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香桑の近況

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2012年5月

2012.05.22

暗い夜、星を数えて:3.11被災鉄道からの脱出

彩瀬まる 2012 新潮社

本当に、人の数だけ、あの震災の時に目にしたものは違うのだ。(p.114)

あの日、その場にいた人の数だけ体験があり思考があり記憶ある。
しかし、それを言葉に記すことができる人は少ない。
偶然にもその場を旅行していた若い女性の小説家によるルポルタージュだ。

3月11日に常磐線で移動中に被災し、からがら高台に逃げる。
その夜の記憶の生々しさ。続く、数日。
埼玉に一旦は戻ってからも、体力は回復せず、不安と罪悪感に駆られる。
そして、著者は再び、福島に入る。

私がある程度の放射線に鈍感でいられるのは、私が既に子を生み育てる可能性を持っていないからだ。
私の親戚を見渡せば、がん患者だらけの家系だ。その自分ががんになる危険性が高まっても、ええやないか。なることには変わりがない。
人間がばら撒いたものなのだ。その利益も享受してきた。ならば、自分の体で回収するぐらいしてもいいぞと腹を据えている。
私自身はそう思うが、まだ若く、これから次世代を生み育てる可能性を持っていたり、今現に子育てに携わっている人には、過剰なほどに注意深くあってほしいと願っている。
だから、作者がたまねぎを目の前にしたときのためらいを肯定的に受け止めたい。それを正直に文章に書き込んだ勇気に好感を持つ。

なにしろ、確かなことが少ない。
チェルノブイリからようやく25年。報告書が出たと聞いても、英語だからと見送った。
知らないことも多すぎるが、わからないことも多すぎる。科学は万能ではないことぐらい、よくわかっているはず。
わかっているから、不安になるのは仕方がないんだよなぁ。思考停止しそうなぐらいの不安がこみ上げてくるのだって、自然な反応なのだよなぁ。同時に、ある程度は鈍感に思考停止しておかないと、そこで生きていけないほどに不安になるものだろう。
スリーマイルとは規模が違う。でも、広島と長崎で、人は生きてきた。それはよすがになるのだろうか。よすがにすることができれば、それは広島と長崎を経た人にとっても、希望に繋ぎなおすことができる。
この目に見えぬものへの不安感を抱えて生きていくためのおとしどころを、私はまだ模索している最中だ。

何度も泣きそうになりながら読んだ。というか、涙がにじむ。
こんな記録から目をそむけようとする人もいるだろう。それを責めはしない。
しかし。
私は弱く脆い。だとしても、鋭敏でありたいと願っている。
目を閉じて、目を伏せて、目を避けていたくなるようなものにも、敢えて目を向けていたい。
ざらざらと削られ、えぐられ、傷つくような思いをしても、自分の敏感さを保っておきたい。
研ぎ澄ましておくこと。張り詰めておくこと。磨き上げておくこと。それが私の道具であるから。
大丈夫。だからといって、決して倒れないし、潰れないし、壊れてしまわないよ。

 *****

ここからは、自分の記憶を書き残しておきたいと思う。

その日のことは忘れられない。
婦人科の待合室に置かれたテレビ画面を、最初は誰も気づかずに通り過ぎていた。
これはただごとじゃないのに?
わざと声を上げてみた。
看護師さんが振り向く。臨席で座って待っていたカップルが目を上げる。
「震度7だって!」誰かが声を上げる。
診察が終わった後、職場に戻らず、帰宅させてもらった。私はテレビの前から離れられなくなった。

東北に知り合いは少ないが、関東には比較的多い。
メールやSNS、ネットゲームを通じて、知り合いの安否を確認していった。
青森や岩手の人と連絡がつくまでは3日ぐらいを要したと記憶している。仙台の知人の安否を知るにはもっと時間がかかった。

安否の確認の次には、遠隔地に住む自分に何ができるかを考えた。
情報の空洞化が起きることは、阪神淡路の記録を読んで知っている。
必要な情報で私に提供できることはと言えば、異常な事態に対する自然な反応として不安が高まりやすいことを周知すること。
ネット上でDLできる災害時の心理的ケアのリーフレットを探した。後になっては、原発関係の情報も探した。見つけた情報はいくつかの方法で配布した。
チェルノブイリの事故を調べた知識から、福島原発の第一報を聞いたときから、メルトダウンしないわけがないと危惧していた。

