2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010.08.31

ランナー

 あさのあつこ 2010 幻冬社文庫

スポーツ小説らしい爽やかさを期待しながら、読み始めた。
走ることの美しさ。自分の中の余計なものを振り払い、剥ぎ取りながら、小さな自我の核となる快感。
そして、失敗。再びスタートに立つことへの恐怖感。落ち着かない家庭環境の中での悲壮感。誰かに頼ったり甘えたりすることができない孤立感。意地を張るしかできなくて増してゆく無力感。
絶望感が席巻する。それでもなお、あきらめきれない。
読みやすい文章であるし、主人公の碧李の息詰まる心情は、少年を描きなれている作者らしい。
やはり主人公の碧李と同じ年頃の、高校生ぐらいの読書感想文に最適なのだろうか。

だが、途中から、あさのあつこが女性の書き手であることを強く意識させられた。
女性のどろどろとしたものを、ひどく、そこだけ浮き立ちそうなほど、手ひどく、塗り込めて描く。
陸上部のマネージャーの杏子の、主人公の母親である千賀子の、その情念が際立って生々しく、物語が進むにつれて主人公がかすみそうなほどだ。
杏子の初恋は、既に性的な匂いを孕む。少女ではなく、女性になろうともがく杏子の色気の描写をいささか過剰に感じた。
千賀子の嫉妬と憎悪は、更に根深く、ほとんど碧李の息を止めようとしている。浮気して離婚して去っていった元夫への恨みは、元夫の弟夫婦の娘で千賀子の養女である杏樹への虐待という形を取る。
杏子と、友達感覚での密着を暗に要求する過干渉な母親。千賀子と、娘に過剰な理想化を要求する、やはり支配的な母親。そして、杏樹と、娘に思わず虐待という形でしか関われず、母親になりきれない千賀子。
この3つの母娘関係が、碧李の影を薄くする。

愛しているはずなのに愛せない。
愛しているはずなのに愛されない。
これは本書の大きな主題であるが、そういった束縛という形でしか愛情を描けないのだろうか、と、かなり悲しくなった。
束縛はそもそも愛情ではないと思うし、そういう前提を用いるからこそ、束縛やしがらみを振り切って走り出そうとする碧李が、冷淡に見えかねない。
そこで、最後にもう一度、杏樹が呼び出されたのだと思う。つまり、束縛ではなく、愛情を再度、呼び戻したのだと思う。
元夫という不協和音のもとを排除して、碧李、千賀子、杏樹の三人で家族を再構築する可能性が示唆される。
ただ、私はそこも不満があったところなのだ。
虐待はそんなに簡単に終わらないし、片付かない。
殴った後に抱きしめれば済むって問題ではない。

そこを踏まえると、この本を、どれぐらいの世代の人に勧めていいものか、困惑する。
少なくとも、スポーツが主題の小説と思って読まないほうがいい。
辛口評価で申し訳ないが、アクチュアリティが薄いと思ったのが第一印象。田中雅美氏の解説によってようやく補完されているような印象が残った。

2010.08.27

ストーリー・セラー

ストーリー・セラー  有川 浩 2010 新潮社

覚悟をしてからではないと、この表紙を開いてはいけない。
白地に青いリボンがかけられた、物語を売る人からのとっておきの贈り物だから。
特別な人に贈る、物語だから。

同名の雑誌に掲載された小説が、Side A。(雑誌掲載時の感想はコチラ
それに対を成すSide Bをあわせて、完全版として出版された。
Side Aについては、雑誌掲載時に号泣した。泣いて泣いて、読み直しても泣いた。単行本になって、もう一度読んで、やっぱり泣いた。
泣くのがわかっているから、一気には読まなかったけれども、泣くのは変わらなかった。
途中までは大丈夫だったんだけど、あの手紙を読んだらなぁ。
夫婦の情愛の濃やかさに、しんみりと心を動かされる。

そして、Side Bもやっぱり泣いた。
ただ単に立場をひっくり返しただけではない。
同じモチーフの、しかし、まったく別の物語だ。
対になった二つの物語は、どちらも対の物語だ。
けれども、どんなに強い対でさえ、永遠ではない。
わかっていても断ちがたい、強い強い憧れを見る。
いつまでも、二人で一緒にいたいという、ささやか願い。
それは途方もない願いになる。

