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2010年3月

2010.03.30

マタタビ潔子の猫魂

マタタビ潔子の猫魂(ねこだま) (ダ・ヴィンチブックス)  朱野帰子 2010 メディアファクトリー

時は遡ること、およそ千三百年。天平時代は、聖武天皇の御世のこと。
聖武天皇に献上された猫は、聖武天皇より「吉備唐万侶」の名を賜る。
……聖武天皇、流行なのか?
思わずつぶやいたのは、『天平冥所図絵』を読んで記憶に新しいからだ。
そういえば、平城京遷都千三百年記念か、今年は。

田万川家は、夏梅種の血筋。夏梅種の血筋を、猫の憑き物は好む。
主人公の田万川潔子は、知らずに大物の猫の憑き物を飼っている。
その猫魂こと、唐万侶が語り手である。潔子は彼のことを「メロ」と呼ぶ。
タイトルとイラストに釣られて買った本であるが、なかなか面白かった。
ちなみに、猫魂となる憑き物の猫と、一般的に猫又と呼ばれる猫とは異なるんだそうだ。
天照大神の御世から生きているという黒ブチ先生なる猫又も登場するから、猫好きには嬉しくなるぐらい猫だらけ。

かつて日本には多くの憑き物たちがいた。
憑き物となるのは、狐やタヌキといった動物霊系、古木などの木霊系、古い身の回りの道具などの付喪神系と、大雑把に分けることができるだろう。
百鬼夜行図などを見ていると、そこには、物を大切にしなさい、生き物を可愛がりなさい、といった至極当り前なメッセージが浮かんでくるように見える。
霊が宿るから古いものは捨てなさい、というものではないだろう。捨てるにしても、役目を終えた道具や、長生きをした生き物には供養をする、という発想だ。
滑稽であるが、そこに人ではないモノへの敬意と愛着が見て取れるような気がするのだ。

ところで、現代を舞台にするとどうなるか。
そこには、地球温暖化などの環境問題が透けて見えてくる。その展開、思いつきの豊かさに驚いた。
外来生物に押されて居所を失いつつある、日本の在来生物たちの姿が見えてくるとは思わないじゃないか。この設定で。
しかも、唐渡りであると、猫が狸に嫌味を言われるような場面さえある。どこからが外来で、どこまでが在来か、線引きはとても難しい。

彰義隊か白虎隊だったかについての記述を読む機会が以前あったが、当時の上野あたりの情景描写には、烏鳶に狐狸は当然のように登場しており、驚いたことがあった。
猫が主人公と言えば、最近では『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』が秀逸で。
タヌキと言えば『有頂天家族』を思い出すし、キツネと言えば『きつねのはなし』『鹿男あをによし』『コンビニたそがれ堂』か。キツネの出番、結構、多いな。
生活の中に、身近な景色の中に、当然のように人間ではない生き物がいることは、従来、とても自然なことだった。

人間しか存在できない都市の生活空間は、私にとって住み心地が悪い。
たとえば、アスファルトとコンクリートで固めて、猫の姿が見えないなんて、とても嫌だ。彼らが生活するためには、炎天下に足の裏を火傷しない地面があり、安全に横切ることができる通路があり、ちょっとした水飲み場や土の見える場所が必要になる。もちろん、餌場も、であるが。
スズメだって、90年代比べて個体数が半減しているという説がある。温暖化なのか、都市化なのか、近代化なのか、西欧化なのか、これも恐ろしい数字ではないだろうか。
身近なはずの場所が、身近な生き物ですから住み着けない場所になりつつある。そこは、本当にヒトの住める場所であるのだろうか。
ほかの動物が住める空間の余裕があること。それは、とりもなおさず、そこに住む人の心の余裕、生活の余裕を示すのではないか。
ヒトもまた自然発生した生物の一種族である。対して、猫は人が交配して生み出した、野性にはいない生物である。だからこそ、人はある種の義務を猫(やその他の家畜動物)には背負うんじゃないかと考えたりする。

