2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

« 司書はなにゆえ魔女になる | トップページ | 片耳うさぎ »

2010.03.12

さりながら

さりながら  フィリップ・フォレスト 澤田 直(訳) 2008 白水社

さりながら。
然りながら。
去りながら。

言葉遊びをしたくなる。
借りたまま、どうにも手をつけられずにいた本に、ようやく呼ばれた。
私を手に取れ、そして読め。本が命じる。今だ、と。

子どもの頃の夢。「黄色」に覆われた世界で迷子になる。
人生は子どもの頃の夢の繰り返し、夢の実現にすぎない。
どこでもない場所へ。どこかに行ってしまいたい時に。
私自身がそんな気持ちに駆られ、ふらりと一人旅を、と言っても、たった一泊二日の、他府県の小さな現代美術館のカフェでちょっと贅沢な昼食を食べながら赤ワインをたしなむぐらいの、そんな旅から帰ってきたら、本に呼ばれた。

読み始めてから受けた講義が、呼び声のエコーになった。
私がこの本を読んでいる最中だと知らない講師が、まるで本を読み上げるかのように語り、私の中で二重奏に響く。
ここに、サルトルがおり、プルーストがおり、ベンヤミンがおり、クンデラがおり、マラルメがおり、レヴィナスがおり、先人たちの言葉が折り重なって透けて見え、圧し掛かる。
フロイトがおり、ユングがおり、クラインがおり、ウィニコットがおり、フェアバーンがおり、引き裂かれる私を包み込む時間と空間が提供される。
黄色の世界に、喪失しながら生きるしかないという人の営みを再び見出す。生き延びるしか。生き残るしか。
<私>は作者であり、私であり、ほかの誰ででもある。

作者は、パリから始まり、京都、東京、神戸と巡る。
小林一茶、夏目漱石、山端庸介の人生を巡る。
翻訳の日本語が端正で、もとから日本語で書かれたもののような肌触りと、しかし、日本人らしからぬ思考の流れとセンスとで、読んでいる私が迷子になる。
読むにつれて、日本人にはなりえない著者の、本来の姿が徐々に立ち現れてくるのが面白い。まるで、作者がゆっくりと本来の場所に帰りゆくかのように。
これは、下手な分析や解釈を拒む小説だ。読んで、味わえ。ただ感じるしかない。

人が小林一茶に箴言を読み取ろうとして詩を読むのではなく。
夏目漱石が小説に真理や叡智を読み取ろうとして挫折したことを真似るのではなく。
写真が、山端庸介が撮影した原爆投下翌日の長崎の写真が、忘却と虚無の暗闇のほうから、呼びかけるチャンスをただ与えるように。
作者がどの瞬間にも喪失し続けている愛娘の、その死へのまなざしに、繰り返し、繰り返し、繰り返し、さらされるしかない。
大事な人を失ったのに、それでもまだ自分は生きている。喪失感とともに、生き延びてしまったという罪責感を背負う。助けられなかったにもかかわらず、生き延びてしまったという罪業感だ。
生きていることが原罪である。

味わううちに、ふと、やむにやまれぬ漂泊の思いが強く私の中に湧きあがり、同時に、私の中で湧き上がる思いの求めるものが見つかったような気がした。
私がかねてから言っていたように、ただ現実逃避を。意味や言葉からも解放されて、透明に近いなにものかになって、薄れて消えてしまいたい。
「人びとが語って聞かせる物語はどれも、私自身の物語を反復していた」(p.179)。そのように、この本の物語はまた、私自身の物語を反復していた。

かつて、幼い私は、私ではないなにものかになるために、本を読んだ。
かつて、若い私は、私ではないなにものかを知るために、本を読んだ。
そして、今の私は、ほかのなにものでもない私のために、本を読んでいる。

やがて、私は記憶を置いていく
ついに、私も忘却し老いていく。
生き延びてしまった後悔と共に。
そのときまで生き残る。

 ***

行き当たりばったりに歩くこと。そこに住んでいながら何もすべきことがないことを、どこにいても私たちにとってそこは真のあり方では存在していないことを、自分たちがいつだって幸せな外国人であることを自覚しながら……。つまり、それは休暇と空虚という意味でのヴァカンスの欲望だった。ある時空間に空虚をぽっかりと開けること、世界に対して自分たちが休暇中であることを知らせること。自由ではあるが、その自由に内実はなく、後生の平穏な大いなる虚無に身を委せるのだ。というのも、人は生まれた場所以外の土地で本当の意味で存在すると信じることはなかなかできないからだ。よそでは、現実として感じられるものは何もない。(p.171)

« 司書はなにゆえ魔女になる | トップページ | 片耳うさぎ »

**死を思うこと**」カテゴリの記事

>災害被害と支援者支援」カテゴリの記事

小説(海外)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/183237/33737027

この記事へのトラックバック一覧です: さりながら:

« 司書はなにゆえ魔女になる | トップページ | 片耳うさぎ »

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック