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香桑の近況

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2009年7月

2009.07.26

(雑誌)蝉丸

中山可穂 2009 野性時代8(vol.69)

うっとりするほど美しい。
『弱法師』に続く、能の作品をもとにして書かれた小説だ。
枚数も多く、能のあらすじよりもずっと複雑な読み応えのある物語になっている。
アンコールワットを舞台に、エロスとタナトスを包み込む天上の音楽に酔う。

この中山の小説も載っていることが、雑誌を買う後押しになった。
ヴィオラ・ダ・ガンバが出てくる小説は、『千年医師物語』以来だ。
たった一つの楽器の名前で、それだけでもテンションがあがった。

蝉丸と逆髪。
能では盲目の琵琶法師に身を落とす蝉丸は、両性具有的な魅力のカウンターテナーの美青年。
蝉丸の姉である逆髪は、髪が逆立つ病を持つ物狂いの皇女であるが、攻撃的なギターを弾く女性となる。
蝉丸の世話をする博雅を加えた三人の関係は、親密なものから緊張をはらむものへと転じていく。
互いを思うあまりに、首を絞めあうような、抜き差しのならないものへと転がり落ちていきそうな。
しかし、愛は自分を殺すことはできても、相手を殺すことはできない。

髪は、霊力を宿すという。
歌舞伎でも、神楽でも、異能の霊力を表す時には、ばさばさの長い髪を装うことが多い気がする。
古来、物狂いは巫女の資質でもあるから、逆髪という造詣は女神の訪いであるとも読めまいか。
皇女は斎宮になる資格も持っており、天皇と斎宮は、兄妹神もしくは姉弟神の具象である。
そんな連想をしてみたが、この小説では、逆立つ髪は本当は心優しい女性の怒りの表現になっている。

その後、どうなるのだろう。どうなったのだろう。
私の好きな歌の一つである。

  これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

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2009.07.25

(雑誌)好きだよと言えずに初恋は、

有川 浩 2009 野性時代8(vol.69)

何度読み返しても泣いてしまうぐらい、何度も読みたくなるからまだ誰にも貸せないぐらい。
こんなにがっつりと引きつけられた本も久しぶりだと思った『植物図鑑』
その『植物図鑑』の番外編、単行本未収録。と、聞いて我慢できるわけもなく、本屋さんに何度も通った末にやっぱり買ってしまった。
さやかとイツキの名前が出てくるわけではないけれど、確かに『植物図鑑』に繋がっているところが微笑ましい。

読んでみたら、『三匹のおっさん』とも繋がっていた。
というか、『三匹のおっさん』はそんなに読み返さなかったので、どこに繋がっているのか、迷った。
で、本篇を読み返す羽目になったわけだが。それもアヒルの話以外は全部。
そして、おお、ここか。ここだったのか、と読み直してようやく得心が行った。

小学生の初恋。初々しくて、苦い。でも、思い出せばほのかに甘い。
そんな短編小説だ。
初恋って、これといってはっきり憶えていないのが、ちょっと残念になった。
もともと空気を読むのが苦手で、転校を繰り返すたびにますます人の情緒に鈍感にするようになったから。

小学生だって、立派に女だ。
女というより、私ならメスと言い表す。そういう性を持っている。
なんでもかんでも恋愛に結びつけたがり、抜駆けを許さない。
同時に、集団の力学と暗黙の了解に敏感であることを要求する。
和を乱す因子は容赦なく弾き飛ばす。押し潰す。
その残酷さは、身をもって知っているので、あーやだやだと眉根を寄せてしまった。
そりゃまあ、少しは人格的に斜めになっても、偏っているふりをしてみてもしょうがないよね。

思い出のよすがになるものは、なんでもいい。
花かもしれないし、歌かもしれない。料理かもしれないし、景色かもしれない。
その思い出が美しく貴いものとして蘇るなら、それでいい。
普段は忘れていても、思い出が力を取り戻させてくれることもあるから。
今の人とはどんな思い出が残るのだろう。何がよすがになるのだろう。
思い出にしたいわけじゃないけれど。思い出にしたくないけど。そんなことを考えた。

