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香桑の近況

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2009年10月

2009.10.21

世界が完全に思考停止する前に

世界が完全に思考停止する前に (角川文庫)  森達也 2006 角川文庫

私の主語は「私」である。
私は勝手に「私達」のなかに組み込まれることが嫌いだ。
私の意志を、感情を、思考を、体験を、見解を、何も確認せぬまま、勝手に代弁されることが大嫌いだ。
だから、著者の姿勢に好感を持った。好感というより、シンパシーというほうがぴったりくるかもしれない。

と同時に、思い出したことがある。
私は、会話でも文章でも、主語をなるべく明確にしようとする。
私はこう考える。私が考えるだけであって、相手にそれを求めるわけではない。ほかの人も同じことを考えているとは考えていない。その姿勢を表すために、「私」は「私」に責任の所在を帰す。
しかし、ある人から「『私はこう考える』と言われるたびに、『お前もこう考えろ』と言われている気がする」と嫌がられた。当時の恋人だったわけであるが。
改めて書いてみると、なんともとほほなエピソード。彼の中に浸透していたものこそ、素朴なファシズムの土壌じゃないかい?
当然のことながら、私と彼は別人格であることを前提とする私と、同じ魂をわけあっていると夢想する彼ではうまくいかなかったし、別れてよかった。

前置きが長くなったが、この本を読んで感じた著者の感覚は、「自分に倣って思考停止せよ」と強く命じる恋人に対して持った私の抵抗感に似ている気がした。
いいか、悪いか、二元論でおさめてしまおうとする人が多い。多数派とは違うとかっこつける人は、悪いものをいいにして、いいものを悪いにして、単に両極をひっくり返して二元論におさめなおしただけのことも見られる。
でも、その分類って正しいの? 正しいって誰が決めたの? なんで、私まで同じ考え方をしなくちゃいけないの?

せっかく、目があり、耳がある。「人は見たいものしか見ず、聞きたいものしか聞かない」というのは聖書の言葉であるが、私は見たい、聞きたい基準を自分で選びたい。
せっかく、感じる心があり、考える頭がある。自分の心で自分なりに感じて、自分の頭で自分なりに考えたい。

だから、キャスターがぐちゃぐちゃ自分の見解や感想をえらそうに付け加えるようなニュース番組は嫌いだ。解釈を押し付けるな。
上から目線で他者を笑いものにするバラエティより、フィクションはフィクションとわりきっているドラマより、リバイバルしか活路がなくなりつつある音楽より、キャスターが自分の考えが正しく、自分の知らないことはないと勘違いしているニュースが不快。
キャスターが「われわれ」とか「私達」とか「国民は」とか、言うな。私を一緒にするな。
それが感情論でしかないようなちゃちなコメントだったら、気分は最悪。
そして、おばさんはテレビの前での独り言が増えて、ますますおばさん化しちゃうんだから、ほんとやめてくれ。と言いたくなるんだ。
同じニュースだけをすべてのチャンネルで放送するようなやり方とか、その陰で何をしているの? 誰かがこっそり何かを隠そうとしているんじゃないの?と言いたくなるんだ。
ゆうきまさみが『未来放浪ガルディーン』で描いたカリカチュアのますこみ族だって、もしかしたら過去の美しいメディア像になるんだろうか。有川浩が『図書館革命』で描いたものだって美しすぎる。

確かに、客観的で中立的な情報というのは理念型でしかない。仕事上、私はよく知っている。人間はゆがみのない鏡にはなれない。
観察者が入った時点で情報は歪み、取捨選択されてしまう。そんなことは文化人類学や心理学がさんざん経験してきたことだ。
自分自身が当時者であることと、情報の受け手であることでは、まったく情報の質が違う。しかも、言葉には限界があることだって、社会学や哲学がさんざん思考してきたではないか。
それが自明の理じゃなくなっていることが、怖くて悲しい。