Side Bを読んでいて、思いだした小説家がいる。
作家と、すい臓がん。ただそれだけの組み合わせが珍しいかどうかわからない。
親族のがん闘病の記憶と共に、『ガン病棟のピーターラビット』を思い出したのだ。
私の勝手な連想であるが、栗本薫/中島梓さんへのオマージュを感じた。
いまだ、『転移』は読めずにいる。

これまで著者の後書きやインタビュー、ブログなどを読んできたファンなら、これらの物語に描かれている夫婦は、作者本人の夫婦と容易に重なりあうだろう。
夫婦という対に憧れを持つ私には、ちょっと痛いときもある。パートナーとは仲良くしておこう……。
それでもなお、このような夫婦像は親密で素敵で、高らかに誇る姿勢がよいと思う。

まるで、作者から夫に宛てたラブレターだ。
同時に、読者にとってはミステリになる。
幾重にも仕掛けられた罠に、読み手は問わずにいられない。
「どこまで本当なんですか?」

2010.08.26

盗人の報復:ヴァルデマールの絆

盗人の報復―ヴァルデマールの絆 (C・NOVELSファンタジア)  マーセデス・ラッキー 澤田澄江(訳) 2010 中央公論新社(C.NOVELS)

最近のラッキーの主人公は、がんばる男の子が続くなあ。
エルスペスの相棒で、後にナイアラの恋人になる、名脇役。
個性派揃いの〈使者〉の中でも、特異な前職と特技を持つのが、この主人公のスキッフだ。

スキッフが〈使者〉になる前、貧しい地域でこき使われていた子ども時代から話は始まる。
いかに〈使者〉がいたとしても、乏しく貧しく険しい生活が首都ヘイヴンの中にあり、ヴァルデマールが理想郷ではないことを作者は暴くのだ。
国の提供する最低限の教育と食事を頼りに、細々と生き延びるしかない子ども達。
虐待される。搾取される。陵辱される。弱者が恐れなくてはならない危険は多い。
生き延びることは、生半なことではない。生き延びるための技術があれば、大人になれる可能性が増えるかもしれない。

スキッフを拾い、生き延びるための技術を学ばせた、ベイジーという老人がなんといっても印象的だ。
戦争で両足を失い、身の回りの世話する手を必要としている男だ。ベイジーは少年達を集めてはささやかな教育と保護を与えて、盗賊の技術を与え、代わりに少年達の収入を頼る。
ベイジーは、「友達は自分で選べる家族だって」(p.100)というスキッフの言葉に涙ぐむほど、孤独な境遇にあった。
この共同生活は、家族のような温かさのある魅力的なものに見えてくる。しかし、いつまでも続かないことを、読者は予感してしまうのだ。

スキッフがキムリーに選ばれ、〈使者〉訓練生として〈学院〉で生活するのが物語の後半だ。
そこに出てくる人たちには懐かしさを感じた。
〈君主補佐〉はまだタラミールであり、学監はエルカース。テレンは既に教育係だ。
ジェイダスの名前が出てきたり、クリス、ダーク、ジェリといった顔ぶれも登場する。
タリアの物語「ヴァルデマールの使者」のシリーズと大きく重複する、しかし、ちょっと時間を遡った顔ぶれと思えばいい。
中でも、今回の大活躍はアルベリッヒだ。アルベリッヒにこんなに台詞が多いのも、初めてのような気がした。

少年が復讐の無意味さを学んでいく過程は、苦い。
復讐を志すほどの悲劇があり、その悲劇を購えることはないという事実がある。
けれども、少年は〈使者〉になる。
その苦い世界を、ほんの少しでもよりよいものにするために。

2010.08.18

太陽神の司祭(上・下):ヴァルデマールの嵐1

太陽神の司祭 上 (ヴァルデマールの嵐1) (創元推理文庫)  太陽神の司祭 下 (ヴァルデマールの嵐1) (創元推理文庫)  マーセデス・ラッキー 山口 緑(訳) 2010 創元推理文庫

ヴァルデマールがついに〈東の帝国〉と対決するのか。
カースと同盟を結び、ハードーンのアンカー王がようやく倒れた。
〈隼殺し〉のモーンライズもこの世から消えた。
エルスペスや〈暗き風〉ら、魔法使い達の戦いの、その後の物語が三部作で始まる。

