リアルでメディアを批判的に見ることが多いため、しみじみと噛み締めたい物語だった。

そして、閉じてしばらくしてから思う。
この物語の中でも、キツネ目の男は最後まで謎のままに消えていることに。

2017.06.05

私の方丈記

三木 卓 2014 河出書房新社新書

国語の教科書で触れた時から、方丈記は私にとって特別なものである。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
この世界観は私に馴染み、今も私の根底の一角を成している。

だからと言って、全文を読んだ記憶が希薄で、本屋さんでこの本を見かけた時には自然に手が伸びた。
三木さんの現代語訳は、あとがきで著者が企図したと書いてある通りに、読みやすい。
ただただ内容を味わいたい身としては、対訳で表記されているよりも、現代語訳は現代語訳だけで表記されていることも読みやすかった。

鴨長明は、人生でうまくいかないことが続き、50歳を過ぎて僧になった。
60歳を過ぎて、京の街中から外れたところに庵を結び、静かでのんびりとした生活を過ごす。
独居老人生活の見本というか、手本のような人であるが、言うほど楽ではないんだろうなぁと思ったりする。
彼が書き付けたつむじ風や遷都、飢饉、地震といった世の中の恐ろしいことは、当たり前であるが現在とまったく違いはない。
仏僧の生活を送っているはずが、世俗の苦しみと山暮らしの楽しみに心が囚われていることに囚われているのではないか。
そういう極めて個人的な文章だった。

分量として意外に短い。

その方丈記の現代語訳の後に、それぞれの段にインスパイアされた三木さんの「私の方丈記」が収められている。
大陸で過ごした戦前から戦直後に引き揚げてきてからの生活がつづられており、今、この本にひきよせられた理由はここかと思った。
戦争の体験、戦争の記憶である。兵士ではない人が体験した、無政府状態の混乱や恐怖、その後の飢餓や喪失が、どこか軽妙で気負いのない口調で語られる。
この方は私の父よりも少し年上であるが、三木さんの描いた東京の景色に、父の子ども時代を透かし見ることができた。
きっと、たくさんの人がつらかったり、苦しんだ。そのことを、この国はもう忘れようとしている。
隔世の念があり、とても同じ場所で起きたことであるとは思えないような一瞬を、体験した本人だって感じているけども。
でも、繰り返しちゃいけないよね。

世の中には、集団をあつかうのがうまく、いつも状況の中でもっとも適切なことを全体にとって望ましい結果にむかって導いてくれる、すばらしい人物がいる。(中略)
でもぼくは、そういう人間が、密室の部屋にもどって一人になったとき、どういうことになっているのかが、少し気になる。(中略)
ぼくは、かれがふだん見るかれとは似ても似つかないものになっていることを願うし、また事実そうなっているだろう、と思う。自分一人の空間で自分勝手にふるまう、ということは、つまり自分を意識しない自分になっていること、である。そういう時間はだれにとってもなければならないものである。(pp.143-145)

この著者の言葉、人間観が素敵だなぁと思った。
現実的で良識的な感覚に裏打ちされた、あたたかなまなざしを感じる。
私自身がこれから年を重ねていくときに、こんな風なまなざしを持っていられますように。

巻末には方丈記の原文を収められている。

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