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2009.07.17

ZOO1

ZOO〈1〉 (集英社文庫) 乙一 2006 集英社文庫

苦手な描写もある。
ヴィジュアライズしたらダメだぞ。と、頭の中で警報が鳴るような。
だけど、そんなグロいはずの物語が切なく終わったりするからずるい。
この中には、黒から白まで5つの短編が収められている。

「カザリとヨーコ」
家族内の一人をよってたかって虐待することで、そのほかの家族は平和で親密な関係を維持する。そのような被虐待にあう一人のことを、スケープ・ゴートと呼ぶ。そのような家族内のシステムを、スケープ・ゴーティングと言い表す。
生れ落ちたときから当然のように虐待されてきた子どもは、そのようなことをする相手に疑問を持ちにくい。むしろ、自己評価は下がりに下がり、抵抗したり逃亡しようとする意欲や、発想すら持たないことがある。
そんな有様を端的に表現しているのが、この短編だ。同胞葛藤と母娘葛藤に気づいたときに、平和だったシステムは崩れる。
主人公の少女の、時々打算的な口調が好きだ。悲劇に酔うのではなく、したたかに生き延びようとする懸命さが愛しい。この子の選んだ行動を責めることは難しい。

というか、虐待を発見したらすみやかに児童相談所もしくは警察に通報しましょう。
現在の法律は、通告義務があります。
と、主人公の通う学校の教師に言いたくなった。

「SEVEN ROOMS」
痛い痛いグロイ痛い気持ち悪いーーーっ。
途中から予想がついた展開でありながらも、なんだかしんみりともやもや残る終わり方。
このあたりの余韻の残り方が乙一さんらしい気がする。
人は誰かの犠牲の上に生きていること。その背負う罪に気づいたとき、生き延びた人の罪悪感(survivor's guilt)が主人公の人生に落とす影を思うと、これは決してハッピー・エンドでないことが理解される。
神話的な要素もあり、メレディス・アン・ピアス『ダーク・エンジェル』を彷彿。

「SO-far:そ・ふぁー」
こっちは藤野千代『ルート225』を連想したが、結末はまったく違っていた。
ファンタジックな展開を予想させながら、とても過酷な現実にランディングさせていく。
この話、私は結構、好きだな。皮肉だけど、主人公は無力ではない感じがいい。
両親の間に挟まれ、双方の意見を伝えることで両親が別れないようにかすがいとして働こうとするタイプの子どもを、「伝書鳩」と分類する。
これも、子どもの心をひどく傷つける親の要求である。親はそのツケを払わなければいけない。

「陽だまりの詩」
これが一番好きだ。ほっとした。
切なくて、暖かくて、カレル・チャペック『ロボット』以来の命題の再現。
世界の美しさ。心の美しさ。透明感の溢れる描写に、心を打たれる。
こういう話は好きだなぁ、とうっとりするばかりだった。

「ZOO」
こいつ、だめだ。
いくらトホホでも、こいつには萌えない。
所詮、萌えないヘタレなので、同情や共感できるような深みはない。
と、むかっぱらを立てたのは、腐敗する死体の描写が気持ち悪かったから。
冒頭の描写と小説、写真と映画の対比などは非常に面白く、作者の小説観がうかがえるようだ。

乙一の描く少年少女は強い。大人たちに比べると、ずっと強い。
虐げられたとしても、屈しきらない命の強さを秘めている。
そこがまた、この作品群の魅力なんだろうと思った。

ガン病棟のピーターラビット

ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)  中島 梓 2008 ポプラ文庫

この本の著者は亡くなっている。
それが、不思議な感慨をもたらした。
読み進めるにつれて、著者が生と死を受け入れていく過程が見えてくる。
心が澄んで落ち着いていく過程が見えてくる。
切なくて、目を閉じた。

正直なところ、途中で読んでいて口がへの字になったところもあった。私は彼女のファンというわけではないから、何を聞かされても許されるというような広い心持ちにはなれないのだ。
見送った伯父のことや、その時に通った緩和ケア病棟の様子が思い浮かばれて、持てる者と持たざる者を違いを思うとき、「わがまま言うなー」と思ってしまった。
でも、その半面で、なるべくQOL(Quality of Life:生活=人生の質)を落とさずにいたいというのもわかる。それができるなら、そうしてほしい。
なぜなら、命には必ず限りがあるから。

