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香桑の近況

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2009年9月

2009.09.30

(雑誌)落照の獄

小野不由美 2009 yom yom7月号vol.12

小説だから、こういうことができる。
この作品の重たさは、呼応して、読み手に現実を想起させるからだろう。

ひとつは、報道で接する凶悪殺人であり。
もうひとつは、今年から始まった裁判員制度であり。
さらに、死刑という制度に対する賛否であり。
果たして人は人を裁くことはできるのか。
そして、漫然と広がる暗い時代の予感。

舞台は北方の柳国。
王の治世は百数十年。落ち着いた法治国家であったが、何か変化の兆しがある。
国が傾く。
その予兆は、目を背けたくなるほど、浮足立ちそうになるほど、漠然とした不安を駆り立てる。
民衆が不安に駆られたとき、世論は暴走しがちになる。政府や報道も例外ではない。
滅びが近づいている。
その時代のうねりが多すぎて、一人の人ではどうにもできない。手の届かないところで何かが見落とさていく。手から大事なものがすり抜けていく。
気持ちが、どうしてこう伝わらないのだ。そのもどかしさ。
歯がみをしても、もう遅い。

連続殺人と大量殺人は定義を異にする。作中の問題提起者となる狩獺は連続殺人である。
が、私は大阪教育大付属池田小学校事件を想起せずにいられなかった。
死刑になりたいからと、誰でもいい他者を殺してみせる、その精神性を思い出しながら読んだ。
死刑になりたいからと言って罪を犯した人を死刑にする。その営みに無力感や徒労感を感じる。
かといって、罪を犯した人をそのままにすることはできない。
では、ふさわしい罰とは何か。

馴染みの主要な登場人物らは誰も出てこないことは寂しいが、十二国記を初めて読むという人にも違和感は少ないかもしれない。
ずっしりと重たい。読みごたえはさすがであった。

yom yom (ヨムヨム) 2009年 10月号 [雑誌] yom yom (ヨムヨム) 2009年 10月号 [雑誌]

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2009.09.28

アガルタ・フィエスタ!(3):アトランティス・アタック!

三田 誠 2006 電撃文庫

今度の祭りは海。
ヒッタイトを滅ぼし、アテナイとも戦った伝説の海の民が、もう一人の赤い髪の女帝と共に主人公達に襲いかかる。
荒唐無稽っぷりも堂に入った第三巻。
明るく元気なばかりでいられないのは、イセリアに襲い掛かる過去の記憶が切ないからだ。
そして、次の最終巻へと引っ張る終わり方が、すっきりしないからだ。

そんなわけで、イセリアの妹アルシア登場。
解放者(ハジュラ)って男性限定なのかな。
男の子/男の人たちが人形を奪い合うって、結構、シュールな景色よねぇ。
このシリーズを読んでいると、まどかとイセリアでは『ローゼンメイデン』を連想するのだが、グラコスってばアルシア相手にそりゃまずいだろーいろいろと……と口ごもってみたり、もりみー『四畳半神話大系』を思い出したり……すみません。
そいや、最初にグラコスが見つけたのってなんだったんだろう。アトランティスを見つけたってことだったのかな。

相変わらず、雛乃さんが無敵で素敵すぎ。
クロードの心の師匠は、やはりジョーンズ先生だったことがわかる台詞で、笑わせてもらった。
ラサもすっかり居つき、詩奈もレベルアップ中。
どたばたした日常に、彼らは戻ることができるのか。

4巻目、早く借りたいなー。

2009.09.25

アガルタ・フィエスタ!(2):石のナイフと褐色の巫女

 三田 誠 2005 電撃文庫

明日がどっちか気になったので、早速、続きを読んでみた。
相変わらずのはちゃめちゃぶりが痛快で楽しい。
お祭り騒ぎのタイトルにふさわしい、にぎやかなシリーズ。

一冊目に比べて、世界観が少し変わった印象を受けた。
イセリアの記憶のシステムやマジックアイテムの位置づけが整理されたというか。
物語世界をとりまく設定が整理されて強化されたような。
それはあくまでも印象であって、どこがどうと言うのは難しいのだけれども、魔法の流れが見えやすくなった気がした。

