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香桑の近況

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2010年2月

2010.02.26

司書はなにゆえ魔女になる

司書はなにゆえ魔女になる  大島真理 2009 郵研社

図書館司書に憧れたことが2回、ある。
本が好きで、図書館が好きで、司書資格も取った。
その後、研究者の助手のように、秘書のように、専門的に資料を集める役割をする司書の姿をアメリカの小説で読んで、すごく憧れた。
シャーロット・マクラウドのコージー・ミステリ、シャンディ教授シリーズを読んだときのことだ。
研究者になるより、研究者の助手の役割を担うほうが、自分に合う気がした。結局は、研究者にも司書にもならなかったわけであるが。

いずれも短文で読みやすいエッセイである。
この人のエッセイを読むのは、初めてだ。図書館司書の経験があり、今は司書養成に携わる人のようだ。
エッセイは3部からなり、図書館に関わるもの、図書に関わるもの、映画に関わるものとわかれている。
三浦しをん『月魚』に触れている文章を読み、上記のシャンディ教授の妻ヘレンを思い出したのだ。

タイトルに惹かれて買ったわけであるが、その人にぴったりの本を見つけ出すことは、なるほど、魔女の仕業と呼ぶにふさわしい。
そしてまた、気に入った本や映画を誰かに勧めたくなるのが、司書の心意気というものではないか。
最近の図書館事情に興味がある人が読むのもいいだろう。
また、次に読みたい本、観たい映画を探している人にも参考になるのではないか。
本文とは無関係であるが、購入時から挟まれていた出版社の栞がなかなか綺麗で、趣味がよかった。

西の魔女のように。
私は私で言葉を紡ぐ。
毎日の、当り前の日常をいとおしみながら。

2010.02.24

三千世界の鴉を殺し(15)

三千世界の鴉を殺し (15) (新書館ウィングス文庫)  津守時生 2010 新書館ウィングス文庫

そろそろ続きは読めないんじゃないかとあきらめつつあった頃に見つけた新刊情報。
気付けば、前巻の感想を書いてないですね。私。ありゃ。

本編はあまり進んでいないが、その代わりにワルターとメリッサのその後を描いた中編が書き下ろされている。
外伝とあれば、がはは笑いできるものと決め込んで読んだら、思いがけず涙腺を刺激されてしまった。
近頃滅法、涙もろくなったみたいである。いや、もとから涙もろい自覚はあったが、傷つきから立ち直る人の涙にはつられやすいのよ~。あうあう。

このシリーズの隠れテーマは、親子関係の葛藤と超克。
ルシファードとその両親は、どこをとっても規格外だから置いておき。
以前もライラの父子葛藤があったし、ニコラルーンの持つものも父子葛藤に近い。先に読んだ「やさしい竜の殺し方」も親子関係の桎梏はしばしば出てきていた。
しかし、それは隠れテーマと言えるぐらいの登場人物の造詣の味付けであり、物語の主題としてがっつりと扱われてきたわけではない。

そこが、今回の「幸せはスミレの香り クマの形」は一味違った。
ワルターの母子葛藤とメリッサの父子葛藤が、夫婦関係という現在の関係(現在は元夫婦であるが……)に及ぼす影響という視点で描かれる。
子ども時代の傷つきは、とても大きな体験として、その人の人格形成に寄与する。
多くの過去を扱う心理療法では、子どもの頃に体験した交流が、その後もその人の人生の中で繰り返されるシナリオあるいはパターンを成していないか、振り返る。
自分の持っているシナリオに気付けば、それを書き換えていくこともできるかもしれない。
同じことを繰り返したいのか、それとも、違う結末を迎えたいのか。
選び、決め、行うのは、自分自身しかない。

自分で幸せになろうとすること。
人は容易に忘れるけれども、自分から不幸せにとどまろうとしている限り、幸せを感じることなど難しい。
自分が幸せになることを許すこと。
赦しとは神の奇跡であるかもしれないが、しかし、人もまた赦す力があるのではないか。
作者は「小説だからこそ描けるハッピー・エンド」と書いているが、それでもなお、ワルターやメリッサに、ルシファやマルっちに、救われる人がいてほしいと願う。

花散らしの雨:みをつくし料理帖

花散らしの雨 みをつくし料理帖  高田 郁 2009 時代小説文庫

シリーズ2冊目。
新たに構えなおしたつる家で、澪が再び料理の腕をふるう。
今度は武家屋敷にも近く、客層も少し変わった。新しい登場人物も増えてくる。
そして、恋の予感。

