日本会議の研究
菅野 完 2016 扶桑社新書
読み終えて、溜息ひとつ。
読んでよかったがなんとも気が重い。
気が重いが、これが現状なのだろう。
これを現状だと思うと、腑に落ちる。
この気の重たい内容は、実際に読んでいただきたい。
2017年1月6日。ベストセラーが出版差し止めというニュースに驚いた。
この判決はなかなか出るものではないと思っていた。
現に、ニュースの見出しには、過去の判例無視という表現さえ踊った。
ただし、事実ではないと裁判所が削除修正を求めているのは、訴えられた6箇所のうちの1箇所のみ。
著者と出版社を応援するつもりで、慌てて購入を試みた本だ。
その場でKindle版をダウンロードし、後日、書店で現物を購入した。
その後、扶桑社と著者は、該当箇所を黒塗りにして出版を続けている。
裁判を起こした方には起こした方の事情があるのだろうが、私はこの本を読んでよかったと思う。
私は、美しいという価値観を振りかざすスローガンが気持ち悪い。
美とは直観的に理解するものであり、理性で議論する範疇を超えている。
美は、なんとなくの共感であり、説明がつかない次元に立脚することである。
美による統治は、知性的な分析や反省、理性的な対話や理解を封じてしまう。
言い訳のつかぬことを押し通し、言い返すことを許さない価値観が美である。
だから、美しいを連呼し、押し付けられることが、とても気持ち悪い。
この気持ち悪さの理由が、この本で明らかになったと思う。
日本会議という寄り合い所帯をまとめる紐帯となるのは、君が代であるとか、日の丸であるとか、ぼんやりとしたなにか保守的なもの、伝統的(と思われやすい)もの、であるようだ。
ウンベルト・エーコが、『永遠のファシズム』で「ファジーなファシズム」という言い方をしていたことを思い出す。
その日本会議という形で政治を動かす得票を集める人たちは、特定の宗教と密接に関係している。
そして、話は私の生まれる前にまでさかのぼる。
60年と70年の安保。その学生運動の時、大学生だった人たちも70代だ。
それから時は流れた。それだけの時が流れた。
にもかかわらず、いまだに、左翼に対する攻撃という運動を続けていたい人たちがいる。
その年頃の人たちなら、今更、言動が変わることはないだろう。
彼らの最終目標は、私はとても受け入れがたい。
どういうものであるかは実際に読んでもらいたい。
2006年。教育基本法が改正された。
私はひどく憤ったことを憶えている。
基本法だ。基本となる法律を変えるということは、その上に乗っかるその他の法律等々まで影響をこうむるのだ。すべてのありとあらゆる努力と工夫を講じて尚どうしようもなかった時にしか変えてはいけないものではないのか。そこまでの努力をしたのか。
しかも、教育だ。教育を変えようとする政権には注意を払うべきである。私はそう習った。
なぜならば、ナチスが最初に着手したのが教育だったからだ。
改めて、調べてみた。
2006年の政権は、誰が持っていたのか。
ちょうど、第一次安倍政権の時だったのか。
政権をとって最初に成立した主な法案だったのか。
そうか。そういうことか。そういうことなのか。
私の中で腑に落ちた。私なりに、本書の内容を検証できたと思う。
この本を否定したり、非難したりする人がいるほど、ここに書かれていることは的はずれじゃないのだろう。
政教分離すらできない政権を、私は支持しない。
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