生命の危機がある状態では心理的なケアどころではない。
3月11日の時点で、生命の直接的な危険は少ないが大きな不安に駆られており、心理的な支援を必要としていたのは、津波に襲われはしなかったが、震度5や6の揺れを感じた関東から北関東の人たちだった。
その後、不安は地震に対するものから原発に対するものへとゆるやかにシフトしていった。長引く不安を、私の関われる範囲ではあるが、抱える、支えるよう、心がけたつもりである。
ささやかなメッセージやつぶやきの交換でどれほどのことができたかは心もとないが、しかし、いくらかは役に立てたと思いたい。

また、地震の当日から直後に情報提供を心がけたのは、義援金の寄付先の案内であった。
日赤に対する寄付の使い道について、阪神淡路のときは後から批判が大きかった。それでも、真っ先に飛び込んでいく力を持つのは日赤である。地震直後は日赤のHPもアクセス可能だったが、その日の22時か23時頃にはダウンしていたと思う。
そのほか、自分がどのような活動を支援をしたいかを定めてから寄付をするべきだと考え、いくつかの信頼できる団体を紹介したり、寄付の方法を紹介した。手持ちの現金が少なくても、ポイントカードのポイントを寄付する方法だってある。
被災しなかった人は自分だけが無事であるという罪悪感があり、なにか自分でもできることを見つけることが、少しでも心穏やかになるために役立った。

簡単ではあるが、これが、私の、あの日とそこから続く一週間ほどの記録である。
だが、私にとっては悪いことばかりではなかった。
あの日々があって、やっと出会えた人がいてくれたから。
人々にとって、悪いだけの思い出にならぬよう祈っている。

2012.05.21

日本神話の女神たち

林 道義 2004 文春文庫

うーん。
うなってしまった。
どうしよう。

自分自身のパートナーシップの問題を考えるとき、「見るなの禁止令」はひどく現実味を帯びてくる。
ここ最近、鎌田東二『超訳 古事記』に出会ったことをきっかけに、神話関係を続けて読んだり、読み直してみた。
私が「見るなの禁止令」を学んだ北山修さんは精神分析の立場であるが、本書の著者はユング派。
両者による神話の取り扱いの違いは、かなり際立っている。同じ素材でも、ここまで変わるか。その違いを味わうのは楽しい。

本書を読む前に、『日本神話の英雄たち』を再読した。
著者は、古事記・日本書紀が成立したときの集合的無意識の在り様や社会の在り様に寄せつつ、神話的・元型的な読み方をしていく。
そこに読み解かれるような政治的な時代背景、編纂者の思惑といったあたりが、鎌田さんが知ってがっかりしたという古事記の大人の事情に重なるのだと思う。
私としても、知りたいのはそこではない。
今に活かせるような読み方のバリエーションであり、イメージのふくらみなのだ。
古事記から読み解く過去の現象と無意識も面白いけれども、それが今も活きている力に変えていく作業のほうが私は好きなのだ。

そういう意味では、アニマとアニムスをバランスよく育てていくことを、成功例としてオオクニヌシとスセリヒメ、失敗例をヤマトタケルとオトタチバナで説明している箇所が面白かった。
禁止令を超えて、カップルがどのようにすれば長続きできるか、示唆している。
同時に、人の意識と無意識との折り合いの付け方が示されている。これは、ユング派ならではの視点なのだろう。
また、古事記はわりと母親不在であるという指摘も興味深い。母親不在と言うか、「父-娘」もしくは「母-息子」の組み合わせで登場しやすいってことだと思うのだが。
母は時に代理母(タマヨリヒメやヤマトヒメ)になるので、出産時の母親死亡率も高かったんだろうなぁ、なんてことを、考えてしまった。

総じて、『英雄たち』ではさほど感じなかった違和感が、『女神たち』では感じてしまった。
自分が女性であるため、どうしても女神のほうに、自己を投影させやすいからだろう。
重ね合わせようとした自分の気持ちが、どこかに置いてきぼりになるような、もやもや感が残った。
また、「このことは次著で書く」という言葉が数回出てきた。
次著ってどれ?