潔子のように思ったことを口に出せずに腹に溜め込みやすい性格を持つ者にとっては、もちろん社会は生きづらい。
果たして、夏梅種は後世に残れるのであろうか。唐万侶は生き延びれるのか。
未来に、新たな憑き物の居場所はあるや、なしや。

娯楽として気軽に楽しめる本であるが、気軽に見過ごせない問いを孕んでいる。

2010.03.26

キケン

キケン  有川 浩 2010 新潮社

あー、面白かった。
素直にそんな気持ちで本を閉じた。
ほんと、楽しい。わくわくどきどきする感じがいっぱい。
早く最後まで読みたいけれど、最後になると読み終えるのがもったいないぐらい。
最後の仕掛けは、これをやっちゃうって、小説としてどうよ? ずるくない??と思いながらも、うるっとなった。
語り手は誰なのか、わかってはいたけれども、こういう明かし方ってずるいと思う。
そもそも、表紙からずるいっちゃずるいだけれども。

有川さんの言葉づかいは女の子としては時々乱暴なのが気になるが、主人公が男の子ならまったく違和感がなくなる。
舞台はほとんど男子校状態の成南電気工科大学。理系の大学らしく、女子学生は希少品種。
その大学の機械制御研究部、略してキケンも、男子学生だけの集団だ。
男の子だけの集団が本気でばかをするとどうなるか!?

末代までの伝説に残るであろう傑物の部長と副部長。
その二人に日々鍛えられ、キケンな道まっしぐらな新入生たち。
私が楽しかったのは、やっぱり学園祭のエピソードだ。
こういうのって燃えるよね。楽しいよね。負けていられないよね。うんうん。
だけど、こういうばかって、見るよりやるほうが、やっぱり楽しいんだよ。

学生だから許されること、学生のクセにやってのけちゃうこと。誰もが怖いもの知らずで。
自分がしたことに友人がしたこと、見聞きしたことをあわせれば、大学時代が伝説の宝庫である人は少なくないはず。
私にも、とっくに過ぎてしまったけれども、元気がなくなるたびに今でも思い出す日々がある。
その時代を過ぎても、でも消えていない。宝物のような日々はいつまでも輝く。
遊ぶ時こそ、本気にならなくちゃ。ね。

2010.03.21

千年の祈り

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)  イーユン・リー 篠森ゆりこ(訳) 2007 新潮社

中国とアメリカ。
共産主義と資本主義。
中国と英語。
東と西の断絶を、その間隙に沈む言語で読む、不可思議。
この本も、母国語ではないからこそ書けた表現であり、遠くから母国を見つめなおす作業だ。
母国というのは、自分が生まれ育ち、知らず知らずに自らのうちに取り込んだ、文化であり歴史であり思想であり習慣であり精神である。
言葉の一つ一つが哲学であり、言語は思考である。異なる言語を得ることによって、初めて自分の思考を客体化することが可能になるのかもしれない。

この著者に興味を持ったのは、雑誌で読んだ短い文章だった。
本を手に入れるまでに時間が経ち、その文章も、掲載されていた雑誌のことも見失ってしまったが、その文章を読んだ時の、この人を読まなくてはいけないという強く湧きあがった義務感は憶えている。
入手してからまたしばらく経ち、目次を開くと「死を正しく語るには」というタイトルが見えた。
フォレスト『さりながら』の次に読むのにふさわしいのはこの本だと思った。
「不滅」とくればクンデラであるし、後書きを読めば、作者がクンデラはもちろん、サルトルやカミュ、ニーチェ、キルケゴールなどに親しんでおり、そのあたりもフォレストと通じるものを感じて、一つの流れを感じた。