本書は、著者が雑誌や新聞に書いた記事や、ボツになった記事、書き下ろした記事を集めており、短いエッセイの集積としてとても読みやすい。
2002年から2004年にかけて書かれた短い文章の中に、オウム真理教のことやアメリカのイラク攻撃、小学校襲撃事件、迷子のゴマフアザラシや拉致問題、死刑についてなど、いくつもの出来事が織り込まれている。
その出来事についてどう感じたかだけではなく、その出来事の報道についてどう感じたか、その出来事を受け止める人々についてどう感じたかと、多層的な視野でエッセイは書かれている。
著者と同じように思考せよ、と言われている感じた人は、すでに思考停止する習慣ができている人だろう。自分と同じように思考していない著者はだめだと感じた人も、思考停止の習慣ができている。
メディアに関わる人がこういう本を書いていること、こういうことを言っている人もちゃんといるってことに、私は少し安心したんだ。

忘却することを否定はしない。なぜならば忘れなければ、人は憎悪と復讐でいつまでも身を焦がす。でも忘れるから、人は同じ過ちを際限なく繰り返す。(p.9)

2009.10.18

無差別殺人の精神分析

無差別殺人の精神分析 (新潮選書)  片田珠美 2009 新潮選書

どの事件も記憶にある。
凶悪な犯罪の報道は多く、報道はまた一層に喧しく、古いものを新しい情報で過去に押しやり、記憶を塗り替えていく。
それでも、深く記憶に刻み込まれて忘れられないほどのインパクトを残す事件もある。
この本で扱われている秋葉原無差別殺傷事件、池袋通り魔殺人事件、下関通り魔殺人事件、大阪教育大池田小事件、コロンバイン高校銃乱射事件、ヴァージニア工科大銃乱射事件のどれもが、印象に残っていた。
どれもが無差別大量殺人である。

大量殺人は「単発の事件として一つの場所で発生し、通常24時間以内に終了する」ものであり、連続殺人は「さまざまな場所で繰り返される事件として発生し、継続期間は、数日から、場合によって数年に及ぶことがある」と定義されるのだそうだ。(p.11)
著者が分析の対象とするのは、無差別に行われた大量殺人。先に読んだ小野不由美「落照の獄」で描かれていたのは連続殺人。
かれら殺人者の生育歴から事件当時の心理状態を、裁判資料や報道資料などをもとに再構成を図りつつ、レヴィンとフォックスという犯罪心理学者の理論に基づいて整理しつつ、分析を加えていく。
ここで用いられている「大量殺人の心理・社会的分析」のための、大量殺人を引き起こす6要因を引用しておく。

 (A)素因
    長期間にわたる欲求不満
    他責的傾向
 (B)促進要因
    破滅的な喪失
    外部のきっかけ
 (C)容易にする要因
    社会的、心理的な孤立
    大量破壊のための武器の入手(p.52)

なぜ無差別なのか。それを説明するのは投影や置き換え、投影同一視といった精神分析の概念である。
これらは内なる悪を受け止められない人の、自己を傷つきから守るための心理的な防衛機制である。私がこんなにも不幸であるのは、私が悪いのではなく、悪いのはあなたであり、彼らであると逆転させる。
これが他責的傾向であり、被害妄想になることもある。そして、悪いのはあくまでも相手であるからこそ、殺人者にとって自身の行為は正当な復讐にほかならない。したがって、反省や悔恨、悔悛が訪れるわけがなく、だからこそ彼らの気持が落ち込むこともない。

なぜ大量なのか。それを説明するのは誇大な万能感、過剰な自己愛といった概念である。
不幸でみじめな現実は仮のもの。本当の自分は素晴らしく、力強く、誇り高く、すべてに君臨すべきである。そんな空想が現実の中でへこみそうな自分を支えるために必要な時もあるが、その空想と現実の差があまりにも大きくなると破綻が訪れる。
自己愛が傷ついたとき、自我がその傷つきに耐えられないほど脆弱であるとき、世界への復讐を誓う。道連れにするものの大きさが、その人の見栄であり、せめても自己愛や万能感を満たすよすがである。

