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2009.09.24

乳と卵

乳と卵  川上未映子 2008 文藝春秋

しんどいなぁ。
ほんま、しんどい。

小説を読むのがしんどかったというのもある。人の頭の中の意識の流れは、整理された一本道などではなく、目に入る刺激によってはたやすく横道に入ったり、複数の流れが同時進行的に入り乱れたりするもので、それをそのままなるべく忠実に書き起こそうとすると、非常に読みにくい文章になったりする、と思う。
これは、そういう文章で書かれている。時折、関西弁が混じりながら、その関西弁がまた自分の慣れ親しむものとは地域を異にするものだから違和感があったり、かといって標準語で統一されたらこの味が出ないのもわかりつつも、なんだか読みにくい。口調によって主人公らの気持ちの上下が伝わるのだけれども、頭の中で音声化しながら読んでみたりするとリズムが掴みにくくて、それがはまりこむのがしんどかった理由の一つ。

あくまでもそれは表面的なしんどさであって、本当にしんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。
この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。
うん。

登場人物は、わずか3人。短い小説である。
主人公の夏っちゃん(夏子?)の一人称に、姪の緑子の独言が差し込まれる。
東京に住む主人公のところに、姉である巻子と、巻子の娘である緑子が大阪からやってくる3日間を描いている。
彼女達が東京にやってきた目的は、巻子が豊胸を手術を受けるため。その母親に対して緘黙を保つようになった緑子は、生理が来ることを密かに恐れている。
この親子の断裂は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。

子を産み育てことで貧弱になった胸を取り戻そう(どころか立派にしよう)とする母親は、子を産み育てことがそもそもの間違いかであったかのように子の目には映り、性的な魅力を身につけることで生殖の過程と成果を否定して、母ではなく女たらんとしているかのように思われる。
しかし、それは一義的な見方であって、性的により魅力的な女性となることで自らの商品価値をあげ、なんとか娘を育てていきたいとする母としての意識が彼女を駆り立てていないとは言いきれないのであるが、娘には伝わっていない。

子は子で、深く自分を責めている。母に優しくしたいのにできない。もっと話したい、言わなくちゃいけない言葉があるのに、喋ろうとすると喧嘩になるから、沈黙を保つしかない。それは母を守ろうとする精一杯の身振りである。しかし、それは子が母が侮蔑し、拒絶する態度として目に映る。
生んだことで後悔するなら生まなければよかったのに。生んだことで苦労するなら生まなければよかったのに。「みんなが生まれこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも、悲しいも、何もかもがもとからないだもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、そしたら卵子と精子、みんながもうそれを合わせることをやめたらええと思う」(p.83)と、自らの体の中に生まれる前から仕組まれている卵子という生殖の、再生産の仕組みを、子は憎む。

この親子の姿を見て、主人公は二人は言葉が足りない、そこにいる自分も言葉が足りないと嘆く。
そもそも、乳房の復活は、母性の復興ではなかったのか。咳止めに頼っている場合じゃないのだ。まったく。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう親子の姿は、しかし、ものめずらしいとは思えない。
言葉が足りない。でも、そこに気持ちがないわけではないのだ。
足りないまでも言葉を紡ぐことができれば、気持ちを紡ぎなおすこともできるかもしれない。
縁を、より強いものへと紡ぎなおすことが。

それにしても、いつから身体はこんなにも「私」にとって他者になってしまったのだろう。
生まれ持って与えられたものであり、勝手に変化していく思い通りにならぬものであり、そこから抜け出ることの許されない器。
その器に与えられた社会的な女性性の問題は、併録された「あなたたちの恋愛は瀕死」でも繰り返される。
こちらもなかなか空恐ろしくなるような短編であり、この空恐ろしさを感じない女性は、おそらく若いか、美しいか、魅力的なのであろうと思ってみたり。
表題作が、斎藤環『母は娘の人生を支配する』の題材の一つにされていた。読んで、久々に、女ってしんどいよなぁ、と、ぼやきたくなった。

子どもを産むって大仕事で、育てるのはもっともっと大仕事で、勢いで取り組む人もいるやろうけど、勢いばかりでは乗り切れない年齢の私はやっぱりこんな思いをさせることがわかっている子を産んじゃいけないなぁ。

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