10の短編のいくつかは中国を舞台にしており、いくつかはアメリカを舞台にしている。
面白いのは、中国を舞台にする短編には時制がない。もとの英文が、すべて現在形で書かれているのだろうか。中国語の素養がないので確かなことは知らないが、中国語には過去形がないようなことを聞いたことがあり、確かに漢文で過去形を習った憶えもないので、その時制のなさに中国を感じた。
勘違いだったら恥ずかしいけれども、欧米の言語は時制には口うるさい。その知識からすると、一つめの短編「あまりもの」は、首をかしげるぐらいに違和感があり、その違和感の理由に気付くのに間もなかった。
そして、10個目の短編「千年の祈り」では、「過去のことを語る習慣はない」(p.228)、「いつまでも思い出にふけっているのはよくない」(p.245)と語られる。
過去のことを語らぬならば、それが過去ではないとするならば、過去形はいらない。

この百年、中国は大きな変化をいくつも経た。近代史にうとい私は、それを十分に把握しているとは言えないが。長い長い皇帝の時代があり、

それから短い共和制の時代があり、軍閥の時代があり、二回の大戦があった。(中略)やがて内戦。ついに共産主義の夜明けを迎えるのである。(pp.57-58、「不滅」)

文化大革命があり、あるいは、天安門事件があり、それは世代ごとに大きく文化が異なるような事態が起きていることを示す。
単なる親と子の断絶ではない。その断絶は、歴史による断絶。
あまりにも深く、どうしようもなく広く、越えようのない隔たりのゆえに、どの人もわかりあえない。
寂しくて、淋しくて、さびしくてさびしくてさびしくて、母親は底なしの愛に落ちる。
他方で、「誰かの子供でいるというのは、その立場からおりることのできない難しい仕事である」(p.176)。

隔たりがあるにもかかわらず縛られている、その感覚を、著者は繰り返し叫んでいるように感じた。
母であり、母国であり、母国語であり、そういう自分を作り上げているもの、切っても切り離せないなにものか。
愛していながら憎まずにはいられない。けれども切り捨てるのは難しい。
海を越えて、物理的に距離を置いて、どうにかこうにか、心理的にも距離を置けるようになったもの。
程よい距離を望む心は、離れたくはないがぶつかりたくもない、本当はうまく繋がっていたいという祈りではないだろうか。

2010.03.20

想い雲:みをつくし料理帖

想い雲―みをつくし料理帖 (時代小説文庫)  高田 郁 2010 時代小説文庫

ここまでいじめなくっても……と思うことが定番になってきた。
シリーズ三作目。まだまだ澪には苦労が続く。

つる家の商売そのものはおおむね軌道にのっているが、天満一兆庵の若旦那の消息、江戸の支店を閉じた経緯が見えてくる。
それは芳にとってもつらい話の連続になるが、芳が気落ちすることで、二重に澪にはつらい。
料理を作ることはできても、それ以上のことができないことがつらい。料理を作ることが、何に役立つのか。
澪の迷いは料理に出る。その主人公の若さを、順繰りに諭す年長者が温かい。

登場人物が増えるに従い、既出の人物の出番が減るのはやむをえない。
影が薄くなるのが心配な小松原であるが、澪のほんのりと紅を差すような恋心は、そっと応援したくなる。
その小松原の正体が、ようやく澪に知れたところでこの巻は終わるが、これでなにか進展するのか、しないのか? なんだか、進展しそうにない気もする。
又次がいい役回りで出番が続いているのは、私は嬉しいけれど、又次も源斉も、澪の相手としては難ありだ。。
最後には澪には幸せになってもらいたいもんだ。

天災を除いて世の中で一番恐ろしいのは、妖怪でも化け物でもなく、生きているひとだと思う。だが、恐ろしいのもひとだけれど、同時にこの上なく優しく、温かいのもひとなのだ。(p.365)

まったくだ、と思って、本を閉じた。
こんな小料理屋さんが職場の近所にあると、絶対に通うんだけどなぁ。いいなあ。
それで、続きはいつに出るんだ?

