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香桑の近況

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2011年10月

2011.10.30

青少年のための自殺学入門

青少年のための自殺学入門 (河出文庫) 寺山修司 1994 河出文庫

さて、それでは私の死にはどんな曲が似合うのだろうか?(p.15)

なんとも魅力的な問いかけである。
私への誘惑は飛び込みか飛び降りであるので、それ以上に何を演出すべきかと思うけれども、青少年のための死のファンタジーを盛り上げるならば、BGMまで想像するとはなかなか楽しい提案である。
さて、どんな曲が似合うだろう。

一つ一つのエッセイは短く、非常に読みやすい。
序詩にはじまり、エッセイは、「死についてのノート」、「自殺学入門」、「死についての語録」、「家出/死」の4つにまとめられている。
詩人の言葉は、箴言に満ちており、惹きつけるのがうまい。皮肉な笑いもある。「上手な遺書の書き方」のあたりは非常に楽しい。
そういった軽妙で洗練された寺山自身の言葉と、家出をした少年らのインタビューや手紙の切実な言葉は対象的だ。
死、家出、逃避、母親殺しといったテーマを「もう一つの生へ向かっていく」ものとして同一線上に布置する指摘は鋭いと思う。

「もう一つの生へ向かっていく」ことを、「逃げる」こととどう峻別するのか。
回避的であることは、いつかどこかで行き詰る。
「ここよりほかの土地」を探し続ければ、終いには「ここ」にいられなくなることが目に見えている。
「『生の苦しみから自由になる』というのでは敗北の自由であることに変わりがない」(p.71)から、それは違う。
何もかもが余剰な時代で、独立してあろうと試み続ける思春期の心性に、寺山は焦がれ続けたのであろうか。
逃げ癖がすっかりついてしまった自分を言い当てられた気がして、どきりとした。

ちなみに、寺山にとっての自殺とは、なに一つ不自由がなく、必然性のない、「事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死」(p.70)であるという定義を読み損なってはいけない。
そしてまた、寺山は、自殺は少なからず他者を傷つけてしまうものであることをよく認識している。そのことを記した自殺学入門の後記、平仮名の多い文章が、本書の中で一番印象深く、かつ、胸に迫った。

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさを感じる。(中略)じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをきずつけたり、ときには殺すことになる。(後略)(p.87)

2011.10.25

復興の道なかばで:阪神淡路大震災一年の記録

復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録 中井久夫 2011 みすず書房

本書は『昨日の如く:災厄の年の記録』を再編集したものである。
再読に近いわけであるが、しかし、なかなか時間がかかってしまった。
散発的に発表された原稿の寄せ集めであるため、重複が多いこともあるだろうし、軽々しく読み流せない内容であることもあるだろう。

1995年2月、筆者は神戸を離れて東京に行く。阪神淡路大震災の後、一ヶ月弱。その二つの都市の様相の違いに愕然としつつ、筆者はもしも東京が被災した場合を想像する。
2011年3月11日の東京は、そこにいなかった私には、帰宅難民という言葉が思い出されてならない。
そのときの街の様子を、数人の友人達から教えてもらったが、ぞっとすることも多かった。

東京に住む友人達は地震に遭い、しばらく恐怖心や不眠に悩んだものであり、そのことを軽視するわけではない。それらはあれだけの地震に遭えば当然予想される反応だ。
こうして、この本を読み返してみると、阪神淡路の体験者と言えども、今度の震災は想像を超える事態だったことが感じられる。
現実は想像を超えるということに、改めて圧倒される思いがした。

同時に、被災の中心地と周辺部では、様相が異なることは、阪神淡路もであるが、東日本大震災でもいえたのではないか。
「被災の中心地には悲しみと嘆きとがあったが、周辺部にはつかみどろこのない不安と抑鬱があった」(p.92)とあるように、東日本大震災でも、当日は確かに混乱しているという点で一様に見えたが、死者の多かった県と、その他の関東地区では、その後の経過にずれがあったように思う。
最初の一週間、二週間において、中心地では生命の安全の確保が最優先されたが、周辺部では生命は一応安全ではあるからこそ混乱と不安と抑鬱が中心地に先立って問題となっていたように思われた。

