私の男
桜庭一樹 2007 文藝春秋
東京都足立区。
玄関から入ってすぐに台所、リビングと、奥に寝室。
マンションの一室。
そこに、2人は住んでいた。
骨になっても離れないと思っていたはずなのに、どうして逃げてしまったのだろう。
忘れるなと言ったくせに、どうしてどこかに消えてしまうことができるのだろう。
父親のように、母親のように、息子のように、娘のように、兄のように、姉のように、弟のように、妹のように。
あんなに愛し合ったはずなのに、なぜ。
実ることなく、花は腐る。あっという間に朽ちる。
桜庭は親子として、罪人として、幾重にも結びついていた2人を、あっさりと絶つ。
その別れの章から始まり、2人の歴史を遡るように、物語は進んでいく。
人は誰かの面影を探して恋をする。紫の上に、藤壺を、ひいては、桐壺を見出した光源氏のように。
93年のキタといえば、奥尻島だ。途中で、気付いた。
私が体験した、最初の大きな地震。それが奥尻島だったと思っていたが、記憶と日付があわないことに気づいた。
東京に住んでいて、入浴中だったのだ、船が揺れるように、大きくゆったりとした波がしばらく続いた。自分が海に浮かんでいるような気分になった。
風呂から上がり、テレビをつけたら、地震速報が流れていた。あれはいつのどこの地震だっただろう。
ともかく、そこから始まる物語。
そして、もしかしたら、連鎖していく物語。
腐野花は、鎖の花。
結婚して、苗字が変わって、鎖がとかれた。
だから、淳悟はいなくなった。
そういう意味でも、違う意味でも、手に取る時期に意味があった。
大震災のあった今年、恋人と別れたその日に、積読本の中からこの本に呼ばれた。
どうやら、感覚が戻ったらしい。声なき声が聞こえるように。戻ってきた感じがする。
章を読み終えるたびに、号泣して、本を閉じて、一晩経って、続きを読んで。
そんな読み方をするから、時間がかかった。
きれいな男の人だった。手を繋いで歩きながら、何度も見惚れた。
目鼻立ちの整った、綺麗な顔立ち。
綺麗な目をしていた。くっきりと二重の杏仁型。
惹きつけられてやまないような色気があった。仕草にも、姿にも。
煙草を吸うから、話すとき、ふっくらと形のよい唇が少し歪んだ。
ラッキーストライクのメンソール。
煙草を吸うときは自分ひとりの世界に入るみたいだった。
肌に煙草の味がしみついていた。指輪にまで煙草のにおいが。
台所に立つ後姿がすらりとしてしなやか。背の高い人。
笑うと愛嬌があって、人好きがする。ちょっぴりいたずら好きで。
如才なく立ち回り、人の中に溶け込むことができて。
楽しませるのが上手な人で、仲間や友達にも愛されていて。
やわらかな響きの声。笑いの混じる声。怒りに震える声。かすれる吐息。
口をつぐむと寂しさや悲しさが背後に闇のようにわだかまっていた。
置いて行かれた子どものように心細そうな目をする人だった。
繊細で情の篤い、愛情深い。濃やかで、細やかで。
誰よりも誰よりも優しい人。
私の男。
その名を舌の上で転がす。
生まれた土地から動かなかった人。その根を引き抜いてはいけない。
せめて。
……その先は言うまい。
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