今度は、アステカ文明から使者が訪れ、主人公まどか達はメソアメリカに飛ぶことになる。
待ち受けるのは、翼のある蛇ククルカン。256年に一度、犠牲の心臓を求めた赤い髪の女王の伝説。
揺らぐイセリアの記憶と自我や、まどかと行動を共にする詩奈の覚悟が試される。
……と書くと、頑張っているのは女の子達ばかりで、男性陣って…………。

2009.09.24

アガルタ・フィエスタ!:てのひらに女王を!

アガルタ・フィエスタ!―てのひらに女王を! (電撃文庫)  三田 誠 2004 電撃文庫

懐かしいなー。
にまにましながら読んだ。
別にこの本が懐かしいってわけじゃなくて、菊地秀行のエイリアン・シリーズを彷彿としてむちゃくちゃ懐かしかったのである。トレジャー・ハンターだし。
世界に隠された秘宝や秘伝の類としては、『淫界伝』も面白かったんだよなぁ。なんと言っても、アレクサンドリア大図書館が出てくるんだもの。
菊地秀行からエロスの部分をばっさりと切り落として、代わりに、ゆうきまさみの軽さを足してみると、こんな感じになるのかな? クロードや雛乃さんといったキャラクターには、ゆうきまさみを見る思いで、それもこれも懐かしかったりしたのだ。
本書の感想になってないなぁ。

失われた古代王国。
その女王は、自らを人形に封印して、王国の秘宝を回収する。
女王を手にした者は、世界の覇王として君臨する。
故に、女王こそが究極の秘宝である。
そんな設定を手のひらに放り込まされたのは、普通の(はずの)男子高校生。

この作者の小説は、普通のはずの男の子が、とてつもなく変な環境に放り込まれて、成長をよぎなくされたりする筋が多い気がする。相棒に、人形というのもパターンな気がする。あと、父親が行方不明というのもすっかりデフォ。
とはいえ、そのパターンが展開する場が、まったく違うのでそこはお好みでどうぞ。
レンタルマギカでは各種魔法、イスカリオテでは各種聖人が出てくるが、今回は秘宝ということで、マジックアイテムがざくざく出てくる。
ヴィシュヌ、ブラフマー、ロンギヌス、ヘルメス、インドラ、ハヌマーン、ハトホル、クロノス……神話好きなら、秘宝がちなむどの名前でもにやりとすること請け合い。如意棒に芭蕉扇もしかり、だ。

キャラクター達も表情豊かによく動いて、なかなか魅力的。
主人公のまどか。名前と身長がコンプレクスの、料理が妙にうまい高校生。成績はダメ。
まどかの幼馴染み、ツインテールが可愛い、詩奈。
ある意味、今後も最強を誇るであろう、まどかの若すぎる母、雛乃さん。
テンガロンハットにすりきれたサバイバルベスト、鞭という出で立ちがいろんなものを語ってしまう、お人よしすぎるトレジャーハンターのクロード。
秘宝を狙う大物小物達にとって一番の標的であるアガルタの女王イセリア。

明るく軽く楽しく読める感じがいい。しかも、かなり健全な感じなのもいい。
イセリアと歩む道を引き返せなくなってしまったまどかの明日はどっちだ?

乳と卵

乳と卵  川上未映子 2008 文藝春秋

しんどいなぁ。
ほんま、しんどい。

小説を読むのがしんどかったというのもある。人の頭の中の意識の流れは、整理された一本道などではなく、目に入る刺激によってはたやすく横道に入ったり、複数の流れが同時進行的に入り乱れたりするもので、それをそのままなるべく忠実に書き起こそうとすると、非常に読みにくい文章になったりする、と思う。
これは、そういう文章で書かれている。時折、関西弁が混じりながら、その関西弁がまた自分の慣れ親しむものとは地域を異にするものだから違和感があったり、かといって標準語で統一されたらこの味が出ないのもわかりつつも、なんだか読みにくい。口調によって主人公らの気持ちの上下が伝わるのだけれども、頭の中で音声化しながら読んでみたりするとリズムが掴みにくくて、それがはまりこむのがしんどかった理由の一つ。

