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香桑の近況

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2012年1月

2012.01.24

沖で待つ

絲山秋子 2009 文春文庫

明日で仕事を辞める。そんな日に、なんで読んでしまったんだろう。
星型ドライバーはわかるけど、コーキングはわからなくて首を傾げた。
それでも、「沖で待つ」の過ぎてしまった時間の愛しいけれどもばかばかしいような、でも二度と持てない時間が過ぎていく切なさは感じた。
と、解説を読みながら思った。

この本には「勤労感謝の日」「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」の3つが収録されている。
表題作と「勤労感謝の日」は、女性総合職という立場で働いてきた女性たちの、あの時とその後を描いている。
私より幾つか年上の先輩たちの体験談を聞いているような気分になる。

就職したてのあの時の高揚感と不安感。その時を一緒に過ごした人たちとの関わりは、ほかで再現されるものではない。
決して恋愛にはならない男女を描くところは絲山さんらしいが、それだけではなく、大事な瞬間が過去になってしまっていく時間の経過を描くところも、絲山さんならではな気がする。
「沖で待つ」
筋には触れないでおくけれど、この言葉を作中で読んだときの、なんとも言えない響きに、やられた。
意味もなく、泣きそうになった。不意打ちのように、深く揺られた。

また、この表題作は私にはとても馴染みのある地名がいくつも出てきた。
そうなのだ。九州に来たことのない関東の人って、福岡をものすごく隔たった場所のように感じていることがある。
とりあえず、福岡に来てよ。来てみてよ。そんな誘い文句として、東京から離れたことがない人に読んでほしくなった。

そして、その後。
企業から離れ、次の就職が見つからず、未婚であるとしたら。
「勤労感謝の日」の主人公は、「三十五を過ぎたらただの扱いにくいおばさんだ。どれだけキャリアがあろうが、社会常識に長けていようが却ってそんなもんは徒になるだけだ」(p.40)と自ら言う。
しがらみで見合いすれば負け犬を語らせるような男が相手では、やさぐれてもいいと思う。
心の中の声がざっくばらんで、うまくいかない日の、やりきれないようなじくじくとした気分が、真に迫る。
今後のためにも、一緒に飲みに入ってくれる年下の友人と、できれば話を聞いてくれる行きつけの店は確保しておきたい。
すっかり扱いにくいおばさんだもの。私も。まぁ、しゃあない。

「みなみのしまのぶんたろう」は感想が非常に難しい。
ひらがなばかりで読みづらいが、皮肉たっぷり。
現実に存在する人を連想するが、怒られないのかな。大丈夫なのかな。
でも、笑った。

2012.01.23

空の彼方3

菱田愛日 2010 メディアワークス文庫

……えーーーっ!?
と、思うところから始まった最終巻。
嘘だ。ハッピーエンドじゃないと、読まないぞ。と、私としては滅多にしないことなのだが、先に最後の数ページを読んでしまった。
だって、安心して読みたいもの。

月霊草という植物の苗から始まる物語は、遮光石という珍しい石の探索へと移行していく。
アルとソラは、再び、改めて、自分の過去と未来に向き直ることを迫られる。
アルは、貴族として生まれ育った過去を背負いながら、傭兵としての未来を掴み取ることができるのか。
ソラは、シャインを想い待ち続けた過去を背負いながら、アルと歩く未来に踏み出すことができるのか。
過去と決別することができなくても、未来を目指すことはできないか。

自由を守ることって。誰かを待つことって。愛することって。
一つ一つを立ち止まりながら大事に考えていく主人公達は決して器用ではない。
ますますじれったい分、話が進むほど、甘み成分も増えていく。かなり甘いこと請け合い。
アルとアルのにーちゃんの会話が真面目になればなるほど、なんだか少し……かなり……恥ずかしい……。
おそらく、血筋なんだね。お父さんからしてそんなんなら間違いなく血筋だね、と、遠い目。

ここには悲惨な場面も、残酷な描写もない。
物語は綺麗事でいいと、私は思う。
傷つくために読むわけではないのだから。
にこやかに本を閉じることができて嬉しい。

そういえば、このシリーズを読むのと前後して、石好きの熱が再燃している。
遮光石は、淡灰色や淡褐色の月長石か、方解石のイメージで読んだ。
石の種類を見るのも、意味を調べるのも面白い。といっても、そうそう購入するわけにはいかない。
石屋さんに行くとどれか連れて帰りたくなるので、パワーストーンの通販サイトでオリジナルのブレスレットをあれこれと考えては、買わない。笑
対人関係や健康、恋愛といったいくつかの項目が書かれたレーザーチャートで属性を見ながら、デザインを選んでからテンプレートに石をあてはめていくのだ。
防御や回復……と装備を作るみたいで楽しかったりする。特化型にするか全般型にするか。ソラが防具を作るときも、こんな風に楽しむのかな。

