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香桑の近況

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2010年6月

2010.06.28

なりひらの恋:在原業平ものがたり

なりひらの恋  三田誠広 2010 PHP研究所

なりひらって……。
何度、溜め息をついたことだろう。
こんなにへにゃへにゃ男子じゃ、だめーっ。
ぐだぐだのうだうだのヘタレっぷりに、がうがう吼えたくなった。
しっかり男子がたまにヘタレるのは好物だけど、四六時中ヘタレているのはだめなのよ……。むきーっ。

「業平ではなく、なりひら」。(p.273)
作者の意図したところは、伊勢物語のエピソードと歴史的事実をすりあわせながら、「伊勢物語に『むかし男ありけり』と語られた伝説のプレイボーイの物語を、軽く、楽しく展開」(p.273)することだ。
その通りに、予想以上にさっくりと読み進むことができた。肩肘の張らない時代ものの恋愛もの。感情移入しながら読めるぐらいに、読みやすい小説だ。
歴史的な事実や人名を把握していなくとも、十分に説明がなされており、気にせずに小説として楽しむことができる。もっと把握しておきたい人には、巻末に系図も用意されている。
この時代の貴族で色男となると、当然のように和歌が出てくるが、それもわかりやすい現代語に翻案されて詠われており、すんなりとやり取りを味わうことができるだろう。
伊勢物語には手が出にくいという人にも、これならすらすらと読めることは間違いない。

ただ、あまりにもあんまりなのだ。なりひらが。
なんで、こんなにヘタレなのー。あうあう。
こういう男の子っているよね、現代にも。
顔がいいだけで、血筋もいいけれども没落決定の家系に過ぎず、身分はなく、お金はそこそこあるかもしれないけれども、意欲ははなはだ低い。
これでどうしてもてたんだ?と思っていたら、噂先行だと本人が嘆く。誘われたら断れないだけで、でも、続ける気も無いから浮名だけが残る。
厭世的というか投げやりというか後ろ向きで皮肉屋さん。女心をちっともわかっとらーんっっっ。
そのなりひらの、一番の恋の顛末は、残念ながらハッピーエンドとはならない。
なりひらの人生もまた、ハッピーだったと言えるのだろうか。言えないよね。

我が身の不遇も軽やかにいなしてしまうほどの、低意欲。
いつまで経っても、成熟や老成という言葉とは無縁の、どこか無邪気で憎めない造詣。
その不器用さが、愛しく思ってしまったのは不本意だが。
だが、無常感をそこはかとなく感じてならなかった。
気の毒な人である。

驚いたことがひとつ。
古文で習った東下りの段。若さゆえの恋の過ちの尻拭いかと思いきや、意外にも意外、わりと中年になってからのことだったのね。
最後まで、恋に生きた男性の物語であり、そのトホホっぷりを御堪能あれ。

2010.06.21

日本国憲法前文お国言葉訳:わいわいニャンニャン版

日本国憲法前文お国ことば訳 わいわいニャンニャン版  勝手に憲法前文をうたう会(編) 岩合光明(写真) 2010 小学館

ひとめぼれ。
平積みされた猫写真に目が留まったものの、惚れ込んだのは中身だ。
この企画、いい。
思いつきに惚れ込んだ。

あなたは日本国憲法を読んだことがありますか?
改憲/護憲を話しあうその前に、憲法そのものを読んだことがありますか?

高知の女性が思いついて、ブログやフリーペパーでお国言葉訳を集めた。
お国言葉にするプロセスで、それぞれが前文を理解する。咀嚼して、自分の身近なものにひきつけて、憲法について考える。
思いつきも素敵だけど、思いつきだけで終わらせない。
そこがとってもはちきんで素敵。

どんな表現になるのか。
自分の馴染みの言葉は音声として再現できるし、発音やイントネーションがいまひとつわからない言葉もある。
5年間で90以上。全都道府県網羅。
と言っても、一つの都道府県内でも地方によって言葉は変わる。著者(編者?)も書いているが、世代や年代によっても変わる。
幾つか集まったものの中からどれを選ぶか、どんな訳にしていくか。
その裏話もいくつから書かれており、そこも面白くて温かい。

