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2011年1月

2011.01.31

シアター!2

シアター!〈2〉 (メディアワークス文庫)  有川 浩 2011 メディアワークス文庫

にーちゃんが帰ってきた!
金回りが悪くてつぶれかかっていた劇団シアターフラッグの、2年間で300万円を返そう、という物語の続編である。
帰ってきたのはにーちゃんだけじゃないけど、鉄血宰相と再びまみえたのは嬉しい。

今回は文庫に一層の厚みもある。
それだけに、登場人物の個々のエピソードが多かった。
それぞれに恋愛模様がうごめいている。うまくいきそうな人たちに、うまくいかなかった人に、まだ決めかねている人たちに。
誰と誰が、なんて、無粋なネタばれは、ここではしないぞ。
劇団のひとりひとりに物語が用意されており、前作では影が薄かった人だって、存在感をもって現れる。
唯一、秦泉寺だけが存在感が薄くなったような気がしないでもないが。

前巻では、300万円の借金に対し、3万円の黒字をたたき出したところで終わった。
たたき出すという表現には3万円の金額は小さすぎるかもしれないが、それも精一杯の結果だった。
会場が火事にあうようなハプニングは繰り返されないにしても、期日までに間に合うのか、それぞれの不安や緊張がある。
2年後に劇団をつぶさないように。そして、2年後のその先もやっていけるように。
「好きだから」の一言で夢を見続けていた劇団員達が、実現可能性という現実に目を向けていくプロセスが描かれている。
それは、夢が破れたというようなネガティブなものではなくて、夢を夢で終わらせないたくましさや頼もしさになっていくだろう。

今回、にーちゃんの出番は決して多くはなかったが、にーちゃんのひそかな変化に、にまにま。
誰もかれもを応援しつつ、次巻を待つ。

あ、ひとつだけ、気になったところを追記。関西弁だ。作者も関西圏在住であるが、関西内でもエリアによってヴァリエーションがあるので、なまじ自分が関西に住んでいたことがあるだけに違和感が。地方の言葉を文字にするのって難しいな。

2011.01.24

世界は終わらない

世界は終わらない  チャールズ・シミック 柴田元幸(訳) 2002 新書館

世界は終わらない。
私がこの言葉を言うのと、著者が言うのでは、きっと意味が違う。
世界は終わらない。
神を信じていない世界の私が言うのと、神を信じていた世界を知っていて失った著者が言うのは、きっと違う。
そう思ったのは、もう一冊の「世界はおわらない」がノアの箱舟に取材していたからだ。

実は、間違えて買っちゃった本なのだ。
ジェラルディン・マコックランの小説「世界はおわらない」を買うはずが、著者名を知らなかったばっかりに、こちらを買ってしまった。
手元に届いたら詩集だったので、間違いに気付いた。
こちらのタイトルは「The World Doesn't End」で、小説は「Not The End of The World」だから、違いがあるのに。
小説のほうを改めて注文してから、届く前に読み始めた。
でも、このタイトルの意味合いを感じ取るには、小説を読んでからのほうがよいだろうと気付き、レビューを書くのを後回しにした。

詩集の感想って難しい。
散文詩、それも、シュールレアリスムの。日本語に翻訳されたもので。
このシュールさは、「自分という牢獄から逃れるため」(p.25)の戦略だ。
冒頭に作者の解説があるが、そこに、「象徴を読み込んだりする必要はない」「みんな文字どおり受けとめてくださればいい」(p.26)と書いてあり、そのように心がけて読んだ。

シミックの詩は、短編小説のような趣があった。
前半はわかりやすい流れが、途中でひねりが加わる辺り、起承転結の転を感じる。そこが俳句にも似ている気がした。
一つ一つに物語が膨らむような世界が用意されている。
同時に、連作小説のように、全体で一つの世界を築いているようにも読める。
ユーモラスで、皮肉。ありきたりのものの中に、戦争や死がまぎれこんでいる。
どうにもくだらないことやみじめなこと、いやなことがいっぱいの世界。
その世界の中で嘆きながら、それでも人は生きている。
「かつて私は知っていた、それから忘れた」(p.76)。
あるいは、誰かの苦しみなど知らないように、世界はただある。