去年もらったペンダントの石は「トラウマの癒し」に有効らしい。そんなものをくれていたなんて、と、微苦笑。
同じ石を使ったブレスレットを実際に作ってみたら、水のような、空のような明るい色合いの爽やかなものに仕上がった。
綺麗に仕上がって、よかった。

空の彼方2

菱田愛日 2010 メディアワークス文庫

このシリーズ、好きだなぁ。
胸がほっこりと暖まるような、優しい色合いの佳品だ。
私にとっては久しぶりに当たりの異世界ファンタジー。
1冊目は短編を集めたような構成だったが、今度は全部で一つの物語。
ソラ以外の目線で順番に語られていく形は踏襲されている。
文章はよりなめらかになったが、瑞々しく清々しい筆致はそのままだ。

ソラとアルのじれったい2人。
いろんな意味でがんばった。よくがんばった。
生まれ背負ってきたものと戦いながら。
大切に思えば思うほど失うことへの怖さと闘いながら。
日々は、苦々しいことも、もどかしいことも、悔しいことも、苦しいことも、悲しいことも、つらいことも、色々あって。
それぞれが成長していく姿が、微笑ましくてまぶしい。

べったべたじゃないけど、甘い成分は前巻よりアップ。
この本を好きになる人、いっぱいいると思うんだけどな。
今の仕事がひと段落ついたら読み直そう。今週を乗り切ったらなんとか。
続きが気になるので、感想はこれ位で。

2012.01.13

死ぬ瞬間:死とその過程について

エリザベス キューブラー・ロス 鈴木 晶(訳)  2001 中公文庫

久しぶりに読み返す機会があったのだが、ここにレビューをアップしていなかったことに気付いた。

死は、いつか必ず目の前にある主題だ。
この本は死の問題を扱うときに欠かせぬ名著だ。
死の過程の図は、非常によく引用される。
まず、「衝撃と不信」の段階があり、次に「否認」、そして「怒り」。「取り引き」を経て、「抑うつ」に至り、「受容」を迎える。
これらの段階は不可逆的に一方的に進むわけではなく、行きつ戻りつするものであり、必ずしも受容に至るとは限らない。

著者とその仲間達は、末期がん患者200人以上にインタビューした。
著者の質問法、コメントの仕方、解釈には、今でこそ異論や批判があるかもしれない。
が、病を患い、自らの死というものに向き合わざるをえなくなった人々の言葉は、時を経てなお読む価値がある。
著者がインタビューした人々は、もうとうに死んでしまったことであろうと考えると、ぐっと圧倒される迫力があった。

その後の著者の動向は横において、死の臨床というそれまで未踏地だった主題に取り組んだ業績は大きい。
以下に引用するように、死という彼岸に渡る営みを見守り続けることは、著者に宗教的な境地をいたらしめることになった。
此岸から彼岸を語ることは、此岸にいるものは彼岸にいることができないがゆえに、超越的な言語を用いざるをえなくなる。
とはいえ、終末期医療の臨床に携わる人はもちろん、臨床家でなくとも、人の間に生きていると、自分の死、他者の死がいつか必ず待っているのだから、時には死について考える機会を持つことも前向きな営みではなかろうか。

「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏かな停止であることがわかるだろう。人間の穏かな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二の存在であることがわかる。そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。七十歳を過ぎるまで生きられる人は多くはないが、ほとんどの人はその短い時間の中でかけがえのない人生を送り、人類の歴史という織物に自分の人生を織り込んでいくのである。(p.448)
(2006/6/22)

私は、左手が死に触れているような感触をイメージする。
それは水に似ている。質感や温度を伴って、指先に感じる。中指と薬指のたあたりに。
私が自らその水面に飛び込むつもりはない。誘惑があったとしても、そこに引きずられないための手を打つ。
しかし、私はそこに惹きつけられずにいる人がいることを忘れないために、あるいは今にもそこに戻りゆく人がいることを忘れないために、ただ、触れ続けていたいと思っている。
死は、私の、逃げることのできない、現実である。