なぜ殺人なのか。自殺ではなく。
へたれだから、チキンだからと、個人的には言いたくなるが、著者の分析は違う。殺人者には、他責的傾向、他罰的傾向、妄想的傾向が高いために、悪いのは自分ではなく相手であるとすり替えやすいことを指摘する。
また、著者は殺人ではなく、拡大自殺であると言い換える。フロイトに引き戻り、そもそも自殺願望そのものが他者への攻撃性が相手に直接に向けられず、自分自身に反転したものであることを、読者に思い出させる。「自己懲罰という回り道を通って、もとの対象に復讐することができる」(pp.184-185)というフロイトの指摘は秀逸である。つまり、自殺はそもそもが自分を生み出した両親、自分を取り巻いてきた世界への復讐である。
個人的に付け加えるならば、自殺すべてをそう捉えるかどうかは別にして、そういう考え方を用いれば、彼らが一人で自殺するのではなく、世界を道連れにする殺人を選んだ理由がほの見えてくるというだけである。私は、うつ病者の自殺は、闘病の末に迎えた病の最終形態であり、病気の症状の一つであると考えているので、すべての自殺を他者への攻撃性の発露と考えるわけにはいかないからである。
とはいえ、たとえば、父母に対する憎しみを捨てられない人の自殺は、自らに流れる憎い人の血を振り絞るような行為であり、やはり、誰かに対する攻撃の変形と言われれば頷かないわけにはいかないところが悩ましいが。

また、精神科医らしく、精神分析家らしく、著者は殺人者たちの性愛をめぐる問題にも触れている。
ただ単に、殺人者がもてなかったり、女性を対象物扱いしかできずに継続的で安定した関係を築くのが難しかったり、自らの同性愛傾向を否認していたというような表層的な問題ではなく、そこに去勢不安を持ってくるところが、分析らしい。
エディプス・コンプレクスから、女性だけが幼少時に母親からの離反を体験している分だけ、対象喪失への耐性がある。つまり、男性の方が対象喪失への耐性が低い。
その上、「去勢不安ゆえに、男性は女性よりも自己愛の傷つきに過敏である」(p.190)からこそ、脅かされたときに強い怒りや攻撃性を示しやすい。
この二点から、大量殺人者は女性よりも男性が引き起こしやすいかも……という辺りは、にやにやしながら読んだ。著者は女性なんだもの。そんな風に傷つきやすい男性が身近にいるのかなぁ?なんて、連想してしまった。

どれもの事件で6要因が揃っていることを確認した上で、著者はそのどれかの要因を防ぐことはできなかったかを検証する。
そこから導き出された著者の結論には、分析の過程と異なり、いささか精彩が欠ける気がした。
なにしろ、これは避けがたい事態であったという再確認にほかならなかったのであるから。
どのような結論が描かれているか、それは各自で読んでもらいたいと思う。
処方箋の妙案なんてないよなぁ。安易な解決策も、絶対の予防策も、あるわけないのだ。

処方箋と言えば、SSRIと攻撃性の辺りも面白かった。
アメリカでの事例では、それぞれ前科から更正のトレーニングに付随して服薬していたり、もともと不適応を起こしやすくて治療歴を持っていた。
そんな診断になるのか、そういう治療プログラムを提供するのか、など、アメリカでの精神科医療やシステムの一端も垣間見えて興味深かった。
なんかいろいろ違うなぁ。いい意味で違うんじゃなくて、安易さを感じて納得できない感じがしたんだ。

それと、これは本書には関係しているわけではないが、「落照の獄」を読んでから考えさせられていることがある。それは、人に死を与えて反省しない人にふさわしい罰とは何か、ということ。死刑になりたいから死刑にしろ、という犯罪者にふさわしい罰とは何なのか。
私の発想はハンムラビ法典レベルであるが、どうやったら相応の苦しみを味わわせることができるというのだろうか。無理じゃないか。
この本を読んで、こうやって彼ら無差別な殺人者に対する予防策も処方箋もわからぬのが現状であるのなら、その予防策なり処方箋を探すための材料になってもらうことが、もしかしたら一番生産的なのかなぁ?と考えている。
彼らにはとても不本意であると思うが、世界や将来に寄与してもらうには、それしかないのかも、と考えている。

2009.10.14

国家と祭祀:国家神道の現在

国家と祭祀―国家神道の現在  子安宣邦 2004 青土社

とてもよい本だった。
居住まいを正したくなるような硬質な気配を持ち、初めて知ることも多く、印象深く残っている。
しかし、読み返すことはないだろうと思い、手放したので、初読時の感想を修正して記録しておこうと思う。

