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香桑の近況

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2012年4月

2012.04.21

禅語

石井ゆかり 2011 パイインターナショナル

表紙の白い蓮の花の美しさにうっとりして手に取った。
PIEの本は写真が綺麗で、ついつい欲しくなってしまう。
写真の美しさから入ってもいい。言葉の意味深さから入ってもいい。
どちらからでも味わえる。しかも、少し小ぶりで手に馴染む。

喫茶去や本来無一物、明鏡止水といった、見覚えはあるが意味はいまひとつ自分では説明がつかない言葉。
漢詩や慣用句、あるいは、単語といってもいい言葉。
それぞれの言葉に意味や由来を付け加えた上で、エッセイが添えられている。
通して一気読みするよりも、1日に1つか2つ、ゆっくりと味わいながら読んでいきたい。
その文章のページにも、何気ない図柄が配されていたりして、趣のある本なのだ。

「薬病相治」という言葉を知った。
なるほどと思った。
私の日頃の営みはまさに相治す。
私は薬であり、病である。

祇是未在。
他不是吾。
まだまだ学ぶべきことは多い。

春在一枝中。

雪月花の美しいときはあなたを思い出して想うよ。

超訳 古事記

鎌田東二 2009 ミシマ社

どうして約束を違えるのか。
いざない、いざなわれ。
永久に手を繋いで歩もうと誓ったものを。
のちに裏切るぐらいなら、なぜ、いざなった。
この怒りを、嘆きを、苦しみを、憤りを、悲しみを、憎しみを、恨みを、愛しさを、恋しさを。
ねえ、なぜ、わかってくれない。

詩のように研がれた文章。詞のように声に馴染む文章だ。その秘密は、この本の作られ方にあり、あとがきを読むとわかる。
読みやすく、わかりやすく、古事記の全体像を掴むには最適であろう。
そぎ落とされたところに旨みがあるのかもしれないが、大筋から味わえるものも多い。
神話の中には、イメージが次々に喚起される、豊饒な世界が広がっている。
子ども向けの古事記以来に触れる私にはほどよい内容であり、しかも、品があってすっかり気に入った。

イザナギ、イザナミの夫婦喧嘩から、父子家庭の末子のスサノオの反抗期、父親の養育放棄もしくは子の家出のくだり、こんな家庭ってあるよなー…。
同胞葛藤といえば、アマテラスとスサノオも、母親不在の家庭で、母親の代理を求められる長女のギブアップと、あくまでも母親を希求する末子という感じで、よく見られる。
ニニギの嫉妬妄想、海幸彦と山幸彦の同胞葛藤。イワナガとコノハナサクヤも同胞加藤。
現代の家族関係や異性関係に見られるトラブルって、結構、そのまま、古事記の中に見出せるのが面白かった。
家族や異性関係で生じるトラブルの原型を見出すと同時に、冥府下りや大地の女神の死、見るなの禁止令といった、神話だからこそ語られるモチーフを再考するよい契機となった。

面白いのは、イザナギもオルフェウスも異界に死んだ妻を迎えに行くが、死んだり醜くなった妻は捨てられて話が終わる。
しかし、女神達は違う。大国主の母親も、イシスも、男神が殺されたときには、母親もしくは恋人たる女神は、その遺体をかきあつめて生き返らせようとする。なにがなんでも生き返らせようとする。
イザナギがイザナミにがっかりするところは、すでに女性は若く美しくないといけないという価値観の反映のように読めてしまう。
男性から口説いておきながら、男性のほうから去っていくことを許せないと怒りを感じるのは、なにも、イザナミだけではない。
その後も清姫や六条御息所に受け継がれ、お七やお岩を経て、今も日々増産中。
そういうイザナミ的な要素は、多かれ少なかれ、女性は持っているものだと思っている。
少なくとも、私は持っている。