2012.01.11

セレモニー黒真珠

宮木あや子 2009 メディアファクトリー

大好きだった男が死んでしまうのと、他の女と結婚するのを見るのとでは、どちらがつらいか。
なかなか考えさせられる問いである。
つらいのは前者だなー。つらいけど、立ち会いたくなるだろう。後者は、立ち会いたくないけれども、立ち会わずに済むなら前者よりはつらくない。
いいよ。好きな人が幸せなら。その時に隣にいるのが自分じゃなくたって。でも、この世からいなくなっちゃうのはつらいなぁ。

部下からもっと楽しい本を読むように言われて、小説を数冊買い足した。その一冊。
よくよく考えれば葬儀屋さんが舞台。
……楽しいかなー?と心配しながら読んだら、おおむね楽しかった。時々、切なかった。うるっときた。ちょびっと泣いた。また少し元気になった。

セレモニー黒真珠という地域密着型の小さめ葬儀屋さん。好きな男が他の女と結婚するのを見せられた笹島、幽霊が見えるメガネ男子の木崎、大好きな男の死に水を取るために働き始めた妹尾。
笹島も、妹尾も、それぞれ人生が大変な上に、毎回、死者が登場する(当たり前だ。葬儀屋さんの話なのだから)にも関わらず、あんまりウェットじゃない。
過度に情緒的にならずに、いやらしく泣かせようとするんじゃなくて、それぞれが当たり前にお仕事をしている感じが、いい。
とっても現実的で、ほっとする。ラブコメとまでは言わないけれども、ほのぼのと甘い感じも、後味がいい。
あと、干からびたマンドラゴラのような社長が素敵。またも、おじさんに惚れ込むか、自分。

死が、これだけ物語に扱われていながら、ドライ。
どうしてかと考えてみたが、主たる登場人物が葬儀屋さんというお仕事の立場から死に関わっているからだろうか。
これから死を迎える当人の物語でもなく、大事な人を死で亡くした遺族の物語でもない。すると、第三者的な死になる。
対して、私が関わることができるのは生きている人だけなので、死にゆく人か、残された人を支えることになる。

距離感を保てないと、仕事であれ、死に関わるのはしんどくなりそう。少なくとも、今のようなやり方では私はやっていけないだろう。そう思って、死に直接立ち会う職場は避けてきた。
それでも、プライベートでも何人かを見送ってきた。仕事でも担当している人の訃報を聞くことはある。
この指の隙間から洩れこぼれるように、命がすり抜けていく喪失感に、私は慣れることができない。
できることがあるなら、まだいい。疲弊しようが、消耗しようが、できることがある限り、それをする。避けられないなら、一日でも先に送りたい。
でも、できることなんて何もなくなり、その時が来る。避けられない死がある。その後の、遺体に触ることや焼き場のにおいや焼かれた骨を砕くときの音にも、やっぱり慣れない。
見守る者=残された者の苦しみも知っているから、私は大事な人たちよりはなるべく長生きしたい。あんな思いはなるべくさせたくないものね。

しおしおしている場合じゃないのだ。がんばろー。

2012.01.10

空の彼方

菱田愛日 2010 メディアワークス文庫

「いってらっしゃい」と「いってきます」。
「ただいま」と「おかえりなさい」。
この言葉を繰り返すことで、そこが居場所になる。
その相手との関係が居場所になっていくのだと思う。
私の好きな言葉達だ。

王都の賑やかな通りから入り込んだ路地。見落としそうな地下への階段。目立たない防具屋「シャイニーテラス」。
店主ソラが、客を「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえりなさい」と迎え入れる。
ソラ自身は太陽のもとを歩けないから、防具となって人を守り、人と歩き、人と戦う。その人の旅の土産話から世界を知り、世界と関わる。
客にとっても、ソラとの会話が、一種のディブリフィーングになっている。
世界は穏かではないが、人の心が温かい、美しい物語だった。
続きも買ってみようかなぁ。

私の仕事も「待つ」ことが大きな比重を占めているので、主人公のソラにすんなりとなじんでいった。
待つことに徹して、自分は動いてはいけない。自分が動いたほうがどんなに早いとしても、自分から駆けつけたいとどんなに願ったとしても、その手を取り、抱きしめたいとしても、ここから出てはいけない。自分から動いてはいけない。
基本、待つ。
短気な私は時々行動しちゃうけれども、動ける範囲であれこれ画策はするとしても、とりあえず、待つ。無事をただただ祈りながら。命が消えないことを願いながら。
いつでもここにいるという安心感や信頼感を持ってもらうためには、それしかない。
そして、いつもここから現実に送り出す。再び訪れたとしたら快く迎え入れ、そしてまた送り出す。
私は、ここにいる。いつも、いつでも。
私の場合、「おかえりなさい」が「いってらっしゃい」で完結するのが、ソラと違うところだろう。