国家神道というものには、祭教分離と祭政一致により、政教分離の批判を言い逃れようとした姑息さがあった。
法制度は過去のものであったとしても、宗教人に持ち続けられている国家/権力への欲望も、帝国の挫折から起死回生を図ろうとするかのような戦争への欲望も、どちらも現在のものである。
両者は、一見は眠りについているかのようで、いつでも目覚める危険性はあり、常に叩き起こしかねない危険性がある。

本書は戦う国家と祀る国家という視点から、戦争放棄と政教分離の現代的な意義を意味づけ直している。
著者は言う。「祀る国家とは、戦う国家である」と。
国家が戦争を行うことで生じた多数の死者を、「殉死者」として聖別するということが、国家が祀るということである。
彼らの死は国家のための献身であると意味を付与し、無駄死、犬死というやりきれなさを遺族から昇華させる機能だ。
これにより、国家が死者を祀ることによって、国家が戦うことが正当化される。だからこそ、国家が祀るという営みを神域に覆い隠して保全することは問題であると、著者は鋭く見破るのだ。

読み慣れない漢字が多い上に、久々の専門書は文章が硬く、一文が長く、非常に読みづらい感があった。
が、第三章に至り、著者自身が失った家族に対する記憶と情緒がにじみ出る。そこから、なぜ彼がこの主題にひきつけられるのかを見出すことができる。
本文はとても読みきれないという人にも、せめてあとがきだけは読んでいただきたいと、広く考えてもらいたいと、心から願う。

この本を読んで興味を持ち、靖国神社に行った。私にはどうにも馴染みを覚えることのできない文化として忌避してきた。
敬意は払いつつ、まっすぐ遊就館に向かった。若い人が多く、デート中と思しきカップルや、女性二人組もいて、なんだか意外だった。
展示内容というよりも、展示品の説明の仕方が独特で、やっぱり苦手意識が増した。でも、本書に紹介されていた展示室19「靖国の神々4」の部屋は見ておきたかった。
つまり、祀られている人々の遺影パネル(写真がない時代の人の場合は肖像画など)が壁一面に貼られている部屋だ。
あの時の気持ちは、いまだ言葉にはならない。
ただ、このパネルを増やしてはいけないと、願わずにはいられない。
(2005.9.17)

2009.10.08

人を励ますのが苦手な人のための50の簡単な方法

人を励ますのが苦手な人のための50の簡単な方法  C. E. ローリンズ 弓場 隆(訳) 2009 ディスカバー21

自分の仕事に役立つかと思って手に取った本だったが、示されている言葉の数々、なんだか見慣れているというか、よく知っている感じがした。というのも、友達や恋人が私に投げかけてくれる言葉をいくつも見つけることができたからだ。
言われたことがある言葉を見つけては、そのとき、その場面を思い出して、にまにま。
ああ、だから、彼女はすごい。本当にすごい。いつも思う。ありがたい。
彼もだ。さすが、励ます人。彼自身はわかっていないかもしれないけれど、私はさすがだと思っている。

こんな言葉をもらえると励まされるし、友達や恋人の励ましがほしい時がある。
人を励ますことばかりしていて空っぽになりそうな時は特に、自分の分も欲しくなる。
ささいな一言にこめられた気持ちを受け取って、だからまた頑張ることができるんだ。
もちろん、いつも自分を励ましてくれる音楽だってあるんだけど、私のためだけに紡いでもらう言葉はもひとつ特別だったりする。
いつも励ましてくれる人たちのように、自分も人を励ますことができればいいのにな。
もちろん、ここに示されている言葉の多くを既に自分が使っているんだけれども、もっともっと……。
がんばろー。

最後に相手が励ましを受け入れない時のことまで触れられているところに配慮を感じる。
この本は、誰かを励ますためだけではなく、自分を励ますために読んでもいいんじゃないかな。
いかにも翻訳って感じのタイトルであり、示されているメッセージ例も日本で使うのは気恥ずかしいものもあるかもしれないが、大事なのは表現よりも気持ち。

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