今回、この本では救援者支援の必要性が強調されていることに気付いた。
阪神淡路大震災後、自殺が目立ったのは、老人と支援者だったという。
そういえば、私が支援者支援に心惹かれるようになったのも、この本からだったのかもしれない。
あとがきは、ロサンゼルス視察の記録ともに、東日本大震災後に書かれたり、手を加えられている。
これが阪神淡路大震災の一年の記録であるならば、東日本大震災の一年目はまだ終わっておらず、その意味でも想定外を補う想像力を助けてくれるであろう。

PTSDは、障害としてマイナスの意味だけを帯びるのではない。「ひとごとではない」という連帯の意識を呼び覚ます力にもなる。(p.86)

クルドにもこの意識がもたらされますように。

それにしても、九州地区からの支援はなぜか食事と結びつけられている。
地域として食い意地がはっているんだろうか。もしかして。と、ちょっと冷や汗。

2011.10.23

つなみ:被災地のこども80人の作文集

文藝春秋 8月臨時増刊号 2011

原稿用紙に書かれた不ぞろいな文字。
ひらがなも多く、文章もまだ整っていない。
幼い子どもであっても、地震と津波は目こぼししなかった。

名取市、仙台市、東松島市、石巻市、女川町、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市、釜石市、大槌町。
2011年3月11日の地震と、続く津波がなければ、これらの地名にこれほどまで見覚え、聞き覚えができることがなかっただろう。
私が住んでいる土地は、東北地方からは離れている。

幼稚園児や保育園児から高校生までの80人に地震の記憶を作文に書いてもらい、集めたものだ。
成長した子どもの文章はさすがに読みやすいし、真に迫る。しかし、たどたどしい幼い文章もまた却って胸が痛む。
現地にいなかった自分は映像でしか知らない体験が、彼らには、音があり、温度があり、においがあった。
一夜を過ごした教室の寒さ、1日パン1/4枚でしのいだ空腹、家族が迎えにくるまでの心細さ。
テレビを消せば目の前から忘れられるものではなく、その瞬間を過ぎても続く、引き伸ばさた体験である。

子どもに関わる教育、福祉、医療の領域に携わり、かつ、その場を体験していない者にとって、将来に渡る貴重な資料になるであろう。
しかし、できれば、せめて、匿名や仮名にすることはできなかっただろうか。
被災はなんら恥じる体験ではないが、しかし、体験をさらけ出すことの痛みもまた心配になったのだ。
清水將之によれば、子どもたちがさまざまな不調を呈するのはこれからかもしれない。幼ければ幼いほど、自分の体験を理解し、整理するのは後になるであろう。よい子であれば、周囲の大人を気遣うあまりに、我慢もしていよう。
これを書いた子どもたちと、その背後にいるもっとたくさんの子どもたちが、必要な支援を受けられているように祈る。
彼らのこれから先が少しでも穏やかでいられるよう、私にできる支援と準備もしていきたい。

2011.10.22

天と地の守り人(1)

天と地の守り人〈第1部〉 (軽装版偕成社ポッシュ) 上橋菜穂子 2008 偕成社

間があいた分、世界を、登場人物を思い出すのに、少し時間がかかった。
『バルサの食卓』を読んで、シリーズを最後まで読み終えようと思って、手に取った。
読み始めてしまえば、引き込まれるまで程なかった。

舞台はロタ。再び主人公はバルサになり、訃報が伝えられたチャグムの足跡を追う。
チャグムは王子として国の興亡をかけた政治的駆け引きの只中にいる。
一方、バルサは、用心棒としては知られていても、市井の人間に過ぎない。なんの権力もなく、特別な力もない。軍勢を持っているわけではないし、財産を持っているわけでもない。
ただ一人の、少し、加齢を感じ始めた女性だ。