あっちは? こっちは?とページを繰るうちに、日本国憲法前文を憶えてくる。
逐語で丸暗記するわけじゃないけど、そのスピリットがじわわーっと染みわたってくる気がした。
声に出して、読んでみた。次から次に読んでみた。
そのうち、涙が出てきて自分でもびっくりした。
すごく強い祈りのように、感じたから。たくさんの祈りを感じたから。本当に、心と涙腺にじわわーっときた。

疲れたら、猫の写真で和む。この辺りのバランス感覚も日常的でいい。
美人さんとは限らないけれど、お国言葉に合わせた各都道府県の普通の猫たちだ。
愛媛のこは何やってんのーっと笑いたくなったし、沖縄のこはナイス前足。
京都のこの後姿の貫禄。寝姿はどの子もこの子も、知らずに微笑が浮かぶ。
彼らがのーんびりとしている景色って、平和じゃない?

私は第9条も含めて、今の憲法が好きだ。
視野が広くて、理想と誇りを感じさせる文章だと思う。
古い言葉の凛としたたたずまいも好きだったりする。
好きで悪いか。平和で悪いか。
私の読書も猫とのお昼寝も美味しい御飯も、この憲法に守られているんだけどな。

いわゆる護憲とか改憲とか、立場に分かれた運動を離れて、読んでもらいたい。

道徳という名の少年

道徳という名の少年  桜庭一樹 2010 角川書店

豪華であやうい。
野田仁美による装画や挿画に惹かれて手に取る人もいるだろうが、私は桜庭の小説だからこそ手に取った。
ちょっと皮肉な文章を書く、この小説家が、タイトルに道徳とつけるなんて。
どんな風に裏切ってくれるのか、楽しみになる。

およそ6世代になるか。
町で一番の美女から始まる不道徳の歴史だ。
ある者は娼婦になり、ある者は姉弟で愛し合い、ある者は夫の父親と愛し合い、ある者は人と愛し合うことができず、ある者は愛に出会う前に死ぬ。
世代を重ねるごとに、愛する者との距離が疎遠になっていく。
愛する営みすらできないほどに疎遠になると、その一族は滅びるほかない。
不思議なことに、彼らの一族は人目を引くほど美しいが、どうやら愛し愛されると醜くなる定めらしい。

美しくて残酷。
そんな御伽噺の形式美を踏襲している。グロテスクで、ブラックで。
耽美的になりそうでいて、むしろどこかユーモラスに感じてしまうのは、登場人物たちのネーミングであったり、その醜さの描写であったり、緊張をどこかで緩める装置があるからだ。
少女達のエロティックなイラストによる過剰な演出でさえ、かえってユーモラスに思えてくる。
独特の雰囲気を作り上げることに成功しており、是非ともにんまりと黒い笑いを浮かべながら読んでもらいたい。

20世紀の初頭から現代にかけての、フランスあたりを思い浮かべながら読んだが、しかと文章に時代と地域の設定がなされているわけではない。
御伽噺のように、昔話のように、想像に任せて読めばいい。

2010.06.18

ダーティ・ワーク

ダーティ・ワーク (集英社文庫) (集英社文庫 い 66-1)  絲山明子 2010 集英社文庫

「誰しも、かけられたい言葉を音楽に求めるときがある。」(p.36)

あっさりと見抜かれてしまう一文にしびれる。
切れ味が鮮やかで、悔しいぐらいに、すとんと腑に落ちる。
絲山さんの小説のそんなところが、忘れられない一冊になっていく。

『ダーティ・ワーク』は、7つの短編が収められている。
それぞれがストーンズのタイトルにインスパイアされているそうだが、私にはよくわからない。
ただ、そういう短編集なのだろうと思って読んだ。
読んでいたら、ひっくり返った。
構成が巧妙なんである。

これは、多少のネタバレになる。
最初の3つは、別々の人物が独立して語られている。
それぞれ、口調も色調も違う、3人の人物。
共通しているのは、パートナーシップというテーマだろうか。
ほかに共通項が見つけられずにいたところ、4つめの短編でひっくり返った。
まさか、登場人物に相互に関係があるとは。
別々に用意されていた縦糸に、俄然、横糸が絡みつき、一枚の模様を織り上げていく。

これってあの人?
あれがこの人だよね?
一つ読んでは、ページを戻して、前の短編の中に名前を探してみる。
ああ、ここがこう繋がるんだ。ほえー。
そういう作業を何度も繰り返したくなった。
どこがどう繋がってくるのか、後半になるほど楽しみになる。
映画『マグノリア』を思い出した。単なる短編集ではなく、そんな群像劇になっている。