あくまでもそれは表面的なしんどさであって、本当にしんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。
この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。
うん。

登場人物は、わずか3人。短い小説である。
主人公の夏っちゃん(夏子?)の一人称に、姪の緑子の独言が差し込まれる。
東京に住む主人公のところに、姉である巻子と、巻子の娘である緑子が大阪からやってくる3日間を描いている。
彼女達が東京にやってきた目的は、巻子が豊胸を手術を受けるため。その母親に対して緘黙を保つようになった緑子は、生理が来ることを密かに恐れている。
この親子の断裂は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。

子を産み育てことで貧弱になった胸を取り戻そう(どころか立派にしよう)とする母親は、子を産み育てことがそもそもの間違いかであったかのように子の目には映り、性的な魅力を身につけることで生殖の過程と成果を否定して、母ではなく女たらんとしているかのように思われる。
しかし、それは一義的な見方であって、性的により魅力的な女性となることで自らの商品価値をあげ、なんとか娘を育てていきたいとする母としての意識が彼女を駆り立てていないとは言いきれないのであるが、娘には伝わっていない。

子は子で、深く自分を責めている。母に優しくしたいのにできない。もっと話したい、言わなくちゃいけない言葉があるのに、喋ろうとすると喧嘩になるから、沈黙を保つしかない。それは母を守ろうとする精一杯の身振りである。しかし、それは子が母が侮蔑し、拒絶する態度として目に映る。
生んだことで後悔するなら生まなければよかったのに。生んだことで苦労するなら生まなければよかったのに。「みんなが生まれこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも、悲しいも、何もかもがもとからないだもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、そしたら卵子と精子、みんながもうそれを合わせることをやめたらええと思う」(p.83)と、自らの体の中に生まれる前から仕組まれている卵子という生殖の、再生産の仕組みを、子は憎む。

この親子の姿を見て、主人公は二人は言葉が足りない、そこにいる自分も言葉が足りないと嘆く。
そもそも、乳房の復活は、母性の復興ではなかったのか。咳止めに頼っている場合じゃないのだ。まったく。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう親子の姿は、しかし、ものめずらしいとは思えない。
言葉が足りない。でも、そこに気持ちがないわけではないのだ。
足りないまでも言葉を紡ぐことができれば、気持ちを紡ぎなおすこともできるかもしれない。
縁を、より強いものへと紡ぎなおすことが。

それにしても、いつから身体はこんなにも「私」にとって他者になってしまったのだろう。
生まれ持って与えられたものであり、勝手に変化していく思い通りにならぬものであり、そこから抜け出ることの許されない器。
その器に与えられた社会的な女性性の問題は、併録された「あなたたちの恋愛は瀕死」でも繰り返される。
こちらもなかなか空恐ろしくなるような短編であり、この空恐ろしさを感じない女性は、おそらく若いか、美しいか、魅力的なのであろうと思ってみたり。
表題作が、斎藤環『母は娘の人生を支配する』の題材の一つにされていた。読んで、久々に、女ってしんどいよなぁ、と、ぼやきたくなった。

子どもを産むって大仕事で、育てるのはもっともっと大仕事で、勢いで取り組む人もいるやろうけど、勢いばかりでは乗り切れない年齢の私はやっぱりこんな思いをさせることがわかっている子を産んじゃいけないなぁ。

2009.09.18

愛の偶像(ラブ・アイドル)

作詞 みうらじゅん/作曲 高見沢俊彦

阿修羅に会いに行ったときに、物販コーナーで流れていたB.G.M。個別で商品化されていたとは知らなかった……。しかも、阿修羅ファンクラブ公式ソング認定になっていたなんて。