そこは女性の心理としてそうじゃないよ~と言いたくなる。特に、イザナミにおいて。
女性の気持ちはこうなんだよって、誰か書いてくれないかなぁ。
好きで好きで好きでたまらないから、いざなわれて理を曲げようとしたのに、「やっぱ無理」って断られてもねぇ。
なんで約束を守ってくれなかったの? 恥ずかしい。悲しい。腹が立つ。
なんで逃げ出すの? なんで置いていくの? そんなものだったの?
追いかけるよ。ちょっと待ってよ。まず、話をしようよって言っているのに、なんで逃げるかなぁ。
そこで、「ごめん」って言ってくれたら、それですむじゃない。「約束を破ってごめん」「逃げ出してごめん」って言ってくれたらよかったのに。醜いところも含めて、どーんと引き受けてくれたら、もっといい男だって惚れ直したのに、全力で逃げるか?
そりゃ怒るわな。怒るけど、許しちゃうんだよ。好きだから。
怖がらせるためにつきあったわけじゃない。好きな人を苦しめたいわけじゃない。ここまでこじれてしまったら、どうしようもないのもわかっている。
だから、「1500の産屋を立てよう」と誓いの言葉を引き出せたことで満足しよう。これからさきのあなたの行動のすべてに、私の痕跡が刻まれているのだから。私はなかったことにはならないのだから。
そうやって、あなたは光の下で輝いていてくれればいい。
私は無意識のかげりにひそみ、あなたが幸せに向かうよう、支えていくことができれば、それで満足だ。
こんな感じで。

2012.05.18

みをつくし献立帖

髙田 郁 2012 時代小説文庫

『みをつくし料理帖』の献立帖。
お澪ちゃんの作る料理を家庭で再現できるように、著者自身も包丁を握りながら作ったという料理の並ぶレシピ本。
料理はどれもほっこりとして美味しそうで、器まで物語そのままにカラーで写真におさまっている。
既出のレシピは紹介されていないが、料理だけは写真で紹介されていることもある。
合間には、内緒話というエッセイ。著者の人となりが感じられると同時に、これまでシリーズを愛読してきた読者への感謝状をいただいたようなくすぐったい気持になった。

また、巻末には、澪と野江の幼い日を描く短編が記されている。
新旧つる家の間取りのイラストを見ながら、この人はあの人で……と推察するのも楽しい。
これはこれで満足な一冊。シリーズと一緒に並べておきたい。
本編の続きを読みたいとか、お澪ちゃんを幸せにしてくださいとか、読者の欲はつきないけれど。

あの人がもういないんだよなぁ。
そこで、しんみりした。
あの人。
又次である。
又次によく似た人である。
どちらも、もういないんだよなぁ。

恋人が又次に重ねたくなるようないい男だった。とても素敵な人だった。
料理が得意な人で、私よりもはるかに上手に包丁を使う人だったから、きっとこんなレシピも彼なら軽々と再現してくれただろう。
鮪の浅草海苔巻きを見ながら、そんなことを考えたら、久しぶりに涙が出てきた。
その後の、p.88の文章を読むと、『夏天の虹』を読んだ時のつらさを思い出して、また、涙がじんわり出た。
まさか、献立だけでも泣けるとは。
帝釈天に連れて行ってもらったのだから、一粒符をいただいておけばよかった。

2012.05.15

囲碁心理の謎を解く

林 道義 2003 文春文庫

囲碁に興味を持った時期があった。
マンガの影響である。ゲームを買おうかどうか、かなり悩んだ。たしか3作目だったと思うが、そのエンディングを見るために、1から買う?と考えたら、結局は手を出さなかったため、いまだに囲碁のことはよくわからない。
当時、流行っていた「ヒカルの碁」が出てくると知り、どのように心理学的に解釈されるか興味を持って手に取った。

そういうマンガを扱った部分は、いわばツカミだった。
「ヒカルの碁」の棋譜は美しいが、岡野玲子「陰陽師」の棋譜は碁を知らない人のものだなんてコメントもあったと記憶している。
本題としては、かけひきに表れる心理状態や性格傾向、攻撃性の問題、右脳と左脳の機能の問題などなど、碁に触れながらも多彩に語られていた。特に、右脳と左脳それぞれに障害を負った場合に、碁が変容することは興味深いものだった。
数々の川柳も、解説がないと、碁を知らないものには笑いがわからなかったと思う。
碁を知らなくても、碁の世界の面白さに触れることができる本。
(2005.5.27)

2012.05.08

神道の逆襲

菅野覚明 2001 講談社現代新書

この著者の本は、『武士道の逆襲』とこれを続けて読んだ。どちらも読みごたえがある。
印象に強い本であったので、てっきり記事を書いていると思ったら、書いていなかったようだ。
別所を調べてみたが、『武士道の逆襲』のほうは別所でも書いていない。ありゃ。
二冊とも、もう手離しちゃったよ……。

読んでみて、私は神社に行ったことはあったとしても、いかに神道なるものについて寡聞であるかを痛感した。
歴史的に順を追いながら、神道の各派の思想哲学を説いてあり、初学者にとっては難解なきらいはあるが、豊かな参考書となりうる。