そういう構成の妙もあるが、描かれている人物達の情緒や、物語そのものが魅力的だ。
彼らは、みんな一人だ。自分が一人であることをよくわかっている。
心で思う人がいたとしても結ばれえず、落ち着いた生活とやらに落ち着くこともできない。
誰かに関わりたい寂しさや愛しさと、誰かと関わってしまうことへの不安感やためらい。
一歩を踏み出す勇気が出ない、その片思いのような物思いを、登場人物たちは抱えている。

絲山作品は読み終えたあとに、余韻が長く響く。『海の仙人』がそうだった。
『ダーティ・ワーク』の余韻も、静かに落ち着いた、美しいものだ。
目を閉じて、余韻をゆっくりと味わいたい。とても素敵な小説だった。

2010.06.16

地雷を踏んだらサヨウナラ

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)  一ノ瀬泰造 1985 講談社文庫

若さが鼻につく。
そんなことがあるとは思わなかった。
まぶしいのではない。羨ましいのでもない。
なぜ、そこまでしなくてはならないのか、わからない。
ただ、嘆息したくなるような、若さ。

この人の名前に覚えはなかった。
書名は、どこかで聞いたことがあった。
アンコールワットに行くなら、旅行の前に映画を見ておいたほうがいいと知人に勧められたが、なんとなく本のほうを手に取った。
映画として演出される前の、生のものに触れたくて。

享年26歳。最後の記録が、1973年11月。
この手記は、1972年2月、カンボジアで従軍しながら写真を撮ろうとしている日々の記録から始まる。
この人は、生きていたら63歳ということか。
およそ40年前の、私が生まれる前とまでサバを読むわけにはいかないが、物心が着く前の記録である。年齢がばれるな。
手元にあるカンボジアのガイドブックを開けば、今もあるホテルが当時は廃墟のような状態になっていたり、ものすごく、微妙な感じ。
歴史と呼べるほど過去ではないが、リアルタイムの記憶はほとんどない。今の姿だけみていると信じられないような、だけど、さほど昔のことではない。
そのことを、まず、ここで戦っているのは誰と誰?と首を傾げたことの言い訳にする。

フランスから独立して、シアヌーク国王が立つが、今度はロン・ノルを筆頭にクーデターが起きる。それに対して、解放軍(クメールルージュ、共産軍、後のポル・ポト派)が台頭する。その戦いの中に、一ノ瀬らは飛び込んでいったのである。
インドシナ半島の中でこみいったことになっていたらしい。ヴェトナムやタイ、あるいは、中国やソビエト、アメリカ、ヨーロッパとも連動して世界は動いているのだから、簡潔に説明することは門外漢の私の手に余る。
調べてみても、記憶を掘り起こしてみても、カンボジアの悲劇といえばポルポト派が支配してからの虐殺の歴史であり、一ノ瀬はそれ以前に命を落としているのだから、これは前夜の記録だったこともわかる。
それでも、凄惨だ。
ここに出てきた人たちは、その時、その後を生き延びることはできたのだろうか。難を逃れ得たのだろうか。(その後、著者を主題にしたテレビ番組で、シェムリアップの友人の一人は1975年にポルポト派により処刑されたことを知った。)
それでも、人々の笑顔を写真に見出すことができる。生きている人だけが微笑むことができる。

写真をはさみながら、4つの章から構成されている。一ノ瀬の日記、手紙、母親や父親からの手紙の返事など、時系列に沿って並べられている。
1072年2月から7月までの1度目のカンボジア。アンコールワット観光で現在も有名なシェムリアップに滞在し、何度もアンコールワットに行ってみようとするが、阻まれる。戦闘はあるが、村の生活はどこか牧歌的であり、著者がまじわる兵士達にも生活感がある。
文章はそこはかとなく無邪気で、はしゃいでるような過剰さがある。性への欲求を過剰に感じるのは、当世の草食男子に見慣れたせいか、自分が女性の所為か。それだけではなく、過剰さは、自分が死ぬことなど想像していないような無謀な若さと、自分が危機に会ったときの純粋なたじろぎから、死への恐怖の補償であったり、躁的防衛であるように思われた。