勢いで購入。帰り道は、聞きながら帰りましたとも。しばらく頭から離れなくなるのが楽しいです。

どうやら東京国立博物館および九州国立博物館でしか販売されない模様につき、アフィリは見つかりませんでした。

http://www.ashura-fanclub.jp/topics/20090119.html

2009.09.14

見仏記

見仏記 (角川文庫)  いとうせいこう・みうらじゅん 1997 角川文庫

阿修羅に会ってきた。
興福寺ではなく、博物館に行ってきたのである。
初対面ではなく、再会のはずである。
しかと憶えていないが、確か再会のはず。
興福寺に行ったのは、私が関西に住んでいた頃、こんなにもてはやされていなかった頃だった。

その展示を見終えた後、おみやげ物のコーナーを見るのが楽しい。
阿修羅関係のクリアファイルやトートバッグに、興福寺特製のお線香であるとか、お茶(興福茶)であるとか、食指を動かされまくった末に、この本と、阿修羅ファンクラブ公式ソングのCDを記念に購入した。
この見仏記は、興福寺から始まっているのだから。

奈良、京都、東北、九州……。旅行記ではなく、仏を見た記録。
仏像そのものについての薀蓄ではなく、仏像を見たときの感覚や感想、連想をつづったエッセイ。
いとうせいこうとみうらじゅんのかみ合っているような、かみ合っていないような、時々、がっちりクロスするような会話が楽しい。
二人で勝手に想像を広げていく感じが楽しい。仏像を作ったときの人の気持ちや、時には仏そのものの気持ちにまで想像は広がる。
それがやけにアクチュアリティが感じられて、思わず笑いがこみ上げてくることもしばしばだった。

しかし、いかんせん、寺と仏像の名前で映像が思い浮かぶほどには、私は仏像は詳しくないのだ。そこが悔しい。
思い浮かべることができたら、この二人とさも一緒に仏を見ているかのような気分まで、楽しめたであろうに。
後で、ちょこちょことネットで検索して画像を探してみたりしたが、やっぱり行ってみたいなと思った場所もいくつかあった。
阿修羅と会うのも、次は本来の場所がいいな。
私のリーダーも探してみたいな。今のところ、三井寺の如意輪観音様がベストなんだけど……。

面白おかしく読んだ本だったが、最後の最後で泣きそうになった。
三十三年後の約束。なんて、かっこいいことをしちゃうんだ。
二人の得た結論めいた会話が、この記録の二人の年齢を越えた私の胸に響いた。

「なにしろ、仏像は修復出切るからさ」
「でも、人間は修復出来ない」(p.289)

2009.09.09

レインツリーの国(文庫本)

レインツリーの国 (新潮文庫 あ 62-1) 有川 浩 2009 新潮文庫

単行本は発売されてすぐに飛びつくように読んだ。
その時のレビューを見返すと、かなりのダメージを受けていた模様。
うぅむ。すっかり忘れていた。
というわけで、文庫化されて読み直しをはかったが、自分の体験を忘れていただけに、今回のほうが純粋に物語を楽しめたような気がする。

一冊の本のレビューを通じて、ネットで知り合った二人。
文字情報だけで成り立つ互いの印象は、メールを交わすほどに好感度が高まる。
だが、文字だけではわからなかったこと、隠せていたことが、障害になる。

耳が聞こえない。その体験を、私がそっくり理解することは難しい。
知識として知っているだけでも、配慮の幅は広げられるかもしれない。
少しは想像することなら、できるかもしれない。
たとえば、聴覚障害があるだけで、ひとみや毬江が主人公になれないなんて、理不尽なことがあるってこと、想像することもなかった。
このあとがきは、図書館戦争のアニメ化の時点で情報を追いかけていた人なら知っていることだと思うが、今後、この作品と出会う人にも一緒に考えてもらいたいことだ。

差別と区別をわけることは難しい。特別を作らずにいることも難しい。
実際に現にあるものをないものとしてユートピアを描くのではなく、今あるものを乗り越えていく姿勢を示すからこそ、ラストがとてもすがすがしくて気持ちよい。

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