と言っても、食や入院環境について、自論を書くときの著者は「わがままだけど」と必ず前置きしている。
だから、読まれてどう思われるかをわかっていて、それでもなるべく正直に、一人のがん患者の体験記を著わそうとしたのだと思う。
それに、伯母も死期が近づいてからは肌に触れるものすべてを刺激に感じて「ふわふわしたもの」に安らぎを求めようとしていた。伯母も伯父達も消化器系がんの術後は食べるものに本当に苦労した。
そんな私の知っている人たちの様子が思い出されて、そうだったそうだったと頷く面も多く、想像されるだけに著者の訴えを痛々しく感じた。

その上、最終章からあとがきまで読んでしまうと、著者に感じたささやかなわだかまりも消えうせた。
この人が、じたばたしたかもしれないけれど、心残りもあったかもしれないけれど、少しでも穏やかに豊かにその後の時間を過ごされたのだったらいいなぁ。
わからないけど、心からそう祈りたくなった。冥福と共に。

がんは私にはとても身近な病気だ。
だから、とても無視できない。
と、同時に改めて本を読むのは、ためらわれたりもした。
今も知り合いや親戚の誰ががんで闘病中であるか、家族が闘病中であるか、数えてみると一人ではない。
同じ範囲の中でこの一年以内に亡くなった人も、一人ではない。
いつか自分が罹患するパーセンテージも高いのだろう。私の家系なら、消化器系になるか、婦人科系になるか。

でも、私は見知っているから、まだいい。
切り取られた臓器を見せてもらい、転移に侵された臓器のMRI画像を見せてもらい、人が死にゆくまでの闘いを見せてもらっている。一度ならず。
怖いけど、いい。そうなることは怖いけど、見せてもらっているから、いい。私も同じ道をゆくかもしれないことを知っているから。
だけど、世の中には、現代社会は死を覆い隠しているという批判があったりして、死をどこか遠いもののように感じている人も確かに多いのだろう。
それならば、こんな手記も他人事のように読まれるかもしれないが、それでも死が自分の隣にある実はとても身近なものだと少しでも感じてもらえたらいいな。

死はその人が最後に行える教育である。人がよりよく生きるために。

2009.07.12

七姫幻想

七姫幻想  森谷明子 2006 双葉社

七夕にあわせて。
織姫には、もともと、巫女、神女あるいは女神としての性質があったという。
中国から伝わった伝説であるが、いつ頃から日本にも根付いたのであろうか。
機織女に神性を見出す古代の信仰は、ハイウヌウェレ型の神話のひとつである瓜子姫を挙げてもよいし、夕鶴にも痕跡を見て取ることができるだろう。

作者は、衣通姫(そとおりひめ)の伝説に絡めつつ、オムニバス形式で7人の姫の物語を語る。
7人は織姫の7つの異称にちなんでいる。その名は、秋去姫(あきさりひめ)、朝顔姫(あさがおひめ)、薫姫(たきものひめ)、糸織媛(いとおりひめ)、蜘蛛姫(ささがにひめ)、梶葉姫(かじのはひめ)、百子姫(ももこひめ)。
彼女たちは、古代から近代へ、水際で糸を布へと織りながら、人模様、恋模様を描き出す。
歴史の背後に一つの血筋、古い血と力を受け継ぐ一族の存在を見え隠れさせながら、時代が下るほどに姫たちは神性を失いつつ、機織りもまた市井のものとなっていくのだ。

そこに謎解きの要素が加わるが、解くべき謎として人が死ぬ。
人が死ぬのは女神たちへの犠牲であるとも見なすこともできれば、瓜子姫もしくはアマノジャクが死なねばならなかったことと軌を一にするのかもしれない。
神に捧げるために死ななければならなかったのか、神であるからこそ死ななければならなかったのか。
それでいて、血なまぐさくならないのは、物語をしめるように添えられた短歌や俳句のもたらす後味のためだろう。
森谷さんならではのことで、さりげなく大伴家持や清原元輔、清少納言といった名だたる文人らが登場している。
平安時代のこととなると、ことさら、人間関係も複雑に描かれ、事件や習俗も詳しくて、先に読んだ『千年の黙:異本源氏物語』『かぐや姫の結婚』とあわせて楽しみたい。