カンボジア強制退去させられた72年8月から73年4月の一時帰国まで、一ノ瀬はヴェトナムで過ごす。ここで文章ががらりと変わった印象を受けた。
率直に言えば、一ノ瀬が「死」に慣れた感じがしたのだ。
どれだけの刺激にさらされたのか。どれだけの、どのような、死に触れてきたのか。一ノ瀬にとって、死はそこにあるものになり、心を揺さぶるものではないかのようだ。マヒしたような、無感覚のような、その冷たさや静けさが怖い気がした。
既に亡くなっている人の書簡集であるから、書き手が死ぬのは目に見えていても、それでも、近づく死の気配に嘆息したくなる。

一時帰国して姉の結婚式に出席した後、再び、一ノ瀬はカンボジアを目指す。
内戦はより激化し、政府軍は解放軍の前に後退を余儀なくされつつあった。
かつては戦闘の風景でさえ牧歌的であった風景は変貌し、カンボジアにとっての暗い時代の予感がますます立ち込める。
シャムリアップでも友人の結婚式に出た後、以前よりも芽の無くなった賭けに、それでも踏み出そうとする。
それが一人だけではなく、幾人かの人たちが試みたことを、どう捉えればいいのか。
ついで、写真に添えられたものか、未発表原稿が3つあるだけで、著者自身の言葉は途切れる。
文庫版の後書きとして書かれた、両親の手によるその後を読むことはつらかった。

私には手離しで褒め称えることはできない。無謀だとけなすことはたやすいが、それも違う気がする。
成果を否定することはしない。でも、理解することが難しい。共感することが難しい。
なぜ、ここまで駆り立てられたのか。
時代の価値観もあるだろう。学生運動の時代であり、戦争を知らないことが引け目のように感じられていたのかもしれない。
冒険心や万能感、あるいは、蛮勇と虚栄心、それとも、好奇心。
一番びっくりしたことは、たらいの中の氷水をまわし飲みしていたってことであり、一番ほっとしたのは、やっぱりお腹を壊していたってことだと言ったら、作者の人は拍子抜けするかな?
普通の背伸びしがちの無邪気な男の子が、人よりも駆け足で老成しようとしたかのような変貌が印象に残っている。

アンコールワットに続く道を行くとき、きっと思い出すんだろうなぁ。

2010.06.09

ジェネラル・ルージュの伝説

ジェネラル・ルージュの伝説 (宝島社文庫) (宝島社文庫 C か 1-9)  海堂 尊 2010 宝島社文庫

単行本が出版された時に迷って手を出さなかった本が文庫化されて目の前に並んでいた。
どうも私はジェネラルに弱い。つい、つられてしまったよーっ。

「伝説」には、『ジェネラル・ルージュの凱旋』『ナイチンゲールの沈黙』の二つの物語の過去が同時に語られており、にんまりした。
そりゃあ、一冊ずつでも面白いかもしれないけれど、この二つは私の中では切り分けられない双子の物語。
「伝説」は物語中の1991年。『ジェネラル・ルージュの凱旋』は2006年で、別視点から描かれた「疾風」も納められている。そして、2007年が舞台の「残照」。
全体を通じて高階院長の出番は少ないが、意外と猫田さんの出番が予想外に多くて嬉しかった。

私がこの本を手に取り、読んでいるのは2010年であるから、それからどーなった?ともう一つ先を読みたいと思ってしまった。
現実世界と混同しているわけではないけれども、速水という魅力的な才能が、物語世界でも過去の伝説になってしまうのが悲しい。
潜水艦のコックピットが、再び蘇る日はあるのか。

この本、ファンブックの作りになっていて、「海堂尊物語」という著者のライフヒストリーと「自作解説」がかなりのボリュームを占めている。
前者は2010年3月まで、後者は『アリアドネの弾丸』まで書かれているから、文庫化されるに当たり、一年半分を足されているのだろう。
『イノセント・ゲリラの祝祭』の会議の場面についての述懐に笑ってしまった。もともとがもともとだったんだ。そっかー。そうじゃなければいいと思っていたけど、やっぱりか。
また、後者には読書ブロガーへの意見も書かれており、こうして感想が書きにくいことこの上ない。とほほ。