女性である私の目から見れば、ほんの少し違うのだ。
イザナミはイザナギを傷つけたかったわけではない。殺したかったわけではない。決定的に別れたかったわけではない。
裏切られた苦しみをわかってほしかっただけなのだ。約束を破ってごめん、と、一言言ってほしかっただけなのだ。
もっと言えば、醜くなってしまった自分に恐れをなすのではなく、そんな醜い面も含めてどーんとうけいれてくれたらどんなによかっただろう。
出会ったときの二人のように美しくなくなってしまったとしても、手を携えて、愛を確かめあっていきたかっただけではないのか。

愛を保ち続けていたくて、縁を繋ぎ続けたくて、呪いの言葉をつむぐ。
現代であれば、別れ話の後のヤケ酒みたいなものだ。リストカットやODしてしまう人の心情にも通じると思う。
イザナギの後悔を、改悛を、導き出したくて、罪悪感に、同情心に訴えかける。
それが最早愛ではなかったとしても、どこかで繋がっていたいと切なく願う人を、責めないでほしい。
お願い。私から、立ち去らないで。
そんな祈りがあるから、別れの言葉は言わないでいてほしいのだ。別れざるを得ないとしても。
そして、仲直りの仕方を書かないから、ニニギとコノハナサクヤ、山幸彦と豊玉姫も繰り返す。

見るなと言ったのに。
あれほど、お願いしたのに。
見るなとお願いしたのが悪いのか。
約束を守ってくれると信じたことが悪いのか。
私はあなたを信じていたのに。
あなたはどうして信じてくれない。待ってくれない。任せてくれない。
その裏切りを謝ってくれないまま、自分のほうが傷ついたような顔をして。
誤りを過ちにして、一人だけ禊して終わらせてしまうなんて。
許さない。

呪いは、私を忘れるなという約束の言葉。
あなたの過去に私という存在があったことをあなたが忘れたとしても、あなたの意識が根ざす無意識のひそみに私はそっと隠れつつ、あなたを支えていくだろう。
あなたは知らず知らずに私の願いをかなえていくのです。
あなたがなしていく営みのはじまりが私にあることを、あなたが忘れてしまっても。
私はひそかに悦ぶでしょう。
かすかにでも、私があなたになにかよきものを残すことができたのだとしたら。
出逢ってよかった。

2012.04.19

きみはポラリス

三浦しをん 2011 新潮文庫

最近、うちの猫ががんだということがわかった。
部位は違うが二度目のがんだ。
年が年だから、今度は麻酔ができない。手術ができない。
飼い始めて19年。来年は今頃はいるのだろうか、と思いながら過ごしてきた。
いつかその日が来るとわかっていても、近づいてきていることを確かめることは、切ない。
だから、「春太の毎日」を読んでしんみりした。

好きな人が望むなら。
ずっと一緒にいるよ。(「永遠に完成しない二通の手紙」)
裏切らず、本気を貫く。(「裏切らないこと」)
死ぬまで、全部忘れて楽しく暮らす。(「私たちがしたこと」)
私は行く。求めても与えられず、探しても見いだせず、門をたたいても開かれることのない道を。(「夜にあふれるもの」)
私は小さなその土地に踏みとどまって、あらゆる移ろいを見つめ続ける覚悟をつけた。(「骨片」)
すべてを飲みこんで生きていく。(「ペーパークラフト」)
もしもいつか、私たちの心が遠く隔てられてしまう日が来ても、この笑顔はいつも私のどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。(「森を歩く」)
まったくもって、生活からは逃れようがない。(「優雅な生活」)
ああ、いつまでもこうしていたい。ずっと仲良く暮らしていたい。(「春太の毎日」)
何度聞かれても、私は信じると答えるだろう。(「冬の一等星」)
好きなんだ。(「永遠につづく手紙の最初の一文」)