もうひとつ、解説の中で興味深く思ったのが「不眠症」だ。
不眠症といえば、プラトンとレヴィナスを連想する。
死は夢のない眠りだと言ったのがプラトンならば、レヴィナスは死すら与えられない苦しみを不眠症に見た。
レヴィナスのそれがアウシュビッツの記憶につながるように、シミックのそれもユーゴスラヴィアの戦乱につながっているのだろうか。
多分、つながっているのだ。この死の気配の濃密さ、当たり前のように日常生活の中に死を見出している感覚は。
助けを求めても誰もいない。神々はもういない。それでも、世界は終わらない。
終わらないから、約束されていたはずの救済もない。やっぱり神はいない。
空っぽの部屋、窓の空いた部屋が、残されるだけ。

 ***

僕の守護天使は暗がりが怖い。怖くない
ふりをして、すぐ行くからと言って 僕を先に
行かせる。じきに なんにも見えなくなる。
「ここって、天で一番暗いところかも」と誰かが
僕の背後でささやく。聞けば彼女の守護天使も
やっぱりいないという。「ひどい話だよねえ」と僕は
彼女に言う。「あいつら卑怯な臆病者よ、あたしたちを
ほったらかしにしてさ」と彼女はささやく。そしてもちろん、
よくわからないけれど、僕はすでに百歳かもしれず、彼女は
眼鏡をかけた眠たい少女でしかないかもしれない。(p.69)

2011.01.23

世界はおわらない

世界はおわらない  ジェラルディン・マコックラン
金原瑞人・段木ちひろ(訳) 2006 主婦の友社

ノアの箱舟という惨劇。
世界の終りのような大洪水。
世界が終らないために選ばれた家族と動物たち。
聖書で語られていない物語は、なんとも言えない苦々しさに満ちている。

ノアと、その妻アマ。長男セムと、その妻バセマト。次男ハムと、その妻サライ。三男ヤフェトと、その盗まれてきた妻ツィラ。そして、記録されなかった末娘ティムナ。
新約聖書の最初、マタイによる福音書の冒頭を見れば、よくわかる。
ユダヤの文化では、誰が誰の息子であるか、それだけを記録する。
だから、娘の名前は残らない。その娘が主に物語を語る。
ライオンやヌーやワタリガラスが語ることもある。
アマやバセマト、ツィラやヤフェトが語ることもある。
しかし、ノアは決して語らない。

大洪水の日。
どうして、隣人を助けなかったのか。それは罪ではないのか。
どうして、動物を一つがいずつ選べたのか。群れで生きる生き物もいるのに。
どうして、彼らを世話しえようか。専門知識もなく、十分な食料も、空間もなく。
どうして、どうして、自分たちだけが選ばれたと、神の意志を知りえようか。
どうして?とささやく声は、はたして悪魔の声か。

人のやることって、どうしてこう不完全なのだろう。
よかれと思ってしていることも、そのほかの生き物にとっては大きなお世話かもしれないのだ。
後世から見たり、第三者の目から見ればナンセンスなことが、当の本人は気付かずに、至極真面目だという、不条理。
どうしようもない愚かさに、胸が悪くなる。
災害直後の極限状態の描写でありつつ、そこには様々な家族関係の問題を、問題を抱えた家族の在り様を端的に描いている。
箱舟に閉じ込められた動物たちの騒音と悪臭に自分も飲み込まれたような、ざらついた感触がした。

世界は終わらない。
このタイトルは、読み始める時と読み終えた時では、どれほど響きが変わることだろう。
ティムナの出会いと変化は、ネタばれになるので書かないが、閉塞する世界を打ち破る力を感じてほしい。
たとえ人が滅びようとも、再生は繰り返される。自然には逆らえない。

世界は終わらない。Not the End of the World.