江戸の地図に自信がないので、手帳についている東京の地下鉄の路線図を開いてみた。
この本には、冒頭に簡単な地図がついているけれど、現在のものと重ね合わせてみたくなったのだ。
江戸時代の移動手段といえばもちろん徒歩で、現在とは距離の感覚が異なっているからだ。
今回の私の東京行きは品川が目当てだったのだけれども、両国あたりに足を伸ばしておけば面白かったのに。
少し、残念になる。

春は芽、夏は葉、秋は実、冬は根。
マクロビオティックに身の回りのものを食そうとすれば、自然にそうなる。
庭の青菜も、今の時季が一番美味しい。美味しくて手軽だ。夏になる前に丈ばかりが伸びて花を咲かせ、味は落ちてしまうもの。
私にとって料理は休みの日にする贅沢であるが、食いしん坊には楽しい小説である。
澪が相変わらず艱難辛苦にあいながら、季節を料るすることが、読んでいても楽しく美味しい。
雪ノ下のてんぷらが出てきたが、有川浩『植物図鑑』でも見た味だ。あちこちで見かけるとなると、どうにも味わってみたくなる。
ちなみに、私の料理が贅沢なのではない。私が料理に時間を費やすことが贅沢なのだ。

ほっこりと心が暖かくなるような人情もののであるが、時に身を切るように切ない。
年頃の娘さんが、誰にも頼らず、誰も好きにならず、仕事だけをしていろというのはむごい。
「どの子も皆、幸せになってほしいもんだよ」と、おりょうに倣ってつぶやきたくなる。
泣き虫の澪が泣かずにいられるようになる日は、まだ少し遠いようだ。

2010.02.23

八朔の雪:みをつくし料理帖

八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)  高田 郁 2009 時代小説文庫

八朔とは、八月朔日。つまり、8月1日のこと。
そんな季節に降る雪は、少し切ない。

東京に行くなら、と、江戸を舞台にした小説を荷物に入れた。
すずなちゃんのブログで見つけた、一冊だ。
大阪生まれの澪が江戸の町で料理屋を切り盛りするようになる物語。

こんな風に女の子が頑張る話は好きだ。
途中、何度も何度も、涙をぬぐいながら呼んだ。滅法、自分が涙もろくなった気がする。
「下がり眉」と常連のお侍にからかわれる澪は、決して器量よしではないだろう。
だが、澪の料理は優しい。滋養があって、高くはないし、気張りもしないが、美味しく食べてもらいたいという気持ちが篭る。
贅は凝らしていないが、家では食べられないようなもの。慣れ親しんだ上方の味を、少しずつ江戸向けにしながら、澪らしい料理を工夫していく。
澪の料理に身を尽くす姿勢、かつての主人だった芳に身を尽くす姿勢、身を尽くして、身を尽くして、健気に生き延びようとする姿に、思わず応援したくなるのだ。

「雲外蒼天」の相を持つと、子どもの頃に言われた澪。
艱難辛苦に襲われるが、その苦労に負けずに精進すれば、きっと青空が望めるという。
これはもう、いろんな苦労にあうぞ、いろんなエピソードが待っているという予告である。
そこまで主人公をいじめなくても……と思うような目にあって、この本は締めくくられる。ここで終わるな~。
とはいえ、ここまで設定ができてしまえば、いかようにでも物語は続けられるだろう。

「旭日昇天」という天下取りの吉兆の相を持つと言われた幼馴染は。
どうやら別の顔がありそうな、常連のお侍、小松原様は。
つる家はどうなる。種市は。
もともとの奉公先である天満一兆庵は復興できるのか。
逐電した若旦那の佐兵衛は見つかるのか。
まだまだネタはいっぱい残されている。

澪の料理が口にあったなら、是非とも続きを読みたいものだ。
巻末のレシピを見ながら、自分で作るとなると……と、うなってしまった。
やっぱりね、ほら、自宅では食べれんものを、というのが、澪の習った商人としての料理人のポリシーやから……もごもごと言い訳なんぞしてみたりして。

この本、マンガにもなっている。
帰りがけに通った本屋さんのウィンドウ越しにタイトルが見えた。
マンガを買いはしなかったが手に取ってみると、来月には小説のほうの新刊が発売されるとあり、嬉しくなった。