また、バルサの知らないところで、バルサが守りたいと願っているはずのタンダは徴兵され、アスラらのいる町も戦争となれば被害は免れない。
誰も彼もが巻き込まれていく。
戦争は、津波に似ている。
個々の事情を忖度せずに、わけ隔てなく襲い掛かり、飲み込むのだ。
でも、天変と異なり、戦争は人為的な災害であるからこそ、避けうる可能性もあるはず。

無力なのに、でも、何かをせずにはいられない。
無事がわからない。心配や焦燥や不安で、胸がきりきりと締め付けられるように痛む。
手遅れになるのではないか。すべては無駄になるのかもしれない。それでも。
バルサとチャグムのたった二人の挑戦の行方は、次巻である。
誰もが幸せになってほしいなぁ。

愛がなくても喰ってゆけます。

よしながふみ 2005 太田出版

マンガです。

よしながさんのマンガが好きで買い集めたうちの1冊。
お店紹介というか、グルメエッセイというか、ひたすら食べまくるショートショート集。
取材の前に写真を撮ろうと思っていたはずなのに、気づいたら食べ終わっていて撮り忘れているのはよくあること。

主人公のYながさんが、これまた美味しそうに食べるから、つられてしまいそうになる。
なぜかお化粧すると、すっかり別人のYながさん。三十代の独身女性。後輩や友人はたくさん。
結婚の話題が出るときはちょっぴり切ないんだけれども、特に何も起きない。ひたすら食べ続ける。
同居人のS原氏をはじめ、数々の登場人物にしんみりさせられることもあるけれども、とりあえず食べ続ける。
愛がなくても食べてはいけるけれども、愛にもいろんな愛があるわけで、シェアする人がいてこそ、ご飯がますます美味しくなると思うんだけど。

紹介されているお店は東京の西のほうが多い。
山手線の外側で、中央線沿い。
地方在住者としては、紹介されているお店で実物を味わうのは難しいが、いいなぁと垂涎のお食事がいっぱい。
6年前の出版につき、すでに閉店したり移転したりしているお店もある模様。
ガイドブックとしてではなく、グルメエッセイとして読むのが正解。

この品数、私は食べきれなさそうってことに、さっき読み返していて気づいた。
食べても食べても太らない人が羨ましい……。

愛がなくても喰ってゆけます。 愛がなくても喰ってゆけます。

著者:よしなが ふみ
販売元:太田出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2011.10.04

バルサの食卓

 上橋菜穂子・チーム北海道 2009 新潮文庫

レシピ集、兼、料理エッセイ。
「守り人」シリーズを全部読んではいないが、長く積んでいた山から、薄そうな本を引き抜いたらこれだった。

お料理にはカラーで写真と、簡潔にレシピが書かれている。
自分で作るのはちょっとハードルが高いのだけれども、どれもこれも美味しそう。
架空の世界の物語が、姿かたちだけでなく、味とにおいと温度を伴って眼前に現れる。
これって、もう、魔法じゃないかい?

それぞれのお料理が出てくるシーンが引用されており、再び、物語世界そのものを味わいたくもなった。
「獣の奏者」はまったくの未読であるが、「守り人」シリーズや「狐笛のかなた」の登場人物たちが懐かしい。

上橋作品の登場人物たちは、ちゃんと傷つくし、疲れるし、老いる。なくしたエネルギーを補充するのが、ご飯だ。
体を温め、心を落ち着かせる。美味しいご飯の数々に、過酷な運命に翻弄される登場人物たちは慰められ、力づけられ、励まされてきた。

また、料理ごとに書かれた著者のエッセイが面白いのだ。
料理に限ることなく、著者のエッセイをもっと読んでみたいな、と思ったぐらい、フィールドワークでいろんなことを見聞きされており、興味深かった。

自分のイメージしていたものと違っていたものもあるかもしれない。
その違いもまた面白いんじゃないだろうか。
違っていたとしても、やっぱり美味しそうであるし、再現できるものなら味わってみたいと思うのが人情だと思う。
レシピがわからないなら推測で補いながら、材料が手に入らないならそれっぽいのを集めながら、料理本ではない本を片手に料理するのも一興。
そんな遊びをシェアしてくれる仲間に恵まれたら、ぜひ挑戦したい。

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