なによりも、日本でいう神との出会いとはどういうものであるかをわかりやすく教えてくれた。
その例として、萩原朔太郎の『猫町』を挙げている。神隠し寸前の体験として、この物語は、「道を失い、再び道を取り戻すまでの時間が詳細に語られている」(p.41)。
場所や人は同じだけれども違うという、日常世界の「景色の裏側」にあったカミが突如として「景色」として現れる、世界の反転が起きている。
このような体験が、神道の教説の深い主題の一つをなすと、菅野は言う。

日本における神なるものが、私にとって馴染みのあるキリスト教の神の概念とはまったく違うこと、それでいて私のキリスト教理解はそこはかとなく神道っぽいことを発見できた。これは私にとっては、新鮮で有益な体験となった。
また、神話の解釈というと、短絡的にユング派を思い出すのだけれども、本居宣長の思想は多分に対象関係論的である点が非常に興味深かった。

神道って何?という疑問と、そもそも日本の神道でいう神様って何?という疑問を持った人に勧めたい。
『武士道の逆襲』については、自分の感想を参考にする資料がないから、アップは断念。
(2005.6.4)

レヴィ=ストロース入門

小田 亮 2000 ちくま新書

冒頭のデリダ批判がしびれる。かっこいいなぁ。
レヴィ=ストロースじゃなくて、小田さんがかっこいいなぁ。

私がレヴィ=ストロースに触れたのは大学のときである。
選択必修の第二外国語でフランス語を選び、二年目には、なぜか、テキストで「悲しき熱帯」を読むという恐ろしい講義を受けた。
翻訳書だって訳わからんのに、フランス語になったら訳がわかるかーっ。
そんな悲鳴を何度もあげたが、しかし、ある一文において、ひどく感銘を受けたことも記憶にある。

その一文を探すためには本人の文章にあたるのが一番だろうが、あいにく、どの論文かを覚えていない。私の理解力・読解力からいって入門がふさわしいだろう。
そんなわけで、買い溜めて積み上げていたちくま新書を手に取ってみた。

体系は変換しない。構造は変換する。
数学の行列みたいなもの~?と、読み進めるうちに頭の上の???は増えていくが、おおむねわかりやすい。
ジーン・アウルの「エイラ:地上の旅人」シリーズ(集英社版のタイトル、私が読んだ評論社版では「始原への旅立ち」)を読んでいたことが、婚姻システムの構造を想像する助けになったと思う。
そんなわけで、交叉イトコ婚のあたりで、多少、?を飛ばしても、そこを力技で乗り越えていくと、私の読みたかった神話の話になる。

一つ一つの神話は、だから何?とか、それが何?とか、わけがわからないことが多い。そこに象徴性を見出して/託して読み解く(と見せかけて他の何かを表現/理解するために援用する)やり方と、レヴィ=ストロースの方法はまったく異なる。
南米から北米にかけて採取された神話を、読み比べ、読み合わせ、折り重ね、継ぎ接ぎし、ブリコラージュしていく。
どれが一番古くて、正しいのかを探るのではなく、複数の素材を、砕いたり、裏返したりしながら、対立しながら共通する部分をすくい出し、並び替えていく。
その過程を通じて「神話の大地は丸い」こと、地理的に遠い神話に類似性が見られることを示していく。
しかも、多重コードであることを認めているからイメージは豊潤に象徴性は保たれたまま布置されていく。
このくだりはスリリングで、楽しくて、面白くて、わくわくした。世界が活き活きと蘇ってくるような魅力がある。

レヴィ=ストロースは「神話とは自然から文化への移行を語るものだ」(p.208)という。
自然という連続した体験を、文化という言語によって分節化された不連続なものに置き換えていく過程で、連続と不連続の対立を現実に解消することはできないが、神話はそこをなだめ、理解したり、納得できるようにするものだという。
その機能については腑に落ちるし、最初は奇妙に感じた『神話論理』の巻ごとのタイトルも、なるほどと思った。
レヴィ=ストロースは「私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(p,206)言っていたのそうだ。まるで依巫のようだ。まるで、稗田阿礼みたい。
日本では神との出会いは、日常の景色がふとしたことで非日常の景色に「反転」する体験(菅野覚明『神道の逆襲』)なのだから、神話は何かひとつの根源にさかのぼるものではなくていいのだと思う。

私が学生時代に触れた論文は「神話の構造」だったみたい。
どれが一番古くて、だからどれが正しいのかを探ってみようとしても、それは無理なことなのだから、今残っているものを「束」にして考えてみないか?という提案が、ひどく新鮮だったのだ。
そんな理解の仕方は、今も私の中では大事なツールになっている。

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