 ***

親切心は、人間のきまぐれだ。おさえることはむずかしい。暴力や欲望のように。(p.279)

2011.01.16

のぼうの城(上・下)

のぼうの城 上 (小学館文庫) のぼうの城 下 (小学館文庫)  和田 竜 2010 小学館文庫

武州忍城。
別名、浮き城。
荒川と利根川の間に挟まれた湖上に浮かぶ島々。
その島々に城郭や武家屋敷群が築かれ、橋で繋れている。
城主は成田一族。
その城攻めを豊臣秀吉から命じられたのは石田三成。

読み始めてから慌てて調べたが、これは実際にあったお城であり、この小説は史実をもとにしている。
下巻末には主な参考文献も付されているが、著者がフィールドワークも行って様子が文中からうかがえる。
資料の記述を交えて著者自身の所感が挿入され、これがまったくの架空ではないことを裏付ける。
そのあたり、時代(劇)小説とは違う、歴史小説らしい重みがある。

時代や状況、人物の把握に序章から1章が費やされる。
とはいえ、解説も簡潔にとどめられており、物語の流れをいっさい損なわない。むしろ、無駄がないと思われた。
余計なことを一切省いて、物語の筋そのものを読ませる。そんな小説だった。

本当に、この人がのぼう様? 眉根をんーっと寄せて、首をかしげてしまう。
のぼう様こと成田長親はよくわからない人なので横に置いておくとして、彼をとりまく丹波、和泉、靭負、おまけで甲斐姫らは魅力的だ。
百姓たちの農作業の風景もいい。その百姓たちも活き活きとしていて、田舎の小さな所領の平和な景色がとてもいい。
その平和を、所領を、人々を、どうやって守ればいいのか。

1章まで読み終えれば、あとは一気読みするしかない。それぐらいの勢いに飲み込まれる。
歴史の筋書きが変えられることはないが、手に汗を握るような興奮と緊張がある。
寄せ手の石田三成、大谷吉継、長束正家らは後の関ヶ原まで生き残る、ネームバリューもそれなりにある顔ぶれだ。
それに対して、成田勢といえば誰に死亡フラグが立っているのかすらわからず、冷や冷やしながら祈るように読んだ。
ネタばれはしたくない。とにかく読んでほしい。そういう本だ。
解説を読むより、本当に読んだほうが面白いって。

この本は、職場近くの本屋さんにずっと店頭に置かれていた。
時代小説が割と充実しているがとても小さな本屋さんで、単行本もすぐに入れ替わるのに、ずっとずっと置かれていた。
余程お勧めなのだろうかと思っていたら、この本は直木賞候補になり、本屋大賞2位になる。気付いたら文庫になっていて、映画化までされるという。
読むなら映画になる前だろうと思い、ついに買っちゃった。
評判にたがわず、面白かった。久しぶりの一気読み。この人のは他のも読みたくなった。

2011.01.06

ツクツク図書館

ツクツク図書館 (MF文庫ダ・ヴィンチ)  紺野キリフキ 2010 MF文庫ダ・ヴィンチ

筑津区にある。だから、ツクツク図書館。
でも、そこの入り口には、ただ「図書館」とだけ書いてある。
ツクツク図書館の噂は誰もが知っているけれど、誰もが行ったことがあるわけではない。
むしろ、利用者はごく少ない。
そこは、つまらない本しか置いていない図書館だ。

なんとなく買っていた本だったが、同じ作者の短編「とげ抜き師」を読んだことをきっかけに、こちらを積読本の山からすくいだしてみた。
この本の世界には、魔法がある。魔法は当然のようにあるので、登場人物たちは誰も驚かない。
読み手にも、魔法を自然に受け止められる人のほうがいいように思う。
ファンタジーは読み手を選ぶ。

ツクツク図書館は、本の分類も一風変わっている。
「雨に打たれた女学生の部屋」だとか「子どもにはまだ早い部屋」だとか「積ん読の部屋」だとかあり、その部屋にあわせた本が配架されている。
本を並べるのは《戻し屋》の仕事だ。
そこに置かれている本は、しかし、つまらない本ばかりである。つぶれた出版社やつぶれた本屋、あるいは、普通の民家から拝借された本ばかり。
本を集めるのは《運び屋》の仕事だ。
そして、雇われ館長がおり、所蔵されている本を読む係りがいる。あらゆる言語を駆使するが日本語だけがわからない語学屋もいる。
スタッフも、仕事も一風変わっている。月に一度、嫌な仕事もある。

本と切っても切り離せないのが猫である。なぜか、犬ではない気がする。
この本の中にも一匹の猫が出てくる。その猫をめぐるストーリーは明確には語られない。
なぜならば、言葉を憶える代わりに記憶を失っているからだ。猫の脳みそはとても小さい。
この猫が一番魅力的な登場人物だったと思う。読んでいる私は切なくなったけれども、この子はきっと幸せなんだろう。それがまた切ない感じ。
この猫に向けた最後の一言で、主人公の着膨れした女性のムカつく感じもおさまった。
魔法はやがて終わりを迎えるかもしれないが、でも、違う物語が始まるかもしれない。