主人公となるのは、カースからヴァルデマールに派遣された使節の書記。
若干16歳の少年カラルだ。
今まで謎に包まれていた敵の一つであるカースは、太陽神を信仰している。
レスウェランと戦っていたこともあった。それはケロウィンの物語だったか。
信仰の壁と国境の壁に隔てられて、お互いがお互いに見知らぬ悪魔と思って戦ってきた。
実際にカラルが物心がついた頃のカースと、物語時点でのカースは大きく変貌している。
宗教的指導者が変わってから改革が進み、今までの常識が通用しなくなりゆく社会で育ってきた。

その戸惑いは、たとえば、明治期の日本人のものかもしれない。島崎藤村の『桜の実の熟する時』に見られるような。
あるいは、あらゆる戦後の国々において、あるいは、大きな政変後の国々において。
生きている間に社会の大きな変動、時には正反対なものに価値観が振れる瞬間を体験する人はいる。
私は、カンボジアで出会ったガイドさんを真っ先に思い出した。ポル・ポト派の時代を生き延びた人。教育を受けていた思春期と、大人になってからの現在では、違う思想や価値観のもとに生活している人だ。
その変化が、よりよい、穏かで平和な、恐怖による支配からの脱出であると実感する時、既得権益の少ない被支配の立場にあったものにとって、どれほど解放を感じることだろう。

王が斃れた混乱に乗じてハードーンに攻め込んだ〈東の帝国〉は、前線の内側の制圧したはずの地帯で生じるゲリラ戦に悩まされる。
正規の軍隊ではなく、一般の人々が抵抗する。戦おうとすると、彼らは一般人に戻ってしまう。〈東の帝国〉の支配を既存勢力からの解放として喜んで受け入れるはずだった人たちが抵抗する。
戦争のありようそのものまで変わり行く世界。そこもとてもアクチュアルではないか。
いまや、軍隊と軍隊の間にだけ戦闘が行われるとは限らない。正規兵と一般人の区別が曖昧になり、何をもって勝利と敗北を決定付けるのかも不明瞭だ。
そのために、終わりが見えない戦闘状態になっている地域が、地球上に複数あるように思われる。
独裁者を殺したら終わり。そんな簡単なものではない現状を、ラッキーはまさしく物語世界にも反映させている。

だからといって、ラッキーの目線はヴァルデマールを絶対化してはいないし、ヴァルデマールをアメリカと同一視しているわけでもない。
カラルという異国人の目から見ることで、ヴァルデマールが新たに語られなおされる。そういう点では、異邦人の目線を導入することは、便利な物語手法である。
その手法を使いながら、ラッキーは繊細なバランス感覚で、カラルのナショナリズムをヒューマニズムにまで育てていったように思える。
カラルは自分の両親を愛し、自分の師を愛し、自分の属する世界と共に異国を受け入れ、どちらも等しく、あるいは、国名は無関係に思いやりながら、より大きな困難に立ち向かう勇気と共感性を持つようになる。
そう。立ちはだかる困難は、〈東の帝国〉だけではない。もっともっと大きな問題が差し迫りつつある。

カラルはタリアに似ている。ヴァニエルよりも、もっと素直で一生懸命で、こちらも素直に応援したくなるような魅力ある主人公だ。
そのカラルと一緒に成長をしていくもう一人の少年がアン=デシャである。
傷ついた心は、魂は、癒されることがあるのか。
その過程は、やはり作者の心理療法への造詣をうかがわせる緻密で、揺るぎのないものであった。
登場人物の傷つきがやわらぎ、回復と成長を見せるとき、読者の傷つきも幾分やわらげられているのではないだろうか。

〈ヴァルデマールの風〉三部作は、エルスペスと〈暗き風〉、ナイアラとスキッフらのロマンスに少々うんざりしてしまっていた。
しかし、今度は再びラッキーの骨太な世界観が復活したように感じて、読んでいて嬉しかった。
更に、〈ヴァルデマールの風〉では、魔法対魔法の大戦争の趣を呈していたが、今度は魔法以外の力もまた注目される。
何も特別な力を与えられなかったとしても、自分の持てる力で戦え。それぞれの力を振り絞って戦え。
それぞれの戦い方がある。決しては、人は無力ではない。