それぞれの短編から一節ずつ引用してみた。もっと美しく胸打つ文章もあるが、ここはあえて流れ重視で選んでみた。
このように、いつも心の中で輝くポラリスのように、その場所は変わらず、私の目指すべき位置を教えてくれる存在として輝き続けるような恋や愛ばかりが集められている。
本数が多い上に短編から中編ぐらいの長さばかりで、読みやすいけれども全体はしっかりとボリュームがあった。
また、三浦さんのその後の作品の登場人物のプロトタイプになっているのかな?というキャラクターも散見して面白かった。
もっと面白いと思ったのは、巻末にお題もしくは自分お題が記されていたことである。短編のタイトルとは別ものの、依頼時、執筆時のお題を見ると、なるほどと興味深かった。
ちなみに、解説は中村うさぎ氏。この取り合わせが素敵であり、中村さんの文章によって、私の恋も愛に認定してもらえたような喜びをかみ締めた。

好きな人が望むなら。望まなくても。それは自分が望むことだから。
ためらいがなかったとは言わない。ためらっている間に、彼の本気はすり抜けてしまった。
本当に本気なら、本物なら、ちょって待てと言いたくなるが。
男ってばか。
女はそんなことを望んでいないよってことを、先回りしてかなえようとして空回りするからばかって言いたくなるんだ。
女の恋は上書き方式って誰が決めた。
恋はそんなものではない。
たった一つ。決めてしまったら、それを抱いて生きるしかない。
あなたが望むなら。忘れたふりを私はしよう。してあげよう。
あなたが見ているところでは。見ていないところでも。
そう思いはしたが、忘れられるものではないんだよ。そう簡単にはね。

忘れたふりをしてあげてもいい。そうすれば、あなたは「この女もか」と失望を再確認して安心することができただろう。
あなたは過去の憂鬱と未来の希望から目をそむけることしかしないが、しかし、私はここに踏みとどまっていよう。
踏みとどまることで、あなたにそんな安穏とした臆病な平和に逃げ込むことを許さず、私は自分の心を裏切らずにいよう。
呼ばれたら応じる。助けを求められたら駆けつける。そのためにここにいる。私はそういうものだ。そういうものがいるという安心感が、私の供するものだ。
忘れない。裏切らない。そこに常にある。そんなものがあることを、あなたがいつか信じられたらいいのに。愛されているということを。
祈りは、まだまだ続くのだ。

だって、あなたが私を守る星なのだもの。
いつも心の中で輝く、導く、励ますもの。
忘れられるのはあきらめてくれ。

2012.04.10

院長の恋

佐藤愛子 2012 文春文庫

失敗。今の気分では楽しめない。
ユーモアをユーモアに感じられず、最初の短編が途中から苦行モードになってしまった。
登場人物の誰にも好感が持てず、そこかしこに悪意のような意地悪いものを感じてしまう。

恋の病というが、他者からどんなに愚かに見えたとしても、当事者にとっては真剣なものであったり、切ないものであったりする。
だから、私は笑えない。
愚かであればあるほど、むしろ切ない。悲しい。苦しい。
恋を笑いものにしないでほしい。途方に暮れる。苦しくて笑えない。

恋に永遠はない。苦しい恋であっても幸せな恋であっても、同じように時間がそれを蝕む。この世の恋がすべてそうであるように、院長の恋も、恋の宿命を辿った。(p.92)

わかってはいる。だから、苦しいんじゃないか。
最初から最後まで著者とあわないと感じた短編「院長の恋」だが、精神病院の描写の部分では実在するいくつかの病院と重なり、暖かな笑みを感じた。
ちなみに、作者は恋をうつ病になぞらえるが、薬理学的には恋愛は強迫性障害と同類だとアキスカルが言っている。それでイグノーブル賞も取っている。
頭ではわかっている。でも、気持ちは止められないんだよね。気になって気になって仕方がないんだ。
それなら、私にもSSRIが効くかな?笑

「離れの人」も救いがないし、「地蔵の眉毛」はますます救いがないし。
「ケヤグの秋」はやっぱり救いがなくて。
「沢村校長の晩年」では、案の定と肩を落として嘆息した。

