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香桑の近況

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2011年2月

2011.02.27

時が滲む朝

時が滲む朝 (文春文庫)  楊逸(ヤン・イー) 2011 文春文庫

中国の民主化とは。
中国にとっての民主化とは。
時勢に押されるように手に取った本だ。
作者は中国で生まれ、留学を機に来日し、在住している人である。
天安門事件から北京五輪まで。
中国に対する私のイメージも徐々に変わってきている感じがする。

1988年から物語は始まる。
主人公の父親は北京大学出身だったが、50年代の反右派運動に巻き込まれ、西北の黄土大地の貧農村で家庭を持った。
主人公の浩遠が、秦漢大学に進学するところから物語が始まる。寸暇を惜しんで勉強する大学生の生活は、華やかなりしバブルを享受していた日本のそれとは大きく隔たる。
学生たちは理想に燃えているからこそ、ゆっくりと学生運動に傾いていく。
彼らは官僚の汚職と腐敗に反対しただけだった。「国家興亡、匹夫有責」のスローガンのもと、愛国者であろうとしただけだった。

座り込む学生に、人々が軍用コートを届け、肉まんを差し入れする。
その光景に、驚きを禁じえなかった。
奥の人々が応援していた活動であったのか。
そのくせ、天安門事件のその後、人々は手のひらを返す。
学生たちの失意はどれほどであっただろうか。
『レ・ミゼラブル』にもこんな場面があったことを思い出す。

民主化とは何か。革命とは何か。
何が国のためであるのか。
国を愛するとはどういうことか。
学生たちは何をしようとしていたのだろうか。
何をしようとしているのか、はたしてわかっていたのだろうか。
ひるがえって、日本人の中にこのように悩むことができる人がいるだろうか。
それぞれの国は、一体どちらへ向かおうとしているのだろう。

正直なところ、中国に対してはあまりよい印象を持っていない。
冬の終わりがけから初夏にかけて、空気が白くかすみ、濁る。
以前ならば黄砂であったが、今は違う。
目を刺激し、鼻や喉の粘膜を刺激し、アレルギー様の症状や、軽い喘息のような症状に悩まされる。
政治のことは私が語るには難しすぎるが、薄汚い青空を見上げれば、あきらめまじりの嘆息が出る。
この空気のために、中国が嫌になる。
この季節、飛行機に乗ればどれほど空気がよどんでいるが可視できるし、よその土地に行けば空の青さや光の眩しさに驚く。
海を挟んだ私の住む土地でこれだけ苦しいのであるから、中国の空気の汚れのもとになっているその場所での大気汚染はいかほどであるか。
そこに住んでいる人は、いかほどの思いを抱えているのだろうか。

ニュースを見るにつけ、中国はすさまじい勢いで変化しているように見えて、なかなかそれ以上の変化が難しい国のように感じる。
その難しさを改めて感じることができた一冊だった。そういう重たさがある。
イーユン・リー『千年の祈り』と共にあわせて読むことを勧めたい。
それと同時に、国境を越えて、輝かしい青春時代から、やがて家庭を持ち、成熟した大人になるプロセスを描いた瑞々しい小説として、爽やかさもあった。

 ***

兎にも角にもお腹には不満以外何もない、餃子をお腹に入れたければ、先ずその不満を出さないことには爆発してしまう。国運を大前提、家庭運を小前提にして、個人は迫害される運命以外に選択肢のない悲劇のヒーローを演じ上げていく。(p.130)

2011.02.03

私は売られてきた

私は売られてきた (金原瑞人選オールタイム・ベストYA)  パトリシア・マコーミック 代田亜香子(訳)
2010 作品社

ネパールからインドへ売られてくる少女は、毎年、約1万2千人。
世界的には年間50万人近い子どもが性産業に売られている。
タイも有名だが、カンボジアもまだまだ悲惨だ。
売られていく子ども達の数は、市場拡大を示しているのではない。
同等数の子ども達が、市場で消費されて市場から脱落していることをも示しているのだと思う。
虐待によって、病気によって、あるいは、自死を選ぶ子どももいるだろう。
言い換えれば、殺されていく子ども達の数であるのだと思う。

この本を知ったのは、書評か、なにか本を紹介する番組だったと思う。
世の中に悲惨なことは多すぎて、生活の中で触れる悲惨が充分にありすぎるので、この手の本は避けることが増えていた。
でも、なんだか、惹かれたのだ。
読んでみたいと思った。
母親をアマと呼ぶ少女。アマはノアの箱舟のノアの妻の名前だった。読むときが来た。
読んでみてよかった。

ラクシュミーという女神の名前をもらった少女。
たった13歳。でも、売られる少女の中では最も若いというわけではない。
売られる。叩かれる。閉じ込められる。レイプされる。更に売られる。
教育で洗練されてはいないが、彼女には知性があり、理性があり、深い情感があり、プライドがある。
新鮮な驚きを示し、学習することに喜びを見出す。母親を愛し、かすかな恋に胸をときめかせる。
少女の活き活きとした感性や、しなやかでたくましい、ヒマラヤの山のように誇り高い姿が印象的である。
その姿が、たとえどのような体験をしたとしても、その人は汚されることなくその人のままであることを教えてくれるのではないか。
彼女の魂が壊れる前に救い出されてよかったとほっとするような結末だった。

この子が育った環境では、情報も限られており、社会も限られていた。
大人を信じて喜んで売られていった彼女の世間知らずを責めてはいけない。
責められるべきは、彼女を売った継父である。
酒やギャンブルの楽しみのために、わずかな金のために少女を売り払った男である。その金がなくなれば、次は何を売るつもりなのか。
彼女達が生還したことを恥だと思ってはならない。あるいは、やましさから追い返す人もいるだろう。
恥ずかしいのは、少女を売ったことを忘れて、少女を買ったことを隠して、自分達だけは清いと思っている人たちのように思う。

『サンダカン8番妾館』を思い出した。
売買春は、昔からあった。今も各地にある。
だからといって、ありふれたものとして受け流すのは違うと思う。
自分の体しか売るものがなかった人を侮辱してはならない気が、私はする。
同時に、買うしかどうにもならない人を非難するのも、私は難しさを感じている。
でも、売られた少女を買うのは別だ。他者を売り、他者に売られた人を買うのは別だ。その人は売られて、買われて、自ら売っているわけではない。そこに能動性のひとかけらもない。
痛ましい気持ちと腹立たしい気持ちとがずっしりと残る。この重たさが、私に次に私がすべきことを探させるのだろう。

短い章立てで、漢字にはルビを振られており、主人公と同年代の読者にも提供できる。
どれだけ何を感じるかはわからない。でも、読んで、知っていて欲しい。
世界にはこんな少女達もいることを。こんな営みに加担しないために。

 ***

思い出そうとするのは、わずかな霧をつかもうとするものなんだな。忘れようとするのは、モンスーンを押しとどめようとするものなのだ。(p.92)

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