本編とは関係ないどうでもいい話であるが、出版社を書くときに、戸惑った。
背表紙には「ハルキ文庫」とあるが、表には「角川春樹事務所」とあり、裏には「時代小説文庫」とある。
どれやねん。
少なくとも「○○文庫」というのを二種類、冠することはあらへんやないか。
文庫の時は文庫の名前を優先させるようにしてきたのだが、今回ほど困ったことはない。
奥付を見たら、時代小説文庫とあるからそうするが……。

2010.02.22

やさしい竜の殺し方 memorial

やさしい竜の殺し方  memorial (角川ビーンズ文庫)  津守時生 2009 角川ビーンズ文庫

買わなくてもよかったかなぁ。

作者デビュー20周年企画というこでmemorial。
本編の名場面?カラーイラストや4コママンガ、雑誌の全員サービスのドラマCDのシナリオや固有名詞の事典に、いくつかの短編をまとめて一冊にしたもの。
ファンブックのようなものと思えばいいのだろうが、6巻以上に蛇足の感じがして、積極的に人に勧める気になれない。
私、イラストも、前のほうや、前の前のほうが好きだし。

今更ながらに新キャラも登場。
ウルとアークが相変わらず仲がよく、ドウマとクローディアには2人目の子どもが生まれそうで、なんだかんだとどたばたの毎日で。
総じて幸せな感じの一冊。

2010.02.18

勝間さん、努力で幸せになれますか

勝間さん、努力で幸せになれますか  勝間和代 香山リカ 2010 朝日新聞出版

どこがタイトル?と首を傾げた、表紙と帯。
勝間和代と香山リカの対談を書籍化したものである。
職場で回ってきた。自分では買わないだろうな、これ。

失礼を押して言い換えれば、できることを売りにしている女性と、できないことを売りにしている女性の対談。
勝間と香山では、当然、幸せの定義は異なるだろう。そう予想しながら読み始めて数ページ。
勝間の序文で既に、香山の旗色悪しと感じる。というのも、勝間は最初から香山の論を自分の主張の実現に必要なものであると組み込んでいる。
勝間も、香山も、どっちかに肩入れしているわけではないが、ちょっと圧倒的に差が目立たないか。
理詰めの理想論に対して、感覚に基づく体験論では、なかなか対等な議論になるわけがない。

途中から、勝間がベンジャミン・フランクリンに見えてきた。彼女の言葉は「しなくてはならいない」「すべきである」という表現が多い。読んでいるだけでも、息苦しくなった。
Time is money.という有名な言葉を残しているフランクリンは、治安改善のために図書館を作った人でもある。
彼は著書の中で13の徳目を挙げているが、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、平静、純潔、謙譲と、勝間氏の好みにぴったりとあうんじゃないかな。
18世紀のプロテスタントの行動規範ならば、資本主義ともフィットしないわけがないはずだ。

勝間の幸せの定義とは、「先人や自分の経験を生かして、昨日より今日、今日より明日、私たちがこれまでできなかったことを一つずつ積み上げていくことです。(中略)さらに、この開発された自分の力を生かして、まわりの人がより楽しく生きられることに貢献し、喜んでもらうことが、自分の能力開発以上の至福になります」(p.6)。途中でも言い換えて整理しているが、第一に「他人に『ありがとう』と感謝される」ことであり、第二に「昨日できなかったことが今日できるようになる」ことである(p.128)。
「努力したから幸せになれると言っているわけではない」(p.43)と言いつつ、頑張っても報われないのは「頑張り方が悪い」「どうしても頑張っているということに対して満足してしまっている人が多い」(p.81)と述べて、「頑張らない」という選択肢を封じる。

また、本来的には「ありがとう」と言われるだけで満足するはずであるが、利他的行為を習慣付けることは教育が担える役割であり、学校や企業で他者からの評価を与えることによって利他的行為を持続可能なものにすると、勝間は述べている。
利他性を教育で陶冶しうるか。その際の行為の動機となるものはなにか。他者に利他を要請する根拠はなにか。
このあたりは、香山は勝間によく切り込んでいると思われた。
利他性の動機を他者からの評価に置き、習慣形成を目指すこと自体はなんらものめずらしくはない。「周り回って自分の特になるのだから人によいことをしなさい」という倫理だ。
功利主義であることが悪くはないが、それを優しさや思いやりとイコールにされてしまうのはわびしいなぁと思った。会社での仕事上の評価が上がるから他者に協力する、というのは、コールバーグでは6段階中の2段階目。道具的互恵、快楽主義の段階に過ぎない。