体験を過去の思い出にするには、なにか終わったという出来事が必要だ。
けりがつく、言葉なり、儀式なり、体験が必要になる。
行方不明のままであるなら待ち続けてしまう。死を受け入れるには、その死を事実として認識せざるえないような現実が、どうしてもほしくなる。否定しきれないほどに現実を見せ付けられてしか、人はあきらめられない。
私自身が、綺麗なまま、曖昧に誤魔化した終わりでは納得できない。傷ついても、傷口を押し広げる勢いで、終わりは終わりだと確認しないと気がすまない性質である。付き合わされた方はきつかっただろうと思うけど。
終わりは終わり。そう思い知らされないことには、希望をつむがずにいられないのだ。どんなに空虚なことだとわかっていたとしても。
このあきらめの悪さがあるから、待ち続けることもできるのかな。多分、今も、よきことの訪れを待っているように。

素材屋のハンター達もソラの客で、そこからモンハンを思い出した。
深沢美潮がドラクエからフォーチュン・クエストのシリーズを生み出したように。
RPGでは旅人は次の町から次の町へ行ってしまうけれど、モンハンなら同じ街から出かけては帰ってくる……んだよね?

2012.01.05

心の傷を癒すということ:大災害精神医療の臨床報告

【増補改訂版】 安 克昌 2011 作品社

阪神・淡路大震災の直後から書かれた、神戸で被災しつつ医療に携わった精神科医の臨床報告である。
東日本大地震の時に勧められたが絶版になっていた。その後、増補改定版が出版され、私も入手できた。
この本は著者が生前に書いた、たった一冊の本であり、遺稿が増補されてこの版になった。増補分の量、全体の5分の2程度。

被災地の内部から、当事者が発信した記録として、生々しさがあった。
95年1月末から約一年間新聞に連載したものをもとに、加筆したものが本稿の前半部分になっている。
文章はとてもわかりやすく、説明は丁寧で、精神科の臨床に携わる専門家でない人にとっても読みやすく、参考になる本だと思う。
事例も多い。思わず、泣いた文章もあった。私が他の方から聞いた体験談も想起する。被災していなくても、東日本の記憶は真新しい。
これは事例のほんの一部だとわかっていても、やはり、重たい。この重たさはまぎらわすものではない。

PTSDが人口に膾炙したのは、阪神・淡路大震災からだった。
その当時の事情を私は後から学んだわけであるが、およそ17年の時の流れを感じないほど、ここには既にいろんなことが語られていると驚いた。変な言い方しかできないけど、驚いた。
語られているトピックが、災害直後の躁的な防衛状態、看護師や消防士ら支援者の支援、死別体験と家族関係の問題、コミュニティの再生の意味に至るまで、幅広いのだ。
社会全体を見渡すような視野の広さって、この人のバランス感覚ならではなんだろうな、と思う。自分がつらいときって視野が狭くなりがちな気がするけれど、こんな風に広く保てるってすごい。
本論のしめくくりに、著者は「世界は心的外傷に満ちている」(p.259)と書くが、本当にその通りだと思うので、この本はプライマリに読まれる教科書のように、常に書架や書棚に並んでいてほしいなと思った。

増補の前半部分には、学校関係者に配った資料や災害後のためのメンタルチェックリストに始まり、その後に発表された原稿が集められている。どの文章もわかりやすいのは、説明の順番にもよるのかも。
後半部分には、中井久夫による告別式での追悼の辞や、鷲田清一の書評、関わりがあった人たちの寄せる文章から成る。著者の人となりがうかがえると同時も、そこをも含めて、最初から最後までなにかを喪失する体験を追いかけるような本になっている。

一般に、心の傷になることはすぐには語らない。誰しも自分の心の傷を、無神経な人にいじくられたくはない。心の傷にまつわる話題は、安全な環境で安全な相手にだけ、少しずつ語られるのである。(p.74)

私にはどうにも消化できない記憶がある。なにか起きるたびに、過去になりきっていないことを思い知らされる記憶がある。
だから、トラウマケアの領域に惹かれるのだと思う。私自身が抱えているものと、どうやったらつきあっていけるのか、私自身が探している。
まだ、誰にも話したことがないこと、話す言葉がないことを、問われても答えられないし、話したからといって終わりにならない。
まだ、終わりになる気がしない。そのことを含めて私になってしまっているから、丸ごと抱えてほしいと願わずにいられなかったんだろう。