自分なりに思ったこと考えたことを言葉にしようとしているのだから好きに言わせてよー、と抗弁してみる。
私自身にとっても、言葉を発したときから、受け取り方は受け取り手の自由になってしまうわけで、自分の意図を離れるリスクは仕方がない。
ましてや、密林の書評も、ここも、誰に見るなとは言えない場所だ。
気をつけよう。少しは気をつけよう。うん。できる限りは。特に誤字脱字。

正直なところ、海堂さんの小説は読みやすくて面白いけど、文章は皮肉っぽく感じて苦手なこともある。
手離しで大好きだとは言えない。それで、もう読まなくてもいいかな?なんて思っていた。
作品数がどんどん増えるので追いつかなくなったという、物理的、経済的事情もある。
けれど、「海堂尊物語」と「自作解説」で二重に、作者自身によるこれまでの作品の紹介を見ると、未読作品をなんとなく読みたくなってしまう。
うーん。困った。この本、危険だ……。

2010.06.08

韓国の食堂ゴハン

韓国の食堂ゴハン  島本美由紀・北村俊寛 2007 ピエ・ブックス

つい、こういう本を買っちゃうところ、自分は食いしん坊だなぁと思う。
ピエ・ブックスが出しているだけあって、写真がいい。どれもこれも美味しそう。

旅行のたびに、今度の旅は何回食事のチャンスがあるから、あれを食べて、これを食べて……と考える時間が一番長くて楽しい。
そういう人にぴったりの一冊。こういうのを夜中にぼんやりと眺めていると、旅に行きたくなる前に、お腹がすいちゃいそう。

ソウルを中心に、お料理ごとにお店も紹介されており、巻末にはいくつかレシピも載っている。
韓国に行き慣れた人には物足りないかもしれないし、ガイドブックともレシピ集とも違う趣がある。
たとえて言うならば、自分がいつか行った旅の写真アルバムを開くような気持ちになる。
友達の旅行記を通じて食の楽しみを幅広げるような、そんな感じ。

2010.06.06

脱!ちょいウツ:となえるだけで、スッキリする。

石野みどり 2006 経済界

くよくよしやすい人や、うつうつしやすい人にお勧め。
がっつりと抑うつ感があるとまではいかないが、日常での気持ちの落ち込みを感じやすい人には、自分を病気にしてしまう前に、こんな本から気持ちの切り替え方を増やしてみてはいかがだろうか。
そういう意味で、タイトル通り、「ちょいウツ」ぐらいの人にぴったりだと思う。
あるいは、不安になりやすい人や、きっちりしないと気がすまない人と言い換えてもよいかもしれない。

内容は、恋愛や仕事、性格など、人が困りそうな場面ごとに、思考や行動の対処方法が示されている。
また、冒頭にチェックリストがあるのが、その人のウツ具合によっても対処方法を示している点、対処の仕方は一つではないことを教えてくれる。
こういうことってあるある、と思えるだけでも気持ちが軽くなるかもしれないし、こんなことで悩む人もいるんだと思うと自分に対する客観性も増すのではないか。

ここで示されている解説や助言は、カウンセリング場面のシュミレーションにもなるだろう。
読んでわかったとしても、一人では思考や行動に変化を起こすのが難しいと感じたら、著者も勧めるとおり、カウンセラーと一緒に考えていくというのもあり、だ。
実用的な心理教育集だと思われた。

PCのデータが吹っ飛んだ時には、「まず思いっきり叫んでみよう」というアドバイスがいい。
うん。思わず、叫ぶよね。それしかないよね。

2010.06.04

聖☆おにいさん(5)

買ったきっかけ:
やっと手に入れました。
密林書店で数週間待ちの本と一緒に注文したものだから時間がかかりましたが、結局、近所の小さな本屋さんで見つけて購入。
リアル本屋さんで購入できるものはリアル本屋さん優先です。

感想:
気に入ったのは「ウリエルと阿修羅のタッグ制裁」と、解散コンサート。
カンタカも好きです。乗馬好きとしては、こんな馬さん、愛しすぎます。
今回、暗い?人が増えました。悪い人じゃないんだけど、素直じゃない人たち。
マーラにルシファー、ユダと、それぞれがいい味です。
……可愛いです。ダメな子ほどという、アレな感じです。
でも、うちでは甘酒に餅は入れないです。