輪をかけて、勝間が自分が他者に感謝することはほとんど触れないことにさびしいなぁと思ってしまった。対談の展開上、出現していないだけであるかもしれないが、文中で勝間が他者が自分でしてくれたことで幸せを感じている対象は、自動掃除機ルンバ君ぐらいしか見当たらなかったと思う。
自分が他者のためにできることの第一歩は、他者から感謝を引き出すことではなくて、自分が他者に感謝することではないか。それこそ、他者に感謝される喜びを他者に与えること。
感謝される喜びを体験してこそ、その他者は、また違う他者に感謝されるような行為への動機を持つことができるのではないだろうか。
機会の均等というならば、努力の機会の均等だけでは不十分である。そして、システム上予想された評価を得られただけで、その人の人格陶冶に寄与するような説得力のある感謝の体験になりえるとは、私はあまり思わない。
感謝の双方向性を補わないと、満たされない承認欲求が見え隠れしたり、翻って、他者への優越感や支配欲が臭い立つ。バランスが悪くて、居心地が悪くなってしまうのだ。

香山も「自分が診察で会っている人」だけを根拠にするのではなく、もう少し論拠を用意して語り合ってもらったほうが実りがあったのではないか。勝間があまりにもぶれないので、香山が勝間をどうしたかったのか、もう少し作戦が欲しかった気がした。
自然と努力する人と努力がきらいな人との組み合わせだったわけであるから、次があるとするなら、違う方向に努力することを体験として知っている人として中村うさぎを勝間と組み合わせてみたらどうなるかな?と想像してみた。
……怖いかな。怖いかも。

幸せって、感じるものだと思う。味わうものだと思う。私自身が、それを感謝するものだと思っている。
努力して手に入れるものではなく、考えて形作るものでもなく、そこにあることを気づいて受け入れるもの。
気がつけば与えられていたものだったり、今その場で噛み締めるものだったり。
それは私の幸せであって、「普通の幸せ」とくくられるのは嫌だ。
私が今までもがいて、やっと味わえるようになったものだから、これは私だけのものだ。
だから、ほかの人は誰も同じように思わなくていい。ほかの人にもあるかもしれないよ、と話すことはあっても、こうせよ、と命じることはしたくない。
再現性なんてなくてもいい。幸せにマニュアルなんていらない。常に幸せを確認しなくては不安になるような弱さや幼さもいらない。
すべて過ぎ去り滅び行く時間の流れの中の一期一会であるからこそ、私は一瞬一瞬が愛しく幸せに思えるような気がしてならないから。

2010.02.15

かのこちゃんとマドレーヌ夫人

かのこちゃんとマドレーヌ夫人 (ちくまプリマー新書)  万城目学 2010 ちくまプリマー文庫

一瞬、翻訳書?と疑った、タイトル、装丁、雰囲気。
『我輩は猫である』のオマージュかと思いながらページを繰るうちに、万城目マジックにくるくると捕われる。
読み始めたら止まらない。一気読みのマジック健在だ。

不思議なことは何一つない、ことはない。
アカトラの猫、マドレーヌ夫人は外国語が喋れる猫だ。
猫にとっての外国語。それは、犬と言葉が通じるということだ。
共に住むと人間の言葉は少しは分かるようになる猫たちも、犬の言葉はまったくわからないものになのに、マドレーヌ夫人は夫とは会話ができる。
マドレーヌ夫人の夫とは、かのこちゃんの家の飼い犬である玄三郎だ。

かのこちゃんは小学一年生の女の子。その両親と住んでいる。
かのこちゃんのお父さんは鹿と話したことがあるんだって。
ということは、お母さんは剣道が強いのかな?
素敵な家族の姿も微笑ましく、地に足が着いている感じがして快い。

猫も、犬も、人も、活き活きと描写されており、まるで目に見えるようだ。
どの存在を見ても、どの関係を眺めても、愛情がたっぷりと詰まっている。
これは、宮崎さんにアニメ化してほしいなぁ。心底、そう思った。
頭の中ではすっかり映像として情景が動き出しており、目に見えないことが不思議なぐらい。
少なくとも、猫も、犬も、よく知っている人が書いているとしか思えない。
小さい子どものとっぴなぐらいの思考や行動だって、うんうんと頷いてしまうほど。
確かな表現に支えられて、マドレーヌ夫人の物語にすんなりと読者は引き込まれてしまうのだ。