登場人物の名前が興味深かった。衣通姫は、名前の字面に「衣」という字が入る点でも、発音に「おりひめ」と入るところでも、織姫神話の再構築にふさわしいと思われた。
次に出てくる女性の名前は「みづは」という音である。物語中では、「美都波」「瑞葉」「椎葉」などと表記されるが、これは水の迸りを表す音である。
すなわち、「罔象」という女神の名前である。熊本県の白水神社にこの女神がまつられており、罔象女神と書いて「みづはのめのかみ」と読む。弥都波能売神とも表記する。イザナミがカグツチを産んだ時の苦しみから漏らした尿の神格化である。
水であり、暗闇であり、形のない何がしかであり、水こそは生命および出産の表象である。なお、罔象の蘊蓄は、京極夏彦『魍魎の函』に詳しい。

加えて、男性名に表れる「とりひこ」。牽牛ではない。なぜ、鳥か。
ここで思い出したのが、もうひとつの織姫伝説のリライトのタイトル『鳥姫伝』。
織姫が牽牛に会うためには、カササギが橋を渡さねば。そこで鳥が関わる。鳥は織姫を慕い、助けるものでなければならない。
そう言えば、百人一首に「かささぎのわたせる橋に~」と詠んでいるのは大伴家持だ。この場合のかささぎの橋とは七夕とは関係なく清涼殿の階を指したと記憶している。
そして、最後に若い公達は牛に牽かれて、牛車に乗って、泉の姫のもとを去る。また、次の出逢いの時まで。

幾重にも織り込まれたシンボルの数の多さに舌を巻く。物語を織りなす糸を読み解くもよし、解かずにすべてを眺めて楽しむもよし。いや、織られたものを解きほぐすのは、やはり無粋というものか。
シンボルのもたらすイメージの多様性、多重性。豊穣で、贅沢で、幻想的な美しい物語群だった。
今年の七夕は愛しい人に会うことができた。でも、普段は会えない人だ。だから余計に、この物語が身にしみた気がする。

2009.07.06

植物図鑑

有川 浩 2009 角川書店

私ってばかだ。
家に帰るのを待てずに、職場に読みかけの本を持ち込んだ。
合間に読んで、にまにまと顔がゆるんでアヤシイ人になった。そこまではいい。
253ページでやられた。ぼろっと涙が出たら、後は止まらない展開。仕事の合間にぐしょぐしょになってどうする! 有川さんの本を職場に持ち込んだのが間違いだった。
しかも、読み終える前に忙しくなり、後ろ髪をひかれながら業務に戻り、終業後、暗くなる駐車場の車の中で残りを読み終えるまで家路につけなかった。こうして書いてみると、子どもの頃と行動パターンが変わらない。
有川さんだからハッピーエンドを信じていてもよかったはずなのに寸暇を惜しんで読みたくなったのは、そこが物語の力だと思う。
携帯小説は読まないと心に難く決めて、第一話だけは短編集で読んでしまったものの、ここまで甘あまな小説とは思っておらず、見事に撃沈。

表紙を開くと、作中に出てくる植物のカラー写真。巻末には、作中に出てくる料理のレシピ。
各章毎に、章題に合わせた植物の写真もあしらってあり、植物図鑑らしさも漂っている。
でも、もちろん、ただの植物図鑑じゃない。
お待ちかねの長編の王道の恋愛小説に、我が身を重ねてみたり、我が身を忘れてみたり、もだもだ、もだもだ。
ああ、でも、なんで、誕生日のシーンでやられるかなー。ハッピーなはずのシーンで涙が出てくるなんて。
記念日をきちんと憶えている男性と出会った試しがないので、イツキの濃やかさにぐらんぐらんと揺さぶられた。有川さんの描く男性は、いつも本当に素敵。
躾のよいワンコ。噛まない、お行儀のよい、同居人。しかも、料理も上手。こんな素敵な落ちモノ、拾いもの注意と友人にどれだけ注意されたとしても拾わねば。
親密になる過程から空白の一年まで、主人公のさやかの気持ちに寄り添って、誰かを愛しく思うその気持ちを存分に味わった。
読み終えて、ぐったりと快い疲労感に浸っている。これを癒すためには、もう一回、最初から読んで……無限ループ突入決定。