片耳うさぎ

片耳うさぎ (光文社文庫)  大崎 梢 2009 光文社文庫

主人公は小学校6年生の奈都。
大人の世知辛い事情により、父親の実家に母親と二人で身を寄せている。
そこは昔ながらの大邸宅。もとは庄屋だった、地元の名士のお屋敷だ。
親戚はよそよそしく、ただでさえ馴染めなくてつらいのに、母親まで留守することになったところから、なっちゃんの苦悩の日々が始まる。
あんなにだだっ広くて、なんだか怖いお屋敷で、一人で夜をどうやって過ごすのか?

これもいろんな人のブログで見つけた本だと思う。
大崎さんはもういいかな?と思っていたけれど、小さな女の子が頑張る小説を読みたいと言っていた子を思い出し、勧める前に自分で読んでみた。

大崎さんのミステリは、書店を舞台にした成風堂シリーズでも、死人が出ないミステリだった。出てきたとしても、それは既に時効を過ぎたような大昔の死者である。
事件はある。でも、それは警察が犯人を逮捕してめでたしめでたし、になるような事件ではないのだ。
蔵波屋敷の中では、幾つかの時代で事件が繰り返されてきた。
江戸時代だろうか、昔々に1つ目。70数年前に2つ目。そして、今回も繰り返されるのか。
キーワードになるのが「片耳うさぎ」だ。

蔵が3つもあるような屋敷。跡継ぎ問題だって起きそうな家族構成。伝承を口伝えする老人。
古典的な道具仕立てをしておきながら、とことん現代の物語である。
一族で一番の権力者の雪子伯母さんには「最後のお姫さま」と銘打たれるし、ひそかに寝巻きはジャージだったり。
主人公と家族は携帯電話で連絡を取り合うし、学校給食はとても美味しそうだ。
謎解きそのものは、私でも途中からだいたい読めちゃうけれども、だからと言って興を殺がれるものではない。
謎という呪いをかけられて一族の、呪いが晴れた後の姿が微笑ましい。
孫娘と祖母世代の年配女性との交流には、梨木香歩の初期の作品群を連想した。

ところで、作中のわらべうたには、何か謎があったのだろうか?
恐怖感を盛り上げるための小道具に過ぎなかったのかな。
そこが絡んでこないのがちょっと残念でもあり、やっぱりとても現実的な気がする。
謎なんて、何もないのだ。あるのは、人の想い。それだけだ。

祖父の法事、祖母の法事と、この近年、祖父母の家に何度も通った。
子どもの頃は廊下を走り回り、居間を跳ね回り、何度や押入れに潜り込んでみたり、その古い家は探検し放題の場所だったイメージが残っている。
それほど大きな家ではない。しかし、子どもにとって古い家屋は不思議な場所だった。
今になると、シロアリ被害ですっかり傾いた居間、みしみしという廊下の上を走るのも跳ねるのも怖い。
荷物もあらかた処分され、ふと気づけば、記憶のなかよりも部屋数も少なく、ずっと狭くて、ボロ家になった。
昔々、その辺りがまだ松林だった頃、祖父が開墾して自分で建てたという家も、住む人がいなくなり、やがて取り壊されることになるだろう。
その家、祖父母らのいた頃の親戚の在り様、夏休みや冬休みの帰省のときの景色。郷愁に駆られた。

2010.03.12

さりながら

さりながら  フィリップ・フォレスト 澤田 直(訳) 2008 白水社

さりながら。
然りながら。
去りながら。

言葉遊びをしたくなる。
借りたまま、どうにも手をつけられずにいた本に、ようやく呼ばれた。
私を手に取れ、そして読め。本が命じる。今だ、と。

子どもの頃の夢。「黄色」に覆われた世界で迷子になる。
人生は子どもの頃の夢の繰り返し、夢の実現にすぎない。
どこでもない場所へ。どこかに行ってしまいたい時に。
私自身がそんな気持ちに駆られ、ふらりと一人旅を、と言っても、たった一泊二日の、他府県の小さな現代美術館のカフェでちょっと贅沢な昼食を食べながら赤ワインをたしなむぐらいの、そんな旅から帰ってきたら、本に呼ばれた。