おすすめポイント:
1コマめに元ネタの解説が入るのが定番になってきたようです。
まさか五巻まで続くとは思っていなかったのですが、続くにつれて元ネタもわかる人にしかわからないものも、当然、増えてくるのだと思います。
だとしたら、こういう前ふりがあると親切でいいですね。
今回もほのぼのとした気持ちになりました。
アガペーゲージ満タン♪

確実に職場内でも布教が広まっています。

聖☆おにいさん(5) (モーニングKC)

著者:中村 光

聖☆おにいさん(5) (モーニングKC)

2010.06.01

悲しきアンコール・ワット

悲しきアンコール・ワット (集英社新書)  三留理男 2004 集英社新書

この本を選んだのは、アンコール遺跡群についての本の中で、数少ない新書だったからだ。
これから旅行に行く人や、帰ってきた人が、アンコール・ワットの見所ポイントやレリーフの意味合いを調べるには不向きである。
遺跡が建築されていった当時の歴史や生活を詳しく知りたい人にも不適当かもしれない。王達の歴史を知るには、ほかの本を紐解くほうがよいだろう。
しかし、結果として、私はこの本から読み始めてよかったと思う。
ここには、アンコール・ワットを代表とするカンボジアの文化財が、どのように壊されてきたのか、今も危機に瀕しているのかが、書かれているから。
近現代のカンボジアと、周辺国との関係性を理解する一助にもなった。

内戦時代から報道写真家としてカンボジアを取材し続けてきた著者ならではの美しい、迫力のある写真も多い。
人が笑顔の裏側に隠すものをよく見てきたのだろう。著者は安易に人の愚かさをなじりはしない。
しかし、問題の根深さと大きさに、途方にくれたかのような失望感や歯がゆくてたまらない苛立ちが全体に漂っているように感じる。

この遺跡は、段階を経て壊されてきた。
13世紀頃、中国がカンボジアを真臘と呼んでいた頃の記録があるそうだ。アンコール・トムが、遺跡ではなく、王宮として、都市として生きていたことがうかがえる。
王達は隣国との戦争を経ている。そのたびに、戦勝品としてアンコールから仏像が持ち出されることはあった。また、版図の縮小に伴い、今ではカンボジアの国境線の外になってしまった遺跡もある。
15世紀に王達がアンコールを去ってから、略奪が本格化したという。シャムやビルマなど、誰もがそこに価値を見出した。
19世紀になり、ヨーロッパがアンコール遺跡群を再発見し、そこから、更なる盗掘と密輸の歴史が始まる。
その上、20世紀には内戦の舞台となり、砲火を浴びた。その間も、時間と自然が手を組んで、遺跡を風化させてきた。

もちろん、ものというものは、作られた時からいつかは壊れる運命を背負う。
王達が土地を去った時から、森が遺跡を飲み込み、土に返していくことが、それが自然な営みなのかもしれない。
それでも、見る人が魅了されるデヴァターの微笑、建築の優美、栄光の日々を守りたいという気持ちならわかる。
ただ、それを手元に所有していたいという気持ちは、私にはわからない。
対象がクメール美術かどうかは置いておけば、手に触れたい、いつも側においていたい、そういう欲求は私にもあるが、なんせ、管理能力が低いから……。整理整頓、苦手だし。
となると、大事なものほど手元に置いておいちゃいけない気がするから、私の所有欲は低いのだ。
何をコレクトしても、ほんと、大事にしないもんなぁ……。
行っても余計なものは買うまい。そう思った。

自然に飲み込まれるのならまだいいのだ。
一番、嫌なのは、バーミヤンの石仏のような、あえて人が壊すパターンだ。
盗掘と密輸は、人為的な破壊に他ならないではないか。
そうやって国外に持ち出してしまえば、いつかアプサラ達は尽きる。数には限りがある。
売るのはレプリカにして、本物を手元に置くからこそ、それを良好な状態で保存しておいてこそ、観光資源としてアプサラ達はカンボジアの人々に未来に向けて富をもたらす。
その10年先、100年先の未来を見据えることはできないのか。
観光客が押し寄せてしまっては、それはそれで遺跡の保存上、難しいことが起きるかもしれないが、他でもない地元の人にとっての宝物であってほしい。
切実な思いで、文化を守ろうとする人たちもいる。そこに希望と敬意を感じた。

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