誰にも読まれない本なんて、悲しすぎるじゃないか。
学生の時、大学図書館で見つけた埃まみれの古い本を思い出した。
19世紀に出された洋書で、ページをペーパーナイフで開きながら読まなければいけなかった。
要するに、全部が袋とじのように綴じてある、古い本だったのだ。
その姿自体が貴重に思えて、司書に確認を取ってから、ページを切っていったのであるが、私がそうしなければならないということは、100年以上、その本は誰にも読まれずに図書館の隅に置かれていたことを示していた。
今、読まれていないからといって、未来も読み手が現れないとは限らない。
いつか読み手が現れるときのために、本はひっそりと待っている。
それが、本の文化だと思う。

 ***

きっと言葉というのは理屈ではないのだ。耳を澄ませて相手のことを芯からわかろうと務めればきっと理解できる(p.108)

2011.01.04

好き、だった。:はじめての失恋、七つの話

好き、だった。 はじめての失恋、七つの話。(MF文庫ダヴィンチ) (MF文庫ダ・ヴィンチ)  ダ・ヴィンチ編集部(編) 2010 MF文庫ダ・ヴィンチ

ネット書店で先送りにしては品切れになるのを見ていた。
これ以上、先送りにすると本当に手に入らなくなるかな?と思って購入。
アンソロジーはあんまり好きではないので、つい後回しになってしまう。
一番の目的は有川さんだったが、せっかくなので全部読んだ。

  有川 浩「失恋の演算」
双子の兄弟と、兄の恋人の三角関係。
うん。なんかね。
短編だと、ぎゅーんと持ってかれる感じが少なくて、さらっと読めちゃう。
双子って、そんなものなのかな。どうなのかな。
有川さんって、どろどろした恋愛を描くのは得意ではないのかな?と思っちゃった。
綺麗な「手に入らなかった恋愛」の話。

  朝倉かすみ「ノベライズ」  
よくできた小説のような恋愛をした女友達と、小説にならないような恋愛をしている主人公の小説。
どちらの恋愛も不倫なのであるが、相手男性が妻帯者であることを「それでも構わない」と思うか、「そんなの構わない」と思うか。
自分がその人の生活の伴侶となることを欲しなければ、構わないと思いうる余地ができる。
花川に対する卯月の忸怩たる思いが、よく描かれていた。

  梨屋アリエ「Fleecy Love」
恋していたのは友達に、だろうか。それとも、恋に恋していたのだろうか。
思春期の同性同士の極めて親密な交流と、その終わり。
ふわふわとした雲のように、地に足のつかない日々。
こんな年頃の、こんな時間もあったよなぁ、と遠い目になる。
「好き、だった。」というタイトルに、この作品が一番ぴったりだった気がする。

  石原まこちん「タマママーンを探して」
マンガ家の主人公。売れていないマンガ家なので、ほとんど自称マンガ家。
家の中では肩身が狭い。妻が稼いで、自分は子どものお世話。せめて、子どもの前ではヒーローでありたいものだけど。
得意な作風じゃないけれど、知り合いのイメージが重なって、にまにましながら読んだ。
もうしばらく、パパには娘のヒーローであってほしいよね。

  吉野万理子「マリン・ロマンティスト」
コンパクトにまとまっている軽い恋愛小説であるが、品がないなぁと残念。
40代も終わりがけの社長が主人公だ。社員旅行で来た海辺。
二十四歳の若い女性社員に対して、社長と若手の男性社員が性的な対象としてみなしている場面が不快だった。
どうせ社長はふられるのだし、目くじらを立てるほどのことではない、という人もいるかもしれない。
けれども、うさぎさんを読んだ後で読むと、これを女性が書いたことが残念に思った。
そんな風に男性からの視線で性化される気持ち悪さを、この人は感じないのかな、って。

  紺野キリフキ「とげ抜き師」
なんとも不思議な物語だった。魔法の匂いがする。
恩田陸の『エンド・ゲーム』を思い出した。
不思議な職業の一族がいる。彼らの生業はとげ抜き師。
そのとげを抜くのはうまいほうがいいが、うますぎてもいけない。
この世界をもうちょっと覗いてみたくなった。

  宮木あや子「はじめてのお葬式」
泣いた。
どうも、こういうのに弱い。
これも、ちゃんと、「好き、だった。」物語。
パズーのラッパの音を思い出しながら、しんみりと読み終えた。
この曲にも思い出がいくつかあるのを思い出した。
何年も前に行ったソウルの戦争記念館で、閉館を知らせる音楽に使われていたこと。
まだ付き合う前、恋人の着信音がこの曲で、可愛いなぁと思ったこと。
主人公のさっぱりとした気性を、この選曲だけで表しているところがすごい。

2011.01.02

愛という病

愛という病 (新潮文庫)  中村うさぎ 2010 新潮文庫

週刊誌に連載されたエッセイを集めたもの。
2006年から2010年にかけて書かれたものだ。
したがって、私がこれまで読んできた本の中と重複する文章も散見する。
『「イタイ女」の作られ方』を読んだ人には、あわせて読む必要はないかもしれない。もともとの論の原型を読むことはできる。

しかし、メディアに対する批判はこの本がこれまでに増して厳しく痛快である。
名付けて「オヤジ原理」。「『欲望に負けた男より、男を欲情させるような服装やしぐさを見せた女のほうが悪い』という男性特有の屁理屈」(p.174)のことである。
不倫騒動でも女性が被害者の事件の報道でも、「欲望に負けた自分を正当化するために、女を悪者にして逆ギレする『オヤジ原理』」(p.174)が働いていると看破する。
あるよねー。こういう報道。
セカンド・レイプを起こすのも、こういう思考が内在化されている人だろう。
オヤジ原理は男性がすべて有しているわけではないし、女性が内在化していることもあることを、うさぎさんは自らの内側にもゼロではないことを認めつつ、描き出す。

男女の非対称を、二元論的に語っているかと思えば、時々まぜっかえすから思い白い。
その辺りが著者自身の姥皮であろう。自らは「オカマ女」と称したりもする。
どっちつかずであることは、どちらにも与しうるということであり、どちらにも紛れ込むことが難しいということである。
その女性らしい女性に、母性をためらわずに引き受けるような女性になりきれなかったひっかかりが、著者を突き動かしているように見える。
愛し、愛される自分でならなければならない限りは、母性を引き受けて恋愛の舞台から降りることは難しい。
産まない性を選んだ先達の思索は、私にとっては参考になる。似たようなことで悩む日もあるからだ。

「言葉のDV男」や「似非セラピスト」の「どちらのタイプも、女を壊すだけ壊しといて、手に負えなくなると放り出す」「自分はマトモだと思ってるから、反省もなく同じことを繰り返す」(p.86)とあるが、そういう男がいたなぁ、と遠い目になった。
異性に嫌われる(=暴力をふるわれる)ことが怖くて、過度に迎合的になりうることは、なかなかわかってもらえないことだ。
ナウシカ・ファンタジーは私にも多少はあったし、異性関係にぎこちない若い人にはしばしば見られる気がする。
「子を産む性」としての義務を果たさなかった事に「罪悪感」や「不全感」を抱いていたときもあった。
うさぎさんの取り上げるトピックは、いちいち、我が身に引き寄せて嘆息をついたり、苦笑したりしたくなる。

私自身は、随分ともがくことからは楽になった気がしている。そのプロセスにおいて、うさぎさんの著書からもヒントをもらった。
なぜ、女性は「愛し愛される事」に固執するのか? その固執が幸せを阻んではいないだろうか。
その問いの先にうさぎさんが見つける答えを、私はまだ待っていたいと思う。

そういえば、うさぎさんがよしながふみさんのマンガ『大奥』の感想を書いていた。
吉宗編は口当たりのいい、いわばツカミ。家光や綱吉の2人が骨頂だと思われる。
家宣も魅力的な人物であったが、私は綱吉が一押しである。
再生産を強いられる存在であること、女性であることの一致と不一致。
うさぎさんが読んだら、どんな感想を語ってくれるのだろう。

読み終えたのは大晦日だったが、うさぎさんだから卯年最初のレビューに丁度いいだろう。

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