読み始めてから受けた講義が、呼び声のエコーになった。
私がこの本を読んでいる最中だと知らない講師が、まるで本を読み上げるかのように語り、私の中で二重奏に響く。
ここに、サルトルがおり、プルーストがおり、ベンヤミンがおり、クンデラがおり、マラルメがおり、レヴィナスがおり、先人たちの言葉が折り重なって透けて見え、圧し掛かる。
フロイトがおり、ユングがおり、クラインがおり、ウィニコットがおり、フェアバーンがおり、引き裂かれる私を包み込む時間と空間が提供される。
黄色の世界に、喪失しながら生きるしかないという人の営みを再び見出す。生き延びるしか。生き残るしか。
<私>は作者であり、私であり、ほかの誰ででもある。

作者は、パリから始まり、京都、東京、神戸と巡る。
小林一茶、夏目漱石、山端庸介の人生を巡る。
翻訳の日本語が端正で、もとから日本語で書かれたもののような肌触りと、しかし、日本人らしからぬ思考の流れとセンスとで、読んでいる私が迷子になる。
読むにつれて、日本人にはなりえない著者の、本来の姿が徐々に立ち現れてくるのが面白い。まるで、作者がゆっくりと本来の場所に帰りゆくかのように。
これは、下手な分析や解釈を拒む小説だ。読んで、味わえ。ただ感じるしかない。

人が小林一茶に箴言を読み取ろうとして詩を読むのではなく。
夏目漱石が小説に真理や叡智を読み取ろうとして挫折したことを真似るのではなく。
写真が、山端庸介が撮影した原爆投下翌日の長崎の写真が、忘却と虚無の暗闇のほうから、呼びかけるチャンスをただ与えるように。
作者がどの瞬間にも喪失し続けている愛娘の、その死へのまなざしに、繰り返し、繰り返し、繰り返し、さらされるしかない。
大事な人を失ったのに、それでもまだ自分は生きている。喪失感とともに、生き延びてしまったという罪責感を背負う。助けられなかったにもかかわらず、生き延びてしまったという罪業感だ。
生きていることが原罪である。

味わううちに、ふと、やむにやまれぬ漂泊の思いが強く私の中に湧きあがり、同時に、私の中で湧き上がる思いの求めるものが見つかったような気がした。
私がかねてから言っていたように、ただ現実逃避を。意味や言葉からも解放されて、透明に近いなにものかになって、薄れて消えてしまいたい。
「人びとが語って聞かせる物語はどれも、私自身の物語を反復していた」(p.179)。そのように、この本の物語はまた、私自身の物語を反復していた。

かつて、幼い私は、私ではないなにものかになるために、本を読んだ。
かつて、若い私は、私ではないなにものかを知るために、本を読んだ。
そして、今の私は、ほかのなにものでもない私のために、本を読んでいる。

やがて、私は記憶を置いていく
ついに、私も忘却し老いていく。
生き延びてしまった後悔と共に。
そのときまで生き残る。

 ***

行き当たりばったりに歩くこと。そこに住んでいながら何もすべきことがないことを、どこにいても私たちにとってそこは真のあり方では存在していないことを、自分たちがいつだって幸せな外国人であることを自覚しながら……。つまり、それは休暇と空虚という意味でのヴァカンスの欲望だった。ある時空間に空虚をぽっかりと開けること、世界に対して自分たちが休暇中であることを知らせること。自由ではあるが、その自由に内実はなく、後生の平穏な大いなる虚無に身を委せるのだ。というのも、人は生まれた場所以外の土地で本当の意味で存在すると信じることはなかなかできないからだ。よそでは、現実として感じられるものは何もない。(p.171)

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