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2016年2月

2016.02.02

ゆうじょこう

村田喜代子 2016 新潮文庫

硫黄島の海女の娘が、熊本にあった遊郭に売られる。時は既に明治に入り、娘たちの気風も、遊郭をとりまく社会も、少しずつ変化していた。
実際に、1900年に東雲楼で娼妓たちによるストライキ事件があったそうで、それを下敷きにしつつも、幼い娘たちが淡々と日常として遊女として働く姿にひきこまれる。
そこに、エロスはない。
かすかな初恋の痛みはあったが、恋愛を描くための小説ではないし、性愛を描くための小説でもない。
主人公のイチがたどたどしい故郷なまりで記す日誌。それを読む女紅場の鐵子さんや、東雲楼の随一の花魁である東雲さんといった登場人物たちの、それぞれの女性達が実際に息づいているかのような生活感に惹かれたのだと思う。

これを成長譚と呼ぶには抵抗を感じるが、イチが人間として力強く育ち行く姿と、見守る二人の賢い大人の女性の交流がなんとも魅力的であった。
吉原を舞台とする小説は多いし、それがもっぱら性愛や辛苦や悲惨を主軸にするとき、使われる言葉はおおむね東北や北関東という印象を持っている。
ここでは、ルビをふらねば理解不能になる人も多いであろう南九州の言葉が多用されていることにも、現実味という説得力を感じたことを付け加えておきたい。

似ている本をあげるとするならば、パトリシア・マコーミック『私は売られてきた』。こちらは、ネパールからヒマラヤを越えてインドに売られてきた少女の物語だ。
マーセデス・ラッキーが小説のなかで「自分の体しか売るものがなかったからといって、彼女達を蔑むことはできない」といった一文を書いていたことがあって感銘を受けたが、娘しか売るものがなかった親を蔑まずにいることは難しいと、改めて思った。

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