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2010年1月

2010.01.05

コンビニたそがれ堂

村山早紀 2008 ピュアフル文庫

以前、読んだ本『コンビニたそがれ堂:奇跡の招待状』のシリーズ1冊目。
風早という町にある、お稲荷さんの近くの不思議なコンビニ。
大事なものを探している人だけがたどりつく、見つからないものは何もないお店。
この設定、この表紙だけだと、ほのぼのしている感じしかないのに、なんでこんなに泣けちゃうの。

『コンビニたそがれ堂:奇跡の招待状』のときに号泣した記憶が残っている所為か、しょっぱなから泣きっぱなしだった。
ここは泣くところじゃないんじゃない?と自分で自分に突っ込んでも、止まらないから困ったもんだ。
何か不思議な物質でもまぶしてあるのか、それとも魔法がかけてあるのか。

そもそも、私にネコが死ぬ話は読ませちゃいけない。
必ず泣く。どうしても泣く。うちのネコさん達を撫でながら、この子達がこんなになったらどうしようと泣いている。
手当ての仕様がないな。こりゃ。

あとがきを読むまでもなく、この文章は大事なものを失ったことのある人が書いている。
失うという現実が、厳然としてそこにあり、自然に反する事態は起きない。
でも、残された人は信じたい。きっとどこかで繋がっているのだと。きっとどこかで巡りあうのだと。
誰も確かめようもないけれど、祈りを込めて願っている。その思いを知っている人しか、こんな文章は書けない。
だから、「さよなら」の場数を踏んでいる大人のほうが泣けるのではないかという解説にも頷く。

失っても、喪っても、消えてしまわない、何かのために。
言いそびれた「さよなら」の代わりに、読んでみたらいい。

2010.01.04

陰陽屋にようこそ

天野頌子 2007 ポプラ社

なんとも可愛らしい小説だ。微笑ましくて、くすりと笑いたくなる。
恋占いから人捜しまで。陰陽屋の店主は、イカサマ陰陽師の祥明。白い狩衣、長い黒髪、群青に銀箔を散らした扇、藍青の袴という外見で、烏帽子の代わりに眼鏡なのを別にすれば、ヴィジュアルイメージは佐為@ヒカルの碁。
その陰陽屋でバイトをする羽目になったのが、中学生の瞬太。実は、東京は王子稲荷の境内で人に拾われて育てられた妖狐だったりする。

陰陽屋に持ち込まれた4つの依頼を物語る4編から成るが、ミステリというよりほのぼの。ホラー要素もなく、ひたすらほのぼの。
陰陽道の小難しいことをお望みの人には不向きだが、ほっこりなごんで、さくっと読める。
いや、詳しい知識がある人なら、にやりとするようなところもちゃんとあるんだけど。

なんといっても、瞬太本人はうまく化けているつもりでも、クラスのみんなは「気づいていないふりをしてやれ」と口裏をあわせている。
その空気が、とても暖かくてよかった。
中学3年生ということもあり、祥明以外は、やまざき貴子『っポイ』のヴィジュアルイメージで。
倉橋と三井の女の子二人なんか、まんま、真さんと雛姫みたいだし。

瞬太は、この後、どうなっていくのかな?
「たそがれ堂」の店主みたいになるには、ずいぶん時間がかかりそう。
でも、どこかですれ違っていたら楽しい気がする。
陰陽屋は魅力的なアイテムの詰まった設定なので、続きが出たらいいなぁ。
気軽に読めて、しっかり気分転換になるような、後味のいい読書だった。

2010.01.02

闇の左手

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))  アーシュラ・K・ル・グィン
小尾美佐(訳) 1978 ハヤカワ文庫

2010年の一冊目は、年越しの一冊となった。
なかなか手こずった。面白くなったのは、三分の二を読んだぐらいあたりから。

面白いタイトルだ。なるほど。闇を手にするなら左手である。光は右手。
人は二元論的な発想に、思考に、慣れている。
心身の二元論。男女の二元論。陰陽、東西、生死、貧富、新旧、昼夜、理想と現実、形而上と形而下……。
既存の枠組みを壊していくことはできるのか。新たに組みなおすことはできるのか。
ポストモダンと呼ばれる思想は、そういった枠組みの脱構築と再構築とにもがいたのだと思う。
SFは、社会学や哲学といった学術的な手法に縛られず、枠組みが違っていたらどうなる?という発想を検証する思考実験だった時代がある。

SFだからこそ扱える主題のひとつに、「人がもしも性や寿命に縛られないとしたら?」というものがある。
自我にかかわるものや言葉にかかわるもの、生命や身体にかかわるもの、さまざまな示唆を小説はくれる。
私が興味があって読んできたのは、なかでも、ジェンダーに関わる思考実験の一群である。SFだからこそ、男女の構成比を変更できたり、第三の性を登場させることができたり、役割交換させたり、性別を変更することができたり、日常の定数を変数に転換できる。そのことによって、どのような解が想定されるのか、思いめぐらせるところにSFの可能性がある。
ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』や、シャーロット・P・ギルマン『フェミニジア:女だけのユートピア』などは、そういう思考実験の先駆的なものだと思う。
シェリ・S・テッパー『女の国の門』、ジェイムズ・アラン・ガードナー『ファイナルジェンダー:神々の翼に乗って』、ウェン・スペンサー『ようこそ女たちの王国へ』などなど、枚挙にいとまはないが面白いとは限らないのが難点。
思考実験が過ぎれば設定を弄するほうが主となり、どうも私の好きな小説らしい小説ではなくなってしまうのだ。
主人公の成長を追いながら、気持ちよく世界に遊ぶ感覚は、時代が下るほど得られやすい。

というわけで、『闇の左手』は読みごたえはあるが、読みにくく、読みふけりにくい。それぐらい、繊細な実験をはりめぐらせた本だった。
いくつかの重要な用語が解説されないまま物語が始まり、推測していくしかない。
不親切な作りではあるが、物語世界の神話や伝承がさしはさまれたり、登場人物の日記が用いられたり、複雑な語りの手法を用いることで、世界そのものを味わうように仕込まれている。

「冬」と名付けられた極寒の惑星ゲセン。太古に実験が行われたのか、両性具有の人々が暮らす星に、人類の同盟からの使者として主人公が降り立つ。
黒人男性である主人公は、人々が両性具有であることに戸惑い、打ち解けることが難しい。女性的だから信じられないとさえ、主人公はつぶやく。その戸惑い具合がヘテロの男性らしく、らしすぎてのめりこめない悪循環。むしろ、この違和感こそが作者の狙いではないかと思われた。
女性の目から見れば、そんなところで戸惑うことのほうが苛立たしくも、もどかしい。きっと腐女子がこの世界に飛び込んだら、盛り上がるぞー。でも、そこをわかっていないのが男性だよね?と、暗に指摘するような作りである。

本の3分の2を超えたあたりから冬の旅が始まる。主人公はゲセン人と二人きりになり、上辺だけの付き合いにごまかされずに本質に向き合うことになる。
両性具有の社会であるということは、妊娠の責任が平等であることだと、ル・グィンは展開する。その思考は明晰で卓越。性と性行為のありようを超えて、人であるとはどういうことか、作者は読者に問い詰める。
どうすれば、異文化の人と友達になれるのか。いや、なんでなれないと思い込んでいたのだろうか。
希望と無力感が同時に残る、絶妙な読後感だった。闇の左手、それは光であり、愛である。

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