私が生まれる前から小説を書いている人のように、私は達観できない。
どの人に感情移入して読んでいいのかわからない戸惑いがあった。
突き放されたような感覚を、意地悪に感じたのかもしれないが。
それにしても。
多分、私は沢村校長の側に属する人間なのだ。
笑われる側の人間として、笑われることを悲しく思うしかなかった。

2012.04.06

心に性別はあるのか?:性同一性障害のよりよい理解とケアのために

中村美亜 2005 医療文化社

もともとは英文の論文として発表され、そこに著者が「エッセイ」と評する主張を付け加えた構成になっている。
自分の性別に悩む人、自分は性同一性障害ではないかと悩む人に、手に取ってもらいたい一冊だ。
この中でインタビューを答える人たちにはいろいろな人がいる。
性の多様性を、セックス、セクシュアリティ、ジェンダーのどの次元においても再確認した上で、自分の性について向き合ってもらいたい。自分と向き合うことを、自分自身を受けいれる過程で何度も必要になる。
単純に男女の二元論に再陥落していくことは決して治療的ではないことを、ケアに関わる側も知っておくべきだが、この落とし穴に当事者がまず落ち込まないようにしてほしいと願うからだ。
ほかの人がどのように自分自身の性と折り合いをつけてきたか、きっと参考になることだと思う。

続きは個人的な心情を露悪的に書いてみようと思うから、読む人は気を付けて。

私の身も心も、偏りがある。
女としてもできそこなっているし、人としても欠けている。
それがどーした?と個人の内部では落ち着いているが、他者に理解されるとは限らない。
パートナーとも結局はうまくいかなかった。
私にとって女性であるということは、苦々しさを含む。
「外から押し付けられる」ものだという感覚がつきまとうからだ。

自分はどういう人間であるのか、ほかならぬ自分が決めていくものである。それはその通りだと思う。
そこにその通りに他者から理解されたと願って、プレゼンテーションの適切さが問われ、他者からのパーミッションが得られるかどうかで生きやすさはある程度左右されてくる。
アイデンティティとはそういうものだと思う。

髪が伸びた。いっそ剃髪したいぞ。と、思う私のジェンダーはいつも中途半端なところにアイデンティファイされる。
私の中に「自分は反対の性別である、という強く継続的な自己認識」はないが、「自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感」は豊富にある。ついでに、性行為および性的な対象に見なされることへの不快感や拒否感もある。
積極的に男性性を獲得したいとは思わないが、女性であることがやりきれない。
もうちょっと直截に言ってしまえば、男性器は二重の意味でほしくない。
乳房もいらないと思うことがしばしばある。あと7kgぐらい痩せるか、筋肉を鍛え上げて体脂肪を落とすか、切除するか、どれが一番現実的だろうと考えるのは楽しいが、どれも実行はしないだろう。

ニュートラルな性があればいいのに。
自分の中のことは自分で抱えるし、自分でけりをつければよいが、我は独りであるわけではない。
私は親密な他者関係である色恋沙汰からリタイアしたいのであり、巻き込まないでくれとアピールするための手段を欲する。
自分が女性であるというそのことよりも、女性として扱われる、女性として性的に欲されることが、一番嫌なことである。
そういう意味では、剃髪というのは一目でわかる象徴であり、すぐれた文化装置、生活の知恵だった。と、源氏物語を読んでいて思った。

この程度の生きづらさを積極的に疾患扱いする必要はまったくないが、しかし、同時に、ジェンダーを検討するときにはこのような曖昧さや揺らぎを含みおきつつ理解していかなくてはならない。
ジェンダー・アイデンティティを再確認するプロセスにおいて、安易な男女の二元論に陥ることがあってはお粗末だ。
だからこそ、こういった「心に性別はあるのか?」という素朴な疑問はとても大切に思い、著者の姿勢に好感を持って読んだ。

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