2012.01.03

マザコン

角田光代 2007 集英社

母のことは好きだ。
だが、どうしても、いらいらしたり、もやもやとする。
その割り切れなさをなんと表せば伝わるのだろうか。

娘も、息子も、母親を求めている。
幼い頃、自分を支え、包み、守っていた、揺るぎのない環境としての母親。
母親だけが、自分を丸ごと受け止めてくれる。
自分をすべて理解してくれようとするだろう。
そんな幻想を、娘も、息子も、持っている。
自分をすべて理解してほしい。
そんな欲望を、娘も、息子も、持っている。

だから、母親が幻想通りではなくなったときに、幻滅する。
母親が家を去ったとき。母親が老いたとき。母親が死んだとき。母親の、自分が見てきた母親として以外の顔を見せたとき。
幻滅は、不可避だ。現実を知らなかったのは子ども達のほうなのだから。
この本は短編集であり、それぞれの娘や息子達が、幻滅を繰り返す。

と、同時に、娘は母親の支配に身をよじる。
その支配については、斎藤環『母は娘の人生を支配する:なぜ「母殺し」は難しいのか』を読んでもらうといい。
『マザコン』のなかの「ふたり暮らし」が気になった人には特に勧めたくなる。
父親のことを考えるならば、全体を通じて存在感が希薄だ。
「パセリと温泉」の有様は、我が家の近い将来に思えて仕方ならず、ぞっとした。
この短編の父親の様子は、思わずに母親に読み聞かせたほど。我が家だけのことでないというのは、あまり慰めにならない。

この小説で面白かった点は、人が娘/息子として母親に自分を丸ごと理解してほしいと求める一方で、自分の恋人や伴侶といった同世代異性とは話が通じるわけがないと投げ出しているところだ。
むしろ、異性とのディスコミュニケーションがひどいからこそ、幻想の母親にコミュニケーションを期待してしまうのかもしれない。
しかし、結局は幻想は幻想に過ぎず、誰にも理解されないまま、一人に突き落とされるような落下感がつきまとった。
読むにつれて、徐々に気分が沈んでいった。

最後に収められている「初恋ツアー」は、母親がコミカルなだけではなく、母親への幻滅を感じた男を妻が母親であるかのように抱きとめようとするところに、ある種の希望と救済を用意している。
こんな風に振舞えれば、よかったのにね。また落ち込んだ。

2012.01.02

憧憬☆カトマンズ

宮木あや子 2011 日本経済新聞出版社

主人公達は29歳。
私はその年齢をとっくに通り過ぎたけれども、似たようなことで悩んでいる。
立ち止まってしまった分だけ、始末が悪い。その上、若さの元気がない。
そんなダメダメな自分には、やっぱり、こういうウルトラハッピーな物語が必要だ。
もうちょっと元気なときならともかく、元気が出ないときにはこういう小説が必要なんだ。
だって、つらいこと、苦しいこと、きついこと、悲しいこと、腹立つこと、悔しいことなど、嫌なことは現実で事欠かないのだもの。

その仕事が夢だったかどうかはともかく、働いている。
楽なほうを選んできたし、長いものにも巻かれてきた。
恋をしたことがないわけではないが、パートナーはいない。
友人はいる。趣味もある。そんな女性たちにお勧めの本だ。
自分を見つめなおせと言われても、今更、培ったものをそう簡単には変えられない。
欠損していると言われようが、甘えていると言われようが、わがままだ、ガキだ、いい加減だと言われても。
それでも、自分は生きている。
それでも、幸せになりたいじゃない?

ところで、自分探しって、何なんだろうね。
一時期ほど流行らなくなったと思いたいけど、何をやれば自分が探し出せるのかがわからない。
作中、行くべき候補地がいくつか出てくる。主人公達はカトマンズ、パティはパリ、ある派遣社員はハワイ、パティの母は韓国。
海外に一人で行くと自分がなくなるのがいいんじゃないか、とか、ぼやいているから、私はやる気がないと言われるのだろう。
こんな自分で悪かったなって胸を張って言えるぐらいに、そろそろ開き直ってみようか。

震災の事例を読んでいたら、涙が出てくるし、落ち込んでしまった。
それで、息抜きがてら、読んでみた。
すずなちゃんや苗坊さんのブログで気になった本だ。
読んで正解。面白くて楽しくて、すぐに二度読みした。元気にならなくちゃね。

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