社会的になにか大きな事件があったわけではない。
だけど、日々の出会いと別れほど、ひとにとって大きな事件はない。
何より、第4章の最後の数ページの美しさには、涙が抑え切れなかった。
「だって、君は僕の妻じゃないか」(p.227)
これほどの殺し文句はないと思って泣けた。こんなときに、こんなことを。
この言葉を得られた人が羨ましくなるぐらい、美しい場面だった。
泣けて泣けてたまらなかった。

万城目さんはすごいなぁ。
子どもが大人になるような、大人が子どもになるような、きらきらの時間を過ごすことができた。

やつがれと甘夏

やつがれと甘夏―絵本漫画  くるねこ大和 2010 幻冬舎

くるねこさん、初の恋話!?
……と聞かされながらも、油断はしていけない。
なぜなら、前作のことがあるからだ。

やつがれは、チビ太と一緒に住んでいる。
チビ太の母親はいない。チビの後に拾われた仔猫である。
そう。ちゃんと忘れ物を取って、戻ってきたのだ。
鍼の先生も奥さんをもらい、毎日はのどかに過ぎ行く。
その中で、やつがれが一目惚れをしちゃったもんだから、どーなる?

干からびるほど、泣いて泣いて、その後に、それでも続く毎日。
前回は子を喪う悲しみであったが、今回は親を亡くす悲しみである。
それぞれの悲しみを抱えながら、新たな出会いもあれば、出会いがもたらす喜びもある。
だから、きっと生きていくことはできるから。
その悲しみが重くなくなる時がきっと来るから。
悲しみに打ちのめされず、そっと空に帰すような爽やかさを感じた。

白大福というのも、めでたくてよい比喩じゃないですか。
いやー。甘夏ちゃんが、度胸の据わった、根性のよい子なんだわ。
途中、案の定、しんみりとしてしまったが、ほっこりしながら本を閉じた。

仲良くおなり。みんなみんな仲良くね。
幸せになるんだよ。せっかく生まれてくることができたのだもの。

2010.02.12

天平冥所図会

天平冥所図会  山之口洋 2007 文藝春秋

昔々の奈良に平城の都があった頃。
帯から予想された内容とは少し違って、あれれ?と思いながら読み始めた。
三笠山、正倉院、勢田大橋、宇佐八幡の4つの冥所の物語が収められている。
帯に書かれていた内容は後ろの二つの物語のことであったと気づき、途中でしばらく手が止まってしまった。

主人公は最後の葛木氏である葛木連戸主。その妻、広虫。
登場人物たちの名前が、読み慣れない音感のものが多いため、そこでも少し戸惑った。
自分で葛木の血筋は途絶えるものと思い定め、出世に囚われずに地道に役人として務めているうちに30代に入った戸主。
広虫は、吉備真備の娘である由利と共に、女儒として内裏に勤めるために状況してきた。
この二人が送る日常と冒険は、どこかゆるい空気に包まれている。ほのぼのとした景色を背景に、しかし、人の為すこと企てることは汚くて血なまぐさい。

「三笠山」は、奈良の大仏の建造にまつわる物語。そこで消費された人々の怨嗟に思いを馳せることになる。戸主と広虫の出会いの物語でもある。
「正倉院」は、私はこれが一番好きだ。夫である聖武天皇を亡くした光明皇太后に命じられて、遺物を正倉院に納めるまでの役人たちの苦労話である。政治的な駆け引きに邪魔されながらも、東大寺から派遣された写経僧たちが王羲之や欧陽詢の筆法で、献物帳を記載していく。末端の現場を担う者たちの矜持が香り立つような佳品だった。
「勢田大橋」は、ぐっと血なまぐさくなる。権勢を極めた藤原仲麻呂が起こした乱の顛末である。吉備真備も大活躍。しかして、私の印象に残ったのは東大寺お水取りの起源である。ロマンだなぁ。
そして、「宇佐八幡」。

人の怨みはいつか晴れるのか。どうやったら晴れるのか。
怨みであれども、その人のよすがが残されていて欲しいと願ってはいけまいか。
最後は、なんだか悲しい。
夫婦の情愛を軽やかな筆致で、しんみりと感じさせられた。

個人的には、もう少し、吉備真備父娘の話が読みたかったかも。作者の人の頭の中には、きっと物語があるはずだ!と思いつつ。

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