私は愛について思う時、ラッキーの紡ぐ言葉に学んだことが多いと思う。
ウルリッヒがカラルに贈った言葉を、私は自分のためにとっておこうと思った。

「心が痛むときには、自分が何者かを思い出せ。ひとりの人の愛は得ていないかもしれないが、多くの人に愛されるのだということを思い出すのだ」(下 p.269)

2010.08.12

星間商事株式会社社史編纂室

星間商事株式会社社史編纂室  三浦しをん 2009 筑摩書房

主人公の幸代のように大企業に勤めたことはないが、非常勤で閑職に就いてしまったことがあり、その場にいなければならないが居場所がないという居心地の悪さなら覚えがある。
忙しい人に申し訳ない気持ちを抱えながら、片身を狭く廊下を歩く。それが毎日の職場だとしたら、ちょっと胃が痛い。
その毎日を乗り切るためには、自分の根っこや幹になる、他の何かが必要になる。

書くという作業に憧れたことがある。
目指すというより、それが息をするように自然にできていた頃がある。
それで食べたいと思ったことはないし、今はむしろ億劫であるが、言葉を綴ることが私にとっては大きな意味があったことがあった。
想像力はやがてさび付いたが、その頃を思い出しながら読んだ。
書くという作業に支えられていた、あの頃。

書くという作業を、共に分かち合う仲間がいた頃でもあった。
よかれあしかれ、それが文字であれなんであれ、その人となりが出てしまうものである。
自分の人となり、心の奥底にあるもので見透かされても平気な、信頼できる仲間達がいてこそ、書くという作業は成り立ちやすくなる。
共に書き、あるいは、味わう仲間は特別である。

しかし、幸代は20代後半の独身女性であり、学生時代から三人の仲間でサークルを作ってきたが、一人結婚し、また一人……となると、どうしても心穏かではいられない。
結婚しても趣味は続けられるか。結婚しても友達は続いていくか。
その前に、自分はこのままでいいのだろうか。
そんな人生の悩みと同時に、幸代の職場で謎解きを待つ問題がゆっくりと持ち上がってくるのである。
なぜか、職場で同人誌を作ろう!という大問題と共に。

楽しく読める。幸代やその上司の同人誌の原稿もところどころ差し込まれており、そっちの展開も気になっちゃう。
すずなちゃん@Bookwormの言うとおり、『ロマンス小説の七日間』と似ていたかな。
人様から借りた本なのに、随分と長く手元に置いてしまった。
今度こそ、きちんと返そう。

2010.08.03

スマッシュ×スマッシュ!

スマッシュ×スマッシュ! (徳間文庫)  松崎 洋 2010 徳間文庫

一生懸命である人に触れると、その情熱が伝染することがある。
はたから見たら綺麗事に見えるかもしれないが、情熱は確かに移る。
その情熱をわけてもらいたくて、人はスポーツを応援するのではないか。

だからと言って、それを小説にするのは、難しい。
ハッピーエンドにすれば、御都合主義に見えるかもしれない。
かといって、アンハッピーエンドになれば、読後感を損なうかもしれない。
応援する選手やチームには勝ってもらいたいと願う人の心に寄り添うならば、予定調和のほうがまだましだ。
だって、夢物語なのだから。夢を見させてくれなければ。

スポーツ選手の練習も試合も過酷なもので、とてもとても、スポーツは健康のためにいいなんて言っていられるものではない。
古傷を抱えている選手は多く、誰も彼もがぎりぎりのところで戦っている。ワールドカップだってオリンピックだって、よく見れば、体のあちこちにテーピングをしている選手は多いのに気づくだろう。

この本の主人公は、肩を痛めたテニス選手。一度は得た評価を失った選手が、再び世界に挑戦する物語だ。
これは簡単なことではない。肩を痛めてなくても、普通に大変である。なにしろ、日本と世界のレベルの差はかなり大きい……。
主人公の勇太がメンタル面でも成長して行く契機になったのが、不登校になった小学生の颯人をコーチするという体験だ。
颯人はアスペルガー症候群と診断されており、その辺りの描写もよく勉強されていると思われた。

高校生ぐらいの人の夏休みの読書感想文にお勧めしたいな。
頑張っても叶うともしれないのが夢だけど、頑張らなければ叶うことはないから。
だから、そんな夢の力を感じて欲しい。

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック