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2010年10月

2010.10.20

ばかもの

ばかもの (新潮文庫)  絲山秋子 2010 新潮文庫

ばか。
この言葉に愛情をこめて、呼びかけにもちいる。
ほかの人が、その人に同じ言葉を言ったら怒る。
それを言ってもいいのは自分だけだ。
たとえば、母親が子どもにささやくように、微苦笑を孕ませながら紡がれる言葉は親密さに満ちている。

まさに、ばかものの物語である。
ばかだけど、ばかはばかなりに生きていくしかないではないか。
どんなにばかをやってきても、それでも幸せになりたいではないか。
どうしようもなく不器用で、もどかしいぐらい臆病で、愛想も尽きそうなときもあるけれど。
でも、愛してしまった。

学生だった主人公男性は、長じてアルコール依存症になる。
今日と明日のあわいを酒で溶かし込んでブラックアウトを図る。
限りなく落ち込んでいくような有様の描写は卓越している。
その上、冒頭から描かれる性行為など、作者が女性であることが不思議になる。
男性が読んでも違和感がないんじゃないかと、女である私は推測するしかないのである。
その見事にアクチュアルな描写に支えられて、気がつけば物語にのめりこむ。

それでいて、絲山作品では、ふっと不思議ななにものかがかすめていくことがある。
『海の仙人』のファンタジィのように、この本の想像上の人物のように。
孤独な人の魂に、絶望の淵から後戻りさせてくれるかのように、そうっと希望を吹き込むなにがしかが現れる。
そして、胸にずんと来るような台詞と出会うのも、絲山作品だ。
小説の魅力、物語の威力を感じる。私は、やっぱり、小説が好きだ。

「だって、友達だけだよ。一緒にいられなくても信じてあげられるのって」(p.187)

遠くにいる友達を思い出した。自分が通り過ぎてきた日々を思い出した。
今も仲の良い、私にいつも光を投げかけてくれる友達を思い出した。
今は縁が遠い、かつて私に喜びや励ましをくれた友達を思い出した。
どちらの友達も、普段は一緒にいなくても、多分、信じている。

私は彼を忘れない。
私は彼を迂回する。
迂回するのは、忘れていないからこそ。
憶えているからこそ、そこを避ける。
憶えていたいからこそ、そこを避けているのかもしれない。
今の彼はあの時の彼と違うから。
あの時の彼を覚えているために記憶は更新しない。
不在は、不在だけは、永久を孕むから。
同時に不在になりきれない縁もある。
そして、今はそばにいる、切れそうで切れず、結ばれた縁の恋人を想う。

そもそも、人ってばかな生き物だから。
だから、愛しくて愛しくて、ばかものって言いたくなるのだ。

史上最強の哲学入門

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)  飲茶 2010 マガジン・マガジン

熱いなぁ。表紙が。
哲学入門書の中では浮きそうな……。
でも、哲学者は格闘家みたいなものだという前提には納得する。
武器は己の肉体の代わりに己の思考、拳の代わりに舌先三寸をもって、高みを目指す。
そのスピリットは、確かに格闘マンガと通底していると言って過言ではない、と私は思う。
論文なんて口喧嘩と似たようなものなんだから。

そういう格闘マンガという、個々の対決をメタ・ストーリーに組み込んだ形式を採用したからこそ、思想の歴史の流れを感じることができる。
砕けた口調、身近なたとえを用いた、内容的には至極まっとうな哲学解説書だ。
一読して頭に入るぐらい、かなりわかりやすく、イメージしやすく、32人の男たちの思想が紹介されている。

惜しむらくは、もうちょっとコンセプトを活かしてもよかったのではないか。
たとえば、格闘ゲームの解説書のように、各キャラのステータスやらパラメータを評価して、特技なんかも紹介しちゃったりとか。
いや、いっそ、格闘のようにもっともっと絡めてみようよ。仮想の空間で議論させてみたらいいじゃん。
……なんてことを要求したら、書く人はとても大変な思いをするだろうけど。

誰の哲学が史上最強か。
そこは各人に触れてもらいたい。

やっぱり、私は哲学が好き。
ぐだぐだうだうだ考えるのが好き。
答えなんて出なくともよい。
この与えられた能力を使っていたい。
考えるのをやめるのではなく。
そういう病なんだよ。これは。

2010.10.13

考えない練習

考えない練習  小池龍之介 2010 小学館

読み終えて一週間以上経ったが、まだ考えている。
この本の感想、どう書いたものか。
こうやって考えること自体が思考のノイズだと著者には批判されそうだが、しかし、私にとっては考えることもまた味わうことであり、手離しがたいものである。

「感じる」と「思う」と「考える」の使い分けが難しい時がある。
英語では日本語よりも使い分けがなされているように思うのだが、そのニュアンスを翻訳する時に困る。
外界の刺激からなにものかを感じる。想念が思い浮かぶ。情緒が揺れ動く。そして、思考する。
この本で遣われている「考える」と、私の「考える」はどうやら違うらしい。そこに思い至るまで、馴染みづらさを感じた。

内省と内観の文化の違いがあるんじゃないか、などと、考えてみる。
内省というのはreflectionだ。反省的思考ならreflective thinking。
これは自分自身を鏡に映すかのように振り返る思考のことであり、刺激に対して反射的に思考する意味ではない。
私にとって「思考する」というのは、自律的な、能動的な、積極的な営為である。
だが、この本で扱われている、タイトルの「考えない練習」にある「考える」は、それが勝手に思い浮かばれるもののような、私なら想念や思念といった言葉をあてそうな、思考の材料になるような考えに過ぎない。
つまり、この本はおおむね、セルフ・モニタリングの勧めであり、一種のCBT(認知行動療法)である。

勝間和代と対極にありそうで、似たような匂いを感じるのは、なぜだろう。
例や説明を読みながら、あれもこれも、そんなにネガティブに解釈しなくてもよかろうに……と思ったりもした。この人は、皮肉屋さんなんだろうか。
ならば、著者は、どういった人を念頭に置きながら書いたのだろうか。
おそらく、不安に駆られやすい人、被害的に物事を受け止めやすい人や他責的になりやすい人、まだ「自分は自分」という安定感を育てきってはいない人になるだろうか。想像するなら、20代から30代前半のヤングアダルト層だろうか。
気になるところ、苦手なことに関わる方法を試してみるのはいいのではないかと思う。
「食べる」項目は過食嘔吐の人に役立つかもしれないし、「捨てる」ところは強迫傾向の高い人に参考になる気がする。
なにかに依存しやすい人にとっては、自分と対象、自分と自分自身の間に「間」を設けるこのような技術は有益だろう。

でも、全部を自分だけで試そうとすると、しんどいんじゃないかな。
徹底したい人、あるいは著者が述べている自分が変わっていくような体験を望む人は、専門家の門を叩くことを勧めたい。
というのも、自分の試していることが適切であるかどうか、自分で判断することは難しいからである。最初は他者がモデルになるし、他者のモニターがあるほうが行動の修正がしやすいからだ。
自分自身と対峙する時間は、それがつらく感じる可能性を孕む。ゆえに、見守る他者がいるという安心感、刺激が統制された環境の持つ安心感がある中で、挑戦するほうが望ましいと思うからである。

個人的には巻末の対談は面白かった。
どうやら、私は科学の言葉のほうが馴染み深いことがわかった。ほっとした。
多分、著者も実際に会って話すのと、本を読むのでは、印象が違うんだろうな。

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