私も名前を憶え間違えているものが一つあったことに気づいた。
小説中には、ネジバナと紹介されている植物であるが、母からは「モジズリ」の名を教えてもらっていた。
万葉集で「陸奥のしのぶもじすり誰ゆえに〜」という句を見るたびに思い出していたが、検索をかけてみたらモジズリのほうが別称だということを初めて知った。優雅な名称なのになぁ。
イタドリも、私はギシギシ、スカンポ、スイバといった名称のほうが馴染みがある。小学校の遠足で山登りしたとき、勝手に取って食べていたものだ。山際の住宅地に住んでいて、結構、野性児ライフを満喫していた。
イヌノフグリの名前の由来は私も知っていたが、これを見ると山岸涼子『天人唐草』を思い出すところで、年齢がばれそうだ。

なお、ピーマンは、千切りしてレンジで1分チンして、ポン酢が好きです。おかかは、ありでも、なしでもOKです。
でもって、大量のクレソンはゴマ和えがいち押し。鶏肉で肉団子を作って、ベトナム風のスープにするのも好き。

この本を大好きな人にあげた。大事に取ってあるという。
彼がこの本を開くことはあるのだろうか。この本でよかったのだろうか。少し悩む。
一緒に歩いていたかったよ。こんな日常を過ごしたかったよ。そばにいてほしかった。
泣いて、泣いて、泣いて、止まらない日々を知ってもらえるのなら、いいのかな。
待っているのとはちょっと違うけど、私は私の都合であなたを好きでいるから。
でもね、あなたが幸せになった時、大事な人がそばにいるなら、この本は読まないでおいてほしい気がするよ。もう忘れてもらったほうが幸せになるのなら、それでもいいんだ。
あなたが幸せでいてくれるなら。私の大好きな人。大事な、大切な、ただ一人の恋人。

2009.07.04

水のかたまり

坪内稔典 2009 ふらんす堂

表紙に惹かれて手に取った一冊。
帯には、「七月の水のかたまりだろう カバ」と句が書かれている。
七月にふさわしいと思って、手に取った。しかし、カバ。なぜに、カバ。

句集は、一気に読むよりも、少しずつ味わうほうが好きだ、
その日の気分で開いたページを、ひとつ、二つ。
さまざまな場所で、さまざまな季節に詠まれた、世界一短い詩。

短いにもかかわらず、目の前に景色が広がるような爽快感がある。
どんな景色を描いたのか、気持ちが込められているのか、想像力を総動員。
思わず笑みがこぼれたり、うっとりしたり、よくわからなくて首を傾げたり。
取り合わせや組み合わせが面白くて不思議で、驚いたり笑ったり。

動物園の光景が多い。カバだけじゃなくて、サイもキリンもゾウもダチョウも出てくる。
この日の庭には、枇杷の木があるのかな。柿の木も。猫がいて、仔猫も生まれたり。
海鼠はデカルト、ウニはニーチェ。ウィトゲンシュタインは台風。
遠賀川に筑後川、嵐山と伏見、気仙沼や佐多岬、ケープタウンにアムステルダム、江ノ電。
俳句を詠むためには、辺りに目配りし、周りを楽しむ、開かれた心が必要だ。

言葉遊びの多い人だなあ。似たような音、同じ音を繰り返すところを楽しんだ。
オヤ○っぽいと書くのは、失礼に当たるような気がするけれども、これってオ○ジっぽいよね?
象のお尻の連呼はもりみーを連想してぷぷぷと笑ってしまった。京都繋がりでもある。
が、一番のツボは高見盛。不意を突かれた。作者の意図と無関係なところで笑っていることには自信がある……。

では、気に入ったものを3つ。

 カントより妻が難解冴え返る
 黒猫は黒のかたまり麦の秋
 あの人はリアス海岸月のぼる

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